新しい言語学

手紙9

     渡部昇一先生への手紙  

渡部昇一先生

先生のご本を「日本史から見た日本人」をはじめ色々読ませていただきました。いつも日本人としての誇りを思い起させてくれ、うれしく、楽しく読ませていただいておりました。

 定年退職後、新商品のブランド名の感性評価をするビジネスの立ち上げに参画したことから、言語学の勉強を始めソシュールなども少々かじりましたが、一つの非常に大きな疑問に突き当たっていました。

 今般、先生の「語源力」を読み、わが意を得たりの感がしましたと共に、先の疑問がますます大きくなってまいりました。
 その疑問とは、ソシュールの「一般言語学講義」にある言語学の第一原理、すなはち、“音と意味との恣意性”についてのものです。
 先生のご本でも、先生は“擬声から言葉が生まれるのは洋の東西を問わない。人間の発声器官が同じであればある意味では当然のこと。”とおっしゃっています。
擬声という以上、意味と音とは無関係ではありえません。そしてこの擬声から言葉が出来ているとすると、この言葉に関する限り意味と音との恣意性は言えないのではないでしょうか。
そして、日本語には擬声語から出来たと思はれる言葉がたくさん残っています。少なくとも日本語に関する限りソシュールの言語学第一原理は間違いなのではないでしょうか。(これは、似顔絵は恣意的なもので、自由勝手に描けばよいといっているようなもので、似てもいない似顔絵なんて誰も使いません。それに、純粋記号論ならいざ知らず、恣意性を第一原理にする意味がありません。言語を記号と決めつけ、言語の全体像を見ていないのではないでしょうか。)
 先生はいかがお考えでしょうか。

以下日本語の例の一部をご紹介しますと、
○ H音は、平安時代は F音ですが、奈良時代以前は P音です。したがって、
  ピカリ → フィカリ → ヒカリ(光)
となり、この過程で ヒ(日)が生まれました。
 また、火が ポッ とつく、あるいは、ポッポ と温かいことから ポ ができ、これが語尾変化をして
  ポ → ピ → ヒ(火)
となった。同じように
  ポ(火)の尾 → ホノオ(炎)
  ポ(火)垂る → ホタル(蛍)
が生まれました。
○ 「ウーム」「ん」から「考える人間」が出来たとのことですが、日本語ではもっと単純で、
  ウー!   から うめく、うなる ができ、
  ウン    から うなずく ができ、この うなずく から うなじ、うなだれる ができた。
  ウン?   からは うたがう(疑う)もできました。窺う も。
これらの ウ は、実際の発声は ン 的な鼻音に近く、先生のおっしゃるように、内的な感情を表わしやすいのです。
○ われわれは、ソクラテスも「クラテュロス」の中でいっていますように、(ものの)最初の名前(すなはち、初期の言葉)は口でまねたものだと思っています。
K の発声は、咽の奥を舌の奥の部分で一旦ちょっと塞ぎ、これを破裂させるように開いて息を口腔内に流し込む、この時、流れ込んだ息は口腔内を回転、舌などの皮膚の表面の水気を奪うので、まず、固さ、軽さのイメージがあって、それに、回転のイメージが加わり、最後に、乾いた、冷たい感覚が生じます。
  KaRaKaRa
  KiRiKiRi
  KuRuKuRu
  KoRoKoRo
には、すべて回転のイメージがあります。そして、使われている母音のイメージによって、
  KaRaKaRa  は 明るく、軽やかに回り
  KiRiKiRi  は 細い直線のイメージのために縦に回る
  KuRuKuRu  は 鼻音の内的イメージのために目が回るイメージとなり、ここから、包む(KuRuMu)、狂う、苦しい などができ、くるま(車)という言葉もできました。
  KoRoKoRo  は o に重いイメージがあり、地面に接して回るイメージとなり、転ぶ、転がる などの言葉ができ、さらに 殺す(転がるから)という言葉もできました。先生は、魂も玉とおっしゃっていますが、古代の日本人は心も丸いものと考え、コロコロ転がる丸いものから、KoKoRo という言葉もできたのではないでしょうか。
○ その他(ほんの一部)
  フーフー  吹く
  タラタラ  垂れる
  トロトロ  とろける → 溶ける
  スベスベ  滑る
  ドキドキ(トキトキ)  ときめく
  オドオド(オドロオドロ)  驚く、脅す。おどける、踊る もそうかも。
  チュウチュウ  吸う(幼児語はチュウ)
  クチャクチャ  食う(くちゃ寝、くちゃ寝 という言い方もある。)ここから口も。
食うの Ku と 吸うの Su の対比ですが、K には固いイメージが、S には流れるイメージがあります。また、古代には T と S の発音が曖昧であったとの説もあります。

 なお、余分なことかもしれませんが、シーモスのご説明のところで「クラテュロス」からの引用として thumos とされていますが、岩波全集の「クラテュロス」では  thymos となり u が y になっています。

 以上、素人ゆえの独断、思い込みもあろうかと思います。先生のご指導がいただければと思い手紙を書かせていただきました。

 なお、今までの私の論考は個人のウェッブサイトに載せています。
    http://theory.gokanbunseki.com
また、語感分析の技術を使った分析例などは、
    http://www.gokanbunseki.com
に載せています。この中に、GLUCK についての考察もありますので、そのコピーを添付させていただきます。先生は、lu の滑らかさ、ck の切れ をしっかり感じ取っておられるようですね。
              平成21年4月29日
                        増田嗣郎
                       msiro@kjps.net

 

渡部昇一先生

 お忙しい中、わざわざのお返事有難うございました。先生の新しい語源のご本が早く出ますことを心待ちにしております。

 私自身は語源を研究しているわけではなく、語感と言葉の関係に関心をもっている者ですが、先生のお返事に一つ非常に気になるところがございましたので、あえて、再度、書かせていただきます。
 先生は「光(ひかり)」はオノマトピアではなく音象徴だと書かれていますが、「ヒカリ」は音象徴ではありえません。なぜなら、ヒカリ の ヒ が 光 の特徴の何をも象徴していないからです。ピカリ なら音象徴といえます。ピカリ はオノマトピア・ピッ あるいは、ピカッ からきた表現でしょう。
ところで、ヒ は ピ、ビ の清音(無声音)ではありません。仮名では、ヒ、ピ、ビ と同じ ヒ を使うため誤解されがちですが、H音とP・B音は発声的には種類の異なる音なのです。P・B は両唇破裂音ですが、H は声門摩擦音です。また、Hi は H音の中でも特殊で、硬口蓋摩擦音なのです。このため、ヒ と ピ は語感的には、同じ流れではなく、大きく変わってしまうのです。
ちなみに、語感的には、ピ には、固く、鋭く、小さな直線的なものが飛び出すイメージがあり、ヒ には、冷たく、少し紗のかかったイメージがあります。
したがって、光 は、オノマトピア・ピッ あるいは、ピカッ から音象徴語 ピカリ ができ、それが歴史的に転じてできた言葉というべきではないでしょうか。

 生意気なことを書き申し訳ありません。
 先生のますますのご健勝をお祈りしています。
             平成21年5月20日
                         増田嗣郎

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