新しい言語学

母音・子音

   「ホモ・デウス」 vs. 「知ってるつもり 無知の科学」  

 米国の認知科学者スティーブン・スローマンとフィリップ・ファーンバックの共著になる「知ってるつもり 無知の科学(THE KNOWLEDGE ILLUSION)」の帯に「ホモ・デウス」の著者ユヴァル・ノア・ハラリのコメントが載っている。「著者らが正しければ、有権者や消費者により良い情報を与えることは無意味に等しい」。何やら皮肉っぽい。この本の本末の訳者あとがきにはニューヨーク・タイムズの書評として、「ハラリが『17〜20世紀にかけて西洋思想の土台となってきた「合理的な個人」の棺桶の蓋に、また一つ新たな釘が打ち込まれた。スローマンとファーンバックは思考の合理性だけでなく、それが個人の営みであることまで否定してみせた』と本書を高く評価した」とある。ハラリは本書を高く評価したのだろうか。「合理的な個人」という考え方は誤りとされつつあるようだ。合理的な個人という言い方には、合理的な行動をする個人が主役であるという意味合いと、個人は合理的に行動するという意味合いとがあるが、そのベースには、合理的をよしとする知至上主義(主知主義)的考え方と個人をすべての基本と考える個至上主義(個人主義)的考え方がある。これらは古代ギリシャ以来の考え方で、近世の西洋思想の土台をなしてきたが、現代において、その一部が崩れ出したということなのだろう。まず、最新の脳科学に、そして経済学の分野において、個人は必ずしも合理的には行動しないと言われだし、また、脳科学の実験によっても、それを裏付ける結果が次々と明らかになってきた。ハラリはこのことを言っているのだろうが、合理的であることの否定にも2種類の否定があって、一つは単に理、すなわち理屈に合っていないという意味合いと、今一つは、理、すなわち、知だけではなく、情(感情)も併せ考えなければならないという知至上主義に対する反省の意味合いである。ハラリがこれらのことに何処まで気付いているのかは分からないが、彼はあくまで知を中心として物事を考えているように思われる。さらに、ニューヨーク・タイムズの書評には、ハラリが「無知の科学」に対して、「それが個人の営みであることまで否定してみせた」と高く評価した、とあるが、ハラリはそれが個人の営みではないこと、すなわち、個人が主役ではないことに納得したのだろうか。「無知の科学」によく出てくる言葉に「知識のコミュニティ」とか「集団知能」があり、ハラリの「ホモ・デウス」には「共同主観」という言い方がよく出てくる。「知識のコミュニティ」「集団知能」と「共同主観」ではものの見方が根本的に違う。「知識のコミュニティ」「集団知能」の主体はコミュニティ、あるいは、集団であるのに対し、「共同主観」の主体は主観、すなわち個人である。ハラリは、依然、個人をベースに考えているのである。ハラリの言う、不死・幸福・神性はすべて個人としての問題である。ホモ・デウスのデウス(神)、すなわち、人間が神性を獲得するというのも、個人一人一人が、ということなのだろう。したがって、ハラリは、個人の営みではないことに心からは承服していないのではないだろうか。AI,バイオ・テクノの更なる進化を遂げた近未来には、ハラリは「人間は神性を得ようとすると見て間違いない」として、「ロボットやコンピューターと一体化していき、スマートフォンに自分の人生を前より少しだけ多く制御することを許したり、新しくてより有効な抗うつ薬を試したり、自らの機能をまず一つ、次にもう一つ、さらにもう一つという具合に徐々に変えていき、ついにはもう人間ではなくなってしまうだろう」とまで言っている。これらも、あくまで個人が、ということである。
一方、スローマンとファーンバックは、そもそも人間(個人)は全てを知っている訳ではなく、「知ってるつもり」に過ぎず、ほとんどの知識をコミュニティに依存しているのだと言う。スローマンとファーンバックは、この「知ってるつもり」を「知識の錯誤」と言っている。現代人は生活上のことも、政治、経済のこともよくは知らずに知っているつもりで生活しているのだと言う。さらに、「人間は協力するように出来ている」とか「知識のコミュニティに貢献することは、人間の協力本能の一部なのだ」とまで言っている。これすなわち、現代においては、個人はコミュニティ・集団とは切り離しては存在し得ない、すなわち、個人の個としての存在は最早ありえないと言っているのではないだろうか。ハラリとはかなり違う。スローマンとファーンバックは個至上主義の限界、あるいは誤りに気付き始めたのではないだろうか。人間の個としてのあり方を、主観的な自己の意識の問題としてではなく、客観的なあり様の実態、として気付き始めたのだろう。
協力することが本能であるということは、人間は協力することの中に生きているということである。そうであるのなら、個の存在を絶対視する絶対的個人主義は見直す必要があるのではないだろうか。
さらに、スローマンとファーンバックは、AIの先行きについて次のように言っている。「人間をはるかに超える知力を持った機械、あるいは機械の集合、すなわち超絶知能(スーパーインテリジェンス)」について、「関心や目標を共有するという人間の最も基本的な能力を持たない機械には、人間を理解することはできない。だから人間の心を読み、出し抜くこともできない」として、「コンピューターに志向性を共有する能力がなく、またそれを獲得しつつある兆候もないことから、人類の利益に反して自らの目標を追求するような邪悪な超絶知能が誕生することはあまり懸念されていない」としている。そして、「すでに世界を変えつつある超絶知能とは、知識のコミュニティである」、すなわち「インテリジェントなテクノロジーは人間に成り代わるというより、人間同士を結び付けている」と言っている。すなわち、人間同士の結び付きの中に超絶知能が生まれると言っているのである。
一方、ハラリは、AI,バイオ・テクノの進化によって、「・・・、人間でなくなってしまう」、そしてあげく、「誰かブレーキを踏んでもらえませんか?」と言い、このようになってしまうのは「全体像を見てとれる人は一人もいない」からだと言っているが、スローマンとファーンバックの「知識のコミュニティ」、「集団知識」、さらに「人間同士の結び付き」という言い方は、それ自体、「全体」に当たるのではないか。スローマンとファーンバックは、少なくとも、全体から見ようとしているのではないだろうか。
基本的人権という理念に如実に表れているように、西洋文明は個としての個人の存在を絶対のものとしてきた。一方、人を、人と人との間を含めた人間、と捉える日本文化は、家族はもちろん、周りの人すべてとの繋がりを大切と考え、私と貴方というように明確に区切ることを忌避してきた。そして、人と人との繋がりは、当然、協力に繋がる。この協力が当然のコミュニティは、欧米人には全体主義的に見えるのかもしれない。ハラリが日本を国家主義と言っているのは、この側面を見誤っているのではないだろうか。
個至上主義、そして知至上主義をベースに、西洋文明が育て上げてきた近代科学、そして近代文明も、スローマンとファーンバックが言うように、単なる個の集合ではなく、全体としてのコミュニティそのものが知識を持ち、集団そのものが知能を持っているということ、すなわちその全体性に気付き始めた、ということではないだろうか。
「汝自身を知れ」「我、思うゆえに我あり」、これらはすべて主観としての意識の問題である。主観は意識として生じる。最新の脳科学において、意識は、大脳神経ネットワークの活性化に伴って生じる単なる現象であることが分かってきた。ハラリも「意識も特定の脳作用の生物学的には無用の副産物だ」とまで言っている。ただ、この副産物が進化して、現在の個人の意識になったのである。そして、その結果、ハラリの言う認知革命が起こり、科学革命へと繋がったのだ。また、ハラリの言う共同主観も、この過程で生まれたのであるが、ハラリはこれを個人の主観としてのみ捉えている。しかし、見方によっては、その社会、あるいは集団の主観と見ることもできる。
ハラリは主観について言い、スローマンとファーンバックは知識、すなわち客観的なものについて言っているのであるが、主観も個についてのもののみではなく、コミュニティ、あるいは集団の主観という見方もできる。スローマンとファーンバックが言っている「信念」はこれに当たるのかもしれない。「共同主観」は「コミュニティの主観」、すなわちスローマンとファーンバック的に言うと「主観のコミュニティ」でもあり得るのである。
ハラリは、「強力な虚構と全体主義的な宗教」、あるいは「イデオロギー上の虚構」が今後生み出されてくることを心配しているが、それが具体的にはどのような虚構、あるいは宗教であるのかは分からないが、絶対的個人主義というのもすでに強力な虚構なのではないだろうか。性の選択も個人の自由だとする基本的人権論も、公には反対しづらいという現下の言論空間では、全体主義的宗教になりつつあるのではないだろうか。また、原理主義的男女平等運動も一種の宗教ではないだろうか。
このような個と全体との関係は言語についても言える。一つの言語社会に生まれ育った個は、その言語社会の言語を習得して、その社会に参加し、その社会を構成するが、その社会の言語は、その社会を構成する個々人の言語活動の全体であって、変化する個々人の言語活動の集計としても変化する。このように言語はコミュニティのものなのである。そして、個々人はその言語を使って個々に思考もするのである。
人間社会、そして文化というものは、そういうものなのかもしれない。その意味で、人間はもはや個の存在としてではなく、社会的生物と成ってしまったのだろう。ただ、アリやハチの社会とは違って、人間社会は個の役割が先天的に決まっているわけではなく、個が何にでも成り得る自由のある社会なので、自由社会的生物、あるいは民主社会的生物と言えるだろう(ただし、雄であること雌であることは先天的)。
 今、欧米で読まれているという「ホモ・デウス」と「知ってるつもり 無知の科学」では、個としての人間の見方が大きく異なる。個を絶対と見るか、集団の中の個と見るかである。従来、西洋文化は個を絶対と見てきた。日本文化は繋がりを中心に見てきた。欧米思想も繋がりに気付き始めたということだろう。ただ、自然との繋がりにまで気付きが至るのはまだ道遠しかもしれない。ただ、日本のアニメによって、オノマトペ、日本語の単語が海外の若い人の間にも、徐々にではあるが、広まってきた。さらなる広がりを期待したい。オノマトペは自然の生きている言葉である。日本語には、語感の生きた、すなわち自然の生きている言葉がたくさんある。
     (平成31年2月28日)

   誰か、「ホモ・デウス」に代わる、よい名前を考えてくれませんか!  

「ホモ・デウス」を書いたユヴァル・ノア・ハラリは、今のわれわれ人類「ホモ・サピエンス」はAI・バイオテクノロジーの進化により、神性を得て、神のごとき存在「ホモ・デウス」になると言っている。現生人類の学術名はホモ・サピエンス・サピエンス。サピエンスとは知性のあるという意味で、ホモ・サピエンスとは「知性の人」という意味である。人間は‘知’と‘情’を併せ持った存在である。西欧人は古代ギリシャ時代以来、‘知’を偏重し、‘情’を軽視してきた。その意味でも人類を知性の人「ホモ・サピエンス」と名付けたのは正しい。しかし、この極端な‘知’への偏重は、生き物として不自然であり、存在するものにとっては不幸であり、今や、それは限界に達しつつある。
ハラリ流に表現すれば、動物としての人類は、本能、感覚、感情を主とした「ホモ・パトス」的だったものが、‘知’を得て認知革命を経て、「ホモ・パトス・ロゴス」になり、農業革命、科学革命を経て、「ホモ・ロゴス」、すなわち「ホモ・サピエンス」に至ったと思われる。思うに、今や人類が為すべきは、神性を獲得することではなく、生き物としての本来の人間性を回復すること、失った内なる自然を取り戻すこと、すなわち「ホモ・ロゴス・パトス」になることだろう。この「ホモ・ロゴス・パトス」に当たるラテン語は何か。私には分からない。どなたか教えていただけないだろうか。具体的なあり方を象徴的に考えて、「HOMO・NATURA」、あるいは「HOMO・CONTINUA」を考えたが、もっといい表現はないだろうか。皆様のお知恵をお借りしたい。
ちなみに、CONTINUAとしたのは、人間を、自然と、周りと、人々と、繋がるものとしたからである。知の論理は、全てを切り捨ててindividualなるものを作り上げ、個人主義を絶対のものとしてしまった。絶対の‘個’という考え方は、不自然であり、不幸である。日本語の‘人間’という言葉は漢語からの借用ではあるが、人とは、人と人との間を含んだものという感覚から、日本人が独自に作ったもので、純粋の日本語である。日本文化では、‘I’と言って自己を主張し、‘you’と言って相手を切り離すことを極力避ける。また、例えば、「おじいちゃん!」という呼びかけは「Dear grandpa!」ではなく、「My grandpa!」という意味合いで、繋がりを強調した言い方である。‘知’に偏重した欧米文化も自然に帰り、‘情’を取り戻すべきである。
「ホモ・デウス」に関わる論考は、次稿をご覧ください。
    (平成31年1月1日)

   「ホモ・デウス」を読んで思うこと  

「ホモ・デウス」(上・下)を読んだ。著者は世界的にヒットした「サピエンス全史」を書いたイスララエル人歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ。「サピエンス全史」の続編のようになっており、「サピエンス全史」同様、非常に読みやすく面白い。例えや事例の紹介も多く説得力がある。視点も明快で結論もはっきりしている。特に、共同主観という概念は秀逸で、過去の歴史だけではなく、今現在われわれの置かれている社会の実相を理解するのに非常に役に立つ。しかし、同時に、欧米的ものの考え方の限界もつくづくと感じさせられた。何処かがおかしい。何がおかしいか、以下、羅列的に検討する。

筆者ハラリは、人類誕生以来、「認知革命」「農業革命」「科学革命」を経て、今や人類は革命的な新宗教「人間至上主義」を信奉する段階にあると言う。さらに、AI技術、バイオテクノロジーの飛躍的進化を得て、人類は「ホモ・サピエンス」の次の段階「ホモ・デウス」、すなわち神の段階へとバージョンアップすると言う。「飢餓と疫病と戦争を克服した人類は、次は不死と幸福と神性を目指す」と言うのだ。さらに、「私たちは全能を目前にして、・・」とも言っている。
今後、世界的大戦争がないかというと一抹の不安もあるが、人類全体としては、飢餓と疫病は克服したと言えるかもしれない。しかし、「不死と幸福と神性」を目指しているかは疑問である。まして、全能を目前にしているとはおこがましい。AI・バイオテクノロジーに対する過信もあるが、生き物としての人間に対する考え方が偏り過ぎている。欧米的ものの考え方の悪弊なのかもしれない。
本書は‘まとめ’として、「生命という本当に壮大な視点で見ると」、
(1) 科学は一つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ。
(2) 知能は意識から分離しつつある。
(3) 意識はもたないものの高度な知識を備えたアルゴリズムが間もなく、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちを知るようになるかもしれない。
と言い、これは、「予言ではなく可能性と捉えるべき」と逃げを打ち、「さまざまな選択肢に気づいてもらうことが本書の目的だ」と開き直っている(これはこれで正しくはあるが)。さらに、最後の最後に、
(1) 生きものは本当にアルゴリズムにすぎないのか? そして、生命は本当にデータ処理にすぎないのか?
(2) 知能と意識とどちらのほうが価値があるのか?
(3) 意識はもたないものの高度な知識を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?
と言い、全部をひっくり返している。ひょっとすると、これが本音なのかもしれない。とすると前の‘まとめ’は何なのか。著者の知的遊びに過ぎないのかもしれない。そして、これが欧米的ものの考え方の限界なのかもしれない。
著者は博識の広大な知識を駆使して、理屈で考え抜いたのであろう。それが‘まとめ’である。しかし、まとめ終わって、自分自身納得し切れなかったのではないか。理屈ではそうだが、内面にわだかまるものがある、という状態ではないだろうか。われわれ日本人が素直に考えれば、生き物がアルゴリズムに過ぎない、わけがない。しかし、筆者が理屈を突き詰めたらそうなるのだろう。
筆者は、「アルゴリズムとは」として、「計算をし、問題を解決し、決定に至るために利用する、一連の秩序だったステップ」と言っている。そして、「人間を制御しているアルゴリズムは、感覚や情動や思考によって機能する」とした上で、「生き物はアルゴリズム」と言ってしまう。アルゴリズムはステップに過ぎず、ただ機能するだけのものなら、アルゴリズムは物ではない。生き物はもちろん物である。物でないものと物を同じとするのは、論理的誤りであり、論理的詐術である。「生命はデータ処理」も同じ。生命現象は、有機という実体があって初めて現象する。データ処理は手続きにすぎない。データ処理、手続きは実体そのものではない。実体でないものを実体と同じとするのも論理の詐術である。生命、そのものは抽象概念である。しかし、生命が現象するには必ず実体、すなわち物、有機物が必要である。この実体を無視して、抽象概念のみで議論しても、机上の遊戯に過ぎない。

意識についても、「科学者は、脳の電気信号の集まりがどうやって主観的経験を生み出すのかを知らない」とした上で、「このループから意識がひょっこり現れる」と言っているがこれは正しい。しかし、「意識は現実のもので、重大な道徳的・政治的価値を持つかもしれないが、生物学的機能は何一つ果たさない。意識は特定の脳作用の生物学的には無用な副産物だ」「一種の心的汚染物質だ」とまで言っており、これは「筋肉の動きやホルモン分泌を含めて、身体的活動の99%が意識的な感情を必要とせずに起こる。それならばなぜ残る1%の場合に、ニューロンや筋肉や腺にはそのような感情が必要なのか?」を受けてのことではあるが、人間というものの本質を考えると、これは言い過ぎである。進化上の発生的には副産物として出来たのかもしれないが、意識として生まれたが故に、人間が肉体内の自分自身を把握するのに非常にやり易くなったのではないか。意識として顕在化させることが出来るようになり、それが言語の獲得に繋がり、さらに認知革命へと繋がったのではないだろうか。この1%故に、チンパンジー、ボノボとは違う人間なのである。また、意識のひょっこり現れるループは、有機体を基盤とする超複雑な電気回路のネットワークに超複雑な活性化が起こって初めて実現するので、シリコンウエハー上の精密回路をいくら集積しても、意識は起こせない。遺伝子工学によって人間のダミーを作れば、意識するものを作れるかもしれないが、それは一つの人間を新たに作ったに過ぎず、これはまた、倫理上の新たな別問題が発生する。生命そのものも、生物学的にではなく、無機の工学的に作ろうとすれば、ゲノムの最小のものですら、数千種類の分子が必要で、その分子もDNA内の数百万個の塩基対によって符号化される必要があり、とてつもなく複雑な設計となる。まして、これを無機で作ることが出来るか、私は不可能だと思う。

知能について、意識と分離するとか、意識とどちらに価値があるかなどと言っているが、言葉の定義の問題かもしれないが、知能は意識の働きの一形態であって、意識を伴わない知能など考えられない。意識を伴わないのであれば単なるデータか手順に過ぎないと思う。手順にしても、それを実行する主体が必要で、実行する主体には意識が必要である。筆者の‘生きている’といことについての認識が特殊なのかもしれない。
‘知る’ということについても、「意識をもたないアルゴリズムが、私たちを知る・・・」という言い方をしているが、意識ももたず、主体にもなりえないものが、知るという行為を行うことはできない。知るとは、単なるデータの集積ではない。評価の入った記憶の全体であって、意識しうるものだけではなく、意識されないものすらそのベースには入っている。知るを再現するには、知識たる記憶をすべて再現するだけだはなく、意識されない経験の全てをも活性化させなければならない。これはその有機体以外には不可能である。まして、無機で工学的に再現することは不可能である。

根本的に、筆者の生き物、生命、あるいは、生きているということ、そして、意識、あるいは心についての考え方に違和感を覚える。
「有機的な部分をすべてなくし、完全に非有機的な生き物を作り出そうという、より大胆なアプローチがある」「有機体の領域を抜け出せば、生命はついに地球という惑星から脱出できる」とか「有機的生命に無機的生き物が取って代われば、・・」などと言っており、非有機的生き物の存在を想定しているようだが、はたして、そんなものが生命と言えるのか。生命である以上は、自己組織化し、自己増殖できなければならない。地球上では、有機物以外にそのような現象を起こし得たものはない。地球外で非有機体の生命を作り得ても、その生命に意識を持たせ得るかは、はなはだ疑問である。

人間の大脳は200万から1000万個の神経細胞からなっていると言われている。この神経細胞一つ一つが、ものによっては1万に近い枝分かれした手を持っていて、他の神経細胞と繋がっている。この繋がりすべてを考えると膨大な数である。この繋がりも、マイナスの情報を流すものもあり、また、逆方向に繋がっているものもある。そして、これらがネットになっているので、ネットワークとして考えると、このネットワークは一次元ではなく数次元のネットワークと考えられる。また、これら神経細胞に栄養を供給したり、神経細胞の繋がり、すなわちシナプスに神経伝達物資を供給しているグリア細胞が神経細胞の数の上では2倍ほどもある。これら全体で情報の処理をしているのであって、無機のネットワークをいくら膨大にしても、意識を生み出すものを機械工学的に作るのは無理である。さらに、生物は脳だけから成り立っている訳ではない。身体があって、個の全体の恒常性を維持するのが脳の第一の役割である。脳は身体の一部分に過ぎない。脳内だけでの情報処理もあり得るが大半は身体各部からの情報の処理、そしてそれへの対応発信である。身体なくして脳はあり得ない。加えて、人間の体内には腸内微生物をはじめ10兆あまりの細菌が共生している。これらの腸内微生物がいないと人間の生存に必要な栄養が取れないのだと言う。これらの微生物がいないと人間は生きていけない。そして、これらの微生物も自らの生存のためいろいろな情報を宿主たる人間の脳にも伝えているのだとも言う。人間の脳にはこれらの情報も必要なのである。
欧米科学は、えてして脳だけを取り上げ、情報処理システムとして、独立の存在として取り上げる傾向がある。研究としてはやむを得ないが、それが独り歩きをして脳を独立のものとして、取り扱ってしまう。デジタル思考の悪弊である。さらに、脳の知的部分を担当している新皮質を主と考え、本能、情動を担当している脳幹、大脳辺縁系を従と考え、無視する傾向もあるが、これもデジタル思考の弊害であろう。

人間の脳の構造は、脳幹があって、その上に大脳辺縁系が重なり、さらにそれを大脳新皮質が覆う形になっている。進化上も脳幹が最も古く、次いで大脳辺縁系が出来、最後に大脳新皮質が出来た。したがって、機能的にも、生命現象の基本的な部分を脳幹が受け持ち、大脳辺縁系が感覚、感情部分を受け持ち、最後に獲得した知の部分を大脳新皮質が受け持っている。なお、意識は知の働きで、大脳新皮質の働きである。大脳辺縁系の感覚、感情も大脳新皮質において意識化される。
また、違った別の角度から見ると、大脳は、解剖学的には、左脳と右脳の左右に分かれている。左脳と右脳は脳梁という神経束によって繋がっている。基本的に、左脳は身体の右半分を担当し、右脳は身体の左半分を担当する。加えて、左脳が、論理、言語などのいわゆる知を担当し、右脳が、情緒、そして音楽などの感性を担当している。右脳が進化上の古いものを担当し、左脳が進化的に新しく獲得したものを担当しているように見える。右脳が空間認識を担当し、左脳が時間推移認識を担当しているのもその表れである。人類が二足直立歩行を始め、脳を大きくすることが出来ると共に、両手をそれぞれ自由に使えるようになり、手で道具を使い、道具を作れるようになった。道具を作り、道具を使うには、手順が必要で、これが器用な右手を担当する左脳が担当し、それが新たな時間、論理の認識に繋がっていったのではないだろうか。ちなみに、左脳、右脳は別々の意識を持ちうる。通常は脳梁によって統一した意識に集約されているが、特殊な分離脳患者などの例で、左右脳の働きの違いは確認されている。

筆者ハラリは、人間は「不死と幸福と神性」を望むと言っているが、私にはかなり違和感がある。まず、「不死」について、すべての人が不死を望んでいるだろうか。日本人で、私の周りの人で不死を考えている人は一人もいないと思う。突然の死、若すぎる死は誰も望まないだろうが、年を取り、身体も弱ってくれば、いずれ死ぬと思うのではないか。欧米人は違うのかと思い、今巷で評判のイエール大学の哲学教授の書いた「DEATH」を買って覗いて見た。十分読み込んだわけではないが、文中に「不死は悪夢だ」というような表現もあった。不死に関する章の終わりに元ミスUSA候補だった一女性の言葉の紹介があったので、以下そのまま借用する。「あなたは、永遠に生きたいですか」と訊かれて、
  永遠に生きたくはありません。
  私たちは永遠に生きるべきではないからです。
  もし、私たちが永遠に生きるはずだとしたら、永遠に生きることでしょう。
  でも、私たちは永遠には生きられません。
  だから私は、永遠には生きたくないのです。
はっきり、不死を望まないとある。不可能だから高望みしないとも読めないことはないが、文中には、不死の状態では何のために生きているのか分からなくなるというようなことも書かれている。そうだろうと思う。不老不死ならいいだろうという意見もあるかもしれないが、何かをすることに飽きてしまい、やがてすることがなくなってしまうだろうとか、不老のためには、かなり人工的な無理を加えなくてはならないが、そこまでして生きている必要があるのか、というような議論もあった。欧米人すべてが不死を望んでいるわけではなさそうだ。不死については、筆者パラリの宗教的な思い込みではないだろうか。ちなみに、「DEATH」は結論を出すよりも、結論を出す過程を重視しているようだが、あえて結論を探ると、人間について、「もちろん、私たちはどこにでもあるような月並みな有形物ではない。人間とは驚くべき物体であり、人格を持った人間は他の物体にはできない、ありとあらゆる種類の機能を果たすことができるのだ。だがそれにもかかわらず、私たちは有形物にすぎない。事実上、ただの機械なのだ。」とし「魂は存在しない、死後の生は存在しない、私たち全員がいずれ死ぬのはよいことだ」と言っている。ただの機械だという言い方は別にして、この考え方は一般の日本人の普通の感覚とあまり変わらない。ただこれが、このような大部の本になり、イエール大学で23年連続の人気講義であったというのは、欧米人にとって、このような考え方が従来とは異なる全く新しい考え方に見えるということなのだろうか。
「幸福」についても、違和感がある。日本語には「幸福」と「幸せ」という言葉がある。この二つは似ているが意味が本質的に違う。日本人は幸せでありたいと思っているが、幸福だけでいいかとなると、少し違うように感じている。幸福には、物質的に豊かであるとか、具体的にどうだとかの客観的なイメージがあるが、幸せには内面的なイメージが強く極めて主観的なものと思われる。幸福は達すべき目標のような感じがあり、達すると、すぐ次ぎなる目標が現れて、幸福が続かないのだが、幸せは心的状態だから、長続きする。「貧乏でも、生きていけるだけで幸せです」ということもあり得るが、幸福では、これはあり得ない。英語のhappyは日本語の幸福に当たるが、幸せとは少し違うように思う。幸せに当たる言葉は英語にはないのではないか。主観的感情を直接表す言葉は日本語には多くあるが、英語には極めて少ないようだ。これも日本語の特殊なところだ。日本文化の特異性の一つの現れだろう。あるいは逆に、ないことが英語の特異性なのかもしれない。
アメリカの神経解剖学者ジル・ボルト・テイラーの「奇跡の脳」によると、左脳が麻痺し、右脳だけが機能していた時、彼女は幸福感、恍惚感に包まれていたという。彼女が37歳の時突然の脳内出血のため左脳の機能を失い8年間のリハビリの結果、再び左脳の働きを取り戻し、今は大学教授として活躍しているが、時に右脳、左脳を使い分け、右脳で幸福感を味わっているという。左脳は論理、言語を扱う脳といわれ、右脳は情緒、情動を受け持つ音楽脳とも言われるが、私は、論理とか言語とか知的なものの出口が左脳で、感情、感性などの出口が右脳になっているのではないかと思っている。したがって、知的論理のみに拘る欧米人は左脳人間と言っていいのではないか。そして、その対比でいえば、日本人は右脳人間と言うことができる。正確には、右脳も発言権を持っているということである。
ジル・ボルト・テイラーの言っていることが正しければ、日本人は総じて欧米人よりも幸せ感を持って生活しているのかもしれない。ちなみに、国民間のアンケートなどによる幸福度比較はナンセンスである。文化も違えば言語も違う民族では、同じ質問に対しても回答が異なる。日本人は「幸福ですか」と尋ねられて「幸福です」と答えるのは、不遜というか、ノー天気と捉えられかねない。「幸せですか」と訊かれて「幸せです」と答えるのは、素直と受け取られる。このように質問の仕方で答えが変わるのであれば、幸福度の国際比較などは不可能であるし、また無意味である。平均寿命の方が客観的で正確ではないだろうか。出生率も、その社会の問題点を反映しており、重要な指標であると思う。
「神性」について、筆者ハラリは「人間は神性を得ようとすると見て間違いない」と言う。そして、「それを達成する方法もたっぷりある・・」として、「ロボットやコンピューターと一体化していき・・」とか「スマートフォンに自分の人生を前より少しだけ多く制御することを許したり」「より有効な抗うつ薬を試したり」と言い、「自らの機能をまず一つ、次にもう一つ、さらにもう一つという具合に徐々に変えていき、ついにもう人間ではなくなってしまうだろう」とまで言っている。コンピューターと一体化、とかスマートフォンで制御と言っているが、これには脳をいじらなくてはならないだろう。生体である脳と工業製品であるコンピューターを直接接続するのは不可能である。脳の特性はネットとしての接続である。複雑な接続を工業的に行うのは無理である。例えば、脳の欠損部分にip細胞を移植して、自己組織化をまって接続させるのがせいぜいだろう。工業的複雑さと生体的複雑さは質的に異なる。いかに工業技術的に精緻になっても生体的複雑さに追随するのは不可能である。スマートフォンによる制御とは、脳内に受信チップを埋め込み、脳内にインパルスを発することだろうが、異質なインパルスは脳内のバランスを崩し、より大きな障害をもたらすだろう。抗うつ薬の服用にも、慣れによる耐性、依存症などの副作用があるが、脳内人工インパルスはもっと過激な副作用を引き起こすと思われる。そもそも人格は身体を含めた脳の全体反応の反映である。脳を局所的にいじるのはその人の人格を毀損することになる。特に、脳に関しては、欧米流のデジタル思考は危険で、早急にアナログ思考に回帰すべきであろう。ジル・ボルト・テイラー博士の言う左脳右脳の切り替えは東洋の瞑想法とも通づるものがあるが、この瞑想法は人格の陶冶にも役立ち、これが今後の方向性ではないだろうか。安易で直接的な薬物にデジタル的に依存するのではなく、修業、あるいは生活習慣を通じて、心の安寧を図るのが本来の道だろう。時間と努力を要するが、それが生きているということではないだろうか。

地政学者のリチャード・E・ニスベットは「木を見る西洋人、森を見る東洋人(THE GEOGRAPHY of THOUGHT)」の中で、知偏重、すなわち論理思考偏向の源泉を古代ギリシャに見出している。同書によると、プラトンは「イデア」の中で、「世界の意味は理性によってのみ知ることが可能で、目に見えるこの世界を参照する必要はない。もし、理性によって導かれた結論と感覚とが矛盾していると感じられたときは、感覚の方を無視すべきである」と言ったという。また、アリストテレスは「物の中心的、基本的、必要不可欠な性質はその物の「本質」を形づくっており、本質は変化しない」とし「周囲から切り離された対象物それ自体を単独で観察し分析することが必要だ」としたと言う。そして、ニスベットは「当時のギリシャ人たちは直線的で二者択一的な自分たちの論理の奴隷となっていた」とまで言っている。欧米のデジタル思考は古代ギリシャにまで遡るのである。ニスベットは奴隷とまで言っている。さらに、ニスベットは「ギリシャにおける最も偉大な科学的発見は「自然」の発見(哲学者ジョフリー・ロイドによれば、むしろ「発明」)だった」とも言っている。発見ではなく発明と言っているのは、今までなかったものを作り出したということだろう。人間の外側に自然というものを新しく作り出したと言っているのであろう。私は、むしろここで神というものを発見し、さらに絶対神という一神を発明し、結果、西欧人は自然と決別したのだと思う。絶対神という考え方も論理を突き詰めて考えたあげくの苦肉の策だったのだと思う。欧米人にもこの不自然さが分かっている人たちもいるのである。著者ハラリはこれらのことに気付いているのだろうか。欧米的ものの考え方にどっぷりと浸かっているように見える。

このように古来、西欧文明は、知のみを重視してきた。「汝自身を知れ(Know thyself.)」「我思う、ゆえに我あり(Cogito, ergo sum.)」が西欧哲学の出発点である。「Cogito, ergo sum.」は英語では「I think, therefore I am.」。しかし、「I think, therefore I am.」は「我思う、ゆえに我あり」ではない。正確には「我考える、ゆえに我あり」であろう。‘think’は知の行為である(‘思う’には情での行為が入っている)。西欧文明は情を訳のわからぬものとして排除し、知のみに信を置いた。そして、論理を発展させた。結果、二者択一思考になり、デジタルな思考になった。デジタル思考はデータとも相性が良い。現状のデータがデジタルデータであるからである。(なお今後、技術の進歩による超大容量化が可能になり、アナログ的データが扱えるようになるだろう。複雑系の科学も進展するだろう。ディープラーニング技術はそのはしりかもしれない。天気予報も?)。「汝自身を知れ」は「Know thyself.」。‘know’は、‘knowledge’から推測すると、やはり知のみの行為だろう(日本語の‘知る’には了解するというような意味も入っていて、知だけではなく情の部分も含んでいる)。そして、「我」と言い「汝自身」と言っているのは「個(個人)」を重視せよと言っているのである。知による論理の結果、ここで「個」を発見したのかもしれない。「個」の発明かもしれない。‘individual’とは分割できないものという意味だから、個人とは最小の単位ということであろう。すべての柵を断ち切って、そこまで分割するということは、refineするということで、まさにデジタル思考である。

したがって、筆者ハラリの「人間至上主義」という言い方は誤りで、実状は、正しくは、「知至上主義」及び「個至上主義」である。筆者がこのことに気付いていないのは、筆者が欧米文明の中にどっぷりと浸かっているからで、このように異なる見方、考え方があることが予想もできないのであろう。欧米的ものの考え方とは全く異なる、例えば、日本的ものの考え方があることに気付いていないのである。
余談になるが、この本の中で、博学なる筆者は日本に付いても21か所程触れている。日本、東京、広島、硫黄島、公明党、共産党、トヨタ、そして、日本文化として、石庭、俳句、などを取り上げているが、安倍晋三を国家主義者、そして現在の日本を国家主義と言ったり、第二次世界大戦を「自由主義的な人間至上主義」「社会主義的な人間至上主義」「進化論的な人間至上主義」間の宗教戦争だと言っており、日本が全く抜けている。アメリカ、イギリスを中心とする連合国を自由主義的とし、ソ連を社会主義的とし、ナチスドイツを進化論的としており、日本の戦前の国家主義を社会主義の一形態だと言いたいのかもしれないが、それでは日本を理解しているとは到底思えない。歴史学者なら、大東亜戦争が、結果としても、アジア諸国の西欧植民地支配からの自主独立の切掛けとなったことに触れて欲しかったと思う。ただ、中国には今後の可能性を感じているのか、微妙な取り上げ方をしている。「新しいテクノ宗教にとって、中国は最も有望な発展環境になっている」と言っている。

筆者ハラリは、さらに、「科学革命は人間至上主義の宗教を誕生させ、その中で人間は神に取って代わった」としている。私は、人間が自分で作り上げたものをただ捨てただけだと思うが、いまだ欧米の大方の人々は一神教の精神的な支配下にあると思う。「神は死んだ」と言う無神論者も、一神教的ものの考え方の枠内にあるのではないかと疑っている。少なくとも欧米文化は自然を人類の仲間とは考えていない。絶対神という考え方は、欧米の論理を極めた結果生み出されたものだろう。Individualと、考え方としては、通暁するものがあると思う。また、絶対神は人間を個に分断したという面もある。「われのみを信じよ」「われのみを愛せよ」というのは、個同士の繋がりを断つことを要求している。現在の英語の‘I’とか‘you’は、個人の自立を促すと同時に、この分断を強化する働きがある。西欧文明は、個の自立を当然のこととしている。自然を忘れているのである。人間が自然の存在であることを忘れている。あるいは、自然の存在であることを認めたくないのである。不自然である。人間、男と女がいなければ子が生まれない。子が生まれなければ、そこで人類は終わりである。さらに、欧米文明は、人間の脳の中のより自然なものも軽視する。論理的な知に対し、より本能的な情緒、情動を劣ったものとして低く見る。英語には、潜在意識下での思考を反映した‘思う’という言葉がない。主観的感情を直接表す日本語、‘うれしい’、‘悲しい’、‘痛い’などの言葉がない。行為としての表現「I love you.」はあるが、気持、すなわち心の状態を表す「好きやねん」に当たる表現がない。欧米文明は論理優先の「知至上主義」であり、個人主義、すなわち「個至上主義」でもある。その意味でもデジタル思考ということができる。また、反自然という意味では「人間至上主義」ではあるが、欧米文明における人間は情を欠いた知のみの人間であり、バランスを欠いた人間至上主義である。筆者は、人類は次の段階として、神へのバージョンアップを目指して、「ホモ・デウス」になるとしているが、私は、人間の創作物である神ではなく、自然な知と情とを併せ待つ人間に回帰する本来の「人間至上主義」を目指すべきだと思う。言ってみれば、目指すべきは「HOMO・DEUS」ではなく、「HOMO・NATURA」か「HOMO・CONTINUA」ではないだろうか。
日本語の「人間(にんげん)」という言葉は、漢語由来のことばであるが、本来の意味は人と人との間という意味である(じんかん)。それを日本語は借用して「a human being」という意味に使っているのであるが、それは、日本人が人と人との間を含めたのが「a human being」だと感じているからである。人間は単なるindividualではなく、人と人との間、すなわち繋がりを含めた存在と感じているからである。日本人はさらに自然とも繋がっていると感じている。まさにアナログ思考である。

筆者ハラリは、「生命という本当に壮大な視点で見ると」と言いながら、個としての生命しか見ていないのではないか。生物を命の流れとして見る視点が欠けているのではないだろうか。個は一時の現象、一過程に過ぎない。ドーキンスは「利己的遺伝子」で個はゲノムの乗り物に過ぎないというようなことを言っている。確かに生物学的にはそうだと思う。個は滅びるけれども、DNAは組み合わせを変えながら代々受け継がれていく。個は一時の受け皿、あるいは一時の一局面に過ぎないのではないか。ただ、だからと言って、個にまったく意味がないわけではない。それなりの意味はあるだろう。しかし、絶対のものであるわけがない。絶対的な基本的人権なんて有り得ない。自己欺瞞か自己主張に過ぎないのではないだろうか。米国の外科医レナード・シュレインは「ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する」の中で、英国出身の数学者で哲学者、ハーバード大教授も務めたアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの言葉「何世紀にもわたって哲学文献に取り憑いてきた誤解は、独立の存在という考え方である。そのような存在様式はない。あらゆる存在は、宇宙のそれ以外のものと織り合わされているという観点からのみ、理解される」を紹介した上で、そのようになってしまった原因として言語の客観化するという性癖を挙げて、「脳の全領域を直線状の言語の処理用に配線したことでわたしたちは軽率にも、自らを自然という母体から引き裂いて自由にしてしまった。・・・。わたしたちは客観性を獲得したが、宇宙とつながっているという感覚を失った」と言っている。シュレインは、自然、宇宙との繋がり感を言っているが、欧米人は人同士の繋がり感も失ったのである。ホワイトヘッドの考え方からすれば、絶対的個人主義などあり得ない。そもそも個という存在様式はないのである。なお、シュレインはそうなった原因を言語のせいにしているが、日本語には当てはまらない。また、言語が原因というよりも人々のものの考え方によって言語がそうなったのかもしれない。なお、脳が直線状に配線されたというのは左脳について言えるかもしれないが、右脳については必ずしも言えない。欧米人は左脳に偏ったデジタル的なものの考え方をするが、日本人は右脳的感覚も重視したアナログ的ものの考え方をする。それに並行して、英語はデジタル的で、日本語はアナログ的になっている。特に、日本語は運用面においてよりアナログ的である。

人類の未来のあり方として、「ホモ・デウス」は論外である。人類の学名は「ホモ・サピエンス・サピエンス」。サピエンスとは知性の人の意である。やはり、知だけではだめで、情をも併せ持たなければならない。本来持っていた情を思い出さなければならない。人類が次に目指すべきは、知性の人ではなく、やさしい人、繋がりの中の人、自然と一体となった人、そして、幸せを感じられる人ではないだろうか。そのためには、まず、左脳を少し抑え、右脳を活性化する必要がある。デジタル一辺倒のものの考え方を、もう少しアナログ的にする必要がある。二者択一的論理思考を中間も認める複眼論理、あるいは両論併せ飲む論理思考にしなければならない。自然科学は、今まさに複雑系の科学の時代に突入しようとしている。ものそのものの存在も確率論的存在として理解されるようになってきた。頭を柔らかくする必要がある。「頭を柔らかくする」を、英語で何と表現するのか。直訳しても、意味は伝わらないだろう。デジタルな英語では無理かもしれない。アナログな日本語的表現を、少しずつ導入していってはどうだろう。「カワイイ」はアニメを通じて多少は理解されるようになったかもしれない。「もったいない」はまだまだだろう。「いただきます」「おかげさまで」などの表現の本質を理解してもらうのが、第一歩かもしれない。人類は一神教も卒業しなければならない。一神教はデジタル思考の最たるものである。日本人のように、神社にもお参りするが、お寺にもお参りするということができるようになれるか。なかなか、これは難しいが、人類が生存のために、次のステップに進むためには必要である。そしてまず、極度の個人主義の是正から始めるべきかもしれない。教条的な男女平等論など不自然である。(特に日本人にとって。日本では、もともと女性は強い。家庭内の地位も権限も高い。「かかぁ天下」など英語では理解できないだろう。太古の昔から女性は活躍してきた。天照大御神、卑弥呼は女性である。紫式部、清少納言も女性である。万葉集にも女性の名前は数多く見られる。その様に伝統的に女性の強い社会に、女性蔑視の強い社会の制度をそのまま持ち込もうとするのは、ムチャである。日本での出生率低下の大きな原因の一つではないだろうか。)
以上見てきたように、筆者のものの考え方は欧米的ものの考え方の典型で、知・論理に偏り、デジタルで、したがって不自然である。今後の人類の生き残る道は、この行き過ぎた知至上主義、論理至上主義、そしてデジタル思考の矯正ではないだろうか。人間の中の自然性を取り戻すことではないだろうか。心を取り戻すことではないだろうか。そのためには、まずアナログ的な日本のものの考え方を欧米文化に少しずつでも取り入れてもらうことである。これは、日本文化を近代化してくれたことに対する欧米文化への恩返しでもある。そのための第一歩は、欧米文化と日本文化の違いの本質を理解してもらうことであり、その努力を始めなければならないと思う。
  (平成31年1月13日)

   西洋的ものの考え方の限界  

「木を見る西洋人 森を見る東洋人」を読んだ。原題は「THE GEOGRAPHY OF THOUGHT」であるからかなりの意訳である。日本語の書名は諺「木を見て、森を見ず」からと思われるが、この諺の意味からするとこの邦題は西洋人を批判しているかのように見える。著者はリチャード・E・ニスベット、アメリカの大学の心理学教授。多少西洋人としての反省もあるが、東洋人のある反応に対して、「西洋の常識から考えても、また心理学者が長年集めたデータから考えても、こんな反応など考えられなかった・・・」、「西洋人から見れば不思議な話だが、アジア人は対象物の名前を言うことが親の務めだとは考えていないらしい」などと言っており、あくまで西洋人から見ての見方である。翻訳者の村本由紀子氏も最後に、「「西洋vs. 東洋」という二分法的なモデルを用いることは、ニスベット自身がやはり分析的な思考の持ち主であることの現れでもある」と言っており、西洋人のものの見方の限界に言及している。
この本の副題が「How Asians and Westerners Think Differently… and Why」となっているから西洋人と東洋人のものの考え方の違いを明らかにしようとしているのではあるが、それはあくまで西洋人から見てということになってしまっている。したがって、違いはそれぞれ面白いが、Whyとなると道教が出てきたり神道が出てきたりして、これで東洋を理解しているかとなるとはなはだ疑問である。東洋といって中国、韓国、日本を一括りにするのにも無理がある。われわれ日本人からすると、中国人、韓国人はわれわれと全くものの考え方・感じ方の違う民族である。日本人から見ると一面中国人はアメリカ人に似てるようにすら見える。ただ、結論として、東洋人のものの捉え方が‘包括的’で西洋人のものの捉え方が‘分析的’としているのは納得できる。その他、東洋人と西洋人の違いを対比として次のように挙げている。
 (東洋人)  (西洋人)
  包括的    分析的
  関係性    分別・カテゴリー
  文脈     当事者個人
  状況要因   属性要因
  有機体    寄せ集め
  複雑     単純
  全体←部分  集合←個
  集団     個人
  摺合せ    二者択一
  協調     独立
  円      線
  動詞     名詞
  HOW     WHY
 これらも内容はいろいろ違うとしても大雑把に言ってそうなんだろうとは思う。ただ、これらの論証としてアメリカ人と中国人にテストをやらせてみたり、アメリカ人と日本人に聞き取り調査をしたり、アメリカ人と韓国人のアンケート調査をしたり、端から中国人、韓国人、日本人を同じものとして扱っていることに問題があるし、また、テスト、アンケート、聞き取りで違いを抽出しているのは二者択一の分析的手法で西洋的考え方そのものである。
また、これらテスト等で著者ニスベットの他言語に対する、あるいは言語そのものに対する理解が十分かどうか疑念がある。例えば、関係性かカテゴリー分類かを調べるテストで、日本語で言えば、三つの絵を提示され、一つを指し残り二つの中のどちらと関係があるか、と問われれば当然関係性で答えるし、三つを二つのグループに分けよと言えばカテゴリーで分けるだろう。どちらが近いかと問えばカテゴリーで、どちらが近しいかと問えば関係性で答えるだろう。日本語でグループ分けといえばカテゴリーで分けるとなるが、英語でgroupといえばカテゴリー分類とならないのか。中国語では何と言ったのか、韓国語で何と言ったのか、そしてそれらはその言葉を使う人たちにとって中立なのか。このような他言語に対する無関心、あるいは無理解が「サピア・ウォーフの仮説」の検証において、とんでもの結論を出すに至っている。

 「サピア・ウォーフの仮説」とはアメリカ人ジャーナリスト、サピアとウォーフの師弟がアメリカ先住民の文化とその言語の研究から唱えた説で、「言語は文化を規定する」というものである。ニスベットはこれを「言語構造の違いは人々の日常的な思考のプロセスに反映される」として、英語の話せる中国人のバイリンガルを使って調査している。ニスベットはまず「もしサピア・ウォーフの仮説が正しければ、バイリンガルの中国人はテストに用いられる言語によって異なった結果を示すはずである」と言って、三つから二つを選ぶテストをしている。関係性で選んでいるかカテゴリーで選んでいるかのテストである。「具体的には、三つの単語(たとえば、パンダ、サル、バナナ)を中国人とアメリカ人の大学生に示し、三つの中からとくに近い関係にある二つを選ぶように求めた」とあるが、日本人でこの問いなら頓智クイズ的に関係性で答える。そもそも、この発想の根底には人間の思考と言語の関係に対する大いなる誤解がある。バイリンガルなら使う言語を変えて違う思考が出来ると考えているようである。人間、その時々で思考の根底が変えうるのであればそれは二重人格である。バイリンガルは全て二重人格者か。そんなことはない。幼児期の一時を除き思考には言語が必要である。そして、身に着けた言語によって思考の方式が決まってしまう。
言語はOSのようなもので、一つのPCに二つのOSは入らない。二つのOSが同時に動くようには出来ない。OSを切り替えられるとすれば、それはもう違う人格である。MacのOSで一部のWindowsのアプリは動かせる。これがバイリンガルである。
日本人小説家片岡義男は完全なバイリンガルである。彼の書いた「言葉を生きる」、「日本語と英語(その違いを楽しむ)」を読むと、日系二世の父親に英語で、日本人の母親に大阪弁で、日本人の乳母には東京弁で日本で育てられ、結果日本語も英語も流暢で日本語で小説、随筆など多数をものしているが、ものの考え方の根底は英語だ、と告白している。たとえば、「風呂に入る」、「だっこする」などの言葉は使えないと言う。風呂はtakeするもの、だっこはpick upだと言う。さらに、五歳の頃「広島に原爆が落ちた」という表現が理解できなかったという。落ちたという因果関係が理解できなかったというのである。これはまさに英語的論理思考である。これほど完璧なバイリンガルでもOSとしての言語は一つなのである。したがって、多少流暢に英語をしゃべるからといっても、香港人もシンガポール人もOSは中国語である。ただ、シンガポール人一般の中国語と中国本土の人々の中国語ではかなり違ったものになってきている可能性はある。その違いによってものの考え方に違いが出てきていてもおかしくはない。
したがって、この様な誤った言語観から「サピア・ウォーフの仮説」の当否を云々するのは妥当ではない。「サピア・ウォーフの仮説」に対して批判的であった欧米でも最近この説を認める論調も増えてきているやに見えるが、私は、このような言語に対する表面的理解からのものでないかと危惧している。別稿でも書いたが、「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」も表面的な理解に止まっている。なお、「サピア・ウォーフの仮説」の更なる検証にはバイリンガルな人々を研究するのが一つの有力な手段だと思う。台湾の李登輝・元総統は、むつかしいことを考える時は日本語で考えると言っている。しかし、彼の母語は台湾語である。とすると、彼の日本語は論理思考のためのアプリということになる。ものの考え方と論理思考は違うものだということになる。多分、次元が異なるのだと思う。宇多田ヒカルはどうだろう。西田ひかる、滝川クリステル、春香クリスティーン、・・・にご協力いただければ面白いと思う。
今年のノーベル文学賞が日系イギリス人のカズオ・イシグロ氏に決まった。イシグロ氏は1954年長崎に生まれ、5歳の時英国に移り以降英国人の中で教育を受けた、という。したがって、5歳まで日本人社会で日本語で育ち、以降英国人社会で英語で教育を受けたことになる。日本語での読み書きは出来ないが、今でも両親との会話は日本語だという。ただ、5歳の時の日本語だともいう。面白いバイリンガルである。学校教育は英語で読み書きも英語だから、論理思考は英語だろう。ただ、日本語も忘れていない。そして、インタビューで世界の見方、芸術へのアプローチは日本人と言っている。また、もののあわれにも心惹かれる、とも。
論理思考の根底に、またそれとは次元の異なるものの考え方・感じ方というものがあるようである。「サピア・ウォーフの仮説」が当てはまるのは、この底流の部分なのだろう。「サピア・ウォーフの仮説」は左脳ではなく右脳の問題なのかもしれない。欧米語と日本語の対比でいえばこれは当然のことなのである。左脳絶対的欧米言語に比し右脳をも併せ使う日本語では、右脳的ものの考え方、そして感じ方が意識の表面に出やすいということである。
カズオ・イシグロ氏の場合、研ぎ澄まされた表現の中に右脳的な感性がにじみ出ているのではないだろうか。それが欧米人に今は失われたものとして、なつかしく響き、訴えるものがあるのではないだろうか。そして、それがノーベル賞を与えられた隠れた要因ではないかと思う。

今のところ、片岡義男のケースが「サピア・ウォーフの仮説」の正しさの証明の一つである。そもそも、この仮説は言語の本質に関わる考え方なのであるが、サピア、ウォーフのご両人がそこまで本質的なこととは考えていなかったかもしれない。ネイティブアメリカンの文化そのものの本質が研究されてはいないからである。その点、日本文化は西洋文化と全く異質の文化であり、一応世界の八大文明といわれる確固たる独自の文化である。問題は西洋と日本の文化、並びに西洋と日本の言語の本質を同一人が共に理解し比較できる人間がいるかということである。特に西洋人にはその思い込みもあって日本文化を、そして日本語を真に理解することがむつかしい(日本語で小説を書いているリービ英雄ですら日本語のオノマトペを理解しているかには疑問がある)。いかに日本文化に興味があっても西洋人的見方・感じ方でしか理解できていないのである。その点、西洋文化が世界のメジャーであるだけに逆に日本人には日本人的見方で西洋的文化の本質を見極めるチャンスがあると思う。カズオ・イシグロ氏には少し見えているのではないだろうか。次回作品は是非、言葉の違いとものの考え方・感じ方の違いをテーマに取り上げて欲しいと思う。

私は、英語と日本語が本質的に異なり、この違いに連動して、ものの考え方・感じ方、すなわち文化の本質的な違いが欧米と日本の間に存在することを主張してきた。その違いをデジタル対アナログと表現してきた。すなわち、英語がデジタル的で日本語がアナログ的なのに並行して、欧米的なものの考え方・感じ方はデジタル的で日本的ものの考え方・感じ方はアナログ的であると考えている。具体的には英語は子音中心に情報を伝えることに特化しつつあり、知、すなわち論理を重要視した言語を指向しているやに見える。片や、日本語は母音を残し気持を伝えることをなお重視した言語である。英語は主語が必ず必要であり、Iとyouという単語を多用する。一方、日本語は主語を必ずしも必要とせず、英語のIやYouに相当する表現を使うことを極力避けようとする。結果、英語は主観を排した客観的な舞台中継のような表現となり、日本語はその場その場で変化する主体としての感想文のようになる。その他、日本語の特異性としては、言葉の音が意味を伝えるだけではなく、言葉の音の語感などを通してその言葉を発する人の気持までをも伝えうるということがある。すなわち、音としてハイブリッドなのである。さらに、文字として漢字、ひらかな、片仮名の表意,表音の混じり文であるため、大脳の聴覚野だけではなく視覚野も活性化するハイブリッド言語である。なお、日本語には同音多義語が多く存在するため言葉の音を聞いたときにも脳内では一旦漢字に変換しており視覚野も活性化している。このように日本語は脳の多領域を同時に使用する多脳ハイブリッド言語ともいえるのである。
このような言語の違いと並行して、欧米的ものの考え方・感じ方もデジタルで日本的ものの考え方・感じ方もアナログである。欧米ではなにより論理を重視し最終的には二者択一である。日本では決め付けを嫌い、「まぁまぁまぁまぁ、どっちもどっちや」などと中庸を好む。英語では、Iと主張しYouと決め付けるのが当然ではあるが、日本ではお父さん、あるいはお母さんに対する子供としての私であり、時に先生に対する生徒としての私であり、友人に対しては友達としての私である。お父さん、お母さん、先生、友達も単なるYouではなく私のお父さん、私のお母さん、私の先生、私の友達なのである。Youと言う表現は完全な他人に対してである。
欧米では人は神が作ったとされるが、日本では神も人も生(な)ったのである。自然は欧米では外にあって対決し征服するものであるが、日本では自然は人間がその中にあってそれに抱(いだ)かれるものなのである。結果、欧米は一神教になったが、日本では多神教からむしろ汎神教へと進化した。宗教も欧米のデジタルに対し日本はアナログなのである。ちなみに、一神教は二者択一、すなわちデジタルの極致である。
欧米と日本のものの考え方・感じ方の違いの一つの典型として「洗練=refine」という言葉がある。洗練を和英辞書で引くとrefineとある。Refineを英和辞書で引くと洗練と出る。Refineは洗練なのである。しかし、refineと洗練の本質的意味は違う。Refineには混ざりものを取り除いて純化するという意味合いがある。一方、洗練は汚れを落として練り合わせるという意味である。純化と練り合わせるでは意味合いが真逆である。日本人には混ぜ合わせることによって深味がまし味が出ると感じる感性がある。逆に純粋なものに単調、幼稚とすら感じることがある。この感じ方の違いが文化の違いの根底にある(この違いは子音と母音との違いでもある)。

西洋人対東洋人の違いの一覧を見ていて何か既視感があったので、「ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する」を引っ張り出し読み直してみた。すると、何と「左脳は個々の木だけを見て森全体を見ない」とある。これは「木を見る西洋人 森を見る東洋人」の説に従えば西洋人は左脳であると言っていることになる。「ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する」は右脳と左脳の働きの違いを科学的に追求した本である。その他、右脳と左脳の違いをいろいろ取り上げているが、そのほとんどが西洋人と東洋人の違いの一覧表と、表現は少々異なるが、ほぼ同じようなことを言っている。そこで右脳・左脳の違いを確認すべく「奇跡の脳」を取寄せ読んでみた。「奇跡の脳」の著者ジル・ボルト・テイラーは元々は神経解剖学者で37歳の時突然の脳内出血のため左脳の機能を失い8年間のリハビリの結果再び左脳の働きを取り戻し現在も大学教授として活躍しているが、彼女の左脳を失っていた時の体験から右脳の働きがよく分かり、さらに左脳の機能を再獲得していく過程から左脳の働きが一層よく分かる。
彼女の言う右脳と左脳の機能の違いを表記すると
  (右脳)    (左脳)
  全体の一部   個体、からだの境界、分離する
  広がり     線引き
  映像      言葉
  宇宙と一つ   自我の中枢、自己中心的
  心       頭
  感じる     考える、思考
  直感的     分析し批判する
  今、ここ    順序立てる
  共感      二者択一
  ある・being   する・doing
  幸福感、恍惚感    
  流れる、広がる
実際の体験者としての際立つ記述は右脳での幸福感、恍惚感である。宇宙と一つになって溶けだし流れ広がる感覚である。実際に体験してみなければこれは分からない。ここで重要なのは、この体験者・筆者が一流の神経解剖学者、すなわち脳科学者であったことである。どちらかというと頭でっかちの左脳人間が左脳を失ったのであるから、なおさらに右脳・左脳の働きがよく分かったのだろう。人類にとっても貴重な体験である。
先に挙げた「ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する」での右脳と左脳の違いにつての記述も表にしてみた。
  (右脳)     (左脳)
  心、本当の感情  理性、知
  創造力、直感   思考、分析的、因果律
  イメージ     言葉、言語 抽象化、概念
  空間       時間、直線状
  包括的、全体像  個、独立の存在 自我
  融合、繋がり合い 切り離されたもの
  芸術       科学
  実在       客観化
これも、やはり上記二つの表と重なる。特に面白いのは、著者レナード・シュレインが右脳の本当の感情を動物と共通すると言っている点である。右脳を動物本来の脳と言っているのではないだろうか。また、特筆すべきはシュレインが右脳の空間認識に対し「左半球は時間を認知するために進化によってデザインされた全く新しい感覚器官だ。」と言っていることである。この時人類は時間を発見したのだろう。過去・現在・未来と繋がる時間は直線的。数の概念も言語も直線的。左脳の代理人右手の道具を使っての細工ごとの手順も直線的。シュレインは、道具を作り使うようになったこと、すなわち手順と抽象化、そして、コトバの発明、言語への進化、数の概念の獲得などが、左脳の進化とそれぞれ同時並行的に進んだと考えているようであるが、全く納得できる。

今回「ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する」を読み直してみてレナード・シュレインが左脳が右脳を抑圧している現代人の現状に危惧感をもっていることがあらためてよく分かった。現代人といっても左脳的西洋人としてである。西洋人の中にも気付いている人はいるのである。
シュレインはまずアルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(イギリス出身の数学者で哲学者、ハーバード大教授も務めた)の言葉を引く、「何世紀にもわたって哲学文献に取り憑いてきた誤解は、独立の存在という考え方である。そのような存在様式はない。あらゆる存在は、宇宙のそれ以外のものと織り合わされているという観点からのみ、理解される。」。これはまさに個人主義の否定ではないだろうか。自然(宇宙)から切り離された個の存在などありはしないと。シュレインはその原因として言語の客観化するという性癖を挙げて、「脳の全領域を直線状の言語の処理用に配線したことでわたしたちは軽率にも、自らを自然という母体から引き裂いて自由にしてしまった。・・・。わたしたちは客観性を獲得したが、宇宙とつながっているという感覚を失った。」と言う。事態としてはその通りであるが、原因としての言語に関しては、日本語については必ずしもそうは言えない。これらの言説は西洋人の見た西洋文化、欧米の言語についてのみ正しい。このあたりが西洋文明と日本文明の違うところであり、欧米語と日本語の異なるところである。そこまでは、シュレインも思いが至っていないのであろう。「サピア・ウォーフの仮説」の谷が越えられないのである。
しかし、「東洋では神道を信じながら仏教の教義を支持し道教を実践してもかまわない。しかし西洋では、同時にユダヤ人で、キリスト教徒で、ムスリムであることはできない。」とも言っており、違う考え方があることにも言及している。ただ、神道といえば日本しかないにも拘らず東洋と言っている程度に東洋、および日本について知らないのだろう。そして、なぜそうなのかには思考が全く至っていない。
シュレインは教育のせいと考えているのかもしれない。物理学でノーベル賞を受賞したマレー・ゲル=マンの次の言葉を紹介している。「教育は脳の働きに影響を与えてこそ効果があるので、読み、書き、計算に狭く制限された小学校の教科では、主に片方の半球が教育され高度の潜在能力を持つもう半分は教育されずに終わるだろう。わたしたちの社会は、分析的な態度、あるいは論理推理さえ過度に重視するようになっているのではないだろうか。」。さらに加えてシュレインは、「未熟な状態で生まれ、桁外れに長い養育期間を必要とするわたしたちは、多くの誤った考えや信念を心に植えつけられやすい。」とも言っているので幼児期の教育も念頭にあるのかもしれない。

この点を、私は、文化全体の影響ももちろんあるが、言語の影響が大きいと思っている。生まれるやすぐにIと言って自己主張を促し、youと言って相手を区別することを強制し、人工的な切れ切れな子音が中心の言語で客観的な論理展開をすることを教え込むことと、相手との繋がりを重視し、Iともyouともあえて言うことを避け、自然音、すなわち連続音である母音を中心に気持の伝達の容易な言葉を教え込むのとでは、幼児の段階でものの考え方・感じ方が変わってきて当然であろう。

世界の学者もこの言語の致命的な働きの違いを理解できていない。欧米の学者は日本語の欧米語との本質的な違いが理解できないでいる。「サピア・ウォーフの仮説」の本質が理解できないでいる(サピア、ウォーフの両人がそこまで分っていたかどうかは疑問があるが)。日本の学者は、欧米に媚びるのではなく、もっと日本語の本質、日本文化の本質を世界にアピールすべきである。
もっとも、その前に日本語の本質、すなわち日本語の言葉には、助詞を中心にそしてオノマトペの多用に見られるように、今も語感が生きていること、I・youという左脳的自己中心を避け繋がりを重視し右脳の気持の伝達を大切にする右脳的な言語であること、一対一の個別を超え全体的な間接表現を多用する言語であること、客観性、論理性を第一とした絶対的な言語ではなく、その場その場の状況に則した関係性を重視した相対的言語であること、主観的気持を直接表現する言葉を多くもつ言語であること、左脳的な二者択一を避け右脳的な中庸、あるいはバランスを求める言語であること、などを日本人自らが理解することが肝要である。
日本語の特徴については別稿でも縷々説明してきたが、「一対一の個別を超え全体的な間接表現を多用する言語」とは、日本人が日常多用する「ありがとう」、「すみません」、「おかげさまで」、「いただきます」、「ごちそうさま」などに見られるIもyouもなく、感謝という表現もお詫びという表現も一切なく、しかもそれらの気持以上のものを表現しうる言語のことである。また、「主観的気持を直接表現する言葉を多くもつ言語」とは、英語の‘think’に対し、左脳的な‘考える’に加え右脳的な‘思う’、‘気がする’という表現をもっていること。感情の直接表現として英語には一括表現としての‘feel’しかないが日本語には‘悲しい’、‘うれしい’、‘さびしい’などがあること。ちなみに、英語の‘sad’、‘glad’、‘lonely’は客観的な状況描写にすぎない。最も原初的な感情の直接表現‘痛い’に対する英語は叫びとしての‘ouch!’はあるものの、言葉はないこと、などである。

なぜ人類がこのように左脳偏重になってしまったのか、シュレインは次のように言っている。「脳が空間と時間を分け、右と左を分けたことで、因果律に基づく論理的思考が現れ・・、この思考は言語に依存することによって強化され・・。これは人類にとって非常に大きな利点となったので、理性と言語コミュニケーションの座である左脳が、より原始的で神秘的な右脳に対して力をふるうようになった。」。そして更に「エゴ(自我)の玉座の間は左脳に置かれ、そこでエゴが出来事をコントロールしているという驕慢な確信を持ち続ける。右脳という従属的な立場に置かれ、それ自体を表現する言語を持たず、器用な方の手ではなく不器用な手を制御するイド(原我)は、当然受けるべき尊敬を得るのは難しい」状態になったのだと。ここで注意すべきは、これは彼ら西洋人のことを言っているのであり、言語も現在の欧米語のことしか筆者の念頭にはないことである。
これらのこと、すなわち西洋人がなぜこのような考え方になったのかについて、「木を見る西洋人 森を見る東洋人」では著者リチャード・E・ニスベットは地政学の立場から古代ギリシャに始まり、それがイタリアの都市国家を経て現在の西洋に受け継がれて行ったとしている。古代ギリシャの市民集会での討論の伝統のうちに個人の主体性という概念が生まれ、さらに紀元前五世紀には抽象志向への移行が起こったと。
プラトンは「イデア」で、「世界の意味は理性によってのみ知ることが可能で、目に見えるこの世界を参照する必要はない。もし、理性によって導かれた結論と感覚とが矛盾していると感じられるときは、感覚のほうを無視すべきである」とまで言ったと言う。
アリストテレスは「物の中心的、基本的、必要不可欠な性質はその物の「本質」を形づくっており、本質は変化しない」と言い、当時のギリシャ哲学の基本姿勢は「周囲から切り離された対象物それ自体を単独で観察し分析する」ことであったとニスベットは言う。さらに、ニスベットは、当時のギリシャ人たちは直線的で二者択一的な自分たちの論理の奴隷となっていた、とも言う。この思考姿勢はまさに現代の西洋人に繋がるものの考え方である。ただ、ここでニスベットが奴隷と言っているのは古代ギリシャ人の行き過ぎへの揶揄なのだろうか。われわれ日本人から見れば現在の西洋の二者択一的考え方も行き過ぎていると思う。
さらにニスベットは「ギリシャにおける最も偉大な科学的発見は「自然」の発見(哲学者ジョフリー・ロイドによれば、むしろ「発明」)だった。」と誇らしげに言っている。「自然と人間との区別は、われわれから見ると自明のことのように思われるが、ギリシャ以外にこれと同じ考えをもつ文明はなかった。」とも言っているが、このあたりに西洋の思考の特異性の源泉がありそうである。自然を発明したと言っているのは、本来自分もその一部である自然を、自分を外し、あたかも自分の外側にあるかのように見做す作為を言っているのだろう。知の傲慢の極みである。ニスベットにはシュレインの持つ西洋のものの考え方への疑念はない。先にシュレインの引用したホワイトヘッドの言葉「独立の存在という存在様式はない。すべての存在はそれ以外のものと織り合わされている・・」は人間の自然からの疎外を言っており、シュレインはそれに対する問題意識を強く持っているようである。

ニスベットは、宗教についても、「神学によって神の神たるゆえんを整理すべきと考えた宗教はキリスト教だけであると言われるが、このような分類と抽象化への傾倒はギリシャ人にさかのぼることができる」、ともしている。宗教を理屈の宗教、人間が頭で作り上げた宗教にしてしまったのはギリシャ人なのである。ニスベットは西洋の宗教は「善か悪か」で、「宗教上の争いに傾倒してきたのは、もっぱらアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)である」ともしている。これらの宗教は二者択一の宗教であり、この一神教はアブラハムの発明である。この知に偏した一神教が今や人類を危機に陥らせつつある。一神教は、自分だけが救われればいいとする究極のエゴの宗教である。また、進化論を認めないなどということは知的宗教の知的自己矛盾以外のなにものでもない。もう少しマイルドなものにならないものだろうか。
なぜ、西洋は宗教におぼれ、一神教の罠に嵌まってしまったのだろうか。それは偏に左脳への偏重である。右脳の抑圧である。「奇跡の脳」でジル・テイラーが自身の体験として言っているように、幸福感は右脳にあるのである。右脳を無視して左脳でいくら策略をめぐらせても、心の幸せは得られない。本当の幸せにはなれない。ジル・テイラーは、今、左脳、右脳を使い分けてやすらぎを得ている。ただ、万人が左脳・右脳をスイッチングすることはむつかしい。それに近づく一つの方法が日本語だと思う。少しずつでも一つ一つの言葉の発音を味わいながら日本語を使ってみることである。
ちなみに、シュレインは、神道を信じ、同時に仏教の教義を支持し、さらに道教を実践している人々がいることは知っている。多少の危惧の念、考え直さねばとの気持ちもあるのだろう。しかし、日本人のものの考え方・感じ方を知りたいという発想にまでは至っていないようである。

シュレインは言語が適者生存の観点から人間の生命の進化において起こった最も重要な出来事であると評価しつつ、「長い目で見れば、脳の分業も右脳に対する左脳の優位も、思考の発達の一段階にすぎない、・・・。ひょっとするとこれは通り抜けなければならない過渡的な段階なのかもしれない。」としているが、これは主として西洋文明についてのことなのである。西洋文明は、左脳への過度の偏重を正し、右脳とのバランスを取り戻せばいいのである。その手本は日本文化である。その手段は日本語である。日本語を、あるいは日本語的考え方を導入すればいいのである。特に、幼児教育への活用を研究すべきである。日本のマンガをもっと活用してはどうだろう、オノマトペを含めて。

ちなみに、ニスベットは西洋と中国、韓国、そして日本を比較し、西洋と東洋の違いとして結論を得たが、私は、むしろ西洋だけが世界と違うのではないかと思っている。西洋だけが違った文化的進化を遂げつつあるのではないかと思う。敢えて言えば、西洋が間違った方向へ逸脱しつつあるのではないかと危惧している。

今の世界は西洋的考え方の支配する世界である。西洋の発明した科学万能の世界である。社会政治経済面でも、人権を中心に自由、平等、そして民主主義を標榜し、資本主義が支配する世界である。
かって、フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」で「西側の自由民主主義は、人類統治の最終形態として普遍化された」と自由民主主義の勝利を宣言した。しかし、現下の世界情勢は全く異なる。「歴史の逆襲」でジェニファー・ウェルシュが言うように、経済格差の拡大、大量移民、さらに大量難民の発生など、破滅へと向かいつつあるのではとすら懸念される。また、地球上の人口は今や70億人を越えやがて100億人に達すると思われる。いずれ人種間の生存競争が激化するのではないか。大量移民、大量難民はその前兆である。自然の破壊も止まらず、世界各地で異常気象が頻発している。
これらの難題を解決するには従来の西洋的ものの考え方を改める必要がある。先のホワイトヘッドの発言は、個人というものを絶対視する考え方、および自然を人間と対立し人間に隷属すべきものとする人間絶対主義的考え方への警告である。敢えて言えば、人類の存続のためには個々の個人は絶対ではありえない。個人の人権絶対主義、さらに人間絶対主義的ものの考え方を改めることが、この地球上で人類が生き残っていくためには絶対に必要である。右脳を復権し、左脳・右脳のバランスを取り戻そう。

最後に、世界的ベストセラーとなったユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」の〈あとがき〉の最後の言葉をご紹介しよう。
「私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。」
これが今のわれわれ、西洋文明にどっぷり浸かったわれわれの姿なのである。
    (平成29年10月10日)

   「シン・ヤマトコトバ学」を読んで  

 「シン・ヤマトコトバ学」、大変面白く読ませていただきました。神道とヤマトコトバ、そして日本の文化が深く結びついていることがよく分りました。特に神道は戦後長くタブー視されてきましたので、この切口は新鮮で、神道が日本文化にとって本質的なものであることを再認識いたしました。このようなご本を出されたことに敬意を表させていただくと共に日本人の一人として感謝申し上げます。
 ところで、貴兄はこのご本のP45に「それぞれの学生の名前の音の響きの意味などを伝えられたら、面白くなると思います。これは未来への課題です。」と書かれていますが、われわれは既に人の名前はもちろんブランド名などの音の響きの持つイメージをグラフにしたり言の葉として切り出したりすることに成功しました。貴兄のお名前を分析したものを添付いたしましたのでご吟味ください。
 私は、ご著書で主要参考文献に挙げておられる「日本語はなぜ美しいのか」の著者黒川伊保子と一緒に研究をしているものですが、13年前会社設立時に黒川の「語感は発音体感からだ」という一言を聞き、これなら数値化できると思い研究に参加しました。語感を分析するソフトは間もなく作り上げることが出来たのですが、語感の存在を世間に理解してもらうことには苦労いたしました。一般の方々は何となく分るとおっしゃっていただけるのですが、アカデミズムの世界ではほとんど認められません。がり勉の果ての男の学者には言葉の音の響きの違いを聞き分けるのは無理なのかもしれませんが、近代言語学の父ソシュールが「音と意味との恣意性」を「言語学の第一原理」と言ったのが災いしているのかもしれません。古代ギリシャの哲学者ソクラテスも名前の音が意味を持っているという様な言い方をしています。例えば「r は舌をもっとも動かすので動きを表す・・・」などと言っています。ただ、これはその後の学者に反論されてしまいました。それは意味と言ってしまったからです。音義説だとして否定されてしまったのです。反例がいくらでも見つけられるからです。わが国でも貴兄もふれておられる本居宣長も音義説を唱えていました。これも世間に認められているとは言い難い状態です。意味と言ってはいけないのです。言葉の音の響きが持っているのは意味ではなく、イメージ・感じです。いろいろなイメージを同時に持っているのです。その中の一部を使って言葉が作られているのです。「キレイ」と「キタナイ」という正反対の意味の言葉に同じ‘キ’という音が使われていても矛盾ではないのです。(キレイは、元来はやまと言葉ではなく漢語です。ただ、現在は語感に沿った意味に日本語として使われています。)
 発音体感説というのは、言葉の音を発するとき、口腔、鼻腔、すなわち、口、唇、舌、喉などを使ってそこに息を通して発音しますが、そのとき口腔、鼻腔にいろいろな感覚が生じます。例えば、破裂音であれば唇を破裂させた感覚、舌を弾いた感覚、喉の奥を弾いた感覚、摩擦音であれば舌の上を息が流れる感覚、その他、口腔の中を息が充満する感覚、鼻腔に息が流れる感覚などいろいろな感覚が一部同時に起こります。通常はこれらの感覚は意識には上りませんが、潜在的には感じられています。そして、自分が発音したときの感覚が、同じ音を聞いた時にも脳に再現されるのです。この時も意識には明瞭には上らないかもしれません。しかし、脳は感じているのです。ですから、発音体感を感じ分けるには少し訓練がいるのかもしれません。自分の感覚を感じ分ける訓練です。お酒の味を、あるいはお料理の味を感じ分ける訓練と同じかもしれません。味音痴の人もいますから発音体感を感じられない人もいるかもしれません。この訓練は若いほど、また男より女の方が有利かもしれません。和歌、そして詩歌に馴染んでいる方は当然鋭い感覚を保持しておられます。ただ、発音体感だということに気付いておられないだけです。貴兄も和歌をよくご存じですのでこの鋭い感覚はお持ちだと思います。
 発音体感説というのは全くの発想の転換なのです。極端な言い方をすると、音そのものには語感といわれるものは何もないのです。あるのは音の違いだけです(正しくは音の構造の違い)。語感を感じるのは自分自身です。人の声を聞いた時も感じているのは自分の発音時の体感なのです。言葉の音を科学的にいくら分析しても物理的な語感の元は出てきません。語感を分析するには自分の発音体感を分析するしかないのです。対象は客観ではなく主観なのです。主観を客観的に分析しなければならないのです。
 発音体感は、母音と子音で全く違います。母音と子音は音として違うのです。ご本の中でヤマトコトバを母音強調言語だとおっしゃっていますが、私はそれでは不十分だと思います。やまと言葉は母音中心言語です。ちなみに、欧米語は子音中心の言語になってきています。このことは非常に重大な違いで、やまと言葉の非常に大きな特徴でもあるのです。では、母音と子音でどこが違うのか。母音は自然音ですが子音は人工音です。母音は口腔の形を変えそこで喉から出た振動を共鳴させて出す共鳴音で自然音です。連続して発声できますし、他の母音に連続して変えることもできます。一方、子音は唇、歯、舌などによって障害を作り、そこを破裂させたり擦ったり振動させたりして無理やり出す障害音で人工音です。連続して発声することはできません。母音なしに発音することもできません。言い換えれば、母音は自然なアナログ、子音は人為的なデジタルです。やまと言葉は自然なアナログを残そうとし、欧米語は論理的なデジタルを指向していると言えるでしょう。貴兄が「ビジネスで成功するためには英語を学んで下さい。自然と一体になるには大和言葉を学んで下さい。」と書いておられるのは、まさにここを見抜いておられるからです(あるいは、感じ取っておられるからです)。なお、貴兄が新しい切口から捉えるという意味でヤマトコトバと片仮名になさるのはいいと思いますが、アナログなやまと言葉はデジタルな片仮名ではなくアナログな平仮名の方が馴染むと思い私はやまと言葉としています)。
 なお、日本人だけが、正確には日本語を母語として育った人だけが、虫の声、川のせせらぎ、風の音などの自然の音を言葉として聞きとれるは、母音を言語として聞き慣れているからだというようなことを「日本人の脳」のなかで角田忠信先生が書いておられました。日本人が自然と一体となれるのは日本人が自然音である母音に馴染んでいるからなのです。
 当然、発音体感も母音と子音では本質的に違います。自然でアナログな母音には気持ちが表現しやすく、デジタルで○×的な子音はモノ・コトを指定しやすいのです。
 口を大きく開け、ゆったりと大きな声を出せと言われると、アの音になります。ですから、アには開けた大きさ、明るさが感じられます。その他、少し温かくあっさりした感じもあります。アは原初的な音で、やまと言葉では、最初は自分も吾、相手もア、あれもアだったのではないでしょうか。ここからアには原初的な実在感が感じられ、アルという表現も出来てきたのではないでしょうか。
イを発音するには、口元を狭め口元に力を入れて発音しますので、イには集中した、そしてコンデンスした感じがあります。ここからイには小ささ、鋭さが感じられ、ひいては話し手の意思を感じさせます。貴兄の言う本質を表すのに適しているのかもしれません。
ウは口腔の奥から鼻腔へ一部息を流すようにして発音しますので、内面的なものの動きを感じさせます。少し暗く内々的な感じがあります。意識が少し上方向へいきます。
エの発音は、舌を平らにし顎を少し引くようにして発音しますので、下に平らに広がる、あるいは繋がるイメージと共に控え目で引き気味の感じがあります。なお、遠慮という言葉はシナから渡って来た言葉です。漢語としての遠慮には「遠慮する」というような意味合いはありません。日本に入ってきて新たな意味合いが加わったのです。それはエという音のイメージがもたらしたのです(漢語の遠慮には遠慮深謀、あるいは遠謀深慮というような意味しかありません)。
オは口腔を大きくし中でこもるように発音しますので、存在としての大きさと同時に重さ暗さも感じられ、それが存在感に繋がります。なお、アで感じられる大きさは、広がりとしての大きさです。歌にある「空は広いな、大きいな」の大きいはア。奈良の大仏様の大きさはオです。
 したがって、アマのアは広がりとしてのアで、天空、大海原の表現です。また、アマ(AMa)からの繋がったもの(e)のイメージからアメ(AMe・雨)という表現になったのではないでしょうか。海女をアマとしたのは、MAのMに女性をイメージさせるものがあるからではないでしょうか。イザナ・ミ、オト・メ、ヒ・メ、ムス・メなどもそうです。これに対して男をイメージさせるのはKだったのではないでしょうか。イザナ・キ、オト・コ、ヒ・コ、ムス・コがそうです。
 子音Mの発音は、口いっぱいに息を満たし唇を軽く開きながら鼻腔にも息を流すようにして発音します。ここからMには基本的に充満、いっぱいの感じがあります。さらに鼻に息を流すことによって内々感が出て親密感も感じられ、さらに温かさ柔らかさも感じられ、これがやさしさになります。赤ちゃんがお母さんの乳首をくわえながら声を発するとしたら、それはマ的な音になります。それ故、マも原初的な声と言えるかもしれません。英語、中国語で母親のことをママと言い、日本語で食べ物のことをマンマと言うのもこれらのことに関係があるのでしょう。
子音Kの発音は、息を喉の奥に溜め、喉を軽く破裂させて息を口腔に流し込みます。まず、詰る感じがあって固さが感じられ、破裂することによってキレが感じられます。丸くした口腔に息を絞って流し込むので回転や曲線のイメージも出てきます。口腔内の舌、口蓋の表面の湿り気が奪われ乾いた冷たさも感じられます。少し、小ささ薄さも感じられます。Koには確たる存在感のようなものが感じられます。また、コロコロッとしたかわいさも感じられます。それが後々女性の名前にも使われるようになった原因でしょう。
子音Sの発音は、舌、舌先の上を息を流して発音します。まず基本的に流れのイメージがあって、舌の上の水気を奪うので少し冷たくさわやかな感じがあります。息を外に流し出しますので、冷たさと相まって少し離れた感じもあります。やまと言葉では、一番近いものをココ(Ko)と言い、少し離れたものをソコ(So)と言い、一番離れたものをアソコ(A)と言います。アは無限大の広がりですから一番遠い感じなのでしょう。
子音Tは、舌先を上口蓋に着け息をそこに溜め舌先を弾くようにして発音します。一種の破裂音です。子音Tの発音には舌そのものの動き、舌そのものの態様が感じられ、付ける、つつく、止まる、溜める、表面の固さ(中はやわらかいのに)、照りなどが感じられます。舌を上に着けるので上方向が意識に出てくるのかもしれません。ツツクという言葉などはまさに舌の擬態語です。
子音Nの発音は、舌で口腔を塞ぎ息を鼻腔に響かせるようにして発音します。粘り気、湿気、そしてやわらかさが感じられ、最も親密感が感じられます。暗さ内々感も強く、隠れたものにNが使われるようになったのかもしれません。ナイとは見えないことで、ナルによって見えるようになるのです。ナニ(何)、アナ(穴)、ナカ(中)も関係のある表現だと思います。(ANaのNaかに入ってNaくなる。でも、NaにかAるようだ。)
子音Hは、もともとはP音でした。やまと言葉では、P→RH→H と変化したと言われています。ヒカリはピカリだった。‘光’は全くのオノマトペだったのです。さらに、葉(ハ)はパ、花(ハナ)はパナ。パッと開き咲くところからでしょう。濁音B音の清音にあたるものはP音です。H音は別の音です。
子音Pは、Mの発音の口の形で唇を破裂させて発音するとP音になります。ですから、M音を強調したい時にP音の濁音B音を使うことがあります(メリメリ→ベリベリ、ミシミシ→ビシビシ)。子音Pは唇の破裂音ですから、明るく乾いて発散する感じがあります。表面の固さ、かわいさも感じられます。
子音Hは、口腔に何も障害を作らず息を一気に通して発音します。子音らしくない子音で、声音とも言われます。息を一気に肺から出しますので温かく感じられます。障害が何もありませんので声にするにはむしろ力がいります。その割に声になりませんので頼りない儚い感じもあります。息そのものの動きの表現にも使われます。H行の中ではHi音は別です。H音は声音ですが、Hi音はSHi音に似て舌先、歯の間、唇の間を擦って出す音で摩擦音です。したがって、舌先、歯茎、唇の熱を奪うので冷たく感じられます。H音は温かく感じられますので極端な違いです。このあたりにHi音の特殊な感じ秘めたる感じがある所以かもしれません。笑い声「アッハッハ、イッヒッヒ、ウッフッフ、エッヘッヘ、オッホッホ」すべてにH音が入っています。息継ぎ音です。Hには無声化母音的な性格があるのかもしれません。
子音Yは、Ya音はイからアへの変化を、Yo音はイからオへの変化を一音として発音したものです。半母音と言い子音ではありません。集中したものを拡散させたり大きくしたりしますので、揺らぎを感じたり不確かさを感じたりします。また、そこから柔らかさやさしさを感じたりもします。妖しさも感じられます(あやしいという言葉はYaが効いているのです)。
子音Rは、舌を震わせたり舌先で弾いたりして発音します。ソクラテスが言ったように動きを感じさせます。また、滑らかさと共にバラバラ感、散らばり感もあります。舌を最も動かすためかやまと言葉ではR音を語頭に持ってくることはありませんでした。品が悪く感じられたためかもしれません。語の活用変化にはよく使われました。日本語のラ行音は基本的にはR音ですが、リはLi的ですっきりとしたキレが感じられます。むしろ上品です。
子音Wも半母音です。Waはウからアへの変化です。中から湧き出る感じがあります。驚かす時の声でにぎやかです。を(Wo)は現在では発音し分けませんが、理論的には内から内への動きで治まりの感じです。内面の動きはいろいろ抱えながらも落ち着いている男という感じでしょうか。
濁音は、それぞれ清音を強調した感じに加え、濁り、激しさ、そして力感が感じられます。暗さ重さも増します。S音の濁音Z音にはS音の持つスムーズさ、さわやかさを否定する抵抗感、ザラザラ感が逆に強く出ます。
拗音はやまと言葉では使われませんが、Yの持つ揺れ動く感じが舞いあがる感じとして加わります。子供っぽさもありますが、オシャレな感じもあります。
長音、促音、撥音はそれぞれに強調する効果がありますが、長音は時間の経過を感じさせたり動きを感じさせたりします。促音は詰る感じ、そこで一呼吸入れ改まる感じがあります。撥音は、文字通り弾む感じに加え、やはり区切り改まる感じがあります。リズム感が出ます。
やまと言葉では、子音+母音で拍(モーラ)を作りますが、子音と母音の関係はやまと言葉では形容詞が前に付くように子音が母音を形容する様な関係にあります。あくまで母音が主体で子音は修飾、あるいは規定する形になります。ただ、母音の持つイメージは多様で曖昧、それに対し子音の持つイメージは具体的、限定的ですので、表面的には子音の持つイメージが目立つかもしれません。やまと言葉の場合、一つの言葉の本質を見抜くにはそこに使われている母音をよく見る必要があります。
このご本でも、モノ、コトについての議論がありますが、ローマ字表記をしますと、MoNo、KoToとなり、母音は共にo―oの並びとなり存在感を表すoです。子音M・Nは共に鼻音で湿り気、柔らかさがあり、具体的な物体を表すのに無理はありません。一方、子音K・Tは共に固くキレもありますので、概念的なものを表すのに適すると思われたのかもしれません。なお、魂(TaMa)の母音並びはa―aで、a―aはo―oの存在感に対し拡散のイメージで、貴兄のおっしゃる「言霊の「タマ」は「モノ」といっていいでしょう」は少し乱暴だと思います。ちなみに、‘心’はKoKoRoで母音oの並びです。ここから、「こころは沈む」が「魂は飛ぶ」イメージが自然に出てくるのです。oは重く、aは発散、拡散するからです。(こころは踊っても飛びません。魂は鎮まっても沈みません。)
やまと言葉の五つの母音の持つイメージの違いは、笑い声、驚きの声を比べてみるとなおよく分かります。
 アッハッハ   オープンで明るい、屈託がない。
 イッヒッヒ   隠微、利己的、冷酷、打算
 ウッフッフ   自己満足的、含み笑い
 エッヘッヘ   へつらい、おべっか
 オッホッホ   お上品、尊大

 アッ      アツと驚く為五郎、開けっぴろげ
 イッ      ショック、痛! 不満、反発
 ウッ      心的ブレーキ、詰る、内攻
 エッ      意外性、一歩引く
 オッ      感動

 ご本では、母音の持つ次元についても書かれていますが、発音体感からした次元は次のようになります。
  ア   3次元×3次元:空間の広がりですから
  イ   0次元、あるいは1次元:コンデンスしたエッセンスですから、直線かも
  ウ   3次元+1次元:纏まりに上方への動きが感じられるから
  エ   2次元+1次元:平面が連続しているから
  オ   3次元:大きな一つのまとまり

 ちなみに、古代のやまと人は一部の子音にも次元を感じていたようです。わが国に漢字が入って来た時、当時の人々はそれらの漢字音を日本語の音として次のように聞き做しました。
  点   TeNN:0次元
  線   SeNN:1次元
  面   MeNN:2次元
  円    ENN:3次元
 Tは舌でつつくから点。Sは流れから線。Mは膨張していくから、その表面は面。分かるような気がします。もっとも、元々の音がどうだったのかは分かりません。なお、円(ENN)は子音の限定のないENNですから、3次元、あるいはそれ以上と考えていたのかもしれません。あるいは、Eには連続感がありますので無限連続の円に使ったのかもしれません。少なくとも納得性があったのでしょう。
 貴兄の名字シシドのシを貴兄は‘死’、そして本質と考えておられるようですが、私は違うと思います。ご本の主要参考文献にも名前のある中西進先生は、古くはシは水を表したとおっしゃっていたと思います。そこから、しめる、しおれる、しぼむ、しなびる、しみる、霜、などの言葉が出来たとおっしゃっています。すべて水に関係のある言葉です。私は、‘死ぬ’は‘シが抜ける’だと思います。たまたま、漢字の死の音がシに近かったので誤解されてきたのだと思います。‘死ぬ’は漢語ではなくやまと言葉だと思います。‘湿る’から‘湿り気’、‘萎れる’から‘塩’、‘滲みる’から‘シミ’も出来たのでしょう。沈む、したたる(し垂れる)、しづく(し付く)、もそうでしょう。‘島’も水の中の間・空間からかもしれません。ひょっとすると、したたり落ちる方向だから下(した)なのかもしれません。上(うえ)も母音ウの発音時に意識が上方向にいくので、ウ方向へ→ウヘ→ウエかもしれません。
ついでに、貴兄の触れておられる‘友’は、‘〜と’、‘〜も’が一つになったものではないでしょうか。‘アイツと’、‘アイツも’と言っていたのが‘と’と‘も’→‘とも’になった。すなわち、‘共に歩むのが友’です。助詞‘と(To)’は英語では‘too’、助詞‘も(Mo)’は英語では‘more’で頭文字はTとMです。偶然の一致としても面白いですね。かなりいい加減になってきましたが、私は良い加減なのだと思っています。ちなみに、‘みず’は‘みつる(満つる)’からではないかと思います。また、清水は本来ならシミズとは読めません(キヨミズかセイスイ)。清水の清を古い水の表現に引かれてシと読むようになったのではないでしょうか。そうするとシミズは二重語ということになります。
貴兄はSi=本質としておられますが、私はiに本質的なもののイメージを感じていたのではないかと思います。それで、Ki=気、あるいは木、Si=水、Ti=血、Ni=土、Mi=実、Pi=日、火、となったのではないでしょうか。なお、貴兄は‘キク’を‘気を組む’としておられますが、‘気を汲む’の方が素直ではないでしょうか。
 以上、発音体感説の立場から貴兄のおっしゃる言霊についてご説明しましたが、科学的には、言葉の音そのものには何もなく(違いがあるだけで)、その音を聞く人が自分自身で(その違いに)いろいろな感じを感じ分けているということなのです。すなわち、言葉というものは鏡のようなものなのです。鏡には何もなく、見る人が自分の姿を鏡の中に見ているに過ぎないのです。要するに、自分が言葉の音を発した時に感じたことを、その音を聞いた時も同じように感じるということなのです。これが語感の、そして言霊の正体なのです。ですから、貴兄のおっしゃるように、祝詞をあげる時も和歌を朗詠する時も心を込めて声を出すことが大切なのです。自分自身で声を出すことが大切なのです。
 貴兄のご本を読んで、私は改めて神道について考えてみました。そして、今思いますのは、このすばらしい神道をReligionとしてはいけないということです。Religionとしてしまうと必ず一神教と衝突してしまうからです。ですから、神道の神々もGodとしてはいけないと思います。神道は、Philosophyとしてはどうでしょう。ちなみに、米国入管に際して、仏教徒は無宗教扱いをされるそうです。仏教は哲学と見做されているようです。そもそも神道は‘教’ではなく‘道’です。道とは自らが歩むところです。ReligionよりもPhilosophyに近いのではないでしょうか。Philosophyなら貴兄のおっしゃる「バラバラのものがそのままで融和する」ことも可能になるのではないでしょうか(宗教では無理でしょう)。貴兄が神道を単なるReligionにとどめるのではなくPhilosophyに高める努力をされんことを熱望いたします。
 私は発音体感説を出発点として日本語の本質に迫るべく研鑽をしています。その成果は逐次個人サイトにオンしています。時々のコトバの分析結果も公開しています。是非覗いてみて下さい。
    語感言語学   http://theory.gokanbunseki.com
    語感分析    http://www.gokanbunseki.com
 なお、お遊びで、名前の音の持つイメージを犬の種類に擬えるサイトも立ち上げました。ご自分の名前の音をインプットするとその音が連想させる犬の画が出るものです(「ひろゆき」ならシベリアンハスキーになると思います)。合わせて米国の交流分析的な性格特性も出るようにしています。お遊びとして試してみて下さい。彼女との相性も占えます(結果の責任は持てませんが)。
    ワンワン占い   http://www.manekko.com
 貴兄のますますのご活躍をお祈りいたします。
      平成29年5月5日
                   言霊アナリスト  増田嗣郎
PS.ユーチューブで貴兄のラップを拝聴いたしました。それで感じたのですが、ラップには言霊は乗せにくいのではありませんか。言葉遊びになってしまっている。それはそれで面白いのですが、貴兄には祝詞を腹の底からノーノーと宣って欲しいと思います。宣命ではなく宣祝詞、あるいは宣祝でしょうか。
 いろいろ勝手なことを言ってしまいました。歳に免じお許し下さい。老いのなごりに、です。

   アル、イル、オル のイメージの違い  

存在を表すよく似た表現に、‘アル’、‘イル’、‘オル’がある。
その意味合いは、それぞれ微妙に違う。この違いは母音‘a’、‘i’、‘o’のもつイメージの違いから来る。
‘o’ には、重さとまとまり感があるため存在感が強く出る。動かずに確かにそこに居るという感じである。
‘i’ には、意思的のものと切れがあって、自らの意思で居ることを言い切った感じである。
‘a’ は、オープンで明るく、すべてありのままの存在のイメージがあり、人間の小ざかしい思惑を超えて絶対的に存在するという感じが出る。( ‘ア’は人間の最初のコトバだろう。最初は全ての存在を表わしていたのだろう。私も‘ア’、あなたも‘ア’、あれも‘ア’。ここから、吾、我、アル などの言葉が生まれた。のかも)
したがって、‘アル’は全てのものの存在に使うが、人間の存在には使いにくい。
逆に、‘イル’、‘オル’は人間、あるいは、擬人化したものの存在に使う。
これらの使い分けに語感が生きているのである。
軍隊用語に「私は○○であります。」という言い方がある。これは、軍隊の中での一兵卒の個の人間としての存在を暗黙の中に否定していることを示しているのだろう。
     (平成22年6月2日)

   語感から見た母音と子音  

語感は発声体感から来るものであるから、発声法から母音・子音を見ると本質的な違いが見えてくる。

   母 音  

母音は自然音ともいわれ、声帯から出た震動を喉頭、口腔、鼻腔で共鳴させて出す音で、母音の違いは主にこのパイプの形の違いによる。同じ母音を連続して出すことも、他の母音に連続的に変化させることも出来る。すなわち、長音にもなるし、/ア/ から /イ/、/ウ/、/エ/、/オ/ へ連続して変化させることが出来る。
この意味でもアナログ的であるが、大まかな状況や、心のスタンスなどを表現しやすい。これは、口の開け方、口腔の形、息の出し方などの違いによってであるが、
/ア/ は最も大きく口を開けて素直に声を出すので、オープンさ、明るさ、屈託のなさ、やさしさ、広がりとしての大きさ、などを表現しやすい。
/イ/ は口元を狭めて息を強く出すので、意志・意欲を表わすと共に、鋭さ、まっすぐ、などを表わすことができる。
/ウ/ は口腔の奥の上の方に意識がいくので、内へ引き込んで上へ動くイメージがある。
/エ/ は /イ/ と /ア/ の中間的な位置づけながら、あごを少し引き気味に発声するので、躊躇感、遠慮など引き気味の心的状況を表現しやすい。また、口の形が最も自然なので話の導入 ( エー本日は・・・)、子音の前に付けて子音音を際立たせるのにも使われる。( F,L,M,N,S,・・の発音)。
/オ/ は口腔の中を丸くして、意識を口腔の奥の下に置き、口腔内で共鳴させるようにして発声するので、丸さ、内部での動き、とともに、重さ、ものの大きさ、などを表現することが出来る。
これらのことから、
     促音化して  /アッ/ は、明るい驚き
              /イッ/ は、強い意志
              /ウッ/ は、内的衝撃
              /エッ/ は、意外性の驚き
              /オッ/ は、感動
を表現することが出来る。

   子 音  

子音は不自然音である。口腔に障害物を作って出す人為的な音で、連続して出すことは出来ない。デジタル的である。
障害物を作る場所を調音点というが、音の作り方によって、破裂音、摩擦音、破擦音、鼻音、弾音、半母音、声門音などがある。
そして、それぞれに声帯を振動させて出す有声音と震動させない無声音とがある。
子音の有声音が濁音である。

  破裂音  

破裂音は調音点で息の流れを止め、その調音点を開いて破裂させて出す音であるが、口腔の奥を閉め小さく破裂させて口腔内へ息を通すのが K,G。
口腔内で舌を尖がらせて上顎にちょっと着け、そこを破裂させて出すのが T,D。
唇を閉じ、それを破裂させて口腔外へ息を出すのが P,B である。
このような調音点の違い、息の出し方の違いによって、K は固い、乾いた、軽い、回転、などのイメージがある。
 T には、ちょっと止まった、届いた、小さな、表面の固さ、内部の充実感、などのイメージがある。
 P は、膨張、破裂、発散のイメージとともに、明るい、乾いた、小さな、イメージがあり、総合して、かわいいイメージが出てくる。

  摩擦音  

摩擦音は狭めたところを息を流すようにして出す音で、S,Z は舌の上を流すように、F は、両唇の間を吹き抜けるようにして音を出す。
ここから、S には、風の流れに感じる滑らかさ、さわやかさ、などのイメージが出てくる。あまり乾燥もしておらず、少し湿り気が感じられる。 
F は吹く風のごとく、軽やかで、不確かさや、浮遊Lのイメージなどがある。

  破擦音  

破擦音は破裂音と摩擦音の中間的な音で両方のイメージをもっている。

  鼻 音  

鼻音は、口腔から外へ出る息の一部を鼻腔へも通す音で、鼻腔での共鳴も起こり、母音的な性格、すなわちアナログ的性格が強くなる。 M は両唇を閉じて発声するので、内からの膨張のイメージとこもるイメージがあり、湿り気や粘りをやや感じさせる。 N は、舌を上顎に着け息を鼻腔に回すので、もっとも粘り気や湿り気を感じさせ、内々の親密感を強く感じさせる。

弾音といわれる R は、舌先で上顎を弾くようにして出す音で、にぎやかさや、散らばりを感じさせる。ちなみに、ソクラテスは動きを表わすといっている。( 欧米語では、巻舌で舌先を震わせて出す。) L は破擦音に近い。(日本語の /リ/ は L音)

  半母音  

Y,W は半母音といい、Y は I と他の母音、W は U と他の母音が一つになったもので、ともに母音であることから、極めて母音的である。 Y は、しっかりした I から他の母音への変化で、揺れや、昇華や、溶解、そして、やわらかさ、やさしさ、時にあやしさのイメージがある。
‘キャ’や‘ニャ’など拗音は、それぞれの子音に Y の効果がくっ付いたもので、全体的に、楽しさや、幼さのイメージが加わる。
W は、U から他の母音への変化で、内から外への拡散、広がりを感じさせる。

  声門音  

H は声門音といい、口腔内に調音点を持たない極めて母音的な音で、すべての母音の無声音、すなわち、清音と言うことができる。ちなみに、H の濁音は B,半濁音が P ということになっているが、調音点からいうと、B の清音は P であって H ではない。また、B,P は両唇破裂音であるが、H は摩擦音である。ただ、H と B と P の共通点は発声時の口の形が同じということである。
また、M の口の形も似ている。ちなみに、赤ちゃんが最初に出すコトバの音は マ、バ、パ である。

  濁 音  

清音を有声化すると濁音になり、それぞれ清音のもつイメージが強調されるが、全体的に濁り感が加わる。そして、湿り気と共に力感、雑味が加わる。

古来、やまとことばは、濁音を雅でない音として避ける嫌いがあったが、漢字語の導入にあたり、その語のインパクトを表現するためもあってか、読みとして濁音で聞きなすケースが増えた。

子音の中にも極めて母音に近いものもあるが、全体的にいって、子音は母音よりもイメージが個別的、具体的ではっきりしており、素材感などを出すのに適している。

  母音と子音の違い  

発音の仕方の違いから音として母音と子音は根本的に異なる。母音はそれ自体として存在しうるが、子音は子音のみではコトバの音としては存在しえない。母音の響きを加えないとコトバとして響かないからである。

子音中心といわれる欧米語でも、一つの単語の中に必ず一つ以上の母音が含まれている。( スペルにではなく、発音にです。)

この母音の響きとしての機能のみを使っているのがアラビア語と思われる。聞くところによると、アラビア語には母音は三種類しかなく、その三種類の母音の使用も曖昧で、どれを使ってもいいに近いのだそうである。これが事実とすると、コトバの意味の伝達は子音のみに委ねられ、母音はコトバを響かせるためだけに使われていることになる。このような母音の情を伝える機能を失った言語は子音のもつ概念的なもののみを伝える、狭い意味での記号に近い言語ということになる。これはソシュールの考えた言語であり、欧米語はこれに近づいているのかもしれない。欧米語における会話時の大きなジェスチャー、皮膚接触は、母音が失った情の伝達という機能を補うためなのかもしれない。あるいは、このような習慣から母音の働きに依存する必要がなくなり、母音を失っていったのかもしれない。

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