新しい言語学

場の言語学

  場の言語学 試論  

   マクロから見た 言語場  

画像の説明
(注):磁界、電磁場 は比喩的表現です。

   ミクロから見た 言語場  

画像の説明

  言語場 (Field)  

 マクロの言語場
 ミクロの言語場

マクロの言語場  現象としての言語場
 一つの言語の言語空間。言葉の飛び交う全ての場。
ミクロの言語場  実体としての言語場
 一つの言語空間を構成する個人一人一人の中に存在する個別の言語場

言語を考えるとき、文字は非常に大切な要素である。
現代社会において、文字なしの言語は考えられない。
我々の学問も文字あって初めて成立しえたといっても過言ではない。

しかし、我々が文字を手に入れたのはたかだか5千年前である。日本語では2千年足らず前にすぎない。
人類が言語を獲得して数万年、あるいは、数十万年。その大半を、我々の祖先は文字なしの言語活動を行ってきた。
したがって、言語の本質を考えるとき、まず、文字のない言語を考え、しかる後、文字を得たことによる言語の本質の変化を別途考えたい。(言語の本質は変わらず、新たなものが加わったと考えられる。)

場の言語学’は‘語感’の言語学である。発音体感としての‘語感’の言語学である。(語感言語学)
‘語感’は単なる聞こえではない。主体的な発音体感である。
‘語感’は、言語にとってお飾り的なものではない。言語にとって本質的なものである。
日本語において、これは顕著に見えるが、すべての言語にとっても基本的・本質的なものであろう。

私は言語現象を‘場’として捉えたい。
二つの言語場を想定する。
一つはマクロの言語場。一つの言語の言語活動すべてを包摂するものである。言葉の飛び交う現場すべてである。
ただ、この‘場’は現象にすぎず実体はない。ただ、言葉が飛び交っているだけである。
従来の言語学は主としてこの‘場’を研究の対象としてきた。結果としての現象のみを研究してきたのである。
もう一つはミクロの言語場。一つの言語社会を構成する個人一人一人の中に存在する言語場である。
この言語場は人間、あるいは、脳という実体の中に存在する。したがって、このミクロの言語場は実体ということも出来る。
私は、言語現象の本質を解く鍵は、このミクロの各個人の中にある言語場にあると思う。
ミクロの言語場が集まって言語活動をするとき、その全体の表面に浮かび上がるのがマクロの言語場である。
マクロの言語場とミクロの言語場の関係は電磁場に例えることができる。
個々の小さな磁場が集まることによって誘電現象が起こり全体としての大きな磁界が発生する。この大きな磁界は小さな磁場のそれぞれの変化によって全体として変化する。そしてマクロの大きな磁界の変化は個々の小さな磁場に変化を及ぼす。
ここで重要なことは、大きな磁界は小さな磁場があってはじめて発生するのであって、原発的なものではないということである。すなわち、マクロは誘電されたもので、単なる現象に過ぎず実体ではないということである。
マクロの言語場に飛び交っているのは言葉(磁気)に過ぎず、言葉は音、すなわち、空気の振動に過ぎない。この空気の振動はミクロの言語場において実体化され、初めて意味をもつのである。
ミクロの言語場、すなわち、一つの言語社会を構成する個人一人一人の脳の中の言語システムが重要なのであって、従来の言語学は、この言語現象の実体に切り込むことをせず、現象面をなぞる事にのみ終始したのである。

  ‘個’の言語場の生成  

人類がどのようにして言語を獲得したのかを考えるとき、二つのアプローチが考えられる。
一つは、人類が初めて言語を獲得した場面である。
今一つは、‘個’としての赤ちゃんがいかにして言語を獲得していくかである。
我々の祖先がどのようにして言語を獲得していったかは、現在の言語間の違い、特に日本語の特異性を考えるときに、改め考察したい。
ここでは、すでに出来上がった言語環境、特に日本語の言語環境のもとで、その中に生まれた赤ちゃんの脳の中にどのように言語場が作り上げられていくかを考察したい。
重要なことは、赤ちゃんが生まれながらにして言葉がしゃべれるようになって生まれてくるのではないということである。
言語は本能ではない。しかし、しゃべるための器官とそのための脳のシステムは備わっている。また、言語の基礎となる人とコミュニケートしたいという欲望も備わっている。これは本能であろう。

赤ちゃんは母親の胎内で母親の声を聞きながら育つ。声としてはっきりとは聞こえないとしても、音の連なり、区切れ、リズムを全身で感じながら育っていく。
生まれ出た瞬間から、この世の音に晒される。遠くを走る車の音、掃除機を掛ける音、人の動く音、人の声、お母さんの声。そして、これらを聞き分けられるようになる。(分節の始まり)
五感はまだ充分分離しておらず、生まれて直ぐは共感覚状態だといわれている。
特に、視覚は、直ぐには焦点も合わず、遠くのものが見えるようになるには少し時間が掛かるようである。
遠近感も色もそれぞれ脳の中での演算計算の結果である。すはわち、ものの距離感は左右の目から入った情報の差によって分かるのだし、色も三原色の配合割合の計算から自分としての色が定まるのである。
感情も、最初は快不快だけであったものが、お腹がすいて不快、オムツが濡れて不快、お母さんがいなくて不安で不快といろいろと細分化していく。
赤ちゃんのコミュニケーションの始まりは泣き声と思われている。ただ、初期の泣き声は不快の表明であって、それへの反応を期待しているかどうかは疑わしいので、本当のコミュニケーションとはいえないかもしれない。
もう少し大きくなって、お母さんの姿が見えなくて泣いていたのが、お母さんが姿を現すと途端に泣き止むのは一種のコミュニケーションである。
しかし、赤ちゃんのコミュニケーションの始まりはもっと前に起こる。
母親からの授乳時である。
正高信男先生の研究によると、赤ちゃんはお乳をしばらく吸っては休む。そして、お母さんが赤ちゃんをゆすったり、背中をやさしくたたいたりすると、また吸い始めるのだそうである。そして、またしばらく吸うと休む。お母さんが反応するとまた吸い始める。
正高先生は、これが赤ちゃんのコミュニケーションの始まりだろうとおっしゃる。なぜなら、赤ちゃんがお乳を吸うのを休む理由がないからである。息は鼻から吸える。体力のある赤ちゃんも休む。そして、人間以外の赤ちゃんは休まないのだそうである。
すると、休むのはお母さんの反応を期待してのことだろうし、反応があるとまた吸い始めるのは、反応があったことに満足したということであろう。
お母さんがゆすったり、背中をたたいたりするのは無意識で、本能的なものだろう。
そして、興味深いのは、お母さんの反応の早い遅いが赤ちゃんのペースに影響を与えているらしいことである。せっかちなお母さんに育てられればせっかちな子になる。(遺伝的なものもあるだろうが、)
母子の授乳が、赤ちゃんのコミュニケーションの始まりであり、ここでのタイミングの取り方が、赤ちゃんの会話のタイミングの基礎を作るのではなかろうか。

音の渦、言葉の渦の中でお母さんの声を聞き分けられるようになった赤ちゃんは、お母さんの声を音の連なりとして捉えるようになり、だんだん、その中の音のカタマリに気付くようになる。
そして、一つ一つの言葉らしいものが分かるようになる。
ところで、我々は アイウエオ、カキクケコ の音の違いをどこで聞き分けているのだろうか。
アイウエオ の違いは音の高さではない。お母さんの発音する‘ア’とお父さんの発音する‘ア’では音の高さが違う。
アイウエオ の違いは、発音の仕方の違いである。
お母さんもお父さんも同じ口の使い方をしてはじめて同じ‘ア’なら‘ア’の音が出る。
いろいろな周波数、いろいろな波形の音が混じりあい、その相互作用の結果、いろいろの音になるのである。(母音と子音では、音として基本的に異なるが、)
自然界に、絶対的に‘ア’という音が存在するのではなく、人間がある特定の発音の仕方をして出る声の音が‘ア’なのである。同じ発音の仕方をすれば誰でも出るのが‘ア’なのである。したがって、人により音は微妙に違う。
(これは一種の見做しで、見做しにはある程度の許容範囲が必要であるが、この範囲は人によって多少異なる。風の音に言葉を聞く人もいる。)
全ての音についてそうである。その違いを何処まで許すかは言語それぞれによって異なる。例えば、‘R’の音と‘L’の音を区別するかどうか、濁音と半濁音を区別するかどうか、言語によって違う。
この音の区分けの全体が音韻秩序である。
言語ごとに異なる音韻秩序があるが、これは、その言語社会を構成している一人一人の脳の中の音韻秩序の総計的なものである。
一言語の音韻秩序には実体はなく現象に過ぎない。実体は個人の脳の中にある。
赤ちゃんは一言語の環境の中で生まれ育ち、自らの音韻秩序を自らの中に作り上げる。したがって、その言語に対応した音韻秩序が出来るが、これは、全体の音韻秩序をコピーしたものではなく、あくまで自ら作り上げたものである。この‘個’の音韻秩序は個人の‘脳’の中の言語野の一システムとして作り上げられる。これは言語野の音韻モジュールと呼ぶことも出来る。
日本語環境では、まず、拍の音韻秩序が出来るだろう。そして、これと平行しながらその下部組織として音韻の秩序が出来るだろう。英語の環境では、まず、シラブルの音韻秩序が出来、その下部組織として音韻の秩序が出来るだろう。このとき、日本語では拍と音韻との関係が整合的なのに対し、シラブルと音韻では余りシステマティックではない。また、英語では音韻の数も多い。
(鈴木孝夫先生によると、音素の数は、日、23。英、45。独、39.仏、36。だそうである。そして、英語には単音節語が3千近くあるという。)

一方、赤ちゃんは喃語だけであったものが、発声器官の完成もあって、いろいろの声を出そうとし始める。人の真似をしようとするのは人間の際立った本能のようである。
最初は曖昧な音であるが、やがて‘マ’とか‘バ’とか‘パ’というような声らしい音がだせるようになる。
赤ちゃんにとって、この一つの音を出すことは大変な努力を要する。(しかし、赤ちゃんは、いやいやこの努力をするわけではない。真似したいという本能によって、嬉々として努力しているのである。)
マニュアルのない赤ちゃんは見様見真似でやるしかない。見様といっても口の中は見えない。
試行錯誤でやるしかない。
この一つの音を出すということは、脳にとっても大変な作業である。
人間は筋肉の収縮によって動く。筋肉の収縮はすべて脳の指令によって起こる。
一つの音を出すには多くの筋肉を動かさなくてはならない。しかも、一連の作業としてタイミングよく連携して行われなくてはならない。
まず、息を出す。その出し加減。声帯を震わせるかどうか。ノドを一旦閉めて破裂させるか。息を鼻に抜くか。口腔全体の形をどうするか。舌の形はどうするか。平らにするか、尖らせるか。時には震わせるか。口蓋につけて弾くか。唇は閉めるのか開けるのか。破裂させるのか、大きく開けるのか。唇の形はどうするのか。
これら一連の作業をタイミングよく行わねばならない。これらの指示はすべて脳が行う。
一つの音を出すこれらの作業の一つ一つは、最初は意識して意思を持って行わなければならない。自然に出るようになるのではない。赤ちゃんには声という音を出したいという強い欲求がある。
一連の一つ一つの作業には、当然、感覚も伴う。ノドを固く締めれば固い感覚も起こる。舌を尖らせば鋭さや固さの感覚も出る。唇を破裂させれば破裂、拡散の感覚は勿論、パワーの感覚も出る。息を舌の上を通せば流れの感覚や息が気化熱を奪い少し冷たいさわやかな感覚も生まれる。
満ち足りて、大きく背伸びして、口を大きく開けて、のびのびと声を出せば、‘ア’的な音になる。
人間の随意筋の収縮にはかならず感覚が伴う。フィードバック・システムの一部でもあり、これによって人間の微妙な動きが可能になっているのである。ただ、通常この感覚は意識されることは少ない。
一つの音を出すための一連の作業に伴う一連の感覚は、やがて余り意識されないようになる。しかし、一連の作業と一連の感覚はセットとなって脳内に蓄積される。
一連の作業、すなわち、一つの音を出す筋肉の操作は小脳に記憶される。そして、一つ一つの筋肉の動きを意識しなくとも特定の一つの音が出せるようになる。むしろ、小脳に記憶された筋肉の動きは意識できない。(自分でどうやっているのか分からない。)
一連の作業に伴う一連の感覚は大脳に記憶される。この感覚は通常は意識されないが、意識しょうとすれば意識することも出来るようになる。(サブリミナル → リミナル)
一連の作業と一連の感覚はセットになっている。すなわち、一つの音の発音とそれに伴う一連の感覚がセットになっているのである。
この一連の感覚は、この段階では、分節以前のクオリア状態である。言葉以前の状態で、例えば、固いかといえば少し固く、重いかといえば大変軽く、湿り気が少々あり、・・・というようなことになる。
意識化するために分節して言葉にして初めて、固いとか明るいとかが言えるようになる。しかし、一連の感覚をすべて言葉で表現しつくすことは出来ない。
言語の現象場で、この感覚の一部を言語化したのが音象徴である。
言語の実体の場でいえば、この一連の感覚は‘発音体感’である。
ただ、一般的には、この一連の感覚を分節して言葉に表現したものを‘発音体感’といっている。
私は、本来の発音体感に意思的なものを加えたものを‘語感’と考えている。(現象面を含めてと考えて、音象徴をも含めて‘語感’ということもある。)
‘語感’には、繋がりという意味で、意味的なものも一部あるかもしれない。(語呂合わせとか、駄洒落に通じる)
‘語感’は、当然クオリアである。
クオリアを言語化するには、いろいろの切り口で切ってみるしかない。
これを図示すれば、下記の通りである。
画像の説明

赤ちゃんの脳の中に音韻秩序が形作られるのと平行して、すべての音の‘語感’の秩序も作られる。
この音韻秩序と語感秩序は、表と裏の関係のように、常に並存する。ただ、音韻秩序は音として、すなわち、現象として表に現れるが、‘語感’は現象面には現れず常に影のままである。
‘ア’なら‘ア’という声は、現象場であるマクロの言語場では、ただ単なる‘ア’という音であるが、実体であるミクロの言語場においては、音韻‘ア’とその‘語感’のセットなのである。
赤ちゃんの脳の中の音韻秩序は、まず音を聞き分けるためのものであったが、やがて音を発音し分けるためのものともなる。すなわち、人は言葉を聞いたときも言葉を発するときも、この音韻秩序が関係するのである。
(図・語感秩序)
画像の説明

お母さんの‘ア’、お父さんの‘ア’、いろいろの人の‘ア’を聞いたとき、この音韻秩序によって一つの‘ア’、すなわち、自分自身の‘ア’に変換するのである。そして、これは神経パルスの一定のパターンとなって脳内で処理されるのである。(脳内言語、自己言語)
当然、自らが‘ア’と発声するときも、この音韻秩序によって‘ア’という自分の声が作られる。
ここで、重要なことは、聞いたときも、話すときも、この音韻秩序を通すことであり、このことは、必ず表裏の関係にある語感秩序をも活性化することである。
すなわち、聞いたときは勿論、話すときも‘語感’は発生しているのである。(読んだときも、意味を理解するには自分の音に変換して、すなわち、音韻秩序を通して、処理しなければならないので、‘語感’は発生している。)(‘語感’は自作自演のようなものである。)

言葉の音を聞き分け、発音し分けられるようになりつつ、赤ちゃんは、一つの音の連なりを言葉として認識できるようになり、この言葉とこの言葉が指し示すところのこと、すなわち、意味と結び付けられるようになる。
もちろん、最初覚えた言葉が‘ママ’であったとしても、この‘ママ’が、必ずしもお母さんを意味しているとは限らない。赤ちゃんによっては欲しいもの、お乳のことであったり、赤ちゃんによってはお母さんのこともお父さんのこともお婆ちゃんのことも‘ママ’かもしれない。赤ちゃんによっては「来て」ということかもしれない。(名詞、動詞、形容詞の区別は、まだ、ないかもしれない。)
すべての言葉が、赤ちゃんそれぞれに曖昧な概念としてまず覚えられ、やがて、その言葉のもつ本来の意味へと収斂していく。
そして、少しずつ言葉の数も増え、脳の中に言葉と意味とを結びつける辞書が形作られていく。
このとき言葉は音の連なりであるから、一つ一つの音は裏で語感秩序と結びついており、結果、一つ一つの言葉も語感秩序と結びつく。これは、結果として、一つ一つ言葉がそれぞれの‘語感’を持つということである。
一つ一つ言葉がそれぞれの‘語感’を持つということは、赤ちゃんが言葉を覚えるときに手助けになる。
一つの言葉の‘語感’が、その言葉の意味と整合性があれば、その言葉は素直に覚えられる。(イベント記憶のように、何かと関連付けて覚えると覚えやすくなる。)

言葉、そのものがどのように出来、増えていくか。いろいろの出来方があり、派生にもその仕方がある。
それは言語によっても違うだろう。そもそも音韻秩序が異なれば、言葉の増え方も違うだろう。拍が基本の言語とシラブルが単位の言語では根本的に出来方が違うだろう。
拍方式では、拍と拍を繋ぐことによって新しい言葉を作ることが出来る。拍を三つ四つとすれば、ますます多くの言葉を作ることが出来る。そして、出来た言葉の一部を変えることによっても、また新しい言葉を作ることが出来る。この際も、音それぞれに‘語感’があって、拍の連なりになっても、この‘語感’も連なりとなって、その新しい言葉についてまわる。このとき、新しい言葉の意味がその‘語感’によっても決まるだろうし、また、別の理由から決まることもあるだろう。そして、言葉の意味と‘語感’の整合性が薄れていくことも考えられる。ただ、日本語の場合、‘語感’との整合性の無くなった言葉は、だんだん使われなくなってやがて消えてしまう。ときには、当初の意味から‘語感’に引っ張られて意味の変わってしまう言葉もある。
枕草子の‘すさまじい’は‘興ざめするもの’の意味で使われているが、今では我々は、‘恐ろしいほど激しい’のような意味に使っており、語感的にはこの方が納得がいく。
漢語由来の‘遠慮する’という表現も、本来の漢語の意味は‘深謀遠慮’というような意味で、現在我々が使うような意味ではなかった。しかし、‘ENRYo’という音には、身を引いて辞を低くするようなイメージがあるため現在のような使い方になったと思われる。(主に‘E’の‘語感’)
漢語には、このように日本語としては本来の意味とは異なる使われ方をするものが多くある。(辞書では、これらは、「日本語での特別の意味」となっている。)
言語によっては、地政学的な理由から、他言語との融合などから、言葉と意味が変わり、意味が‘語感’から離れてしまったものもある。
ソシュールが音と意味との恣意性を言ったのは、このような事情からかもしれない。しかし、そのソシュールオノマトペについては音象徴性を認めているようだ。ただ、オノマトペを正式の言葉とは認めてはいないようでもある。

  オノマトペは言葉か  

これは定義の問題ではあるが、私は広く考えたい。
最も簡単な言葉は感嘆詞である。
日本語では、アッ! ウッ! などである。これは生理音である。しかし、生理音そのものではなく、言葉の音で模したものである。(この意味でも感嘆詞は言葉である。)
模するためには言葉の何かの音で見做すわけであるが、言語により音韻秩序が異なるし、見做し方のクセもあって、言葉としての感嘆詞も言語によって異なる。
生理音には意味は無い。したがって、感嘆詞も意味は持たない。感嘆詞は音を模したものにすぎない。
オノマトペも意味は持たない。擬音語は音を模したものだし、擬態語はありようを言葉の音で模したものである。ここでも音による見做しがあり、言語ごとに音が違い、見做し方が違い、結局、言葉としてのオノマトペも言語ごとに違う。
この見做しはその言葉の音の裏にある‘語感’によって行われる。‘語感’はいろいろなイメージを含んだクオリアであるが、そのクオリアが含むイメージの一部を使って、見做すのである。
オノマトペ‘カラカラ’は、‘カラカラ’の‘語感’が含む‘乾いた’というイメージを使って、「ノドがカラカラに乾いた。」とも言うし、回転のイメージを使って「風車がカラカラ回る。」ともいう。
オノマトペは意味を持たず、いろいろなイメージを持っている。すなわち、分節前の言葉なのである。
通常、オノマトペは‘ものごと’の‘ありよう’を示すのに使われる。‘ものごと’の‘ありよう’は‘ものごと’と違って分節しきれない。ここから、分節しきれない‘ありよう’を説明するのに分節していないオノマトペが使われるのである。
分節をもって言葉というのであれば、オノマトペは言葉以前かもしれない。
しかし、何かを言葉の音で指し示すことが言葉の定義とすれば、感嘆詞もオノマトペも言葉である。
オノマトペと普通の言葉との違いは、分節の程度である。そう考えるとオノマトペは言葉の赤ちゃんなのかもしれない。日本語にはオノマトペから出来たと思われる言葉がたくさんある。
ただ、原初的な言葉にはオノマトペが先か言葉が先か分かりにくいものも多い。

猛獣のうなり声‘ウー’は、実際は‘ウ’音ではない。一切口を開かず鼻腔で共鳴させて出す音である。日本人が分かったというときによくいう‘ウン’も‘ウ’音ではない。これも一切口を開かずに発音している。実際は生理音に近い。これらを日本語では‘ウ’で聞きなしているのである。これは日本語の流儀で、クセのようなものである。(50音の中では‘ウ’音が最も近い)
このクセは音韻秩序と関係があり、日本語のような アイウエオ と拍がはっきりしていて、数も50そこそこと少ない場合は、音を決めること、すなわち、選択がしやすい。反面、音を決めるのに思い切りが必要になる。そして、この決め付けに‘語感’もかかわってくる。‘語感’によって決め付けるとともに、決め付けたことによって‘語感’もそれに引きずられる。(日本語のモーラの数は、112程度というのが通説である。)
猛獣のうなり声‘ウー’。これは擬音語。これから‘うなる’という言葉が出来た。
分かったという意味の合図‘ウン’。これは感嘆詞。これから‘うなずく’が出来たのかもしれない。
(ウン+つく → ウンづく → うなづく)
そして、それから‘うなじ’、‘うなだれる’と派生していった。
人間の‘ウー’からは、‘うめく’が、‘うーん’から‘うたがう’、‘ウン?’から‘うかがう’などが出来たのかもしれない。
‘疑う’、‘うかがう’、‘うなずく’、これらの言葉に共通に感じられるのは、心の中の動き、ということである。これは、もともとの生理現象を‘ウ’音で聞きなした結果である。これも‘語感’である。
「その料理のうまさに、彼は心の中で‘うなった’。」という言い方もある。‘うなる’も心との親和性があるのである。共通の‘語感’が効いているのである。(比喩の共通ベースを‘語感’が提供しているのである。)

オノマトペは未分節の言葉である。言葉は未分節から分節が進んで増えていった。
言葉の最初は名詞、動詞、形容詞というようには分節していなかったと思われる。赤ちゃんの‘ママ’のように。
日本語では、最初すべての存在が‘ア’であった。(とも考えられる。)
私も‘ア’、あなたも‘ア’。あれも‘ア’。在ること事態が‘ア’であった。そこから、吾、我、アレ、在る などの言葉が出来たのだろう。
理論的には、人類最初の言葉は‘ア’ではなかったか。
‘ア’はもっとも自然に出せる母音だからである。前を向いて、胸を張って、口を大きく開けて、大きく声を出せば、それは‘ア’である。
この体感から日本語では、‘ア’から‘開けた’、‘明るい’、‘天(アマ)’などの言葉が出来、これらから、‘開ける’、‘赤い’、‘雨’、などの言葉が出来ていった。
日本語の母音の中で最も動きを感じさせるのは、‘ウ’である。‘ウ’を発音するとき、息を少し鼻に抜く感じがあり、中から上への動きを感じる。ここから、‘動く’、‘浮く’の言葉が出来、‘浮く’から‘上’も出来たのかもしれない。
母音‘イ’の発音は、口先を緊張させ、息を前上に鋭く出すイメージがあり、自分の意思であることを表明しやすい。ここから、‘イヤ’、‘イイ’、‘イク’などの言葉が出来たのではないか。‘イイ’と‘イヤ’という逆の表現にも同じ‘イ’が使われているのはこの故である。
感嘆詞‘オッ’、‘オオ’から‘おどろく’が出来ても不自然ではない。母音‘オ’の発音は、口腔を丸く大きくしてノドの奥下で発声するので、‘オ’には、大きい、重い、奥 などのイメージとともに、包み込むイメージが出る。
母音‘エ’は日本語としては比較的遅く入ってきた音で、口元を平らに少し下後ろに引くようにして発音するため、身を後ろに引く躊躇感や抑え気味の感覚が生じる。ときに、子音との結びつきによって、粘り感が強く出る。新しく入った音であるため、‘エ’から出来た原初的な日本語はないが、枝(エ)、根、毛、手、芽 などが‘エ’の‘語感’繋がっている を反映しているのではなかろうか。
このように原初的な言葉は語感と直接結びついている。‘語感’そのものといえるような言葉もある。
それらの言葉から派生した言葉は、‘語感’そのものというわけにはいかないが、‘語感’との整合性は強い。
これらの言葉は、意味的な繋がりから、また、語感的な繋がりから、‘個’の言語場の中でゆるいグループを作り、互いに連想しやすくなる。言葉を覚えるときも、もちろん、覚えやすいし、思い出すときも感覚を含め思い出しやすい。
オノマトペとそれから派生した言葉の関係もこの関係に近い。
オノマトペ‘コロコロ’から‘転ぶ’という言葉が出来た。(この逆かもしれない。)
‘転ぶ’から‘転がる’、‘転がす’などが出来、‘転がす’、‘転がる’から‘殺す’という言葉が出来た。(殺すと転がるから。)‘殺す’となると‘コロコロ’の‘語感’からはかなり離れる。
‘コロコロ’と‘転ぶ’どちらが先かということについては、‘クルクル’、‘キリキリ’、‘カラカラ’と、すべて回転を表わしうることから、‘K’に回転のイメージがあり、‘コロコロ’は比較的早く出来た言葉と思われる。ちなみに、‘キリキリ’と関連がある言葉に、‘錐’があり、‘クルクル’の関連では、‘狂う’、‘苦しい’がある。‘苦しい’については、‘K’の発音時にノドの奥を締めるので、直接の生理的体感ということも出来る。

日本語に関する限り、オノマトペから出来た言葉は多い。オノマトペと関連のあると思われる言葉は非常に多い。
オノマトペに音象徴性を認めるのであれば、当然、これらのオノマトペと関連のある言葉にも音象徴性があることになり、ソシュールの言語学の第一定理「音と意味との恣意性」は、少なくとも、日本語に関する限り、崩れることになる。
オノマトペとそれと関連があると思われる言葉は別表の通りである。)
オノマトペ‘コロコロ’、‘クルクル’がいつ頃出来た言葉かは分からない。ただ、このように整った形に収まったのは比較的新しいのではなかろうか。
‘転ぶ’、‘苦しい’がいつ頃出来た言葉かも分からない。そして、この前段階でいろいろ変化して今の言葉になったのだろう。
したがって、オノマトペ‘コロコロ’と‘転ぶ’のどちらが先かが重要なのではなく、この二つの言葉に意味的にも音韻的にも繋がりがあることが重要なのである。
オノマトペといわゆる普通の言葉に意味的にも音韻的にも深い繋がりがあるとすれば、オノマトペに音象徴があることは大方が認めているのであるから、普通の言葉の一部にも音象徴があるということになる。
問題は、この普通の言葉が、例外的な少数のものかどうかであるが、日本語に関しては、かなりな数になる。
そして、これらから派生した言葉も意味的にも音韻的にも繋がりを残しているので、これらの言葉を合わせると相当の割合になるのではなかろうか。
‘コロコロ’と‘殺す’は音韻的には近いが、意味的には少し離れている。しかし、‘殺す’という‘語感’に違和感はない。
‘ウン’と‘うなづく’から派生した‘うなだれる’となると、これも遠いが、‘ウ’のもつ内面性が‘うなだれる’にも強く生きている。‘うなじ’になると語感的にも直接的なものは感じられない。ただ、‘うなじ’を‘うなづく’、‘うなだれる’の意味的なグループと考えると納得性が出てくる。
このように、‘語感’と直接は結びついていなくとも、意味的に他の言葉を通じて‘語感’に結びついている言葉は多い。
結論的にいうと、私は、日本語に関する限り、普通の言葉にも音象徴はあると思う。(すなわち、音と意味との恣意性は言えない。)
理由は、以上のように、オノマトペと直接繋がりのある言葉が多いということと、そして、それらから派生した、すなわち、意味的にも音韻的にも繋がりの在る言葉が非常に多いということであるが、加えてもう一つ理由がある。
それは漢字語である。
漢字語は、輸入した漢語を日本語化したものである。当然、意味とともに導入した漢字を日本語的な読み方に変えた。すなわち、日本語の拍システム、アイウエオ50音で聞きなし、読みを日本語的なものに決めたのである。
このとき、意味と‘語感’との整合性を考えて音を選んだと思われるケースが多いのである。(結果として‘語感’と合っているということ)
‘金’と‘銀’の日本語の読みは‘キン’と‘ギン’である。清音と濁音という対照をなしている。
しかし、現在の中国語の読みは共に‘イン’とも取れるような微妙な発音である。(我々日本人にとって)
‘金’、‘銀’という漢字が日本に入ってきた当時の現地の発音は分からない。現在の発音からすると、どちらを‘キン’としてもいいような発音で、まして清濁の対立は感じられない。これを、‘金’を清音、‘銀’を濁音としたのは、そのものの特徴と‘語感’とを結びつけた当時の日本人の鋭い感性だと思う。
‘いぶし銀’といっても‘いぶし金’とはいわない。金は、キンキン、キラキラなのである。

さらに、漢字語の中に辞書を引くと「日本語の特別の意味」となっているものが相当ある。先に挙げた‘遠慮’もそうであるが、これは一度決まった日本語の読みの‘語感’に引っ張られて日本人のその言葉の使い方が変わってしまった結果である。
字があって、それに読みが与えられ、その読みの‘語感’から意味が出てきたということができる。
当然、これらの漢字語は日本語である。(このようなことは、欧米語から輸入したカタカナ語にもみられ、洋菓子の‘モンブラン’は決して白くはない。‘モンブラン’の‘語感’に豊潤さがあり栗色の甘そうなケーキにピッタリである。)

赤ちゃんが自らの中に作り上げる音韻秩序は音の種類や区分けを決めているだけではない。
自然の音は、聞きようによってはどのようにも聞こえる。これに言葉としてのどの音をあてるか、どの音に聞きなすかは、言語のよって異なる。各言語のクセのようなものである。(このクセが何処から来るのかは別の大問題ではあるが、)
ニワトリの鳴き声などは言語によってさまざまに異なる。しかし、ほとんどの言語には‘K’か‘C’の音韻が含まれており、音の模し方の共通点もみられる。
うなり声を‘ウ’音で聞きなすのは、日本語のクセであり、これらは一種の音の文法である。
日本語は拍方式でアイウエオ50音と、使える音の数が少ない。(音韻としては、23.拍としては、112.)
これを自然音の写しに使うには、思い切り、決め付けが必要であるが、一旦決め付け、それがルール化すると、今度は逆に決め付けやすくなる。すなわち、オノマトペが作りやすくなるのである。
このあたりが、日本語にオノマトペが多い原因かもしれない。
この一つの自然音をどの言葉の音で聞きなすかは、言語の根本に関わる問題である。
音の聞きなしに始まって、言葉そのものが、ある種の見做しである。
この聞きなし、見做し(比喩)は思考の根本にもあると思う。

「あの人は背が高い」という。一方、「高い音、低い音」ともいう。
この背の高さと音の高さに共通点があるのか。
背の高さは、視覚というよりは、根源的には触覚の問題である。(山が高いというのは、視覚の結果の脳の中での計算結果からする触覚的推論である。)
音の高さは周波数の高さ(多さ)である。周波数の多い音をナゼ高いというのか。周波数の多い単音は鋭いともいう。鋭いは触覚の問題である。
地上からの距離の多さと周波数の多さとは全く異質のものである。ではナゼ高いと同じ表現を使うのか。(英語では、HIGH が、これにあたる。)
従来は共感覚ということで済まされてきた。
共感覚については、分野未分化説とか神経交差混信説などがあるが、私は、高さの問題は比喩・見做しの問題だと思う。(耳の中の音を感じるそれぞれの繊毛の相対的な位置、あるいは、それぞれの形状の違いによるとの考え方もある。これも一種の体感である。ただ、自分で体感できるかがやや疑問ではある。)
人間は赤ちゃんの段階で、すでに特定の音を聞きなすことを習得する。言葉の意味についても、それがあるのではなかろうか。
すなわち、音の周波数の多さを地上からの距離の多さに例えることを学ぶのではなかろうか。
(思考的なクセであるが、全言語について調べると面白い。すべてがそうであれば共感覚といってもいいかもしれない。)
見做し、聞きなし は高度な知的能力で、赤ちゃんは、すでにその能力を持っている。この能力は、人間の本能ともいえるが、人間を人間たらしめている本質的なものでもある。
これは言語の始まりにも関わるが、思考の始まりにも関わる。
そもそも、意識の始まりにも関わるので、‘心の理論’、‘ミラー・ニューロン’問題とも深く関わっていると思う。(意識の始まりは自己の客観化であろうから、心の理論の獲得に繋がる。)

そもそも言葉の始まりは、見做しである。音でない‘もの’‘こと’を声という音で表わそうとするのだから、そこには大きな飛躍がある。
その間の距離を埋め、二つを繋いでいるのが‘語感’である。
このことは、日本語において比較的見えやすいが、ここで働いている基本的な原理は、‘多義からの選択的借用’とそれに対する‘納得性’である。
一つの音はいろいろなイメージを持っており、すなわち、一つの音の‘語感’は多義、多面的であり、その中のどれを使うかは、納得が得られるかどうかにかかっている。
実際は、いろいろなイメージを使っていろいろな言葉が生まれたのであろうが、皆が、納得して使い続けてくれた言葉だけが残ったのである。

赤ちゃんは自らの‘個’の言語場に、音韻秩序を構築し、語感秩序を育成し、それらをベースとして、言葉を覚え、語彙を増やし、意味秩序を作り上げていく。このとき語感的繋がりが、意味的繋がりの語彙の広がりを助ける。そして、また、逆に意味的繋がりが語感秩序に影響を与え、擬似的、あるいは二次的語感を形成する。(本来の‘語感’からは意味と整合性はないにもかかわらず、意味的繋がりから‘語感’との整合性があるやに聞こえてしまうもの。)
‘はやぶさ’ときけば‘速さ’をイメージする。
これは、勿論、‘はやぶさ’の‘はや’が‘速さ’を連想させるからである。しかし、‘はや’という音には‘語感’としての‘速さ’はあまりない。(勿論、遅さもないが)
したがって、‘はやぶさ’で‘速さ’をイメージするのは、速いという意味からである。
では、ナゼ‘はや’が‘速い’というイメージを持ち続けているのか。
‘Pa’に‘速さ’のイメージがあるからである。‘P’音が歴史的音韻変化をして、‘F’音、そして、‘H’音になったのであるが、これに伴い、‘ぱやい’が‘はやい’になったのである。
したがって、‘はやい’に‘速さ’を感じるのは、歴史的名残であって、今や意味的なものである。
この意味繋がりからくる意味的語感も日本語には多くあり、‘語感’を語るとき、この意味的語感を本来の‘語感’と混同してしまっていることもよくある。(本来の‘語感’をどこまで絞り込んで考えるかであるが、一般的には、意味的な繋がりを含めて‘語感’を広く考えていいかもしれない。)

ミクロの‘個’の言語場はこのようにして一応出来上がるが、その後もマクロの言語場の中にあってマクロの言語場の影響を受けながら成長・進化していく。言葉が増え、言葉の理解が深まり、言語能力が向上していく。
(詩人、作家、マンガ家などの中に‘語感’の非常に鋭くなっている方を見受ける。)
そして、マクロの言語場に個々のミクロの言語場の言語活動が反映して、マクロの言語場を形成する。
マクロは、これらのミクロの総体として初めて存在するもので、マクロそのものには実体はない。
マクロの言語場には言葉があり、その言葉を文字で記録した膨大な文書が実体としてあるではないかとのご意見もあるが、文字・記号の問題は別の問題である。言葉そのものには実体はない。
声としての言葉は単に音という空気の振動にすぎない。この音を聞いた人、すなわち、ミクロの言語場で、音韻秩序、語感秩序、意味秩序によって、復元され、はじめて意味のある言葉になるのである。言葉は‘個’の人間の頭の中で実体を得るのである。

言葉は磁界における磁力のようなもので、受信機、すなわち、ミクロの言語場があってはじめて誘電現象を起こし実体化するのである。ちなみに、ミクロの言語場は発信機でもある。常に発信し続け、マクロの言語場を形成している。マクロの言語場は磁界という現象にすぎない。
(従来の言語学は現象にすぎないこのマクロの言語場を主な研究対象としてきた。
私は、実体であるミクロの言語場から研究しなおすべきだと考えている。)

赤ちゃんが言葉を覚え、言葉の数が増えていく、しかし、まだ、言葉を単発的に発するだけである。文になっていない。文になってはじめて言語である。言葉が繋がらなくては言語にならない。(日本語には単拍だけの文もあるが、これはある状況を前提としてはじめて成り立つ文で、独り立ちした文とは言いがたい。)
言葉を連ねるには、いわゆる、文法が必要である。(文法といっても、語順のことではなく、もっと本質的な助詞の働きを中心とした構文的なものである。)

ところで、文法とは何か。文法は一つの言語にとってアプリオリなものでもなく、絶対的なものでもない。
一つの言語の中に法則性を求めて整理・記述したものが文法である。
もともと法則があって、それに則って言語が出来上がったものではない。出来上がった言語の中に法則性を見つけ出すのである。法則は、切り口によっていろいろに見えてくる。上手い切り口もあれば、例外だらけの下手な切り口もある。文法にも上手い下手がある。
より簡潔な法則で、例外の少ないのがいい文法である。
赤ちゃんは文法は学ばない。文法を知らなくともしゃべれるようになる。赤ちゃんがちゃんとした日本語をしゃべれるようになるからには、日本語に何か言葉を連ねるルールのようなものがあるはずで、それをその赤ちゃんは学び取ったはずである。このルールのようなものが本来の文法である。
この本来の文法をすべての赤ちゃんが自然に身につける。この一人ひとりの赤ちゃんの脳の中の、すなわち、ミクロの言語場に作られた本来の文法が統語秩序である。
このミクロの言語場の統語秩序、すなわち、本来の文法と、いわゆる本に書いた文法は異なる。本来の文法をより正確に反映しえたのがよい文法である。(本来の文法は、言葉にはできないかもしれない。)
主語にこだわる日本語の学校文法は、決してよい文法ではない。
日本語の文法も、マクロをいじるだけではなく、ミクロの言語場から考察することによって、新たな文法が見えてくるのではなかろうか。(チョムスキーとは、また、違った文法。日本語では、主語もいらないし、語順なども重要ではない。)
本来の文法は、出来上がった文章を眺めるのではなく、赤ちゃんが言葉の音を獲得するその瞬間にまで遡って考察する必要がある。
音韻秩序、意味秩序、統語秩序の根底には共通する基本的な法則性があるのではないか。それを解明するためには、それらの裏にある語感秩序、そして、それらすべてのベースとなっている考え方・思考方法を解明しなければならない。(それは、生成文法というよりは、生成論理とでも言うようなものだろう。合理と言っていいかもしれない。)

一つの言語を考えるには、その言語を使っている人々の‘ものの考え方’から考察しなければならない。
ある言語を使う人々の‘ものの考え方’がその言語の特徴を決め、その言語がその人々の‘ものの考え方’を決める。(サピア・ウォーフの仮説がこれにあたる。)
マクロの言語場とミクロの言語場との関係と同じことが、この言語と人々の‘ものの考え方’との間にあるのである。
この場合、マクロの言語場にあたるものが文化で、ミクロの言語場にあたるものが個人の‘ものの考え方’である。

言語という現象から、日本語と欧米語を比較すると、個人の言語獲得の出発点において大きな違いがある。
私は、これが言語そのものの根本的違いに連なるし、‘ものの考え方’そして、文化の違いを生みだしていると思う。(文化には、当然、思想、哲学、宗教なども含まれる。)
この出発点からする根本的違いは、拍とシラブルの違いである。
(結果としての現時点をみると、‘I・You効果’もその影響は非常に大きい。)

拍は、子音+母音で、必ず母音がある。母音が中心ということが出来る。
一方、欧米語は言葉の構成単位がシラブルで、シラブルは子音、母音の一塊で、固まり方にも強い法則性はない。時には母音のないこともあり、日本語との対照で子音中心ということが出来る。
(もっとも、基本的な単語で母音中心に出来ているものもある。I,are、a、など)
もう一つの大きな違いは、ものへの名前(言葉)の与え方である。
拍では、数の少ない予め作っておいた既製品を適当に組み合わせて、言葉を作るが、シラブルでは子音、母音を寄せ集めて、ものそれぞれに特注の言葉(シラブル)を作る。したがって、シラブルの数が非常に多い。(日本語の拍、112に対し、英語のシラブルの数は、3000以上ともいわれる。)
レディメイドに比べオーダーメイドはピッタリにはなるが、型紙の数は膨大になる。

日本語には、単母音の言葉、一拍の言葉もあり、拍は単位的言葉ということもできる。この単位的言葉としての拍の数をシラブルの数と比較すると、112対3000 ということになり、日本語の単位的言葉が非常に少ないことが分かる。数が少ないということは、一つの拍の守備範囲が広いということである。
分担範囲が広いということは、曖昧になるということでもある。
そもそも、音素の数が少ないということは、一つの音素の守備範囲も広いということである。
そして、‘R’と‘L’の音を同じ枠内のものとするということは、‘R’か‘L’か曖昧にするということである。
音素も拍も、それぞれ数が少なく、守備範囲が広い。すなわち、音素も拍も、大くくりで曖昧である。

そして、名前をつける対象の区切り方も日本語は大くくりである。
日本語では、人も動物も‘走る’、であるが、欧米語では馬の走り方にもそれぞれの動詞がある。日本語では本質的な表現をして、それに形容動詞、オノマトペなどをつけ違いを出すのである。
言葉の汎用的使い方も拍の使い方と同じである。
日本語の‘気持ち’なども守備範囲の広い言葉の一つだろう。
曖昧な拍を使って言葉を作り、曖昧な言葉を使って文章を作る。しかし、文章が曖昧では真意が伝わらない。日本語でも、日本人同士の間では充分コミュニケーションが成立している。
これは、曖昧な拍を組み合わせて正確な言葉(意味が絞られたという意味ではない。狙い通りという意味である。)を作り、曖昧な言葉を連ねて正確に真意を伝える仕組みが日本語にあるのである。
加えて、日本語では、その言葉、文が語られた場が、すべて、前提になっている。曖昧に見える言葉も、その語の語られた場を勘案すれば、正確な意味を伝えうるのである。
そして日本語は、加えて、むしろ、微妙な気持ちを伝えうるのである。
これは、‘て、に、を、は’といわれる助詞、そして、助動詞が大きな働きをしているからである。
この助詞、助動詞には‘語感’がよく活かされている。

‘きれい’と‘うつくしい’は、ほぼ同じ意味を持つ。しかし、決して同じではない。日本人は使い分けている。どこが違うか大方の日本人は説明できない。しかし、使い間違えることはない。
‘美しい友情’とはいえても、‘きれいな友情’とはいえない。‘金払いがきれい’といえても‘金払いが美しい’とはいわない。ナゼなのか。そういう習慣なのだというのが一般的な答えだろう。そんな細かなことまで日本人は覚えなければならないのか。少々物覚えの悪い人でもこの使い方の違いは間違えない。(ここにも、‘刺激の貧困’がみられる。)
それは、‘語感’が違うからである。‘きれい’には‘切れ’を感じ、‘うつくしい’には‘内面的なもの’を感じるからである。‘切れ’は合理であり、‘内面’は情である。金銭は合理の問題であり、友情は情の問題である。したがって、金銭の問題を情的に表現するのに違和感を持つのである。
‘きれい’と‘うつくしい’は、ほぼ同じ意味であるが、ニュアンスがやや異なる。このニュアンスの違いは‘語感’の違いから来たものである。‘語感’は、全ての日本語人が無意識であっても感じている。だから言葉の使い分けを間違えないのである。(チョムスキーのいう文法の問題ではなく、‘語感’があるからなのである。)

人が走るのも、馬が走るのも現象としては同じである。(と日本人は思う。)雲が走る。苦味が走る、とすらいう。これらは比喩的表現である。日本語はこの比喩の許される範囲が広い。
走り方のいろいろにも別の動詞は使わない。形容動詞、あるいは、オノマトペを使ってきめ細かに表現し分ける。オノマトペで、ありありとしたイメージを伝えることも出来る。
オノマトペも多義的である。すなわち、曖昧である。
オノマトペ‘コンコン’は、泉の湧き出す様子も、小雪の降ってくる様子も、お説教の様子まで表わすことができる。オノマトペは‘語感’を直接的に反映しているため、いろいろなイメージを含み多義的になるのである。
この多義的、曖昧なオノマトペと曖昧な動詞を組み合わせて、正確なリアルな情報を伝えることが出来るのである。(状況を踏まえて、多義と多義との組合せで、正確でリアルな表現をするのである。)
画像の説明
聞き手としてのミクロの言語場としては、曖昧なものと曖昧なものとの共通項を拾い出し、正確に理解しなければならないが、この訓練は拍の習得のときからすでに始まっている。曖昧な拍(その裏づけとしての‘語感’は多義的である。すなわち、いろいろなイメージを同時に持っている)を覚え、その連なりから出来た言葉を、拍それぞれの持つイメージの一部づつを連ねたイメージのカタマリとともに、意味として覚えていくのである。

広い範囲から一つを選び出すのは、比喩の能力であるが、日本語は最初からこの能力を厳しく鍛えるのである。(多義からの選択的理解)
言語は、そもそも比喩であるが、日本語はその要素をいまだ素直に残している。
この曖昧さを使いこなす能力は、母音の選択に始まるのかもしれない。あるいは、使いこなせるから母音を使い続けることが出来たのかもしれない。

母音は子音に比べて曖昧である。曖昧ゆえに情報量は多い。子音は正確故に情報量は少ない。
母音は、口腔、鼻腔を共鳴させて出す音で自然音である。連続して出したり、連続して変化させることも出来る。(‘アー’と伸ばしたり、‘ア’→‘エ’と変化させたり出来る。)
子音は、口腔内にノド、舌、唇で障害を作って、無理をして、破裂させたり、弾いたり、震わせたりして出す音で、自然音ではない。連続して出すことは出来ない。連続して出すには、母音に繋いで、母音を伸ばすしかない。
したがって、母音と子音の発音体感は、根本的に異なる。

自然に出る生理音は、ベースは母音である。(とっかかりが子音的なこともあるが、)
リラックスして、大きな声を出せば、自然に‘ア’的な音になる。
少し口ごもるようにして重々しく出せば、‘オ’的な音になる。
自分の意思を主張すべく口元に力を入れて前向きに声を出せば、‘イ’的な音になる。
ちょっと詰まり、鼻のほうへ息を出しながら声を出せば、‘ウ’的な音になる。
口元を平らに、少し引くようにして声を出すと、‘エ’的な音になる。
母音は心のあり様を表わしやすい。心のあり様が母音の‘語感’のベースとなっている。

各母音の心のあり様としての特徴は、下記の感嘆詞、オノマトペによく現れている。
驚いたときの感嘆詞
 アッ  全く自然な驚き、アッケラカン、オープン
 イッ  心に反する事態に対する驚き、チキショウ 意思
 ウッ  内面的な困惑の驚き、困った
 エッ  意外性の驚き、一歩引き下がる
 オッ  感動を含んだ驚き、喜びを含む
笑い声
 アッハッハ  おおらかに大笑い、オープン
 イッヒッヒ  陰険な笑い、ズルそう
 ウッフッフ  含み笑い、利己的、シメシメ
 エッヘッヘ  へつらいの笑い、上目遣い
 オッホッホ  お上品に、包んだ笑い
各母音は、これら心のあり様としての‘語感’をベースに、それぞれ発音時の口腔内の体感を‘語感’として持っている。これらの‘語感’の一部を言語化すれば下記の通りである。
 ア  口を大きく開けて発声するので、明るい、前向き、のびのび、暖か、拡散、広がり、あっさり
 イ  口元に力を入れて強く発声するため、意欲的、真っ直ぐ、直線、鋭く細い、小さい、
 ウ  口腔の奥上で音を出し、鼻腔に抜くように発声するため、内々、内向、動き、上方への動き、
 エ  口元を平らに下に引くようにして発声するので、引き気味、躊躇、遠慮、下に平らな繋がり
 オ  口の中を丸くして、奥の下の方で発声するので、大きい、重い、奥の、包み込まれた、個別の

子音は、技巧的で無理に出す音である。
それだけに母音に比し絞り込まれたイメージを出しやすい。母音に比しよりデジタルということも出来る。
母音が共鳴音であるのに対し、子音は口の中に障害を作って出す無理音・瞬間音で、障害の作り方によっていろいろなイメージの異なる音を作ることが出来る。
子音の発音体感としては、まず、口の中のどの部位をどのようにするかという体感、例えば、ノドの奥を固くする体感、舌を尖らせて先を固くする体感、唇を破裂させる体感などであるが、これらは直接的な体感である。
そして、これに次いでこのことによって起こる物理的現象に伴う体感がある。
これは、例えば、きつく締めたノドを破裂させて息を口腔に流し込めば、息の流れは回転をするように口の中を流れ、その息の流れは速く、口の中の水気を奪い、乾いた感じと共に熱を奪われた冷たい感じがする。( K )
舌の上を息を流せば、やはり少し湿り気を奪われ、熱も少し奪われ、流れのイメージと共にサワヤカな感じがする。( S )
‘語感’は、その他いろいろなイメージの複合体であるが、どこで調音しているかの調音点の位置も‘語感’となっている。
‘K’の調音点は、ノド・口腔の一番奥、イメージとしては最も自分に近い位置である。
‘S’の調音点は、舌から歯にかけての上で、息を外に出すため自分から離れるイメージがある。
ここから、自分に最も近い場所を‘KoKo’、自分から離れた場所を‘SoKo’と言うようになったと思われる。
‘KoKo’、‘SoKo’の原型は、
‘Ko’,‘So’で、これらから、
‘KoRe’,‘SoRe’,‘KoNo’,‘SoNo’
とゆう言葉へと派生していったのだろう。
‘Ko’,‘So’に対し、もっと離れたもの、曖昧なものが‘A’である。
‘ANo’、‘ARe’そして‘ASoKo’である。
調音点が‘K’と‘S’の中間点である‘T’で‘ToKo’という言い方を作ったと思われる。
この‘T’には、舌先を硬口蓋に付けて調音することから、溜まる、止まる のイメージがあり、躊躇感が出ることから、
‘ToKo’,‘ToRe’,‘TaRe’
などの疑問詞に使われるようになったと思われる。

ちなみに、点・線・面 にも語感のイメージが反映している。
もともとの発音がどのようなものであったかは分からない。日本語に聞きなした
‘TeN’,‘SeN’,‘MeN’の
‘T’,‘S’,‘M’は、それぞれ、
点(0次元)、線(一次元)、面(二次元)
を表わすのにピッタリである。
すなわち、‘T’は舌先を硬口蓋にチョンと付けて発音するので、点のイメージがあり、
‘S’のイメージは流れのイメージで、線のイメージがあり、
‘M’は表面の盛上がるイメージで、球面のイメージがある。

一つの音の‘語感’は、いろいろのイメージを併せ持っているが、そのイメージのどれを使って言葉を作るかは見做しの問題で、出来たその言葉が、その後流通するかは人々が納得するかである。
点・線・面 は中国で出来た言葉であるが、‘TeN’,‘SeN’,‘MeN’の‘語感’に納得して、今日まで日本語として使い続けられているのである。

以上、説明したように、母音は、情意、自分の立ち位置を表しやすく、子音は、物性的な特徴を表わしやすい。日本語の基礎をなす拍は、この二つの組み合わせであるが、あくまで母音がベースである。
(母音のない拍はない。)
日本語の拍を洋菓子に例えてみれば、母音がベースのスポンジとかパイにあたり、子音が、イチゴとかチョコレートとかナッツなどのデコレーション的なものにあたる。見た目は子音が目立つが、食べるとベースのムースがとてもおいしかったということがある。これが日本語である。

‘語感’について、日本語の場合を説明してきたが、他の言語についてはどうかという問題であるが、私はどの言語についても基本的には同じだと思う。
それは、人間が何らかの行為をする際に、必ず、何らかの感覚、感情を持つということと、同じ音を出すためには、同じ口の形とか同じ出し方をしなければならないということである。
まず、どの言語にも語感的なものがあることは、人の生理を考えれば、間違いないであろう。
また、どの国の言語であれ、オノマトペに音象徴のあることを否定する学者はいないだろう。
ただ、言語によって、それぞれ使う音韻が異なる。それらの音の出し方はそれぞれ微妙に異なる。音の出し方が異なれば、当然、その音の‘語感’も異なる。ただ、似た音は似た発音の仕方をするから、‘語感’も似てくる。日本語の‘ア’も、欧米語の‘ア’も、同じように聞こえる音の‘語感’は同じである。
音象徴のないといわれている欧米語にも‘語感’の残渣はみられる。

日本語において、‘K’に回転のイメージがあることは、次のオノマトペにすべて回転のイメージがあることからも納得できると思う。(今、議論しているのは、音であって、文字ではない。)
  KaRaKaRa
  KiRiKiRi
  KuRuKuRu
  KoRoKoRo
(KeReKeRe だけがないが、これは、‘e’に下に広がる粘り気のイメージがあって、回転のイメージにはそぐわないからだろう。)
欧米語でも、 
CROWN,CORONA,CIRCLE,CURVE,CURL 
など、回転ではないけれど、いずれも曲線をイメージさせる。

欧米語では、回転は‘R’で表わすようだが、‘R’は、もともとソクラテスもいっているように、動きを表わし、日本語でも‘Ru’が動きを表わすのに使われる。(ソクラテスは舌を最も激しく動かすからといっている。)
‘S’の‘語感’の中心は流れで、欧米語でも、 
STREEM,STREET、SWALLOW,SLIP,SWAY,SUAVE
など流れのイメージにマッチした言葉がある。
‘T’には、これもソクラテスがいっているが、‘止まる’、‘溜まる’イメージがあるが、 
STOP,BUT、AT 
などの‘T’音は、この意味でよく効いている。 
STILL,STEP、TEMP、NET,GET 
なども何となくそんな感じはある。
‘ママ’は、欧米語でも中国語でもお母さんのことであるが、この‘ママ’の‘語感’が、豊かで、充ち足り、鼻音であることから、やさしさ、親しさが感じられ、やさしいお母さんにピッタリで、今や、欧米、中国の言語圏以外でも広く使われている。(飲み屋でも)
日本語では、もともとは、‘マンマ’として赤子にとって最も重要な食べ物を示す言葉として使われてきた。
欧米語では、意味と音とは恣意的で、犬が‘DOG’でも‘CAT’でもどちらでもよく、たまたま‘DOG’になっただけだという説もあった。
しかし、私は‘DOG’と‘CAT’が逆に名づけられることはありえなかったと思う。‘語感’が違うのである。
‘CAT’の‘語感’には、‘DOG’より、クールさ切れがあり、実際の犬のイメージよりも猫のイメージに沿うのである。(また、‘DOG’の方が‘CAT’より大きく重いイメージが強い)
その他、英語の対になっている言葉でも、意味からして語感的には逆はありえないと思われるものがたくさんある。
  ON/OFF,ON/OVER,IN/OUT,COOL/WARM、COLD/HOT
  MAMY/DADY、HIGH/LOW、
ただ、欧米語は一般的に一つの言葉に音素がたくさん入っていて、素直に‘語感’を反映しているものは少ない。

ミクロの言語場にあたる個人の‘ものの考え方’の違いを、欧米と日本についてみてみると、最も顕著な違いは、自分と外との関係についての考え方である。すなわち、自分の周りのもの、自然についての考え方である。
欧米では、自然は対決し、克服すべきものとして考えている。一方、日本では、自然は共にあるもの、順応すべき絶対のものと考えている。
対決と順応。正反対である。
ここからいろいろな違いが出てくる。
欧米では、自然は克服すべきものであるから、分解・分析しようとする。
日本では、自然は絶対のものであるから、そのまま受け入れようとする。
欧米では、人工のものが上で、自然のものが下である。
日本では、白木の銘木をそのまま生かそうとするが、欧米では画一的にペンキを塗ってしまったりする。
この違いは、曖昧な母音を主とするか、より絞られたイメージを持つ子音を中心とするかの態度の違いに通暁する。
また、分析的にものを考えるか、全体を大づかみにして考えるかの違いも、子音的に考えるか、母音的に考えるかの違いに通じる。
自然をそのまま受け入れる態度は、曖昧なものをそのまま受け入れる態度である。
欧米では、曖昧は曖昧なままでは許されず、解き明かされねばならない。
欧米の自然と対決する考え方は、人間、すなわち、自分中心の考え方でもある。
この自分中心の考え方は、論理の運び方でも、主語のある直線型の論理となる。(線形論理)
一方、自然が中心の考え方は、没個人となり、集団的考え方ともなる。個人主義に対する全体主義である。(イズムとしてのいわゆる全体主義ではなく)
そして、論理の進め方も、状況変化を与件とする、状況論理(相対論理)となる。
相対論理は、状況という変数がアプリオリに入るだけに、線形ではなく、二次、あるいは、多次元の論理となる。
状況の論理では、状況が与件となるから、主題が定まり、主語は必要ではなくなる。
状況論理の日本語では、「いいお天気だ!」で完全な文章になり、‘IT’は必要ではない。
「今日はうどんだ。」では、‘今日’は主語ではない。あえて主語を探せば、‘今日私の食べる昼飯’あるいは、‘今日のあなたの食事’ということになる。それが何なのかはその状況においてお互いに理解可能であるため、言う必要がないのである。むしろ、主語が不要なのである。
ただ、状況という与件が与えられるだけに、単純な線形論理よりは複雑である。
この複雑な論理の一局面のみを見るため、線形論理的視点からは、曖昧に見えたり、いい加減に見えたりすることはある。
欧米語は主語が中心であるが、主語の必要ではない日本語では述部が中心ということが出来る。

欧米語の言語環境で生まれ育った赤ちゃんは、常に‘YOU’とか‘I’という言葉を聞かされる。
‘YOU’,‘I’を聞かされ続けた赤ちゃんは、早くから‘YOU’あるいは‘I’という概念を身につける。
‘YOU’にしろ、‘I’にしろ、‘個’の概念で、この概念を早くから焼き付けられた赤ちゃんは‘ものの考え方’も‘個’を中心としたものになる。( I・You効果 )
‘YOU’か‘I’か、常に主語がくる考え方で、‘YOU’も‘I’もなければ、‘IT’が必要になる。(ときに、THERE)
‘個’が中心の、放射型の考え方は線形論理になじみやすい。
状況により変化する順応型の考え方では、主題が状況により決まってくるので、主語的なものは必要ではなくなってくる。
(なにも絶対の中心を使わなくともいいのである。中心は常に動くのである。)
友人たちと映画の話をしていて、一人の友人に「行く?」と聞いた場面で、この「行く?」には主語‘君’が省かれているのではない。「君、行く?」と聞けば、例えば、自分は行かないけどとか、相手に何か事情があり特に相手を慮っているニュアンスがある。むしろ特殊な言い方である。
また、皆で行こうという方向になったときに相手の意向を確認したい場合は、「君は?」となる。
「行くかどうか」はその場のテーマであるから不必要なのである。いえば、むしろ、くどくなる。
「君は?」の‘君’も主語とはいいがたい。この場面の日本語の「君は?」は、「Do You?」よりは「In Your case?」に近い。
これでは文章になっていないと思われる方もいるかもしれないが、日本語の会話の場合、状況が前提になっており完全なコミュニケーションが成立しているので、それぞれ完全な日本語である。
書いた文章のみを正しい日本語と考えるのは間違いである。むしろ、日常の話し言葉に言語の本質があるのである。
(もちろん、書き言葉としての日本語は、それ自体として存在するが、別のものである。また、思考のための言語も別のものとして考えなければならないだろう。これらを話し言葉の完成形と考えてはいけない。発展形ではあるが、言葉の誕生、言語の本質を考えるときは、話し言葉に戻るべきである。)
ちなみに、日本語では会話の中で‘私’とか‘あなた’、‘お前’などと言うことはまずない。状況で分かるからである。
‘私’というときは、余程、自分を主張したいときであり、‘お前’というときは、相手を非難したり、叱るときである。
この場合の‘私’、‘お前’は主語というよりは、強調のための指示に使われているのである。
ちなみに、‘I’と‘YOU’の語感は、ともに母音で、(‘Y’は半母音)母音の中でも最も切れがあり自己主張的な‘i’が入っている。‘ai’は大きな広がりが一つに収斂するイメージで、‘Yu−’は鋭い意思的なものが真っ直ぐ相手に突き進んでいくイメージがある。

統語の法則を見つけ出す(当てはめる)文法も、線形論理的文法をそのまま複線論理の言語に当てはめようとすると無理が出る。(不自然になる。現在の学校文法がその悪例である。主語のいらない言語に主語を仮定するのは間違いである。そもそも、日本語には語順も絶対ではない。)

この日本語と欧米語の‘ものの考え方’の違いがどこから出てくるのか。この‘ものの考え方’の違いが、言語の基本構造、すなわち、拍かシラブルか、母音か子音か、線形論理か状況論理か、と符合しているが、これが、いずれが原因かは分からない。また、他の地政学上の要因、例えば、農耕中心か狩猟中心か、民族の交流が激しいかなどの影響も大きいであろうが、結果として、‘ものの考え方’と言語のあり方は、互いに影響しあいながら進化していったものと思われる。

人類が最初に言語を獲得したのは、今から何万年、あるいは、何十万年も前である。何ゆえに言語を獲得し、何ゆえに言語が発達したのか。
(勿論、言語の獲得が人類の生存にとって有利であったから、また、言語の発達が、同じく生存に有利であったからではあるが、どのような切っ掛けからこのようなことが起こったのかということ。)

欧米語と日本語が、どのような言語から変化して出来たのかは分からない。欧米語と日本語がもともと同じものから分かれて変化してきたのか、全く別々に成立し発達してきたのかも分からない。しかし、いずれにしても、どこかの時点で全く異なる方向へ変化し始めたのだろう。
言語には、共同体内での対内言語という性質と共同体外との対外言語的性質との二面がある。
対内言語は、共同体の和を重視した情的な言語だろう。また、場を共有し互いによく分かっているので、共通理解を前提とした省略も可能だろう。
一方、対外言語としては、共同体外の文化の異なる人々との交渉が中心となり、言語はより正確で誤解のないものでなければならず、論理を重視し、曖昧を排除したものとなる。
欧米語は、この対外言語的性格を強める方向に進化し、日本語は、この対内言語的性格を強める方向に進化したものと思われる。
この差が現在の、知か情か、子音か母音か、線形論理か状況論理かの違いに繋がっているのだと思う。

  そもそもの言語の始まりには、二つの説がある。  

一つは、グルーミング説。今一つは、威嚇説である。
グルーミング説はクーイング説ともいわれ、仲間同士が互いに敵意がないことを確認するために発達したとするものである。特に、母子間のクーイングが言語に進化したと考える考え方である。
グルーミングとは類人猿にみられる毛繕いの行為で、相手に敵意がないこと、従うことを示すために行われるが、これを声で行うようになったというものである。
クーイング、あるいは、グルーミング時の発声がいつ言葉になったのか。
クーイング時の声と言葉では何処が違うのか。
生理音そのものは言葉ではない。クーイングは一種の生理音である。
ある気持ち・意思を伝えるためクーイングをまねて声を出したとしたら、それは言葉である。
クーイングの音を一般化したものが言葉の始まりだろう。それはクーイングの下手な物まねだったのではなかろうか。
生理音をおおげさにすれば、生理音そのものではなくなる。意図が入り、創作となる。
これが言葉への最初の跳躍だろう。一度、言葉への跳躍が起これば、やがて、次々と言葉的なものが生まれていったのだろう。
結果的には、この跳躍は‘見做し’である。
生理音だけではなく、直接、気持ちの表現、意思の表現も試みられた。
最初は、母音的なもの、子音的なものが入混じった状態ではなかったか。ただ、グルーミングは人との友好が目的だから、母音的なものがベースであったろう。人工的な子音の固さに対し、母音は自然で、やさしく柔かいからである。
最初、二人の間で出来た言葉的なものが、やがて家族に広がり、親族に広がり、より大きなグループへと広がっていったのだろう。
ここで重要なのは納得性である。言葉を発した人の意図が相手に分からなくてはならない。
話し手の見做しを聞き手が同じ見做しとして納得できなければならない。
大きなグループへと広がっていくには、より多くの人の納得が得られるようなものでなければならなかった。

最初の言葉らしい言葉は‘ア’的なものではなかったか。
‘ア’は、最も自然に発声でき、オープンで明るい。素直な気持ちが表現しやすい。
日本語では、最初、‘ア’は全てのものを指し示したのではなかろうか。
自分も‘ア’、相手も‘ア’、あれも‘ア’、そして、存在すること自体‘ア’だったのではなかろうか。
‘ア’は‘我’、‘吾’、‘あれ’、‘ある’へと別れ、言葉は増えていったのだろう。
母音の発音体感的なものから考えると、こんな場面も考えられる。
母と子がいて、母親が子供に優しく「ア・ア・ア・ア」と呼びかける。子供は、はじめは「ア・ア・ア・ア」と母親の真似をして応じていたが、やがて、「オ・オ・オ・オ」と応じるようになる。ときに母親にお願いのあるときは「イ・イ・イ・イ」と母親の関心を引こうとする。母親は「ウ・ウ・ウ・ウ」といって子供をなだめる。やんちゃな子供がいれば、「エ・エ・エ・エ」といって大人しくさせようとする。
日本語は最初から28の音素に別れ、子音+母音の拍の形式になっていたわけではないだろう。
いろいろの言葉が出てきながら、その様な方向へ収斂していったのだろう。
同じく、欧米語はもっと多くの音素、子音、母音のごちゃ混ぜ形式、すなわち、シラブルに収斂していったのだろう。
その分かれ目は、自己組織化的な、偶発的なものだったかもしれない。しかし、一度、その傾向性が決まると自己統制的にその傾向を強めていったのではないだろうか。

  威嚇説  

言語の始まりを威嚇と考える説は、もともと人類は小さなグループごとに生活していたが、グループが大きくなり、あるいは、クループの数が多くなり、グループ間の接触がふえ、摩擦がふえてきたために言葉ができたという考え方である。
グループの縄張りが接近し、摩擦が生じると、互いに警告を発するとともに、自分の縄張りを主張する。
このために声を発するとすれば、鋭い声だろう。母音と子音どちらが鋭いか。もちろん、子音である。
子音の中でも鋭い音は、‘K’音、‘T’音だろう。
脅しなら、パワーのある重い音だろう。母音なら‘O’、もっと重いのは子音の‘D’音。‘G’音には固さと迫力が、‘B’音には勢いが感じられる。
いずれにしても、威嚇には子音がふさわしい。子音を発し、その後、母音を響かせたのだろう。
日本語は母音を中心として発達してきた。それは、グループ同士争わなくてもすむ豊かな自然環境にあったからかもしれない。むしろ、人間同士争うより、自然との闘いのほうが大変だったのかもしれない。
自然は豊かであった。しかし、凶暴でもあった。故に、原日本人は自然と闘うのではなく、仲間と協力して、自然に順応する道を選んだのだろう。
自然への順応と母音の選択には整合性がある。
かたや、権利の主張し合いは‘個’の主張に繋がり、自然との対決にも繋がる。子音重視と、‘個’の主張、自然との対決にも整合性がある。

グルーミング言語としての母音重視は‘語感’温存への道でもあった。
グルーミング・クーイングは‘語感’を活かしての声の使用である。母音は情を伝えうる音である。
グルーミング言語は情意の言語でもある。
子音重視の言語は自己主張の言語でもあり、権利主張の言語である。
権利の主張は論理へと進む。子音中心の言語は論理の言語である。‘個’の言語は知の言語でもある。
母音重視の選択は、拍の発明で確保された。
拍の採用は助詞・助動詞の発明へと繋がった。
助詞・助動詞は‘語感’を活かした日本語独特の言葉である。(朝鮮語にも助詞はあるが、)
従来の日本語文法では、助詞・助動詞の機能にのみ関心があったが、助詞・助動詞には、その他に、話し手の気持ちを伝える働きがある。
むしろ、機能といわれるものよりも、この気持ちを伝える働きの方が重要である。
機能は、この働きの延長線上に自ずから決まってきたものではないだろうか。
助詞・助動詞の気持ちを伝える働きは‘語感’の働きである。
助詞・助動詞の発明により、日本語は語順、すなわち、文型を必要としなくて済んだ。
日本語の日常会話には語順はいらない。
言いたいことから順に言えばいいのである。これが、日本語の本当の姿である。
(最後に全体の方向を指し示す。疑問、断定、命令、お願い、呼びかけ、念押し ・・)
チョムスキーなら、これは乱れているだけで、本来の語順、文型があるはずだと言うだろう。
しかし、これは、日本語にも主語はあるはずで単に省略されているに過ぎないという主張と同じで、欧米語の文法を日本語に無理やり当てはめようとするもので、無理がある。
チョムスキーの普遍文法は、欧米語を対象とした特殊文法で、本来の普遍文法は日本語をも包括したものでなければならず、文型にこだわらない、もう一段奥のものではなかろうか。
ただ、そうなると文法という必要はなく、論理とでもいうべき段階のものではなかろうか。
私は、ポイントは‘合理’だと思う。合理の法則性の問題になると思う。

本来の言語学は、現象であるマクロの言語場の研究のみにとどまるのではなく、実体であるミクロの言語場をその研究の対象としなければならない。
日本語を、そして、それを通じて真の日本人の姿を明らかにしようとするのであれば、日本人の生きた会話、そして、個々の日本人の言語活動を、解明しなければならない。
そして、その一つの道、そして今までなぜかおろそかにされてきた道、すなわち、‘語感’を切り口にした言語学の道を切り開いていかなければならない。
ここに、‘場の言語学’としての‘語感言語学’を提唱したい。
       (平成23年1月17日)

powered by Quick Homepage Maker 3.61
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional