新しい言語学

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   「英語のこころ」を読んで  

インターナショナル新書の「英語のこころ」を読んだ。著者のマーク・ピーターセンは1946年アメリカの生まれ。日本で英語を教えて36年。明治大学の名誉教授である。もちろん、バイリンガル。英語で育ち、のち日本語を身に付けた、まさに、カズオ・イシグロ、松本道弘とは逆のケースである。片岡義男と似たケースと言っていいかもしれない。
英語でものの考え方を身に着け、日本語をマスターした筆者が「日本語のこころ」とは異なる「英語のこころ」を何と言っているか、非常に興味引かれた。
読み始めて、まず驚いたのは、筆者が言葉の音に対する非常に繊細な感覚を持っておられるらしい、ことである。日本語の「多様性」にあたる英語として「variety」と「diversity」があり、その違いについて筆者は次のように言っている。「語感とニュアンスは微妙に違う」、「varietyは軽く、日常的。選択肢の幅広さ」。それに対して「diversityは重みがありすぎて、場面にそぐわない。それぞれの相違点そのもの・・・」としている。これはまさに私のいう語感、すなわち発音体感そのものである。アメリカ人も感じ分けているのである。そしてそれを筆者は意識化しえているのである。
この二つの言葉のもつ語感を我々のソフトで分析してみた。ただ、言葉というものは、言語それぞれのいろいろな要素を包含しているので、印象に残ったと思われる‘varie’と‘diver’という音として分析した。別表として掲げたが、軽さと重さの違いだけではなく、バラけ具合にも違いがあるのである。筆者はそこまで感じ分けているのである。

Varie''''Dive''''ぷにぷに''''ぷにゅぷにゅ''''Oッto
1バラケ・散ばり''''パワー・力感''''跳ね・躍動''''振動・内動''''充 満
2乱 れ''''勢 い''''小さい''''湧 出''''多 い
3跳ね・躍動''''多 い''''カワイイ''''粘 り''''重 い
4軽 い''''充 満''''纏まり''''カワイイ''''纏まり
5パワー・力感''''重量感''''緊張感''''跳ね・躍動''''遅い・ゆっくり
6明るい重 い純粋・シンプル動 き受け・止まり
7楽しい濁 り振動・内動遅い・ゆっくり湿った
8賑やか跳ね・躍動速 い湿った大きい
9殻・中空存在感パワー・力感内的・内面存在感
10振動・内動激しい輝 き迫 り濃い・密度
1明るい''''重 い''''小さい''''ゆっくり''''重 い
2軽 い''''濃 い''''鋭 い''''粘 り''''濃 い
3希 薄''''豊 か''''粘 り''''小さい''''豊 か
4粗 い''''湿った''''明るい''''速 い''''ゆっくり
5''''小さい''''速 い''''柔らか''''鈍 い

ただ、日本語についてはややむつかしいらしく、「おっとり」は音だけでは意味を想像できなかったと言う。また、今流行りの「ぷにぷに」と「ぷにゅぷにゅ」の違いについて、こんなことも言っている。「「〈ぷにぷに〉に比べると、〈ぷにゅぷにゅ〉のほうが柔らかいとか弾力が強いとか、そういう違いかな」と私。それに対し知り合いの女性「いや、そうではなく、〈ぷにぷに〉は、たとえば、赤ちゃんの肌とかグミキャンディーとか人間にも物にも使うけれど、〈ぷにゅぷにゅ〉は食べちゃいたいくらいかわいいといった感じで、私は物にしか使わないわね」」と。
〈ぷにぷに〉の‘ni’には纏まり感があるが、〈ぷにゅぷにゅ〉の‘nyu’には何かが中から出てくるようなイメージがあって、人には使いにくいのである。しかし、筆者の感覚は間違ってはいない。
かつて日本でも流行ったノベルティ・ソング「Itsy Bitsy Teenie Weenie Yellow Polkadot Bikini」に絡んで、こんなことも言っている。「また、itsyとbitsyのいずれも‘-y’(発音は「イ」という母音)で終わるので、英語の感覚では、優しく馴染みやすいような語感もあるAnn(アン)→Annie(アニー)やFred(フレッド)→Freddy(フレディー)のような愛称の作り方にも同じ感覚が見て取れる」と。日本語では、母音/イ/に優しさ馴染みやすさは感じられないが、子音に比べ母音は優しく馴染みやすい。そして、/イ/には小ささ、そしてそれに伴なうかわいらしさがある。Ann, Annie, Fred, Freddy の分析もしてみた(別表)。‘-y’を付けることによって、それぞれマイルドになって、親しさが増したり、軽やかさ明るさが増すようである。やはり、欧米人も語感を結構感じ取っているのである。結果として、語感がらみの次のような説明も面白い。

AnnAnnieFredFreddy
1明るい''''明るい''''ボリューム感''''軽 快
2あっさり''''あっさり''''豊 富''''明るい
3広がり''''ヤンチャ''''まったり''''軽やか
4賑やか''''親しみ''''とろけ''''気 軽
5オープン''''まろやか''''迫 り''''スリム
1明るい''''明るい''''明るい''''明るい
2親密感''''親密感''''受け・止まり''''軽 い
3賑やか''''マイルド''''重量感''''動 き
4激しい''''少ない''''広がり''''広がり
5勢 い''''跳ね・躍動''''迫 り''''カワイイ

人の死に際して、医者は決して、「She died.」とか「She is dead.」とは言わない。婉曲に「She has gone.」というような言い方をする。そして一般的には、「My grandmother passed away last year.」とか「My grandmother passed on last year.」と言うが、この二つではフィーリングが微妙に違うと。これは、awayとonの違いであるが、「awayは、その場とは繋がっていない離れたところへ」、「onは、前方に、先へ、次へ進んでという意味を表すことが多い。来世へ進んで行きました、・・」となり、さらにpass overとなると気持の悪い組合せだと。「overは、「〜の上を(通って)、〜の向こう側へ」の意味。「この世とあの世を結ぶ橋を渡った」イメージ。対面通行ができるようなイメージ。降霊会を連想させ、私にとっては不気味」と言っている。このawayとonとoverの違いも語感から説明できる。Awayはa+wayで、/a/は口を大きく開けて息を外へ吐き出すので、少し離れたところのイメージがある。日本語の‘アレ’、‘ソレ’、‘コレ’でも、‘アレ’が一番遠くである。Onの/n/には粘り気のイメージがあって続いていくイメージが強い。Overの/v/は半唇音で、/f/と同様の浮き上がるイメージがある。Onは接触したままであるが、overは離れるのである。わが国の仏教では、この世とあの世を結ぶ橋があるのは、三途の川で、ご先祖さまをはじめ亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんが、お盆にはあの世から帰ってくるとされているので、ことさら不気味とは思わない。むしろ懐かしささえ覚える。やはり、宗教の違いからだろう。ちなみに、筆者はE・E・カミングスの死についての詩に対して、「〜の次の行に、Mister Deathという「死」の擬人化が来る。私にとって意外で気味の悪い表現だったが、それでも、まだ若い自分のところにもいずれはMister Deathが訪ねてくるという現実感はまったくなかった。もちろん、古希を過ぎた今なら、それは現実感をもってひしひしとせまってきている」と言っているが、この擬態語‘ひしひし’の使い方は見事である。
その他、語感に関しては、「Mother Earthを「母なる地球」と和訳するよりも「母なる大地」にしたほうが、日本語の響きがいいことは理解できる」と日本語の語感もよく分かっている。ただ、‘finger-licking’を「油っこい語感をもつ英語」、「相当汚らしい語感」と言っているが、これは意味から来たもので本来の語感ではない。小津監督の映画によく出てくる「いい塩梅」との表現を取り上げ、「こうした表現と同じ語感を覚える英語はない・・・。Luckilyやfortunatelyやthankfullyというような言い方にするしかない」とした上で、「せっかく深い味のある表現が消えつつあって惜しい」とまでおっしゃってくださっている。ただ、「いい塩梅」は私も使わない。やはりジジ臭い。「おかげさまで、」というような言い方をしている。「難訳・和英「語感」辞典」で松本道弘は、「いい塩梅」を「the right balance」としている。「いい塩梅」は、もともとは‘天の配剤’的な意味で、塩加減をしたのは天で、松本はこの加減をbalanceと訳し、筆者ピーターセンは天のお陰と訳したということなのだろう。
筆者が日米のものの考え方の違いにふれていると思われるのは、まず、「老人力」に関して、「日本では、老人に必然的に起きる老化現象を肯定的に捉えようとする」、「もちろん、英語には、このような「老人力」にちょうど当てはまる名詞はない」とした上で、「老い」は「婉曲的でも受け入れがたい」とし、さらに「英語圏ではageismを気にする人たちは、こうした蔑称ばかりではなく、senior citizenやgolden-agerなどの婉曲的な表現も非難する。その理由は、年配であることは基本的に恥ずかしい気分を起こさせるので、率直に言うと悪いことであるという暗黙の前提があるからだ」とまで言っている。これは大変な違いである。その結果「日本では身内でもない老人のことを「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ぶことがあるが、これは英語ではなかなか真似できない。人生経験豊富な大人を「子供扱い」する呼び方はやめるべきと非難するかもしれない」とも言っているが、ここにも日米に大きな違いが隠れている。子供に対する蔑視である。このことは筆者も気付いていないようで、根は深いと思う。ちなみに、‘ちゃん’付けは必ずしも子供扱いではない。親しさを表すもので、英語の‘-y’とか‘dear’に当たるのではないかと思う。もっとも、見知らぬ老人にまで愛称を付けて呼ぶのはおかしいと、欧米人は言うかもしれない。そこが日本人との本質的な違いである。人々との繋がり感の違いである。
老人への蔑視と子供への蔑視には、その根底に共通のものがあると思う。そもそも不自然である。人間だれしも幼い頃はあった。そして、いずれは歳を取る。その両方を否定するのは、人間の傲慢であり、自然への反逆である。結局、自らの否定にも連なる。欧米の人々は不幸ではないのか。なぜ、そのようなことになってしまっているのか。‘知’を唯一のものと考える知至上主義の弊害である。自然と敵対し、情を劣ったもの克服すべきものと考え、知を唯一絶対のものとするドグマに陥っているのではないのか。
「難訳・和英「語感」辞典」の松本道弘はアメリカの文化をfighting cultureだと言っている。そうなのかもしれない。開拓民魂である。開拓は自然へのチャレンジである。自然への敵対である。自然は征服すべき敵なのである。そして、凶悪な敵と戦うには力がすべてである。力の衰えは恥なのである。しかして、老化は悪なのである。まして、戦力にならない子供は人間未満なのである。人間扱いはしないのである。この辺りは日本ではまったく異なる。日本人は基本的にお年寄りたちを大切にし、子供たちを大切にする。ご先祖様との血の繋がりを大切に思っているだけではなく、周りの人々とも繋がっていると感じている。自然とも繋がっていると感じている。欧米と違って、人間の内なる自然、すなわち‘情’も大切にし、‘知’のみに走ることを諌めすらする。日本社会では、特に、子供を大切にする。かわいがるだけではなく、子供の子供としての人格を認めている。‘子供っぽい’は否定的表現だが、‘子供らしい’は肯定的言い方である。「子供心を蘇らせ」とか「子供の頃に帰り」などの表現にも、子供を肯定的に捉えていることが現れている。「子供を授かる」、「子宝」、そして、「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せぬに、勝れる宝、子に及かめやも」とは万葉時代からの‘こころ’である。ちなみに、授かるとは、神様からである。神様とは特定の神ではなく、天、すなわち自然からである。お伽噺にも子供が主人公であり、ヒーローであるものが多い。‘桃太郎’、‘金太郎’、‘一寸法師’。現代でも、‘鉄腕アトム’、‘名探偵コナン’、‘少年ジョバンニ’、そして‘ドラえもん’、‘ピカチュー’も実質的には子供だろう。欧米ではここまで多くはないだろう。子供をそれなりに認めているのである。老人についても、老人をそれなりに認めている。儒教の影響もあるが、むしろベキ論ではなく、「おじいちゃん」、「おばあちゃん」と親しみをもって身近に感じている。老人との距離も近いのである。
 老人、子供との距離感の違いは、欧米が子音とすると、日本は母音である。子音はデジタル、母音はアナログである。デジタルは一つ一つ区切られているが、アナログは繋がっている。この老人、子供との距離感の違いは、その社会の伝統・文化ではあるが、言語の違いによって、次代へと受け継がれていくのかもしれない。
 ‘英語のこころ’はデジタルで、‘日本語のこころ’はアナログということなのだろうか。筆者マーク・ピーターセンはここまでは言ってはいないが。
    (平成30年5月7日)

   「難訳・和英「語感」辞典」を読んで  

表題の「語感」という言葉につられて、買ってみた。副題が「この微妙な語感の日本語をどう英語にするか」で、「語感」のところに「ニュアンス」と意味が振ってあった。やはり、「語感」を一般的なもの・ニュアンスとしてしか捉えてはいなかった。しかし、まえがきに「本辞典は「日本」と「日本の心」を表現する「語感」がメインテーマである。」とある通り、日本語がもつ独自のニュアンスを英語ではどのように表現するかの画期的なチャレンジである。結果、非常に面白かった。辞典であるから、本来は引くものであるが、この本はランダムに一項目ごとに読んでも、意訳、超訳のうちに著者の英語に対する並々ならぬ思いが感じられて、非常に勉強になった。取り敢えず、「コヒー・ブレイク」欄と「居酒屋トーク」、そして気になる項目を拾い読みしてみたのだが、この「コヒー・ブレイク」、「居酒屋トーク」も量的にもかなりあって、とにかく面白い。筆者は中庸なジャーナリストと自称しているが、超訳、そして冗談めかしたトークの中に鋭い時局批判が見え隠れしている。年齢的にも近いこともあって、私は全面的に賛成である。
そもそも、私がこの本を買ったのは、語感の研究のためである。最近は語感の研究から派生した、言語の違いと文化の違いの相互関係が非常に気になっている。いわゆる「言語が文化を規定する」とする「サピア・ウォーフの仮説」である。特に、日本語と英語の違い、そして日本人と欧米人のものの考え方の違いに関心がある。日本文化と欧米文化の違いについては、これまでもいろいろ論ぜられてきた。私としては、言語との相互関係を具体的に知るために、個々人の個としてのものの考え方の違いを探りたいと思っている。その一つのアプローチとして、バイリンガルな人に注目している。人は生まれてすぐ言葉を覚え始める。母語である。それと並行してものの考え方も身に付ける。そしてその後、他言語をマスターしても、ものの考え方は母語の考え方のままである。多少の修正はあり得ても基本的なベースは同じである。従って、バイリンガルの人は後で身に付けた言語のものの考え方との間で齟齬が生じ、違和感を持っているはずである。そこを調べたいと思った。ほぼ完璧なバイリンガルでその人の考え方を窺い知ることのできる方が二人見つかった。小説家の片岡義男とノーベル賞作家のカズオ・イシグロである。片岡義男はアメリカ人の父親に英語で育てられ、ものを考える時は英語だと公言している日本人作家である。カズオ・イシグロは5歳まで日本社会に育ち、その後イギリスに渡り英国人の中で英語で教育を受けた英国人である。対照的なお二人であるが、それぞれが感じた違和感を語っている。この本の筆者松本道弘もほぼ完璧なバイリンガルだと思う。もちろん日本語を母語とした英語の達人である。したがって、彼の感じている違和感を探り出すことによって、日本語のものの考え方と英語のものの考え方の違いが焙り出せるのではないかと思った。そんな期待でこの本を読ませていただいた。
最初は、冒頭にも書いた通り、私のテーマの語感という言葉につられてこの本を買ったが、語感がニュアンスという意味に過ぎず期待が裏切られたかに思えたが、読み進むうちに、言霊、音霊という表現が出てきて、そうでもないことが分かった。結論的に言うと筆者の言う音霊は私の言う言音感で、言霊は語音感のことであって、合わせて私の言う語感である。筆者松本道弘は語感が分かっているというか、語感を感じているのである。遊び心いっぱいの筆者はおもしろい例を挙げている。
筆者はまずこう問いかける、「「は」の言霊は何だろう」と。そしてこう答える、「端、葉、火のように羽が生えたように広がる。池の氷が張るのも、この広がるハ音のエネルギーだ。これは英語のF語に近づくことになる。」。そして、「火(hi)も陽(hi)もヒだ。熱はheat。しかし、火は英語ではfireとなり、下唇を噛まないと音が出ない。ただそれだけの違いだ。どちらも軽い(flighty)現象に変わりはない」。HとFの違いは下唇を噛むか噛まないかだとも言っている。さらに、日本語の文章とその英訳を並べる。
 「秦さんの畑で秦さんの旗がハタハタとハタメイテいた。」
 「The Hata’s flag was flattering on Hata’s farm.」
日本語文では、畑、旗、ハタハタ、ハタメク、がすべてH音で始るが、それに対応する英語文では、flag、flatter、farm、と、それがすべて見事にFになっている。面白い例を見つけたものである。ただ、この様になるには訳がある。日本語では、もともと、H音とF音は近いのである。
日本語には、奈良飛鳥時代以前にはP音であったものが、奈良平安時代にかけてF音に、そしてH音に変わってきたという歴史があるのである。昔、ピカリと言っていたものがヒカリ(光)になった。したがって、ピカリは当然、ヒカリもオノマトペなのである。そして、旗もオノマトペ由来の言葉である。すなわち、風にパタパタとパタめいているものがパタで、そのパタを目印に立ててある所がパタ、あるいはパタケなのである。そして、それがハタとなりハタめくとなり、ハタケとなったのである。今でもはためくのはパタパタとである。ちなみに、火も陽も発音はPiであった。ただ、Piのiには二種類あって、火と陽では異なるiであったようである。
ここで筆者が言霊と言っているのは、広がるとか、軽いというイメージのことのようであるが、筆者はこれらを言葉の持つ意味あるいはニュアンスから見て取ったようであるが、これらはまさに発音体感、すなわち私の言う語感である。
H音は息音といって、息をそのまま出すので、発音体感としては、軽く、淡泊なイメージが強い。広がるイメージは、ハ(Ha)のaの持つ拡がりのイメージと思われるが、P音にも広がるイメージが強い。P音は唇を破裂させる破裂音で、外へ早く鋭く広がるイメージがある。そこから日本語では、日(Pi)とか火(Pi)、そしてピカピカという表現が出来たと思われるが、Hiになると、この広がるイメージは極めて弱くなる。F音はこのP音とH音の中間で、F音には広がるイメージも残っており、軽さも手伝って舞上るようなイメージがある。筆者は、これらFのイメージを持つF語として、
   Fart, fluffy, fling, flee, flirt, fly, flight, flame, flow, そして、成句として、
   Fleeting life, fragile life, floating life, flip-flop, などを挙げている。そして、しゃれて、「流行(fad)も、知名度(fame)もflame up(燃え上がる)して、すぐにfade outして、fare wellになってしまうのだ」と言っている。
他にD、S、G、R、についても述べているが、「ウ」について縄文人の音霊という言い方をいているので、ウについては、本来の語感を感じておられるようだ。Oomph(ウンフ)を音霊のエネルギーと言い、ooze(にじみ出る)を挙げ、日本語としては、ウップン、ウミ(膿、海、産)を挙げているが、これらはまさに、内から外への動きのイメージであり、ウの発音体感そのものである。
G音については、特にGの語感(feel)といって、grounded(がっちりと地に足がついている状況)を挙げているので語感として感じているようである。そして、G語は深さと強さをシンボライズするとも言っている。GはKの濁音で、固さに加え覆いかぶさってくるような迫力、激しさがある。日本語の「がっちり」もGで始まる。強い怪獣の名にG音が使われるのもその故である。G語としては、globe, grief, を挙げている。筆者が他の所で紹介している表現「Goddam it!(コンチクショウ!)」にはGと、そしてDがよく効いている。
D語は悪魔(devil)の好む言葉だとして、dark(暗い)イメージがあるとしている。そして例として、
   Die, death, deny, destroy, depress, down, disgrace, そして、doubt(why)から筆者のこよなく愛するdebateが生まれたとして拗ねて見せている。「debateというdoubtから始まるD-wordが日本で根を下ろさないのは、devilish-sounding悪魔的に響く、穢れた語(dirty word)であるからだろうか」。もちろん冗談である。DはTの濁音である。止まり溜ったものに濁りが加わり、重さと暗さに動かなさが感じられ存在感がある。
S語にはいかがわしさが感じられるとして、
   Scheme, swindle(ペテン), scam(詐欺), sting(囮), spin(操作、印象操作), shill(サクラ), そしてsexyとして
   Shade, shame, shadow, sadness, sexiness(幽玄), を挙げている。
Sはsnakeのように、くねくね(slithering)していて、不気味であり高貴(saint)でもある。妖しげで近寄りがたいムード、とも言っているが、ここで面白いのは、snakeという音と‘くねくね’という音である。Snakeを日本風に発音するとsu・ne・i・kuになるku・ne・ku・neのkuとneが入っている。日本語の‘くねくね’は擬態語。Kuには曲折のイメージがあり、neには粘りのイメージがある。Ku・ne・ku・neで曲がって粘る繰り返しの様子(態)を擬しているのである。とすると、英語のsnakeも語感から出来た言葉なのだろうか。たぶんそうだろう。S音は舌の上に息を滑らせて発音する。日本語ではさわやかな流れのイメージである。舌から蒸発熱も奪うので少し冷たい感じがする。そして掴みどころのない感じもあるので、これがいかがわしさ、高貴などに繋がるのだろうか。筆者はS語の追加として、Slick(調子のいい), 薄っぺら(shallow)、ツルツル(slippery)、スベスベ(smooth)、サラサラ(superficial)、スイスイ(swiftly)、外面(surface)を挙げているが、日本語でもS音を使っており共に語感からの言葉だろう。ちなみにツルツルは日本語ではT音を使っているが、これは表面の固さを感じ取っているからである。
R語については、「rollがグルグル回り続けるとシンボライズしている」としているが、古代ギリシャの哲学者ソクラテスも舌を最もよく動かすがゆえに動きを意味すると言っている。筆者は先頭音のみについて言っているのだが、少なくとも英語についても音と意味とに繋がりのある言葉が多くあるとの認識があるようだ。
実は、英単語に於ける音と意味との相関性については、すばらしい先行研究がある。西原忠毅の「音声と意味(SOUND AND SENSE)」である。西原忠毅は英語学と音声学がご専門の九州大学の元教授である。この本の副題に「現代英語における語音感の研究」とある通り、英単語の音と意味とに繋がりのあることを非常に多くの例を挙げて論じている。筆者松本が例に挙げた「roll」についても「例えば、rollのような隙間のない擬態語を・・」などと言っている。さらに、O. Jespersenが「the word ‘dark’ feels dark」と言っていることも紹介されている。筆者松本と同じ感覚である。また、松本流駄洒落にも紛う次のような発言もある、「鼻音(nasals)の/m, n, /は何れも音響に関係が深く、中でも/m/は口(mouth)に関連があり、/n/は鼻(nose)に関係し、・・」と。正にこれも正しい。
ただ、西原先生のなぜこのようないわゆる音象徴現象が起こるのかの説明は私の考えと大きく異なる。これらについては別途私のサイト「語感言語学」の中で「発見!!語感の分かる科学者」として論じさせていただいた。
筆者松本は、ご自身は気付かず、私の言う語感がらみの例を挙げている。「「この人は、誰?」は、Who is this? とthisで縮めるより、thatで突き離してしまおう」、そして「thatは「あれ」、thisは「これ」」とも言っている。Thisとthatの発音上の違いは、/i/と/a/の違いである。/i/は縮める、/a/は突き離す、これはまさに語感、すなわち発音体感である。/i/の発音は口元を狭めて強く発音するので、一本に集中するイメージがある。/a/の発音は口を大きく開けて息を外に大きく広がるように出すので、外に広がるイメージがあるのである。筆者が言っているのはまさにこのイメージ通りだ。また、これに近い関係が日本語にもある。「thatは「あれ」、thisは「これ」」と言っているが、日本語の「あれ」と「これ」の発音上の違いは、/a/と/ko/の違いである。これらの持つ距離感の違いも発音体感からくるのである。/k/の発音は喉の奥、そして/a/は外へ、である。ちなみに、「それ」の/s/の発音は舌の上であるから、「それ」は「あれ」と「これ」の間なのだ。英語の「this:that」も日本語の「これ:それ:あれ」も発音体感の距離感の違いから出来ているのである。筆者はまさに語感を無意識裡に感じ取っているのだ。
日本語も英語も遠くが/a/であるのが面白い。ちなみに、英語の不定冠詞‘a’は元々は存在そのものを表していたのではないだろうか。日本語では‘アル’の‘ア’である。日本語の生まれ始めの頃は、全てのものが‘ア’であったのではないだろうか。自分も‘ア’、相手も‘ア’、そして、あれも‘ア’だった。英語では不定冠詞‘a’に重みが加わる濁音/z/を加えて定冠詞‘the’が出来たのではないか。日本語では濁音/g/を加えて格助詞‘が’が出来た。格助詞‘が’は同じ格助詞‘は(Wa)’に比べて区切り出すイメージが強い。なお、‘は(wa)’の/w/は/u/から/a/への変化を一音で出すもので、結果、/wa/は内のものを外にオープンにさらすイメージとなる。
筆者は、日本語は動詞が中心で、英語では前置詞、副詞が重要な役割を果たすと言っているが、日本語では助詞、助動詞が非常に多く使われ、その使い分けによっていろいろ意味合いの違いを出している。この助詞のニュアンスの違いは語感の違いに負うところが大きい。筆者は和歌にもふれ、文字の導入により耳の和歌から目の和歌になったかのような書き方になっているが、和歌(うた)はあくまで詠うものであって、音が重要な働きをしている。「日本語で一番大事なもの」(中公文庫)の中で言語学者の大野晋と文筆家の丸谷才一は万葉集から新古今集に至る数々の和歌などを取り上げ、助詞の使い方を中心にその意味するところの変遷を論じているが、その対談にも明らかなように、助詞が単拍あるいは2拍でいろいろなニュアンスの違いを出し得るのは、やはり語感、すなわち、それらの音の持つニュアンスの微妙な違いに負うところが大きい。助詞は意味は持っておらず、その働きは語感、すなわち音によって決まるのである。言語というものは、もちろん聴覚が中心ではあるが、日本語では他の言語に比してより多く視覚野も働いている。日本語は他の言語に比べ言葉の音の数が非常に少ない。この少ない音でいろいろな概念を表現しようとするので、同音多義語が非常に多い。特に漢字語に多い。「このカンジを表すカンジはどれがいいか、今日のカンジに聞いてきて」と言われても意図はすぐ通じる。頭の中で一旦漢字に変換するのである。‘感じ’、‘漢字’、‘幹事’である。言葉(音)で話していても常に視覚野は働いているのである。もちろん、本などを目読している時も聴覚野も働いている。言語は必ず脳内で自分の言葉に変換され処理されるからである。さらに言えば、日本語の場合、感覚野も常に活性化している。常に語感を感じ分けているからである。日本語はすぐれて多重感覚言語なのである。
筆者は「Caw, caw. 日本人は、カーカーと子音で書いている。しかし、よく聞いてごらん。アーアーアーと母音でないているんだよ」とあるが、「カ」は/ka/で子音+母音である。母音があるから響くのだ。日本語の音には基本的に母音が付く。日本語は母音が中心の言語なのである。だから、筆者の「日本人は、自然の音をすべて人間の思考に転換できると思っているが、それはゴーマンだね」は誤解である。自然の音は基本的に母音的なのである。日本人は、欧米人と違って、自然を仲間、身近なものと感じている。だから、鳥の声、虫の声、さらに風の音まで言葉として聞こうとするのである。筆者も「日本人の脳」の角田忠信先生を取り上げ「欧米人の耳には虫の音はmusicではなく、noiseに響くと言われている・・・」と言っているが、正確には、「虫の音を日本人は言葉として言語脳で聞くが、欧米人は雑音として音楽脳で処理する」がより正しい。単母音の脳内での処理の仕方が日本人と非日本語人とでは違うのである。では、それはなぜなのか。多分、日本語が自然音である母音を中心とする言語だからである。ちなみに、子音は障害音で、それだけでは延ばして発声できない。

筆者松本が英語、あるいは英語的ものの考え方に違和感を持ったと言っているところが何所か見つかった。まず、「(アメリカ人が)mind(心)をいっぱいにするという発想がわからない」と言っている。その前に、「神道はネアカ宗教だ。神道の教えは、素直(doubt-free)なno-mindの勧めである。アメリカ人は、この心境をmindfulと曲解する。正しくはmindから解放されたmind-lessが「無」の境地なのだ」。さらに、「武道の無心(emptying one’s mind)はアメリカ人好みのmindfulnessと訳してはいけない・・」と言い、しかしながら、mindfulは注意深さなので、mindlessnessは思慮のない、見境のない心境と誤解されかねない、とも言っている。Mind(心)について、アメリカ人と日本人は真逆な考え方をしているのである。それがなぜなのか、筆者松本は分からないと言っている。しかし、筆者は別のところで、「日本人(土着民)は素直(undoubting mind)だった。そこにやって来た渡来人に必要な価値観はdoubtしかなかった」と言っている。土着民とは縄文人である。アメリカ人はすべて渡来人であると考えれば一応納得もいく。私は、その様なことを含めて、結果として、一神教と神道の違いだと思う。根本的には、欧米人と日本人の自然に対する考え方の相違である。一神教では、人も自然も神が作ったと考える。神が上で人と自然が横並びである。日本人は人も神も生ったと考える。人と神が横並びである。そして、自然は全てを包み込むものと考えている。ここから、欧米人は、自然を対決するべきものと考える。日本人は、自然を身内か仲間のように感じて、一体化しようとすら考える。自然に対する感性が真逆なのである。Mindについて考えると、アメリカ人は自然に対してdoubtがあるから常にfulにしておく必要があるのである。日本人は、mindをemptyにして、心の底から湧きあがる自然の声、ヒラメキに耳を澄ますのである。あるいは、日本人はmindの左脳的な知の側面、特に我欲、邪念をなくして、右脳的な情、幸福感が自然に湧上るのを待つのである。アメリカ人の考えるmindは左脳的知のmindである。欧米の文化は知至上主義の文化である。一神教は知が作り上げた虚構である。筆者松本も面白いことを言っている、「・・、では奴隷制と一神教はどこが違うのか」と。奴隷制は自然を無視した蛮行である。一神教も不自然である。この「不自然」という言葉も英語に訳しにくい。直訳するとよい意味になってしまうかもしれない。なお、「自然体」の訳がeffortlessになっているが、私には少し違和感がある。日本人にとってeffortすることが自然な姿であるからである。労働観について筆者は、「西洋人の苦役回避の思想は、アダムとイブの世界まで遡るという。日本人の労働観は、どうしても二宮尊徳のクリエイティブな勤労観に戻る」と言っている。西洋人の苦役意識は一神教の原罪思想からくるものであろうが、まことに不自然である。二宮尊徳の刻苦勉励も外から強要されるものではなく自らチャレンジするものであればいいが、日本人の労働観はもう少し柔らかく自然である。日本人にとって働けることがむしろ喜びである。そして、日本の職人さんたちの手を抜かぬ仕事ぶりは自己実現になっているのだと思う。
また、筆者は「無理するな」の訳が「Don’t fight it.」だとして、「アメリカはfighting cultureだ」。そして、「自然さがfightに結び付く発想についていけない」と言っている。ここでも、自然さについての感じ方が真逆だからだろう。
次に筆者が英語的発想と日本的発想の違いとして取り上げているのが二分法である。筆者は「ウチとソト」を英語で考えると、「us or them」となり、それが「us and them」になると発想が日本的過ぎると言っている。また、「日本文化は、・・・、白か黒かというORではなく、白も黒もというANDで、灰色にとどめていく・・・」。そして、「日本では左右のバランスを是とし、ダイコトミー(二分法)の思考が希薄だ」としているが、私は希薄なのではなく嫌うのだと思う。日本人は○か×か式の考え方を幼稚だとすら考える。論理は○か×かもしれないが、自然はデジタルではなくアナログである。○か×は不自然なのだ。カズオ・イシグロもインタビューの際に「友人のすべてが正邪として考えていたことを、私はイギリスのネイティブの変わった風習であるとみていたのです」と語っている。彼には、日本での5歳までに、物事を二分法では見ないものの見方が身に付いていたのである。二分法になってしまうのは、反自然な知至上主義故からではないだろうか。一神教に陥るのも同じような理由からではないだろうか。
筆者松本は、日本の「和」について、harmonyと訳すのに抵抗を感じるとして、融合(fusion)と訳す、と言っているが、私も賛成である。fusionという考え方は日本語の洗練に通づると思う。英語のrefineを日本語に訳すると洗練。日本語の洗練を英語に訳するとrefine。すなわち、洗練=refineである。しかし、本質において洗練とrefineは異なる考え方である。Refineとはfineにすること、すなわち純化することである。一方、洗練は洗浄して練り合わせることである。すなわち、融合させることであり、Fusionである。Refineとfusionでは真逆である。ここでも、欧米的考え方と日本的考え方は真逆なのである。欧米のデジタル思考、日本のアナログ思考の違いだろう。根底には知至上主義と自然絶対主義の対立がある。なお、筆者は「和」に関して、「西洋のconcordという和は足し算」、「(日本人は)なんでも受け入れ、融合してしまうから、引き算」としているが、私は、引き算ではなく掛け算だと思う。Fusionすることによって、単なる足し算以上のものが創発するからである。これは日本文化の一大特徴でもあると思う。
筆者松本は、西洋文化と日本文化の違いとして、油絵と水墨画を取り上げている。「油絵のように匂いが重ねられた加算的画法」に対して日本では「水墨画的な減算画法、匂いがない」として、「日本人の心情には、どこか匂いを残したくない、という水の心がある」と言っている。Mindfulとmindlessに対応するのかもしれない。そして、日本文化独特のワビ・サビにも繋がるのだろう。
これらのこととも関連がありそうな発言として、こんなことも言っている。「おしなべて日本人は、定義という思考の「枠(frame)」が嫌いなのだ」、「日本人に英語を苦手とさせる犯人は、自分を消滅させる北斎メンタリティーではないか。定義ができないゼロ思考の日本人」。そして「英語を学ぶなら、perspectiveをマスターしなければダメだ」と。なるほど、私が英語が苦手なのはそのせいなのか、と少し安堵もした。
これまでも、欧米文化と日本文化の違いを論ずる時、ものの考え方、ものの見方という言い方をしてきたが、それを英語で何と言うのか悩んできた。この本を読み始めて、perspective、これだと思った。しかし、読み進めるうちに、perspective-freeなる表現に出会って、これでは違うと気が付いた。人間として、ものの考え方がない、あるいはfreeなどということはあり得ないからである。一人の人間が生きている以上、その人間は彼なりのものの考え方を持っている。ものの考え方の基本は、この世に一人生まれ出ての、この世、すなわち自然を含めた周りの環境すべてとの自分の関わり方である。これは、5歳までに決まるのではないかと思われる。このものの考え方の根本は、欧米では、自然はfightして征服するもの、自分は自立した個であること。そして全能の神がいることであろう。これに対し日本では、自分は自然の一部であって自然によって生かされていること、自分は親兄弟はもちろんすべての人と繋がっていることである。当然ご先祖さまとも。このものの考え方は一生変わらない。Perspectiveが変え得るとすれば、この変わらないベースの上に変え得る部分として、あるのだろう。日本人のmindlessのmindはこの変え得る部分だろう。アメリカ人のmindfulのmindはさらにその一部かもしれない。日本人はmindをlessしても、気配りなどはもっとベースの部分のことなので差しさわりはないのである。また、自然と対決しているわけではないので、常に構えている必要もない。むしろ、自然に委ねるのが自然なのである。
日本独特の文化としてワビ・サビにも触れている。筆者は、ワビは道、すなわち精神的な過程で、内面的で主観的、哲学的、空間的で、sad and lonely、そしてネガティブな価値観としている。一方、サビは芸術や美学のテーマで、外面的で客観的、美学的な理想論、時間的で、disciplinedあるいはaustere simplicityだとしている。私にはよく分からない。ただ、現代的な感覚、すなわち「わびしい」と「さびしい」の感覚から類推すると、ワビはものの無さの寂寥感、そしてサビは人の居なさの寂寥感の様な気がする。いずれもlessの感覚で、左脳的なmindのlessではないだろうか。そして、日本人としては、右脳的mindの完熟を待つということではないだろうか。
筆者は、欧米人を「涙を悲痛ととる民族」、日本人を「tearsを努力とみる民族」と言っているが、これは、effortlessを良しとするか、effortを当然のこととするかの労働観の違いの反映だろう。働くことを自然なこと、当然なことと考える日本文化に対し、働くことを拒否し、卑しいことと考える文化では、人々の階層化が著しくなるのではないか。誰かが働かねばならない現実に対し、それを他人に押し付けようとする文化では、人々の間で対立が起こり、働く者とそれに寄生する者との二極化が起こるのではないか。現代社会はこの方向に進んできたのではないか。そして、一方で平等を唱える。いや、むしろ建前としても唱えざるを得ないのが実態ではないだろうか。
私は、欧米文化と日本文化の違い、すなわち、欧米的ものの考え方と日本的ものの考え方の違いの本質は、知と情の何れに信を置くかの違いだと思う。人間の思考には知の部分と情の部分がある。大脳新皮質と旧脳(大脳辺縁系)という分け方もある。左脳と右脳という分け方もある。おおまかに言って、知性・理性の部分と感情・感性の部分である。欧米文化では古代ギリシャ文明あたりから知への偏重が著しくなり始めた。論理の重視、そして情的なものの排除である。それが、○×的ものの考え方、個の重視へと繋がっていったのではないか。では、なぜ、欧米文化は知偏重を選んだか。地政学的な諸民族の葛藤のなかから文化的進化の一つとして現れ、適者として選択されてきたのだろう。人間の知性はもともと自然への対応として生まれてきたが、○×的考え方によって自然への対抗へと過激化してきた。個の重視も個の自立に止まらず個の疎外へとまで進んだ。周りの人々との精神的繋がりを否定された個は、孤独に耐えきれず、父なる一神教に縋ったのではないか。一神教もまた、個の分断化を図り、それによって信徒の帰依(隷属)をより強固なものにしていったようだ。知への偏重は内なる自然である情的なものの軽視につながる。言語に於いても、知的情報を伝えやすい子音を重視し、自然音で情を伝えやすい母音を軽視する方向へ進んだ。一方、日本文化は、知と情のバランスをとり、むしろ情を重視する方向に進んだ。結果、デジタル的○×思考を幼稚として軽視し、アナログ的全体思考をより重視する方向に進んでいる。知偏重の論議に対しても、「理屈は理屈」とか「頭でっかち」と言って諌めることすらある。個の分断も免れたので、心の底に於いて、大自然、ご先祖さま、そして親兄弟、まわりの人々との繋がりが意識されており、非自然な神に帰依する必要はなかった。言語も、あくまで母音を重視し、情報だけではなく、気持を伝えることを大切にしてきた。日本語には今も語感が生きていて、日常会話に於いて、互いの気持を伝え合っている。日本人は意識してはいないが、「行こうな」、「行こうね」、「行こうよ」、「行こうか」の違いを即座に聞き分け、また使い分けている。‘な’、‘ね’、‘よ’、‘か’だけの違いであるが、これらの語感の違いによって、気持の違いを感じ分けられるのである。
実は、上記のような議論に於いて、知、情、気持、ものの考え方などの概念を英語でどの様に表現すればいいのか悩んでいる。それがこの本を買って読もうとした理由の一つでもある。特に、大脳新皮質での働きと旧脳での働きをどの様な言葉で区別すればいいのか、分からない。日本語では、‘考える’と‘気がする’だろう。そして、その中間で、双方に掛るものとして、‘思う’がある。英語ではどうなんだろう。「何となく、そう思う」の‘思う’もthinkなのだろうか。Whyのないthinkもあり得るのだろうか。
まだこの本のすべてを読み終えた訳ではない。漸次潰していきたいが、いろいろ新しい発見がありそうで楽しみである。
つい最近、新潮文庫の「神武天皇vs.卑弥呼(ヤマト建国を推理する)」(関裕二)を読んでいて面白い記述に出くわした。筆者松本のお好きな縄文人の出自の一つがスンダランドの海人だというのである。5万年から4万年前、黒潮に乗って日本列島に流れ着き、さらに最期の氷期が終わりスンダランドが水没した1万年前前後に南九州に流れ着いた。そして南九州に縄文文化(上野原遺跡)を築き上げたものの、約八千年前の喜界カルデラの大爆発により壊滅、人々は日本列島各地に散らばっていったというのである。スンダランドは約八千年かけて水没したので、その間住民は海に馴染まざるをえなかった。この人々が倭の海人の元祖なのだという。したがって、縄文人には海洋民族の血も流れているのである。しかも、これらの人々は争いを好まない人々だったという。まさに縄文人である。
    (平成18年4月24日)

   「日本語は映像的である」を読んで  

サイト閲覧者からのメールに答えて

遅くなりました。あなたのご希望で、「日本語は映像的である」を取り寄せ読みました。
なかなか面白い本でした。なにより読みやすく書かれていました。
さすがに心理学者、自閉症患者が日本語圏では‘これ’と‘それ’の使い分けに戸惑い、英語圏の自閉症患者は‘I’と‘you’(あるいは‘my’と‘your’)の使い分けにトラブルとのお話は大変興味深く今後の参考になりました。日本語と英語の本質的な違いの一端を垣間見せているように思いました。
また、助詞‘は’が枠を示し、‘が’がその中での要素を示しているとの説明も分かりやすく、その通りだと思いました(語感での説明とも矛盾しません)。

ただ、三項関係論は、少し頭がこんがらがってきました。また、コミュニケーションの始まりを母子の共視からとしているのも少し乱暴だと思いました。
発達心理学ではどの様に考えているのか知りませんが、赤ん坊のコミュニケーションの始まりは母子の授乳時から始まるという説があります。
赤ん坊はお母さんのオッパイを吸いながら時々休みます。そして、お母さんが揺すったり背中を軽くたたいたり、あやしてやるとまた吸い始めます。そしてまた、しばらくすると休む。お母さんがあやしてやると吸い始める。この繰り返しです。では、なぜ赤ん坊はしばらく吸うと休むのか。息継ぎではありません。赤ん坊の口の構造は息をしながらお乳を吸い続けられるように出来ています。休むのはお母さんの反応をみているのです。お母さんが反応しないとなかなか吸い始めないのだそうです。反応してやると安心してまた吸い始めます。これって、まさにコミュニケーションじゃないでしょうか。
赤ちゃんの目が見え始めると、母子は見つめ合います。そしてお母さんはいろいろと話しかけます。これが会話の始まりでしょう。
やがて母子は目を外に向け、指さしながら言葉を教え始めます。これが共視です。
熊谷先生は、コミュニケーションを情報の交換と捉えておられるようですが、そのベースに気持の交流があるのです。人類の言葉の始まりはクーイングだったのではないでしょうか。
この母子の共視を熊谷先生は三項関係とおっしゃっていますが、母と子を一体と考えれば二項関係ではないでしょうか。
英語圏では、母子の一体化が一応終わった頃に、‘I’と‘you’という言葉を教え込みます。これは私とあなたは別だということを教え込むことで、個の自立を促すことになります。
日本語圏では、これをやりません。逆に‘私’、‘あなた’と言うことを極力避けます。親は自分のことを‘パパ’とか‘ママ’とか言います。‘ママ’とは‘あなたのママ’という意味(気持)です。赤ん坊に対しても、‘お前’とか‘あなた’とはまず言いません。赤ちゃんの名前に‘チャン’をつけて呼び掛けます。
ですから、英語圏の共視は三項関係になりえますが、日本語圏では二項関係のままです。
日本語圏での母子の一体感はその周辺へも広がっていきます。母に次いで父、そして兄、姉、あるいは、おばあちゃん、おじいちゃん、濃度の差はあるものの広がっていきます。
これがウチ、ソトの構造です。ウチ、ソトの関係はまさに二項関係ではありませんか。

「日本語は映像的である」との言い方にもちょっと戸惑います。じゃあ、英語はどうなんだ。英語が映像的でないとするなら何的なんだと。
二人で誰かを待っている場面での、日本語の「あ、来た」に対して英語の「Here he comes.」を挙げておられますが、「あ、来た」が映像的で、「Here he comes.」は映像的でないと言うのはどうでしょうか。
私なら、この日本語は、情緒反応的で、英語は、知的説明的とでも言います。
日本語は自分が感じたままを相手と共有しようとするため、実況放送的感想文になってしまうのです。英語は事実関係を正確に伝えようとするため、論理的な説明文になるのです。
リアルという意味では映像的かもしれません。そもそも日本語は他言語に較べ脳内でより視覚処理を要する言語なのです。日本語は音の種類が少なく、そのため同音異義語が多いのです。そのため聞いた音を脳内で漢字に変換して文脈から意味の通る言葉を選び出し理解しているのです。一旦漢字に変換するのは視覚的作業です。それを常時行っているのです。加えて日本語では、言葉のニュアンス、語感まで聞き分けています。これは口腔内の触覚を中心とする体性感覚ですので、日本語は、聴覚は当然、視覚、触覚まで動員して話し、聞く多重感覚、ハイブリッドな言語なのです。
日本語では、対象を話し手と聞き手が横に並んで共視しています。英語では対象を挟んで話し手と聞き手が対峙しています。重要なのは、対象の問題ではなく話し手と聞き手が、横に並んでいるか相・対しているかなのです。英語では自立を促します。日本語では繋がりを常に確認しようとします。これは文化、ものの考え方の違いです。
英語では、相・対しているので「アイ・ラブ・ユー」ですが、日本語では横に並んでいるので、漱石が言うように「月がきれいですね」となるのでしょう。もっと親しくなれば「ねぇ」ですむかもしれません。
「いってらっしゃい」、「いってきます」も一体感の確認かもしれません。少なくとも一体感が前提です。「お陰様で」も「いただきます」もそうかもしれません。これらの言葉に英語の‘I’や‘you’に当たる日本語は一切出てきません。これらの言葉を英語に翻訳しようとすると必ず‘I’や‘you’が入ってきます。

サピア・ウォーフの仮説では、言語が文化を規制するとなっていますが、これは不十分です。文化、すなわち人々のものの考え方が言語を作り、言語が次代へと文化を伝えていくのです。生まれ育った言語によって、人のものの考え方は決まってきます。しかし、ものの考え方が変わってくれば言語も変わります。

熊谷先生は言語学者ではありませんので、直接お手紙を差し上げるのは控えました。この文は私のサイトには載せるつもりです。
ご紹介いただき、有難うございました。
 平成27年10月2日

   好き と LOVE は違う (日本語と英語の違い)  

    ‘好きやねん’ は ‘I love you.’ か
「うち、あんたが好きやねん」
これは日本語の話し言葉である。しかし、実際の会話で、ここまで言うことはまずない。状況説明の入った小説の中の会話か、芝居のセリフで、実際の会話ではせいぜい、「好きや」程度であろう。
これを英語で言うと、「I love you.」である。
しかし、‘好き’と‘love’は違う。‘好き’は形容動詞で‘love’は動詞である)。日本語‘好き’は状態を表し、英語‘love’は行為を表している。「I love you.」を日本語に直訳すると「私はあなたを愛します」である。日本語的感覚では「私はあなたを愛しています」でなければならない。これを英語に直訳すると「I am in love for you.」、あるいは「I am loving you.」だろうか(‘with you’だとあなたも私を愛していることになるから、違う)。
英語‘love’では、自身の行為であるから主体性が感じられる、と同時に、日本人には作為のいやらしさが感じられる。
日本語‘好き’では、状態を表すため「そうなっちゃった」という自然な素直さと、やや開き直った無責任さが感じられる(この感じ方は日本語人独特のものかもしれない。英語人はどう感じるのだろうか。これも、「サピア・ウォーフの仮説」故のものであろう)。
欧米では人々は、神が人を ‘作った’と信じている。
日本では、人も神も‘生った’と考えられている。日本では、人も神も一緒くた、繋がっているとも考えられている。そして、自然とも繋がっていると感じられている。
‘作る’と‘自然に生る’との違い、そして‘love(愛する)’と‘好き(好きになっちゃった)’との違いには、その根底に共通のものがあるように思われる。ここにも欧米人のものの考え方と日本人のものの考え方の本質的違いの一端が覗き見られるのではないだろうか。
   (平成26年6月3日)

   ド直訳の試み  

最近、超訳という表現を見かける。英語では何というのだろうか。意訳はnon-literal translationだから、ultra non-literal translationか、あるいは、気持ち的にはfree translationとでもいうのだろうか。
この超訳の反対は何か。意訳の反対が直訳であるからド直訳とでもいえばいいのだろう。
これを英語でいうと、直訳がliteral translationであるから、absolute literal translation、あるいは、exact word-for-word translationだろう。
日本語の原文をこのword-for-word translationで英訳してみる試みは、日本語と英語の違いの本質を見るのに非常に面白いと思う。特に、英語的ものの考え方の人に日本的ものの考え方を少しでも分かってもらうためには有効だと思う。
(1) 川端康成の「雪国」の最初の一節をド直訳してみた。
   国境 の 長いトンネル を 抜ける  と  雪国  で あった。
   Border of long tunnel go through then snow country was
ここで、少し英語的にすると、まず「抜ける」の主語は何かということになるが、この「抜ける」は体験を表しているので、主語は私である。厳密には、通り抜けるのは列車であるから、I (on the train)ということになる。語順を英語的に変え、主語などを補うと、
  I had gone through the long tunnel of the border, and then there was the snow country.
となるが、「雪国であった」も感慨を含んだ体験であるから、
  I had gone through the long tunnel of the border, and then I found there the snow country.
とでもなるのではないだろうか。
(2) 夏目漱石の「草枕」の冒頭の一節、
   山路 を 登り ながら こう  考えた
   mountain path climb as, this way thought.
「考えた」は過去形というよりも動作の完了を表す表現であるので、「think」でもいいかもしれない。ただ、日本語としては、「考えた」の現在形は「考える」である。
英語の「Do you understand?」を日本語にすると、「わかりますか?」、あるいは「分かりましたか?」である。「ました」は「ます」の過去形である。「分かりましたか」の「ました」は「分かる」という動作が完了したことを表しているのである。そして、その返事も「分かります」と「分かりました」である。しかし、英語で「Do you understand?」の返事として「Yes, I understood.」はありうるのだろうか。
実は、日本語でも「分かりますか」と「分かりましたか」は少し違う。通常、「分かりますか」は説明の途中に理解を確認するために発せられるが、「分かりましたか」は説明が完了した時に発せられる。日常会話では「分かる?」と「分かった?」となる。返事の場合も、「分かる、分かる」と「分かった、分かった」になるが、分からなかった場合は「分からない」だけである。「分からなかった」はない。「分かった」と聞かれても完了しなかったので「分からない」と答えるのである。英語では、この使い分けはしているのだろうか。
「分かった」は過去形ではあるが、作業の完了を表しているので、今もそう考えているというニュアンスが含まれている。したがって、今ではそう考えていない場合は、「今までは、こう考えた」とか「昨日は、そう考えたんだけど」というように事態を限定する言い方になる。
主語などを加え、語順を整えると、
  As I climb the mountain path, I ponder this way,
となる。「こう考えた」の「こう」は「このように」という意味で、「そう(that way)」、「どう(how)」に対応するもので、気持ちとしては「this how」としたいところであるが、この場合は意味的に、「as follows」とした方がいいかもしれない。
(3) 鴨長明「方丈記」の出だし、
   行く川   の  流れ  は 絶えず して、しかも、もとの水 に あら ず。
   Going river of flow is ceaseless, and yet passed water is not
語順を変えると、
   The flow of going river is ceaseless, and yet the passed water is not.
もう少し英語的表現にすると、
   The flow of going river is ceaseless, and yet the water is not the passed water.
 より英語的にすると、
   The flow of going river is ceaseless, and yet the water is never the same.
 同じではないというのと、元の水ではないというのには、感じ方としての本質的な違いがある。元とは、「もともと」、「もとを辿れば」、「もとに戻す」のように本来的というようなニュアンスがある。だから、「もとの水」というのは、結果としては同じではないことになるのだが、むしろ繋がりがない、繋がりが断たれているという感覚が強いのである。「not」よりも「never」の方がその感じがよく出るように思う。
この方丈記の英語訳は、南方熊楠、夏目金之助はじめ色々な方のものがあるが、この部分だけについていえば、私はSadlerのものが素直だと思う。
   Ceaselessly the river flows, and yet the water is never the same,
 上記の(1)、(2)の格助詞「を」、(1)の「で」、(3)の「に」が訳せない。英語には必要がないのである。英語では語順で動詞の対象を示すことになっているので格助詞に当たるものが必要ではないのである。ただ、その分、日本語では語順の拘束が少なく自由なのである。
日本語で日常よく使われる言葉をド直訳してみると、日本人のものの考え方がよく分かるのではないだろうか。
 「ありがとう」
 「すみません」
 「さよなら」
 「よろしく」
 「いただきます」
 「いってらっしゃい」
 「ただいま」
 「おかげさまで」
 「どうぞ」、「どうか」、「どうも」
これらのド直訳は意外にむつかしい。
ちなみに、「どうぞ」は「how do」、あるいは「Do by any way」、
 「どうか」は「By how」、あるいは「By all way」であろうか。
その他についても、色々なところで、それぞれに論じているのでご覧下さい。
   (平成25年3月10日)

   日本語と英語(草枕)  

片岡義男の「日本語と英語(その違いを楽しむ)」を読んだ。
この本の中で、片岡義男は二箇所で驚いたと書いている。日本語と英語の違いに驚いたのである。
片岡義男は、日本で生まれ、英語の父と日本語の母のもとで育った、いわば完全な日本語と英語のバイリンガルである。その彼が心底驚いたのは、日本語と英語が全く違っていたからである。そこにこそ、日本語と英語の本質的違いがあるのではないかと、私は思った。
彼の最初の驚きは、自分というものについての考え方の違いに関してのものだった。この問題は、私の言う‘I・You問題’(あるいは、‘You・I(友愛)問題’)で、別途、論じることとする。

二番目の彼の驚きは、この本のほぼ最後の部分に出てくるが、夏目漱石の「草枕」に絡んでである。
彼は「草枕」の英語訳をペンギンブックスで読んだ。そして、それはすんなり読めたという。次に、「草枕」の原典を読んだ。ところが、それが全く違うものであることに驚いたという。
私は、前々から、そうではないかと思っていた。文学などというものは、他国語などに訳し切れるものではないと思っていた。大意は伝ええても、微妙な感じ方までは無理であろうと。(だから、ノーベル文学賞などはいい加減なものと思っていた。ついでに、平和賞も・・)
片岡義男がすんなり読めたのだから、「草枕」の英語訳が下手だったわけではないだろう。
片岡義男が驚いたのは、英語の「草枕」と日本語の「草枕」では、描かれた世界が全く違っていたからだろう。
ここで、彼が驚けれるのは、彼が完全なバイリンガルであるが故である。英語も十分わかり、日本語も十分理解できる。だから、それぞれの世界に浸ることが出来たのだろう。
 それぞれの世界に入れたから、その違いに驚くことが出来たのだろう。彼は、この二つの世界のどこがどう違うかは、くわしくは書いていない。
このことから一つ言えることは、原典と翻訳ものは違うということである。われわれが日本語で読んでいるシェイクスピアもトルストイも原典とは別物なのかもしれない。粗筋を読んで感心しているのかもしれない。別物としても、それはそれなりの文学的価値はあるのかもしれないが・・・。

片岡義男は「草枕」の英訳の一部を取り上げている。それは、原典での会話の一部
「女だと思って、人をたんと馬鹿になさい」の部分である。
「Don’t treat me like a fool just because I’m a woman。」
片岡義男は「英語だとDon’t というこれ以上はどうにもならない。単純さのきわまった否定の命令になってしまう。」と書いている。
しかし、原典の「女だと思って、人をたんと馬鹿になさい」のどこにも否定の表現はない。この文章は否定の命令ではない。
片岡義男は「女だと思って、人をたんと馬鹿になさい」の‘人’の特殊な使い方を読み損なったのではないだろうか。
この‘人’は意味的には‘me’であるから、‘私’である。しかし、‘私’ではなく‘人’ になっている。‘私’と‘人’では違うのである。
会話での‘人’という表現は他人ということである。あなたと私の親しいという関係を拒否した表現なのである。英語の‘You’に当たるのかもしれない。
あなたと私は親しく話をしている。しかし、そんなことを言うならちょっと距離を置きますよ、というような表現なのである。
「女だと思って、人をたんと馬鹿になさい」には一切否定の文言は入っていない。しかし、話している相手を否定しているのである。相手との距離を置きますよと警告しているのである。日本語では、「馬鹿にしないで」と言うよりも、ある意味怖いのである。相手にしませんよという脅しが入っているのである。
やはり、日本語の会話を英語に訳し切るのは難しい。

ところで、片岡義男はこの本の最後で意外なことを言っている。
片岡義男は「胸中に成就したからには、それが胸の外で、たとえばカンバスに、絵筆の絵の具で描かれることは、あるわけがないのだ、と僕は理解した。」で、この本を終えているのである。
しかし、本当に描かなかったのだろうか。文学作品上の話だから、本当も嘘もないが、話の流れからして、那美さんの画を描かずにすむだろうか。
まず、那美さんに「先生、わたしの画をかいて下さいな」と注文された。それに対し主人公の青年画家は「どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画にならない」と答える。「少し足りない所がある。それが出ない所をかくと、惜しいですよ」とも言う。そして、この小説の最後の部分は、「那美さんは茫然として、行く列車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今まで見た事のない「憐れ」が一面に浮いている」のを見て、「「それだ!それだ!それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った」となっている。
胸中に成就したものをカンバスに描いて画としてしまいたくないというのは日本的感性ではないだろうか。具体よりも精神性に重きを置く日本的美意識ではないのか。
欧米的感覚では、具体的な作品として完成してはじめて評価されるのではないだろうか。まして、欧米社会は論理社会、契約社会である。或ことを頼まれ、それに条件を付け、その条件が満たされ、そのことをわざわざ依頼人に伝えたのだから、そのことを履行するのは当然であり、また、それが欧米の社会的ルールになっているのではないだろうか。
感性的には、片岡義男は欧米的というよりも、日本的なのではないだろうか。
ものの考え方は英語的、しかし、美的感性は日本的。やはり、バイリンガルは不思議な存在である。

「草枕」の一つのテーマは冒頭に掲げられた「智に働けば角が立つ、情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。・・・」ではないだろうか。
人のあり方として、知と情と意という側面があって、この三つのバランスをとることが難しいと言っているのではないだろうか。その具現として那美さんが居るのではないだろうか。
那美さんは知的で意志のハッキリした女性として描かれている。しかし、やさしさは感じられない。ところが、最後の場面で那美さんにも情があったのだと、一つの知情意のあり方を示そうとしたのかもしれない。
だから、夏目漱石にとっては那美さんの画が描かれようが描かれまいが、もうどちらでもいいのかもしれない。
私は、「憐れ」を画に表現するのは大変難しいことだと思う。青年画家にとっては、それが一生の課題になるのかもしれない。
    (平成24年11月22日)

   日本語と英語。その本質的違い(I・You問題)  

友人に教えられて、早速、片岡義男の「日本語と英語(その違いを楽しむ)」を買って読んだ。
その友人は、私が片岡義男の前著「言葉を生きる」を読んで一文をものしていたことを知っていたのだ。
私は「言葉を生きる」を読んで、片岡義男が日本語と英語の完全なバイリンガルであることを知り、改め「言葉を生きる」にじっくり取り組むことにした。
もともと、日本語の特殊性と日本人のものの考え方の特殊性に関係があると感じていた私は、バイリンガルに育った人がどのような考え方・感じ方をするのか、非常に興味があったのである。
「言葉を生きる」を読む限りでは、片岡義男は本人も認めている通り、日本語的というよりも英語的ものの考え方をする人のようであった。その違いがどこから出てくるのかは「言葉を生きる」では十分には分からなかった。
その後に出た「恋愛は小説か」も読んだが、ものの考え方までは分からなかった。この本はいくつかの小品を集めたもので、人の心の深淵に迫るというようなものではなく、軽くオシャレな作品集のように思えた。
ところが、「日本語と英語」を読み始めて驚いた。
まず、いきなり序文に当たるところの「驚愕に満ちた疑問」という言葉に驚ろかされた。
片岡義男が疑問に思い、驚愕したことに、私は驚きもしなかったし、疑問にも思わなかった。というよりは、なぜこんなことに彼が疑問を感じ驚いたのだろうと、それこそ疑問に思い驚いたのである。
片岡義男が疑問に思い驚愕したのは、「公の場で何人もの人を前にして話者である自分のことを「私といたしましてはですねぇ」と言った」ことに対してである。
こんな情景は日本ではよくあることである。このような表現に私たち日本人は何ら疑問には思わない。しかし、彼は驚愕し疑問に思った。
何を疑問に思ったか。彼は、「これは誰か」、すなわち、「私といたしましてはですねぇ」と言った自分とはいったい何者なのか、と書いている。
片岡義男は、やはり日本語人的ものの考え方になっていないのかもしれない。日本語人的ものの考え方が理解しづらいのかもしれない。あるいは、日本語人的ものの考え方を受け入れることに抵抗があるのかもしれない。
英語の ‘I’ と日本語の ‘私’ は異なる概念である。英語の ‘I’ は日本語にはない。そのようなものの考え方がないのである。付け加えれば、英語の ‘You’ に相当する言葉も日本語にはない。そのようなものの考え方もないのである。
日本語では、あえて ‘I’ を主張することはしない。‘You’ と相手を決め付けることもしない。
子供が父親に「お父さん」と話しかけるとき、その父親はその子にとって単なる ‘You’ ではない。話しかける子も単なる ‘I’ として話し掛けているのではない。「お父さん」という言い方には、その子とその父親の親子関係が前提になっている。「お父さん」という言い方の中に親子関係が含意されているのである。(英語でも「Dady」と呼び掛けることはあるだろう。しかし、その次に必ず ‘I’ と言い、‘You’ と言って決め付けをする。それに、この 英語の ‘Dady’ は英語の ‘I’ に置き換わることも、英語の ‘You’ に置き換わることも出来ない。)
大勢の人を前にして話す時も、選挙演説などは別にして、私たちは、あまり ‘I’ とは言わない。むしろ、‘We’ 的表現をする。あえて「私といたしましては」と表明する時は個人的主張をしようとする時である。
この「私といたしましては」にも二種類あって、自分の主張を強調したい時と、むしろ、自分の意見を個人的なものとして控えめにしたい時とがある。強調したい時の「私といたしましては」は、英語の ‘I’ に近いかもしれない。
日本語の自分は、‘場’によって変化する。また、その‘場’の中でも変化する。それ故もあってか、日本語では ‘私’ に当たる表現をあまり使わない。何人もの人を前にして喋る時の日本語人の自分は、原則的には社会的な自分なのである。そんな中、あえて個人的立場をとろうとしているのが「私といたしましては」なのである。
英語人には、この変化する自分、幅のある自分というものが理解できないのかもしれない。
自分が無いのではない。多様な自分があるのである。
‘You’ も日本語には絶対の ‘You’ はない。自分が相対しているのは自分のお母さんであり、お兄ちゃんであり、先生であって、喧嘩でもしない限り、 ‘You’ ではない。
このあたりが英語人である片岡義男には生理的に受け入れにくいのかもしれない。
集団の一員としての自分、すなわち、日本人としての自分、或るサークルの一員としての自分、友人との関係における自分、家族の一員としての自分、母と子との関係での自分、父と、あるいは兄、姉との関係における自分、それら全ての自分が、日本語人にとっては自分なのである。
英語人は、これは態度だと言うかもしれない。しかし、人それぞれ固有の態度があるのであって、態度も自分である。これらは態度として現れるが、それは心の持ち方の反映なのである。独自の心の持ち方は自分である。
片岡義男は、この多様性のある自分の一つ一つを部分的な自分と表現している。そして、英語の ‘I’ 、‘You’ はそれぞれが全体で部分的などではありえないと言っている。
 まさに、ここが英語的と日本語的の違いであるが、日本語の部分的な自分の全体が英語の ‘I’ かというと、そうではない。
彼の言う日本語の部分的な自分の大半は英語の ‘I’ ではない。特に、部分的な自分の相手は ‘You’ ではない。‘You’ と言ってしまった途端にこの関係は壊れてしまう。
あえて言えば、部分的な自分の総体を抽象化したものが英語の ‘I’ と言えるかもしれない。
英語人は、何か絶対の芯のようなものがあると考えがちである。そして、それが自分だと。
日本語の自分は外へ広がる概念である。時には、日本語でいう ‘I’ が 英語でいう ‘You’ の一部を包摂する。多くの ‘You’s を包摂すれば ‘We’ とも表現する。
日本語での ‘I’ と ‘We’ との境界も、時には、曖昧になる。日本語での ‘I’ という表現も容易に ‘We’ に置き換わる。

‘I’ 、‘You’ とキッチリ決め付ける英語に対し、日本語の ‘I’ は、時には ‘We’ に変わるし、‘I’ と ‘We’ との境目は極めて曖昧で、むしろ連続しているともいえる。そして、その ‘We’ は英語的 ‘You’ をも包摂してしまうこともある。
英語人的に言えば、日本語では ‘I’ も ‘We’ も ‘You’ もぐちゃぐちゃなのである。

最愛の妻、あるいは夫、あるいは、親が子を、子が親を、亡くした時、日本語では「心にポッカリ穴が空いたよう」と表現する。この喪失感は外側のパートナーを亡くした寂しさとは違う。もともと内のものを亡くした喪失感である。だから、心、すなわち自分の内側に穴が空いたと表現するのである。
日本語には身内という言葉がある。これは漢語ではなく純粋の日本語である。親族だけではなく、時にはグループ内の人々をも指す。身内とは身体の内の意、すなわちBODYの内側という意味である。この感覚は英語にはないのではないか。‘You’ はあくまでアウトサイド、身内とは自分のインサイドの感覚である。

ここで非常に重要なことは、この感覚が日本人では自然にまで広がっていることである。基本的に、日本人には自然との一体感がある。
一方、英語人にとっては、自然は対立するものでしかない。
‘I’ と‘You’ の対立が自然との対立にまでつながっているのである。対立は働きかけを必要とし、これが片岡義男の言う英語における動詞による表現の多用につながっているのかもしれない。
また、働きかけの発想から、何事も人為的に作る発想へとつながっているのかもしれない(逆かな)。その結果、神が人を作ったというかなり無理な(あるいは幼稚な)考え方が受け入れられたのかもしれない。

大半の英語人は、人は神が作ったと考えている。少なくともそう信じたいと思っている。英語人には、人為的に作るという発想が、すべての根底にあり、日本語人には、自然に生るという発想が根底にある。このあたりが「日本語と英語」の中で片岡義男が盛んに言っている英語の‘動詞’と日本語の‘状態’という違いを生んでいるのかもしれない。

日本的発想では、自分と自然とはある意味で一体である。自分も自然の一部であると感じることから、自然であることが最も受け入れやすく、ありのままが一番という感覚につながっていく。したがって、人も自然に生ったものであり、神も同じように生ったと考えるのである。(草のように生った。すなわち、青人草と。最初の神の名は‘ウマシアシカビヒコジ’。 )

日本人は、昨日の自分と今日の自分は違うと言われてもさして驚かない。自然の変化と同じく自分も日々変わっていくという考え方に馴染んでいる。それ故、日本人は進化論もすんなり受け入れた。

「日本語と英語」の中で片岡義男は夏目漱石の「草枕」を取り上げ、その英訳も紹介している。「草枕」の有名な出だし「山路を登りながら、こう考えた。・・」の英語訳も紹介している。この英語訳を読んで、逆に私は驚いた。
「智に働けば・・」以下の主語が ‘You’ になっているのである。登りながら考えたのは私であるから、「智に働けば・・」の主語も当然 ‘I’ だと私は思っていた。少なくとも ‘We’ だと。この場合、 ‘You’ と言われると他人ごとのように感じられる。「智に働けば・・」と自分のこととして考えながら歩いているのではないだろうか。一般論として考えているとすれば、自分を含めた ‘We’ だ。 ‘You’ と言ってしまうと自分を除外してしまう。自戒を含めた独白だとすれば ‘You’ はないだろうと。

片岡義男は「現在地」という言葉もこの英訳とともに取り上げている。近辺案内地図の「現在位置」の意味は「あなたが現在いる位置はここです」で、その英訳は「You Are Here」だと言っている。「You Are Here」は実際街中でもよく見かけるし、「You Are Here」と言われても成程と思う。しかし、「現在地」なる言葉は「あなたが現在いる位置はここです」の略だろうか。私は、「現在位置」は「現在、私のいる位置」の略ではないかと思う。
案内板が ‘You’ と言っているとするとすれば、それは対話である。日本人は、案内地図を自分のこととして自分をそこに置いて読むのではないだろうか。日本人は案内地図も‘場’と考えて、その中に入って考えるのではないだろうか。案内地図によっては、「ココ」と書いてある。「ココ」とは自分を中心とした感じ方である。

片岡義男は「人間としていたらない部分」の英訳として「human inperfections of those around you」とし、「このひと言にとって核のようになっているのは、youなのだ。」としながらも「日本語での発想のままに英語に置き換えると、このyouはusになるのではないか。」とも言っているので、やはり日本語はよく分かっているのである。ただ、彼はさらに続けて「いかなる場合でも、どんな話であっても、その相手は英語ではyouと呼ばれる人だ。」と断言している。私は、彼のこの説明の中の相手という言葉に引っ掛かりを感じる。
英語の発想の基本は対話、言い換えれば対立であって、常に相手が必要なのである。この対立の構図の原点は ‘I’ と ‘You’ との対立であろう。
案内地図にも対立があって、相手は ‘You’ 、読み手である。日本人は ‘You’ と言われると、突き放されたように思えて、他人ごとのようによそよそしく感じてしまう。
日本人は、案内地図にも、格言にも、我が事としてその中に入って感じ、考えようとするのである。(‘場’の考え方と共通)

片岡義男は、「Iやyouは英語らしさそのもの・・・」、「(必要な方の)「かた」と言われたら自分のこととして反応するのが、日本語の世界なのだろうか。英語では端的にyouだ。そしていったんyouと呼ばれたなら、それに対してその人は、誰もが即座にIとなる。youはIをかならず引き連れ、Iはかならずyouを呼ぶ。」、「とにかく日常のいたるところで、このようなかたちでyouと名ざされていくことの蓄積が、英語の世界におけるyouという人を作り出す。」とも書いている。まさに英語は ‘I’ と ‘You’ の対立の世界なのである。

ここで、片岡義男の発言の最後の部分が重要である。
「日常の・・・蓄積が・・・youという人を作り出す。」。
これは‘I’についても言えることで、このように言語が人のものの考え方に影響を与えるのである。ました、赤子は白紙の状態で生まれるから、周りの言葉と共にこのようなものの考え方が脳に焼き付けられてしまうのである。ものの考え方が違えば、集団としての文化も違ってくる。まさに、「サピア・ウォーフの仮設」のいうように、言語が文化を規定するのである。

日本人が日頃よく使う言葉「有難う」、「すみません」には、‘I’も‘You’ もない。‘I’、‘You’ の入れようがない。対応する英語は、「thank you」、「I beg your pardon」であるから、‘I’、‘You’ がある。「thank you」は「I thank you」の‘I’ が省略されたものだろう。
(英語に省略があるのもめずらしい。片岡義男はこなれたと言っているが、他の英語表現はあまりこなれていないということなのだろうか。)
 「いただきます」、「ごちそうさま」にも ‘You’ はない。省略されているのではない。もともと入れようがない。これらの挨拶の相手はいる。お料理なり飲み物なりを作ってくれた人々であり、それらを直接供してくれた人々である。だから、これらの言葉はそれらの人々に向かって発せられる。しかし、「いただきます」、「ごちそうさま」の言葉の意味には ‘You’ に当たる表現はない。
 「いただきます」の直接の意味は「この自然の恵みである食べ物を有り難く、食べさせていただきます」という、その‘場’への感謝の気持ちの表明なのである。この感謝の気持ちは、直接この食べ物を提供してくれた人々に対してではなく、むしろ、本質的には、この食べ物を自分に与えてくれた自然、あるいは、このような食べ物にありつけるように巡り合わせてくれた運命に対してのものなのである。
だから、「いただきます」と手を合わせるのである。
 「ごちそうさま」も「大変なご馳走でした、感謝します」という意味で「いただきます」と対になった、‘場’への感謝の挨拶なのである。
 それ故、「いただきます」、「ごちそうさま」には‘You’がないのである。食べ物をもたらしてくれた自然、そして運命は英語的‘You’ではないのである。自分と対立するものではないのである。
 ‘場’での発言という意味では、「ありがとう」も「すみません」も同じである。
「ありがとう」も「すみません」も意味的には目の前の相手に言っているのではない。相手と共通の‘場’において、「有り難い事が実現した」と感謝の意を、「このまま済んではしまはないような事をしてしまいました」とお詫びの気持ちを表現しているのである。

英語は対立の世界である。一方、日本語は‘場’の世界である。(‘場’とは、その場、現場、的使い方で、関係性に加え、周りの状況の推移も含まれる)
‘場’は常に動き、変わる。一つの発言によっても変わる。それに次ぐ発言によっても‘場’は変わる。
そして、その‘場’の人々は、それぞれその‘場’を前提として発言する。

仲間四五人で作業していた。そこで、誰かが、「お昼、どうする」と言った。この場合、‘お昼’は昼食のことである。‘昼’は‘noon’のことで、食事という意味はどこにもない。昼近くになったというその場の状況と‘昼’に‘お’という大切なものを表す丁寧語を付けることによって、その場の人々には‘お昼ごはん’ということで通じるのである。
「どうする」という質問も、英語的にいうと‘You’なのか‘We’なのか不明である。両方含んだ‘us’である。だから「どこか行こうか」という答えもあるし、「僕はうどん」という反応もありうる。
「どこか行こうか」であれば、‘We’と受け止めたということであり、「僕はうどん」なら、‘You’と受け止めたということである。
「どこか行こうか」を直訳すると、「Shall we go somewhere?」となり、‘lunch’という言葉も‘restaurant’という表現もいっさいない。
日本語では「どこか行こうか」で十分通じるし、それ以上ではくどくなる。‘場’を前提としているから、それ以上言うとくどくなるのである。あまり親しくない人同士であれば、もう少し丁寧に言う。しかし、その分よそよそしくなる。「お昼は、どこかへ参りましょうか」。‘I’、‘You’、‘We’は勿論、‘lunch’も‘restaurant’に当たる言葉はない。
「僕はうどん」も直訳するとおかしくなる。「僕はうどん」を丁寧に言ったとしても「私はうどんにして下さい」、「私はうどんがいいのですが」程度である。‘場’を前提としない英語に直訳するとおかしなものになってしまうのである。

‘場’を前提とせず、型の決まっている英語は絶対言語と言うことが出来る。それに対し‘場’によって変化する、‘場’を前提とする日本語は相対言語と言えるかもしれない。あるいは、‘場’を取り込んだ言語であるから、英語に対しては次元が一つ高い複雑な言語と言えるかもしれない。
‘I’と‘You’という片岡義男の言う抽象化されたものの対立を土台とする英語は一般化した言語、すなわち客観言語。そして、一般化された‘I’、‘You’を持たない日本語は主観言語という言い方をすることも出来るかもしれない。
客観言語である英語は舞台の上のセリフのようなもので、どこにでも一般化出来る。日本語は‘場’によっては変わるので、そのままでは一般化された舞台のセリフにはなりえない。変化する‘場’の説明をいちいちしなければならないからである。
だから、日本語のお芝居のセリフ、小説の中の会話部分は、日常生活の中での生きた会話とは必ずしも言えない。
 日常生活で実際にそのような物言いをすると、「あいつは、芝居がかった大仰な言い方をしやがる」とか「くどい」と言われ、挙句は「人を馬鹿にするな」ということになってしまう。
 日本語では、舞台のセリフと日常会話は別物である。
 日本語にとっては、‘場’によって変化しない会話は死んだ会話、変化する会話こそ生きた会話なのである。

英語の‘I’、‘You’に見られるように、英語の会話は舞台の上でのセリフ、相対する、対立の会話である。
日本語の日常会話は、かならずしも相対する会話ではない。「ありがとう」、「すみません」にも‘You’がないように、これらは相対する発言ではない。‘場’への発言である。言う方、言われる方、二人の共有する‘場’への、あるいは、‘場’での発言である。
‘場’は二人以上で作るもの、あるいは、自動的に出来るもの。人が集まれば、それぞれの人の間に、自動的にそれぞれの‘場’が出来る。
A,B,Cの3人が集まれば、AとBとの間に‘ABの場’、AとCとの間に‘ACの場’、BとCとの間に‘BCの場’が出来る。そして同時に、‘ABCの場’が出来る。これらの‘場’が同時に出来、それぞれが変化し続ける。
AB,AC,BCの‘場’が並列的にあるとすれば、ABCの‘場’は一つ上の層にあると表現することも出来る。
3人であれば2層であるが、4人の人が集まれば3層の‘場’が出来得る。
日本語の‘場’は、このように流動的で、多元的、複合的である。
英語が画一的であるのに対し、日本語は有機的といえるかもしれない。自然のあり方により近く、複雑系である。その意味では、英語はより人工的である。
 英語は工学的、日本語は生物学的といえるかもしれない。
議論するには工学的英語が適しているかもしれない。しかし、人間の哲学まで工学で論ずるのはいかがなものだろうか。
 哲学の思考に無機的な論理だけではなく、有機的な発想も必要なのではないだろうか。
 哲学も‘個’の哲学ではなく、‘個’を超えた哲学が必要なのではないだろうか。
       (平成24年11月28日)

   日本語学に物申す。  

日本語の勉強を始めて、気が付いたことが二つある。気付いたというよりは不審に思ったことである。
まず一つ目は、教科書に出てくる例文が、まず実際には言いそうもない言葉であることである。日本人のものの考え方を云々する場合、分析対象は生きた日常の会話でなければならない。それにも関わらず、例文は「私は・・」式の日常会話では聞かれることのないような文章ばかりである。
そして、二つ目は、語感、あるいは音象徴をまともに取り上げていないことである。
一つ目、
「私は学校へ行きます。」
こんな言葉を言うのはロボットぐらいである。人間なら、
「僕、学校、行くよ。」、
「学校、行くよ。」、
「行くよ。」だろう。
この三つは最初の例文の省略形ではない。上のようには誰も言わないのである。言わないものを分析しても空理空論である。
「僕、学校、行くよ。」は
「僕は学校へ行くよ。」ではない。
この‘僕’の使い方は人称代名詞というよりは指示代名詞に近い。自己主張のニュアンスが弱い。
最近読んだ専門書に
「Today is Saturday.」の対訳として、
「今日は土曜日だ。」、
「今日は土曜日だよ。」、
「今日は土曜日です。」をあげ、いろいろ議論をしているものがあったが、そもそも日本語では日常会話で、そのようには言わない。
「今日は土曜日。」、あるいは
「土曜日。」である。
助動詞‘だ’、‘だよ’、‘です’にはそれぞれ異なった意味合いがあって、どれを使ってもいい訳ではない。
「今日は土曜日です。」が使える場面で、「今日は土曜日だよ。」が使えない場面もある。(意味でも、フラットな‘言い切り’と親しみのある‘呼びかけ’と、ニュアンスが違う。)
助詞・助動詞をみだりに付けてはいけない。意味が変わってしまうのである。英語ではこのようなニュアンスの違いは表情、ジェスチャーで補うのだろう。
助詞・助動詞は日本語の大きな特徴で、非常に重要なものである。軽視してはいけない。

このように会話が死んだ日本語になってしまっているのは、例文として小説などの会話部分を引用するからでもある。小説などでは、場面をすべて描写し切れないから、会話に人称代名詞や助詞・助動詞を補ってあるのであって、現実にはそのようにしゃべる人はいない。
基本的には、日本語は人称代名詞が嫌いなのである。

二つ目、
ソシュールの言語学の第一原理「音と意味との恣意性」が未だ信じられているのか、言語学として音象徴の問題をまともに取り上げている学者はいない。オノマトペを研究している学者ですら、オノマトペに音象徴的なものを認めながらオノマトペは特殊なもので普通の言葉ではないと、ソシュールの枠外に出ようとはしない。
ソシュールの弟子も認めているように、ソシュールが対象としたのは個人的、瞬間的なものを除いた言葉であって、言ってみれば、生きた言葉を除いた死んだ言葉である。
死んだ言葉をいくら研究しても、人間と言葉、文化と言葉などの関係は明らかには出来ない。
分かるのは、せいぜい死んだ言葉にみられる法則性だけであろう。(文法的なもの)
オノマトペは言葉であり、言語である。
オノマトペは言葉の音(日本語では、拍)を使っているから言葉である。(‘言葉’という言葉の定義を変えるべきである。)
オノマトペ「コロコロ」と普通の言葉「転がる」の間にどれだけの距離があるというのか。
オノマトペには意味がなく、説明だけだから、言葉ではないという考え方もある。意味は説明を絞り込んだものだから、これは程度の問題に過ぎない。)
オノマトペは言葉の赤ちゃんだろう。
また、音象徴がある故にオノマトペを言葉から除外するのは本末転倒である。
言語を通して人間・文化を考える場合、このオノマトペを言語から外してはならない。
ソクラテスは、ものの名前は、声による模倣、あるいは、声による肖像画とまで言った。具体的にも、‘R’は舌をもっとも動かすから動きを表わすとまで言った。その他、‘I’,‘O’、‘T’、‘D’,‘N’,などについても、口の動かし方にまでふれて解説している。
わが国でも、江戸時代の国学者本居宣長、「雅語音声考」の鈴木朖などが音象徴について論じており、戦後にも幸田露伴が「音幻論」を著し、母音を中心に音象徴について書いている。
しかるに、これら先人の業績も音義説と一括りにされ捨て去られたままである。
オノマトペを対象とした音象徴の研究も散見されるが、そのほとんどが、なぜそうなるのかの原因を探るのではなく、結果としての現象を分析するに止まっている。
オノマトペとて音象徴のみから出来ているわけではないので、現象からのみ見ようとすると他の要素が多く入りすぎていて真実が見えなくなってしまう。

そもそも、言語学界が音象徴を避けているやに見えるのはなぜだろうか。
音象徴といえば、固いとか、温かいとか感覚の感性の問題で、知性の問題ではない。
一般的に、人間、人生半ばを過ぎると感覚も感性も鈍くなる。学界の中心をなす人々が皆、そのような人たちなのだろうか。
あるいは、感覚、感性に関わる問題は、知性の問題よりも一段低いと考えているのだろうか。
大方、両方があるのだろう。
一般社会においても、感覚、感性に関して云々すると、いい加減という印象を持たれることがある。
知的で、論理的でなければ信用できないという風潮がある。いわゆるインテリ層において特にそうである。
彼らは言葉の音にイメージがあるとすれば、それは意味であって、約束事であると思い込んでいるようである。
言語学界においても、中心をなす人々にこのような硬直性が見られるのは誠に残念なことである。
このことは、学界中堅・若手にも悪影響を及ぼしている。指導者に理解してもらえない研究をしていたのでは将来の自分の地位は保証されない。敢えて、そのようなジャンルには誰も踏み込まない。
まして、学者の卵にとって、それは学問の領域ではないと言われるのは致命傷である。

希望は若手女性研究者である。女性には音象徴をしみじみと感じ分け出せる人が多い。地位のみを求めず、真理をひたすら求める人が現れることを期待したい。
壁の向こうには、豊かな肥沃が広がっているのである。
語感が、人間の学としての言語学への扉を開いてくれると思う。
    (平成22年8月19日)

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