新しい言語学

母音・子音

   西洋的ものの考え方の限界  

「木を見る西洋人 森を見る東洋人」を読んだ。原題は「THE GEOGRAPHY OF THOUGHT」であるからかなりの意訳である。日本語の書名は諺「木を見て、森を見ず」からと思われるが、この諺の意味からするとこの邦題は西洋人を批判しているかのように見える。著者はリチャード・E・ニスベット、アメリカの大学の心理学教授。多少西洋人としての反省もあるが、東洋人のある反応に対して、「西洋の常識から考えても、また心理学者が長年集めたデータから考えても、こんな反応など考えられなかった・・・」、「西洋人から見れば不思議な話だが、アジア人は対象物の名前を言うことが親の務めだとは考えていないらしい」などと言っており、あくまで西洋人から見ての見方である。翻訳者の村本由紀子氏も最後に、「「西洋vs. 東洋」という二分法的なモデルを用いることは、ニスベット自身がやはり分析的な思考の持ち主であることの現れでもある」と言っており、西洋人のものの見方の限界に言及している。
この本の副題が「How Asians and Westerners Think Differently… and Why」となっているから西洋人と東洋人のものの考え方の違いを明らかにしようとしているのではあるが、それはあくまで西洋人から見てということになってしまっている。したがって、違いはそれぞれ面白いが、Whyとなると道教が出てきたり神道が出てきたりして、これで東洋を理解しているかとなるとはなはだ疑問である。東洋といって中国、韓国、日本を一括りにするのにも無理がある。われわれ日本人からすると、中国人、韓国人はわれわれと全くものの考え方・感じ方の違う民族である。日本人から見ると一面中国人はアメリカ人に似てるようにすら見える。ただ、結論として、東洋人のものの捉え方が‘包括的’で西洋人のものの捉え方が‘分析的’としているのは納得できる。その他、東洋人と西洋人の違いを対比として次のように挙げている。
 (東洋人)  (西洋人)
  包括的    分析的
  関係性    分別・カテゴリー
  文脈     当事者個人
  状況要因   属性要因
  有機体    寄せ集め
  複雑     単純
  全体←部分  集合←個
  集団     個人
  摺合せ    二者択一
  協調     独立
  円      線
  動詞     名詞
  HOW     WHY
 これらも内容はいろいろ違うとしても大雑把に言ってそうなんだろうとは思う。ただ、これらの論証としてアメリカ人と中国人にテストをやらせてみたり、アメリカ人と日本人に聞き取り調査をしたり、アメリカ人と韓国人のアンケート調査をしたり、端から中国人、韓国人、日本人を同じものとして扱っていることに問題があるし、また、テスト、アンケート、聞き取りで違いを抽出しているのは二者択一の分析的手法で西洋的考え方そのものである。
また、これらテスト等で著者ニスベットの他言語に対する、あるいは言語そのものに対する理解が十分かどうか疑念がある。例えば、関係性かカテゴリー分類かを調べるテストで、日本語で言えば、三つの絵を提示され、一つを指し残り二つの中のどちらと関係があるか、と問われれば当然関係性で答えるし、三つを二つのグループに分けよと言えばカテゴリーで分けるだろう。どちらが近いかと問えばカテゴリーで、どちらが近しいかと問えば関係性で答えるだろう。日本語でグループ分けといえばカテゴリーで分けるとなるが、英語でgroupといえばカテゴリー分類とならないのか。中国語では何と言ったのか、韓国語で何と言ったのか、そしてそれらはその言葉を使う人たちにとって中立なのか。このような他言語に対する無関心、あるいは無理解が「サピア・ウォーフの仮説」の検証において、とんでもの結論を出すに至っている。

 「サピア・ウォーフの仮説」とはアメリカ人ジャーナリスト、サピアとウォーフの師弟がアメリカ先住民の文化とその言語の研究から唱えた説で、「言語は文化を規定する」というものである。ニスベットはこれを「言語構造の違いは人々の日常的な思考のプロセスに反映される」として、英語の話せる中国人のバイリンガルを使って調査している。ニスベットはまず「もしサピア・ウォーフの仮説が正しければ、バイリンガルの中国人はテストに用いられる言語によって異なった結果を示すはずである」と言って、三つから二つを選ぶテストをしている。関係性で選んでいるかカテゴリーで選んでいるかのテストである。「具体的には、三つの単語(たとえば、パンダ、サル、バナナ)を中国人とアメリカ人の大学生に示し、三つの中からとくに近い関係にある二つを選ぶように求めた」とあるが、日本人でこの問いなら頓智クイズ的に関係性で答える。そもそも、この発想の根底には人間の思考と言語の関係に対する大いなる誤解がある。バイリンガルなら使う言語を変えて違う思考が出来ると考えているようである。人間、その時々で思考の根底が変えうるのであればそれは二重人格である。バイリンガルは全て二重人格者か。そんなことはない。幼児期の一時を除き思考には言語が必要である。そして、身に着けた言語によって思考の方式が決まってしまう。
言語はOSのようなもので、一つのPCに二つのOSは入らない。二つのOSが同時に動くようには出来ない。OSを切り替えられるとすれば、それはもう違う人格である。MacのOSで一部のWindowsのアプリは動かせる。これがバイリンガルである。
日本人小説家片岡義男は完全なバイリンガルである。彼の書いた「言葉を生きる」、「日本語と英語(その違いを楽しむ)」を読むと、日系二世の父親に英語で、日本人の母親に大阪弁で、日本人の乳母には東京弁で日本で育てられ、結果日本語も英語も流暢で日本語で小説、随筆など多数をものしているが、ものの考え方の根底は英語だ、と告白している。たとえば、「風呂に入る」、「だっこする」などの言葉は使えないと言う。風呂はtakeするもの、だっこはpick upだと言う。さらに、五歳の頃「広島に原爆が落ちた」という表現が理解できなかったという。落ちたという因果関係が理解できなかったというのである。これはまさに英語的論理思考である。これほど完璧なバイリンガルでもOSとしての言語は一つなのである。したがって、多少流暢に英語をしゃべるからといっても、香港人もシンガポール人もOSは中国語である。ただ、シンガポール人一般の中国語と中国本土の人々の中国語ではかなり違ったものになってきている可能性はある。その違いによってものの考え方に違いが出てきていてもおかしくはない。
したがって、この様な誤った言語観から「サピア・ウォーフの仮説」の当否を云々するのは妥当ではない。「サピア・ウォーフの仮説」に対して批判的であった欧米でも最近この説を認める論調も増えてきているやに見えるが、私は、このような言語に対する表面的理解からのものでないかと危惧している。別稿でも書いたが、「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」も表面的な理解に止まっている。なお、「サピア・ウォーフの仮説」の更なる検証にはバイリンガルな人々を研究するのが一つの有力な手段だと思う。台湾の李登輝・元総統は、むつかしいことを考える時は日本語で考えると言っている。しかし、彼の母語は台湾語である。とすると、彼の日本語は論理思考のためのアプリということになる。ものの考え方と論理思考は違うものだということになる。多分、次元が異なるのだと思う。宇多田ヒカルはどうだろう。西田ひかる、滝川クリステル、春香クリスティーン、・・・にご協力いただければ面白いと思う。
今年のノーベル文学賞が日系イギリス人のカズオ・イシグロ氏に決まった。イシグロ氏は1954年長崎に生まれ、5歳の時英国に移り以降英国人の中で教育を受けた、という。したがって、5歳まで日本人社会で日本語で育ち、以降英国人社会で英語で教育を受けたことになる。日本語での読み書きは出来ないが、今でも両親との会話は日本語だという。ただ、5歳の時の日本語だともいう。面白いバイリンガルである。学校教育は英語で読み書きも英語だから、論理思考は英語だろう。ただ、日本語も忘れていない。そして、インタビューで世界の見方、芸術へのアプローチは日本人と言っている。また、もののあわれにも心惹かれる、とも。
論理思考の根底に、またそれとは次元の異なるものの考え方・感じ方というものがあるようである。「サピア・ウォーフの仮説」が当てはまるのは、この底流の部分なのだろう。「サピア・ウォーフの仮説」は左脳ではなく右脳の問題なのかもしれない。欧米語と日本語の対比でいえばこれは当然のことなのである。左脳絶対的欧米言語に比し右脳をも併せ使う日本語では、右脳的ものの考え方、そして感じ方が意識の表面に出やすいということである。
カズオ・イシグロ氏の場合、研ぎ澄まされた表現の中に右脳的な感性がにじみ出ているのではないだろうか。それが欧米人に今は失われたものとして、なつかしく響き、訴えるものがあるのではないだろうか。そして、それがノーベル賞を与えられた隠れた要因ではないかと思う。

今のところ、片岡義男のケースが「サピア・ウォーフの仮説」の正しさの証明の一つである。そもそも、この仮説は言語の本質に関わる考え方なのであるが、サピア、ウォーフのご両人がそこまで本質的なこととは考えていなかったかもしれない。ネイティブアメリカンの文化そのものの本質が研究されてはいないからである。その点、日本文化は西洋文化と全く異質の文化であり、一応世界の八大文明といわれる確固たる独自の文化である。問題は西洋と日本の文化、並びに西洋と日本の言語の本質を同一人が共に理解し比較できる人間がいるかということである。特に西洋人にはその思い込みもあって日本文化を、そして日本語を真に理解することがむつかしい(日本語で小説を書いているリービ英雄ですら日本語のオノマトペを理解しているかには疑問がある)。いかに日本文化に興味があっても西洋人的見方・感じ方でしか理解できていないのである。その点、西洋文化が世界のメジャーであるだけに逆に日本人には日本人的見方で西洋的文化の本質を見極めるチャンスがあると思う。カズオ・イシグロ氏には少し見えているのではないだろうか。次回作品は是非、言葉の違いとものの考え方・感じ方の違いをテーマに取り上げて欲しいと思う。

私は、英語と日本語が本質的に異なり、この違いに連動して、ものの考え方・感じ方、すなわち文化の本質的な違いが欧米と日本の間に存在することを主張してきた。その違いをデジタル対アナログと表現してきた。すなわち、英語がデジタル的で日本語がアナログ的なのに並行して、欧米的なものの考え方・感じ方はデジタル的で日本的ものの考え方・感じ方はアナログ的であると考えている。具体的には英語は子音中心に情報を伝えることに特化しつつあり、知、すなわち論理を重要視した言語を指向しているやに見える。片や、日本語は母音を残し気持を伝えることをなお重視した言語である。英語は主語が必ず必要であり、Iとyouという単語を多用する。一方、日本語は主語を必ずしも必要とせず、英語のIやYouに相当する表現を使うことを極力避けようとする。結果、英語は主観を排した客観的な舞台中継のような表現となり、日本語はその場その場で変化する主体としての感想文のようになる。その他、日本語の特異性としては、言葉の音が意味を伝えるだけではなく、言葉の音の語感などを通してその言葉を発する人の気持までをも伝えうるということがある。すなわち、音としてハイブリッドなのである。さらに、文字として漢字、ひらかな、片仮名の表意,表音の混じり文であるため、大脳の聴覚野だけではなく視覚野も活性化するハイブリッド言語である。なお、日本語には同音多義語が多く存在するため言葉の音を聞いたときにも脳内では一旦漢字に変換しており視覚野も活性化している。このように日本語は脳の多領域を同時に使用する多脳ハイブリッド言語ともいえるのである。
このような言語の違いと並行して、欧米的ものの考え方・感じ方もデジタルで日本的ものの考え方・感じ方もアナログである。欧米ではなにより論理を重視し最終的には二者択一である。日本では決め付けを嫌い、「まぁまぁまぁまぁ、どっちもどっちや」などと中庸を好む。英語では、Iと主張しYouと決め付けるのが当然ではあるが、日本ではお父さん、あるいはお母さんに対する子供としての私であり、時に先生に対する生徒としての私であり、友人に対しては友達としての私である。お父さん、お母さん、先生、友達も単なるYouではなく私のお父さん、私のお母さん、私の先生、私の友達なのである。Youと言う表現は完全な他人に対してである。
欧米では人は神が作ったとされるが、日本では神も人も生(な)ったのである。自然は欧米では外にあって対決し征服するものであるが、日本では自然は人間がその中にあってそれに抱(いだ)かれるものなのである。結果、欧米は一神教になったが、日本では多神教からむしろ汎神教へと進化した。宗教も欧米のデジタルに対し日本はアナログなのである。ちなみに、一神教は二者択一、すなわちデジタルの極致である。
欧米と日本のものの考え方・感じ方の違いの一つの典型として「洗練=refine」という言葉がある。洗練を和英辞書で引くとrefineとある。Refineを英和辞書で引くと洗練と出る。Refineは洗練なのである。しかし、refineと洗練の本質的意味は違う。Refineには混ざりものを取り除いて純化するという意味合いがある。一方、洗練は汚れを落として練り合わせるという意味である。純化と練り合わせるでは意味合いが真逆である。日本人には混ぜ合わせることによって深味がまし味が出ると感じる感性がある。逆に純粋なものに単調、幼稚とすら感じることがある。この感じ方の違いが文化の違いの根底にある(この違いは子音と母音との違いでもある)。

西洋人対東洋人の違いの一覧を見ていて何か既視感があったので、「ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する」を引っ張り出し読み直してみた。すると、何と「左脳は個々の木だけを見て森全体を見ない」とある。これは「木を見る西洋人 森を見る東洋人」の説に従えば西洋人は左脳であると言っていることになる。「ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する」は右脳と左脳の働きの違いを科学的に追求した本である。その他、右脳と左脳の違いをいろいろ取り上げているが、そのほとんどが西洋人と東洋人の違いの一覧表と、表現は少々異なるが、ほぼ同じようなことを言っている。そこで右脳・左脳の違いを確認すべく「奇跡の脳」を取寄せ読んでみた。「奇跡の脳」の著者ジル・ボルト・テイラーは元々は神経解剖学者で37歳の時突然の脳内出血のため左脳の機能を失い8年間のリハビリの結果再び左脳の働きを取り戻し現在も大学教授として活躍しているが、彼女の左脳を失っていた時の体験から右脳の働きがよく分かり、さらに左脳の機能を再獲得していく過程から左脳の働きが一層よく分かる。
彼女の言う右脳と左脳の機能の違いを表記すると
  (右脳)    (左脳)
  全体の一部   個体、からだの境界、分離する
  広がり     線引き
  映像      言葉
  宇宙と一つ   自我の中枢、自己中心的
  心       頭
  感じる     考える、思考
  直感的     分析し批判する
  今、ここ    順序立てる
  共感      二者択一
  ある・being   する・doing
  幸福感、恍惚感    
  流れる、広がる
実際の体験者としての際立つ記述は右脳での幸福感、恍惚感である。宇宙と一つになって溶けだし流れ広がる感覚である。実際に体験してみなければこれは分からない。ここで重要なのは、この体験者・筆者が一流の神経解剖学者、すなわち脳科学者であったことである。どちらかというと頭でっかちの左脳人間が左脳を失ったのであるから、なおさらに右脳・左脳の働きがよく分かったのだろう。人類にとっても貴重な体験である。
先に挙げた「ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する」での右脳と左脳の違いにつての記述も表にしてみた。
  (右脳)     (左脳)
  心、本当の感情  理性、知
  創造力、直感   思考、分析的、因果律
  イメージ     言葉、言語 抽象化、概念
  空間       時間、直線状
  包括的、全体像  個、独立の存在 自我
  融合、繋がり合い 切り離されたもの
  芸術       科学
  実在       客観化
これも、やはり上記二つの表と重なる。特に面白いのは、著者レナード・シュレインが右脳の本当の感情を動物と共通すると言っている点である。右脳を動物本来の脳と言っているのではないだろうか。また、特筆すべきはシュレインが右脳の空間認識に対し「左半球は時間を認知するために進化によってデザインされた全く新しい感覚器官だ。」と言っていることである。この時人類は時間を発見したのだろう。過去・現在・未来と繋がる時間は直線的。数の概念も言語も直線的。左脳の代理人右手の道具を使っての細工ごとの手順も直線的。シュレインは、道具を作り使うようになったこと、すなわち手順と抽象化、そして、コトバの発明、言語への進化、数の概念の獲得などが、左脳の進化とそれぞれ同時並行的に進んだと考えているようであるが、全く納得できる。

今回「ダ・ヴィンチの右脳と左脳を科学する」を読み直してみてレナード・シュレインが左脳が右脳を抑圧している現代人の現状に危惧感をもっていることがあらためてよく分かった。現代人といっても左脳的西洋人としてである。西洋人の中にも気付いている人はいるのである。
シュレインはまずアルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(イギリス出身の数学者で哲学者、ハーバード大教授も務めた)の言葉を引く、「何世紀にもわたって哲学文献に取り憑いてきた誤解は、独立の存在という考え方である。そのような存在様式はない。あらゆる存在は、宇宙のそれ以外のものと織り合わされているという観点からのみ、理解される。」。これはまさに個人主義の否定ではないだろうか。自然(宇宙)から切り離された個の存在などありはしないと。シュレインはその原因として言語の客観化するという性癖を挙げて、「脳の全領域を直線状の言語の処理用に配線したことでわたしたちは軽率にも、自らを自然という母体から引き裂いて自由にしてしまった。・・・。わたしたちは客観性を獲得したが、宇宙とつながっているという感覚を失った。」と言う。事態としてはその通りであるが、原因としての言語に関しては、日本語については必ずしもそうは言えない。これらの言説は西洋人の見た西洋文化、欧米の言語についてのみ正しい。このあたりが西洋文明と日本文明の違うところであり、欧米語と日本語の異なるところである。そこまでは、シュレインも思いが至っていないのであろう。「サピア・ウォーフの仮説」の谷が越えられないのである。
しかし、「東洋では神道を信じながら仏教の教義を支持し道教を実践してもかまわない。しかし西洋では、同時にユダヤ人で、キリスト教徒で、ムスリムであることはできない。」とも言っており、違う考え方があることにも言及している。ただ、神道といえば日本しかないにも拘らず東洋と言っている程度に東洋、および日本について知らないのだろう。そして、なぜそうなのかには思考が全く至っていない。
シュレインは教育のせいと考えているのかもしれない。物理学でノーベル賞を受賞したマレー・ゲル=マンの次の言葉を紹介している。「教育は脳の働きに影響を与えてこそ効果があるので、読み、書き、計算に狭く制限された小学校の教科では、主に片方の半球が教育され高度の潜在能力を持つもう半分は教育されずに終わるだろう。わたしたちの社会は、分析的な態度、あるいは論理推理さえ過度に重視するようになっているのではないだろうか。」。さらに加えてシュレインは、「未熟な状態で生まれ、桁外れに長い養育期間を必要とするわたしたちは、多くの誤った考えや信念を心に植えつけられやすい。」とも言っているので幼児期の教育も念頭にあるのかもしれない。

この点を、私は、文化全体の影響ももちろんあるが、言語の影響が大きいと思っている。生まれるやすぐにIと言って自己主張を促し、youと言って相手を区別することを強制し、人工的な切れ切れな子音が中心の言語で客観的な論理展開をすることを教え込むことと、相手との繋がりを重視し、Iともyouともあえて言うことを避け、自然音、すなわち連続音である母音を中心に気持の伝達の容易な言葉を教え込むのとでは、幼児の段階でものの考え方・感じ方が変わってきて当然であろう。

世界の学者もこの言語の致命的な働きの違いを理解できていない。欧米の学者は日本語の欧米語との本質的な違いが理解できないでいる。「サピア・ウォーフの仮説」の本質が理解できないでいる(サピア、ウォーフの両人がそこまで分っていたかどうかは疑問があるが)。日本の学者は、欧米に媚びるのではなく、もっと日本語の本質、日本文化の本質を世界にアピールすべきである。
もっとも、その前に日本語の本質、すなわち日本語の言葉には、助詞を中心にそしてオノマトペの多用に見られるように、今も語感が生きていること、I・youという左脳的自己中心を避け繋がりを重視し右脳の気持の伝達を大切にする右脳的な言語であること、一対一の個別を超え全体的な間接表現を多用する言語であること、客観性、論理性を第一とした絶対的な言語ではなく、その場その場の状況に則した関係性を重視した相対的言語であること、主観的気持を直接表現する言葉を多くもつ言語であること、左脳的な二者択一を避け右脳的な中庸、あるいはバランスを求める言語であること、などを日本人自らが理解することが肝要である。
日本語の特徴については別稿でも縷々説明してきたが、「一対一の個別を超え全体的な間接表現を多用する言語」とは、日本人が日常多用する「ありがとう」、「すみません」、「おかげさまで」、「いただきます」、「ごちそうさま」などに見られるIもyouもなく、感謝という表現もお詫びという表現も一切なく、しかもそれらの気持以上のものを表現しうる言語のことである。また、「主観的気持を直接表現する言葉を多くもつ言語」とは、英語の‘think’に対し、左脳的な‘考える’に加え右脳的な‘思う’、‘気がする’という表現をもっていること。感情の直接表現として英語には一括表現としての‘feel’しかないが日本語には‘悲しい’、‘うれしい’、‘さびしい’などがあること。ちなみに、英語の‘sad’、‘glad’、‘lonely’は客観的な状況描写にすぎない。最も原初的な感情の直接表現‘痛い’に対する英語は叫びとしての‘ouch!’はあるものの、言葉はないこと、などである。

なぜ人類がこのように左脳偏重になってしまったのか、シュレインは次のように言っている。「脳が空間と時間を分け、右と左を分けたことで、因果律に基づく論理的思考が現れ・・、この思考は言語に依存することによって強化され・・。これは人類にとって非常に大きな利点となったので、理性と言語コミュニケーションの座である左脳が、より原始的で神秘的な右脳に対して力をふるうようになった。」。そして更に「エゴ(自我)の玉座の間は左脳に置かれ、そこでエゴが出来事をコントロールしているという驕慢な確信を持ち続ける。右脳という従属的な立場に置かれ、それ自体を表現する言語を持たず、器用な方の手ではなく不器用な手を制御するイド(原我)は、当然受けるべき尊敬を得るのは難しい」状態になったのだと。ここで注意すべきは、これは彼ら西洋人のことを言っているのであり、言語も現在の欧米語のことしか筆者の念頭にはないことである。
これらのこと、すなわち西洋人がなぜこのような考え方になったのかについて、「木を見る西洋人 森を見る東洋人」では著者リチャード・E・ニスベットは地政学の立場から古代ギリシャに始まり、それがイタリアの都市国家を経て現在の西洋に受け継がれて行ったとしている。古代ギリシャの市民集会での討論の伝統のうちに個人の主体性という概念が生まれ、さらに紀元前五世紀には抽象志向への移行が起こったと。
プラトンは「イデア」で、「世界の意味は理性によってのみ知ることが可能で、目に見えるこの世界を参照する必要はない。もし、理性によって導かれた結論と感覚とが矛盾していると感じられるときは、感覚のほうを無視すべきである」とまで言ったと言う。
アリストテレスは「物の中心的、基本的、必要不可欠な性質はその物の「本質」を形づくっており、本質は変化しない」と言い、当時のギリシャ哲学の基本姿勢は「周囲から切り離された対象物それ自体を単独で観察し分析する」ことであったとニスベットは言う。さらに、ニスベットは、当時のギリシャ人たちは直線的で二者択一的な自分たちの論理の奴隷となっていた、とも言う。この思考姿勢はまさに現代の西洋人に繋がるものの考え方である。ただ、ここでニスベットが奴隷と言っているのは古代ギリシャ人の行き過ぎへの揶揄なのだろうか。われわれ日本人から見れば現在の西洋の二者択一的考え方も行き過ぎていると思う。
さらにニスベットは「ギリシャにおける最も偉大な科学的発見は「自然」の発見(哲学者ジョフリー・ロイドによれば、むしろ「発明」)だった。」と誇らしげに言っている。「自然と人間との区別は、われわれから見ると自明のことのように思われるが、ギリシャ以外にこれと同じ考えをもつ文明はなかった。」とも言っているが、このあたりに西洋の思考の特異性の源泉がありそうである。自然を発明したと言っているのは、本来自分もその一部である自然を、自分を外し、あたかも自分の外側にあるかのように見做す作為を言っているのだろう。知の傲慢の極みである。ニスベットにはシュレインの持つ西洋のものの考え方への疑念はない。先にシュレインの引用したホワイトヘッドの言葉「独立の存在という存在様式はない。すべての存在はそれ以外のものと織り合わされている・・」は人間の自然からの疎外を言っており、シュレインはそれに対する問題意識を強く持っているようである。

ニスベットは、宗教についても、「神学によって神の神たるゆえんを整理すべきと考えた宗教はキリスト教だけであると言われるが、このような分類と抽象化への傾倒はギリシャ人にさかのぼることができる」、ともしている。宗教を理屈の宗教、人間が頭で作り上げた宗教にしてしまったのはギリシャ人なのである。ニスベットは西洋の宗教は「善か悪か」で、「宗教上の争いに傾倒してきたのは、もっぱらアブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)である」ともしている。これらの宗教は二者択一の宗教であり、この一神教はアブラハムの発明である。この知に偏した一神教が今や人類を危機に陥らせつつある。一神教は、自分だけが救われればいいとする究極のエゴの宗教である。また、進化論を認めないなどということは知的宗教の知的自己矛盾以外のなにものでもない。もう少しマイルドなものにならないものだろうか。
なぜ、西洋は宗教におぼれ、一神教の罠に嵌まってしまったのだろうか。それは偏に左脳への偏重である。右脳の抑圧である。「奇跡の脳」でジル・テイラーが自身の体験として言っているように、幸福感は右脳にあるのである。右脳を無視して左脳でいくら策略をめぐらせても、心の幸せは得られない。本当の幸せにはなれない。ジル・テイラーは、今、左脳、右脳を使い分けてやすらぎを得ている。ただ、万人が左脳・右脳をスイッチングすることはむつかしい。それに近づく一つの方法が日本語だと思う。少しずつでも一つ一つの言葉の発音を味わいながら日本語を使ってみることである。
ちなみに、シュレインは、神道を信じ、同時に仏教の教義を支持し、さらに道教を実践している人々がいることは知っている。多少の危惧の念、考え直さねばとの気持ちもあるのだろう。しかし、日本人のものの考え方・感じ方を知りたいという発想にまでは至っていないようである。

シュレインは言語が適者生存の観点から人間の生命の進化において起こった最も重要な出来事であると評価しつつ、「長い目で見れば、脳の分業も右脳に対する左脳の優位も、思考の発達の一段階にすぎない、・・・。ひょっとするとこれは通り抜けなければならない過渡的な段階なのかもしれない。」としているが、これは主として西洋文明についてのことなのである。西洋文明は、左脳への過度の偏重を正し、右脳とのバランスを取り戻せばいいのである。その手本は日本文化である。その手段は日本語である。日本語を、あるいは日本語的考え方を導入すればいいのである。特に、幼児教育への活用を研究すべきである。日本のマンガをもっと活用してはどうだろう、オノマトペを含めて。

ちなみに、ニスベットは西洋と中国、韓国、そして日本を比較し、西洋と東洋の違いとして結論を得たが、私は、むしろ西洋だけが世界と違うのではないかと思っている。西洋だけが違った文化的進化を遂げつつあるのではないかと思う。敢えて言えば、西洋が間違った方向へ逸脱しつつあるのではないかと危惧している。

今の世界は西洋的考え方の支配する世界である。西洋の発明した科学万能の世界である。社会政治経済面でも、人権を中心に自由、平等、そして民主主義を標榜し、資本主義が支配する世界である。
かって、フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」で「西側の自由民主主義は、人類統治の最終形態として普遍化された」と自由民主主義の勝利を宣言した。しかし、現下の世界情勢は全く異なる。「歴史の逆襲」でジェニファー・ウェルシュが言うように、経済格差の拡大、大量移民、さらに大量難民の発生など、破滅へと向かいつつあるのではとすら懸念される。また、地球上の人口は今や70億人を越えやがて100億人に達すると思われる。いずれ人種間の生存競争が激化するのではないか。大量移民、大量難民はその前兆である。自然の破壊も止まらず、世界各地で異常気象が頻発している。
これらの難題を解決するには従来の西洋的ものの考え方を改める必要がある。先のホワイトヘッドの発言は、個人というものを絶対視する考え方、および自然を人間と対立し人間に隷属すべきものとする人間絶対主義的考え方への警告である。敢えて言えば、人類の存続のためには個々の個人は絶対ではありえない。個人の人権絶対主義、さらに人間絶対主義的ものの考え方を改めることが、この地球上で人類が生き残っていくためには絶対に必要である。右脳を復権し、左脳・右脳のバランスを取り戻そう。

最後に、世界的ベストセラーとなったユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」の〈あとがき〉の最後の言葉をご紹介しよう。
「私たちは仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。」
これが今のわれわれ、西洋文明にどっぷり浸かったわれわれの姿なのである。
    (平成29年10月10日)

   「シン・ヤマトコトバ学」を読んで  

 「シン・ヤマトコトバ学」、大変面白く読ませていただきました。神道とヤマトコトバ、そして日本の文化が深く結びついていることがよく分りました。特に神道は戦後長くタブー視されてきましたので、この切口は新鮮で、神道が日本文化にとって本質的なものであることを再認識いたしました。このようなご本を出されたことに敬意を表させていただくと共に日本人の一人として感謝申し上げます。
 ところで、貴兄はこのご本のP45に「それぞれの学生の名前の音の響きの意味などを伝えられたら、面白くなると思います。これは未来への課題です。」と書かれていますが、われわれは既に人の名前はもちろんブランド名などの音の響きの持つイメージをグラフにしたり言の葉として切り出したりすることに成功しました。貴兄のお名前を分析したものを添付いたしましたのでご吟味ください。
 私は、ご著書で主要参考文献に挙げておられる「日本語はなぜ美しいのか」の著者黒川伊保子と一緒に研究をしているものですが、13年前会社設立時に黒川の「語感は発音体感からだ」という一言を聞き、これなら数値化できると思い研究に参加しました。語感を分析するソフトは間もなく作り上げることが出来たのですが、語感の存在を世間に理解してもらうことには苦労いたしました。一般の方々は何となく分るとおっしゃっていただけるのですが、アカデミズムの世界ではほとんど認められません。がり勉の果ての男の学者には言葉の音の響きの違いを聞き分けるのは無理なのかもしれませんが、近代言語学の父ソシュールが「音と意味との恣意性」を「言語学の第一原理」と言ったのが災いしているのかもしれません。古代ギリシャの哲学者ソクラテスも名前の音が意味を持っているという様な言い方をしています。例えば「r は舌をもっとも動かすので動きを表す・・・」などと言っています。ただ、これはその後の学者に反論されてしまいました。それは意味と言ってしまったからです。音義説だとして否定されてしまったのです。反例がいくらでも見つけられるからです。わが国でも貴兄もふれておられる本居宣長も音義説を唱えていました。これも世間に認められているとは言い難い状態です。意味と言ってはいけないのです。言葉の音の響きが持っているのは意味ではなく、イメージ・感じです。いろいろなイメージを同時に持っているのです。その中の一部を使って言葉が作られているのです。「キレイ」と「キタナイ」という正反対の意味の言葉に同じ‘キ’という音が使われていても矛盾ではないのです。(キレイは、元来はやまと言葉ではなく漢語です。ただ、現在は語感に沿った意味に日本語として使われています。)
 発音体感説というのは、言葉の音を発するとき、口腔、鼻腔、すなわち、口、唇、舌、喉などを使ってそこに息を通して発音しますが、そのとき口腔、鼻腔にいろいろな感覚が生じます。例えば、破裂音であれば唇を破裂させた感覚、舌を弾いた感覚、喉の奥を弾いた感覚、摩擦音であれば舌の上を息が流れる感覚、その他、口腔の中を息が充満する感覚、鼻腔に息が流れる感覚などいろいろな感覚が一部同時に起こります。通常はこれらの感覚は意識には上りませんが、潜在的には感じられています。そして、自分が発音したときの感覚が、同じ音を聞いた時にも脳に再現されるのです。この時も意識には明瞭には上らないかもしれません。しかし、脳は感じているのです。ですから、発音体感を感じ分けるには少し訓練がいるのかもしれません。自分の感覚を感じ分ける訓練です。お酒の味を、あるいはお料理の味を感じ分ける訓練と同じかもしれません。味音痴の人もいますから発音体感を感じられない人もいるかもしれません。この訓練は若いほど、また男より女の方が有利かもしれません。和歌、そして詩歌に馴染んでいる方は当然鋭い感覚を保持しておられます。ただ、発音体感だということに気付いておられないだけです。貴兄も和歌をよくご存じですのでこの鋭い感覚はお持ちだと思います。
 発音体感説というのは全くの発想の転換なのです。極端な言い方をすると、音そのものには語感といわれるものは何もないのです。あるのは音の違いだけです(正しくは音の構造の違い)。語感を感じるのは自分自身です。人の声を聞いた時も感じているのは自分の発音時の体感なのです。言葉の音を科学的にいくら分析しても物理的な語感の元は出てきません。語感を分析するには自分の発音体感を分析するしかないのです。対象は客観ではなく主観なのです。主観を客観的に分析しなければならないのです。
 発音体感は、母音と子音で全く違います。母音と子音は音として違うのです。ご本の中でヤマトコトバを母音強調言語だとおっしゃっていますが、私はそれでは不十分だと思います。やまと言葉は母音中心言語です。ちなみに、欧米語は子音中心の言語になってきています。このことは非常に重大な違いで、やまと言葉の非常に大きな特徴でもあるのです。では、母音と子音でどこが違うのか。母音は自然音ですが子音は人工音です。母音は口腔の形を変えそこで喉から出た振動を共鳴させて出す共鳴音で自然音です。連続して発声できますし、他の母音に連続して変えることもできます。一方、子音は唇、歯、舌などによって障害を作り、そこを破裂させたり擦ったり振動させたりして無理やり出す障害音で人工音です。連続して発声することはできません。母音なしに発音することもできません。言い換えれば、母音は自然なアナログ、子音は人為的なデジタルです。やまと言葉は自然なアナログを残そうとし、欧米語は論理的なデジタルを指向していると言えるでしょう。貴兄が「ビジネスで成功するためには英語を学んで下さい。自然と一体になるには大和言葉を学んで下さい。」と書いておられるのは、まさにここを見抜いておられるからです(あるいは、感じ取っておられるからです)。なお、貴兄が新しい切口から捉えるという意味でヤマトコトバと片仮名になさるのはいいと思いますが、アナログなやまと言葉はデジタルな片仮名ではなくアナログな平仮名の方が馴染むと思い私はやまと言葉としています)。
 なお、日本人だけが、正確には日本語を母語として育った人だけが、虫の声、川のせせらぎ、風の音などの自然の音を言葉として聞きとれるは、母音を言語として聞き慣れているからだというようなことを「日本人の脳」のなかで角田忠信先生が書いておられました。日本人が自然と一体となれるのは日本人が自然音である母音に馴染んでいるからなのです。
 当然、発音体感も母音と子音では本質的に違います。自然でアナログな母音には気持ちが表現しやすく、デジタルで○×的な子音はモノ・コトを指定しやすいのです。
 口を大きく開け、ゆったりと大きな声を出せと言われると、アの音になります。ですから、アには開けた大きさ、明るさが感じられます。その他、少し温かくあっさりした感じもあります。アは原初的な音で、やまと言葉では、最初は自分も吾、相手もア、あれもアだったのではないでしょうか。ここからアには原初的な実在感が感じられ、アルという表現も出来てきたのではないでしょうか。
イを発音するには、口元を狭め口元に力を入れて発音しますので、イには集中した、そしてコンデンスした感じがあります。ここからイには小ささ、鋭さが感じられ、ひいては話し手の意思を感じさせます。貴兄の言う本質を表すのに適しているのかもしれません。
ウは口腔の奥から鼻腔へ一部息を流すようにして発音しますので、内面的なものの動きを感じさせます。少し暗く内々的な感じがあります。意識が少し上方向へいきます。
エの発音は、舌を平らにし顎を少し引くようにして発音しますので、下に平らに広がる、あるいは繋がるイメージと共に控え目で引き気味の感じがあります。なお、遠慮という言葉はシナから渡って来た言葉です。漢語としての遠慮には「遠慮する」というような意味合いはありません。日本に入ってきて新たな意味合いが加わったのです。それはエという音のイメージがもたらしたのです(漢語の遠慮には遠慮深謀、あるいは遠謀深慮というような意味しかありません)。
オは口腔を大きくし中でこもるように発音しますので、存在としての大きさと同時に重さ暗さも感じられ、それが存在感に繋がります。なお、アで感じられる大きさは、広がりとしての大きさです。歌にある「空は広いな、大きいな」の大きいはア。奈良の大仏様の大きさはオです。
 したがって、アマのアは広がりとしてのアで、天空、大海原の表現です。また、アマ(AMa)からの繋がったもの(e)のイメージからアメ(AMe・雨)という表現になったのではないでしょうか。海女をアマとしたのは、MAのMに女性をイメージさせるものがあるからではないでしょうか。イザナ・ミ、オト・メ、ヒ・メ、ムス・メなどもそうです。これに対して男をイメージさせるのはKだったのではないでしょうか。イザナ・キ、オト・コ、ヒ・コ、ムス・コがそうです。
 子音Mの発音は、口いっぱいに息を満たし唇を軽く開きながら鼻腔にも息を流すようにして発音します。ここからMには基本的に充満、いっぱいの感じがあります。さらに鼻に息を流すことによって内々感が出て親密感も感じられ、さらに温かさ柔らかさも感じられ、これがやさしさになります。赤ちゃんがお母さんの乳首をくわえながら声を発するとしたら、それはマ的な音になります。それ故、マも原初的な声と言えるかもしれません。英語、中国語で母親のことをママと言い、日本語で食べ物のことをマンマと言うのもこれらのことに関係があるのでしょう。
子音Kの発音は、息を喉の奥に溜め、喉を軽く破裂させて息を口腔に流し込みます。まず、詰る感じがあって固さが感じられ、破裂することによってキレが感じられます。丸くした口腔に息を絞って流し込むので回転や曲線のイメージも出てきます。口腔内の舌、口蓋の表面の湿り気が奪われ乾いた冷たさも感じられます。少し、小ささ薄さも感じられます。Koには確たる存在感のようなものが感じられます。また、コロコロッとしたかわいさも感じられます。それが後々女性の名前にも使われるようになった原因でしょう。
子音Sの発音は、舌、舌先の上を息を流して発音します。まず基本的に流れのイメージがあって、舌の上の水気を奪うので少し冷たくさわやかな感じがあります。息を外に流し出しますので、冷たさと相まって少し離れた感じもあります。やまと言葉では、一番近いものをココ(Ko)と言い、少し離れたものをソコ(So)と言い、一番離れたものをアソコ(A)と言います。アは無限大の広がりですから一番遠い感じなのでしょう。
子音Tは、舌先を上口蓋に着け息をそこに溜め舌先を弾くようにして発音します。一種の破裂音です。子音Tの発音には舌そのものの動き、舌そのものの態様が感じられ、付ける、つつく、止まる、溜める、表面の固さ(中はやわらかいのに)、照りなどが感じられます。舌を上に着けるので上方向が意識に出てくるのかもしれません。ツツクという言葉などはまさに舌の擬態語です。
子音Nの発音は、舌で口腔を塞ぎ息を鼻腔に響かせるようにして発音します。粘り気、湿気、そしてやわらかさが感じられ、最も親密感が感じられます。暗さ内々感も強く、隠れたものにNが使われるようになったのかもしれません。ナイとは見えないことで、ナルによって見えるようになるのです。ナニ(何)、アナ(穴)、ナカ(中)も関係のある表現だと思います。(ANaのNaかに入ってNaくなる。でも、NaにかAるようだ。)
子音Hは、もともとはP音でした。やまと言葉では、P→RH→H と変化したと言われています。ヒカリはピカリだった。‘光’は全くのオノマトペだったのです。さらに、葉(ハ)はパ、花(ハナ)はパナ。パッと開き咲くところからでしょう。濁音B音の清音にあたるものはP音です。H音は別の音です。
子音Pは、Mの発音の口の形で唇を破裂させて発音するとP音になります。ですから、M音を強調したい時にP音の濁音B音を使うことがあります(メリメリ→ベリベリ、ミシミシ→ビシビシ)。子音Pは唇の破裂音ですから、明るく乾いて発散する感じがあります。表面の固さ、かわいさも感じられます。
子音Hは、口腔に何も障害を作らず息を一気に通して発音します。子音らしくない子音で、声音とも言われます。息を一気に肺から出しますので温かく感じられます。障害が何もありませんので声にするにはむしろ力がいります。その割に声になりませんので頼りない儚い感じもあります。息そのものの動きの表現にも使われます。H行の中ではHi音は別です。H音は声音ですが、Hi音はSHi音に似て舌先、歯の間、唇の間を擦って出す音で摩擦音です。したがって、舌先、歯茎、唇の熱を奪うので冷たく感じられます。H音は温かく感じられますので極端な違いです。このあたりにHi音の特殊な感じ秘めたる感じがある所以かもしれません。笑い声「アッハッハ、イッヒッヒ、ウッフッフ、エッヘッヘ、オッホッホ」すべてにH音が入っています。息継ぎ音です。Hには無声化母音的な性格があるのかもしれません。
子音Yは、Ya音はイからアへの変化を、Yo音はイからオへの変化を一音として発音したものです。半母音と言い子音ではありません。集中したものを拡散させたり大きくしたりしますので、揺らぎを感じたり不確かさを感じたりします。また、そこから柔らかさやさしさを感じたりもします。妖しさも感じられます(あやしいという言葉はYaが効いているのです)。
子音Rは、舌を震わせたり舌先で弾いたりして発音します。ソクラテスが言ったように動きを感じさせます。また、滑らかさと共にバラバラ感、散らばり感もあります。舌を最も動かすためかやまと言葉ではR音を語頭に持ってくることはありませんでした。品が悪く感じられたためかもしれません。語の活用変化にはよく使われました。日本語のラ行音は基本的にはR音ですが、リはLi的ですっきりとしたキレが感じられます。むしろ上品です。
子音Wも半母音です。Waはウからアへの変化です。中から湧き出る感じがあります。驚かす時の声でにぎやかです。を(Wo)は現在では発音し分けませんが、理論的には内から内への動きで治まりの感じです。内面の動きはいろいろ抱えながらも落ち着いている男という感じでしょうか。
濁音は、それぞれ清音を強調した感じに加え、濁り、激しさ、そして力感が感じられます。暗さ重さも増します。S音の濁音Z音にはS音の持つスムーズさ、さわやかさを否定する抵抗感、ザラザラ感が逆に強く出ます。
拗音はやまと言葉では使われませんが、Yの持つ揺れ動く感じが舞いあがる感じとして加わります。子供っぽさもありますが、オシャレな感じもあります。
長音、促音、撥音はそれぞれに強調する効果がありますが、長音は時間の経過を感じさせたり動きを感じさせたりします。促音は詰る感じ、そこで一呼吸入れ改まる感じがあります。撥音は、文字通り弾む感じに加え、やはり区切り改まる感じがあります。リズム感が出ます。
やまと言葉では、子音+母音で拍(モーラ)を作りますが、子音と母音の関係はやまと言葉では形容詞が前に付くように子音が母音を形容する様な関係にあります。あくまで母音が主体で子音は修飾、あるいは規定する形になります。ただ、母音の持つイメージは多様で曖昧、それに対し子音の持つイメージは具体的、限定的ですので、表面的には子音の持つイメージが目立つかもしれません。やまと言葉の場合、一つの言葉の本質を見抜くにはそこに使われている母音をよく見る必要があります。
このご本でも、モノ、コトについての議論がありますが、ローマ字表記をしますと、MoNo、KoToとなり、母音は共にo―oの並びとなり存在感を表すoです。子音M・Nは共に鼻音で湿り気、柔らかさがあり、具体的な物体を表すのに無理はありません。一方、子音K・Tは共に固くキレもありますので、概念的なものを表すのに適すると思われたのかもしれません。なお、魂(TaMa)の母音並びはa―aで、a―aはo―oの存在感に対し拡散のイメージで、貴兄のおっしゃる「言霊の「タマ」は「モノ」といっていいでしょう」は少し乱暴だと思います。ちなみに、‘心’はKoKoRoで母音oの並びです。ここから、「こころは沈む」が「魂は飛ぶ」イメージが自然に出てくるのです。oは重く、aは発散、拡散するからです。(こころは踊っても飛びません。魂は鎮まっても沈みません。)
やまと言葉の五つの母音の持つイメージの違いは、笑い声、驚きの声を比べてみるとなおよく分かります。
 アッハッハ   オープンで明るい、屈託がない。
 イッヒッヒ   隠微、利己的、冷酷、打算
 ウッフッフ   自己満足的、含み笑い
 エッヘッヘ   へつらい、おべっか
 オッホッホ   お上品、尊大

 アッ      アツと驚く為五郎、開けっぴろげ
 イッ      ショック、痛! 不満、反発
 ウッ      心的ブレーキ、詰る、内攻
 エッ      意外性、一歩引く
 オッ      感動

 ご本では、母音の持つ次元についても書かれていますが、発音体感からした次元は次のようになります。
  ア   3次元×3次元:空間の広がりですから
  イ   0次元、あるいは1次元:コンデンスしたエッセンスですから、直線かも
  ウ   3次元+1次元:纏まりに上方への動きが感じられるから
  エ   2次元+1次元:平面が連続しているから
  オ   3次元:大きな一つのまとまり

 ちなみに、古代のやまと人は一部の子音にも次元を感じていたようです。わが国に漢字が入って来た時、当時の人々はそれらの漢字音を日本語の音として次のように聞き做しました。
  点   TeNN:0次元
  線   SeNN:1次元
  面   MeNN:2次元
  円    ENN:3次元
 Tは舌でつつくから点。Sは流れから線。Mは膨張していくから、その表面は面。分かるような気がします。もっとも、元々の音がどうだったのかは分かりません。なお、円(ENN)は子音の限定のないENNですから、3次元、あるいはそれ以上と考えていたのかもしれません。あるいは、Eには連続感がありますので無限連続の円に使ったのかもしれません。少なくとも納得性があったのでしょう。
 貴兄の名字シシドのシを貴兄は‘死’、そして本質と考えておられるようですが、私は違うと思います。ご本の主要参考文献にも名前のある中西進先生は、古くはシは水を表したとおっしゃっていたと思います。そこから、しめる、しおれる、しぼむ、しなびる、しみる、霜、などの言葉が出来たとおっしゃっています。すべて水に関係のある言葉です。私は、‘死ぬ’は‘シが抜ける’だと思います。たまたま、漢字の死の音がシに近かったので誤解されてきたのだと思います。‘死ぬ’は漢語ではなくやまと言葉だと思います。‘湿る’から‘湿り気’、‘萎れる’から‘塩’、‘滲みる’から‘シミ’も出来たのでしょう。沈む、したたる(し垂れる)、しづく(し付く)、もそうでしょう。‘島’も水の中の間・空間からかもしれません。ひょっとすると、したたり落ちる方向だから下(した)なのかもしれません。上(うえ)も母音ウの発音時に意識が上方向にいくので、ウ方向へ→ウヘ→ウエかもしれません。
ついでに、貴兄の触れておられる‘友’は、‘〜と’、‘〜も’が一つになったものではないでしょうか。‘アイツと’、‘アイツも’と言っていたのが‘と’と‘も’→‘とも’になった。すなわち、‘共に歩むのが友’です。助詞‘と(To)’は英語では‘too’、助詞‘も(Mo)’は英語では‘more’で頭文字はTとMです。偶然の一致としても面白いですね。かなりいい加減になってきましたが、私は良い加減なのだと思っています。ちなみに、‘みず’は‘みつる(満つる)’からではないかと思います。また、清水は本来ならシミズとは読めません(キヨミズかセイスイ)。清水の清を古い水の表現に引かれてシと読むようになったのではないでしょうか。そうするとシミズは二重語ということになります。
貴兄はSi=本質としておられますが、私はiに本質的なもののイメージを感じていたのではないかと思います。それで、Ki=気、あるいは木、Si=水、Ti=血、Ni=土、Mi=実、Pi=日、火、となったのではないでしょうか。なお、貴兄は‘キク’を‘気を組む’としておられますが、‘気を汲む’の方が素直ではないでしょうか。
 以上、発音体感説の立場から貴兄のおっしゃる言霊についてご説明しましたが、科学的には、言葉の音そのものには何もなく(違いがあるだけで)、その音を聞く人が自分自身で(その違いに)いろいろな感じを感じ分けているということなのです。すなわち、言葉というものは鏡のようなものなのです。鏡には何もなく、見る人が自分の姿を鏡の中に見ているに過ぎないのです。要するに、自分が言葉の音を発した時に感じたことを、その音を聞いた時も同じように感じるということなのです。これが語感の、そして言霊の正体なのです。ですから、貴兄のおっしゃるように、祝詞をあげる時も和歌を朗詠する時も心を込めて声を出すことが大切なのです。自分自身で声を出すことが大切なのです。
 貴兄のご本を読んで、私は改めて神道について考えてみました。そして、今思いますのは、このすばらしい神道をReligionとしてはいけないということです。Religionとしてしまうと必ず一神教と衝突してしまうからです。ですから、神道の神々もGodとしてはいけないと思います。神道は、Philosophyとしてはどうでしょう。ちなみに、米国入管に際して、仏教徒は無宗教扱いをされるそうです。仏教は哲学と見做されているようです。そもそも神道は‘教’ではなく‘道’です。道とは自らが歩むところです。ReligionよりもPhilosophyに近いのではないでしょうか。Philosophyなら貴兄のおっしゃる「バラバラのものがそのままで融和する」ことも可能になるのではないでしょうか(宗教では無理でしょう)。貴兄が神道を単なるReligionにとどめるのではなくPhilosophyに高める努力をされんことを熱望いたします。
 私は発音体感説を出発点として日本語の本質に迫るべく研鑽をしています。その成果は逐次個人サイトにオンしています。時々のコトバの分析結果も公開しています。是非覗いてみて下さい。
    語感言語学   http://theory.gokanbunseki.com
    語感分析    http://www.gokanbunseki.com
 なお、お遊びで、名前の音の持つイメージを犬の種類に擬えるサイトも立ち上げました。ご自分の名前の音をインプットするとその音が連想させる犬の画が出るものです(「ひろゆき」ならシベリアンハスキーになると思います)。合わせて米国の交流分析的な性格特性も出るようにしています。お遊びとして試してみて下さい。彼女との相性も占えます(結果の責任は持てませんが)。
    ワンワン占い   http://www.manekko.com
 貴兄のますますのご活躍をお祈りいたします。
      平成29年5月5日
                   言霊アナリスト  増田嗣郎
PS.ユーチューブで貴兄のラップを拝聴いたしました。それで感じたのですが、ラップには言霊は乗せにくいのではありませんか。言葉遊びになってしまっている。それはそれで面白いのですが、貴兄には祝詞を腹の底からノーノーと宣って欲しいと思います。宣命ではなく宣祝詞、あるいは宣祝でしょうか。
 いろいろ勝手なことを言ってしまいました。歳に免じお許し下さい。老いのなごりに、です。

   アル、イル、オル のイメージの違い  

存在を表すよく似た表現に、‘アル’、‘イル’、‘オル’がある。
その意味合いは、それぞれ微妙に違う。この違いは母音‘a’、‘i’、‘o’のもつイメージの違いから来る。
‘o’ には、重さとまとまり感があるため存在感が強く出る。動かずに確かにそこに居るという感じである。
‘i’ には、意思的のものと切れがあって、自らの意思で居ることを言い切った感じである。
‘a’ は、オープンで明るく、すべてありのままの存在のイメージがあり、人間の小ざかしい思惑を超えて絶対的に存在するという感じが出る。( ‘ア’は人間の最初のコトバだろう。最初は全ての存在を表わしていたのだろう。私も‘ア’、あなたも‘ア’、あれも‘ア’。ここから、吾、我、アル などの言葉が生まれた。のかも)
したがって、‘アル’は全てのものの存在に使うが、人間の存在には使いにくい。
逆に、‘イル’、‘オル’は人間、あるいは、擬人化したものの存在に使う。
これらの使い分けに語感が生きているのである。
軍隊用語に「私は○○であります。」という言い方がある。これは、軍隊の中での一兵卒の個の人間としての存在を暗黙の中に否定していることを示しているのだろう。
     (平成22年6月2日)

   語感から見た母音と子音  

語感は発声体感から来るものであるから、発声法から母音・子音を見ると本質的な違いが見えてくる。

   母 音  

母音は自然音ともいわれ、声帯から出た震動を喉頭、口腔、鼻腔で共鳴させて出す音で、母音の違いは主にこのパイプの形の違いによる。同じ母音を連続して出すことも、他の母音に連続的に変化させることも出来る。すなわち、長音にもなるし、/ア/ から /イ/、/ウ/、/エ/、/オ/ へ連続して変化させることが出来る。
この意味でもアナログ的であるが、大まかな状況や、心のスタンスなどを表現しやすい。これは、口の開け方、口腔の形、息の出し方などの違いによってであるが、
/ア/ は最も大きく口を開けて素直に声を出すので、オープンさ、明るさ、屈託のなさ、やさしさ、広がりとしての大きさ、などを表現しやすい。
/イ/ は口元を狭めて息を強く出すので、意志・意欲を表わすと共に、鋭さ、まっすぐ、などを表わすことができる。
/ウ/ は口腔の奥の上の方に意識がいくので、内へ引き込んで上へ動くイメージがある。
/エ/ は /イ/ と /ア/ の中間的な位置づけながら、あごを少し引き気味に発声するので、躊躇感、遠慮など引き気味の心的状況を表現しやすい。また、口の形が最も自然なので話の導入 ( エー本日は・・・)、子音の前に付けて子音音を際立たせるのにも使われる。( F,L,M,N,S,・・の発音)。
/オ/ は口腔の中を丸くして、意識を口腔の奥の下に置き、口腔内で共鳴させるようにして発声するので、丸さ、内部での動き、とともに、重さ、ものの大きさ、などを表現することが出来る。
これらのことから、
     促音化して  /アッ/ は、明るい驚き
              /イッ/ は、強い意志
              /ウッ/ は、内的衝撃
              /エッ/ は、意外性の驚き
              /オッ/ は、感動
を表現することが出来る。

   子 音  

子音は不自然音である。口腔に障害物を作って出す人為的な音で、連続して出すことは出来ない。デジタル的である。
障害物を作る場所を調音点というが、音の作り方によって、破裂音、摩擦音、破擦音、鼻音、弾音、半母音、声門音などがある。
そして、それぞれに声帯を振動させて出す有声音と震動させない無声音とがある。
子音の有声音が濁音である。

  破裂音  

破裂音は調音点で息の流れを止め、その調音点を開いて破裂させて出す音であるが、口腔の奥を閉め小さく破裂させて口腔内へ息を通すのが K,G。
口腔内で舌を尖がらせて上顎にちょっと着け、そこを破裂させて出すのが T,D。
唇を閉じ、それを破裂させて口腔外へ息を出すのが P,B である。
このような調音点の違い、息の出し方の違いによって、K は固い、乾いた、軽い、回転、などのイメージがある。
 T には、ちょっと止まった、届いた、小さな、表面の固さ、内部の充実感、などのイメージがある。
 P は、膨張、破裂、発散のイメージとともに、明るい、乾いた、小さな、イメージがあり、総合して、かわいいイメージが出てくる。

  摩擦音  

摩擦音は狭めたところを息を流すようにして出す音で、S,Z は舌の上を流すように、F は、両唇の間を吹き抜けるようにして音を出す。
ここから、S には、風の流れに感じる滑らかさ、さわやかさ、などのイメージが出てくる。あまり乾燥もしておらず、少し湿り気が感じられる。 
F は吹く風のごとく、軽やかで、不確かさや、浮遊Lのイメージなどがある。

  破擦音  

破擦音は破裂音と摩擦音の中間的な音で両方のイメージをもっている。

  鼻 音  

鼻音は、口腔から外へ出る息の一部を鼻腔へも通す音で、鼻腔での共鳴も起こり、母音的な性格、すなわちアナログ的性格が強くなる。 M は両唇を閉じて発声するので、内からの膨張のイメージとこもるイメージがあり、湿り気や粘りをやや感じさせる。 N は、舌を上顎に着け息を鼻腔に回すので、もっとも粘り気や湿り気を感じさせ、内々の親密感を強く感じさせる。

弾音といわれる R は、舌先で上顎を弾くようにして出す音で、にぎやかさや、散らばりを感じさせる。ちなみに、ソクラテスは動きを表わすといっている。( 欧米語では、巻舌で舌先を震わせて出す。) L は破擦音に近い。(日本語の /リ/ は L音)

  半母音  

Y,W は半母音といい、Y は I と他の母音、W は U と他の母音が一つになったもので、ともに母音であることから、極めて母音的である。 Y は、しっかりした I から他の母音への変化で、揺れや、昇華や、溶解、そして、やわらかさ、やさしさ、時にあやしさのイメージがある。
‘キャ’や‘ニャ’など拗音は、それぞれの子音に Y の効果がくっ付いたもので、全体的に、楽しさや、幼さのイメージが加わる。
W は、U から他の母音への変化で、内から外への拡散、広がりを感じさせる。

  声門音  

H は声門音といい、口腔内に調音点を持たない極めて母音的な音で、すべての母音の無声音、すなわち、清音と言うことができる。ちなみに、H の濁音は B,半濁音が P ということになっているが、調音点からいうと、B の清音は P であって H ではない。また、B,P は両唇破裂音であるが、H は摩擦音である。ただ、H と B と P の共通点は発声時の口の形が同じということである。
また、M の口の形も似ている。ちなみに、赤ちゃんが最初に出すコトバの音は マ、バ、パ である。

  濁 音  

清音を有声化すると濁音になり、それぞれ清音のもつイメージが強調されるが、全体的に濁り感が加わる。そして、湿り気と共に力感、雑味が加わる。

古来、やまとことばは、濁音を雅でない音として避ける嫌いがあったが、漢字語の導入にあたり、その語のインパクトを表現するためもあってか、読みとして濁音で聞きなすケースが増えた。

子音の中にも極めて母音に近いものもあるが、全体的にいって、子音は母音よりもイメージが個別的、具体的ではっきりしており、素材感などを出すのに適している。

  母音と子音の違い  

発音の仕方の違いから音として母音と子音は根本的に異なる。母音はそれ自体として存在しうるが、子音は子音のみではコトバの音としては存在しえない。母音の響きを加えないとコトバとして響かないからである。

子音中心といわれる欧米語でも、一つの単語の中に必ず一つ以上の母音が含まれている。( スペルにではなく、発音にです。)

この母音の響きとしての機能のみを使っているのがアラビア語と思われる。聞くところによると、アラビア語には母音は三種類しかなく、その三種類の母音の使用も曖昧で、どれを使ってもいいに近いのだそうである。これが事実とすると、コトバの意味の伝達は子音のみに委ねられ、母音はコトバを響かせるためだけに使われていることになる。このような母音の情を伝える機能を失った言語は子音のもつ概念的なもののみを伝える、狭い意味での記号に近い言語ということになる。これはソシュールの考えた言語であり、欧米語はこれに近づいているのかもしれない。欧米語における会話時の大きなジェスチャー、皮膚接触は、母音が失った情の伝達という機能を補うためなのかもしれない。あるいは、このような習慣から母音の働きに依存する必要がなくなり、母音を失っていったのかもしれない。

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