新しい言語学

日本語の作り方

   水、死 の語源。そして、上、下  

先日、親戚の法事に参列した。和尚の読経の際、お経の本を手渡された。唱和するともなく眺めていて、ふと気付いた。漢字の読みが普段とは違うのである。
そこで、昔、学校で習ったことを思い出した。漢字の読みには二通りあって、大陸伝来のものを音読み、大和言葉に当てたものを訓読みというと。そして、音読みには二種類、あるいは三種類以上あるものもあって、仏教伝来とともに入ってきた古い読み方が呉音、その後新しく入った読み方が漢音。当時の国家指導層はこの新しい読み方を広めようとしたが、仏教用語を中心になかなか変わらなかった、というようなことを思い出した。
お経の読みは古い呉音だったのである。

まず、気づいたのは「水」。お経では「しい」と仮名が振ってあった。現在の音読みは「すい」である。これは漢音なのだろう。そして、次に気づいたのが「死」。現在の音は「し」であるが、お経では「じ」になっていた。
大和言葉には、「水」を「みず」ではなく、「し」と言っていたと思われる痕跡が多くある。この「し」という音は「しい」という呉音と関係があるのかもしれない。
呉音は仏教とともに日本に渡ってきたと習った記憶があるが、音そのものはもっと古く入ってきたのではなかろうか。歴史書によると、BC473年頃、呉越の戦争に敗れた呉の人々が多数直接日本列島に流れて来たという。また、その後、越も楚に滅ぼされ一部の人々が日本に流れ着いたという。これらの人々も呉音を持っていただろう。(今も、日本には、呉、越が地名として残っている)
もっとも、それより以前から大和言葉では、「水」は「し」だったかもしれない。語感にそっているからである。それ故、新しく入ってきた呉音を「しい」と聞きなしたのかもしれない。

基本的な大和言葉には大切なものに「i」を付けて拍を作り名付ける傾向がある。
  Mi=実、そして、耳        M:満ちる → 豊満、充満
  Pi、そして、Hi=日、火     P:破裂 → 吹き出す、放射
  Ti=血、乳、そして、父      T:溜まる → たっぷり、充実
  Ni=丹、土            N:粘り、水気 → 暗い、親密
  Ki=木              K:切れ → きっぱり、きりっと
そして、
  Si=水               S:流れる → すっきり、さわやか
なのである。
「し」がかなり古い言葉であると思われる根拠は、「し」から出来たと思われる基本的な言葉が多数存在するからである。
「下」は基本的な概念で、このような概念はかなり古くからあったであろう。そして、それを「した」としたのも古いだろう。「した」は「したたる」から出来た言葉ではないか。
「水・あふれる=し・たる=したたる」から出来た言葉ではないだろうか。語感的に「Ta」には、ものが「貯まる、そして、いっぱい」というイメージがある。これに動きのイメージの強い「Ru」が付いて「あふれる」イメージを表すようになったのではないだろうか。そして、水があふれ落ちるのが「下」である。
これに近い発想に「しなだれる」がある。これは、「しなる」+「たれる」から出来た言葉で、「しなる」は「しなやか」と同じイメージで、水がたっぷりで柔軟なイメージからの表現だろう。「しなだれる」にも「下」のイメージが感じられる。(「Na」には柔らかいというイメージがある)
「沈む」も「し・づむ」で、基本的な概念であろう。
そのほか、「し=水」から出来た言葉として、
 霜、染みる、シミ、しほれる、しなびる、しっける、湿気
などがある。「撓る」、「シワ」、「従う」、「島」もそうかもしれない。

そして問題になるのが「死」である。現在は「死」の音読みも「し」である。しかし、私は「しぬ」は「し=水」が「抜ける」から出来た古い表現ではないかと思う。
「死」は呉音では「じ」である。現在の北京音では「Si3」となっており、私の耳には「すぅ」に聞こえる。ちなみに、「水」は「SHui3」となっており、私には「しゅぅ」に聞こえる。
それでは、「みず」という言葉はどのように出来たか。私は、これも‘語感’から出来たと思っている。
「M」は一旦口腔に息を貯めて、その息を鼻に抜くようにして発音する。そこから、「M」には満ち溢れるイメージがある。古来我が国には水が豊かである。満ち溢れるものが水だったのではないだろうか。「MiTu」が濁音化して「MiZu」になったのではないだろうか。  なお、「水」は「MiNa」とも読む(水上、源、水底)。これも、同じような意味で「みなぎる」からだろう。
「し」と「みず」、いずれが古いか。分からない。二つの系統があるのかもしれない。しかし、いずれも‘語感’によって作られているようだ。

ところで、「下」の反対は「上」。「下」は「した」の他に「しも」とも読む。「上」は「うえ」、「かみ」である。「した」―「うえ」、「しも」―「かみ」 の組合せだろう。「した」と「しも」 には何か関係がありそうだが、「うえ」、「かみ」 には関連は見えない。
ちなみに、「うえ」は「浮く」と同じく「u」の音が口腔の中で上に抜くように発音するため、上向きのイメージがあるからだろう。「かみ」は「カムイ」からかもしれない。それでは「カムイ」はどこからか。分からない。アイヌと共通の祖先の言葉かもしれない。
感覚的にいうと、「ウエ」―「シタ」 の方が庶民的でベーシック。「カミ」―「シモ」 の方が権威的で、後から入って来たような気がするが、どうだろう。もっとも、音読み、「ジョウ」―「ゲ」 はもっと新しい。

英語には、上・下という抽象概念はないのではないか。日本語の上・下は名詞である。
英語の upper、lower、high、low は形容詞である。class か何か付けなければ名詞句にならない。
英語には、上・下という抽象概念はないのである。必ず具体的なものにしなければ概念にならないのである。
もっとも、日本語も、上・下を「うえした」と読めば抽象的な概念であるが、「かみ・しも」と読めば比較のイメージが強くなって、英語的な発想に近くなるような気がする。そして、「じょうげ」となれば、動きも加わって、より英語的である。
「上下」といえば成句として「左右」がる。この「左右」には抽象概念としての英語はある。「東西南北」にも英語はある。位置関係を示す概念として、英語には「上下」だけがない。
フラットな横方向の概念語はあるが、縦方向の概念語がない。これは何を意味しているのか。面白い研究テーマだと思う。ラテン語を調べてみる必要がある。
     (平成24年7月11日)

   噫 最も古い日本語の音  

噫。‘AI’と読む。(‘I’かもしれない。)
今、発音の分かる最も古い日本語である。文字の出来る以前の日本語がどのようなものであったのか、はっきりとは分からない。どのように発音されていたのか分からない。
‘噫’は古代の日本人が話していたと記録のある唯一の言葉である。その記録とは魏志倭人伝である。3世紀の倭国の様子を記した中に、

「下戸、大人と道路に相逢えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、或は蹲り或は跪き、両手は地に拠り、之が恭敬を為す。対応の声を噫と日う、比するに然諾の如し。」

とある。
著者陳寿の時代の‘噫’の読みは‘AI’か‘I’だそうである。(なお、‘オオ’という説もある。)
応答の声だから、これが現在の‘ハイ(HaI)’になったと考えるのが自然だろう。(‘語感’的には、‘オオ’では、存在感がありすぎて尊大に聞こえる。大人の下戸に対する応答なら‘オオ’の方が相応しいが。)
‘語感’からみれば、‘ア’は全ての始りとしての‘実在’、すなわち、‘ありのまま’の‘ア’で、‘イ’は自らの‘意思’の‘イ’であるから、‘アイ’は‘ありのままを認める’という応諾の気持を素直に音として表したものということが出来る。

倭人伝といえば、‘倭’。
日本のことであるが、なぜ‘倭’と言ったのか。読みは‘Wa’であるが、この音からきたという説がある。
当時の日本人が‘Wa,Wa’と言っていたから、‘Waの人’というように‘Wa’となったというのである。これを漢字に当てはめて‘倭’になったと。(加えて、当時の日本人が比較的小さかったので、この字が当てられたという説もある。)
多分、当時の日本人が自分のことを‘Wa’と言っていたのだろう。これは‘我’、あるいは‘吾’に当たる表現で自分のことを言っていたのだろうが、それが集団そのものの呼び名になってしまったということである。(これが現在は‘私(WaTaSHi)’、‘わし(WaSHi)’になった。)

ところで、‘噫’の‘ア’も‘イ’も母音。‘Wa’は‘u→a’への変化で半母音。ともに日本語の基本的な言葉だったのだろう。
     (平成23年10月6日)

   ありあり と REAL    声の誕生  

「ありありと目に浮かぶ」という表現がある。この‘ありあり’はオノマトペなのか。
‘有る’を繰り返しただけだからオノマトペではないという。
しかし、この‘ありあり’にはリアルさ、臨場感が強く感じられる。
これは、‘あり’そのものが語感から出来た言葉だからである。

多分、人類最初の言葉‘ア’は、そもそもは、存在そのものを表わしたのだろう。(何でも指差しては‘ア’と言った。アレも‘ア’、これも‘ア’、自分も‘ア’、お前も‘ア’。)
そこから名詞、動詞と分かれていったが、日本語では名詞として‘吾’、動詞として‘アる’が生まれた。(そして、‘あける’、‘あかるい’などの言葉が生まれてきた。)
したがって、日本語の‘ある’には、本来的に実在感があるのである。
‘あり’は‘ある’の活用変化で、語感的には‘ある’よりも切れのイメージが強くなってくる。
ところで、‘ありあり’を英語で表現すれば、‘real’であろう。‘アリ’をひっくり返し、‘アル’を足せば、‘real’の日本語読み‘リアル’になる。
これは、たまたまそうなっただけで、日本語の‘ありあり’と英語の‘real’を関係付けるつもりはない。しかし、案外、これは語感の神様のいたずらなのかもしれない。
その他、英語にも語感的に納得できるものがたくさんある。

ところで、‘ガタピシ’はオノマトペなのだろうか。雨戸などの立て付けの悪さの感じがよくでているが、もともとは仏教用語からきた言葉だという。(我他彼比)
ということは、意味から出来た言葉でオノマトペではないことになる。
しかし、われわれは本来の意味など知らないし、それを普段考えもしないで使っている。そして、‘ガタガタ’と‘ヒシャゲテ’いるイメージからこの言葉を使っている。とすると、今ではわれわれは‘ガタピシ’をオノマトペとして使っているということになる。(‘ピ’は‘ヒ’の半濁音、濁音‘ビ’として‘ガタビシ’ともいう。)
このような例は、他にも‘ゴタゴタ’などがある。‘ゴタゴタ’も、もともとは説教の分かりにくい或るお坊さんの名前からきたのだそうである。(兀庵普寧)
一説には、もともと‘ガタピシ’という表現があって、それに仏語をあてはめたのだという。‘ガタガタ’も‘我他我他’だといわれても成る程と思ってしまう。オノマトペかどうかは、学問的趣味の問題であり、あまり気にしなくてもいいのかもしれない。

人類最初の言葉が‘ア’だというのは、あくまで理論値である。当時の記録が残っているわけでもないので確認のしようがない。
また、‘ア’といっても、ア的な音という意味である。
最初は、いろいろな人がいろいろな発声をしただろう。ワ的な発声をした人、マ的な発声をした人、バ的な発声をした人もいただろう。当時の人たちにとっては、今の日本人が‘R’音と‘L’音の区別ができないように、細かな音の差は聞き分けられなかったかもしれない。
リラックスして、明るく大きな声をだせば、それがア的な音になるということなのである。
そのア的な音を、やわらかく発音する人、軽く発音する人、力んで発声する人たちが出てきて、やがて、‘マ’、‘パ’‘バ’などの異なる音として広まっていったのだろう。(子音の誕生)
一方、ア的音を、口全体の形を変えて、重々しく響かせたり、鋭く響かせたりすることを覚えて、‘オ’的な音、‘イ’的な音へと広がっていったのだろう。(母音の誕生)
なお、言語の発生をクーイングからだと考えると、最初の言葉は‘クー’かもしれない。また、威嚇音説もあり、これだと‘K’音的なものだったのかもしれない。(例えば、‘カッ’、‘キャッ’、‘ガッ’)
あるいは、また、これらが同時多発的にいろいろな集団の中で起こり、ない交ぜになりながら長い年月をかけて言語として成長していったのかもしれない。
                  平成23年1月11日

   ここ、そこ、どこ から出来た言葉  

言語学の入門書を読んでいて面白い説に遭遇した。
「‘ここ’の‘こ’から動詞‘来い’が出来、‘そこ’の‘そ’から‘しろ’の‘し’が出来た」というものである。
今でも、‘ここ、ここ’と言えば‘ここへ来い’という意味にもなる。
‘そ’が‘し’になるのは少し遠い。‘来い’と同じ言い方なら‘そい’になりそうである。ただ、‘i’は自分の意思であることを表わしやすい。自分の意思であることを強調するために‘SoI’が‘Si’になったのかもしれない。‘来い’(KoI)も‘来なさい’(Ki)という言い方もある。
‘i’は真っ直ぐで自らの意思であることを表現しやすいので、‘行く’、‘イヤ’、‘いい’などの言い方が生まれてきたのだろう。
      (平成22年6月2日)
‘ここ’、‘そこ’という言い方の仲間に‘とこ’(どこ)という言い方がある。この‘と’に‘i’がつくと‘とい’になる。これが‘問い’の語源かもしれない。‘何処’(DoKo←ToKo←To)とは問い(ToI)である。
この‘問い’から、‘問う’という動詞も出来てきたのだろう。
前にも説明したように、‘ここ、そこ、とこ’は口腔内体感(距離感)から出来た言葉である。したがって、これらの言葉から派生した‘来る、しろ(→する)、問う、行く、イヤ、いい’などの言葉も口腔内体感、すなわち、語感から出来た言葉ということができる。
      (平成22年6月3日)

   日本語の作り方  

   日本語らしい日本語を作ってみよう。  

全く新しい日本語を作るのではない、今の日本語を作り直してみるのである。そうすることによって、今の日本語がどのようにして今の姿になったか。日本語の基本構造がわかるからである。

日本語の作られ方を考えるために、日本語を作ってみよう。
日本語らしい日本語を作ってみよう。
新しい日本語を作るのではなく、いま我々が使っている日本語を作り直してみよう。
古い時計をバラバラにして組み立て直すように。あるいは、地金から歯車を作って古い時計を復元するように。

   日本語 の クセ  

日本語らしい日本語を作るためには、日本語がどのように作られているか、そのクセを知らなければならない。
今ある言語には、それぞれに独自の法則性がある。文法もその一部である。ごく一部である。文法では取り上げないもっと本質的なそれぞれ独自の法則性がある。クセの様なものである。

   語呂合わせ と 連想  

日本語のクセとはどのようなものか。
表面的な日本語の特徴は、「語呂合わせ」と「駄洒落」である。
「駄洒落」は日本文化の特徴でもある。今風に言えば「連想ゲーム」である。

   拍 と 語感  

この「語呂合わせ」と「連想ゲーム」を支えているのが「拍」と「語感」である。
この「拍」と「語感」が日本語の本質的特徴、すなわち、最重要のクセなのである。
(文法では一切このようなことには触れない。)

「語呂が合う」とはどういうことか。
語呂を合わせるとは、二つの言葉のリズムと音を合わせることである。
全く同じでは意味がない。同じリズムで音の一部を少し変えるとか、同じ音でリズムを少し変えるのである。
リズムを取るには音が独立していなくてはならない。日本語の一大特徴は、一語一語区切って発音しても意味が通じることである。(当たり前のことのようだが、英語では意味が通じない。そもそも区切って発音できない。)

これが「拍」である。

   拍 とは 何か  

拍は5種の母音と23種の子音の組合せで出来ている。
子音+母音 で一拍を作るが、子音のない単母音も一拍である。
この他に特殊な拍として、撥音「ン」と語中の撥音「m n ng」がある。撥音はリズムを変える効果があるが、他にリズムを変える効果を持つものに母音を伸ばす長音と小さな「ッ」で表わす促音がある。

「拍」は、この母音 5×(子音23+1)のマトリックスとなっており、極めて合理的なシステムである。
50音表といわれるものである。
この50音表では子音を 9つ と数えているが、発声的には濁音、拗音は異なるので別に数え 23 とした。
(結果、拍としては、101+撥音、促音、長音である。)
ここで重要なことは、「拍」が独立していることである。
通常、音が連なって一つの言葉を作っているが、日本語では一拍でも一つの言葉になりうる。
特に日本語の特異性は単母音でも一つの言葉になりうることである。

  吾、井、兎、枝、尾

勿論、子音+母音の一拍でも一つの言葉になりうる。

  蚊、木、手、乳
 
はじめ 37種 以上ある。

この単拍でも言葉たりうることを支えているのが「語感」である。

   「語感」 とは 何か。  

結論から先にいうと、音一つ一つが持っているイメージのカタマリである。
音素、すなわち、母音、子音一つ一つが固有のイメージのカタマリを持っており、一つの「拍」はそれぞれ異なるクオリアを持っているのである。
従来、「語感」とは、
「言葉の音の響きの聞こえ」
と定義されてきた。しかし、なぜそのように聞こえるのかは問われてこなかった。

我々は、この聞こえの根拠を 個々人の発声体感にある と見定めた。

すなわち、一つの音を発声するとき自分自身そのようなイメージを感じるので、その音を聞いたときも同じイメージを感じるのであると。

   発声体感  

このことは、2400年余り前のギリシャの哲学者ソクラテスがそれらしきことを言っている。
「プラトン全集2 クラテュロス」の中で、名前の正しさについて、ものの名前とはそのものを声でまねたものだといい、r は「発音に際し舌が静止すること最も少なく、震動することの最も多い」ので「あらゆる動き」を表わすとか、t,d は「舌を圧縮し歯の裏側へ押しつける作用をもっている」ので「束縛と静止」を表わすのに使われると言っている。
まさに発声体感、発声時の口腔内体感である。その他、i,o など13種の音韻について説明している。
我国でも江戸時代の国学者、鈴木朖(雅語音声考―言語の写生起源説)をはじめ賀茂真淵、本居宣長などが音と意味との関係を論じており、現代でも幸田露伴が「音幻論」で発声と意味との関係を論じている。
それでは、なぜ、ソクラテスをはじめ先達が発声体感にまで迫りながら、これらの考え方が世に受け入れられなかったのか。
それは、彼らが音と意味とを結び付けていると思われてしまったからである。(理解する方の問題かもしれない。理解し切れなかったということであろう。)

実は、一つの音の発声体感からいろいろなイメージは生じるが、直接意味は生じないのである。
例えば、/Ka/ という発音では、固い、乾いた イメージが強いが、/Ka/ という音が固い、あるいは、乾いたという意味を持っているわけではない。
日本語では、この Ka の固さ、乾燥のイメージから、カチカチ、カラカラ などのオノマトペが出来てきたが、咽が カラカラ といった場合、固さは関係がない。カラカラ には、この他に回転のイメージがある。これは K に回転のイメージがあるからである。
Ka の持つイメージから、固い、乾いた、軽い などの日本語が出来た。あくまで、Ka がそのような意味を持っているのではなく、持っているのはイメージだけである。
意味とイメージでは脳の中での水準が違う。
意味となれば、絞り込まれて概念に結び付けられてしまう。約束事になってしまう。しかし、イメージは言葉以前でもっと自由で広がりがある。
「語感」は約束事ではなく、いまだ、感性の段階なのである。
それでは、なぜ K に固さ、乾燥、あるいは、回転のイメージがあるのだろうか。
K音 を発音するとき、咽の奥を閉めて、一旦そこで溜めた息を口腔内に一気に破裂させる。そのため、体感としては、まず固さ、そして、勢よく口腔を流れる息が濡れた舌の表面の水分を奪い、乾いた、そして、冷たい イメージが生じるのである。また、咽の奥で息が狭いところから広い空間に放たれるため、息が口腔内で渦を巻き回転のイメージが出るのである。その点、息を舌の上を素直に通す S音 は流れのイメージが強く、K ほど乾かず、少し冷たい程度で、さわやかなイメージがするのである。

   脳の中の フィードバックシステム  

では、なぜ自らの発声体感が同じ音を聞いたときも生ずるのか。
脳内にフィードバック・システムがあるからである。
人は必ず自分の発した声を聞いているのである。聞きながら発声を微調整しているのである。
だから、何らかの方法で自分の声が聞こえないようにしてしゃべらせると、誰しもだんだん発声があやふやになってくる。フィードバックできないからである。

しゃべるということは聞いているということでもある。

   脳の中の 音韻秩序  

人間は誰しも生まれてすぐには言葉をしゃべることは出来ないし、理解することも出来ない。
日本語環境の中に生まれてくると、まず、人の声を聞き分けられるようになる。そして、お母さんのしゃべる /ア/ もお父さんのしゃべる /ア/ も同じ /ア/ として聞き分けられるようになる。お父さんの /ア/ とお母さんの /ア/ では音の高さが違うのにである。音形の違いを聞き分けられるようになるのである。この時、大脳新皮質の言語野に音韻秩序が組成される。日本語環境では日本語の音韻秩序、英語環境では英語の音韻秩序が作られる。日本語の音韻秩序には R と L の区別がなく、英語の音韻秩序には拍的な区切りがないと思われる。

これが最初の日本語のクセである。

その後、一つ一つの音を発声できるようになる。一つの音を発声するため、色々の試行錯誤を繰り返えす。咽の奥をどうする、舌をどうする、唇をどうするなどを覚えながら一つ一つの音の発声方法を獲得していく。
この時、一つ一つの音の発声手順は各筋肉への指示命令の流れとして小脳に記憶される。
また、同時に発声の際の体感も脳内に記憶される。すなわち、言語野の音韻秩序(多分日本語では拍秩序)とセットとなって、小脳に運動手順、大脳に体感(イメージのカタマリ)が記録されるのである。

この体感が「語感」である。

小脳の運動手順は、意識に上らせることはできない。体感は、当初は意識されていたかもしれないが、だんだん意識上に上らなくなる。すなわち、サブリミナル化する。しかし、意識的に意識しようとすれば、大方の日本人は意識上に上らせることが出来る。
ここで重要なことは、意識上に上らせることが出来なくなった人でも、意識下には体感(「語感」)が存在することである。これが、日本人誰しもがオノマトペの使い分けに戸惑ったりせず、又、駄洒落を面白いと思ったりする理由である。
そして、一旦脳内にこの体感セット(語感秩序)が形成されると、人の声を聞いたときも、言葉を目で見たときも言語野の拍秩序に連動して語感秩序が活性化するのである。
言葉を聞いたときも、言葉を読んだときも、その言葉を理解するには必ず脳の中で拍秩序と照合されるからである。
発声を覚える過程で、音韻秩序と体感秩序がセットで形成され、聞いたとき読んだときにこの音韻秩序で照合されるため、セットの体感秩序が活性化され、聞いたときも読んだときも発声したときと同じ体感(語感)が生ずるのである。
自転車の乗り方は一度覚えると忘れることはない。ただ、そのとき手をどうする、身体をどうするなど説明することは出来ないし、自分でどうしているのか意識することもむつかしい。これは運動手順が小脳に記憶されているためである。体感は大脳に記憶されているので意識に戻すことは出来る。ただ、通常サブリミナル化しているので努力をする必要がある。
また、この体感を言語化することはもっとむつかしい。そもそも感情を言語化することはむつかしい。

「語感」も言語化するにはある程度の訓練が必要である。

この辺りが自分には「語感」などないと思い込んでしまう人が出てくる原因かもしれない。
しかし、日本語環境で育った日本語人でオノマトペの使い方がでたらめになる人はいない。「語感」がサブリミナルに働いているからである。

   母音、 子音 の 語感  

一つの拍の語感は、子音の語感から母音の語感への流れとして感じられる。
ところで、子音と母音の語感は全く異なる。子音と母音では音そのものの種類が全く異なるからである。
母音は自然音といい、息を口腔で共鳴させて出す音で、連続させて出すことが出来る。
すなわち、/ア/ から /イ/ へ連続して変化させることも出来るし、/ウー/ と伸ばして発声することも出来る。
一方、子音は口腔内に舌、唇などで障害を作り、そこで息を破裂させたり、息で擦ったりして無理やり出す音で、子音同士を連続して発声することは出来ない。
この発声の仕方の根本的違いから、母音は気持ち、すなわち、情を表わしやすく、子音は切れがあり、個別的で概念を表わすのに適している。すなわち、母音の情に対し、子音は知を表現しやすい。

   物語性  

一つの「拍」は 子音+母音 となっており、日本語では、 〜的なものが 〜的な状態にあるというイメージの流れの物語となっている。
この物語性は、拍に拍が連なり言葉になり、この言葉に他の言葉が連なっていくという流れにも現れており、拍+拍 の二拍の言葉の場合、最初の拍が主題となり、二番目の拍が、それがどうであるかの説明、あるいは、注釈のようになるケースが多い。
オノマトペでは単純に時間的経緯にしたがっている場合もある。

例えば、オノマトペ「ポチャン」は最初の「ポ」が水のカタマリの状態を表わし、それが水面に落ちて飛び散る様子が「チャン」である。
「ポチャン」に対し「ボチャン」となると、水のカタマリが大きくなっており、「ポチョン」となれば、水の飛び散り方がまとまっている状態を表わしている。
「イヤ」「イロイロ」の「イ」は自分の強い気持ちを表わしやすく、「イロイロ」の「イ」は鋭さとあいまって個別の大切なもののイメージとなり、それが、「ロ」散らばった状態にあることを表わしている。「イヤ」の「イ」は自分の気持ちあるいは意思が、「ヤ」な状態、すなわち、揺れ動き、曖昧な状態にあることを表わしている。
「イ」の発声は、口元を引き締め発声するため、母音の中では最も強く意思的なものを感じさせ、鋭く直線的なものが前に突き抜けるイメージがある。そのため、自分の意思表示の表現に使いやすい。
「イイ」、「イヤ」をはじめ「イク」、「イキル」もそうだし、「イライラ」するもそうである。
「イライラ」と「イロイロ」の違いは「ラ」と「ロ」の違い、すなわち、母音 /a/ と /o/ の違いであるが、/a/ は口を大きく開けて伸びやかに発声するため拡散するイメージがあり、/o/ は口の中を大きくして奥の下のほうで発声するイメージがあるため、重くまとまっているイメージがあり、/R/ といっしょになって個別のものが存在感を示しているイメージとなる。
「イロイロ」と「色」とどちらが先に出来たかは議論の分かれるところではあるが、語感的には「イロイロ」が先だと思う。「色」という概念が漢字として入ってくる前から「イロイロ」という表現はあったのではなかろうか。

   膠着性  

この物語性も、語感があるからこその日本語の大きな特徴である。このクセから、日本語の言葉の膠着性と文章としての膠着性が生まれてくる。

言葉の膠着性は 組み立て方式 ということも出来る。

拍と拍を次々と繋ぎ合わせることによって新しい言葉を作ることが出来る。これらの言葉は、いわゆる意味以前にイメージの流れとして物語を持っている。この物語がこの言葉に意味以上のニュアンスを持たせているのである。

日本語では、拍と拍を繋いだ二拍で言葉のコア、すなわち、語基を形成しているものが多い。勿論、一拍の語基もある。
この二拍の語基を繰り返すことによって多くのオノマトペが作られている。この二拍の繰り返しの四拍がオノマトペの主流である。
この二拍の語基に活用変化としての語尾が付いて、動詞として活用変化したり、形容詞になったり、名詞になったりする。この語尾部分は造語のためのパーツで、やはり二拍のものが多い。
動詞用の造語パーツ、形容詞用の造語パーツとそれぞれ傾向があり、これらはいわゆる文法として整理されている。

日本語の文章としての膠着性は、助詞の発明によって完成に近づいた。助詞は一拍が中心で、文中で文章の展開を示したり、語尾にあって文章全体のニュアンスを示したりする働きがあるが、「語感」に裏付けられている。
勿論、抑揚、アクセントなどによってニュアンスが変わるが、助詞はその語感によって、文章全体の方向付けという働きを果たしている。

例えば、終助詞 「〜だ。」は断定、「〜な。」といえば納得を求めるニュアンスになる。

   「駄洒落」 とは 何か。  

「連想ゲーム」である。
言葉による連想ゲーム。一つの言葉の一部の音を少し変えながら新しい概念を作り出していくのである。勿論、この際も語感が重要な働きをしている。

例えば、/K/ には回転のイメージがあるので、「コロコロ」というオノマトペができ、そこから「転ぶ」という動詞が出来、この語尾が活用変化して「転がる」、「転がす」が出来、この結果から連想して「殺す」という更なる動詞が出来る。

  KOROKORO→KOROBU→KOROGASU→KOROSU

「殺す」には「コロ」の語感が残っていて、多くの人が亡くなったコレラのことを「コロリ」といった時代もあった。
「タンタン」あるいは「タタタ・」というオノマトペから、「叩く」という動詞が出来、この叩く主体ということで「手」を /タ/ といった。この「手」が形態的に身体に繋がっていることから母音が変化して「手(/テ/)」になった。
又、叩き合うということから「戦い」という言葉も出来た。古代人の戦いは叩き合いであったのだ。

   言葉 の 始まり  

言葉の最初は感嘆詞的なものであったと思われる。
感嘆詞は感動詞ともいわれ、心の動きが思わず声となって出てきたものである。まさに語感そのもので、擬態語の中でも、ひねりのない直接的な擬態語である。
基本的な感嘆詞は、母音一音が促音化したり長音化したものであるが、やがて拍の繰り返し、すなわち、二拍のものが出来、他の音との組合せへと派生していったのだろう。そして、これらの感嘆詞、オノマトペから色々な言葉が生まれてきた。

 オッ   から 驚く
 ウッ   から 呻く
 ウーン  から 疑う、窺う
 ウン   から うなずく そして うなじ さらに うなだれる

ウ 系が多いのは、/ウ/ が母音の中では最も口腔の奥上で発声し、少し鼻に掛かる感じがあり、内向きのイメージが強いからである。
オ 系では、必ずしも感嘆詞ではないが、口腔内を最も大きくすることから、「大きい」(ただし、広がりとして大きいものは ア )、口腔の奥の下のほうに意識がいくので、「重い」、「奥」 などの表現が出来た。
エ は五つの母音の中では最も遅く日本語に導入されたといわれているが、発声的には、 /ア/ と /イ/ の中間的な位置にある。それゆえか、/エ/ で始まる和語は少ない。ただ、感嘆詞としてはたくさんある。
これは、/エ/ を発声するとき、顎を少し引き、下へ押さえ気味に発声するため、曖昧さ、躊躇感など引き気味の感情を表現しやすいからだと思われる。
言葉の音としては新しいが、音としては古くからあったのであろう。

ちなみに、「遠慮」という言葉は漢語である。本来は、深謀遠慮という意味の言葉であるが、我々の祖先が /エンリョ/ という音に聞きなして導入したため、この /エ/ のイメージが効いて、今では「遠慮する」という日本独特の意味で使われるようになった。

このように、日本語にしたときの音のイメージによって本来の意味とは異なる意味で使われるようになった漢語由来の言葉はたくさんある。また、語感から作られた日本独自の漢語もある。

   オノマトペと漢字の語呂合わせ、どちらが先かは分からない。  

 ナッ      納得
 ホッと     吐息
 ゲッ      下品
 ギョッ     仰天
 キュウキュウ  窮屈 (ギュウギュウ)
 ヒイヒイ    悲鳴
 フツフツ    不満 (ブツブツ)
 ゴーゴー    轟音
 ゴリゴリ    強引
 バクバク    爆食
 ノーノー    能弁
 ノンビリ    呑気
 ヘーヘー    平伏 (ヘヘー)
 マジマジ    間近
 ドカドカ    土足
 ジャリジャリ  砂利
 ウッ      絶句
 ザーザー    雑音
 ドッ      怒涛
 ズバリ     図星
 レンレン    未練
 ザッと     大雑把
 パッタリ    破談

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