新しい言語学

助詞

   助詞 と ‘語感’ (1) ――― 「は」と「が」  

「日本語教室」(井上ひさし著)を読んだ。
助詞「は」、「が」の使い分けの話があり、大野晋説の紹介があった。
大野晋説では、「は」は既知のものに、「が」は未知のものに付くとなっているのだそうである。
「むかし、むかし、おじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に・・」
最初は、おじいさんもおばあさんも未知だから「が」が付き、その次からは既知だから「は」が付くのだという。
成程と思う。

しかし、次のようなケースではどうだろう。
教授「明日、誰かカメラを持ってきてくれないかなぁ。」
学生A
答え(1)
「ハイ、私が持ってきます。B君はカメラを持っていませんので。」
答え(2)
「B君が持ってきます。私はカメラを持っていませんので。」
答え(1)と答え(2)では‘私’と‘B君’が入れ替わっているだけである。しかし、答え(1)では‘私’に「が」が付き、私が未知、そして、B君に「は」が付き、B君が既知になっているが、答え(2)では、逆に、私が既知、B君が未知ということになる。
カメラを誰が持ってくるかの違いだけで、既知、未知が替わってしまうことになる。おかしくはないだろうか。

日本語を話すわれわれは、普段、「は」と「が」の使い分けを、ほとんど意識することもなく、苦もなくやっている。このとき、これが既知のことだとか、未知のことだとか考えながらやっているのだろうか。
私は、そんな決まりのようなものはいちいち考えてはいないと思う。もっと自然に成り行きで使い分けているのではなかろうか。
私は、これは‘語感’の違いで使い分けているのだと思う。どちらの‘語感’がしっくりいくかで使い分けているのだと思う。

「は」の‘語感’は、「は」の実際の発音は「わ」であるから「Wa」である。
‘W’は半母音といい、母音‘u’から母音‘a’への変化を一語で発音するものである。
母音‘u’の調音点は、井上ひさし先生のおっしゃるように母音の中では一番奥で、しかも上の方で、やや鼻にかかる感じがあり、‘u’の発音体感には、内々感、あるいは、内面的な感じがある。この中のものが‘a’の状態、すなわち、おおらかに開放されるイメージとなり、「Wa」には、中のものをオープンにする、人の目に晒すイメージがあるのである。
一方、「が(Ga)」は「Ka」の濁音で、「Ka」には、オープンなものを(a)、かっちり限る(K)イメージがあり、それを濁音にすることによって、強調するとともに重み付けをすることにより、「が」には、くっきりと切り出す、スポットライトをあてる、というような効果が生じる。
したがって、未知のものには、しっかりとスポットライトをあてる「が」が、既知のものには、あっさり「これですよ」と場に提示する「Wa」が、しっくりいくのである。
言い方を変えると、「は」には主題の提示の働きがあり、「が」には焦点を絞り込む働きがあるといえる。
ちなみに、‘語感’については、井上ひさし先生は、やまとことば、漢語、外来語に関し「あの人は語感がないと言いますけど、それは、その使い分けのことなんですね。」といっておられ、使い分け的に捉えておられるようであるが、一方、母音‘i’の使い方の中で‘音色’という言い方もされており、  私の言う本来の‘語感’は‘音色’と捉えておられたのかもしれない。
(五つの音色の使い分けともおしゃっているので、母音の‘語感’についてのみ考えておられたのかもしれない。)
     平成23年5月2日

   助詞 と ‘語感’ (2) ――― 「に」、「で」、「を」  

こんな小話がある。

「米洗う 前に蛍が 二つ三つ」
こんな俳句を作った人が、いい句ができたと知り合いに見せました。
すると知り合いは、「に」だと死んだ蛍になってしまう。
「米洗う 前で蛍が 二つ三つ」
とすべきだ。そうすれば蛍が飛び立つ、と言いました。
そして、それを師匠に見せると
「米洗う 前を蛍が 二つ三つ」
にすれば、蛍が向こうから来て向こうへ飛んでいく、と言いました。
そして「お前たちはまだまだだな」と言った。

というお話である。

これは、助詞「に」、「で」、「を」の違いを取り上げたものである。
このうち「に」と「を」の違いについては小学校高学年でも習うようである。
助詞は日本語の大きな特徴の一つで非常に便利なものである。
日本語で育てば子供でも使い方を間違えることはない。ただ、日本語ではない環境で育った人々には、この助詞の巧みな使い分けは非常にむつかしいようである。
では、どうして日本語で育てば子供でも使い分けられるのだろうか。
これは‘語感’で感じ分けているからだと思う。
助詞は、当然、意味を持っているのではない。機能を持っているのである。‘語感’がこの機能をバックアップしているのである。
子供たちは‘語感’に添ったようにしゃべることによって正しい日本語がしゃべれるようになるのである。もちろん、日本語としてのルール、約束事はある。この約束事の中で‘語感’に素直にしゃべればいいのである。

それでは、「に」、「で」、「を」の‘語感’はどうか。
‘Ni’の‘N’には、鼻音であることからくる粘り気、湿り気が感じられ、それがくっ付くイメージを惹起する。そして、‘i’には、口先に力を入れ鋭く発音することから、一つに向かって絞り込むイメージがあり、これらが繋がって‘Ni’には、一つの地点を指し示す機能が出てくる。(絞り込み   ― 到達点)
(ちなみに、やまとことばの古語では‘に’は土地、土を表わしていたようである。)
‘De’はどうか。‘D’は‘T’の有声音、すなわち、濁音である。‘T’には口腔内での舌の使い方から、止まる、溜まるイメージがあり、それを濁音化することによって、重さと少々の柔かさが加わる。‘e’には下に広がり続く感じがあり、それらが合わさって‘De’には、場所を指定する働きが出てくる。(ある程度の広がり、時には、もの。)
‘を’の発音は‘o’である。
‘o’は口の中を丸く大きくし、奥の下の方で発音するため、全体として大きく区切るイメージがあり、‘前を’となって、‘前’を含む全体から‘前’そのものを区切りだすイメージとなるのである。
したがって、‘前を’とは、‘前’の外側から‘前’の中に入ってきて、また、‘前’の外側へ行くイメージともなるのである。
子供たちは助詞のこのような働きをいちいち細かく覚えているわけではない。‘語感’で感じ分け、使い分けているのである。

俳句「米洗う 前を蛍が 二つ三つ」は作者不詳である。一説には、明治時代に書かれた「秋香歌譚」の中の「鍋洗う 前に三つ四つ 蛍かな」から変化したとも言われている。
「米洗う 前を蛍が 二つ三つ」のほかにもいろいろバリエイションがあるようであるが、中高等学校では「米洗う 前を蛍の 二つ三つ」となっているようである。
私はこの方が味が出ると思う。ただ、助詞「の」の使い方はむつかしい。本が一冊書かれるほどである。
「の」は、‘No’の‘N’の働きで何でもくっ付け得るのである。そして、‘o’には重さ、大きさがあり、重要感、存在感が感じられる。
   平成23年5月3日

   追加  「へ」  

 「米洗う 前に蛍が 二つ三つ」のバリエイションとして、「米洗う 前へ蛍が 二つ三つ」もある。 
 ‘へ’の発音は‘e’で、‘e’には繋がるイメージもある。したがって、‘前へ’となれば、‘前’へ繋がっていくイメージで、目標点が‘前’ということになる。
 ‘前に’は‘前’が到達点、‘前へ’では‘前’が目標点ということになる。そして、‘に’では途中は含まれないが、‘へ’では到達の途中も含まれるイメージである。その意味で、‘に’には動きがないが、‘へ’には動きが感じられる。
   平成23年5月6日

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