新しい言語学

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   「驚くべき日本語」(2)  

今、本を二冊読んでいる。「驚くべき日本語」と「英国人記者が見た 連合国戦勝史観の虚妄」。共に日本に長く住んだ外国人の書いた本である。
「驚くべき日本語」の著者ロジャー・パルバースは、ハーバード大卒業後23歳ではじめて来日し、50年近く日本に住んだというコスモポリタン。英語のほかにロシア語、ポーランド語、日本語が自由に喋れるという。宮沢賢治の本を英訳し数々の賞にも輝いている。
「英国人記者が見た 連合国戦勝史観の虚妄」の著者ヘンリー・S・ストークスは、オックスフォード大を卒業後、新聞記者として来日、「フィナンシャル・タイムズ」、「ロンドン・タイムズ」、「ニューヨーク・タイムズ」の各東京支局長などを歴任、現在の奥さんは日本人である。
 共に長く日本に住んだいわゆる知日家ではあるが、近代日本の歴史についての認識は正反対である。英国人の新聞記者はいわば専門家であるから当然ではあるが、近代日本の歴史についてもよく勉強しており、その評価は誠にフェアーである。どこかの国の朝日新聞記者とは雲泥の差である。アメリカ人文筆家は、「先の大戦で日本は東南アジアの国々を植民地化するために侵略した」などとおおらかに書いている。明治開国以来の日本についての理解というよりも関心すらもなく、日本語は世界言語たりうるなどと宣まわれても、何かいかがわしさすら感じてしまう。
 この著者のこの本「驚くべき日本語」を買ったのは、日本語の特殊性の本質に少しでも近づくヒントが何か得られればと思ったからである。
 読み始めてすぐこの著者が言語学の専門家ではないと気付いた。一つの言語が喋れることとその言語の本質を見抜けることとは違うのである。まえがきに日本語に翻訳してくれた日本人の親友に感謝するとも書かれていて、少し期待外れの感もあった。
 読み進めるうちに、次々と意外な記述に遭遇した。まず、最初に驚かされたのは、「英語にもまた、日本語に負けないぐらい豊かな擬声語や擬態語などがあります。(P101)」という記述である。学生時代習った英語には余り擬声語・擬態語がなかったように記憶しているし、私は日本語の大きな特徴の一つとしてオノマトペが非常に多いことを挙げてきたので、それが大間違いであったことになり、私にとってはゆゆしき大問題なのである(なお、韓国語にも日本語以上にオノマトペが多いともいわれている)。
 そして、最後にも驚かされたのは、「実際に多くの日本人が、英語で賢治を読んだらその作品の本質がほんとうによくわかったとわたしに語ってくれました。」という記述である。
 これが日本人たちのお世辞ではなく、本気で言ったとすれば問題である。一応教養のある日本人が、日本語で書かれた原文よりもそれを英訳したものの方がよく理解できたとは、一体どういうことか。余程日本語の原文が難解に書かれていて(現代人にとっての源氏物語のように)、それを解説した形の英文でよく分ったということなのだろうか。私は宮沢賢治の研究家ではないが、宮沢賢治の文章がそんなに難解な文章だろうか。むしろ、私には平易に書かれているように見える。平易に書かれた文章の裏に潜む思想性を読み取ることがむずかしく、そこのところを解説した英文で初めて分かったとすれば、それは著者の宮沢賢治の解釈が分ったということで、必ずしも宮沢賢治が分ったということにはならない。
 著者は「賢治の言語は初めから単に日本だけに根差したものではないため、日本人には即座に理解することがむつかしいのだといえます。」とも書いているが、私にはこの部分がよく理解できない。特に、「日本だけに根差す」とはどういうことか。それこそ、英語の原文を読んでみたい気がする。いずれにしても、本当に日本人が英訳を読んで初めて分かったとすれば、それは原文が本当に分かったことにはならない。
 「驚くべき日本語」の著者パルバースは言語をコミュニケーションの道具としか考えていないようである。チョムスキーが言語は思考のために生まれたとするのと対照的である。私はどちらも極端だと思うが、著者は言語を媒介、道具、あるいは手段と盛んに強調し、ゆえに言語は中立的としているが、言語と思考の関係は考えてもいないのだろうか。「第一言語によって創られたわたしたちの自己はもはや否定できない・・・」と書いているがこの自己とは何だろう。この自己にものの考え方も入るのではないだろうか。人々のものの考え方が言語によって作られるとすると言語が中立的とはいえない。「言語が文化を規制する」という「サピア・ウォーフの仮説」を著者はどう考えているのだろうか。中立的ということであれば「サピア・ウォーフの仮説」を否定していることになるが、そうだろうか。
 私がもっとも驚いたオノマトペについての記述であるが、「日本語に負けないぐらい豊かな擬声語や擬態語・・」の「豊かな」が何を意味するのか、量のことをいっているのか、質のことをいっているのかよく分らないが、いずれにしても新説である。
 数については、日本語オノマトペの数を「何千といわないまでも、何百という・・」と言っているので、‘豊かな’が量のことを言っているのだとすると、英語にもオノマトペが何百もあるということになる。ちなみに、日本語オノマトペの数は、「日本語オノマトペ辞典」では4500、「擬音・擬態語辞典」では見出し語が1385、総数約2000、「日本語オノマトペ語彙における形態的音韻的体系性について」ではオノマトペの語基として1652となっている。
 英語にオノマトペが何百とあるのだろうか。著者が例に挙げているのは、
  バァウワウ、ミャウ、wee-wee,dilly-dally,namby-pamby,hanky-panky,riffraff
である。これらは成程オノマトペである。しかし、著者は以下の単語もオノマトペだと言っているのである。
 Crash,bang,chirp,crush,slide,slick,sleet,glitter whistle,moan,swish,whiz,slosh,slush
 確かにこれらの言葉に音象徴的なものは感じられる。しかし、これらの単語は名詞、あるいは動詞である。名詞、および動詞をオノマトペとするのは乱暴である。日本語にはオノマトペ由来のもの、あるいはオノマトペと繋がりのある名詞、動詞は非常にたくさんある。これらをオノマトペとして数え上げたら何千ということになる。
 ただ、ここで注目すべきは、アメリカ人である著者が語感(音象徴)を感じていることである。ソシュールのことを知っているかどうかは分らないが、はなから「言語学の第一原理〜音と意味との恣意性」を無視、したがって否定してしまっていることである。
著者がなまじっか言語学者でなかったために、音と意味とのつながりを素直に感じ取ることが出来たのだろう。ただ、著者がどの程度まで語感(音象徴)を感じ分けていたか、やや疑問は残る。著者は「外国人が日本語の擬態語をむづかしく感じるとすれば、その理由は、この日本語の音の響きは、外国人の感覚からすると、現実の音をそのまま真似てるようには聞こえないこと、あるいは、彼らの言語のなかにあるような音の響きや状況と異なるものだから・・・」と言い、異なる例として、犬の猫の鳴き声、「ワンワン:バァウワウ」と「ニャーニャー:ミャウ」を挙げているが、日本の犬と西洋の犬では大きさが違い、大きな犬ほど鳴き声は低くなる。しかし、それでもなお、日本の犬と欧米の犬の鳴き声を英語的に書くと「WaN-Wan : BaW-WaW」となり、非常に似ている。猫の鳴き声は「Nya-Nya- : MyaU」となり、これも非常に似ている。/N/と/M/は共に鼻音で音の聞こえとしては近い。実際、猫の鳴き声はわれわれが聞いても/N/とも/M/とも聞こえる。あえていえば、/N/と/M/の中間の音である。
 著者は宮沢賢治が、その作品の中に多くの擬態語をちりばめているとして宮沢賢治を賞賛する意味を込めて「宮ざわざわ賢治」といっていいと言っているが、このユーモアのセンスは大いに評価できるが、語感的には非常に違和感を感じる。感覚的に「ざわざわ」はちりばめるにはそぐわない。私なら「さわさわ」とする。もともと「宮沢」の「沢」を「ザワ」と読むのは連濁のためで、「沢」は「サワ」である。オノマトペ「ざわざわ」と「さわさわ」ではイメージが大きく異なってしまう。「ざわざわ」はうるさいイメージで、どちらかというと負のイメージである。「さわさわ」は「さわやか」などの連想もありプラスのイメージである。
 さらに、著者の日本語オノマトペ「ぞくぞく」の語感の感じ方に疑問を感じる。著者は「ぞくぞく」を「寒い状態」、「「ブルブル」震える状態」と言っているが、表面的にはそうなるが、「ぞくぞく」のもつ語感的イメージは何かが体の芯に染み入る感覚なのである。したがって、著者が「ぞくぞくするわ」を何かにしびれて興奮している感覚と表現しているが、そうではあるが本質的なところでずれがあるように思う。「しびれて」というと結果として静止の状態を表すが、「ぞくぞく」には動きが感じられる。あえて言えば、何者かに攻め入られる、侵入されるイメージである。
 啄木の「ぢっと手をみる」の「じっと」についても「神経を集中させて、そのまま同じ動作を継続する、あるいは静止した状態を表します。」と言っているが、「じっと」には「しみじみ」という感覚があって、外から見た状態というよりは心情、心の中の状態を表しているのではないだろうか。「ぞくぞく」にしても「ぢっと」にしても表層的な理解に終わっているのではないだろうか。
 また、赤ん坊の泣き声を「ヒーヒー」としているが、「ヒーヒー」はやや悲鳴に近く、またひ弱なイメージもある(これはそれぞれの言葉の連想もあるが、/Hi/には語感として、冷たさ、薄さなどが感じられる)。元気な赤ん坊は「ピーピー」と泣く、少し大きくなると「ギャーギャー」である。「ヒーヒー」を「例えば涙が流れるような音を連想させるものだ」としているが、流れる音としても液体よりももっと軽い風程度ではないだろうか。
 「「いただきます」という言葉も、「あらゆる」もやわらかくまろやかな流れるような響きをもっています」とあるが、「あるゆる」は「オープンに広がってやさしく動く」イメージだからいいとして、「いただきます」という音にはやさしさはない(意味としてはあるが)。「ITaDaKiMaSu」の「MaSu」には「まろやかに流れる」イメージがあるが、メインの「ITaDaKi」は鋭く固いイメージである。
 その他、「K」の響きを緊張と捉えているのはいいとして、「「S」の繰り返しを使った「新鮮な奇跡」という抒情的な音の響き」と「抒情的」と言っているのはよく分らない。「SiNSeN」にはさわやかさ、「KiSeKi」にはキレが感じられ、全体としては、少し冷たく固い。
 著者の言うように、日本人と外国人では音の響きの捉え方が違うのかもしれない。言い換えると、日本語を話す人と外国語を話す人とでは、音の響きの捉え方が違うということになる。そうだとすると、言語は中立的という著者の強い主張と矛盾することになるのではないだろうか。
 著者は「ある外国語が耳に心地よく響き美しいと思うのは、おそらくほとんどの人が「やわらかくまろやかな」音の響きに反応するからでしょう」と書いているが、日本人は「キレがあってさわやかな」ものを好むのではないだろうか。これは住み慣れた風土に根差すもので、温帯モンスーンの湿気の多い土地に住む日本人はさらっとしたさわやかさを求めるが、乾燥した荒々しい大地の民は「やわらかさ」、「まろやかさ」を求めるということではないだろうか。
 著者は和英辞典のページ数を調べることによって、日本語の語頭の各子音の使用頻度の差を類推している。それによると、「K」、「S」「T」の順であるが、これは「アカサタナ・・」の順でもある。日本語では「やわらか」の「Y」、「まろやか」の「M」よりも「K」、「S」の方が語頭にはよく使われるのである。
 住む風土によって人々の好む音が異なる可能性は納得できる。ただ、住む風土、ひいては言語によって一つの音に感じるイメージが大きく異なりうるかは大いに疑問である。語感(音象徴)と好き嫌いなどの評価は別物だからである。感覚と感情は違うのである。
 著者の言葉の音の響きに対する感覚は非常に鋭いと思われる反面、われわれ日本人の感覚とのズレも大きく感じられるのは、著者の感覚が日本人とは異質なのか、ただ単に未熟なのか、大きな問題が残る。
 濁音に力を感じる一方、汚れを感じる感性は日本人独特のものなのだろうか(清音、濁音という概念自体、日本独特のものである)。
 著者は「人間の本質は、まず生まれて最初に習得する運命的な言語、つまり「第一言語」として認識する言語によって決定づけられる存在なのです。」とした上で、「外から自分の言語の本質を理解し、判断することはどの民族にとっても簡単なことではありません。」としているが、さらに「外の視点から自分の言語を見ることなどできるのか?」と問い、「「イエス」可能です。」と答えている。
 最後の問いを言い換えると「日本人が日本語を外国人、例えば英語の視点から見ることができるのか?」ということになるが、私はむしろ日本人は外の視点から日本語を見ようとし過ぎていると思う。その典型は日本語の文法で、未だに主語が省略されているなどと教えている。日本語には必ずしも主語が必要ではないのにである。
 そもそも、日本人が日本語の本質を外から理解することが必要なのだろうか。
 私は、むしろむつかしいのは日本語の本質を英語を第一言語とする外国人が理解することだと思う。この観点から見て、著者パルバースは日本語の本質を理解しえたか。残念ながら表面的な理解に止まっていると思う。
 これはオノマトペの理解にも表れているが、次の一文にもはっきりと現れている。「僕」の説明として「男性の代名詞として最も一般的な自分の呼称である「ぼく」、あるいはときどき三人称で小さな男の子に「ぼく、いくつなの?」というように使う言葉に転化しました。(P64)」と言っているが、この「ぼく、いくつなの?」の「ぼく」を著者は当然のこととして三人称と書いている。これはまさに英語の発想である。日本語では、この「ぼく」は三人称ではない。まして二人称でもなく、あえて言えば一人称である。
 日本語では、話し手が小さな男の子の立場になって自分も男の子と同じ立ち位置に立って「ぼく」と言っているのである。これは単なる言葉の使い方の問題ではなく、相手の立場に立とうとする日本語の本質的な特徴なのである。
 やや品が悪いが、下町言葉の「自分はどうするの?」などと相手のことを「自分」と言うのも、「you」のように「I」と違うものとして切り離してしまうのをためらう表現なのである(英語で「「I」はどうするの?」というような表現はまず考えられない)。
 もちろん、外国人である著者にその理解まで求めるのは酷かもしれない。われわれ日本人が当たり前と思っていることにも外国人には考えもつかないことがありうるのである。異文化の本質的理解はむつかしい。やはり、「サピア・ウォーフの仮説」は正しいのである。
 折角であるから、あえて著者に期待するとすれば、アメリカ人である著者の外からアメリカ人の母語英語の本質を見極めて欲しい。すなわち、日本語の立場で英語の本質を見る試みをしてみて欲しい。
「you」と決めつけない気持ちで英語を眺めることができるか。
一神教という心の枠の外に出て、英語を考えることができるか。
日本語の助詞、「ね、よ、な、――は、が、・・」を英語で日常的に表現し分けられるか。
日本語オノマトペの意味ではなく、ニュアンスを表現しきれるか。
非常にむつかしいことではあるが、このことによって、日本語の、そして英語の本質がより見えてくるのではないだろうか。
    (平成26年9月15日)

   熊倉千之先生への手紙  

はじめてお手紙差し上げます。
先生の書かれた「日本語の深層」、読ませていただきました。
全くその通りで胸のすく思いがいたしました。
家の近くの図書館で、フト目にし、借り出して一気に読んでしまいました。私の長年の鬱積したものが晴れたように思えました。
早速、アマゾンで取り寄せじっくり読ませていただきました。
私はもともと言語学とは無縁で、定年退職後、商品のブランド名などの音のもつイメージを抽出するビジネスに関わったことから、いわゆる音象徴(私は語感と呼んでいますが)の研究を始めました。研究を始めて最初にぶつかった壁がソシュールの言語学の第一原理「音と意味との恣意性」でした。我が国の言語学は今でもここから出発するようです。
そんな中、「サピア・ウォーフの仮説」に出会い、そうだそうだと安心したのも束の間、この仮説が欧米の学界ではいかがわしい説とみなされていることを知り、がっかりいたしました。
先生は、ご本の中で、「音と意味との恣意性」はやまとことばには当てはまらず、「サピア・ウォーフの仮説」は正しいと論拠を挙げ説明なさっており、大変心強く思いました。
先生が、やまとことばの中に感性が生きていることを動詞の活用変化の中に示されたことは大変素晴らしいことだと思います。音象徴の存在を、私は助詞とオノマトペを中心に説明しようとしていますが、大変苦労をしています。
先生の分析をじっくり読ませていただいて気づきましたのは、先生のスタンスが、実際のやまとことばを統計的に分析して、その中に感性がどのように生かされているかを探っておられるようだということです。私は逆にナゼそのようなイメージが出てくるのかという問題意識で研究を始めました。
先生も、どうしてことばの音にそれぞれ特有の意味合いが出てくるのか、一部気づいておられて、「/i/ は口の緊張が長く続かない、・・自然に短い音」、「/o/ は口を丸めて発音する自然の「形態」」、「/m/ は唇を閉じて発音するので、内にこもった語感があり・・」などと書かれていますが、「鋭く響き・・」、「硬く響く・・」、「響きのよさ、音声的明確度・・」などとも書かれており、その原因が聞き手側の音の聞こえにあると考えておられるのか、話し手側の発音体感にあると考えておられるのか、はっきりしませんが、「聞こえ」、「見え」を中心に考えておられるように見受けられました。
この点、私たちは、「聞こえ」の原因を「発音体感」と見切りました。
ことばの音そのものにはイメージを表象しうる物理的特性はほとんどありません。周波数の高い音が鋭さ、周波数の低い音が重厚さを感じさせるのが唯一かもしれません。
/i/ が鋭く響く、すなわち鋭く聞こえるのは、/i/ の発音時に口元に力を入れて狭くし、そこに息を通そうと力を入れて発音するからです。
さらに、発音する側に立って考えると、力を入れしっかり発音することから、/i/ には話し手の自己主張に近い意思が感じられますし、細くて真っ直ぐな直線、そして細かくは、固さ、冷たさなども感じられます(ですから、形容詞の語尾として自身の感覚表現として使われるのでしょう)。
語感的には、「イマ」は/ma/というボリュームのあるものを/i/という細い直線で切るイメージで、これが一瞬です。そして/i/と自己主張しているこの場所が自己の中心/ko/なのです。この「イマ」という一瞬は常に未来に向かって動いています。縦の直線が横に動いていくイメージです。ですから、日本語では、先生のおっしゃるように「We win!」ではなく「勝った」なのです。
この個別の音のもつイメージにつきましては、全体としては先生に大賛成なのですが、一部違った意見を持っています。
先生は、「アル」の「ル」が存在を意味すると書いておられますが、私は「ア」が存在、詳しくは実在を表現していると思います。
「ル」の/r/ は舌音で舌を震わせます。従って、太古のやまと人は/r/ に振動、すなわち命のようなものを感じていたのではないでしょうか(これも発音体感です)。ソクラテスは「クラテゥロス」の中で「rは舌をもっとも動かすので動きを表す」というようなことを言っています。命と存在は違います。存在は具体的、命は抽象的です(やまと人はrを抽象的なものをイメージさせると感じていたのでしょう)。
やまと人は、最初の言葉として、自分も「ア」、お前も「ア」、あれも「ア」と全ての存在を「ア」と指差したのではないでしょうか。発音体感として、「ア」はことばの音の中でもっとも自然に、大らかに、大きく出せる音だからです。従って、「ア」には、アリアリとした実在感、そしてオープンな広がり、明るさが感じられます。淡さ、軽さも感じられます。
コソアドの違いを先生は「音の通り・・音声の明確度からくる・・距離」と書いておられますが、これも発音体感から説明が出来ます。発音体感としての調音点の違いです。/k/ は口の一番奥、ノドのところを破裂させて出す破裂音です。/s/ は舌、唇の上を息を流す摩擦音、/a/ は母音で口を大きく開けて息を外へ広がるように出す自然音です。従って、自分の中心が「ko」、口から外へ向かう、離れていくのが「so」、そして外に広がっているのが「a」です。/t/ は舌先を上顎にチョット着けて発音しますので、止まるイメージ、そして戸惑うイメージに使われるようになったのではないでしょうか。
なお、/o/ は口腔を丸くして、篭ったようにして発音しますので、まとまったものの感じに加え、重く、大きい(形として)イメージがあって、存在感が感じられます。
先生のおっしゃる来(コ)にもこの「ココ」が関係していると思います。太古のやまと人がココを指差して「コ(ko)」と叫ぶ(今でも人を呼ぶとき、ココ、ココと言います)。そして、自分の意思を強く出すために/i/ をつけて出来た表現が「koi(来い)」ではないでしょうか。
「来い」ということから「乞う」、そしてその手段としての「声」などの言葉へと派生していったのではないでしょうか。「恋」も「乞う」から、「言(コト)」も「声」から派生したのではないでしょうか。(少し脱線気味になってしまいました)
ついでに、点(Tenn),線(Senn),面(Menn)のT、S、Mも発音体感からきたものと思われます。/t/ は舌先をチョット着けるから点、/s/ は流れですから線、/m/ は膨張ですから面です。元の中国音が分かりませんが、当時のやまと人がT、S、Mと聞きなしたのではないでしょうか。
随分脱線してしまいました。
私は、先生のように言語学の基礎をしっかり身につけておられる方に是非言語学界の旧弊を打ち破って欲しいのです。
「音と意味との恣意性」については、ごく最近出版された「オノマトペ研究の射程」(ひつじ書房)ですら、オノマトペについては音と意味にはつながりがあると主張している程度で、日本人として全く不甲斐なく思っています。なお、この本の中で音象徴の原因として、ラマ・チャンドランの共感覚的クロス活性化説が援用されていますが、私は音象徴を共感覚とするのは間違いだと思っています。
「サピア・ウォーフの仮説」につきましても、「言語が違えば、世界が違って見えるわけ(Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages)」が注目された程度で、この本においても、言語の違いが、先生のおっしゃるような本質的な思考回路の違いであることまでは思いが至っていないように思われます。
そこで、お願いといいますか、ご提案といいますか、英語にご堪能な先生に、ソシュールの言語学の第一原理は誤りで、日本語には感性が生きている、すなわち日本語のことばには音のイメージが組み込まれていること、そして、それ故に日本語と英語は本質的に異なること、すなわち「サピア・ウォーフの仮説」が本質的に正しいことなどを、欧米に対して論じていただきたいのです。
私は、学界はもちろん、出版界とも縁はありません。従って、先生をそそのかすしかないのですが、音象徴(語感)についてはお手伝いできると思います。
先生は私より一歳年上ですが、今一度がんばっていただき、日本語、そしてそれ故の日本文化の深層を世界に知らしめていただきたいと思っています。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
なお、私の音象徴などについての研究の一部は私個人のサイトにオンしています。ご覧いただきご批判などいただければ幸いです。
                    平成25年11月19日

   森有正の日本語論  

現代中国研究家・津上俊哉の「中国台頭の終焉」を読んでいて「最近、森有正の日本語論を学んで、日本語の構造や語彙が日本人の考え方や対人関係をかたち作っているのだという考えに強く惹かれた。」という記述に出会い、早速、森有正の「いかに生きるか」を取り寄せ読んでみた。
森有正は1911年東京の生まれ、パリ大学、国際基督教大学教授を歴任した哲学者でキリスト教学者である。 
日本語の構造や語彙が日本人の考え方をかたち作ったと言っているとすれば、これはまさにサピア・ウォーフの仮説そのものである。 

読み始めて驚いた。日本語について、私とは全く逆のことを言っているのである。しかし、よく読むと表現は逆に見えるが言っていることの本質は私と同じようなのである。そして、またまた驚くことに、その評価が私とは全く逆なのである。
森有正は、「日本語は一人称と二人称の言葉であって、そこには三人称的な言い方が、本質的には欠けている・・・」と言っており、私は、「日本語では、英語のIやyouに相当する言葉を使うことを極力避け、どうしても必要な時には、お父さん、お兄ちゃん、先生というような表現を使う」と言っており、一見、全く逆に見える。
森有正は「He is a boy」を例にとり、これを日本語にすると「この人は男の子です」、「この人は男の子だ」、「この人は男の子でございます」などとなり、これらは内容的には同じといっても全然違うものだと言うのである。そして、それは「日本語の場合には、あくまで一人の人間が自分と向かい合っているもう一人の人間と、話をするという前提のもとに(言葉が)出ている」からで、自分と相手との関係によって、「この人は男の子です」とも「この人は男の子だ」とも、さらに「この人は男の子でございます」にもなるのが、これは一人称・二人称の言葉ゆえのことで、「He is a boy」は誰が誰に言っても「He is a boy」であるから三人称的な言い方である、と言うのである。
森有正流に言うと、私の言うIやyouは三人称的ということになる。誰が言ってもIはI、youはyouだからである。そして、お父さん、お兄ちゃん、先生は、逆にそれぞれ一人称・二人称関係の言葉ということになる。私は日本語の日常会話ではIやyouに相当する言葉は使わないと言っているが、これは森有正の言う日本語には三人称的な言い方が欠けるということにあてはまる。さらに、森有正は自分と相手との関係(「あなた」という関係)が常について回るとも言っているので、これも、私が、「お父さん」、「お兄ちゃん」、「先生」という言い方は「ぼくのお父さん」・「おまえのお父さん」、「わたしのお兄ちゃん」・「あなたのお兄ちゃん」、「わたしたちの先生」・「あなたがたの先生」という関係の表現だと言っているのと同じ意味合いである。
しかし、私が、これを常にお互いの関係を確認し合っている表現だと肯定的に捉えているのに対し、森有正は「日本にはほんとうの個人の独立、人格の尊厳がない・・、日本にはほんとうの社会がない、つまり三人称が支配するほんとうの社会がない・・」と言い、これを否定的に捉えている。
そして、さらに森有正は、この日本の現状を打破し、真の民主主義の社会を作るにはキリスト教しかないとまで言っている。「キリスト教以外にやっぱりこの一人称・二人称・三人称の問題を、すなわち社会と個人という問題をほんとうに解く鍵は、ないのではないだろうかと思います」と。
ここがまさに問題で、近代西洋文明の問題点の一つが過度の個人絶対主義で、私は、ここまで人間を一人一人ばらばらに分断したのは一神教の策謀ではないかとまで思っている。少なくとも、キリスト教が個人主義を社会に徹底し、維持している役割は大きいと思う(その意味では、森有正と同じ考えである。評価はまるで逆ではあるけれど)。
しかしながら、森有正の日本文化、日本語についての洞察は正しいと思う。ただ、私が日本的ものの考え方で近代西洋文明を見ているのに対し、森有正は西洋的考え方、特にキリスト教の枠の中で日本文化、日本語を見ているのである。ここから、日本文化と西洋文明、日本語と英語・フランス語の違いについては私と同じ結論になるのだが、その評価については全く逆になってしまうのである。
ただ、森有正については、彼がキリスト教信者の両親のもとに育ったということや、思想が形成される時期が、戦中という過酷な異常時を経て終戦を迎えた時期で、日本の全てが悪く民主主義の近代社会が素晴らしいという自虐史観の真っ只中にあったということの情状酌量はしなければならないと思う。
ちなみに、この本の中でキリスト者として筆頭に内村鑑三の名が挙がっているが、イザヤ・ベンダサンによると内村鑑三はじめ多くの信徒は後に棄教してしまったのだそうである。さらに、イザヤ・ベンダサンは、日本人キリスト者は本当のキリスト教徒にはなりえず、たんに日本教徒キリスト派なのだとも言っている。森有正は彼のその育ちから考えると本当のキリスト者かもしれない。彼の人格はキリスト教という枠組みの中で組み立てられたのだろう。しかし、日本文化の中で、日本語で育っているので、日本文化も日本語も理解でき、さらに西欧的ものの考え方で批判的に見ることも出来たのだろう。ただ、一つ不思議なことは、彼が「信仰を持っていても、私は有神論者ではない」と言っていることである。神の存在を信じないキリスト教徒というのがありうるのだろうか。

この本の中で森有正は、本居宣長の「もののあわれ」とパスカルの「esprit de finesse(繊細な精神)」を比較している。詳細はこの本を見ていただくとして、日本人の生きていく道としての「もののあわれ」とは「人間と自然とが、あるいは人間と人間とが、お互いに浸透し合って生きていく・・」ことであるのに対し、ヨーロッパ人の自然観は「自然になりきることでもなく、またこの自然の中に埋没することでもなく、むしろ自然を人間的に支配するために自然の中に入っていく・・」ことであると言っている。このことを私は、欧米人は自然と対決しようとするが、日本人は自分も自然と一体と考え、自然とともに生きようとする、という言い方をしている。
また、森有正は、「古事記」に出てくる日本の宇宙論はコスモロジーではなく、コスモボニー(宇宙生成論)だとも言っている。「コスモロジーというのは宇宙というものをあくまで分析的に見て、・・、いくつかの原理があって、その原理が組み合わされて、この世界ができる・・」のに対し、日本の場合は、「この世界が一つの個物として現れてくる」、「いろいろの要素を組み合わせて、ある物をつくるというより・・、すぐそこに山が出てきたり河が出てきたりする」、「つまり一人の人間が出てくるように山が出てきます。河が出てきます。また動物が出て木が生えてきます」と言っている。私は、欧米的ものの考え方は「作る(スル)」だが、日本人のものの考え方の根底には「生る(ナル)」という考え方がある、というような言い方をしているが、言っていることの本質は全く同じである。

最後に、森有正は「日本語は非常に面倒なものです。ここに一冊の本があるという場合、英語ではThis is a bookと言う。これはエリザベス女王でも、誰であっても同じです。ところが日本語の場合、たとえば天皇に対していう場合、「これは本である」とは絶対に言えません。「これは本でございます」と言わなければなりません。先生に向かっては、「これは本です」と言っても、お父さんに向かっては、「これは本だよ」と言うわけです。全部違うわけです。」、「これはけっして言い方だけの違いではなくて、内容にまで及んでくるのです。つまり自分とあなたという関係で、規定しているわけです。私というものはあなたに対する私になっていて、本来の自分がどこかにいってしまう。」と言っているが、この感じ方は、日英バイリンガルの作家片岡義男の日本語に対する感じ方と非常によく似ていると思う。
なお、近代西洋文明の二つの原罪、人間の本質をゆがめた知への過度の偏重と人間を徹底的に分断する個人絶対主義については別途論じたいと思っている(言語学とは少し離れてしまうのだが)。
   (平成25年4月5日)

   森有正の日本語論(2)  

改め、言語学の立場から森有正の「He is a boy」問題を考えてみたい。
これを日本語にド・直訳すると「彼は一人の男の子です」となる。もちろん日本語でこんな言い方をする人はいない。まず、「彼」という言葉を使うことはない。森有正は日本語では「あの人は男の子だ」、「あの人は男の子です」、「あの人は男の子でございます」になると言っているが、これもまた実際にこんな言い方をすることはない。
女の子がお母さんに言うとしたら「あの子、男の子よ」、「あの子、男の子ね」、「あの子、男の子なんだ」などだろう。天皇陛下に申し上げるとしても、「彼は男の子でございます」と言うことはまずない。その子が見えているときは、「あの子は男の子でございます」、そして、目の前にいるのではなく話題に上ったのであれば、「その人は男の子でございます」となるのではないだろうか。

森有正は語尾変化による尊敬・謙譲の表現のみを取り上げているが、主語も、主語にするかどうかも含めて変化するのである。「あの子、男の子よ」の「あの子」は主語かどうか。格助詞「は」、「が」が省略されているのではない。入れると違った意味が出てくるのである。
語尾の終助詞「よ」、「ね」、「なんだ」の使い分けも敬語、すなわち社会秩序の反映というよりも事態に対する発言者の気持ちが反映されている。男の子が言う場合、「あの子、男の子なんだ」、「あの子、男の子だ」などとなるが、語尾の「なんだ」は納得、「だ」はやや驚きの気持ちが表れている。この気持ちの表現を排除した無機質な表現は日本語の会話ではありえない。そいう意味で森有正のいう三人称的表現が欠如していることになるのかもしれない。
しかしながら、会話というものは自分とあなた、すなわち一人称と二人称の間で交わされるものであって、その会話には何らかの気持ちのやり取りが付いて回るのではないだろうか。そもそも英語の会話で何の気持ちの動きもなく単に「He is a boy」と言うことがあるのだろうか。書き言葉としての理論上の言葉に過ぎないのではないだろうか。そうすると、日本語での書き言葉としては「彼は男の子です」で充分である。やはり、言葉の機微を論ずる場合、ありもしない書き言葉で生きた会話を論ずることはできないと思う。

日本語でこのように言い方にバリエイションが生じるのは日本語が「場」の言語だからである。自分と相手との関係だけではなく、その場その場の状況によっても言い方が変わってくる。したがって、その場を前提としなければ日本語の会話は理解できない。その点、英語はその会話だけを切り出しても意味の変わらない絶対的な言語ということができ、舞台の上のセリフのような言葉ということができる。一方、日本語はその場その場で変わる、場と一体となった言葉で、相対的な言語ということができる。したがって、日本語では、芝居のセリフ、小説の中の会話などは日常の生きた会話とは全く異なるものなのである。
    (平成25年4月9日)

   世界の見え方の違い  

   「言語が違えば、世界が違って見えるわけ」を読んで  

椋田直子さま

 先生の訳された「言語が違えば世界が違って見えるわけ」を読ませていただきました。大変面白く、よくできたご本でした。訳もこなれていて、スムースに読むことができました。有難うございました。

 私は、従来からサピア・ウォーフの仮説が好きでした。最初この説に出会った時、成程成程と思ったものです。その後、欧米の学会で否定的に扱われていると知り、不可解に思っていました。今回この本で、その理由が分かり、納得いたしました。ただ単に、実証の方法に問題があったということなのですね。そして、著者ガイ・ドイッチャーさんもこの仮説に否定的ではないことも分かり安心いたしました。

 ただ、ガイ・ドイッチャーさんは「自然と文化がどのようにして言語の諸概念を形成していくか、文法のどの部分が先天的なのか、言語が思考のどの相にどんな影響を及ぼすのか、正確に判断することが出来ない」と言い、その原因を「脳の働く仕組みがよくわかっていない」ためと言っていますが、私はこのスタンスだけでは問題は解決しないと思います。
一つの言語、文化、すなわち、ものの考え方で、他の言語、文化、ものの考え方を見ても、全てが見えるわけではないからです。
ガイ・ドイッチャーさんはレンズに喩えていますが、私は枠に喩えるべきだと思います。四角い枠で丸い枠の世界を覗いても、四角い部分が見えるだけで、全てが見えるわけではありません。逆に丸い枠で四角い世界を見ても全てが見えるわけではありません。見る枠が十分大きければ全てが見えるかもしれませんが、その保証はありません。未開の文化についても欧米文化が十分大きいかには疑問があります。 欧米文化が十分大きいと思えるのは、欧米的ものの考え方で見ているからに過ぎないのかもしれません。
 それでは、どうすればいいのか。
欧米の言語・文化・ものの考え方を他の言語・文化のものの考え方で見ればいいのではないでしょうか。ただ、今の欧米の学者には欧米以外のものの考え方でものを見るのは大変難しいと思います。ガイ・ドイッチャーさんもヘブライ語が母語でいらっしゃって少し違った見方もなさるようですが、基本的には近代欧米文明にどっぷり浸かっていて、欧米的ものの考え方からは逃れられないのではないでしょうか。
 幸い、日本文明は1万5千年以上の歴史を持ちます(人類最初の土器は、日本列島で発見されています)。少なくとも、1000年以上前の日本独自の言語とその言語によって書かれた文学作品を持っています。一方、日本は明治の開国以来、近代西洋文化を積極的に取り入れ、急速に近代化しました。近代化とは欧米化でした。
私は一応日本の高等教育を受け、近代合理主義精神も学び、英語も長年勉強させられました。しかし、英語は未だにうまくしゃべれません。人権、自由、平等の考え方にも、ときに戸惑いを感じます。
そんな私が、日本語の本質部分を研究するようになって、日本語と英語の違いが、日本的ものの感じ方と欧米的ものの考え方の違いにリンクしているように思えてきたのです。
そこで、日本的ものの考え方で、欧米の言語・文化、そして欧米的ものの考え方と、日本語・日本文化、そして日本的ものの考え方とを比較すれば面白いと思うようになりました。
以下、私の感じている英語と日本語の違い、そして欧米的ものの考え方と日本的ものの考え方の違いについて、概略書いてみましたので、ガイ・ドイッチャー先生にお知らせいただければと思い、この手紙を書きました。
 これらのことは学問の本質にも関わることと思いますので、お手数でしょうがよろしくお願いいたします。
         平成25年1月25日
                     増田嗣郎

   日本的ものの考え方で見た欧米的ものの考え方 (英語と日本語)  

日本的ものの考え方から見て欧米的ものの考え方の特徴は不自然ということです。
日本的ものの考え方では自然を一番と考えます。自然であること、ありのままが望ましいと考えます。自然の脅威に何もしないのかというと、そうではありません。自然には逆らわず、いかに脅威をかわすかの努力をします。自然に対抗するのではなく、自然に寄り添う努力をするのです。
欧米の思想で、日本人が最も不自然と感じるのは、一つの人格神を信じていることです。そして、進化論を信じない人がたくさんいるらしいことです。宗教の話は別だと言う方もいらっしゃいますが、宗教こそものの考え方の根本に関わるものです。
日本では、一つの神を信じる人は人口の3%もいないでしょう。日本人が神的なものを信じないのではありません。お寺の数、神社の数、そして、辻つじに立つお地蔵さんや祠の数は決して少なくはありません。
神的なものを信仰するのは自然です。しかし、一人の人格神を信仰するのは不自然です。
欧米では、神が人を作ったと信じている人が多いようですが、ありえないでしょう。不自然です。日本では、人は生った(ナッた)と考えてきました。神も生ったと。この方が自然ではないでしょうか。
このことは、欧米人の何事も作るという思想、日本人の何事も生る(ナル)という思想とそれぞれ繋がっているのではないでしょうか。
欧米の自然に働きかけて作るという態度、日本の自然に任せて生るを待つという態度にも繋がっていくでしょう。この考え方、態度の違いは、欧米の自然と対決するという思想と日本の自然と寄り添うという思想とに繋がっていると思います。
英語のrefineという言葉の訳語として日本語には精練という言葉があります。同じような使われ方をしますが、根本的なところで大きな違いがあります。Refineというのは基本的には純化、純粋にするということです。日本語の洗練はゴミなどを洗い流すまでは同じような考え方ですが、練とは練り上げることなのです。不純物を取り除いて純化するのではなく、そのまま、ありのままを練りを繰り返すことによってよりよい品質のものにすることなのです。言ってみれば、除去ではなく融合です。練りに練ることによって含まれる異物もこなれてハーモナイズされるのです。根本的なところで考え方が違うのです。
日本語に知情意という表現があります。英語にはこのセットの言い方はありません。直訳しますと、知はintellect、情はemotion, feeling, sentiment, affection、意はwill, volitionといったところではないでしょうか。人間の態度傾向を3つに分けたものですが、日本人はこの3つのバランスが大切と考えます。そのことの難しさを表現し、日本人の誰もが納得しているのが次の文章です。

  山路を登りながら、こう考えた。
  智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

As I climb the mountain path, I ponder
If you work by reason, you grow rough-edged; if you choose to dip your oar into sentiment’s stream, it will sweep you away. Demanding your own way only serves to constrain you. However you look at it, the human world is not an easy place to live.

これは、日本近代の夜明け明治期の文豪夏目漱石の小説「草枕」の冒頭の一節です。英語訳はペンギンブックスのものです。
欧米のrefine思想は人間を分断し、人にしてしまいました。そして、人をrefineして個にしてしまいました。
日本語の人間という言葉は人とは違います。人と人との間を含んだ人という意味です(なお、漢語にも人間という言葉がありますが、これは日本語ではジンカンと読み人と人との間そのものを指し、日本語とは意味が違います)。
欧米の個が絶対という思想は不自然です。一神教の副作用ではないかとも思いますが、人は一人では生きられません。また、個がいかに立派でも子孫を残さなければ人類は消滅してしまいます。先祖から子孫への流れを考えないで個のみを考えるのは不自然です。
基本的人権、男女同権、自由、平等も一時のスローガンとしては有用でしょうが、絶対的なものではありえません。権利があるとすれば、必ずそれに伴う義務があるはずです。人間の基本的義務とは何でしょう。そもそも誰に対する権利・義務なのでしょう(ここに、神を持ってこないでください。それでは逃げになってしまいます)。
男と女を分断する思想も不自然です。男と女がいなければ子孫が残せません。子孫がいなくなれば人類は消滅します。人間を人類として見た場合、refineして、男と女を同じ一つの個と考えるのは乱暴だと思います。男と女はハーモナイズさせるのが自然ではないでしょうか。
さらに、欧米のrefine思想は、個すらもrefineする方向に進んできました。欧米社会は、知情意の情の部分を捨て知の部分のみを重視する考え方、すなわち合理主義を押し進めてきました。その結果、近代科学・技術は大発展をとげ、現代文明を築き上げることが出来ました。しかし、人類は本当に幸せになったのでしょうか。少子化する社会が本当に幸せな社会なのでしょうか。どこかが間違っているのではないでしょうか。そして、哲学も個、そして知に焦点を絞り、結果、理性・精神のみを問う学問へと偏向してしまい、人間、すなわち人類の存在ではなく、個の存在のみを問うものになってしまいました。
欧米思想は個人を絶対のものと考え、人間の本質を理性のみに求めることに疑問すら感じなくなってしまいました。いや、むしろ感じることが出来なくなってしまいました。
しかし、一方で現代科学の成果として、人間一人ひとりは遺伝子DNAを次代へと受け渡していく入れ物(ミーム)にすぎないこと、考えることのベースになっている意識の実態も脳内ネットワークの活性化から生じる単なる現象(コイルに電気を流すと周りに生じる磁界のような)にすぎないことも分かってきました。そして、また意識そのものも脳内活動のごく一部が顕在化して出来ているにすぎないことも分かってきました(顕在意識と潜在意識)。
この欧米的ものの考え方の個と理性に偏向していることは、欧米の言語にも表れています。英語を日本語と比較したとき、非常に大きな根本的違いが二つあります(違い自体はたくさんあるのですが)。

まず、一つ目は、英語にはIとyouがやたらとあることです。
英語圏の方は、それが当たり前と思っているでしょうが、日常の会話では日本語の10倍以上も出てきます。多少ではなく10倍と桁が違えば、これは本質的違いと言えるでしょう。
まず、先ほどご紹介した夏目漱石の一節です。英訳には、Iが2つ、youが6つ、そしてyourが2つあります。ところが、原文の日本語にはIもyouもyourも一つもありません。Iやyouに相当する他の表現もありません。
そして、これが重要なのですが、原文の日本語でIやyouが省略されているわけではありません。必要がないのです。あえてIやyouに相当する言葉を入れようとすると日本語にならないのです。まして、youの部分に入れようとすると、それはyouではなくweになってしまうのです。日本語では、I、youを余り使わないだけではなく、Iとyouとweの使い分けが英語とは違うのです。
英語と日本語では日常会話でI、youをどの程度使っているのか。実際を比べてみるのは難しい。そこで、日常の会話を映しているであろうマンガと映画のシナリオで比べてみました。

  I You 私 あなた I/私 You/あなた
ローマの休日 319 380 50 34 6.4 11.2
ふしぎの国のアリス 300 218 45 22 6.7 9.9
英→日 619 598 95 56 6.5 10.7
サザエさん(12) 107 124 22 19 4.9 6.5
オチビサン3巻 97 52 10 9 9.7 5.8
日→英 204 176 32 28 6.4 6.3

共に、日本語は英語の十分の一程度です。マンガにしろ映画にしろ、第三者が見ることを前提にしていますので、やや公式的な表現になっていますので、実際の会話では、日本語でのI、youの使用はもっと少ないと思われます。
さらに、この頻度の少なさに加え、日本語のI、youに相当する表現が、英語とは本質的に違うのです。
赤子が生まれ「シンタロウ」と名付けられたとしますと、母親はわが子に「シンちゃん、ママだよ」と呼びかけます。決して、youだとかIに相当する言葉は使いません。有名な歌の歌詞に「今日は赤ちゃん、私がママよ」というのがありますが、実際に母親がわが子にこのような言い方をすることは決してありません。

ある夫婦が子供を連れて妻の実家に遊びに来ていた、そして、たまたま夫の妹も夫を連れて来合せたとします。また、夫と妹の夫はガキ友達であったとします。すると、そこでの会話は、次のようになります。
夫から妻の父親に対しては、「お父さん、これ、いいですねえ!」、
そして、その父親は、「うん、いいだろう。いいものだよ。正夫君、気に入ったのなら、それあげるよ」、
妻は、「お父さんたら、パパには甘いんだから。でも、有難う。パパ大事に使ってね」となるでしょう。
また、別の場面では、妻がわが子に、「ジュン、この間パパに買ってもらったの、おじいちゃんにお見せしたら」、
子供、「おじいちゃん、これパパに買ってもらったの」。
さらに、別の場面、
夫が妹に、「お兄ちゃんよくコイツとあの海岸に釣りに行ったよ」、
妹、「あなた、お兄ちゃんとどっちが上手かったの」、
夫(兄)、「そりゃぁ、オレの方が。なぁ」、
妹の夫、「いやいや、僕の方かも」、
子供、「おじちゃん、鯛、釣ったことある?」、
妹の夫、「鯛かぁ、おじさんはないけど、お父さんは釣ったことあるかもしれないよ」、子供、「ねえパパ、パパは鯛釣ったことある?」、
夫、「うーん、パパも鯛はないなぁ」となるでしょう。

以上の会話は日常あり得るものです。この会話の中で、I、youに相当する言葉は、オレ、僕、あなた、が一度だけです。しかも、オレが、とか、僕はとかの主格の形では出てきていません。Iに代わる表現としては、お兄ちゃん、おじさん、パパ、そして、youに代わるものとしては、お父さん、正夫君、パパ、ジュン、おじいちゃん、お兄ちゃん、おじちゃん、です。この会話を英語に直訳すると、何が何だか分からなくなるのではないでしょうか。日本語では当たり前の会話で、誰でもすぐ分かります。
日本語のIの訳語としては、私、僕、オレ、わたくし、ウチ、そして、youの訳語としては、あなた、君、お前、あんた、などがあります。公式、あるいは社会的な場では比較的よく使われますが、日常生活ではほとんど使われません。それに代わってよく使われるのが、その場での人間関係を表した表現です、お父さん、オヤジ、パパ、お母さん、ママ、お兄ちゃん、お姉ちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、などです。年少者に対しては名前を直接呼ぶことが多いようです。その子の名前が慎太郎であれば、親しさの順に、シンタロー、シンチャン、シンタローチャン、シンタロークン、シンタロウサンとなります。
特異なのは、学校に於いてです。特に小さな児童を対象とする学校では、先生は必ず自分のことを先生と言います。そして、子供たちも、先生に対して先生と言います。ときに先生の名前を付けて、ヨシ子先生などと呼ぶこともあります。先生は生徒たちを名前、あるいは名字で呼びます。年少ほど名前で呼ぶことが多いようです。生徒全体に対しては、君たちという複数形のyouに相当する言葉を使うことはあります。しかし、一人の生徒に対して単数形のyouを使うことはありません。使うのは公式の時か、叱る時位です。父親が子供をしかる時、お前はと言うことはあります。日本語ではそれ程、単数のyou、そして、Iを主格として使うことを避けるのです。
英語と日本語のこのような圧倒的な言語習慣の違いが個に対する欧米と日本の考え方の違いを反映していることは明らかですが、言語と文化といずれが原因かは簡単には言い難いと思います。ただ、一つ言えることは、赤子の時からyouと決めつけられ、Iと言うことをしつけられた人間と、Iと言いyouと言うことを極力避け、その場での人々との関係性を常に意識しなければならない状況で育てられた人間の、個についての考え方、自分というものについての考え方が大きく違ってくるのは当然だろうということです。
欧米の幼児は自分の母親のこともyouと言わなければならない。自分も母親からyouと決めつけられる。一方、日本人の赤ちゃんにとっては、自分の母親は常にお母さん、ママであって、youではありえない。父親もお父さん、パパであって、youではありえません。このお母さん、お父さんを英訳すると、mother、fatherではない、my mother、my fatherです。そして、母親がわが子に、お母さんは・・という時のお母さんは単なるmotherではなくyour motherなのです(正確には、このような場合でも、日本語ではmyとかyourということは意識にも上りません。もちろん、使ってもいけないのです)。
日本の子供は、日本語を通じて常に自分と母親、父親、そして周りの人々との関係を意識しながら育つのです。
この関係は、親子間にとどまらず、兄弟、祖父母、近隣の人々へと濃淡の差はあるものの広がっていきます。同時に、この繋がりの感覚は、横だけではなく、縦、すなわち先祖、子孫へも繋がっているという感覚に繋がっていくのです。この感覚は、概念的には血の繋がりとして意識されますが、これは、まさに現代科学に於ける遺伝子・DNAを介しての繋がりと同じことです。
日本人は無意識に天照大神や古代の神々とも繋がっていると感じながら生きているのです。
そして、この感覚は、人間だけではなく、自分の周りの生きとし生けるもの全て、そして自然そのものとも繋がっているという感覚に繋がっていきます。
日本人は自然を自分の外にあるものと感じるのではなく、自分も自然の中の一部だと感じているのです。
欧米人は、人間を個に切り分けることによって、自分は自然とは別物、自分は自然の外にあって、自然とは対決するものと感じるようになっていったのではないでしょうか。ここから、さらに自然は働きかけるもの、そして、そこから作るという思想が出てきたのではないでしょうか。そして、神が人間を作ったと。
一方、日本人は自分も自然の一部と感じていますので、自然に対して対抗するのではなく、自然の恵みを待つという感覚になり、これが生る(ナル)という思想になっていったのではないでしょうか。人も神もナルのが当然、自然だと。
この自然が自分の外にあるか自分も自然の中にあるかという、欧米と日本の感じ方の違いは本質的な違いです。
この違いがどこから出てきたか。自然環境の違いからか、文化の発展過程に岐路があったのか、この違いに対応する言語の違いも何ゆえに生じたか、自然故か、文化の違い故か。言語そのものが元から違っていて、その発展過程でますます離れて行ったのか。分かりません。
自然、文化、言語の関係は、自然をベースに文化と言語が相互に影響し合いながら変化してきたと思われますが、一つ確かなことは、今ある言語によって、ものの考え方が次代に伝わっていくということです。その意味で、文化にとって、ものの考え方にとって、言語はcrucialです。

英語と日本語を比較したときの、大きな、そして根本的な違いの二つ目は、英語が母音を捨て子音中心の言語になりつつあるということです。
人が話す言葉の音は、母音と子音からなります。母音は自然に出せる音で、口の形、すなわち唇の形、舌の形、口腔の形を変えることによって音の違いを出し分けます。母音は響かせて連続して出せる自然音です。一つの母音から他の母音へ連続して変化させることも出来ますのでアナログ的です。
一方、子音は、唇を破裂させたり、舌で弾いたり、舌を震わせたり、舌の上を狭くして無理に息を通したり、喉の奥をきつく締めて破裂させたり、息を鼻に流したり、こもらせたりして出します。子音はこのように障害を作って無理に出す障害音ということが出来ます。破裂音、摩擦音、破擦音、舌音、鼻音などがあり、基本的には単音で連続して出すことも変化させることも出来ません。不自然な音ということが出来ます。
英語はこの母音を捨て子音中心になっているように見えます。日本語はあくまで母音中心です。
日本語は言葉の音の単位として拍というシステムをとっていますが、一つの拍は、子音+母音で構成されています。母音だけの拍もありますので、日本語の拍には必ず母音があることになります。それ故、日本語は母音中心ということが出来ると思います。
人が声を出そうとする時、何らかの意図があります。相手を威嚇しようとか、仲間に警報を発しようとか、相手と仲良くしたいとかの意図・気持があります。それぞれの意図・気持で声を出せば、それぞれ違った音になります。威嚇しようと声を出せば、優しい柔らかい音にはなりません。力の入った鋭い、固い音でしょう。優しく接しようとすれば、柔らかい甘い音になるでしょう。そもそもは、声の音と意図・気持は結びついていたはずです。(チョムスキーは、言語は思考のために出来たと言っていますが、これなどは知偏向の極みでしょう。日本のチョムスキー派の先生方は日本語にありもしない欧米的文法をあてはめようと無駄な努力をしているようです)
母音は自然音ですので、優しい音になりやすい。明るい気持ちで大きく声を出せば、当然口を大きく開けますから、‘ア’的な音になります(最初は、‘バ’とか、‘ワ’とかア行の入り混じった音だったでしょう)。勿体ぶって、重々しい音を出そうとすれば、口の中でこもらせる‘オ’的な音になります。甘えた気持で声を出せば、鼻腔へ息をもらす‘ウ’的な音になります。強い意志をはっきり出そうとすれば、口元を引き締め強く息を出しますので ‘イ’的な音になります。
威嚇のためには、力のある鋭い固い音が必要です。それには力を入れて無理に出す障害音である子音が適しています。鋭い切れのある音を出そうとすれば、喉の奥を一旦強く締めて、それを破裂させて出す‘K’音的な音になるでしょう。息を出す時、振動させて有声音にすると切れに加えて力のある音になります。これが‘G’音的な音です。スピード感を出そうとすれば、舌の上を息を流す‘S’音的な音になります。子音の中でも、鼻腔に息を流したりこもらせたりして出す‘N’音、‘M’音では、粘り感とともに甘え感が出ます。
ただ、子音は単音ですのでこれだけでは声になりません。子音を母音で響かせてはじめて声になります。
例えば、アルファベットのL,M,Nをどう読むか。これらは子音です。しかし、これらの読みの発音をよく聞いてみると、母音が聞こえます。まず、‘e’の音が小さくあって、最後も‘u’の音が小さく入っています。母音‘e’、‘u’ではさんで、その中にL,M,Nの本来の音があるのです。B,C,Dは最後に‘i’が小さく付きます。この‘i’がなければ、B,C,Dも声になりません。この様に声には必ず母音が必要なのですが、欧米語はこの母音を捨てる方向に向かってきたと思われます。ここでも自然音を捨て不自然な方へ向かっているのです。やはり、refineの志向が働いているのかもしれません。
母音は気持を伝えやすい、すなわち、情の乗りやすい音です。一方、子音は切れのあるデジタルな音です。厳格に規定する知には適した音かもしれません。欧米語は、ここでも知に偏重し、情を捨てようとして来たのです。
日本語の拍は、子音と母音の組合せで出来ています。Refineするのではなく、ハーモナイズする方向を選んだのです。そして、あいうえお という母音5つ、子音9つの五十音の体系を作り上げました。マトリックスの洗練されたものです(元々はインドのサンスクリットから来たとも言われていますが、このようにシステマティックで洗練されたものにしたのは日本の悉曇学です)。母音を残したことは自然を残したことであり、母音が中心ということは自然を中心に考えているということです。
この母音を中心に残すかどうかが欧米語と日本語に非常に大きな違いをもたらしました。
欧米語から語感が無くなったのです。少なくとも、気付かれないほどの存在になってしまったのです。ソシュールが「音と意味との恣意性」を言った時、別段の異議も出なかったようです。無いものは無いことに気付かないのです。いや、むしろ、無いことが分からなくなってしまっていたのです。
ソシュールはラングについてのみ言ったのであって、パロールについては言っていないのです。にもかかわらず、この原理を言語全体に適用して言語学の第一原理にしてしまったのは、語感の存在が分からなくなってしまっていたからでしょう。日本の言語学学界も、欧米追従ですから、そういうことにしていますが、心ある学者はおかしいと思っています。そして、小さな声でオノマトペは例外だなどと言っています。(日本語のオノマトペは2000以上あって、日常会話では非常によく使われます)。
ただ、音と意味というように意味にしてしまったのは問題です。語感は意味ではなくイメージで、気持・ニュアンスを伝えます。
日本語には語感が生きています。オノマトペだけではなく、日常会話の中に生き生きと生きています。特に助詞の使い分けにはっきり出ています。
例えば、自分が学校へ行こうとしている時、
「僕、学校へ行く」と言います(通常、‘僕’は言いません)。
その場合、たくさんの人がいて、それぞれが色々なことをしようとしていて、自分は学校行くということを表明したい時は、(中のものをオープンに曝す)イメージの‘Wa(は)’を付けて、
「僕は行く」と言います。
誰かが学校へ行かなければならなくて自分が行くという気持ちを表す時は、(主格をクッキリと区切って、スポットライトを当てる)イメージの‘が’を付けて、
「僕が行く」と言います。
誰かが学校へ行くというので自分も行くという場合は、(柔らかく広がる)イメージの‘も’を付けて、(この‘も’は英語の‘more’と発音もイメージも似ています)
「僕も行く」となります。
また、終助詞の使い分けも非常によく行います。
「行く」
「行くよ」
「行くね」
ほとんど意味は同じですが、ニュアンスが違います。‘よ’には呼びかけ的なニュアンスがあって、誘っている場合と予告的に言い渡している場合があります。‘ね’には念押し的なニュアンスがあります、また、粘りからくる甘え的なニュアンスもあって別れ難いけどというニュアンスもあります。
「行く」だけでは、つっけんどんな感じになるので、女性は(柔らかい)イメージもある‘わ(Wa)’を付けることもあります。意味は変わりません。これに‘よ’、‘ね’を付けて、
「行くわ」
「行くわよ」
「行くわね」
と使うこともあります。
「行く」の変化に「行こう」があります。英語では「go」に対して「Let’s go」です。「行こう」は「行く」の活用変化なのです。この動詞の活用変化の中に「Let us」が内蔵されているのです。これは日本人がいかに集団行動を重視しているかの証拠かもしれません。欧米語にジェンダーが内蔵されているように日本語には集団行動が内蔵されているのです。
これらの助詞は単拍ですので語感が分かりやすいのです。ただ、日本人は通常意識して使い分けているわけではありません。意味で使っているのではありません。無意識層で、気持を載せて使っているのです。聞く方も意味で聞いているのではありません。語感のニュアンスで気持を感じとっているのです。自転車の運転で、無意識にハンドル操作をしているように、日本人は日常会話で語感で気持を伝えあっているのです。携帯のメールなどで、女の子は文章の終わりに顔マークをよく付けます。これは、話す言葉では伝わる気持が文章では伝わりにくいので顔マークで自分の気持を表そうとしているのです。若い女性の方が気持に素直なのです。
語感の存在にはソクラテスも気付いていて、‘R’は最も舌を動かすので動きを表すと言っています。あながち見当外れの間違いではありません。このような考え方は音象徴(sound symbolism)、あるいは音象(sound impression)といって、音と意味とを直接結びつけようとする傾向がありました。しかし、実際は、音と意味との間にイメージがあるのです。音が直接結びつくのはイメージです。私はこれを語感と言っています。これを英語で表現するとすれば、日本語的表現ですが、
   Voice Sound Subliminal Message (VSSM)
になるのではないでしょうか。
日本語には、助詞、オノマトペの他の一般の言葉にも語感と結びついたものがたくさんあります。これらは語感から直接出来たものと、それらから派生して出来たものとがあります。母音 ‘ア’ は最も口を大きく開けておおらかに声を出します。この発音体感から、開ける、空いた、開く、そして、明るいなどの言葉が直接出来ました。そして、これらの言葉から派生して、朝、赤、秋、天(アマ)などの言葉が出来ました。これらの言葉には語感が直接感じられます。天(アマ)から雨(アメ)という言葉が出来ましたが、雨ともなると‘ア’の本来の語感は感じられません。しかし、雨も語感から出来た言葉ということが出来ます。
オノマトペ「タンタン」はものを叩く音を模した擬音語です。この「タンタン」から叩く(タタく)という言葉が出来ました。また、叩くのは手ですから、手も‘タ’というようになったと思われます。今でも、手向ける、手折るなどと使われます。手が長く繋がったものであることから、‘a’ が‘e’に変わって‘テ’というようになりました。
「叩き合う」から「戦う」という言葉も出来ました。手、戦いとなると語感との繋がりは感じにくくなっています。日本語の中でも大和言葉はこのようにオノマトペから派生した語感繋がりの言葉がたくさんあります。オノマトペ自体、日本語には2000以上あるといわれ、日常生活でも非常によく使われます。オノマトペは一種の写実ですから自然ということが出来ると思います。欧米言語にオノマトペが少ないのは自然を排除しようとしてきたからかもしれませんが、日本語から見れば不自然です。(欧米では、自然を幼稚と考える傾向があります。また、幼いことを劣っているとも感じるようです。鉄腕アトムの顔も欧米では大人びた顔にしてしまいました。日本人にとってはちっともカワイクありません。)
母音に関しては、もう一つ面白いテーマがあります。「日本人の脳」で角田忠信先生が発表された仮説ですが、日本人は単母音、虫の声などを言語脳・左脳で聞くが、非日本語人は雑音として右脳で聞くというものです。私はありうることだと思っていますが、実証が十分行われていません。最新の装置で、そろそろ実証できるのではと期待しています(現在のMRIでは、音を聞かせての反応が分析できない)。虫の音を声として聞くというところが、やはり日本人ならでは、ではないでしょうか。

日本語、日本文化に比べれば欧米語、欧米文化は不自然です。ところで、欧米的ものの考え方で、不自然ということがネガティブなイメージだということが理解できるでしょうか。不可解に思われているのではないでしょうか。これが、違うものの考え方で他の文化、ものの考え方を見る難しさです。
        (平成25年1月23日)

以上、取敢えず、まとめてみました。
ガイ・ドイッチャーさんに主旨だけでもお伝えいただければと思います。
なお、上記に書きました事事は、それぞれもう少し詳しく、私のサイトでも論じています。整理が悪いのですが、ご覧いただければと思います。
   http://theory.gokanbunseki.com
また、語感を中心に、ブランド名などを分析したサイトもあります。併せてご覧いただき、ご意見などいただければ幸いです。
   http://www.gokanbunseki.com

なお、内容的にはかなり過激なことを書きましたが、これは学問上のことで、私自身は、いたって孫にも甘い温厚善良な一市民です。ご安心ください。
  →→→  元の図表はこちらをご覧ください

   語順について (追補)  

P11に、ルイ・ル・ラブルールの言葉として、「他言語の話し手と違って「われわれフランス人は、なにを口に出すにしても考えの順序どおりに言葉を並べていけばいい、そして、それは自然の序列にも適っている」のだと気づいた・・」を批判的に紹介している。
 私は、ルイ・ル・ラブルールは半分間違っていて、半分は正しいと思う。間違っているのは、フランス語だけが正しいとしたことで、私は、何語についても自然の秩序に従って考えの順序通りに口に出しているのが語順だと思う。
‘考え’という言葉の定義にもよるが、無意識層で色々と検討されたことが言葉によって顕在化、すなわち意識化されたものが、欧米語でいうところの‘考え’だろう。日本語の‘思考’には、無意識層での検討、すなわち‘思う’が入っているが、欧米的には意識化されたもののみを‘考える’と考えるようである。したがって、欧米語には‘思う’に相当する言葉がない。
無意識層の思考のプールから、考えとして言語化した順が語順であり、これが意識化ということだろう。語順はリニアーである。考えもリニアーである。論理もリニアーである。
しかし、無意識層の思考のプールはリニアーではない。脳の構造と同じように多元的なものだろう。マルチという並行的なものでもなく、錯綜したものだろう。脳内の神経ネットワークのように、ループ構造、ネガティッブスイッチも入っているのだろう。混沌に近いカオスかもしれない。もちろん、リニアーではありえない。それゆえ、無意識層での脳内思考の論理はリニアーではなく、複雑系思考とでも名付けるべきものだろう。
言葉にするということは、そこから一部を切り取って取り出すことだろう。概念化とはrefineすることである。言葉によって概念化することにより、初めて意識化することができるようになったのだろう。この意識化できる以前は全てが何となくという状態だったのではないだろうか。
言葉が生まれ、意識化ができる段階になっても、この何となくの部分は残った。それを割り切り、切り捨てようとしたのが欧米語であり、それを残そうとしたのが日本語である。
日本語は欧米語が切り捨てた情感の部分を語感として残している。ただ、その代償は日本語のいわゆる曖昧さかもしれない(欧米語から見てではあるが、)。そして、合理主義を追求するのには不利であったかもしれない。
ただ、精神生活としては、どちらが豊かであったか、少なくとも、日本人は一神教に逃げ込まざるを得ないまでに追い詰められはしなかった。
意識化が言葉による以上、意識はリニアーである。言葉の順序が意識化の順序だろう。この順序は言語によって違う。言語によって語順が違うのである。これは言語のクセだろう。そして、それは言語によるものの考え方のクセでもある。
欧米語は語順がしっかりしている。これに比べ日本語の語順はいい加減である。日本語の方が思考プールから概念を取り出す手順のルールが緩いのだろう。日本語の表現が、統語規則よりも言葉そのものに依存する割合が高いからだろう(これは日本語が助詞というシステムを採っているからで、加えて、助詞が豊富な情報および統語的情報を持っているからである)。
言葉が思考プールから概念を取り出し意識化する鏡だとすると、日本語の鏡には情感を感じるフィルターが付いているのかもしれない。あるいは逆に、欧米語の鏡には情感をカットするフィルターが付いているのかもしれない。そして、その鏡には枠が付いていて、言語によってその枠の形が違っているのだろう。
   (平成25年2月2日)

   ここ、そこ、あそこ  (追補)  

P141に,英語は指示代名詞として、this, thatを区別するだけなのに対し、日本語は、「ここ」、「そこ」、「あそこ」の三つを区別すると出てくるが、この「ここ」、「そこ」、「あそこ」も広い意味での語感から出来た言葉である。
まず、「こ(ko)」という表現が出来たと思われる。母音 ‘o’ には語感として重さと包み込むイメージがあって、存在感を感じさせる。子音 ‘k’ は喉を締めて発音するので調音点として喉を感じることができる。喉は自分の真ん中である。自分が今いる場所を ‘ko’ と表現したのだろう。‘koko’ と言ったかもしれない。次いで、‘so’ という表現が出来た。‘s’ の調音点は舌の上から唇にかけであって、‘k’ の調音点・喉よりも外へ離れていくイメージがある。そして、少し離れたところが ‘soko’ になったのであろう。もっと離れたところは、調音点が口の外へ広がり出るイメージの ‘a’ を付けて、‘asoko’ にしたのだろう。
この「ここ」、「そこ」、「あそこ」のセットから、「これ」、「それ」、「あれ」、そして「この」、「その」、「あの」が出来た。これらに加えて、調音点が‘k’と‘s’との間にある‘t’を使って、「とこ」、「とれ」、「との」という問の表現が出来た。なお、「問う」という言葉も、この‘to’からの派生語である。現在の日本語では、この「とこ」、「とれ」、「との」が濁音化して、「どこ」、「どれ」、「どの」として使われる。
また、「ここ」から「来い」という言葉(「ここ、ここ」と指さして来させることは、今でもよくある)、そして、乞う、さらに、恋というように派生して生まれたと思われる。声(koe)もこの乞う(kou)とのつながりで出来たのかもしれない。言(koto)もつながりがあるかもしれない。もちろん、言葉(kotoba)も。
「ここ」はhere、「そこ」、「あそこ」はthereである。
「これ」、「この」はthis、「それ」、「その」、及び「あれ」、「あの」はthatである。
「この」、「その」、「あの」の発展形に「このように」、「そのように」、「あのように」の簡略化された「こう」、「そう」、「ああ」という言い方がある。「こうこう」、「そうそう」、「ああああ」とも言う。「こう」はthis way、「ああ」はthat wayであるが、「そう」はyour wayであろう。「こう」はmy wayかもしれない。
「こう」、「そう」、「ああ」をそれぞれ肯定的、断定的に使うと、「こう」はmy wayを肯定することから、教示・指示に、「そう」はyour wayを肯定することから、you are rightに、「ああ」は第三者としてthat wayを肯定することから、納得、あきらめになる。(なお、この「そう」は英語の「so」と同じような使われ方をする。)
「ここ」はhereであるが、発音体感的には、my placeである。「そこ」はyour place、そして「あそこ」がthereである。
どうぞ、どうも、どうか
選択を問う「どこ」、「どれ」、「どの」、「どう」は英語では、where、which、which、how、であるが、このhowに当たる「どう」から派生した言葉が便利な言葉として日常生活で非常によく使われている。
どうぞ、どうも、どうか、そして、どうせ、どうでも、どうにも、どうにか、どうしても、どうやら、などである。
ここでは、「どう」がhow、what、somehow、anyhow、的に使われるが、さらに、英語表現にはないallhow、nohow、あるいは、neverhow的にも使われる。
この「どう」に助詞の‘ぞ’、‘も’、‘か’などが付いて、いろいろな意味合いを持つ言葉が出来るのだが、「どう」が意味的に、howにしろwhatにしろ、多義的で、それにやはり色々なニュアンスを持つ助詞‘ぞ’、‘も’、‘か’などで方向付けすることによって、いろいろな使われ方をする非常に便利な言葉になっている。
「どうぞ」の‘ぞ’は、‘so’を濁音化して強調したものであるが、‘so’には相手を肯定するニュアンスがあるので、それを強調することによって、「どうぞ」には、お薦めからお願いの気持まで表現できるようになっている。
「どうも」の‘も’には、大きさに加えて柔らかさからくる曖昧さがあって、「どうも」は不確かな疑念、そして曖昧な感謝、謝罪などを伝えるのに多用される。
「どうか」の‘か’には、可能性、仮定のニュアンスがあることから、「どうか」は切なるお願いに使われる。
この様に、「どうぞ」、「どうも」、「どうか」の「どう」は語感から生まれたものであり、それに付く助詞‘ぞ’、‘も’、‘か’も語感の生きている言葉であるから、「どうぞ」、「どうも」、「どうか」はまさに語感の言葉で、日本人には非常に使いやすい。(もっとも、これらの語感を今の日本人が意識化できるかは、ややむつかしいかもしれない。しかし、無意識下で使いこなしているのである。)
点、線、面、円
語感が生きていると思われるセットの言葉に、点、線、面、円がある。
点、線、面、円の読みは、TeNN、SeNN、MeNN、ENNでT、S、Mの違いである。これらは訓読みではないので、大陸から来た音であろう。元の音がどんな音であったかは分からない。大陸から来た音を、日本語として聞きなしたのが、TeNN、SeNN、MeNN、ENNだったのだろう。
では、T、S、Mの違いは何か。
子音‘T’は舌先をちょこっと硬口蓋につけて弾くようにして発音しているので、まさにポイントのイメージである。
‘S’は息を舌の上を流すようにして発音するので流れのイメージである。
‘M’は盛り上がるイメージである。
流れを線として、盛り上がりを面として捉えるのはごく自然なことである。
母音‘E’には繋がっているイメージがあるので、ENNが円になるのも当然かもしれない。
このことから、点、線、面、円が語感から出来た言葉ということが出来るのではないだろうか。
(もともと、大陸に於いて、語感から作られた言葉であったのかもしれない。)
     (平成25年2月2日)

   日本語の主語( I か you か we か)  

若者が4〜5人集まって何やら作業をしていた。正午近くになって、その中の一人が言った。
「お昼、どうする?」
一人が答えた、
「僕、うどん!」
すると、別のもう一人が、
「どこか行こうか?」
と言った。
この会話を英語にするとどうなるか。
「どうする?」
の主語は何か。Youか。
「僕、うどん!」
は、meと答えているから、youと捉えた返事である。
「どこか行こうか?」
の主語は何か。「 Shall we・・? 」であるからweである(動詞‘行く’の活用変化‘行こう’の語尾‘こう’の中にlet usが含まれている)。返答でweと答えているから、質問をweと捉えたことになる(返答のweに質問者も含まれているから)。とすると、
「どうする?」
の主語はweであったことになる。それでは、
「どうする?」
には、youが省略されているのか、weが省略されているのか。どちらか?
実は、日本語では、youでもweでもどちらでもいいのである。
You、weが省略されているのではない。必要がないのである。4〜5人が集まった状態で、「どうする?」と言えば、主体は自ずから決まっているからである。個別に食事をするか、そろって食事に出かけるか、初めからどちらかに決めつける必要はない。どちらも可能性として含めた質問なのである。Youともweとも言う必要はないし、むしろ、最初から決めつける発想は日本人にはない(受け止め方の自由度が高い)。
「どこか行こうか?」の「行こう」は「行く(go)」の語尾変化で「let us go」である。
欧米語では名詞の語尾変化の中にジェンダーを含んでいるが、日本語は動詞の語尾変化の中に「let us」、すなわちweを含んでいるのである。さすが集団行動の国柄である。

川端康成「雪国」の冒頭の一節、
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
サイデンスッテカーさんによる英訳は、
The train came out of the long tunnel into the snow country.
である。かなりイメージが違う。なぜか。
英訳では主語はThe trainである。原文には主語はない。主語を入れるとしても、その主語は何か。英訳のように汽車を入れると、
汽車が国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった。
となり、主語が同じとすれば、雪国以下が少しおかしい。そこを補うとすれば、
汽車が国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった。
となる。そして、主文は「そこは雪国であった」である。
 英文は、The trainが主語の客観的状況描写である。しかし、原文の日本語は主観的体験である。主観的体験であるから、主語を入れるとすれば、列車ではなく、私である。
 日本語で「おいしい」と言えば、主観的表現にもなれば、客観的表現にもなりうる。これを過去形にして「おいしかった」と言えば、これは主観的体験になる。
 「おいしい」が英語で「It is delicious」であったとしても、その日本語の過去形「おいしかった」は「It was delicious」ではない。主観的体験であるから、英語にするならどこかに主語としてのIが必要なのである。
 「雪国であった」も客観的状況描写ではなく、主観的体験であるから、どこかにIが欲しいところである。例えば、私なら、
   The train came out of the long tunnel, and then I found there the snow country.
としたいところだが、英語としてはすっきりしないのだろう。
 日本語は、表立ってI、youを使わないが、このように動詞活用変化の中にもIが含まれうるのである。

 「行こうか」の基は、「行く」である。「行く」に助詞を付けていろいろに使われるが、付ける助詞によって想定されている主語(主体)に当たるものが変わってくる。
 「行く」、 I
 「行く?」            youの場合とI & youの場合がある。
「行くわ」、「行くね」、「行くかも」「行くの」   I
 「行くよ」、「行くぞ」、「行くわよ」       Iの場合とI & youの場合がある。
 「行くの?」、「行くのね」、「行くのか」     you
「行くか」、「行くか?」            youの場合とI & youの場合がある。
 「行こう」、「行こうか」、      I & you (we)
 「行こうよ」、「行こうね」、「行こうか?」    you
 「行かない」、「行かないよ」、「行かないわ」   I
 「行かないね」、「行かないのね」、「行かないのか」you
これらの場合も、日本語では基本的には、主語に当たる言葉は使わない。Youの場合とyou & Iの場合がある時も、その場の状況でどちらであるか容易に判断できる。
これは、形容詞でも同じである。「おいしい」にはそのバリエイションとして、次のようなものがある。
 「おいしい」、「おいしいわ」、「おいしいなぁ」   I
 「おいしい?」、「おいしいのね」         you
 「おいしいか」、「おいしいよ」、「おいしいのよ」  you
 「おいしいね」                 you & I
 「おいしかった」、「おいしかったよ」       I
 「おいしかった?」               you
 「おいしかったね」               you & I
 この中の「おいしい」と「おいしい?」を英語にしてみるとこのようになる(発音ではアクセントの違い)。
 「おいしい」は「It is delicious.」、あるいは「I think it delicious.」
 「おいしい?」は「Do you think it delicious?」
 アクセントを変えるだけで、Iとyouが入れ替わってしまうのである。
基本的に、日本語は場(occasion)の言語であるから、I、you、weを言わなくとも何が主体かはすぐ分かる。そして、重要なことは、日本語では原則的にI、you、weを言ってはいけないのである。例えば、上のケースで、
「私はおいしかった」
と言えば、自分には美味しく思えたけれども、他人にはどう思われるか分からないというニュアンスが出てくる。
 「あなた、おいしかった?」
と言えば、美味しさを強要しているようにも取れる。
 「僕たち、行こうか」
と言うのは、他のグループがまだ居残っているような場合である。
 ちなみに、他のグループが行かないと決めているような場合には、
 「僕たちは、行こうか」
となり、他のグループがすでに出発し始めているときは、
 「僕たちも、行こうか」
となる。(格助詞の使い分け)
     (平成25年2月12日)

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