新しい言語学

論文

   言語、ものの考え方、文化  

((序論))  

「欧米人には、日本文化の本当のところは分からない」と言うと、抵抗感を持たれる方も多いのではないだろうか。
中には、「分からないというが、大方の日本人も分かっていないではないか」、とのお叱りを頂戴することすらある。
これは、日本文化を歌舞伎、能、和歌、俳句 などと考え、これらを本当に理解している日本人がどれほどいるだろうか、との疑問から発したお叱りである。
なるほど、歌舞伎、能、和歌、俳句 などは日本文化の象徴である。しかし、考えてみると、大方の日本人がこれら歌舞伎、能、和歌、俳句 が本当には分かっていないとすると、一体、文化とは何だろうかということになってしまう。大方の日本人が理解していないものを日本の文化といっていいのだろうかと。

大方の日本人が、歌舞伎、能、和歌、俳句 を理解しているかどうかは、‘理解’、‘分かっている’という言葉の定義にもよるので、ここでは、その議論は差し置くこととして、文化をもう少し根源的なところで捉えて考えたいと思う。
すなわち、日本文化を大方の日本人の‘ものの考え方’の総体と考えるのである。
具体的には、食事の前には、必ず‘いただきます’と言う。家を出るときには‘行って来ます’、‘行ってらっしゃい’と言う。家に帰ったときには‘ただいま’‘おかえり’と言う。街角で人とぶつかったときは、どちらが悪いではなく、とにかく‘ごめん’と言う。お正月には初詣に行く。お盆にはお墓参りに行く。中には、これらの一部をやらない人もいる。しかし、全体像としての日本人はこれらのことをする。少なくとも、することを良い事だと考えている。
これは単なる習慣ではないかと言う人もいる。しかし、心が伴わなければ習慣は廃れてしまう。文化とは心の習慣なのである。習慣こそ文化の中心をなすものかもしれない。
ここでは、したがって、日本人の‘ものの考え方’の最大公約数を日本文化とすることにしたい。

ときには、「外国人には日本文化は分からない」と言うと、それは‘日本特殊論’であり、‘日本優越論’であると反発する向きもある。しかし、‘分からない’ことが‘優越論’に結びつくのは飛躍であり、日本人の劣等感の裏返しかとも思うが、特殊だということがいけないこととするのは、悪しき平等主義に毒されているとしか思えない。
国それぞれ、民族それぞれに文化は異なる。したがって、それぞれの文化は特殊である。それぞれの文化がそれぞれ程度の差こそあれ、それぞれに異なっていることは事実であって、結果、それぞれの文化が特殊であることはいたし方のないことである。(むしろ、多様であることはすばらしいことだと思う。)
異なっていることを、ことさら取り上げるのがいけない、との意見もあるが、それでは学問が成り立たない。比較文化論はもちろん、言語学も深まらない。

「欧米人には日本文化は分からない」と言うと反発する人に、「欧米人に、われわれ日本人は本当に理解できるだろうか」と問うと、「本当には理解できないかもしれない」と答える。文化を担う人々の‘ものの考え方’が理解できなくて、その集大成である文化が理解できているわけがない。
実は、「欧米人に、日本文化は理解できない」で、私が本当に言いたいことは、「日本語以外では、日本文化の本当のところは理解できない」ということである。これを一般化すると、「その国の言語以外では、その国の文化の本当の姿は理解できない」ということである。

((言語と文化))  

言語が異なれば文化も異なる(サピア・ウォーフの仮設)。そして、言語と文化は一心同体に近い関係にある。したがって、その国の言語でなければ、その国の文化は本当には理解できないのである。
今、ある二つの文化があるとする。一つの文化を四角の文化とする。言語も四角である。もう一つの文化を三角の文化とする。その言語も三角である。
この四角の文化を三角の言語で見ると、四角の全てが見えるわけではない。四角の一部が三角に見えるだけである。三角の文化を四角の言語で見ると、三角の一部が四角に見えるだけである。しかも、あちこち欠けた三角であり、四角である。他の言語をもってしては、文化の全てを見ることは出来ないのである。

また、文化、言語の違いを色メガネで例えることもできる。同じ風景でも、青メガネで見るのと赤メガネで見るのとでは、まるで違ってみえる。青メガネで見える世界で作られた文化を、赤メガネで覗いて見ても一部は見えても一部は見えない。同じように、青メガネで赤メガネの世界を覗いて見ても全ては見えない。ごく一部が見えるに過ぎない。(図:三角の言語・四角の文化)

二つの文化が英米文化と仏文化のように、言語そのものが近縁関係にある場合は、ずれは小さく、理解されない、とまでは言えないかもしれない。
しかし、欧米語と日本語では本質的に異なる。したがって、欧米文化と日本文化は本質的に異なる。結果、欧米語をもってしては日本文化の全てを見ることは不可能なのである。
欧米人には、日本文化、および、日本人を本当に理解することは、理論的にも出来ない。また、同じ理由で、日本人には、欧米文化、および、欧米人を本当に理解することは出来ない。ただ、日本人の場合、英語の学習が学校教育での必須であり、日頃、欧米文化に憧れを持って接しているので、ある程度は、欧米文化、欧米人を理解することができるかもしれない。しかし、それには限界があり、いかに欧米かぶれの日本人も、欧米人の、最後は神(一人の人格神)に頼らざるを得ない心の奥底は、理解しきれないのではないだろうか。(日本人のキリスト教徒は、人口の1.5%程度という。)

こうなると、異文化は絶対に理解し得ないということだろうか。理解し得ないかもしれない。
しかし、重要なことは、そのような事実をしっかりと認識することである。
欧米文化は、日本語を以てしては本質的には理解することは出来ないことをしっかり認識をして、その上で、より理解を深める努力をすることである。
日本人の場合はまだいい。文明開化以来、国民こぞって、欧米文化を理解吸収しようと、言語の習得を含め大変な努力をしてきた。しかし、欧米人には日本文化を本当に理解したいとまでのニーズはない。 まして、そのために、日本語を本格的に習得しようとする人は極めてまれである。
私は、世界の人々に、特に欧米の人々に、世界には欧米的な考え方と全く異なる考え方があることを伝えたい。そして、その異なる考え方、文化が、いろいろの面で行き詰まりかけた今の世界を救うことが出来るかもしれないことを伝えたい。さらに、その行き詰まりの大元の原因が、欧米語という言語にあることを伝えたいと思う。(表面的には、一神教が問題という見方もある。)

((言葉のシステムは、各人の脳の中にそれぞれに作られる))  

人は、なに人もこの世に生を受け、否応なく、ある一つの言語環境の中に置かれる。ほぼ白紙の状態で、一つの言語の坩堝の中に放り込まれて、その言語を身に付けていく。
基本的には、誰に教わるわけでもなく、自ら、周りの言葉の渦の中から、言葉の区切りを見つけ出し、言葉の音の区切りを見つけ出し、自らも、それを真似て声に出そうとする。これらは、あれこれと教わって覚えるわけではなく、自ら、自らの形で身に付けていくのである。
言葉の意味の習得も、それぞれ具体的に教わるのではなく、その言葉の使われる状況を通して、自分で意味を理解していくのである。したがって、このようにして脳の中に作り上げられた言葉の辞書は、その人独自のものであって、全ての人の‘脳内辞書’は、それぞれに異なる。
ある一つの言葉の意味の理解が、人によって微妙に異なることはよくあることである。ただ、同じ言語の環境に育てば、各人でそれほど大きく違ってくるわけではない。

(思考と言語)  

人類は言語を得て、これを思考に使うことを覚えた。言語を思考に使うことによって思考は格段に進化した。今では、各人の思考の大半は言葉によっているといっても言い過ぎではないだろう。
このことは、思考が言語に制約されるということでもある。
各人は、言葉を覚えていく過程で、併せて、言葉を使っての思考も積み重ねていく。人は、言葉を覚えながら、‘ものの考え方’を身に付けていくのである。したがって、‘ものの考え方’は、その使われる言語によって違ってくる。
この各人の‘ものの考え方’の総体がその国の文化である。このことは、すなわち、異なる言語を持つ国の文化は当然違ってくるということである。
文化の違いは、哲学、宗教、思想、文学、芸術などの違いとして現れる。
そして、これらの違いは、当然、使われる言語に影響を与える。
一人の人間の成長という視点で見れば、言語が‘ものの考え方’を規制し、その‘ものの考え方’の総体である文化が言語を規制するという図式になるが、一つの文化全体としてみると、どれが原因でどれが結果ということは言えず、言語、‘ものの考え方’、文化の三つは、互いに影響し合う三角形の相関関係にあるといえる。(図:言語・論理・意識)

(考え方としての、デジタルとアナログ)  

欧米文化と日本文化の本質的な違いを考えるにあたり、それぞれの特徴を捉える方策として、デジタルとアナログというアナロジーを使いたい。
デジタル、アナログは、元来は数学の概念である。すなわち、デジタルは離散的な数、そして、アナログは連続した量を意味する。
ここから、私は、より個別的なものをデジタル、より連続的なものをアナログと呼ぶことにしたい。
さらに、デジタル、アナログの本質を考えると、自然界に存在するものは全てアナログで、デジタルというのは人間が作りだした抽象的な概念であり、真にデジタルなものはこの世には実在しない。デジタルの典型は、点、及び、1,2,3・・という自然数であるが、点にしても、1,2,3という数にしても、そのもの自体に実体はない。
そこで、自然なものをアナログ、より人工的なものをデジタルと呼ぶことにしたい。

(デジタル語、アナログ語)  

欧米の言語はよりデジタル的で、日本語はよりアナログ的である。

(母音と子音)  

言葉の音は基本的には母音と子音で構成されている。
母音は、声門から出た震動のある息を、舌を中心に、唇、口腔の形を変えて、咽頭腔、口腔、鼻腔で共鳴させて出す自然音である。
子音は、声門から出た息を、口腔内外のノド、舌、歯、唇などを操作して無理に出す障害音である。ノド、舌、唇、鼻腔の使い方によって、破裂音、摩擦音、破擦音、流音、鼻音、声門音などがある。
母音は、のばす、すなわち、連続して発声することも出来るし、他の母音へ連続して変化させることもできる。したがって、母音はアナログ的である。
子音は、連続して発声することも出来ず、すべて単発となる。すなわち、長音とすることが出来ない。したがって、子音はデジタル的である。(いわゆる長音は、全て母音部分をのばしたものである。)
(‘S’音、‘H’音はのばせるかもしれない。ただ、その音は、息の漏れる音、息を吐く音に近く、声とはほど遠い。)

(拍かシラブルか)  

日本語の発音単位は‘拍’である。‘拍’は、子音+母音 という形になっている。子音のないこともある。
デジタルな子音に必ずアナログな母音がくっ付くことによって一つの単位になっているので、この単位、すなわち、‘拍’はアナログである。
日本語はアナログ言語ということが出来る。

欧米語の発音単位はシラブルである。シラブルは、‘拍’のような母音、子音の規則的な組合せはなく、子音で終わるものも多い。
欧米語の中にも比較的母音で終わる言葉の多い言語(開音節言語)もあるが、日本語と比較すると母音の重要度は低く、デジタル的ということが出来る。(一説によると、欧米では ‘coffee’ を子音だけで発音しても通じるという。逆に、日本では、母音だけで‘オーイー’と発音しても通じそうである。)
欧米語はデジタル言語である。

(「言葉の音と意味の恣意性」 言語学の一般原理)  

ソシュールの言語学の一般原理として「言葉の音と意味との恣意性」というものがある。
しかし、これを一般原理と考えるのには無理がある。特殊なケースのみに当てはまる特殊原理にすぎない。
このことは、ソシュールの「一般言語学講義」をまとめた弟子(Ch.Bally,Alb.Sechehaye)の一人も言っていることだし、この「一般言語学講義」を正確に読めば分かることである。
すなわち、ソシュールは langage(言語活動)を社会的な langue(言語)と個人的な parole(言)に分け、parole は個人的で瞬間的であるから研究の対象から外し、langue のみを対象とすると言っている。ということは、この言語学原理は langage 全体についてのものではなく、parole を除く langue についてのみのものということになる。(ここで、langue を言語と訳してしまったことも誤解を招く結果になってしまったのかもしれない。)
すなわち、言語活動全体についての一般原理ではなく、その中の一部、社会的な言語活動についてのみの特殊原理ということになる。このことは、弟子の一人も認めていて、‘言の言語学’の不在はソシュールの言語学全体にひびを入れてしまったとすら言っている。
言語は、元来、二人の間のコミュニケーションから始り、やがて個人の思考の道具、そして、マスへの情報発信の道具として進化してきたが、あくまで、言語の本質は、本来の二人間のコミュニケーション、すなわち、日常会話の中にあると思う。この日常の生きた会話を除外しては、言語の本当の姿を捉えることは出来ない。

我国では、ガチガチのソシュール派言語学者ですら、言語学の第一原理の適用はオノマトペを除くと言っているようである。

オノマトペ 擬音語・擬態語・擬情語)  

日本語の日常会話でオノマトペは非常によく使われる。加えて、オノマトペとの繋がりの感じられる言葉が日常会話の中に非常にたくさんある。これら全てを例外扱いするのは不自然である。したがって、少なくとも日本語の日常会話においては、言語学第一原理は成立し得ない。
日本語には、2000以上のオノマトペがあると言われる。そして、これらのオノマトペと繋がりのある言葉はその数倍はあるであろうから、音と意味とに繋がりのある言葉は非常に多いと思われる。(感嘆詞、感動詞を含めると、その数はもっと多くなる。)

例えば、オノマトペ‘コロコロ’に音と意味との繋がりが認められるとすると、この‘コロコロ’と直接繋がっている‘転がる’、‘転ぶ’、‘転がす’、‘転び’、‘転がり’などの言葉は、その活用変化を含めて音と意味とが繋がっていることになる。さらに、‘転がす’と関係があると思われる‘殺す’という言葉も間接的に繋がるということになり、この‘殺す’の活用変化、並びに名詞形‘殺し’も共に間接的には繋がった言葉ということになる。

日本語の感嘆詞は文法上はオノマトペとは別に仕分けられている。しかし、感嘆詞(感動詞)は人間の生理音を直接言葉の音に聞きなし、日本語共通のものとして見なしたもので、言葉の中でもより原初的なものと思われる。成立的にもオノマトペよりも先に出来た表現だと思う。感嘆詞は擬音語の初期形態ではないかと思う。
日常生活で、われわれが返事として‘うん’という時、実際には‘ウ’とは発音していないと思う。鼻に抜ける‘ン’に近い音である。また、笑う時、‘アハハハ’と実際に‘ア’と発音しているだろうか。‘ア’とはっきりと発音したとすれば、これは、かえってわざとらしく聞こえる。したがって、‘ウン’も‘アハハハ’もすべて言葉なのである。(文字にした段階で言語になる)
そこで、私は日本語文法を無視して、感嘆詞もオノマトペの一形態として考えたいと思う。(もっとも、日本語文法にはオノマトペなる区分けはないので、オノマトペを感嘆詞を含むものと定義すればいいだけのことかもしれない。)
オノマトペを真正オノマトペ、境界オノマトペ、疑似オノマトペと区別する学者もいる。一般概念語から作られたものは真正のオノマトペではないというのである。しかし、‘語感’の立場からは、私は‘語感’を中心とした表現はオノマトペとしていいのではないかと思っている。
‘しみじみ’、‘ときどき’は概念語を反復したものでオノマトペではない。しかし、ともに情感をよく伝える言葉である。‘しみじみ’は‘しみる’から出来た表現であろうが、‘しみる’は ‘し’=水 から出来た、すなわち、’語感’から出来た言葉である。ここから、‘しみじみ’には、水の染み入るイメージがありありと感じられるのである。
‘ときどき’は‘時’を重ねたものである。‘とき’は心臓の鼓動‘トキトキ’から出来た表現で、オノマトペとしては‘ドキドキ’になり、時を刻む概念として、‘刻’、そして‘時’となったと思われる。ここから、‘ときどき’にも、刻む、途切れるイメージが生きてるのである。

言葉の音に意味に通じる何かがあることは、古来、ギリシャのソクラテスを始め幾多の文人、学者が論じてきた。ドイツの詩人、ヘルマン・ヘッセも‘glűck’という言葉を取り上げ、その音と意味との繋がりを論じている。

(音義説)  

我国に於いても、僧仙覚を始め本居宣長、鈴木朖(雅語音声考)などが論じているが、現代に入っては幸田露伴が「音幻論」を著し、詳細に論じている。
ただ、これらの人々の主張は、音と意味とを直接結びつける音義説として否定され、今日に至っている。
私も、言葉の音一つ一つが特定の意味を持っているとするのは行き過ぎだと思う。
ただ、言葉の音一つ一つが何らかの特定のイメージを持っていることは否定できない。イメージであるからクオリア的で、一つ一つの言葉にし切ることは出来ない。しかし、このイメージが、遠い近いの違いこそあれ、何らかの形で音と意味とを結びつけていると思う。
大野晋先生をはじめ音義説を否定しておられる先生方も、言葉の音が何らかのイメージを持っていることまでは否定しておられないと思う。お歳のせいなどで、言葉の音のイメージを意識として感じ分けられなくなっているだけだと思う。そして、言葉の音のイメージの違いなどは言語学とは異なる別の世界、例えば、詩歌などの世界のことだと考えておられるのかもしれない。

(‘語感’)  

私は、言葉の音一つ一つは、それぞれ独自のイメージを持っていると思う。
そして、それを‘語感’と呼びたい。
言葉の音のもつ特定のイメージを音象徴と呼ぶことがある。しかし、この音象徴という言葉は、音と意味との直接関係に対して使われることが多く、音義説を想起させるので避けたいと思う。
また、あえて‘語感’という表現を使うのは、言葉の音が本源的に特定のイメージを持っており、意味の成立に先行するもので、この言葉の音のもつイメージの独自性(独立性)、及び、重要性を、特に強調したいからである。(図:音とことば)

そして、私たちは、この‘語感’の発生する根源を、個々人の口腔を中心とした発音体感にあると見定めた。

(言葉の始り)  

言葉は最初からあったわけではない。人類の歴史上の何処かで、人が言葉を作り出したのである。最初の言葉が何であったかは分からない。一つであったか、幾つかが同時並行的に生まれてきたのかもしれない。多分、最初の言葉は単純なものであったろう。
私は‘ア’的な言葉であったろうと思う。
クーイングが言葉の始りとすると、‘クー’かもしれない。
いずれにしても、最初の頃の言葉は、伝えたい気持があって、その気持が伝わりやすい言葉の音が出来て、それが相手に伝わるようになって、すなわち、意味を持つようになって、言葉というものが生まれてきたのだと思う。
ということは、気持が先にあって、その気持を伝えうる音が次に見つけ出されたということである。
この気持が‘語感’のベースである。特に、自然音である母音の‘語感’には、この気持ちが感じられやすい。

伸びやかな気持で、何か大きく声を出そうとすると、それは‘ア’的な音になる。最初は‘ア’という純粋な音はなかったかもしれない。ある人は‘パ’的な発音をしたり、ある人は‘マ’的な発音をしたのだろう。それが段々と整理され、‘ア’と‘マ’が区別されるようになっていったのだろう。
同じように、‘クー’も最初は‘クー’なのか‘ムー’なのか‘ヌー’なのか、混じりあっていたのではないだろうか。いずれにしても、鼻にかかった‘ウー’的な音、甘え声だったのだろう。
対外発声的な‘ア’的な音は、のびのびした気持ちで、口を大きく開け、大きな声での発声であるから、明るく、開かれた、穏やかな気持が伝わりやすい。これが、‘ア’の‘語感’のベースである。
‘ア’的な発音を覚えた人類の中のある一つのグループは、ものごとを指し示すたびに指差しと‘ア’と言うようになったのかもしれない。そして、やがて指差しとは独立して、‘ア’が、そのものを指し示すようになっていったのではないだろうか。
最初は、全ての存在が‘ア’であって、私も‘ア’、あなたも‘ア’、あれも‘ア’、そして、やがて在ることの状態自体をも‘ア’と表現するようになったのではないか。
これから、日本語では‘吾’、‘あなた’、‘あれ’などの名詞、そして、‘ある’という動詞が生まれてきたのではないか。したがって、‘ア’には‘語感’として‘実在’のイメージがある。
(もちろん、最初からすっきりと決まったわけではない。紆余曲折を経て、このような表現に落着いたということである。)
‘ア’の持つ明るく、開けたイメージから、明るい、開けた、開く、などの言葉が出来、これらから、赤、朝、天、海、空いた、などの言葉が出来、これらから、秋、雨、明かり、などの言葉へと広がっていった。この中、‘雨(AMe)’は天(あま)から降るものということで、‘AMa’から出来た言葉であるが、‘ア’の‘語感’を反映しているかとなると、やや間接的と言わざるを得ない。このように‘語感’ゆかりの言葉でありながら、直接には‘語感’を反映していない言葉も多く、これらは、‘語感’での繋がりが見えにくくなっている。ただ、日本語の日常語の場合、‘語感’に違和感のある場合は、その言葉はやがて使われなくなり、淘汰され、消えていくようである。(なお、‘雨(AMe)’は‘Me’の‘E’の‘語感’、すなわち、繋がっているイメージが生きている。天から繋がったものが低くと。意味ではなく、イメージとして)
発声のとき、口の中の形、舌の位置、形、唇の形、などを変えることによって、音の響きの違ういろいろな音を出すことが出来る。その中の典型的なもの五つを現在の日本語では使っている。アイウエオ である。
母音同士は、舌を中心に、口、唇、などを連続的に変化させることによって、他の母音へ変化させることが出来る。したがって、世界の言語は、それぞれ使う母音の数が異なる。少ないものでは、アラビヤ語の3から、英語、フランス語の12〜14というものまである。

(母音)  

母音は気持を表現しやすい。
自分の意思を強く主張したいとき、口元に力を入れて強く発音すれば‘イ’的な音になる。
強く感動して、その思いを内に取り込もうとすれば、‘オ’的な発音になる。
鬱積した、内なる思いを吐き出そうとすれば、‘ウ’的な音になる。
やや技巧的ではあるが、口元を平らにして下顎をやや引き気味に発声すれば、‘エ’的な音になる。
これらの母音は、このようにベースとして気持ちを表すが、その際の口腔の形、舌の形、唇の形、そして、息の流し方などによって、さらなる体感、すなわち、‘語感’を生み出す。
例えば、‘オ’の発音では、口腔の中を広く丸くし、奥下の方で発音するので、大きさや、包まれた感じや、重さや、暗さ、まで感じられる。ちなみに、‘ア’でも大きさが感じられるが、これは広がりとしての大きさで、‘オ’の大きさはカタマリとしての大きさである。
‘空は広いな、大きいな・・’の大きいは‘ア’。鎌倉の大仏の大きいは‘オ’である。
‘イ’を発音するときは、口元に力を入れ、狭くして、息を前に強く出して発声するので、‘イ’には、前向き、真っ直ぐ、線、細い、絞り込む、などのイメージがある。したがって、母音の中ではもっともデジタル的である。意志が強く感じられる。
‘ウ’の調音点は、口腔の奥上にあるため、内々の感じと動きへのエネルギーが感じられる。また、発音に際して、少し息が鼻腔に洩れる感じがするため、身内感が強い。発音がやや苦しく、内からの声のイメージがある。
‘エ’は、日本語の母音の中では最も遅く導入されたものであるが、調音点が‘ア’と‘イ’の中間にあり、また、下顎を引くようにして発音するので、引き気味の躊躇感に加えて、下に広がり繋がっているイメージがある。やや受け身的な感じがある。
ちなみに、気(Ki)は発するものであるが、気(Ke)は感じられるものである。これは、‘i’が意志的、能動的であるのに対し、‘e’が受け身的であるからである。同じ字、同じ意味であっても発音によってニュアンスが違ってくる。
以上は、母音の‘語感’をあえて言葉にしたもので、それぞれのクオリアの一面を表現し得たに過ぎない。
重要なのは、それぞれの母音を発音したときの気持、心のスタンスである。

(子音)  

次に、子音がどのように生まれてきたかは分からない。(子音が母音よりも先に生まれたという説がある。ただ、単子音が言葉といえるものになっていたかどうか。言葉の前段階にあったのではないだろうか。)
‘ア’的な発声、すなわち、‘カ’とか、‘マ’とか、‘パ’などの混じりあった発声から、‘KA’,‘MA’,‘PA’と、‘K’,‘M’,‘P’などの子音の違いがはっきりしていったのかもしれない。
言葉の起源説の一つに威嚇説がある。自分の獲物、縄張りなどに近づくなと、脅し、警告のために出した声が言葉になっていったとするものである。脅し、警告のためであるから、当然、強く、鋭い音であったろう。例えば、‘カッ’、‘ギャッ’、‘ド・ド・ド’などといった音ではなかったか。自らも緊張して発声し、相手にも、パワーのある、固く、鋭い印象を与えなければならないので、より作為的な子音が中心であったろう。(この段階で、言葉といえるかどうか。)
母音はそれら子音の音を響かせるために使われた付属的なものだったかもしれない。このようにして子音‘K’、‘GY’,‘D’などが出来たのだろう。
子音は口腔に障害を作って無理に出す音であるから、気持ちを表しやすい母音とは対照的に、無機質で物性的なイメージを伝えやすい。

(日本語‘拍’の‘語感’)  

‘K’は、ノドを絞め、そこに声門からの息をぶつけて破裂させて出す音で、まず、ノドの筋肉をちょっと軽く絞め弾くことから、小ささ、軽さ、固さが、ノドから一気に息を通すことから、ノドの表面の水分が奪われて、切れに加えて乾いた感じが、そして、限られた口腔内へ息が流れ込むことから回転のイメージが生まれる。(なお、ノドを締めるとは、舌の後部を軟口蓋につけることである。)

日本語では、この子音が母音と対を組むことによって、その母音の‘語感’に枠をはめ、あるいは、修飾するような形で、それぞれの‘語感’を生み出す。
子音‘K’と母音‘A’が対となった‘Ka’は、固い、乾いた、軽い、イメージを生み出し、曲線のイメージも生み出す。
‘Ki’は、切れ、鋭さのイメージを生み出し、真っすぐのイメージにもなる。
‘Ku’は、窮屈でノドを絞められたようなちょっと苦しいイメージを生み出すと共に、折れるイメージとなる。
‘Ko’は、コロコロした、丸く小さくカワイイ、イメージを作り出し、まとまりのイメージとなる。
また、全ての対が回転のイメージを持つことは、次のオノマトペからも明らかである。
  カラカラ、キリキリ、クルクル、コロコロ
それぞれ母音の違いによって回転の態様が違ってくる。
なお、
‘Ke’は‘E’に平らに広がるイメージがあるため、回転のイメージは出にくいが、乾いた薄っぺらなイメージを生み出している。苦しさと抑え込まれた感覚から切れのある違和感も感じられる。
オノマトペ‘コロコロ’から‘転がる’、そして‘殺す’、‘クルクル’から‘車’、‘キリキリ’揉むものから‘錐’などの言葉もできたのだろう。

このような音のイメージ、‘語感’を使って、多くのオノマトペ、やまと言葉が作られているが、その作られ方は、‘語感’の一部と意味の結びつきから作られている。すなわち、‘語感’はいろいろなイメージを持っているので、その一部のみを使って、それぞれの言葉が作られているのである。したがって、意味の大きく異なる言葉にも同じ音が使われるということはありうるのである。(キレイ、キタナイ)
オノマトペ‘コンコン’は六つの異なった場面で使われる。ということは‘コンコン’という音の‘語感’は六つ以上の異なったイメージを持つということである。(後述)

このように、母音は、気持をベースに豊かなイメージを持っており、子音はそれぞれ特異なイメージを持っていることから、母音を中心とした日本語は‘語感’を豊かに持ち続けることができた。
一方、欧米語は母音を捨て、子音中心の言語へと変質していったことによって、元来、持っていた‘語感’を見失い、‘音と意味との恣意性’を言われるまでになった。物性的な‘語感’は、言葉の意味が一旦確定してしまうと、邪魔にこそなれ、必要ではなくなってしまうからである。結果、欧米語は、気持の綾を伝えることの面倒な言語になってしまった。(そのために、おおげさなジェスチャーが発達したのかもしれない。)

‘語感’の説明に、‘サ’は、さわやか、さらり、さっぱり、‘カ’は、固く、乾いて、軽いというと、まるで語呂合わせをしているようにみえる。しかし、これは語呂合わせをしたのではなく、それぞれ、そのような‘語感’を持っているのである。これらの言葉がそのように作られたのである。

これが日本語の特徴なのである。普通の多くの日常語の意味が音にバックアップされているのである。

(語感辞書)  

日本語の場合、これほど言葉の音が意味に添っている、すなわち、語呂が合っていると、幼児が初めて言葉を覚える際に‘語感’が役立っているかもしれない。単純記憶よりもエピソード記憶の方が覚えやすく忘れにくいことを考えると、‘語感’を頼りに言葉を覚えることは効率的ということができる。
日本語では、言葉を覚える過程で頭の中に意味を中心とした脳内辞書が出来るだけでなく、発音体感を中心とした‘語感辞書’が脳内に作られると思われる。日本人は言葉を‘語感’をバックに感じながら覚えていくのである。語呂を合わせながら覚えていくのである。
オノマトペ‘カラカラ’に乾いて固い感じがあると言うと、それは‘カラカラ’という言葉の意味なんだと言う日本人もいる。そのように約束として覚えたからだと。これは、外部の言語環境から拾い出して覚えた意味と、自らの発音体感から感じ分けて覚えた‘語感’が一体となっていて、意識としては区別できなくなっているからだと思われる。
この意味で、日本語は‘母音言語’であると共に‘語感言語’ということができる。日常の基本的な言葉の多くが‘語感’という感性に関わるものを豊富に持っていることから、‘感性言語’という言い方もできると思う。アナログである。

一方、欧米語は、母音を失い、子音中心となりつつあり、‘子音言語’ということができる。‘語感’についても、ソシュールが‘音と意味との恣意性’を言っても違和感を持たれなかったことからみると、言葉の音に‘語感’を感じなくなっているのかもしれない。しかし、ヘルマン・ヘッセが‘glűck’の発音に意味との繋がりを感じたように、‘語感’を持った言葉もまだたくさん残っている。
文中で取り上げた欧米語のほかにも、
‘stream、through’、そして、‘cool、clear、clean’など‘語感’が素直に出ている。
欧米では、‘語感’は一部の人のみが感じうる sub-liminal な状態になっているのかもしれない。
日本語では、オノマトペは多くの人がアリアリと感じる spla-liminal であり、日本語そのものは感じようと思えば感じることの出来る liminal な状態なのかもしれない。(日本語は liminal langage)
アナログな母音を捨て、デジタルな子音を中心として、‘語感’というアナログなクオリアから離れてしまった欧米語はデジタル。今なお、母音を中心として‘語感’を感じ分けている日本語はアナログということができる。

(‘I’&‘You’)  

欧米語のデジタル言語としての特徴は、欧米語の‘I’と‘You’に端的に現れている。
欧米語では、主語が必ず必要で、‘I’も‘You’も必ず必要である。
一方、アナログ言語的日本語では、主語は必ずしも必要ではなく、‘I’,‘You’も日常会話では原則として使わない。
すなわち、日本語には、‘I’,‘You’に相当する言葉がない。
欧米語の‘I’,‘You’の訳として、日本語には‘私’、‘あなた’があると言われる。しかし、まず日本語の日常会話では、余程あらたまった場面以外では、主語として‘私’、‘あなた’に相当する言葉を使うことはない。省略ではなく、あえて言うと特殊な意味が出てきてしまうのである。
欧米では、子供が母親に
‘I will go to school。’
と言うのは不自然ではない。しかし、日本語では、子供が母親に
‘僕は学校へ行く’
とは言わない。せいぜい、
‘僕、学校へ行く’
で、自然なのは、
‘学校、行くよ’である。
この場合の‘僕’は主語ではない。
更に、日本語には、‘I’,‘You’に相当する絶対的な言葉がない。欧米では、相手が誰であっても‘I’は‘I’で、‘You’は‘You’である。しかし、日本語では相手によって、‘I’に相当する言葉も変わるし、‘You’に相当する言葉も変わる。
同僚、仲間に対し‘僕’と言った同じ人間が、職場の上司に対しては‘私’と言い、自分の子供に対しては‘お父さん’と言い、自分の妹には‘お兄ちゃん’と言う。
小学校の先生は、生徒たちに向かっては‘先生は’と言う。
父親は自分の幼い子供に対し、‘僕’とか‘私’と言うことは、まずない。
このような‘僕’、‘私’、‘お父さん’、‘お兄ちゃん’、‘先生’は、‘I’と同じといえるだろうか。
部下に対しては、‘君’と言い、妻に対しては、‘お前’と言い、上司に対しては、課長、部長、社長と役職名で呼ぶ。抗議のときなど以外、上司に対して、‘あなた’と言うことは、まず、ない。
この‘君’、‘お前’、‘あなた’、‘課長’は、‘You’と同じといえるだろうか。
欧米語において、‘I’,‘You’は絶対である。必ず必要であるし、相手が誰であっても‘I’は‘I’,‘You’は‘You’で、変化することはない。
一方、日本語においては、必ずしも、‘I’,‘You’に相当する言葉が必要ではない。また、‘I’,‘You’に相当する言葉を使う場合も、相手によって、いろいろと変わる。絶対ではなく、極めて相対的である。相手によって変わるから関係的ともいうことができる。
根本的に、日本語には、‘I’とか‘You’という絶対的な概念がないのである。
父親が自分の子供に自分のことを‘お父さん’というとき、‘お前のお父さん’という意味での‘お前’という意味が含まれている。‘先生’についても同じで、生徒たちに対し‘あなた方の先生’だという意味で、‘あなた方’が含まれているのである。
子供が‘お父さん’というのは、当然、‘自分のお父さん’という意味で、‘自分’が含まれている。
‘僕’、‘私’、そして、‘君’、‘お前’、‘あなた’と言う場合も相手との関係が含まれているのである。
日本語の‘I’,‘You’に相当する言葉は、英語の‘I’,‘You’のように孤立した概念を表しているのではない。
英語の‘I’,‘You’は典型的にデジタルな概念である。相手との関係を前提にした日本語はアナログである。

(間接的表現)  

病気が快癒し病院などを退院したとき‘おめでとう’と言われて、‘お陰さまで’と言う。この‘お陰’も、言った相手のお陰と言っているのではない。病院関係者は勿論、神々のご加護まで含めて言っているのである。
‘有難う’を英語に訳すと、
‘thank you’で‘あなたに感謝する’である。しかし、日本語の‘有難う’を英語に直訳すると
‘imposible to happen’、あるいは、‘imposible to be’である。‘あなた’という表現はない。略されているのでもない。この場合、日本語的には‘あなた’は‘私’と相い対する反対側にいるのではなく、‘私’と同じ側にいるのである。‘私’も‘あなた’も一緒の存在として、神なり、自然なり、絶対的なものに対し、起こったことのあり得なさを、賞嘆し感謝の表現としているのである。
‘すみません’は、英語では
‘I beg your pardon。’あるいは、
‘I am sorry。’であるが、
ここにも日本語には、‘私’も‘あなた’もない。‘すみません’を直訳すると、
‘It is not finished。’である。
ことの重要さを述べて、お詫びの表現としているのである。この場合も、‘私’と‘あなた’は、相い対するものではなく、同じ側にいるのである。
また、‘お陰さま’の‘陰’も‘shadow’という意味であるから、間接的な表現である。基本的なこれらの言葉すべてが間接的なぼかした表現となっている。アナログなのである。

(主語の有無)  

日本語には、必ずしも主語はいらない。
日本語は、主語が要らないだけではなく、いわゆる文法的にも、かなりいい加減である。
4・5人の仲間が集まって作業をしていて、お昼が近づいたので、その中の一人が、
‘お昼、どうする’と言った。
この‘お昼’は主語ではない。この‘お昼’は、一応‘お昼ごはん’という意味であるが、‘お昼ごはん’の‘ごはん’を略しているのではなく、‘ごはん’と限定するのではなく、もう少し広く解釈する可能性を残している。
‘どうする’の主語は何か。一応‘You’である。しかし、自分も含まれている。それでは、‘we’か。厳密に‘we’と意識していれば、
‘お昼、どうしょう’である。これでは、統一行動が前提になってしまう。
‘お昼、どうする’なら、もう少し各人の選択が自由である。
この呼びかけに対して、一人が
‘僕、うどん’と言った。
さらに、もう一人が
‘オレはカレー’と言った。
前者の‘僕’も後者の‘オレ’も主語ではない。‘オレ’を主語と考えると、オレ=カレー になってしまう。省略形としても、
‘オレはカレーが食べたい’とまでは言っていない。せいぜい
‘オレはカレーがいいな’程度である。
この‘オレ’も主語かどうか、あやしい。
‘僕、うどん’、‘オレはカレー’は文法的には完全な文ではない。しかし、意は充分伝わる。
これらが会話として充分成り立つのは、日本語がその場の状況を前提としているからである。‘お昼’と言えば、そろそろお昼時、昼食をとる時間なので、誰でも昼食のことを言っていると分かる。
‘うどん’と言えば、今、昼食のことを話しているので、その人が昼食として‘うどん’を食べたいのだということが分かる。‘オレは、カレー’についても同じだが、この場合は、‘オレ’に‘は’が付いている。これは、前の人が‘うどん’と言い、自分は‘カレー’がいいので、前の人とは同じではないことを表明しているのである。何も自己主張をしているわけではなく、日本人は原則としては同じものを頼むので、そうではなく、と言っている程度の軽いものである。
同じものを頼むときは、‘オレも’となる。
この格助詞‘は’、‘も’の使い分けは前の人の発言を受けてのことで、この場の状況がやはり前提になっている。
三人目の反応として、
‘私は帰ります’もあり得る。
このことから、質問の‘お昼’が昼の食事の内容のみを言っているのではないことが分かる。‘私は帰ります’の真意は、お昼は何も食べずに帰りますということである。‘お昼’も幅を持った表現なのである。
これら一連の会話を英語に直訳するとどうなるか。
   ‘Noon、How do?’
   ‘Me UDONN。’
   ‘I am curry。’
   ‘I’ll go back。’
まず、英会話としては成り立たない。
このように日本語は、その場の状況を前提とした‘場の言語’である。これに対し、英語は場の状況には左右されない絶対的な言語である。必ず主語が必要、述語も必要なのである。
英語では、‘I’は‘I’,‘You’は‘You’で、‘You’に‘I’が含まれたりはしない。
この意味でも、英語は客観的な、構造のかっちりした言語である。
日本語を‘現場の言語’、変動する相対的な言語であるとすると、英語は絶対的な‘舞台の上でのセリフ’のような言語である。
英語は、自分が言っているのに、わざわざ‘I’と言わなければならない。相手を目の前にしているのに、わざわざ‘You’と言わなければならない。律儀な言語である。(日本語的に考えると)
日本語は、場を前提とするから、‘I’に相当する言葉とか、‘You’に相当する言葉を、わざわざ口にすると、相手を子ども扱い、あるいは、馬鹿にしているともとられかねず、ときには、相手に対して失礼に当たる。

‘Yes’,‘No’の使い分けについても、場を前提にするかどうかで、英語とは反対になってしまうこともある。
   ‘あなた、学校へ行かないのね’と言われて、日本語では
   ‘ハイ、行きたくありません’と答える。この場合、英語では
   ‘No,I’ll not go to school。’だろう。
日本語を直訳すると、
   ‘Yes,don’t want to go。’となっていて、‘I’,‘school’が省略されているだけではなく、論理として英語と二つの点で異なる。
一つは、‘Yes、No’。相手の質問の論理に対して、‘Yes,No’を言っているのではなく、相手の質問の内容に‘Yes,No’を言っているのである。
今一つは、相手の質問が学校へ行くか行かないかであるにも拘らず、答えは自分の気持を言っているのである。論理的には飛躍があって、相手の質問の真意を汲んで、一歩先の答えをしているのである。
実際の答えとしては、もっと先読みしたものもあり得る。‘Yes,No’を言わず、いきなり、
   ‘だって、先生面白くないんだもん’
この‘だって’は、‘but、because’であるから、相手の心配の先読みで、論理的な答えとはなっていない。舞台のセリフとしての英語にはあり得ないだろう。
ちなみに、最後の‘もん’は‘ものだから’から出来た言葉であるが、‘語感’として不満な気持ちがよく出ている。(文句(もんく)を言ってる感じ、意味的語感か。心の中の葛藤を表すオノマトペ‘モンモン’も効いているかも。)
これらのニュアンスは英語では表現しにくい。

(助詞)  

このように‘語感’のよく表れた言葉に、日本語ではオノマトペの他に助詞がある。
日本語は主語が定かではなく、語順もいい加減で、単語がバラバラに散らばっている観があるが、これを一つの文章にまとめているのが助詞である。
助詞は、‘拍’に於ける母音のように言葉の後ろに付いて、その言葉の文の中での働きを指し示している。
助詞が付くことによって、その言葉が主語なのか、目的語なのか、目的語でも手段を表すのか、場所を表すのかなどが分かる。助詞は一拍、あるいは、二拍と短い言葉で、ある意味、‘語感’がはっきりしていて、微妙な言葉のニュアンスを表現することが出来る。

‘象は鼻が長い’の‘は’、‘が’の使い分け論争も、‘語感’に素直に使えばいいだけである。
‘は(WA)’の‘語感’は、‘諸々の存在の中から選び出した一般的な提示’であり、‘が(GA)’は、‘存在をくっきり限り、切り取った提示’なのである。(‘G’は‘K’の濁音で、‘K’の区切るというイメージを強めた働きがある。)
普通の会話では、‘は’、も‘が’も付けない。共にある場合は、どちらか一つを使うことが多い。
  ‘象、鼻長いなぁ’、‘象サン、お鼻長いねぇ’
  ‘象は鼻長いよ’
  ‘象、鼻が長いね’
  ‘象は鼻が長い’ だと、お説教か教科書になってしまう。

‘学校へ行く’と
‘学校に行く’の‘へ’と‘に’の違いも、母音の違いだけでもはっきりする。
母音‘i’には、細く絞り込み目指すイメージがあるのに対し、母音‘e’には、繋がるイメージがある。ここから、‘へ’は、学校までの過程も含み、方向性を示しているのに対し、‘に’は、目的地だけを指し示しているのである。それゆえ、‘に’は
‘学校に勉強に行く’というように目的を示すのにも使われる。

欧米語は、‘I’,‘You’が必ず必要、主語が必ず必要、語順もほぼきっちりして、余り省略もしない、構造的な固い言語である。
一方、日本語は、極力、‘I’,‘You’と言うのを避け、主語は必ずしもはっきりせず、語順も適当な、やわらかい言語である。
欧米語では、文の中での語の機能を順序によって決めているが、語順がいい加減な日本語は助詞を付けることによって機能を明確にしている。そして、この助詞の‘語感’を活かして話し手の気持など文のニュアンスを豊富に伝えることが出来る。日本語が情緒的といわれるのは、この面をやや否定的に捉えてのことである。
日本語では、分かりきったこと、当然のことは、極力省略しようとする。しかし、‘語感’を活かした助詞などを多用することによって、非常に伝わる情報の豊富な言語となっている。情緒的といわれるのも、気持などの情報が常に豊富に言葉に乗っているからである。
ときに、情報が乗りすぎるため、議論には使いにくい。余分な心情まで乗ってしまうのである。(議論のための日本語を工夫する必要がある。)

英語で、
‘I will go to school。’という言い方が、日本語では、
   ‘僕、学校いくよ’
   ‘僕、学校行くね’
   ‘学校、行くからね’から、きっぱりと、
   ‘私は学校へ行きます。’と宣言する言い方まである。全てが、微妙にニュアンスが異なり、その分、それぞれ情報が豊富ということが出来る。
   ‘I will go to school。’は
   ‘僕、学校、行くよ’が普通の言い方である。助詞‘は’を加えて、
‘僕は学校へ行く’となれば、他の人はさておき、自分については学校へ行くという言い方である。これが、
   ‘僕が学校へ行く’となると、誰かが学校へ行かなければならなくなり、その役割を自分がやるという意味合いになる。
誰かも学校へ行くという状態では、
   ‘僕も学校へ行く’となる。
‘も(Mo)’の‘M’には増殖のイメージがあって、存在感のある‘o’を修飾することによって、‘Mo’には‘MORE’のイメージがある。(これも駄洒落っぽいが、英語にも‘語感’が残っている証拠の一つかもしれない。)
   ‘学校、行くよ’が
   ‘学校、行くね’となるとニュアンスが違ってくる。
‘よ’には呼び掛けのニュアンスに加え、言い捨て、宣言のニュアンスがある。一方、‘ね’には念押しのニュアンスがあり、相手との距離感も近くなる。(甘えにも近い)。これは、‘N’の持つ粘り感、 親近感、そして、‘e’の持つ控えめな繋がり感のためである。
   ‘学校、行くか’となると、可能性を問うことになり、
   ‘学校、行くかも’となると、可能性が加わるニュアンスとなる。(可能性+MORE)
このように説明すると、語呂合わせではないかとお叱りを受けそうである。しかし、これが日本語の本質なのである。日本語は‘語感’にバックアップされているのである。
そして、文末の ‘だ’は、断定の‘だ’だ、とまで言えば、少々ひつこくなるが、これが日本語なのだ。

オノマトペ 

さらに、‘語感’については、オノマトペがある。日本語の日常会話ではオノマトペを非常によく使う。
オノマトペには、‘カラカラ’、‘サラサラ’、‘ニコニコ’などの二拍繰り返しの典型的なものから、‘サッパリ’、‘シッカリ’、‘キッチリ’などの日常語の中にシッカリ入り込んでしまっているものまである。
‘お風呂に入って、サッパリした。’
の‘サッパリ’の使い方は‘語感’そのものであるが、その‘語感’を比喩的に使って、
‘商売はサッパリや’
というような言い方まである。
‘語感’はクオリアで、切り方でいろいろに感じ分けられるため、一つのオノマトペがいろいろな使われ方をする場合がある。例えば、典型的な二拍繰り返しのオノマトペ‘コンコン’は、
   ‘コンコンと雪が降る’
   ‘コンコンと泉の水が湧き出る’
   ‘コンコンと戸を叩く’
   ‘コンコンとキツネが鳴く’
   ‘コンコン、咳をする’
   ‘コンコンと言い聞かせる’などがある。
最初の二つが擬態語、次の三つが擬音語、最後の一つは擬情語的な擬態語である。使われ方が違うがそれぞれ‘コンコン’の‘語感’を活かしたものである。‘語感’はアナログ的にいろいろ豊富な情報を持っていて、その一部をそれぞれの表現が使っているのである。
‘語感’を直接的に背景に持つオノマトペは、情報を豊富に持つアナログ的言語ということができる。このアナログ的言語を多用する日本語はアナログ的ということができる。
この情報の豊富さ故に、日本語は曖昧といわれることがある。特に、日本語がよく分からない外国人か、日本人でも、‘語感’の豊かさを感じ分けられない、知に偏重した、頭の固い学者先生の中に、そのような発言が見られるが、普通の日本人同士の間では、必要な事柄は気持の交流を含め、伝わっているので、曖昧というのは思い込みである。
少し分かった外国人には、‘日本語を使いこなすコツは、曖昧な表現を正確に使うこと’、と分かっているようである。

((デジタル思考とアナログ思考))  

欧米人と日本人とでは、‘ものの考え方’が、根本的に違う。
そもそも、欧米人に、‘ものの考え方’という考え方があるのかどうか疑わしい。‘ものの考え方’を欧米語では何というのだろうか。
欧米人は、この世の全てのもの、日本語で言えば‘自然’と自分との関係をどのように考えているのだろうか。
欧米語では、‘自然’ではなく、‘世界’というのかもしれない。しかし、それでは、‘宇宙’はどうなのか。‘世界’に含まれるのだろうか。あるいは、‘社会’というかもしれない。‘社会’とすれば、その中にすでに人間が中心として入ってしまっている。
このような根本的な問題を含みつつも、まずは、日本語で、日本語的に考えてみたい。

日本人は、自分も‘自然’の一部だと感じている。
自分は‘自然’の中にあると思っている。
しかし、欧米人は、‘自然’は、自分の外にあって、対決するものだと考えている。‘自然’は人間のためにあるのであって、‘自然’は人間が働きかけ、改良していくものだと考えている。(図)

まず、欧米人は考える。そして、日本人は、思い、感じる。
‘考える’の英語は、‘think’である。‘思う’の訳も、‘think’である。
しかし、日本語の‘考える’と‘思う’は違う。
‘感じる’の英語は、‘feel’である。しかし、‘自分も‘自然’の一部だと feel する。’はちょっと違う。欧米語の‘think’に対して、日本語には、‘考える’、‘思う’、‘感じる’、‘気がする’がある。段階が違うのである。
‘考える’は、大脳新皮質で意識に上げることのできる思考をいい、‘思う’は、旧脳である大脳辺縁系辺りでの思考で、思考の過程を言葉として意識に上げにくい状態をいい、全く思考の過程を意識化できない場合は‘感じがする’という。最も根拠のあやふやな状態では、‘気がする’と表現する。
したがって、日本人は、日常の事柄はあまり論理的に思考しているわけではないので、‘思う’と表現することが多い。ただ、これを英語に訳するときに、‘think’としてしまうと、そのように‘think’する根拠を示せということになってしまう。欧米では、思考過程を言語にすることの出来ない大脳辺縁系での思考を無視する傾向があり、論拠を言葉に表現することが出来てはじめて、‘think’したと考えるようである。
しかし、日本人は、言葉に出来ない意識下での思考にも深いものがあることを知っていて、‘思う’を、かえって表面的な‘考える’よりも評価する場合もある。また、‘感じがする’、‘気がする’という、より直感的ものにも、それなりの評価をおく場合が多い。(この辺りが、欧米人に論理的でなく、情緒的だと非難される原因なのだろ。)

日本人は、‘自然’と自分は、同じ側にあると思っている。
欧米人は、‘自然’は、自分の外にあって、対決する対象だと考えている。(図:個対自然)
なぜ、そうなのか。宗教の他にも、言語にも原因があるように思う。

((欧米の‘個’、日本の‘関係性’))  

欧米では、幼児は生まれて直ぐから‘I’という概念、‘You’という概念を否応なしに身に付けさせられる。
‘I’という言葉は絶対的で、いつ如何なるときも‘I’である。そして、自分の周りは全て‘You’である。お母さんも‘You’,お父さんも‘You’である。そして、自分自身がお母さんにとっては単なる‘You’なのである。
‘I’は、周囲とは切り離された絶対の‘個’である。そして、‘You’も、それぞれ切り離された‘個’のように見える。このように、欧米では言葉の習得を通じて‘個’の概念が徹底的に叩き込まれる。そして、この‘個’の概念がその子の一生を支配するのである。欧米の人々は、こんなことは当然で、当たり前のことと思っている。その他のあり様を知らないからである。そうではないあり様があろうとは考えてもいないのだろう。しかし、それはあるのである。少なくとも、日本人の‘ものの考え方’は、欧米のそれとは違うのである。

日本人は、誕生以来、‘お前’とか‘あなた’と言われることは余りない。やや、公的な場合か、叱られるときぐらいである。‘慎太郎’と名付けられた子は、‘シンタロー’か‘シンチャン’と呼ばれる。そして、自分のことも、‘僕’、‘私’ではなく、‘シンタロー’、あるいは、‘シンチャン’と呼ぶよう誘導される。(なお、幼年期一時的に‘オレ’、‘僕’と盛んに自己を主張することはある。しかし、これは成長の一過程で、やがて、言わなくなる。いつまでも言っていると幼い奴だと思われるからである。)
母親は自分の赤ちゃんに向かって、決して、‘私’とは言わない。‘お母さん’とか‘ママ’と言う。そして、赤ちゃんが言葉を覚えるにつけ、同じく‘お母さん’、‘ママ’と呼ぶよう誘導する。父親は自分自身のことは‘お父さん’、あるいは、‘パパ’と言う。
そして、父親は赤ちゃんの前では母親のことを‘お母さん’、あるいは、‘ママ’と呼ぶ。母親も父親を‘お父さん’あるいは、‘パパ’と呼ぶ。
ここで、重要なことは、赤ちゃんが母親を‘ママ’と呼ぶことは当然として、母親が自分のことを‘ママ’と呼ぶことである。論理的に考えれば、‘ママ’とは、赤ちゃんがいて初めて成立するわけで、当然、赤ちゃんの‘ママ’、そして、赤ちゃんにとっては自分の‘ママ’という意味である。この呼び方を赤ちゃんの周りの人、全てがするのである。‘ママ’という呼び方に自分との関係性が含意されているのである。赤ちゃんが‘ママ’というときは‘ボクのママ’であり、お母さんが‘ママ’というときは、‘あなたのママ’という意味である。呼び方の中に、赤ちゃんとお母さんの一体感が包含されている。同じように、父親との一体感も、‘パパ’に包含されており、また、父親が母親を‘ママ’と呼ぶことによって、三角形の一体感が醸成されるのである。
このことを、欧米流の‘I’,‘You’と比較すると、根本的な違いが見えてくる。
欧米語では、まず、‘I’という概念が教え込まれ、対するものとして、‘You’という概念が教え込まれ、それが、ことあるごとに‘I’,‘You’と言い合うことによって、確認させられ、‘個’の概念が強固なものになっていく。
一方、日本語では、この世に生まれ出て以来、決して孤立したものではなく、‘お前のお母さん’、‘お母さんのお前’という観念が植え込まれ、お母さんとの一体感、お父さんとの一体感、そして、家族としての一体感と広がりながら一体感が育っていく。小学校に於いても、先生は生徒たちに対し、‘先生は’と言う。これは‘お前たちの先生’という意味であるから、先生、生徒の一体感を前提としたものである。(図:日本的自己)

日本語で、‘有難う’、‘すみません’というとき、英語のように‘I’,‘You’にあたる言葉はない。相手に感謝したり、相手に詫びる場合であるが、英語のように相手と相い対する表現にはならない。自分と相手が同じ側に立って、より大きなものに対して、‘これはあり得ないこと’だとか、‘これで終わってしまうようなことではない’と賞嘆したり、慨嘆することによって、感謝、あるいは、お詫びの表現としているのである。
欧米語にない表現の‘お陰さまで’は、相手を含むとともに、周りの人々を含み、最終的には、絶対的なもののご加護まで含むのである。英語の‘Thanks God。’のように特定のものを指定するデジタルな考え方とは違う。

英語では、絶対的自分を教え込むことによって、‘自然’も自分の外側に位置付けてしまう。これは、言語だけに原因があるのではないかもしれない、その人々の置かれた自然環境、歴史的社会的環境の影響も大きいと思われる。そして、それらの環境の結果として生まれて来た宗教の影響も大きいと思う。ただ、言語が、そこで生まれた‘ものの考え方’を次世代へと伝える働きをしていることは確かである。
一方、日本語では、自分を周りとの関係性から捉え、自分の概念を広げていく方向で育った幼児は、自分も‘自然’の一部と感じるように育っていく。日本人は、‘自然’は対決するものではなく、共生するものであり、自分は‘自然’の中に包まれて生まれて来たのだと感じている。この感覚が、自分も‘自然’の中で生かされているという感覚に繋がる。
この‘自然’に対する考え方は、欧米人と日本人では全く異なる。むしろ、正反対である。
この根本的違いから、いろいろな違いが派生してくる。

((個人主義と人間(ジンカン)主義))  

個人主義とは‘個’至上主義である。‘個’を絶対と考える考え方である。
‘人間’と‘人’とは違う。日本語の‘人間’は‘human being’とも違う。
‘人間’という言葉は漢語由来の言葉ではない。日本製の言葉である。‘人’とは違い‘人間’には‘間’という文字が入っている。漢語由来の‘人間(ジンカン)’の意味は人と人との間である。日本語の‘人間(ニンゲン)’は、人と人との間を含んだ‘人’という意味である。すなわち、孤立した‘人’ではなく、人と人との繋がりの中での‘人’という概念なのである(もっとも、‘人’という漢字が、そういう意味ではあるが、)。社会的‘人’の概念ということも出来るが、私とあなたという最小単位の繋がりを中心とした概念なのである。この‘人間’という言葉自体の中に欧米的個人主義との違いが表れている。(同じ文字ではあるが、漢語と日本語では意味するところが違うのである。)

個人主義の反対概念はというと、欧米的に考えると、集団主義や社会主義になってしまう。(社会主義は全体主義の一種か、)
日本的に考えると、‘個’を重視する個人主義の反対は、‘和’を重んじる人間主義なのである。あくまで‘個’の尊厳は尊重しつつ、独立よりも繋がりを大切と考えるのである。人間主義とは関係性を前提とした考え方なのである。集団主義というと‘個’を軽視するニュアンスがある。しかし、日本では‘個’を軽視するわけではない。
その一つの証拠は、日本では、赤ちゃん、幼児はその子の名前で呼ぶことである。一般化した‘You’に相当する言葉では呼ばない。
例えば、‘慎太郎’という名の子供に対して、英語では、
‘Shinntarou,do you go to school?’と言うところを、日本語では、
‘しんちゃん、学校、行く?’と言う。
これを英語に直訳すると、
‘Do Shinncyann go school?’となり、決して、‘You’ を言わない。また、自分のことも‘I’、すなわち、‘僕’とか‘私’とか言わず、自分の名前、例えば、‘シンチャン’、‘慎太郎’と言うように誘導する。‘シンチャン’にしろ‘慎太郎’にしろ、個人の名前は絶対的なものであって、‘I’とか‘You’のように一般的なものではない。このように日本語では、‘個’を絶対的なものとしながらも、それらがお母さんにも、お父さんにも、そして、先生にも繋がったものと教え込んでいくのである。(言葉の使い方を通して、無意識に)
その他、日本における‘個’の尊重は、人間にとって最も大切な食事の際にもみられる。他の文化圏とは違って、日本の家庭では食事の際のお箸は各人専用である。お茶碗、湯呑み、カップも、幼児に至るまで、各人それぞれ別々である。(これに対し、西洋から入ってきた洋食器は、だいたい共用である。)
‘個’を絶対と考える欧米において、フォーク、ナイフはもちろん、食器類は原則として共用であるのに対し、人間主義の日本において、お箸、お茶碗を個人専用としているのは矛盾のように見えるが、これは、欧米では、金属、陶磁器でできたものは洗えばきれいになるからという合理主義からだろうし、日本では、‘個’を至上とするわけではないが、赤ちゃんでも、‘個’として大切にするというメンタリティからきていると考えることができる。

英語では、自分も‘I’であるが、お母さんも‘I’、お父さんも‘I’であり、お母さんにとっては自分は、‘You’であり、お父さんも‘You’である。これを図式化すれば明らかなように、それぞれが‘I’として分立し、それぞれを‘You’として区別しているのである。
このように、英語では‘I’,‘You’を口にする度に、分立、孤立を強調するようになっている。
一方、日本語では、絶対的な自分は確認しつつも、常にそれは、お母さん、お父さん、お兄ちゃん、おばあちゃん、先生、と自分との関係性も確認しあっているのである。(図:I&You)
英語はデジタルを指向する言語であり、日本語はアナログな言語である。

‘自然’を自分の外側にあると考える欧米人は、‘自然’を人間より下位のものと考えている。ゆえに、‘自然’は、人間のために作り替えていくべきものと考えている。そして、人工のものの方が自然なままなものよりも上位と考えるのである。
日本人は、‘自然’を自分を包摂するものと考え、‘自然’に対し一体感を持つとともに、人間よりも上位、すなわち、人間の及ばざるものと考えている。ゆえに、‘自然’を極力活かそうとし、人工的なものよりも自然なものをより上位のものと考える。
家屋の木の柱も、欧米ではきれいな形に揃え、ペンキなどを塗ってしまうが、日本では、木肌を極力活かそうとする。
庭園も、欧米では左右対称の幾何学模様とするが、日本では、極力、地形を活かして山水造りとする。日本では、人手を加えても、極力、自然のままに見えるように工夫する。
自然のまま、ありのままが日本人の美意識なのである。日本人は‘自然’に対してもアナログ志向である。
言語の母音、子音についても、欧米人がデジタルな子音を重視し、日本人がアナログな母音を重視するのは、このあたりに原因があるのかもしれない。

客観的に考えると、人間も‘自然’の一部である。人間も生き物であり、動物である。しかし、欧米では、人間だけは違うと考えているようである。これは、絶対的な‘個’という考え方から来ているのかもしれない。
欧米人には、‘知’を偏重する傾向がある。‘知’が人間故のものであって、‘情・意’は動物にもあり、それゆえ、人間固有の‘知’を重要と考えるようである。
日本人は、‘知’も重要ではあるが、自然な‘情意’も軽視しない、知・情・意のバランスが大切と考えている。
‘知’はデジタル的である。‘情意’はアナログ的である。
ここでも、欧米人はアナログを排除する方向を志向している。

(考えると思う)  

英語に日本語の‘思う’に相当する言葉はない。‘考える’は‘think’しかない。それでは、欧米人は考えるだけで、思いはしないのだろうか。
人間の意識としての、すなわち、言葉を使っての思考が‘考える’である。それでは、人間が言葉を獲得する以前には、人間は思考しなかったのだろうか。やはり、思考はあったと思う。
日本語では、このような意識出来ない、すなわち、言葉を使わない思考を‘思う’と表現する。
欧米人も思いはするだろう。しかし、意識ではない、すなわち、知的ではない思考は、認めたくないのだろう。だから、‘思う’という表現は生まれなかった。しかし、言葉がないことと事実があるないとは別のことなのである。
ヒラメキは、いろいろ考え尽したあげく、突然、意外な解答を思いつくことである。意識としての思考と解との間に飛躍がある。これを繋ぐのが無意識の思考である。意識下で、思い続けているのである。   日本人は、知的行為としての‘考える’にもまして、無意識での‘思う’を重要視してきた。
ここでも、‘知’はデジタルであるが、‘思う’はアナログである。
直観は、ある事態に対して、突然、評価的結論を得ることである。あれこれ考え検討した結果ではない。むしろ、何も考えずに、いきなり頭の中に解が出て来た感じである。これは、典型的な意識下での思考の結論なのである。何の思考もなく、解だけが出てくるわけがない。意識に上らない状態で、脳内では、いろいろの検討が行われていたのである。
日本人はこの直観も非常に大切にする。
欧米人、並びに、下手に欧米かぶれした知識人は、この直観を非論理的として、無視しがちである。
私は、意識をして、すなわち、言葉に出来る‘考える’は、新皮質を中心とした思考、そして、無意識での‘思う’は、旧皮質、すなわち、辺縁系を中心とした思考であると思う。
人間は、意識出来なくても、常に、意識下で思考し続けているのではないだろうか。
日本人は、‘頭で考え、心に思う’と表現する。
その他、日本語には次のような表現がある。
頭だけで考えるな。胸に手をあてて、よく考えろ。頭で覚えず、身体で覚えよ。頭でっかちな考え。
心に刻む。沈思黙考。
すべて、頭、すなわち、‘知’よりも大切なものがあるという教えである。

((欧米文化と日本文化))  

‘ものの考え方’は個人の問題であるが、これを国全体、あるいは、民族全体でみたのが文化である。
個々人の‘ものの考え方’が根本的に違う以上、欧米文化と日本の文化は根本的に異なる。
‘ものの考え方’の違いが、文化として、どのような違いとして現れてきているだろうか。
‘自然’と対決し、‘I’と‘You’と完全に分離し、‘個’という概念を最重要と考えるようになった人々は、その‘個’、すなわち、自己の存在の絶対性を願うようになった。しかし、その絶対性の保証はない。そして、一部の知的な人々は、存在そのものを疑い、‘本当に存在しているのか’、‘存在とは何なのか’、‘なぜ存在するのか’というような思索の道に迷い込んでいった。これが欧米的哲学の始まりである。したがって、欧米の哲学は‘WHAT’であり‘WHY’である。
一方、‘自然’と切り離され、周りの人々とも切り離された大衆は、‘個’の孤独に耐えかね、絶対的な寄る辺を求めた。そして発明されたのが、神、人格神としての一神教である。
人間を‘自然’すべてより上のものとし、自分を絶対のものとした人々が、自分より上に絶対のものを作り上げねばならなかったことは皮肉ともいえる。

日本人は‘自然’も仲間と考えている。自分も‘自然’の中に生かされた一部とすら考えている。したがって、‘自然’を自分の外側にわざわざ置く必要は感じなかった。‘自然’の中に、人の力の及ばざるものがあることを認めつつ、その中で自分も生かされていると感じている。したがって、日本人の宗教は多神教というよりは汎神教的である。お寺にお参りをし、神社に参拝し、道端のお地蔵様にも手を合わせるが、そのお寺のご本尊が誰か、その神社の主神が誰なのか、ほとんど気にしていない。その奥のもっと絶対的な、あるいは、根源的なものに手を合わせているのである。アミニズムとも違う。個別の自然物を神と思っているわけではない。大木に霊を感じて手を合わせる。その木の霊を通じて‘自然’そのものと心を通わせようと手を合わせるのである。道端の野の花一輪に話しかける老婆、これは哀れみではない、仲間として話し掛けているのである。‘自然’との一体感であり、宗教心でもある(日本人は‘自然’と、そして、神と繋がっていると感じている)。日本人には一神教は必要ではないのである。日本人は死ぬことは、‘自然’に帰ることと思っている。そして、死ねば誰もが、仏になり、神になると思っている。(自然崇拝とは違う。先祖崇拝ではあるが、先祖、自然を含めた繋がり崇拝である。自然一体教とでもいうようなものである。)

日本人には、いわゆる哲学は起こらなかった。そもそも日本人は‘自然’と一体と考え、ありのままの‘自然’をよしと考えているので、存在を疑うという思想は生まれにくい。自分の存在は認めてしまっているので、疑うというよりは、あり方を問う方向へ進んだ。これが修養であり、修行である。日本 人には‘HOW’が問題なのである。
宗教としては、行であり、座禅であり、読経である。悟りを求めて、自らを極限まで追い詰め自己と対決する。
一般の人々も、生活の中で自己を実現するため、人それぞれに道を求めて修養に励む。職人は職人なりにその道を極めようとする。古来、日本には、道のつくものがたくさんある。茶道、華道、書道、武道、そして、武士道から町人道まである。最近ではマンガ道まである。日本人は道が好きなのである。
何によらず一芸に秀でるのをよしとする考え方がある。

そもそも、日本人は労働を悪とは考えていない。生きている以上働くのは当然で、元気で働けることを幸せとすら感じている。日本人は、本来的には、仕事の内容の貴賎、そして、職業の貴賎の感覚は余りなかった。(一部、死者の扱いに関するものでは、貴賎の感覚はあったが、むしろ、身の程というバランス感覚の方が強かった。しかも、それは諦めの感覚ではなく、至って前向きの感覚である。)
欧米では、労働を罰と考えているようであるが、極めて不自然で、不健全である。これは、宗教のもたらす悪の一つかもしれない。(欧米人には、この感覚は理解できないかもしれない。これが文化の本質的な違いなのである。)
罰として働くか、喜びとして働くか。どちらが幸せか自明である。(なお、‘働’という字は漢字ではなく国字である。日本人が漢字的に作ったものである。)

日本人は‘自然’のありのままを最高と考えている。ありのままといっても、何もせずに放置したままというのとは少し違う。‘自然’のあるべき姿を暗黙のうちに想定して、その姿に近づけることを善しと考えている。あるべき姿とは、‘自然’は‘自然’なりに野放図ではなく、何か秩序をもったものである。樹木の生い茂った原始林にも畏れに近い敬虔の念をもつが、下草が刈られ、手入れの行き届いた里山を美しいと感じる。しかし、あまり手を加えすぎて、左右対称であるとか、並木が一直線に並んでいるとかは、不自然として余り好まない。
日本人は、‘自然’が本来持っている力を充分発揮させることが、仲間にしてもらっている人間の役割だと考えており、また、そのことに喜びを感じる。
精密農法といわれる方式を考え出したのも、山間の狭い農地という環境に加え、そこに、生きがい、喜びを感じる日本人ならではのことである。
工芸品についても、そうである。日本人は材料である木なら木を、その木なりにどう活かすかに努力する。そして、製品そのものも、‘自然’の生み出したものとして、その力を発揮させようとする。それが、工芸品の美しさとなり、精巧さとして表れる。
近代になって、工業が発達しても、その工業製品に精度を求めようとするのもその流れである。工業部品の製造にあたっても、許容精度に入っていれば、それでよいとするのではなく、精度の真ん中を常に狙うのは、同じ感じ方からである。完成品、すなわち、製品そのものも、ときにわが子扱いをするように、自分たちの仲間と考える傾向がある。工場の機械そのものも仲間扱いをして、その機械に最高の精度を出させようと苦心する。
そして、それを、生きがいの一つとしている人々も多くいる。工場の生産ラインのロボットにも‘百恵ちゃん’などの愛称を付けるのは、そのロボットも仲間だと感じているからである。
鉄道発着の正確性も、やはり本来の姿からずれるのが、気持ちが悪いのである。
これらは国民性ではあるが、この根底には‘自然’との一体感、そして、その‘自然’を生かし切りたいという感性がある。
この‘自然’を生かし切りたいという衝動は、自分を生かしたいという欲求から繋がっているのかもしれない。
日本人は、自分も‘自然’の一部、すなわち、‘自然’だと感じている。‘自然’はいろいろな可能性を持っている。自分もいろいろな可能性を持っている。この可能性を活かしたいと考えている。自分を最大限、活かしたいと考えている。何も、おおそれた野望を持っているわけではない。
日常の生活の場においても、折にふれ、自分の可能性を活かしたいと思っている。
日本人は、概して、凝り性である。家庭の主婦も、料理に凝ったり、身の回りのものに凝ったりする。小さなことでも、その中に自己を実現しようとしているのである。
‘自然’に対しても、同じ考え方である。‘自然’のものを極力活かそうとする。日本料理の神髄は、素材のもつよさを極力引き出すことである。その食材のもつ本来の味をどのように引き出すか、そして、素材の姿をも極力活かそうとする。一見、手を加えていないように見せながら、非常に手間を掛けているのが日本料理である。
‘極力’とは、どういう意味か。出来るだけである。‘出来るだけ’は英語では、‘as posible’である。この英語の‘posible’には、やや言い訳めいたニュアンスが感じられる。日本語の‘極力’は、むしろ、前向きのニュアンスである。
少しでも多くの手間を掛ける。手間を惜しまないのが、本来の日本人の美学なのである。
これは、欧米の経済合理性とは、全く別の次元の感覚である。また、このあたりは、最近の中国製品の正に対極にある。

(自由・平等か 和・調和か)  

個人主義のもとでは、人々が社会に求めるものは自由である。自由とは、‘個’の自由である。‘個’を至上のものとすると、その‘個’の自己実現を阻むものは認められない。しかし、社会としては、ここに大きな矛盾が生じる。すべての‘個’が、それぞれ自由を主張すれば、それらは激しく衝突し、結局、大方の人々の自由はなくなる。この矛盾を解決する策として考え出されたのが平等の概念であろう。自由と平等は相矛盾する概念である。妥協の産物として考え出されたのが平等の概念である。‘自然’という意味では、自由は‘自然’である。平等は不自然である。平等は、‘自然’には存在しない、人間が考え出した人工的な概念である。平等には、機会の平等と結果の平等がある。結果の平等は極めて不自然で、人間社会としても不健全である。
人間主義は、本来的に社会と親和性がある。個人主義の自由に対応するものは、人間主義では‘和’である。ただ、‘和’も行き過ぎると、‘個’を窒息させてしまう。そこで、重視されるのが、バランス、そして、調和である。もともと、調和は‘自然’の姿である。欧米の人々の平等の思想とは対照的である。
ここにも、欧米のデジタル的と日本のアナログ的の対照が見られる。

欧米的に見ると、バランスとは曖昧でいい加減に見える。欧米人は、社会における調和をいうとき、その基準は何かを問う。はっきりした基準を示せと。
このことは、欧米語は、‘Yes,No’がはっきりしており、必ず主語が必要で、主語+述語 と構成がしっかりしていることと似ている。日本人がバランスを言うとき、その基準は‘自然’なことである。‘自然’なこととは、そのとき、その場の状況によって変わる。基準が流動的なのである。これを、欧米人はいい加減と言う。これも、日本語の場に依存する相対性と相応している。
欧米人が非難する‘いい加減’は、英語にするとどうなるか。
多分、相応する英語表現はないと思う。直訳すると、‘good balance’である。‘good balance’とは肯定的意味合いである。日本語でも、もともと肯定的意味の言葉で、現在でも肯定的に使う場合は、‘よい加減’という。しかし、悪い意味で使われる‘いい加減’にも一種容認するようなニュアンスが含まれており、全否定ではない。‘よい加減’は、‘自然’にマッチしたという感覚で、日本人好みである。(‘いい加減’は、意味的には‘without thinking’だろう。しかし、これは、‘with 思う’なのである。)

その他、日本人のよく使う言葉に、‘ほどほど’がある。これも、極限を求めず、余地を残せというバランス感覚である。欧米の極限の利益を追求する経済合理性精神とは相容れない。
ところで、‘ほどほど’は英語で何というのだろう。‘まずまず’、‘そこそこ’なども、何というのだろう。英語で言い分けるのはむつかしい。欧米には、そのような考え方がないからである。(‘そこそこ’は‘so so’か、音も似ているが)

‘和’も英語にしにくい。辞書で引くと、‘peace’とか‘harmony’とあるが、いずれもしっくりしない。敢えて言うと、‘frendship’か‘familyship’だろう。しかし、‘frendship’のように他人を前提とした感覚とも違う。どちらかと言うと、一体感が前提の‘familyship’的感覚である。ただ、‘family’と言うと、マフィアとか宗教団体が連想される。しかし、‘和’という概念には、もっと人々の主体性も感じられる。‘和’は英語では表現し切れない。ここにも、言語の違いの大きな壁があるようである。ということは、ここにも文化の違いの大きな壁があるということでもある。
‘自然’そのものがアナログそのものだから、‘自然’という言葉が、もっともアナログかもしれない。だから、デジタルを志向する英語の中で、この言葉も、非常に使いにくい。

(日本人の宗教)  

日本人には宗教がないと言われる。日本人の大半は、名目上は、仏教徒である。属するお寺があり、死ねばお寺のお墓に入る。
一方、神前結婚をしたり、初詣に神社に行ったりする。子供の七五三のお参りもする。七五三は、元来は道教の行事である。クリスマスのお祝いもする。これで、はたして仏教徒といえるのだろうか。欧米的基準からいえば、こんなのは宗教ではない。しかし、日本人は真面目に、これらのことを行っている。しかも、熱心に、である。ときには、遠くまで参拝に出かける。成田山新勝寺、鎌倉の大仏、そして、伊勢神宮、出雲大社。特に檀家、あるいは、氏子というわけではない。宗教心は旺盛なのである。
宗教ではないというのは、欧米的宗教ではない、ということに過ぎない。
川崎大師で、神田明神で、そして、お墓で、日本人は何を拝んでいるのだろうか。別に、弘法大師を、平将門を拝んでいるわけではない。そういう人たちを含んだ自分たちの先祖に祈っているのである。
日本人は、自分の父母はもちろん、家族、父母の父母、そして、その父母と、すなわち、先祖たちと繋がっていると感じている。そして、天照大神も、われわれ日本人の祖先であって、われわれと繋がっていると感じている。その祖先たちに祈っているのである。
祈るのは、わが身の安寧、家族の安泰、そして、子孫の繁栄である。これは、繋がりの中で、繋がりを確認しつつ祈っているのである。

個人として、宗教の根幹は、死生観である。死ねば、どうなるか。
欧米では、神の裁断を待つと考えているようである。絶対的な神の審判、ここには、‘個’の自尊はない。自己としては、ただ、一人きりである。絶対の孤独である。
日本人は、‘あの世に行く’と言う。‘自然に帰る’とも言う。
あの世には、先に亡くなった祖母や祖父、あるいは、友達もいる。‘自然’に帰るにしても、元いた処に帰るのである。元に戻るのである。
日本人は、死んでも繋がっていると感じているのである。ここに絶対的な安心感がある。だから、よそ者はいらないのである、一神教の神はいらないのである。
日本人は、死ねば‘霊’になるとも感じている。そして、その‘霊’は、常に子孫たちを見守り、お盆には、この世に帰ってくる。靖国神社に帰ってくる‘霊’たちもいる。そして、この‘霊’は永遠なのである。(2000年以上前の祖先とも繋がっているのだから)

(日本語と‘語感’)  

日本語では、‘霊’を‘TaMa’とも読む。‘語感’的には、丸いカタマリのイメージがある。母音‘aa’並びは、軽いイメージである。漂い、飛び去るのだろう。‘A・TaMa’(頭)は、‘TaMa’の実在する処なのだろう。‘TaMaSiI’(魂)となると、‘i・I’が効いて、意思が強く感じられる。
‘霊’に対するものとして、‘心’がある。‘KoKoRo’は、コロコロした、やはり、丸いイメージで、母音‘ooo’並びで、重く動きは少ない。‘心’は沈みやすいのである。
‘霊’は軽く、‘心’は重い。
‘KoKoRo’(心)には、‘KoKo’(此処―自分の中心)に在るものという意味合いもあったのかもしれない。存在感は大きい。
人が死ぬと、魂が抜けて、‘NaKi・GaRa’になる。‘GaRa’は‘KaRa’で、‘空’であり、‘殻’である。身体(KaRaDa)は基本的には‘殻’で、‘Da’で内容物が溜まったイメージだろう。(‘Ta’に、たっぷり溜まるイメージがある)
日本語は、結構‘語感’のイメージで出来ているのである。ただ、日本語も長い時間を掛けて出来てきたので、いろいろな要因が重なっており、特定の限られたルールからだけで出来てきたものでもない。
しかし、基本的には、一つ一つの言葉の裏には‘語感’が働いている。(特に、やまとことば、オノマトペには)
英語で‘霊’を何というか。‘spirit’か‘soul’か。日本語の‘精神’も‘spirit’という。‘spirit’はクールで知的な感じがする。‘soul’には情念的なイメージがある。
‘霊’をなんと読むか。‘ReI’と読むか、‘TaMa’と読むか。
‘ReI’と読めば、崇高なイメージがあるが、‘TaMa’と読むと、情念的なものも多少感じる。
日本の‘霊’は、‘spirit’と‘soul’を合わせたものだろう。
‘魂(TaMaSiI)’となると、母音‘I’が効いて、‘念’的なものが強く感じられる。‘soul’に近いかもしれない(だから、あえて‘霊魂’という言い方をするのだろう)。
‘大和魂’を‘Japanese Spirit’と訳すが、理念と考えるならそれでもいいが、‘spirit’というよりは、もう少し人間臭いものではないだろうか。
‘霊’についても、欧米では情念を浄化した‘知’的なものと考え、日本では‘情’を残した人間的なものと考えているようだ。
日本語では、同じ字でも読み方によってイメージが変わり意味合いが変わることがある。これは、音読みか、訓読みかによるが、‘語感’の影響が強いと思われる。
‘ReI’の‘語感’は、冷たく切れがあるが、‘TaMa’の‘語感’には、充実感と実在感がある。(‘TaMa’には、丸いイメージもある)

(KoKo、SoKo,ASoKo の‘語感’)  

此処、其処、彼処、の基は ‘Ko’、‘So’,‘A’ である。
‘K’の調音点は口腔の一番奥、舌の一番後ろ、いわゆるノドである。位置的には自分の真ん中の感覚である。
‘S’の調音点は口腔の一番外側、歯、および唇の上を息を外側へ流すように発音する。
‘A’は母音で、口を大きく開け声を外へ大きく広がるように出す。
このことの感覚的な違いから、自分を中心に、一番近い、あるいは中心にある存在を、‘Ko’、外すぐ傍にあるものを、‘So’,広がりの中にあるものを、‘A’と、指し示すようになったのではないだろうか。(母音‘o’には存在感、母音‘a’には実在感がある)
‘A’といえば、自分であったり、今話をしている相手であったり、指差す遠くの何かであったりしたのだろう。
‘Ko’から‘KoKo’が出来、‘SoKo’,‘ASoKo’と区分けが増えていったのだろう。
ちなみに、‘KoKo’から‘KoRe’、‘KoNo’、‘KoWo’が出来、「ココへ来い」とココを指し示すことから‘KoI(来い)’(母音‘i’には意思の表明のイメージがある)という言葉も出来たのかもしれない。この‘KoI’から‘KoU(乞う)’、‘KoE(声)’も出来たのかもしれない(母音‘u’には動き、母音‘e’には繋がっていくイメージがある)。
‘KoTo(言)’も‘KoE’と‘OTo(音)’の合成語のように思われる。この‘KoTo(言)’が‘事’へと概念を広げていったのであろうが、一方で、また、‘KoTo(言)の Ha(葉)’→‘KoToBa(言葉)’へと繋がっていったのだろう。
‘SoKo’から‘SoRe’,‘SoNo’、‘SoWo’が出来、‘それで’、‘そうして’、‘そうそう’などの表現へと広がっていったのだろう。
‘A’からは、‘ARe’、‘ANo’が出来、‘ああして’などの表現へと広がっていったが、本来は、存在そのものを表わすことから、‘吾’、‘あなた’、‘ある’などの表現も生まれた。‘A’の語感から直接出来た言葉としては、開けた、明けた → 明るい → 赤い、天、海 → 雨、淡い、などがある。

‘コロコロ’と‘転がる’
オノマトペ‘コロコロ’と一般概念語‘転ぶ’、‘転がる’、‘転がす’とは音的にも意味的にも直接繋がりがあると思われる。ただ、‘コロコロ’という表現と‘転がる’という言葉とどちらが先に出来たかは分からない。
‘コロコロ’と同じような形をとるオノマトペ‘ソロソロ’、‘トロトロ’、‘ノロノロ’‘ポロポロ’には直接繋がる概念語はない。‘トロける’、‘ノロま’などは活用形だろう。
‘転がる’、‘転がす’から‘殺す’が出来たと思うが、どうだろう。

ちなみに、‘KoRoKoRo’を母音変化させた‘KuRuKuRu’,‘KiRiKiRi’、‘KaRaKaRa’、すべてに回転のイメージがある。‘K’そのものに回転のイメージがあるからであ。

オノマトペ‘カタカタ’と‘固い’はどちらが先だろう。固さを表わしているオノマトペとしては、‘カチカチ’、‘カンカン’、‘カリカリ’などもある。‘Ka’に固さを感じるからだろう。
これらのオノマトペと、‘カラカラ’、‘カサカサ’には共通して、‘乾いた’感じもある。しかし、これらの中で最も乾燥した感じがあるのは‘カラカラ’である。概念語‘KaWaITa’は‘KaRaITa’でもよかったような気がする。当初は、ラ行は活用変化専門に使われていたためだろうか。

オノマトペ‘キリキリ’と‘切る’、‘錐’は直接繋がっているだろう。
‘クルクル’と‘苦しい’、‘狂う’はどうだろう。クルクルと回ると目が回って苦しいし、足元も狂ってくる。太古の踊りにはクルクル回る舞いもあったと思う。(ちょっと、苦しいか)

カ行の典型的なオノマトペと一般概念語の関係をみてきたが、やはりオノマトペが先に出来、そこから、いろいろな一般語が生まれてきたようにみえるが、どうだろう。(もちろん、例外もあるだろうが)
ちなみに、‘KeReKeRe’というオノマトペはない。‘E’という音が我国に入ってきたのが遅かったことが影響しているのだろう。
‘SeReSeRe’,‘NeReNeRe’,‘PeRePeRe’もない。‘TeReTeRe’は比較的新しいオノマトペではないだろうか。
ところで、‘KoKoRo’と‘KoRoKoRo’は音が似ている。‘心(KoKoRo)’とは、‘KoKo(此処)’と‘KoRoKoRo(コロコロ)’の合成語ではないだろうか。心は重くて丸いのである。

(ToKo → DoKo、 そして どーぞ)  

此処、其処、彼処 を‘コソアド’という。
‘ド’とは、どこ、どれ、どの、どうして である。これらは、元は‘ト(To)’であったと思われる。とこ、とれ、との、とうして である。
‘T’は歯茎破裂音で、調音点は歯茎、すなわち、‘K’の調音点と‘S’の調音点の間にあり、舌先をちょっと歯茎につけて軽く破裂させて発音するので、‘T’には、止まる、溜まる、イメージから、戸惑う、躊躇する イメージも出てくる。ここから、‘Ko’、‘So’に対する疑念、疑問の表現として‘To’が出て来たのだろう。これが濁音化して‘Do’になったのは、疑念、疑問には強調する気持ちが強く働くことに加えて、音の濁りは気持ちの濁り、すなわち、疑念にそぐうからであろう。
この、どこ、どれ、どの から、どうして、どーぞ、どーも、どーやら、どーにか など豊富な表現が生まれた。

‘どーぞ’は英語に訳すと‘please’だという。‘please’と同じ場面でも使われるが、‘どーぞ、どーぞ’といったような場面では、‘please、please’ではちょっと違う。共に、強調の形のため違いがはっきりしてくるのだろう。
‘please’は‘どーか’に近く、自分の意思の表明である。‘どーぞ’は自分というよりは、むしろ相手の態度について言っているのである。英語では、‘be free’のイメージである。
‘どーか’は、お願いのニュアンスであるが、これは、‘か’に、可能性に対する願望のイメージがあるからである。
それに対し、‘どーぞ’の‘Zo’は、‘So’の濁音で、‘So’には流れに任せる素直なイメージがあって、それが強調されて、‘あなたのおやりになりたいように’というような意味合いが出てくるのである。
‘そー、そー’は相手を肯定する表現である。対して、‘こーこー’は自分の主張であり、‘あー、あー’は第三者のスタンスである。もちろん、‘どー、どー’は‘How’で、相手を巻き込む積極的な主張、すなわち、疑問である。
(‘どー、どー’は‘堂々’と同じ音であるが、アクセントが違う。‘どー?どー?’とでも書けばいいのかもしれない。)
‘どーも、どーも’は非常に曖昧な表現である。軽い感謝にも使われるし、謝罪にも使われる。挨拶にも使われるが、このときは、ご無沙汰を詫びるようなニュアンスも含まれる。守備範囲の広い、日本的には便利な言葉である。
‘どーも’の‘Mo’には、‘and’、あるいは‘more’のイメージがあり、その後にいろいろな表現が続くことが示唆されている。例えば、‘どーも、有難う’、‘どーも、すみません’、‘どーも、ダメだったようだ’、‘どーも、いかんなぁ’・・・
そして、この‘どーも’を重ねて、‘どーも、どーも’となると、これらすべての表現に代わりうるのである。あるいは、言い換えれば、いろいろな表現を含んだ、どの様に解釈してもいいですよというような表現なのである。それ故か、‘どーも、どーも’は自分のスタンスを曖昧にしたり、少し照れたような場面でよく使われるのである。

(語感と言葉の関係の多様性)  

‘どーも’という言葉は、‘トコ、トレ’などを経て、‘どこ、どれ、どの’から出来た言葉である。この‘トコ、トレ’の‘To’は、体感、すなわち、‘語感’に由来する言葉の音である。
日本語のこの‘どーも’によく似た音で、欧米語に、‘ドーモ、ドゥ・オーモ、ドーム’と発音する言葉がある。これらの言葉には、意味もさることながら、音に重々しい荘厳さが感じられる。先頭音‘Do’の発音体感が非常に重いからである。加えて、濁った暗さもあり、‘ドー’と伸ばすことで、多少開けた明るさも加わるが、大きさが増し、荘厳なイメージとなるのである。
ちなみに、‘Mo’には大きな存在感が感じられ、‘Mu’には、中からの膨張のイメージがある。そのため、‘ドーモ’には、外から見た堂々たる存在感が感じられ、‘ドーム’には、中が広々した力感のあるイメージが感じられる。
欧米語の‘ドーモ、ドゥ・オーモ、ドーム’がどのような変遷を経て今の音になったかは知らない。
しかし、その言葉の意味するものとその言葉の音の人に与えるイメージが非常によく合ったものとなっている。結果的に、たまたま、そうなっただけのことだということなのだろうか。(私は、そうではないと思う)
日本語の‘どーも’は、もともとは‘語感’から出来た言葉であるが、直接、意味と‘語感’が繋がっているわけではない。意味が‘語感’を反映しているわけではない。しかしながら、‘どーも’の‘Do’の音が日本語の音の中では‘語感’的に最も重い音であることから、言葉に重量感があり、相手に重要性を感じさせたり、丁寧さを感じさせたりする効果があり、‘どーぞ、どーか’などと共に日常会話でよく使われる。その意味で、‘どーも’、も‘どーぞ、どーか’も‘語感’の効いた言葉なのである。    (意味が‘語感’と直接繋がっているわけではではないが、‘語感’に気持がよく表れているのである。)
このように、日本語には、もともと‘語感’から出来た言葉に由来しながら、意味と‘語感’が直接結びつかなくなった言葉は多い。ただ、これらの言葉にも、別の意味での発音体感としての‘語感’はニュアンスとしても生きている。
オノマトペ‘コロコロ’と繋がる‘転がる’は直接‘語感’としても納得できるが、それから派生した‘殺す’となると意味的には直接は繋がらない。ただ、‘殺す’の‘K,R,S’の持つ‘固さ、切れ、スムースな流れ’の‘語感’は意味的にも違和感はない。
‘息子、娘’はどうだろう。‘産す(MuSu)’、そして‘産む(UMu)’は‘語感’から出来た言葉だろう。そして、‘産されたKo’が息子、‘産されたMe’が娘であるから、‘息子、娘’も‘語感’から出来た言葉ということになる。しかし、‘産す’行為と‘息子、娘’とは、今では直接関係がないので、‘息子、娘’といても、‘産する’‘語感’をイメージすることはまずない。ただ、‘Ko’,‘Me’の‘語感’に‘小さくてカワイイ’、‘柔かくて控え目’なものが感じられ、‘息子、娘’の‘語感’、並びに、その使い分けにも違和感はない。
発音の際の調音点(‘語感’)から出来た‘此処(KoKo)’から‘来い(KoI)’、そして‘乞う(KoU)’,‘恋(KoI)’が出来たとすると、‘来い、乞う、恋’には調音点は意味的には関係がない。すなわち、‘来い、乞う、恋’は‘語感’から出来たが、すでに、‘語感’とは関係がないということになる。
ただ、‘来い(KoI)’の‘I’には、‘語感’として意思が強く感じられるし、‘乞う(KoU)’の‘U’には動きが感じられるし、‘恋(KoI)’の‘I’にも強い意思が感じられる。(もちろん、‘K’の持つ切れ、鋭るどさのイメージは、これら全てに効いている。)
‘来る’は命令形‘来い’の活用変化であるが、この‘来る’の活用変化の中で命令形が一番最初に出来たであろうことは意味的にも納得できる。(なお、‘来い’の原形は‘来(Ko)’であるから、‘此処(KoKo)’の原形‘Ko’と同じで、そのまま使ったということになる。これは動詞の最もプリミティブな形だろう。)
   (平成24年4月1日)

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