新しい言語学

手紙7

   「DEATH(「死」とは何か)」を読んで思うこと  

「DEATH(「死」とは何か)」を読んだ。著者はイエール大学の道徳哲学、規範倫理学教授のシェリー・ケーガン。この本は、同大学での23年間連続の人気講義をまとめたものとある。日本語版は縮約版で「前半の形而上学的な詳しい考察のほとんどを省き、倫理と価値にかかわる問題に的を絞った」とある。したがって、全ての講義を読めた訳ではないが、読み終わって何か拍子抜けの感じがした。緻密な論理でありながら説明は明快で、非常に分かり易く説得力がある。ただ、何か肝心のものが抜けている様な気がした。これは哲学の本である。哲学の本に対して、感じた、とか、気がすると言うのはそぐわないが、個別の論議に対してではなく、全体として、そのような違和感を持ったのである。
この本の個別の論議の結論には異議はない。この本のおおまかな結論にあたる「人間とは、これらのさまざまな形で機能する能力を持ったただの身体、あらゆる人格機能を果たすことのできるただの身体・・」「身体が死んだときにその人も消滅して当然」「魂は存在しない。死後の生は存在しない。私たち全員がいずれ死ぬのはよいことだ」にはほぼ賛成である。何に違和感を持ったか。それは、個の人間の主観を中心に、そしてそれも良いか、悪いかのプラスマイナスで、すべてが議論されているように思われるからである。
根本的な問題として、人間を、生き物としての人間、と見る視点が欠けているのではないか。そして、人間を代々続く人類として見る視点が欠けているのではないか。哲学は個の内面の生き方をのみ追求するものだから、個の内面をのみを対象とする、とするのであれば、それは西欧哲学の知的自己満足に過ぎず、西欧哲学の限界である。この本の省かれた前半に書かれているのかもしれないが、個の問題を論ずるにしても、人間存在の価値を論ずるとき、生き物としての人間のあり方に一切触れないということはあり得ないと思う。また、死は生の遮断であるから、当然、生についても議論されなければならない。しかし、「私たちは何者なのか」「人間とはどのような存在なのか」「生き続けたところで、何の意味があるのか?」などの問いがあるが、子作り、子育てに関わる議論が一切ない。生き甲斐、働き甲斐という表現も見当たらない。そもそも、英語に生き甲斐、働き甲斐という表現があるのだろうか。欧米には、そのような考え方、感じ方が薄いのかもしれない。日本語の生き甲斐、働き甲斐という言葉の裏には、生きること、働くことを、それが当然であり、自然であると捉える感覚がある。欧米では、生きることは原罪を背負って生きることであり、働くのは罰として働かされるという意識が今なお強いのではないか。生きること、働くことそのことを、喜びと感じてはいけない文化は不幸である。生物界では、生きることは働くことである。あてがい扶持で生きているのは家畜だけである。寄生虫ですら努力して生き残ろうとしている。そして、生物にとって、生きることの中に子孫を残すことが含まれる。人間にとっても、子を生み、子を育てることが生きることの主要な一部なのではないのか。この本では、快楽としてSEXを取り上げているが、天(自然)がSEXに快楽を付加したのは、子作りの重責を負わせるためである。生物としての人間にとって、子育ては本質的に重要なことなのではないか。子育ての中に生き甲斐、働き甲斐を感ずることが自然なのではないか。この本にはこのような視点が一切見られない。欧米哲学の限界である。
この本では、自己の同一性に関して、人格説と身体説があるとして、それらを比較検討し、筆者は人格説を取っているようであるが、人格と身体を別々のものであり得るという考え方そのものがおかしい。筆者は、「ひょっとしたら将来、身体がすっかり古びて死にかかっているときに、私の信念や記憶などを、新しい代替の身体と脳に「アップロード」することが可能になるかもしれない。アプロードの後、新しい代替の身体が私の信念や欲望や感情を持った状態で目覚めたとき、それは私なのだろうか?」としながらも、「科学技術のおかげで可能になるとしても、今起こると考える理由はない」と答えを留保してしまっている。科学技術的に可能となり得ると考えているのであろう。個人の信念や欲望や感情や、そのベースとなる記憶が脳だけの問題だと思い込んでいる節がある。記憶は脳にデータとして蓄積されているわけではなく、経験の反映としての脳のネットワークの活性化の蓄積としてあるわけで、それを取り出して、保存したり移植したり出来る種類のものではない。また、ネットワークの活性化も脳と身体各所とのやり取りの結果として起こるもので、脳内だけでの自己完結的活性化はごく一部であると思われる。筆者は、意識は脳を含めて身体があって初めて発生するところまでは了解しているようではある。「ホモ・デウス」のユヴァル・ノア・ハラリは、意識は脳内活性化の副作用だ、と言っている。そうかもしれない。しかし、意識が発生して初めて人間はホモ・サピエンスになり得た。ただ、さりとて、意識は実体ではない。現象に過ぎない。われわれの自己という意識も、実体ではない。単なる付随現象に過ぎない。われわれはこの付随の現象に過ぎないものを過大評価し過ぎているのではないか。自分というものを絶対的なものとして過大評価しているのではないか。もちろん、意識というものが発生して、人間は知能を進化させ、社会を作り、言語を得、文明を作り上げた。しかし、生き物としての人間にとって、この知能、文明は本質的なものなのだろうか。人間を特徴付けるものとして、知能、文明は重要である。しかし、生物として本質的なものなのか。先の「ホモ・デウス」などを見ると、知を、生物としての命よりも、重要視しているかに見える。これを、私は、欧米的知至上主義として批判してきたが、著者シェリー・ケーガンにもその傾向が見える。筆者は「草の葉のような人生を送ることが私にとって少しでも価値があるとは考えない・・」と言っている。個人的感想としてではあろうが、ここにも、人間至上主義、知至上主義が見て取れる。さらに「生きていることそれ自体に価値があると言う人がときどきいるにしても、おそらく彼らが本当に意味するものは、人格を持った人間として生きていることだろう」とも言っており、極限状態において、石にかじり付いてでも生きようとする生き物としての人間のあり様を、想像すら出来ないのだろうか。副作用として現れた意識、そしてそれを進化させて得た自己意識、これらを得る前の人間に個はあったのか。個として生き延びようとする本能はあった。さらに、子孫を残そうという本能も、場合によっては、それ以上にあった。子を守るために自らの命を賭す親もいた。知を得てそれらの本能は無くなったか。今もそのような親はいる。筆者は、そして哲学というものは、本能を軽視し過ぎていないか。哲学は本能を無視するのか。哲学は、個というもの、意識としての自己というものに拘り過ぎているのではないか。意識は、そして個という自己意識そしても、付随現象に過ぎない。個は、人類という命の受け渡しの流れの中の一つの現象に過ぎない。人類は、人間としてのDNAを、その組合せを交配させながら、次代へと受け渡していく。この全体が人類であって、個々人はその一局面に過ぎない。まして、その個々人の持つ現象としての意識は、一時のもの、一過程のものに過ぎない。哲学は、その一過程のみを云々するのでは駄目だろう。自然科学が生命の本質に迫らんとする今、哲学も、生物科学の成果を生かし、人間の、人類の、本質に迫る努力をすべきだと思う。そのためには、人間を知のみの存在として捉えるのではなく、知も情も、そして本能を併せ持った存在として捉えなおす姿勢が必要である。個の捉え方も、DNAの流れの中の個として捉える必要がある。哲学が、人間の本質を考えるものであるなら、生き甲斐も、働き甲斐も、子育ても、その対象にしなければならないと思う。
子育てと生き甲斐とは、密接な関係があると思う。生きることと働き甲斐とは、やはり密接な関係がある。生きることは原罪に対する贖罪であり、働くことを罰と考える一神教の呪縛から、哲学は脱すべきである。生物学、生理学から見れば、生きることは喜びであるはずである。野山の鳥や海の中の魚がいやいや生きている訳がない。罪を意識することが人間として高等なことであるとするのは、まさに為にせんが為の姦計である。これらに対して、何も言えない哲学は、哲学本来の使命を果たしていないのではないか。ついでに言えば、哲学として(政治的には別として)、DNAの流れの一局面にしか過ぎない個の基本的人権などあり得るのか。生理学的に違う男女の絶対的男女平等などあり得るのか。基本的人権、男女平等、これらは、ユヴァル・ノア・ハラリの言う共同主観であり、ハラリも言うように、一種の宗教である。そろそろ限界が見えてきたのではないか。欧米文化を外からも見ることの出来るわれわれ一般の日本人には、極めて不自然に見える。
これからの哲学を目指す人々には、最新科学の成果の(詳細ではなく)本質を見抜いて、哲学の新しい道を切り開いて欲しいと思う。
      (平成31年1月31日)

   「日本語は哲学する言語である」 を読んで  

「日本語は哲学する言語である」 を読んだ。著者は批評家で国士舘大学客員教授の小浜逸郎。本の帯には、「日本語を日本語で哲学すれば、デカルトや、ハイデガーが、何を間違えたのかがよくわかる」 とある。日本語そのものを、まず、分析しようというものである。そして、従来の哲学、西洋哲学を批判的に越えようというのである。本書の 「はじめに」 では、従来日本語の弱点として言われてきた 「曖昧さや情緒に流れる」 特性を正面から受け止め、逆に、悪しき西欧的言語観、すなわち、「論理的陳述の問題に偏り、言語生活において重要な役割を果たしているはずの情緒の問題をないがしろにしている事態」を批判することによって、「日本語で」 「日本語を哲学する」 と宣言している。その想やよし。まことにすばらしい試みである。
 したがって、まず、西洋哲学と格闘した日本人の業績の紹介の後、日本語の特性の分析に入るのであるが、結論的にいうと、非常に残念なことに、日本語の特性についての大きな見落としがある。日本語を日本語たらしめている一つの側面に対する気付きが欠落している。これには、そうとは知らず、著者も気付いておられるらしく、文中に 「なぜ、その状態にいかにも合っていると感じられるのか、なかなか合理的な理由を見つけるのがむつかしいでしょう」 とか、「何がこの鮮明な使い分けをもたらしているのでしょうか」 などの記述が出てくる。この二つの問いは非常に重要である。最初の問いは、オノマトペの音韻についてのものであり、二つ目の問いは、日本人が 「もの」 と 「こと」 という言葉の使い分けを決して間違えないことについてである。そして、これらに対する答えこそが欠けた側面に関わるものなのである。欠けたもの、それは‘語感’、いわゆる音象徴現象に対する理解である。
言葉の音と意味との関わりについては、古のソクラテスに始まり、わが国でも、鎌倉時代の僧仙覚、そして江戸時代の国学者、契沖、賀茂真淵、本居宣長、鈴木朖、さらに、近代では文学者幸田露伴によってもいろいろ唱えられてきたが、いずれも音義説として無視されてきた。言葉の音が意味を持つと言ってしまったからである。言葉の音一つ一つが意味を持っているわけではない。言葉の音一つ一つはいろいろのイメージを持っている。もっと正確に言えば、言葉の音それぞれが、その言葉を発する人、聞く人双方の脳に、それぞれ、そのいろいろのイメージを惹起せしめるのである。人が言葉の音を発する時、口腔内を中心にいろいろな感覚が生じる。これを発音体感という。その言葉を聞いた人も意識下で同じイメージを感じる。これをsubliminal impression という。言葉を発した人の発音体感が、その言葉を聞いた人に subliminal impression として伝わるのが、‘語感’、いわゆる、音象徴現象なのである。筆者の二つの疑問に対する答えが、これである。そしてこの本では、この音象徴現象には気付いているものの、その本質の理解が根本的に欠けている。
 筆者は、オノマトペ 「どんどん進んでいく」 「すいすい泳ぐ」 「つんつんした態度」 「ぶらぶら揺れる」 を取り上げ、これらは、「なぜ、その状態にいかにも合っていると感じられるのか、なかなか合理的な理由を見つけるのがむつかしいでしょう」 と言う。そして、「どん」 については、「ものがぶつかったりする衝撃的な印象を掬い取っている」 とし、「つん」については、「細く鋭く、何かこちらに刺さってくるような感じがありますね」 とも言っている。実は、この 「ぶつかる衝撃」 「突き刺さる」 感覚は自分自身の発音体感からくるのである。子音 /T/ の発音は、舌先を上歯茎にちょっと付け、そこを息で弾くように発音する。それに重く存在感を感じさせる母音 /O/ が付くと、ぶつかるイメージが感じられる。さらに、この清音 /T/ を濁音化、すなわち有声音 /D/ にすると、パワーが加わって衝突のイメージや勢いのイメージが感じられる。そして、子音 /T/ に、内からの動きの感じられる母音 /U/ が加わると、つつく、突くイメージとなる。この 「突く」イメージを筆者は 「刺さってくる」イメージとして受け取ったのであろう。筆者は、実際は、‘語感’を感じ取っているのである。ただ、その機序にまではお気付きではなかったということである。なお、母音 /O/ は、口腔を大きくし、その奥の下目を中心に共鳴させて発音するので、大きく重く暗い感じがする。母音 /U/ は、口腔の上から鼻腔にも息を洩らしながら発音するので、内々感とともに動きが感じられる。
 二番目の問い 「何がこの鮮明な使い分けをもたらしているのでしょうか」 は、日本語において、日本人が 「もの」 と 「こと」 の使い分けを間違えないことを言っているのであるが、日本人は、意識はしていないが、無意識に、音の持つイメージの違いを感じ分けている。筆者は、「もの」 について、「個物の具体性を抽象する」 「何となくぼんやりと言いくくる」 「個々の実在のリアリティをぼんやりさせてしまう」 と言い、「こと」 については、「語ることができ、語られるに値するはっきりした輪郭を持った物事」 と言っている。筆者の言う、「もの」 と 「こと」 に対する感覚的違いは、「ぼんやり」 と 「はっきり」 である。発音は /MoNo/ と /KoTo/ であるから、発音上の違いは、/M,N/ と /K,T/ の違いである。/M/、/N/ はともに鼻音で鼻腔で共鳴させるので、湿った粘り気を感じさせ柔らかいので、もやもや感がある。すなわち、「ぼんやり」である。/K/ と /T/ はともに破裂音で、物理的なキレがある。「はっきり」である。この違いを筆者も感じ分けている。もちろん、普通の日本語人もこの‘語感’の違いを感じ分けている。だから、鮮明に使い分けているのである。なお、/K,T/ に対して /M/ には大きさ、豊かさも感じられる。
 余談になるが、面白いのは、この本でも取り上げいる、日本最古の物語といわれる 「竹取物語」が、「竹取事語」 ではないことである。事ごとを語っているにもかかわらず、「こと語り」 とせず 「もの語り」 としたのは、事ごとを事細やかに語るのではなく、豊かに大きく語りますよという古代人の感性なのだろう。ちなみに、「物語」 という言葉は我々の祖先が作った日本製の日本語である。
 また、筆者は、「事」、そして、「言」 の読みを 「こと」 から直接来たと言っているが、私は、「こと」→「事」→「事の端」→「ことば」→「言葉」→「言=こと」 の順に出来たと思っている。「事」 から直接 「言」 には、飛躍しすぎで、無理がある。「言葉」 も日本製の日本語である。
 筆者は、オノマトペそれぞれのもつイメージの違い、言葉の音そのもののもつイメージの違いを感じ分けてはいたものの、その正体が見極められなかったのであろう。
 音象徴現象が、なぜ起こるのか、長い間、不明のままであった。ソクラテスは、プラトン全集の「クラテュロス」のなかで、「文字と綴りで模倣されて事物〔の姿〕がくっきり顕わになる・・」として、「r(ロー)の字は、あらゆる動き〔を表現するため〕のいわば道具である・・」、そして、「r の字の発音に際して舌が〔他の場合に比して〕静止することの最も少なく、震動することの最も多いのを見てとったから・・」と言っている。/r/ の発音は舌を最も動かすから、動きを表すと言っているのである。まさに、われわれの発音体感説である。ただ、ソクラテスは意味を表すと言ってしまった。それ故に、その後、音義説として否定されてしまったのである(例外がいくらでもあるから)。近年、音義説を脱して、言葉の音が何らかのイメージをもっているとする音象徴説が登場したが、なぜそのような現象が起こるのかの解明は進んでいない。オノマトペの発達した日本語では、何らかの音象徴の存在そのものは受け入れられ易いが、学問の世界では、オノマトペそのものを幼稚なものとして学問の対象として受け入れることに躊躇している。そのため音象徴現象の解明は進んでいない。オノマトペ学会において、共感覚的音象徴としての理解が始まったが、これでは、表面を撫でるに等しい。そもそも共感覚とは、一つの感覚が他の感覚と同時並行的に感じられる現象であるから、事態をそう把握したというに過ぎず、一歩前進ではあるが、事態の理解にはほど遠い。また、そもそも共感覚は基本的に異常感覚で、すべての人のもつ感覚を異常とするのは、やはり問題である。
アメリカの脳生理学者・ラマチャンドランがbooba/kiki実験のメカニズムとして、共感覚的ブートストラッピング説を唱えているが、私は、これはラマチャンドラン博士の早とちりだと思っている(「脳の中の幽霊、ふたたび」V.S.ラマチャンドラン)。紙の上に書かれたギザギザの図形と丸っぽい図形のどちらが、booba、あるいは、kikiという名前にふさわしいかを問われて、98%以上の人が、ギザギザ図形の名前としては、kikiがふさわしいと答えるが、それは、人の脳の中で、聴覚情報を伝える神経と視覚情報を伝える神経が、交差しており、そこでの混信の結果、聴覚と視覚が結びつくとしているのである。しかし、このような理解は間違いである。私は、この場合の聴覚、すなわち、‘語感’としての聞こえは口腔体感を中心とする発音体感であるから基本は触覚であり、そして、視覚は、幼児の誕生後の目の見え初めに、舌で舐め、手で触って、そのものの輪郭、材質感を覚えたもので、視覚は常にこの触覚によってバックアップされており、結局、これは触覚同士の問題で、共感覚的ブートストラッピング説は間違いだと思う。紙に書かれたギザギザ図形に鋭さを感じるのは、この手の触覚の記憶である(幼児期のこの経験を経ずに、成年になってから目が見えるようになった人が、物が見えてもそのものの輪郭が掴めなかった、との報告がある(「46年目の光」ロバート・カーソン))。したがって、kikiの音に発音体感として鋭さを感じ、ギザギザ図形に手の触覚としての鋭さを感じるのであるから、その結びつきは触覚同士の結びつきであって、共感覚ではない。しかるに、この共感覚的ブートストラッピング説を音象徴現象の説明に、我が国最先端のオノマトペ学者の一部が使っているが、まことに安易で不勉強と言わざるを得ない。
 では、なぜ、言葉を発した人の発音体感が、その言葉を聞いた人にsubliminal impressionとして伝わるのか。これは言語現象の本質に関わる問題である。幼い子の発した 「おはよう」 の /O/ と老人のしわがれ声の 「おはよう」 の /O/ は、物理的には同じではない。音の高さも違う。周波数が違う。ではなぜ、同じ /O/ に聞こえるのか。基本的には約束事だからであるが、乱暴に言うと発音方法が同じだからである。言葉の音のそれぞれの違いは発音方法(口の動かし方、舌の使い方など)によって違ってくるのだが、物理的には一つの音を構成している周波数群の構造の違いだろう。音声学でよく用いられるフーリエ解析で、第一フォルマント、第二フォルマントなどと分析するのでは不十分で、もっと立体的な、あるいは高次な解析が必要なのだと思う。ただ実際は、人は、幼児期に、/O/ と聞いて、ただそれらしく発音するのである。見よう見まね、聞きよう聞き真似で発音する。どの様に発音するかではなく、当人にとって、その音が出ればいいのである。その結果、幼子の /O/ も老人の /O/ も同じ /O/ として、すなわち自分の発音の /O/ として聴き取れるようになる。だから、違う音である幼子の 「おはよう」 も 老人の 「おはよう」 も、脳の中では、同じ自分の 「おはよう」 として意味理解が可能なのである。これと同じことが同時に‘語感’にも起こる。言葉を発した人の発音体感を、その言葉を聞いた人も、自分の発音体感として感じるのである。厳密には、発した人の発音体感と聞いた人の発音体感は異なるかもしれないが、これは意味理解に差があるのと同じで、ほぼ同じとしてよい程度の違いである。これがsubliminal impressionである。言葉を発した人はもちろん、言葉を聞いた人も、その言葉の持つ‘語感’を、意識としては、明確には感じてはいないかもしれないが、何となく感じている。だから、subliminalなのである。このsubliminalなものを敢えて言葉にしたのが、筆者の、先の 「ぶつかる衝撃」 「突き刺さる」 や 「何となくぼんやりと言いくくる」 「語ることができ、語られるに値するはっきりした輪郭を持った物事」、などの表現なのである。Subliminal impressionは感覚だから情緒である。情緒はアナログである。言葉はデジタルである。意識するということは、アナログな情緒をデジタル化するということかもしれない。筆者が「思考・思想・論理は言葉以前には成立し得ません」 と言っているのはこのことだろう。ただ、筆者は、「言語以前に、漠とした「意」とか情緒とか気分、イメージ、ごく広い意味での認識や判断、世界の意味把握といったものはありうるし・・」 とも言っているが、この場合の漠とした認識や判断を筆者は何と呼ぶのか。判断もイメージと呼ぶのか。少し無理があると思う。筆者は、「いる−ある」 問題で、「・・ある」 について、「存在や様態を表している」とした上で「より間接的・客観的で冷ややか」 とし、「・・いる」 は 「より直接的・主観的で温もりを感じさせる」 としているが、後に詳しく解説するが、‘語感’としては、「あるvsいる」 を「客観的vs主観的」としたのは頷けるが、それを、「冷ややかvs温もり」としたのは誤りである。/あ/ はむしろ温かく、/い/ は冷たい。なぜこのような誤解が生じたかだが、客観を冷たく、主観を温かく感じたのだろう。ただ、これは意味解釈で、感覚ではない。したがって、筆者がここで「冷ややか、温か」と言ったのは、感覚ではなく、判断、すなわち、思考である。この言葉以前のsubliminalに行われた判断は、判断ではないのか。思想ではないのか。それでは何と呼ぶのか。私は、言葉以前のsubliminalでの判断・思想・論理もあり得ると思っている。

 ここで注意を要するのは、発音体感にしろ、subliminal impression にしろ、イメージの塊、すなわちクオリアの状態だということである。明るいとか、軽いと言ってしまうと、それはイメージ群の中の一片に過ぎない。音が連なり一つの言葉になると、それはその言葉を構成する音韻一つ一つが持つイメージ群の集合体であるから、なおさらにいろいろなイメージを持つことになる。時には、重いと軽い、のような正反対のイメージを同時に持つこともあり得る。人が言葉を選び使う時、その言葉の一部のイメージを特に感じながら使うのだが、その言葉を聞いた人が同じようなイメージを感じ取れるのは、日本語なら日本語としての言葉使用の慣習のようなものがあるからだと思われる。大阪弁の慣習もあれば、地方地方の慣習もありうる。これらの慣習のようなものは、言葉の使用によって、各人の脳の中に、意味を覚えるのと同じように、記憶・蓄積されていくのである。我々が‘語感’と言った場合、一つの言葉の持つイメージの中の主だったものを、言語表現として、切り出したに過ぎない。その他のイメージすべてが、大なり小なり、それなりにニュアンスとして、伝わり得るのである。かっての音義説は、この一部のイメージを、確定的なもの、すなわち意味と言ってしまったため、そうでないケースを挙げられ否定されてしまった。音象徴という言い方も、主だったイメージを言語化したものであるが、すべてのイメージをカバーし切れている訳ではない。デジタルでアナログなものはカバーし切れない。この曖昧さ、すなわち、クオリアのアナログ故の曖昧さ、そしてそれ故に、音象徴現象は学問として正式には認められ難いのかもしれない。しかし、自然科学も今や量子力学の時代に入って、不確定性原理にあるように確率的存在が理解されるようになった。言語学においても、イメージ群の確率分布的存在として‘語感’現象を理解し、その存在を学問として認めるべきである。筆者の言うように、曖昧は日本語の欠点ではあったが、今や日本語の利点ともなり得るからである。若き学徒の奮起を期待してやまない。
 一つの言葉の音の持つ色々のイメージと、その場その場における意味的理解の多様性の例を一つ挙げる。「コンコン」 というオノマトペは次のように意味的に異なる7つの場面で使われる。
   コンコン狐が鳴く
   コンコン咳をする
   コンコンと戸を叩く
   コンコンと雪が降る
   コンコンと泉に水が湧き出る
   コンコンと言い聞かせる
   コンコンと眠っている
 最初の3つは擬音語。固くて、やや高く、小さめ控えめの音として共通なのだろう。ただ、音としてはそれぞれ異なる音である。次の2つは擬態語。音は全くない。小さな纏まりが続く様だろう。上からと、下からとまったく逆である。しかし、感じとしてよく分かる。最後の2つは熟語の連想から出来た表現ではないかと思われる。「懇切丁寧に」「根を詰めて言い聞かせる」。あるいは、「懇願する」を連想させる。そして最後は、「昏睡状態にある」からである。意味的な連想からではあるが、感じとしても実感できる。/Ko/ に、重み、暗さ、そして小さな纏まりとしての存在感が感じられるからだろう。感じる方も選択的に感じているということである(この辺りをいい加減として、学問として否定してしまうのは、人間という存在の複雑さに対する無理解であり、不遜ですらある)。
 筆者は、「言葉の本質」 の考察において、「言葉の本源は音声である」 とするのは正しいが、‘語感’、すなわち音象徴現象の存在、そして、そのメカニズムに気付いていないため、音響、そして、それを捉える聴覚を神秘化し過ぎているように思う。さらに、言葉について、「言葉が「意思伝達のための手段」ではなく、むしろそれ自体が 「意思伝達=思想」 そのものである・・」、そして、「手段にすぎないなら、宅配便のように、そのまま正確に相手に伝わる・・」 はず、とまで言っている。私は、言葉、そのものは単なる音に過ぎないと思う。異なる音々に過ぎないと思う。筆者は、宅配便に例えてそれを否定しているが、私は例えるならキーだと思う。合いカギのようなものの連なり、すなわち鍵の束である。
改め、言語現象の本質につて考えてみたい。私は言語現象の場を言語場として考えている。二人以上の人が言葉を交わす場が、マクロの言語場である。マクロの言語場には音声としての言葉が飛び交っている。その飛び交う言葉、すなわち音声、そして音に、その言葉を発した人は意味を託し、その言葉を聞いた人は、その言葉の意味を受け取る。しかし、その言葉の音声、音響には、何も乗ってはいない。意味やイメージが音に乗っている訳ではない。それぞれ音としての違いがあるだけである。言葉の意味を理解してその言葉を発し、その言葉を聞いてその言葉の意味を理解出来るのは、言葉を発する人も、言葉を聞いた人も、予めその言葉の意味を知っているからである。新しい言葉を、初めて聞いた人はその言葉の意味を理解できない。二度三度とその言葉を耳にすると、それぞれの場の状況からその言葉の意味を推測できるようになる。そして幾度となく聞くうちに、その言葉の意味を理解するのである。このようにして、ミクロの言語場、個人の脳の中に、言葉と意味の結び付きが蓄積されていく。比喩的に、脳の中の「言葉−意味」秩序が形成されると言ってもいい。「意味辞書」と言ってもいいだろう。生理学的には、脳の中の神経細胞ネットワークとそれぞれのシナプスにおけるインパルスの通り易さの広がりが作られるのだと思うが、記憶のくわしいメカニズムはまだ分かっていない。ミクロの言語場では、耳の鼓膜でキャッチされた音声が、神経インパルスとして、自分の言葉の音に変換されて、脳内で意味辞書と照合され、統語ルールとも照合され、意味理解される。言葉の音がそのまま脳の中に入っていくわけではない。マクロの言語場に飛び交う言葉は、ミクロの言語場において、自分の音に変換されて、自分の音の言葉として、意味辞書から意味が引き出されるのである。マクロの言語場に飛び交う言葉それぞれが、意味を持っているわけではない。まして、言葉が思想であるわけがない。ミクロの言語場でその人の言葉に変換され、意味を引き出すのであるから、マクロの言語場の言葉はキー、すなわち合いカギのようなものである。合鍵をいくら分解してみても意味は出てこない。この合いカギが鼓膜に伝わって初めて脳に意味が出現するのである。ただ、この意味理解は、その言葉を発した人の意図した意味と同じとは限らない。なぜなら、聞いた人の意味理解は、自分の意味辞書から引き出したものだからである。自分の意味辞書は、自分の解釈で自分なりに作ったものであるから、他人と同じとは限らない。個人個人の意味理解である。もちろん、出鱈目ではない。個人個人の意味理解があまりにも違っていれば、そもそも相互の意思疎通ができない。言語として成立しない。
かって私は、このマクロの言語場に飛び交う言葉、すなわち合鍵の束を電磁波に例えたことがある。ミクロの言語場、すなわち個人の脳の中で意図された意味が言葉として、すなわち電波として、マクロの言語場に放出される。この言葉、すなわち電波を受け取った個人は、その電波によって自分の脳の中に意味として再生し理解する。この様に個人個人の発する言葉、すなわち電波によってマクロとしての電磁場が形成される。マクロの電磁場はミクロの電磁場の総計であり、全体である。マクロの電磁場はミクロの電磁場の影響を受ける。同時にミクロの電磁場もマクロの電磁場の影響を受ける。もちろん、電波にも電磁波にも、意味は乗っていない。ただ、波である。波の変化があるだけである。言葉も同じである。言葉も音声としては波である。比喩としては、全体を理解するには電磁波の方がイメージしやすい。しかし、個人の脳の中での意味理解については、合鍵の方がイメージし易いかもしれない。実際のマクロの言語場としては、日本語の世界、大阪弁の世界などが考えられる。
 この言語場の考え方は、‘語感’、すなわち音象徴現象にも適用できる。発音体感の記憶から選択された言葉が、マクロの言語場に発せられた時、ミクロの言語場は、その言葉を合いカギとして受け取り、自分の音の言葉として脳内に再生させるが、この言葉の音の再生に伴なって、自らの発音体感が感じられる。イメージの記憶の部分もあり得るが、新たな発音体感としても感じられる。この合いカギは、意味伝達の際の合いカギと同じものである。一つの合いカギで、意味とイメージが同時に伝わるのである。日本語の場合、意味とイメージは表裏の関係にある。日本語会話の場合、この意味とイメージが共に勘案されて、言葉が選ばれる。ただ、イメージは意識としては意識されていないかもしれない。したがって、subliminalに、である。この言語現象に対するメカニズム的理解が、筆者には欠けているのではないか。

 筆者は、西欧語にない日本語の特徴として情緒を強調している。すなわち、「西欧の言語哲学は、私たちの言語生活において重要な役割を果たしているはずの情緒の問題をないがしろにしている」 とした上で、「日本語は世界をどのようにとらえているのか」と問い、「その関心は、情緒の相互交換が大きな役割を演じる日常の共同的なやりとりそのものにままざしを注ぎます」 とし、「多くの日常会話が、ただの事実の伝達を旨として行われるのではなく、互いの気持ち・情緒・感情の交錯を無意識に目標にしている・・」 と言っている。気持ち、情緒、感情と区別しているようだが、その区別の意図がよく分からない。私は日常会話における、情報に相対するものを一括で「気持」としている。また、交錯と言っているのも何かの皮肉なのだろうが、私は交流でいいと思っている。そして筆者は、「言葉とは」として、「西欧人が考えるようにロゴスではなく、むしろ日本人がとらえたように「言霊」なのです」。そしてそれは「魂のやり取りを意味しています」と言っているが、これはオーバーだと思う。ごく特殊なケースでは、そのようなこともありうるが、日常では、情緒の相互交換、私の言い方では、気持のやり取り、あるいは気持の交流でいいと思う。しかし、いずれにしても、筆者が情緒の相互交換を日本語の本質とするのは、まさに正鵠を射ている。また、これが無意識になされるということにも気付いておられる。ただ、これらのことが実現できるのは、日本人が日本語に生きている‘語感’を都度感じ取っているからである。
 筆者は、「日本語が、よくも悪しくも周囲との情緒的関係を大切にする言語」だとして、その一例として先の 「いる−ある」 問題を取り上げている。また、この区別が日本語にあって欧米語にはないという事実は重要だとしている。この「いる−ある」違いも‘語感’の違いとして説明できる。「いる」 と 「ある」 の違いは、 /い/ と /あ/ の違いである。母音 /イ/ の発音は、口先を狭め、下の歯を中心に口元に少し力を入れて、強く息を出す。ここから、細さ小ささに加え、前への直線的なものが感じられる。力も加わり意思的なものが感じられる。歯茎、唇の間を息が強く流れ、湿り気を奪い、少し冷たくも感じる。母音 /ア/ の発音は、口を大きく開け、息を口腔全体で共鳴させながら出すので、オープンな広がり感、そして、明るさ、淡さ、温かさが感じられる。/ア/ の発音は、もっとも技巧的なところがなく自然である。したがって、筆者が「ある」を客観的、「いる」 を主観的と言っているのは頷かれる。自然は客観であり、意思は主観とも取れるからである。ただ、‘語感’としては、「ある」 は温かく、「いる」 は冷たい。日本人にとって自然は温かだし、意思はパッションと違って冷たい。また、日本人にとって、「ある」 は絶対的な存在として大きく感じられ、「いる」 は人間のちっぽけな意思によるものとして小さく感じられる。これらはすべて‘語感’のなせる業である。
欧米語はこの‘語感’を失って久しいのだろう(なお、英語のなかにも‘語感’の生きているものは、今なお、たくさん残っている(九州大学で音声学、英語学の教授を長年務めた西原忠毅は「音声と意味(SOUND AND SENSE)」の中で詳しく例示している)。筆者の指摘はないが、日本語には「おる」という表現もある。「おる」 の /オ/ は、口元を狭め、口腔を大きくして、籠るように発音するので、大きく重く暗い感じがする。調音点が口腔の下奥にあるので、動かない感じもあり、存在感が感じられる。「おる」 には、でんとした存在感がある。また、この「おる」にも多少意思的なものが感じられる。日本語には、「ある−いる−おる」の使い分けがあるのである。「ある」 は完全な客観、「おる」は多少主観、そして「いる」は完全な主観である。この使い分けを日本人が間違えないのは、subliminalに‘語感’を感じ分けているからでもある。ここで筆者は、英語には、存在を表す言葉として、主観、すなわち情緒を表す言葉がないことを指摘しているのであるが、日本語にあって英語にはない、情緒、すなわち主観を直接表す言葉は、他にもたくさんある。「うれしい」「かなしい」「さびしい」などである。これらは、英語では「I am glad.」「I am sad.」「I am lonely.」となり、主観ではない。直訳すると「私は、うれしい状態にある」となり客観である。自分のことではあるが、自分を客観的に見ていることになる。「I feel sad.」、これとて、feelこそ主観ではあるが、悲しさを感じるというように説明的で客観に近い。英語には、glad, sad, lonely と客観を表す言葉がまずあるが、日本語には、うれしい、さびしい、かなしいと主観を表す言葉がまずあって、客観を表すには、うれしそう、かなしそう、さびしそうと‘そう’を付けなければならない。英語は客観が中心であるが、日本語には、主観、すなわち情緒中心の言葉が数多く残っているのである。
そして、英語には、日本語の「思う」に相当する言葉がない。「think」があるではないかとのご意見もあるが、「何となく、そう思う」を英語では何と言うか。「I think so, without any reason.」とは言えない。Thinkは知的行為で、そう考えるには必ずそう考えるreasonが必要である。一方、日本語の「そう思う」には必ずしも「そう思う」理由は必要ではない。「考える」と「思う」は違うのである。日本語の「考える」は知の行為。これに対し、「思う」は情、すなわち情緒の部分も入っている。Thinkは知の言葉。英語には情での言葉はない。英語では、情での思考を想定していないのである。欧米人は、知でのthinkか、情でのfeelかの二者択一にしてしまうのだろう。
筆者は、「カワイイ!」を挙げ、感じられる対象と感じる主体との両方にまたがって使われている、と言っているが、これは少し無理がある。「カワイイ」と思う気持以外に「カワイイ」という感覚そのものがあり得るだろうか。少し無理があると思う。「うまい!」ならあり得る。対象物が美味と思う気持以外に「うまい!」と感じる感覚そのものがある。英語には、このような言葉はない。「It’s delicious.」「It tastes good.」などであって、感覚として美味いと感じるという言葉はないだろう。日本語の「苦い」はどうだろう。「苦い体験」という表現があるから、これは、あり得るだろう。「辛(から)い」「渋い」はどうだろう。これは無理だろう。いずれにしても、英語にはなくて、日本語には主体の主観を表す言葉が数多くあるのである。
 さらに筆者は、「ある−する」「ひと−もの」、そしてテニヲハ、コソアド、さらに助詞を取り上げ日本語の情緒面を浮き彫りにしようとしているが、これらはすべて‘語感’、すなわち音象徴によって可能となっているのである。したがって、日本語の特徴としては、‘語感’の存在がより本質的なのである。日本語が母音中心であり続けるのも、それ故であり、また、母音中心であるが故に、日本語の中に‘語感’が生き続けてきたのである。(これらについては、別途、個別に説明する)。

 このように、日本語の根底にある日本文化と西洋文化との根本的違いを考える時、情緒だけに目を奪われると、大本を見落とす恐れがある。筆者も、情緒にからみ、人と人との繋がり、共同性にもふれているが、日本文化の特質としては、この人と人との繋がりのあり様の方が、より本質的であると思う。さらに言えば、人と人とだけではなく、周りのもの全てとの関係性が最も重要である。筆者も、「日本語では、人間と人間、人間と自然との関係をどのように言語化しているのか」 と言い、人間と自然との関係に注目し、さらに、西欧的デカルト的理性は、「自然(周囲の世界)を客観的に対象化する」 のに対し、日本人は、「自然の中に虫として入ってしまう」 とまで言っている。私は、ここの処が最も重要だと思う。西欧人が、自然を客観的に対象化するということは、自分を自然の外に置くということである。一方、日本人は、自然の中に入ってしまうとは、自然と一体化するということで、西欧人と日本人は、自然に対して、全く異なる考え方をしているということなのである。私は、ここが本質で、人と人との関係、そして情緒の問題もここから派生してくるのだと思う(筆者も感じてはおられるようだが、ことの本質にまでは踏み込めなかったようだ)。
西欧人は、神が人を創ったと考える。自然もまた神が創ったと考える。したがって、神の前では、人と自然は対等である。人は、まず、神への絶対帰依を求められる。このことは、神の前では、人と人との繋がりは二次的になる。いやむしろ、遮断される。唯一絶対の神がそれを求めているからである。一方、日本人は、人と人とは繋がっていると思っている。ご先祖様とも繋がっている。神様とも繋がっている。そして、自然とも繋がっている、と思っている。さらに、自分も自然の一部だとすら思っている。結果、日本人にとっては、自然であることが最も望ましいのである。日本人は、物事の判断において、「それは不自然だ」とか「それが自然だ」とかの言い方をすることがよくある。これは、欧米人にとっては、感覚的で非論理的であるように思えるようである。これこそ、日本人の「思う」領域のことで、欧米人の「think」の領域の外にあるからである。

 音声である言葉は、母音と子音の組合せである。意外と理解されていないが、母音と子音は音として全く異なる。これは非常に重要なことである。母音は口腔の中で共鳴させて出す自然音であり、連続して発声することができる。子音は、口の中に障害物を作り、息を破裂させたり、擦ったり、震わせたり、鼻腔に一部流したりして出す障害音、すなわち人工音である。基本的に連続して出すことは出来ない。(念のため付け加えると、/Y/、/W/ は二重母音で母音から母音への変化を一音で出すもので、物理的には母音である。また、/N/、/M/ は息を一部鼻腔に流し、そこで共鳴させて出すので、母音的なところがある)。母音は連続音でアナログ、子音は不連続でデジタルである。‘語感’、すなわち発音体感からすると、自然音である母音はアナログな情緒を表現しやすい。人工音である子音はデジタルな情報を表現しやすい。もちろん、アナログな母音は曖昧である。デジタルな子音にはキレがある。そして、ここで重要なことは、日本語が拍からなっていることである。拍とは、母音に子音が付くもので、母音が中心である。母音がベースで、子音はそれを形容するような形になっている。一方、欧米語は、シラブルからなり、子音、母音の塊である。そして、子音が中心であるとも言われている。これは、古代ギリシャ以来の主知主義、理性第一主義とユダヤ・キリスト教の唯一絶対神信仰の結果かと思われる。ユダヤ・キリスト教は人為で知性が作り上げた宗教だからである。
 人間は知性と情緒を合わせ持つ生き物である。日本語では、知情意という。情と意で情緒だろう。そして、母音は情緒、子音は知性を伝えやすい。それ故に、あるいは、その故か、欧米語は子音中心となり、日本語は母音中心を守り通した。欧米語がロゴス中心、日本語が曖昧と言われるのも、これらのためである。「サピア・ウォーフの仮説」 に 「言語は文化を規制する」 とある。私の解釈は、人々のものの考え方が言語を変え、その言語が次世代へものの考え方を伝える、である。言語は、世代を追って、変化していく。言語と文化は平進関係、あるいは相関関係にある。

 人間と自然、人と人、この関係性から見ると、日本語には、その運用面で非常に大きな特徴がある。文法ではなく、日常会話の場面においてのみ見られるので、学問として取り上げられた例を見ないが、言語の本質としては非常に重要である。筆者も言うように言語の本質はパロールにある。運用上の一大特徴、それは「I・you問題」である。
「I・you問題」とは、運用上の問題であって、言語そのものの性格、すなわち文法、統語規則、単語などの問題ではない。運用上のクセのようなものであって、文化、すなわち人々のものの考え方の問題ではあるが、日本語のみに見られる現象であるので、日本語の特徴として考えたい。
具体的に「I・you問題」とは、日本語の日常会話に於いては、I、youに相当する言葉を使わない、ということである。‘僕’、‘私’、そして、‘お前’、‘あなた’、‘キミ’などの言葉を使わない。日本人は、‘私’と言って自己を主張し、‘あなた’と言って相手を切り離すことを、非常に嫌う。しかも、相手を指し示す時は、‘お父さん’、‘お姉ちゃん’、‘おばあちゃん’、‘先生’などと自分との続き柄で相手を指し示す。この際の‘お父さん’は英語の‘father’ではなく、‘my father’で、 ‘先生’は‘my teacher’である。友達の場合は、直接、名前で呼ぶ。‘ちゃん’や‘君’をつける場合もあるが、何もつけない呼び捨ての方が、親しさを表すと受け取られる場合が多い。そして、これらの人称代名詞、個人名も、主語として使うのではなく、呼び掛けとして使う。英語で‘Taro. Do you go with me?’と言う場合、日本語では、「太郎ちゃん、一緒に行く?」となる。‘you’に当たる主語はない。あえて、主語にすると意味のニュアンスが変わってしまう。「太郎ちゃんは一緒に行く?」では、他に行かない子がいることになるし、「太郎ちゃんが一緒に行く?」だと、誰かが一緒に行かなければならない状態だということになる。いずれにしても、この場合は、主語は必要ない。いや、むしろ主語があってはいけないのである。
一人称の場合も、‘僕’‘私’を極力使わない。使う場合も、主語としては使わない。「ボク、行く」とか「私、いらない」というような言い方をする。自己を主張していると取られるような表現を避けるのである。教えられてそうするのではない。そう取られるのがいやなのである。幼児が言葉を覚え始めの頃、‘私’という言葉を覚えて、「私、私・・」と盛んに使うことがある。しかし、しばらくすると、ピタリと使わなくなる。誰もその様な言い方をしないこと、そして、それでは品がないことに気づくのである。日本語のクセではあるが、日本人のメンタリティでもある。
この「I・you問題」には、日本語人でない研究者には非常に気付きにくい。それは、この現象が日常のプライベートな会話空間においてのみ見られるもので、日本語の小説、脚本、そして映画、お芝居などでは、逆に見えにくいからである。映画、お芝居のセリフを、日本人がそのまま使うことはまずない。そのまま使えば、芝居がかっていると、むしろ信用されない。一世を風靡した歌の歌詞に、「こんにちは、赤ちゃん。私がママよ!」というのがあるが、こんな言い方は実際には絶対にしない。この言い方には二重三重に間違がある。まず、「こんにちは」とは身内の間ではまず言わない。「こんにちは」にはやや儀礼的なよそよそしさがある。「こんばんは」、「さよなら」も親兄弟には使わない。次に、「赤ちゃん」。自分の子供を一般名詞で呼ぶことはありえない。その他一般ではなく唯一無二のものであるからである。「子供のくせに」とか「もう小学生だろ」などと言うことはある。しかし、指定する意味で使うことはありえない。そして、「私がママよ」とは絶対に言わない。特に「私が・・」という言い方はしない。自分と子供とをキッチリ分けているように感じられるからである。普通、「ママだよ」というような言い方になる。この‘ママ’には‘あなたのママ’というようなニュアンスがある。「ママだよ」は、「あなたのママは、ここにいるよ」というような意味合いである。
人称について、日本語にはもう一つ大きな特徴がある。これも、文法の問題ではなく、使い方の問題である。それは、親しい人たちが集まった場では、互いの呼称がその場の最年少者を基準にしたものになることが多いという現象である。小さな子がいれば、その子の兄は「お兄ちゃん」と呼ばれ、母親は「お母さん」と呼ばれる。母親の姉がいれば、「おばさん」である。自らをそのように呼ぶこともある。「あばさんはね・・」と小さい子に直接言うときはもちろん、妹である母親に話すときも、このような言い方をすることもある。この現象を、小さな子の目線に立って関係性をはっきりさせているのだというような説明がなされることがあるが、私は、関係性というよりも、繋がりを大事にしていることの表れだと思う。いずれにしても、欧米社会が子供を未完成ゆえに一人前の扱いをしないのに対し、日本社会では、子供を仲間として非常に大切にするという違いでもある。なお、関係性というのは、それぞれが独立していることが前提としてあるが、繋がりとは、繋がっている状態、すなわち別々の存在ではなく、メンタル的には一つだという感覚にある、ということである。
人称にからんで、もう一つ面白い日本語のクセがある。日本では、街角などで、老人などに「おじいちゃん」「おばあちゃん」と話しかけることがよくある。自分の祖父、祖母でなくても、「おじいちゃん」「おばあちゃん」と言う。この「おじいちゃん」「おばあちゃん」は英語では「an old man」「an old woman」のことであろう。しかし、日本人は「my grand father」「my grand mother」に近いニュアンスで使っている。「じじ」「ばば」という言葉は、語源的には、父(ちち)、母(はは)に濁点を振って作られたもので、年老いて父・母に貫録がついて、一段上がったのがジジ・ババなのである。したがって、ジジ・ババの本来の意味は祖父・祖母である。日本人は日常会話で、その言葉を老人全体に親しみを込めて使っているのである。「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」という言い方も、年長者から若い人一般の呼掛けとしてよく使われるが、本来の意味は「my elder brother」「my elder sister」であるから、身内扱いをしているということだろう。ここにも、繋がりを感じ、それを当然のこととしていることが感じられる。
また、日本語の会話では、呼称に「さま」「さん」「ちゃん」をつける。英語の「my dear」に当たるものだろうが、この3種類がある。元々は一緒で、「さん」は「さま」が崩れたもの、「ちゃん」は「さん」を幼児化したものである。相手と情況によって、この3つを使い分ける。相手との繋がり関係を大切にしているのである。ちなみに、幼児語「ちゃん」の音には粘り気が感じられ親近感が強い、加えて、小ささからくるカワイサが強く感じられる。ここから、幼児でもない若い人の間でも、この「ちゃん」付けがよく使われる。「I・you問題」を含めこれらは、文法上の問題ではなく、運用上の問題であるため、言語学者は見落としがちであるが、日本語の特徴、日本人のもの考え方の特徴として、本質的なものでもあるので、日本語、そして日本文化を考える上で、看過できないものだと思う。

日本語で日本語を哲学するという本来の主旨に立ち戻ると、筆者の主張は、知(論理)の哲学から、情緒も合わせ含んだ新しい哲学にすべきだということであるが、私としては、それに止まらず、人間存在の本質に鑑みて、自然と遊離した知的個という立ち位置を脱却して、自然の中の自然の一部としての人間存在という理解の上に立った、新しい哲学へと脱皮しなければならないと考えている。
人間は、単に頭だけで考えるような、孤立した個の存在ではない。物理的にも、親・祖父母と、そして子・孫とDNAで直接繋がっている。共生している腸内微生物すら母親譲りのものである。この共生微生物がいなければ人間は生きておれない。また、この微生物の構成が変われば、宿主たる人間の体調も変わり、気分も変わる。病気にすらなることがある。人類誕生以前から、宿主と腸内微生物は一心同体なのである。この意味でも、人間一人では生きていけない。なお、腸内微生物は宿主たる人間が生きるのに必須の栄養素を提供するとともに宿主に対し発言もしている。化学物質の放出によって宿主と会話をしている。この腸内微生物の発言は、人間の脳の知の領域ではなく、脳の情緒の領域で捉えられる。したがって、この意味でも、人間は考えるだけではなく、感じ、そして思うことが重要なのである。「cogito ergo sum」、英語で「I think, therefore I am.」は西欧哲学の祖ともいわれるデカルトの言葉である。日本語では「我思う、ゆえに我あり」で、「think」を「思う」と訳した。これは間違いである。しかし、哲学としては「思う」で正しい。そもそも、西欧哲学の存在論は、筆者も言うように、日本人にとっては、人間の存在は当然のことで、「アルものはアル」で終わりなのである。ここで、拘ったがために、欧米人は「神が人を創った」とこじつけざるを得なくなった。日本人は「神も人も生った」で終わりである。欧米では、知にこだわったために、虚偽をでっち上げざるを得なくなった。虚構の上の立論はむなしい。むしろ、今や弊害をもたらしつつあるのではないか。新しい哲学が必要である。
 今巷で評判の「ホモ・デウス」は、イスラエル人歴史家ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」に次ぐ大作である。ハラリは、「サピエンス全史」では、認知革命、農業革命、そして科学革命を経て現在に至った人類を描いたが、「ホモ・デウス」では、人類は神(DEUS)であるところの‘ホモ・デウス’へとバージョンアップしていくと言う。しかし、日本人にとってこの考え方は非常に違和感がある。この書には、「テクノ人間至上主義」「データ至上主義」など未来の社会のあり様が出てくるが、ここにはいっさい心がない。テクノにしろ、データ処理にしろ、知のみの世界の問題である。情の世界がない。米国の精神医学者E・フラー・トリーは「神は、脳がつくった」の中で、神と宗教の起源をBRAINSのEVOLVINGの結果、脳が神をつくったとしている。‘神は脳が作った’、すなわち‘人間が神を作った’は、日本人にとっては、考え方として当たり前のことと思われる。この人間の作った神に、やがて人間はバージョンアップする。すなわち、人間の作ったフィクションにやがて人間はなる。これはおかしいだろう。人間もフィクションということになってしまう。ユダヤ・キリスト教では、神が人を創ったということになっている。これは、知、すなわち論理では分からない万物の起源に、神を仮定したのだろうから、結局、神に成るとはわけの分からないものに成るということになってしまう。情・心を忘れ、知・論理のみに頼った欧米哲学の限界である。
新しい哲学は、心を取り戻し、頭でっかちではない、知と情のバランスの取れた、生き物としての人間の、哲学でなければならない。今の段階で分からないものは分からないでいいと思う。‘なぜ、アルのか’の存在論に止まるのではなく、‘アルものはアル’から出発すればいいと思う。したがって、あり様の哲学である。また、人間の哲学ではあるが、自然を離れた哲学であってはならない。あくまで、自然の中の人間と考えなければならない。また、人間も個としての人間だけではなく、繋がりとしての人間を考えなければならない。むしろ、個は一時の仮の姿である。個は世代の流れの一コマに過ぎない。もちろん、今の個人一人ひとりはそれぞれ重要である。しかし、哲学としては、世代を越えた人類全体としてのあり様を考えなければならない。人間は、海洋微生物から、身体機能の進化、すなわちDNAの進化によって、今のホモ・サピエンスになった。マット・リドレーの「進化は万能である」などによると、ホモ・サピエンスになってからのDNAの進化は余りなく、チンパンジーとのDNA上の差は、せいぜい3%程度だと言う。しかし、人類は代って文化上の進化、そして社会システム上の進化を遂げたと言う。言語の獲得、農業の始まり、集団の成長、そして、宗教、通貨、政府、国家、経済などは、人類全体としての進化である。この意味でも、人間は社会的生物に成ってしまっている。個に止まる哲学は今や時代遅れなのである。考える主体は個ではあるが、今や、その個の壁を越えなければならない。個人主義を否定したからといって、全体主義、社会主義、共産主義を推奨している訳ではない。それぞれの社会実験は終わった。その上で、これらを越える新しい社会のあり方を考えなければならない。AIを使った、しかし、AIが知の産物であることを分かった上で、AIを使いこなす社会でなければならない。生き物としての人間の社会でなければならない。

いま主流の欧米渡来の近代思想をよくよく吟味し直してみると、まず、基本的人権、これなどあり得ないだろう。そもそも、義務のない権利などあり得ない。神と同じく、フィクションである。
男女平等も、自然としては、おかしい。男と女は、生物学的には異なる。機能が異なれば、役割も異なる。気持の上のこととしては、もちろんあり得るが、これを制度化するなどとは狂気の沙汰である。人間を自然、すなわち生き物とは考えていないのだろう。一つの社会の出生率が下がるのも当然である。出生率は、その社会の生き物としての健全性の指標である。
自由と平等もあり得ない。自由と平等は互いに相矛盾した概念である。また、完全な自由も完全な平等もあり得ない。ほどほどに自由で、ほどほどに平等が理想であるが、これが理論的にもむつかしい。人により、自由さの概念、平等さの概念も違うからである。この違いを包摂する考え方が必要であるが、これも新しい哲学の課題だろう。
民主主義もはたして、このままでいいのか。今は最善の策ではあるが、そろそろ岐路にあると思う。衆愚政治をAIで克服できるか。
SNS上の流言飛語、フェイクニュース、さらに国家による恣意的教育、その上での見せかけの民主主義はもはや衆愚政治である。知の極致であるAIを過信してはいけない。じっくりと時間を掛けて、AIを使いこなせるようにならなければならない。

ところで、根本的問題として、プライバシー保護は必要か。今や、AI/テクノは秘密を許さない。秘密の暴露し合いが一種の権力闘争のようになるかもしれない。陰険な闘争である。ならば発想を逆転して、いっそすべてをオープンにしてはどうか。中途半端だから隠したくなるのである。AI・テクノによって個人情報のすべてをオープンにする。公平である。これがむしろ自然だろう。耐えられない人は保護区に匿ってもらえばいい。ただ、市民としての権利は放棄しなければならない。市民社会に戻りたければ、すべての個人情報をオープンにすればよい。保護区に生まれた子も、健全に育てば、全てをオープンにして、市民社会に入ればいい。この様に、民主主義もオープンにすれば生き残れるのではないか。オープン民主主義である。
プライバシーの秘密のない世界。すべての人のすべてが見える。すべてが見える視座は神の視座である。すべての人がこの神の視座を持つようになる。「ホモ・サピエンス」が「ホモ・デウス」になったと言うこともできる。ただ、この神は日本的なカミである。ミスもすれば悪いこともする。そして、悩みもする。「ホモ・デウス」ではなく「ホモ・カミさま」かもしれない。

新しい哲学は、自然の中のホモ・サピエンスという全体的な視点から始めなければならない。自然と一体、と感じ、知に合わせ情も大切と考える日本文化の下、その土壌に育まれた日本語が、より有利であることはもちろんである。この日本語で、考え、思い、感じている日本人が、この新しい哲学を創る上で、最も有利な立ち位置にいることは言うまでもない。
日本語で新しい哲学への突破口を開こう。そのキー・ワードは自然。「自然に帰ろう」。
   (平成30年11月30日)

   補「日本語は哲学する言語である」を読んで  

以下は「日本語は哲学する言語である」の著者小浜逸郎先生に出そうとしたメールの原稿である。ただ、主観的な表現が多く、意図せざる誤解を招きかねないので、お出ししないことにした。代わりに客観的表現を心掛けた「「日本語は哲学する言語である」を読んで」を書いたが、途中から自分の主張に流れてしまい、「日本語は哲学する言語である」の分析が疎かになってしまったので、この原稿で補完することにした。したがって、分析の部分のみを読み取っていただきたい。
      (平成30年11月30日)

小浜逸郎 先生

 「日本語は哲学する言語である」、読ませていただきました。
 非常に面白く、いちいちそうだそうだという気持ちで読みました。議論としては、難しいところもありましたが、日本人として痛快にすら感じました。ただ、全部を読み終えて、何か重大なことが欠けているのではという感じが強くいたしました。
 私は、哲学を学んだ者ではありません。また、学として哲学をやろうという野心もありません。私の研究対象は、語感、すなわち、言葉の音そのものが持つイメージです。音象徴ともいいます。日本語の語感を中心に研究しています。その流れで、日本語と日本人のものの考え方には相関があり、それ故に、日本語と欧米語の違いが日本人のものの考え方と欧米人のものの考え方の違いに反映している、ということに非常に興味を持っております。このようなことから、先生の「日本語は哲学する言語である」を読ませていただいたのですが、納得することばかりです。ただ、残念なことに、語感に関わるお話が一切ありませんでした。

 語感は、サブリミナル(subliminal)です。通常、意識には上りません。しかし、感じてはいるのです。語感は‘サブリミナル・インプレッション(subliminal impression)’なのです。哲学者としては、そのようないい加減な状態を、学問の対象として取り上げるわけにはいかないのかもしれません。感覚の問題は‘知’中心の哲学とは相容れないのかもしれません。しかし、人間は‘知’のみで動かされているのではありません。むしろ大半は、‘情’によって動かされています。そして、この‘情’の全てが意識に上っているわけではありません。むしろ、これも大半が意識下です。サブリミナルです。言葉以前です。言葉以前ゆえに、学問の対象から外す。そんな訳にはいきません。この言葉以前のサブリミナルなものが、‘情’の、そして‘知’の母体になっているからです。哲学研究の対象から、語感を、サブリミナル故をもって、言葉以前であるが故をもって、外したりしてはいけないのではないでしょうか。(生意気を言って、すみません)。

 さらに、私にとって意外でしたのは、先生が、ソシュールのいわゆる「言語学の第一原理」といわれる「音と意味との恣意性」は解釈が違う、とおっしゃっていることです。
 先生は、名づける概念の区切り方の恣意性だと、おしゃっていますが、ソシュールはどこで、そのようなことを言っているのでしょうか。また、そのようなことは当り前のことではないでしょうか。そのような当たり前のことが言語学の第一原理になるのでしょうか。私の手元にある小林英夫訳になるソシュール「一般言語学講義」(岩波書店)のP.98 には、‘第一原理:記号の恣意性’とあり、言語記号は恣意的である、とあります。ここでは、記号だけが問題になっているのではないでしょうか。所記の問題ではなく、能記だけが問題になっているのではないでしょうか。また、文中に「能記の選択が必ずしも恣意的でないことをいおうとて、擬音語を盾にとることもできよう。」と言いながら、「しかしながらそれはけっして言語体系の組織的要素ではない。その数からして存外に僅少である。」として却下しています。‘能記の選択’とはっきり言っている。また、擬音語といっているのは音のことが念頭にあるからでしょう。最後に、「これを要するに、擬音語と感嘆詞には、副次的重要性しかなく、それらの象徴的起源は、いくぶん議論の余地があるのである。」と言っていて、結局、ソシュールも、(パロールについては、)言葉の音の象徴性を全否定している訳ではない、ということになってしまっています。
 私は、「音と意味との結び付けの恣意性」は、少なくとも日本語に関する限り間違いだと思います。オノマトペ、感嘆詞だけではなく、日常われわれが使う語彙にも、その語彙の音のイメージが感じられるものがたくさんあります。ただ、言葉の音の持つイメージが、クオリア状態で曖昧であるため、学者先生方には無視されがちなのが現状です。
 
先生はP.182 で「「どんどん進んでいく」「すいすい泳ぐ」「つんつんした態度」「ぶらぶら揺れる」などは、なぜこのような音韻が、その状態にいかにも合っていると感じられるのか、なかなか合理的な理由を見つけるのが難しいでしょう」と書いておられますが、この「合理的な理由」はあります。それは、語感、すなわち発音体感からです。
「DoNNDoNN」の /D/ は /T/ の濁音で、舌先を上口蓋にちょっと付けて弾くように発音しますので、衝突時の衝撃音のイメージにそぐうのです。また、前向きの勢いが感じられますので、このようにも使われるのです。発音時に、その様に感じられますので、同じ音を聞いた時にも、同じように感じるのです。言葉の音を聞くということは、自分の脳の中で、聞いた音を自分の音に一旦変換して脳内処理をするということだからなのです。これによって、自分としての意味理解もなされますし、発音体感も感じられます。先生は、「衝撃的な印象を掬い取って」おられますので、語感は感じ取っておられるのです。ただ、その事実にお気付きでなかっただけなのです。
 先生が日本語の特徴として挙げておられる‘いる:ある’、‘こと:もの’の違いも語感の違いとしても説明できます。日本人がこれらの言葉を使い分け、間違うことがないのは、語感の違いを感じ分けているからです(subliminalに)。
 語感、言葉の音の持つイメージは、その言葉を発した時の発音体感から生ずると、われわれは見定めました。その言葉を聞いた時も、聞いた人の脳内では、一旦、自身の言葉として再体験されるので、発音体感も自身の発音体感として体感されるのです。ただ、この発音体感は、通常、意識には上りません(subliminalということ)。聞いた人も、その発音体感は意識には上りません。しかし、その発音体感によって、日常、私たちは言葉を選び、聞いた人もその言葉のニュアンスを聞き分けているのです。(脳内の全ての活動が、自身で意識できるわけではないのです。むしろ、意識化できるのは極一部であるとすら言われています)。
 ‘いる’と‘ある’の違いは、/イ/ と /ア/ の違いです。/イ/ も /ア/ も母音です。口腔で共鳴させる自然音です。/ア/ はもっとも基本的な音で、口を大きく開け、のびのびと発声します。したがって、発音体感としての、/ア/ の持つイメージは、大きく、広く、をベースに、明るく、軽く、あっさり等が感じられます。抽象して、絶対的な実在感、遍在感が感じられます。客観です。
/イ/ は口元を狭めて力を入れ、息を強く出します。発音体感としては、小さく、狭く、真っすぐのイメージで、前向きの直線的なものを感じさせ、主体としての意思、意欲のようなものが感じられます。ちなみに、/オ/ の発音は、口の中を丸く大きくして、こもるように発音するので、発音体感は、纏まりとしての大きさ、重さ、暗さなどです。主観的な存在感が感じられます。これらの違いによって、先生のおっしゃる‘いる’、‘ある’の違いが説明できると思います。‘おる’との違いも明らかでしょう。
 /ア/ は、日本語としてはもっとも原初的な言葉で、すべての存在を表していたのではないでしょうか。最初は、アレも‘あ’、お前も‘あ’、自分も‘あ’だったのではないでしょうか。そこから、吾、我、ア(‘コソアド’のア)、そして、‘アル’という表現も出来た。原初、存在そのものが /A/ だった。それに子音 /N/ がついて /Na/。/N/ は、舌先を歯茎に付けて息を鼻腔に流す鼻音。粘り気が強く感じられ少し湿り気があって、内々の私秘的な感じがします。そのために、隠れる、隠される、という感覚で否定的な意味にも使われるようになったのではないでしょうか。 /Na/ は‘ない’です。この‘ない’は、無ではなく、隠れて見えないということです。だから、‘なり(生る)’もするのです。‘なる’は‘にある’だと先生はおっしゃっていますが、私は‘ぬある’ではないかと思っています。‘ぬ’はオノマトペです。‘ヌッと出る’の‘ぬ’です。 母音 /ウ/ は口を少し窄め、息を鼻腔にも流すように発音する。ここから、動き、内的なものが動き上がるイメージが出てきます。ですから、/Nu/ は粘り気のあるものの中から滑り出てくるイメージとなるのです。‘なる’は隠れていたものが出てくるのです。成る、生る、鳴る。古代日本人は何もないところから、いきなり物が現れるとは考えていなかったということなのでしょう。また、面白いことに、欧米語でも、 /N/ に否定の意味を持たせているようです。
 ‘こと(KoTo)’、‘もの(MoNo)’の違いは、‘K,T’と‘M,N’の違いです。子音 /K/ は、喉の奥、軟口蓋を堅く閉め、そこを破裂させて出す破裂音で、流れ入った息が口腔で回転するので、まず、固く乾いたイメージがあり、キレと回転のイメージもあります。/T/ は舌先を上口蓋にちょっと付け、そこを弾くようにして発音するので、まず、舌そのものの感覚、柔らかく濡れたものの表面が堅いイメージに、突く、付く、止まる、溜るイメージが加わります。どちらかというと、固いイメージです。/M/ は、口腔に溜めた息を唇を破裂させ、一部、鼻腔に流しながら発声する鼻音です。満ち溢れるイメージと柔らかさが感じられます。結局、/K、T/ には堅さ、キレがあり、はっきりしたものを規定するのに適し、/M、N/ はともに鼻音で柔らかく、粘り気が感じられ、曖昧なものを包括するのに適しているのです。/O/ には、纏まりとしての存在感があります。
 ‘心(KoKoRo)’と‘霊(TaMa)’の違いが面白い。特に、母音 /O/ と /A/ の違いですが、‘こころ’は、小さく纏まって重い。それに対し‘たま’は、淡く、軽く、広がる。ここから、心は沈み、魂は漂うイメージが出てくるのかもしれません。
 ‘コソアド’も一種の発音体感の違いで説明できます。発音は‘Ko・So・A・Do’です。 /K/ の発音は喉の奥、自分の中心に近い。/S/ の発音は舌の上を、息を外へ流すように発音する。そして、/A/ は外へ広がるイメージです。自分の中心、舌から外へ、外そのもの、の距離感の違いから、‘コレ、ソレ、アレ’、そして‘コノ、ソノ、アノ’が出来たのではないでしょうか。当初は‘KoKo’と‘SoKo’だけだったかもしれません。‘So’のまだ外側ということで‘A・SoKo’が出来たのかもしれない。ちなみに、‘ドノ’は‘トノ(ToNo)’が濁音化したものです。この /T/ の調音点は、 /K/ と /S/ の間にあります。そして、/T/ には、止まる、とどまるイメージもあります。ここから疑問に使うようになったのではないでしょうか。
 また、点、線、面の違いも、発音方法を反映しています。発音は‘TeNN・SeNN・MeNN’。/T/ は舌先をチョンと歯茎に付けることから点のイメージ。/S/ は舌の上を息を流すので、流れで線のイメージ。/M/ は丸く盛り上がるイメージで、表面の面のイメージ。われわれのご先祖様が大陸から漢字を輸入し、日本語的に読み做した際、これらのイメージが影響したのでしょう。漢音、呉音といっても、当時の日本人がそのように聞き做したということです。
 ‘テニヲハ’も語感で説明出来ます。まず、‘が’と‘は’の違い。/Ga/ は /Ka/ の濁音。/K/ には発音時の口の形、息の流し方から、咥えこむ、囲みこむイメージがあって、 /Ga/ となって、/A/(場)のものを強く /K/(括りだす)イメージが出てきます。‘は’は /Wa/ で、/W/ は半母音。/Wa/ は /U/ から /A/ への変化を一音で発声します。内的なものを外の場に曝すイメージです。/ガ/ がアルものから括りだすイメージに対し、/ハ/ はなかったものを新たに場に持ち出し曝すイメージです。ちなみに、/ヲ/ は /Wo/ で、やはり半母音。/U/ から /O/ への変化です。なかったものを具体的存在として示すイメージです。 /テ/(Te)の /E/ は、母音の中では、最も新しく日本語に入って来た母音ですが、発音する時に、舌、そして下顎を下に、そして引くイメージがあって、引き気味の躊躇、遠慮感が感じられ、繋がっていくイメージがあります。そこから、/Te/ には一旦受けて、後に続いていくイメージがあります。‘手’を /Te/ というのもこのイメージからではないかと思われます。もっとも、古くは‘手’は /Ta/ と発音されていたようですが、/E/ の音が入ってきて /Te/ の方がそぐうと思われるようになった。‘手(Ta)’は‘たたく’から、‘たたく’は ‘タ・タ・タ’、あるいは‘タンタン’からではないでしょうか。擬音語が擬態語的になり、そして動詞になり、名詞にもなった、ということではないでしょうか。
私は、多くの言葉がオノマトペから出来たのではと思っています。‘も(Mo)’の /M/ には盛り上がる、膨張のイメージがあることから、/Mo/ には‘も又’のイメージが出てきた。英語の‘more’も、同じ発想からではないでしょうか。ちなみに、接続の助詞‘と(To)’も英語の‘too’も意味合いが似ています。/To/ は一旦止まって纏まるイメージです。そして、次に続くと。
なお、「・・・た。」の /Ta/ は、 /Ka/ が‘アルもの’から括りだすイメージに対し、‘アルもの’を止める、点を打つ、イメージで、終わった、済んでしまったことを表すようになった。玉、霊、そして、魂、宝、卵の /Ta/ は、上口蓋に付けた舌先そのものの感覚からではないでしょうか。/TaMa/ には、上方向の意識される鋭い纏まりが意識されます。表面が堅く、中が詰っているイメージもあります。
 /ニ(Ni)/ は /N/ に粘り気が感じられ、/I/ に集中、絞り込みのイメージがあるので、合わせて一点指定のイメージです。「学校に行く」と「学校へ行く」の違いは、/ニ/ と /エ/ の違いで、/I/ と /E/ の違いが効いて、「学校に行く」は到着点だけが意識され、「学校へ行く」は途中過程も意識されているということです。

 先生は、テニヲハ について、それが基本的にどんな観念を表しているか、音韻の響きからの連想なども加味した直観力により想定したとして、それぞれの単音節の「辞」の説明をしておられますが、この‘音韻の響きからの連想’とか‘直観力’などは、語感からのものではないでしょうか。先生は、語感とは意識されず、語感を感じ取っておられるのです。先生は、‘の’について、‘丸める’とおしゃっていますが、これは /O/ の持つ纏まり感を感じてのことでしょう。‘自分に親しませる’は /N/ の持つ鼻音特有の親和感からでしょう。‘が’について、‘自分を開き’は /A/ の持つオープン感から、そして‘選定・限定する’は /K/ の持つ区切るイメージからでしょう。もちろん、/G/ は /K/ を強調したものです。‘に’の‘注意’とか‘意’は /I/ の持つイメージです。‘へ’は発音は /E/ で、繋がる感じがありますので‘先を’ということになるのでしょう。‘を’は、先にも説明しましたが、/U/ から /O/ への変化で、/O/ に纏まりとしての存在感がありますから‘目を据え’たり、‘区別’したりするイメージがでるのでしょう。また、心の内での動くものから重い纏まったものへの変化ですから‘驚き’にもなるでしょう。なお、この時の驚きは感動に近いものではないでしょうか。‘は’は、発音は /Wa/ で、/U/ から /A/ への変化で、内のものを場に曝す、すなわち‘示す’ことになります。‘も’の /M/ には膨張のイメージがありますから、飲み込むイメージもあります。‘と’は、 /Ta/ に止まってしまうイメージがあるのに対し、/To/ には /O/ の存在感ゆえか、一旦止まって次へのイメージがあります。結果、‘付け足す’ことになります。‘て、で’は、一旦受けて続いていくイメージで、/De/ は濁音化することによって、一旦受けて改まる感じが強くなります。先生のイメージ通りです。‘な’には鼻音ゆえの粘り気、柔らかさ、そして生理の生々しさが感じられ、詠嘆、感動にも使われるのでしょう。‘か’は先にも説明しましたが、/A/(広く見渡して)、/K/(規定しよう)ということでしょう。以上、ほとんどが語感で合理的に説明できます。やはり、先生は語感を感じ取っておられるのです。ただ、語感を語感と認識しておられないだけです。語感は、日本語の一大特徴でもありますので、是非、先生にもご理解いただきたいと切望いたします。

 この語感にからみ、日本語には大きな特徴があります。それは、欧米語が子音中心の言語を目指しているのに対し、日本語が母音を中心に堅持し続けていることです。母音と子音には本質的な違いがあります。母音は口腔で共鳴させて出す自然音で、連続して発声することも出来ますし、他の母音に連続して変化させることも出来ます。これに対し、子音は破裂とか擦るとか震わせるとか無理をして出す音で基本的には単音です。連続しては発声できません。なお、子音M、Nは鼻腔で少し共鳴させますので、母音に近く感じられます。子音Y、Wは半母音ともいいますが、基本的には母音です。
母音は自然音でアナログです。子音は人工音でデジタルです。アナログな自然音の方が情緒を表現しやすく、デジタルな人工音の方が論理表現に適し、物事を決め付けるのにも適しています。言い方を変えれば、アナログは曖昧で柔らかく、情緒的で温かい。デジタルは、区切りがはっきりしていて、論理的で冷たい。
日本語は、(子音+母音)の拍方式で、拍には必ず母音が必要です。すなわち、日本語は母音が中心なのです。欧米語はシラブル方式で、母音は補助的な感じで、子音中心の言語と言えるでしょう。この母音中心対子音中心の対立は、情緒対論理の対立の結果でもあるし、また、その原因でもあると思います。また、この根底には、先生におっしゃる‘ある’対‘する’の対立、すなわち、‘自然’対‘人為’の対立があるのではないでしょうか。
私は、先生のおっしゃる「‘ある’対‘する’」を「‘なる’対‘つくる’」の対立として捉えてきました。「人も神も、なった」に対して、「人は神が創った」というものの考え方です。先生は‘ある’に対して、人為では抗い得ない‘諦念’とおっしゃっていますが、私は、日本人にとって、人為はむしろ不自然で、素直に「あるものはある」で、終わりだったのではないかと思っています。
ちなみに、言語学者でプリンストン大学名誉教授である牧野成一は著書「日本語を翻訳するということ」のなかで、‘なる’対‘する’の対立だとして、‘自然’対‘人為’の対立だとおっしゃっています。この方が分かりやすいのではないでしょうか。
余談ですが、このことが、絶対神を信仰する一神教が日本に入りこめなかった理由だと思います。信長、秀吉、家康の戦国時代、バテレン宣教師が渡来、布教活動を活発におこないました。明治の開国時にも、キリスト教系の学校もたくさん作られ、クリスチャンの外人先生方が布教に努めました。そして、第二次世界大戦の敗戦後、GHQによる、マスコミ、教育界のアメリカ流洗脳が強力に行われました。ちなみに、進駐軍総司令官マッカーサーは非常に熱心なキリスト教徒でした。しかし、日本人のキリスト教徒は増えませんでした。現在、人口の1%未満だといわれています。お隣の韓国では、クリスチャンが30%前後ともいわれています。
では、なぜ日本ではクリスチャンが増えないのか。その理由として、日本では、仏教、神道が広く信じられているからだというのがありますが、私は違うと思います。日本人の大半が、仏教、あるいは神道を熱心に信仰しているわけではありません。日本人の大半は、お正月には神社にお参りし、お盆にはお墓で手を合わせ、暮れにはクリスマスイブを祝います。日本人が本当のクリスチャンになり切れないのは、一神教を不自然と感じるからです。神が人間を創ったというよりも、神も人も生ったと考える方が自然だと感じるからです。理不尽に痛めつけられれば、絶対神に逃げ込もうという人々も出てくるかもしれませんが、日本の自然はそこまで過酷ではありませんでした。日本人は、自然への反逆にまでは、追い込まれなかったのです。日本人は自然教の教徒です。自然教は宗教というよりは哲学かもしれません。宗教は哲学の一形態かもしれません。欧米の理性中心主義・論理第一主義は宗教に近いと思います。ユダヤ・キリスト教と論理第一原理主義には、どこか共通のものがあるような感じがします。
このように、‘自然’対‘人為’の対立の根底には、日本人と欧米人の自然に対する考え方の違いがあります。欧米人は自然とは対決すべきもの、征服すべきものと考えているのに対し、日本人は、自然は仲間、あるいは自然とは繋がっていると感じています。結果として、まさに、デジタルとアナログの対立です。欧米人と日本人のものの考え方の違いの大本は、ここから発していると思います。自然に対する心情の違いです。極端に言えば、敵か味方か、です。

なお、先生は、「人間」を「人と人の間」と読むべきだとおっしゃっていますが、「人間(じんかん)」は漢語で、「人間(にんげん)」は純粋の日本語で、意味が違います。漢語の「人間(じんかん)」は「the world」のような意味です。ですから、日本語として「人間」を「にんげん」としたのは、「人と人との間を含む人」というニュアンスからではないでしょうか。繋がりを意識してのことでしょう。
また、先生は日本語の面白さとして、「カワイイ!」を取り上げておられますが、この例として、「カワイイ!」は適当ではないのではないでしょうか。英語では「cute!」、あるいは「beautiful!」と言いますが、この場合も、言っている本人自身、cuteな気持なのではないでしょうか。感じられる対象と、それを感じる主体との両方にまたがって使われていますが、やや無理があります。カワイイも同じだと思います。厳密に英語にはない表現としては、「うま(い)!」があると思います。「うまい!」の場合、客観的に「これはうまい!」という意味と、主観的に自分がうまいと感じているという意味とがありますが、後者の場合、英語では、自分の感覚を表現するには、「good!」とか「nice!」、位しか表現の使方はないでしょう(これとて、やや客観的ですが)。もともと、「ウマ!」は、「イタ!」と同じく感嘆詞として生まれたのではないでしょうか。それに‘い’が付いて「旨い」「痛い」という形容詞が出来たと考えられます。主体感覚としての「うまい!」はこの感嘆詞的用法の名残りでしょう。「痛い!」も、英語では、叫び声としての「Ouch!」はありますが、主観としての単語はありません。「painful」は客観表現です。「pain」「ache」も名詞ですから客観です。「I ouch.」とは言えないでしょう。
なお、自分の気持を直接表現する日本語「うれしい」「かなしい」「さびしい」に相当する英単語もありません。「glad」「sad」「lone」は自分の気持を直接表すのではなく、状態を表す言葉です。主観ではなく客観です。英語では、客観を表す言葉があって、主観を表す言葉がありません。主観をすら、客観的に描写するのです。「I am glad.」「I’m sad.」。日本語では、主観を表す言葉がまずあって、客観を表すには接尾辞を付けなければなりません。「うれしそうだ」「かなしそうだ」。主観か客観か。情緒か論理か。日本語と英語の本質的な違いです。
 
また、日本語「思う」に相当する英単語もないと思います。「think」は違います。「think」には理由が必要です。「思う」には、なぜそう思うか、必ずしも理由は必要ではありません。「思う」のベースには言語以前の知覚、情緒も入っています。通常、思っていることも口に出して初めて言葉になるのです。頭の中にあるうちは、言葉以前です。日本語に「考える」と「思う」があるのは、日本語には、意識以前の、意識下、あるいは潜在意識にも思いが至っているからでしょう。欧米では、意識下のものを曖昧なものとして切り捨てました。サブリミナルな語感も、曖昧なものとして切り捨てたのと同じです。なお、先の牧野成一教授は、「考える」は他動詞で、「思う」は自動詞だとおしゃっています。そして、「考える」は人為で、「思う」は自発だともおっしゃっています。いずれにしても、「思う」に相当する英単語はありません。ただ、日本語の「思う」は守備範囲の広い言葉で、「考える」を柔らかくした表現としても使われますが、「何となく、そう思う」と言った場合の「思う」は「考える」ではあり得ません。この場合は「think」とは訳せないのです。

 母音中心の日本語の日常会話では、今現在も、語感が生きています(先生のおっしゃる原始性かもしれません)。表面的な意味表出だけではなく、あるいはそれ以上に、語感による情緒の表出、そして、その交換が行われているのです。意識は余りされてはいないのですが、語感による言葉の選択が行われているのです。オノマトペオノマトペ的副詞、そして、「ね」「な」などの終助詞の多用は、語感あってのことなのです。日本語は、意味に加えて、語感による情緒交換という、二重チャンネルの言語です。表情、抑揚、強弱などの違いによっても、気持は伝わりますが、言語として、日本語は二重なのです。さらに、文字として、漢字仮名交じりという表意表音ですので、聴覚言語であるだけでなく、視覚言語でもあるのですが、語感、すなわち発音体感を加えると、触覚言語ということにもなるのです。(日本語には、同音多義語が非常に多く、それを聞き分けるには、脳内で、一旦漢字に変換する必要があります。日本語では、都度、脳内でこの作業を行っているのですが、漢字を見分けるのは視覚です。日常会話に於いて、視覚野の一部も常に使っているのです。また、発音体感は口腔内の体感ですから、主に触覚なのです。)。日本語は脳を多様に使う多脳言語なのです。これも日本語の大きな特徴です。
 日本語が、この語感を感じ続けてきたこと、母音中心を堅持し続けてきたことは、欧米語に対する最大の違いではないでしょうか。このことと相即して、ものの考え方も欧米と日本では本質的に違ってきました。先生が「西欧的悪しき言語観」とおっしゃるように、欧米では、ロゴス・論理を第一として情緒を軽視するのに対し、日本では、むしろ情を重視し、情と知のバランスを大切にしてきました。
人間関係でも、欧米では自立を第一に考えますが、日本では、人と人とのつながりを大切と考えます。自我についての考え方も、欧米では、デジタル(子音)に考えるのに対し、日本では、アナログ(母音)に考えます。日本人は、すべての人と繋がっていると感じています。敢えて言えば、「共同」ではないのです。繋がりなのです。子音ではなく、母音のように、です。
日本語には主語は必要ではない、との議論がありますが、日本語の日常会話では、極力、ボク、私とか、キミ、貴方とか、言いません。省略しているのではなく、言うことを避けているのです。ボク、キミと口に出してしまうと、ボクとキミというように、区切りがはっきり付いてしまうのです。日本人はハッキリ切り離すことを嫌うのです。父親に対しても、その呼びかけとして、英語の‘you’に当たる言葉を使うことはありません。‘お父さん’‘お父ちゃん’‘親父’‘パパ’と呼びます。これは英語の‘father’ではありません。‘my father’です。しかも、‘my’に重点が置かれているのです。学校で生徒が‘先生!先生!’と言っているのも、‘my teacher’の意味です。‘you’とは決して言いません。‘you’と言ってしまえば他人になってしまいます。これらは、日本人のクセというよりも、日本語の本質的な特徴です。日常会話に於ける、呼びかけの‘ねえ、ねえ’‘なあ’、そして、終助詞‘ね’‘な’がよく使われるのも同じ理由です。基本的には、繋がりの確認です。年少者がよく使います。親しい子供同士もよく使っています。女子高生も別れ際、「じゃぁ、ねぇ」とわざわざ‘ねえ’を付けています。/N/ は鼻音で、粘り気、湿り気があって、内々感があり、これが親密さを感じさせているのです。日本人が日常会話でよく使う、助詞、副詞、オノマトペには語感が素直に現れているものが多くあります。パロールとしての日本語にとっては、語感は本質的なものなのです。欧米人の人間関係がデジタルなのに対し、日本人の人間関係はアナログです。

 ところで、先生は「言葉の構造と自然感が相即している」と書いておられますが、これは、「サピア・ウォーフの仮説」と同じことですね。「言語が文化を規制する」。文化が言語を規制もしますから、相即ですね。そもそも、日本語で欧米とは異なる哲学を作ろうという発想は、「サピア・ウォーフの仮説」を当然のことと考えてのことでしょう。
 ところが、この「サピア・ウォーフの仮説」は、「言語相対主義」として、欧米では必ずしも受け入れられていません。ガイ・ドイッチャーの「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」で、虹の色を何色に見るかとか、日本では、緑色の信号を青信号と呼んでいるとか、どちらかと言えば表面的な議論に止まり、ものの考え方の本質的な違いにまでは迫れていません。その一因は、サピアにしろ、ウォーフにしろ、マイナーな言語を研究の対象にしているに過ぎないからです。メジャーなフランス語、ドイツ語、イタリア語、英語は同じ流れの言語です。しかも、歴史的に長い間共存してきました。したがって、これらの言葉の違いから文化の違いを見つけ出すのは難しいでしょう。むしろ、ものの考え方として本質的違いはないのかもしれません。その点、日本語、日本文化は、欧米語、欧米文化と本質的に違います。その違いを明らかにすることは、人間というものを考える上で非常に重要だと思います。そして、それが出来る最も有利な位置にいるのが日本人だと思います。
 浅学にもかかわらず、いろいろ申し上げましたのは、語感の存在をご理解いただきたいがためです。語感の存在の理解があって初めて、日本文化の本質、そして、日本語の真の姿が明らかになると思います。知のみに偏った哲学から、知と情のバランス(時には葛藤)の上に立つ哲学を是非作り上げて下さい。そして、日本の哲学を世界へご提示頂きたいと期待しています。デジタルな哲学に代わるアナログな哲学。アナログな哲学という言い方では、論理矛盾かもしれません。それなら、逆に論理そのものを考え直す必要があると思います。科学も、今や不確定性の原理の時代ですから。自然科学も量子力学、そして複雑系の科学へと変わっていくと思います。哲学も新しい時代の哲学へ変わらねばなりません。
                 増田嗣郎  2018.09.10
                 masuda@or2.fiberbit.net
P.S. もし万一、語感そのものの存在が信じられないようでしたら、周りの若い女性に聞いて見て下さい。「「あ」は「い」より大きいか?」と。
これは昨年出版された本の書名です。音声学者の書いた音象徴の入門書です。
 あるいは、プラトン全集(2)の「クラテュロス」をご覧ください。ソクラテスが細かく解説してくれています。

   危険思想か 伊藤恭彦先生への手紙  

新潮新書「さもしい人間」を読んだ。最初は私の専門の‘さもしい’の語感が気になって読み始めたが、いろいろと考えさせられる事があり、著者の伊藤恭彦先生に直接手紙を書いてみた。
以下はその手紙ですが、皆様はどうお考えになるでしょうか。
なお、伊藤教授からは丁寧なお返事をいただきました。

伊藤恭彦先生
「さもしい人間」読ませていただきました。
私は哲学については全くの門外漢です。
さもしさを切り口に社会正義について書いておられ、今まで気づかなかったことも多く、面白く読ませていただきました。
ただ、読み終わったあと、政治哲学の問題としてもっと身近で大きな問題があることに気づきました。そして、今の哲学が現代の我々に何ら進むべき、あるいは考えるべき指針を示しえない旧態依然のまま止どまっているのではないかと考えるに至りました。
身近な大問題とは、高齢者の延命治療の問題です。
人工呼吸器をかぶせられ、パイプにつながれながら、命さえ永らえればいいと考えるのは、さもしくはありませんか。
ご本人がどのように考えているかは別にしても、そのように仕向ける親族をはじめ周りの人々も、さもしくはありませんか。
なかでも医療関係者は、製薬会社を含め、さもしくはありませんか。さらに、人権をはやし立てるマスコミもさもしくはありませんか。
これらの人々が人権を盾に正義ズラをするのは、哲学が‘命’について触れないからではないでしょうか(本当に正義と思っているナイーブな人もいますが)。
‘命’ の問題は宗教の問題だというのは逃げです。死の恐怖に対する救済は宗教の役割でしょう。しかし、人間としての ‘命’ の問題を考えるのは哲学の役割ではないでしょうか。
‘一人一人の命は何よりも大切’ 、‘命は地球よりも思い’ などというドグマティックな言い方は、個を第一と考える西洋哲学から出てきた考え方でしょう。哲学も個の尊厳を絶対とする西洋哲学からそろそろ卒業する必要があるのではないでしょうか。
ギリシャの昔には、人の心(精神、とか意識)というものは、人知の及ばない絶対的なものだったでしょう。しかし、今や脳科学もめざましく進歩し、意識も脳内活動から副次的に生まれてきた一現象に過ぎないことが分かってきています。また、個の存在も、進化論からも分かるようにDNAの流れの中での動的平衡状態という一過程にすぎないことも分かってきました。一人の人間の存在は、人類という大きな流れのごく一部のひと時のものにすぎないのです。
‘我思う 故に 我あり’ の思う行為も脳内活動から生じる現象にしか過ぎません(結果としての哲学、思想の価値を云々しているのではありません)。
個の命の問題は宗教に任せて、哲学は人間全体について考えなければならないのではないでしょうか(人類としてもよいが、人類は生物学上の分類で、精神性を持った特殊な種として人間とした)。
命が何よりも大切というのは個人的な心情であって、宗教の範疇の問題ではないでしょうか。
人工呼吸器を着けられ、チューブで栄養を流し込まれ、意識も朦朧としながら生きているだけということにどれだけの意味があるのでしょうか。かえって、人間としての尊厳が損なわれているのではないでしょうか。人間としての尊厳とは何なのか、今こそ示すべき役割が哲学にあるのではないでしょうか。
先生は、さもしいを「一般的には、欲深くいやしい態度が表れている様子を言い、特に豊かな生活をしていながら、他の人をさしおいて貪欲に自分の利益を追求すること」とおっしゃっていますが、豊かとか利益の追求とかの経済的なことだけではなく、ただただ生きようとすること、そして意味もなく個人的心情からだけで生かそうとすることはさもしいことではないでしょうか(経済的にも高齢者医療負担を後世に残すのは問題ですし、)。
私は、言葉の持つ音の響きそれぞれが人に与えるイメージを研究している者ですが(語感言語学)、さもしいによく似た言葉にあさましいがあります。あさましいは浅はかともつながる言葉ですが、さもしい、あさましい、そして、あさはかはどう違うか考えてみました。
さもしい(SaMoSiI)という言葉の語幹は‘SaM‐’ で、この‘SaM−’ という同じ語幹をもつ言葉に、寒い(SaMuI)、冷ます(SaMaSu),冷める(SaMeRu),さみしい(SaMiSiI)があります。
‘S’ という音は、発音するときに息を舌、唇の上を流すようにするので(流音)、水や空気の流れのイメージが脳の中に起こります。この時、舌、歯茎、唇の表面の水気を奪い、気化熱を奪いますので、少し冷たい感じもします。
‘a’ は母音の中では最も口を大きく開けて伸びやかに声を出しますので、拡散のイメージが出てきます。広がりますので薄いイメージもあります。
‘M’ は唇で一旦息を溜めて一部を鼻に抜きますので抜けるイメージもあります。
これらの一連のイメージから、寒い、冷ます、冷める、さみしいには、何か風が吹き抜けるイメージが感じられるのです。
さもしいにもこの冷たさのイメージがあるのですが、もう少し複雑です。‘o’ に重くこもるイメージがあって、‘M’ の盛り上がるイメージと対立してしまうのです。結果、‘Mo’ にはスッキリしない微妙なイメージが生まれるのです。そして、ここから、モヤモヤ、モジモジとかモタモタなどの表現が生まれたのです。
しかも、この‘Mo’ はさわやかに流れるイメージの‘Sa’ とも対立するため、SaMoSiI は非常に複雑なニュアンスをもった言葉になっているのです。
(‘そのよう’が縮まって出来た‘さ’に助詞‘も’がついた‘さも’の持つ偽善的ニュアンスも意味的連想として感じられる)。
あさましいは浅はかから出てきた言葉でしょう。浅はかな行為の結果あさましい状態にあるということではないでしょうか。浅はか(ASaHaKa)は‘A-a-a-a’ と母音‘a’ 並びで‘a’ のもつオープンで明るいイメージが強く出ています。そして、もともとの語源と思われる‘浅い’ のイメージから、軽率なというイメージが強く出ています。
ここから、あさましいには、軽率で見え見えというニュアンスが感じられるのです。これに対し、さもしいは、寒々としたモヤモヤ不透明な心根というニュアンスではないでしょうか。さらに、言葉の連想として、‘Mu SaBo Ru’ が加わって貪欲なニュアンスも出てくるのでしょう。(‘B’ は‘M’ の働きを強めるためにも使われる。寒い→寒ぶい、目をつむる→目をつぶる、メリメリ→ベリベリ)
このように見てくると、あさましいは軽率で無自覚にやっているという意味合いになり、さもしいは知りながらの(気づきながら、気づかないふりをして)、貪欲な心の持ちようというような意味合いになるのではないでしょうか。
したがって、先生の糾弾しておられるファーストフード、激安、エコ商品問題は、あさはかで、あさましいということになるのではないでしょうか。
そして、延命治療を中心とした高齢者医療のあり方こそ、さもしいのではないでしょうか。
保険が効くからといって、必要以上の薬を求める患者、そして、病院経営のこともあって、唯々諾々とそれを処方する医者、多少の延命効果があるからといって高価な抗がん剤を押し付ける医者、そしてその背後の製薬会社。そのような風潮に乗っかっている官僚、政治家、すべて、浅ましくはありませんか。そして、正義ヅラをしている。まさにその心根はさもしくはありませんか。
‘命、命、命 命が何より’ とはやし立てるマスコミ、そしてその流れに乗っかる政治家。これらは、むしろ浅はか、そして、あさましいと言うべきかもしれません。
私が哲学は個を克服すべきと言うのにはもう一つ理由があります。
それは、先生もちょっと触れておられる人口爆発、地球資源枯渇の問題です。
地球人口はすでに60億を超えています。今も発展途上国を中心に増え続けています。先生のおっしゃるように途上国の経済格差が改善すれば、ますます人口は増えるでしょう。やがて、地球人口は100億になるでしょう。しかし、いかに科学技術が発達してもこの地球に住める人口には限度があります。
間もなく、地球規模での人口制限が必要になってくるではないでしょうか。その時それぞれの人口数を決める基準は何かあるのでしょうか。途上国に人口抑制を要求しても聞かないでしょう。一方、先進国の人口は減り続けるでしょう。人口の人種構成は大幅に変わってきます。
成り行きに任せますか。紛争が各地で起こるでしょう。多分、宗教間の争いになるではないでしょうか。
宗教を超える哲学を作っておく必要があるのではないでしょうか。
宗教の克服という意味では日本は最先進国です。
日本における個の思想も幸いまだ借り物の段階です。日本には個を克服する哲学の素地があると思います。是非、人間を過去から未来へ繋がる一つの実存として捉える新しい哲学を作って欲しいと思います。
個にからんで先生に一つ質問があります。基本的人権は政治哲学の範疇だと思いますが、基本的人権に何か根拠はあるのですか。天の声ですか。
それから、権利には必ず義務が伴うはずですが、基本的義務とは何なんでしょう。国に対する義務であれば、基本的人権も国が与えてくれたことになります。しかし、基本的人権についての今の考え方はそうではないと思います。社会ですか。社会的義務とは何でしょう。あまり言われたことはないと思います。
義務を言わず、権利のみを主張する人権思想はさもしくありませんか。
私は哲学をまともに勉強したことはありません。しかし、人間というものに大変興味があります。このようなド素人がトンチンカンなことを言っているのかもしれません。是非、ご指摘いただきたいと思います。
ちなみに、私は政治的には、全体主義者でも社会主義者でもありません。民主主義が次善の策だと思っています。ただ、民主主義の弱点(特に人権)につけこむさもしい人たちがたくさんいるので、しっかりした哲学を提示し、その上で道徳を作り直す必要があるのではと思っています。
     平成24年8月15日

   或る哲学者への手紙  

ご丁寧なお返事、有難うございます。
また、ド素人の戯言にも耳を傾けていただき感謝いたします。
さらに、語感言語学にもご関心をお持ちいただき非常にうれしく思っています。

と申しますのも、語感の問題が日本語という言葉の本質に関わり、結果として、日本人の哲学にも深く関わっているにも関わらず、言語学界において無視され続けているからです。
これも、日本の言語学界が輸入物の言語学に盲住し、ソシュールの呪縛の中に安住しているからです。
実は、語感の存在にはソクラテスも気付いていました。しかし、欧米語は語感からどんどん離れて行きました。
日本語には語感はまだ十分残っています。われわれ日本人は語感を頼りに日本語のニュアンスを使い分けています(無意識に)。
語感の存在は、江戸時代の国学者、賀茂真淵、本居宣長、そして、鈴木朖らが論じています。戦後には、幸田露伴が「音幻論」を著しています。
最近では、鷲田清一先生が「「ぐずぐず」の理由」で語感についてかなり踏み込んで書いておられます(鷲田先生は語感という言葉は使っておられませんが、語感の存在には気付いておられるようです)。
鷲田先生はオノマトペを中心に考察しておられますが、もう一歩踏み込んで日本人のものの考え方についても論じて欲しかったと残念に思っています。
例えば、鷲田先生は日本語の「ころがる」という動詞がオノマトペ「ころころ」から出来たとまでは書いておられますが、私は「こころ」という概念も「ころころ」から出来たと思っています(古代の日本人は心をコロコロしたものと考えていたのでしょう)。
「魂(TaMaSHi)」は「玉(TaMa)」から出来た言葉ですが、日本人の「心」と「魂」に持つイメージの違いは、この二つの言葉の語感の違いに表れています。すなわち、「TaMa」の母音並びは「−a−a」で、軽くて拡散するイメージ、「KoKoRo」の母音並びは「−o−o−o」で重く纏まっているイメージです。ここから「魂」は浮遊し、「心」は重く沈むイメージになるのです(「霊(ReI)」は大和言葉ではありません。ですから、冷たく硬く感じるのです)。

哲学の問題を語感からアプローチすることも出来ます。「アル」、「ナイ」、「ナル」は基本的な大和言葉です。たぶん、日本語としては原初的な言葉でしょう。

「アル」は比較的分かりやすい。「A」は母音の中でももっとも原初的なものでしょう。言葉の出来始め、何についても「A」と発声した。私も「A」、あなたも「A」、アレも「A」、そして、存在そのものを「A」と言うようになったのでしょう。そして、「A・Ru」という表現が出来た。

「アル」の反対は「ナイ」。「A・Ru」は「A」に接尾詞「Ru」が付いたもの。「NA・I」は存在の「A」にまず「N」が付き、次いで接尾詞「I」が付いて出来たと思われます。
「N」は欧米語でも、No、not、never、nothing、nonなどと否定語に使われています。これは「N」の発音体感が「A」の発音体感の対極にあるからでしょう。「A」は口を大きく開けてのびのびと自然に発声します。一方、「N」は唇と舌を使って息をせき止め口からは出さず鼻に抜くようにして発音します。口からの音の漏れを抑えようとするのです。「A」とは正反対の発音姿勢です。ここから「N」には、抑える、あるいは、否定的なイメージが出てくるのでしょう(粘るイメージもあります)。
「阿吽」の「あ」と「うん」は対極を表しています。この「うん」は「ん」とも「NN」とも表記します。発音は「N」です。ここでも「A」の対極として「N」が考えられているのです。
ただ、日本語の「ナイ」は西洋的な「無」とは違うと思います。
日本語では「NaI」と「NaRu」は語基「Na」を共有していますが、意味的には逆に近い。「ナイ」の「イ」は状態を表す接尾詞、「ナル」の「ル」は動きを表す接尾詞で、現代の人々は「アル」を状態と捉えますが、古代の人々は「アルこと」を動きと捉えていたのではないでしょうか。
論理的には、「ナイ」の状態から「ナル」という動きを経て「アル」という状態になる、ということですが、この音的な変化は次のようになります。
(N・A・I → N・A・Ru → A・Ru)
ここから読み取れるのは、古代の人々は現代人と違って、「N」を「無」のイメージではなく、隠れて見えない状態と考えていたのではないでしょうか。実が成る、音が鳴るも、全く何もないところに突然何かが現れるというのは古代人にとっても納得しにくいことだったのではないでしょうか(お隠れになったという表現も同じような心情からかもしれません)。
語感的には,「N・A・Ru」は「Nu・A・Ru」から出来たとも考えられます。「Nu」は今も残るオノマトペ「ヌーと現れる」のイメージです。「Nu・A・Ru」は「ヌーと現れてアル状態になる」というイメージではないでしょうか(「Nu-」は「抵抗・粘り(N)」の中を「動く(u)」というイメージです)。
語呂合わせのようにお感じになるかもしれませんが、日本語は基本的には語呂合わせ(音のイメージ合わせ)で出来ているのです。
突飛な意見と戸惑われているかもしれません。ぜひ、ご研究いただきたいと思います。
なお、語感の感じ分けの問題は、中高年の学者ではなく、周りの若い女性に訊いてみて下さい(感性が全く違いますので)。

追記
「N」が全くの「無」ではなく、隠れた目には分からない状態にあると考えられていたと思われる根拠が更にあります。
まず、「何(NaNi)」という言葉です。
「何?」というのは、「何かがあるが、それが何であるか分からない」、そんな状況において発せられる問いです。「無」ではなく「何かがある」がその実体の分からない状態で、「NAI」から「NARU」過程の中間的状態とも考えられます。
「NANI」の「A」は広がるイメージを持ち、「I」は一本に絞りこむイメージを持っています。ですから、「NANI」は語感的には、見えない漠然としたものを絞り込んでハッキリさせる、とも読めるのです。現在、単拍の「NI」は「学校に行く」、「勉強に行く」、「おまえにあげる」などと使いますが、共に目的を示すのに使われます。すなわち、いろいろとある可能性の中から一つに絞り込むのに使われています。これは「I」の絞り込むイメージを使ったものなのです(「Ni」の「N」は、この場合は、「N」の持つ粘り感からくる密着感を主に使っていると思われます)。
なお、「何」から出来たと思われる言葉に「ナゼ」、そして、「謎」があります。
「なぜ」は口語では「ナンデ」です。「ナンデ」は「ナニデ」が訛ったものでしょう。「何で」は、元来は手段を問うものだったのでしょう。それが理由を問うものへと広がって使われるようになったのではないでしょうか。そして、「NIDE」、あるいは、「NDE」が「ZE」に変わったのでしょう。
さらに、「NAZE」から母音を変化させて「NAZO」という言葉も出来たのでしょう(母音「O」には重さが感じられ存在感が感じられます)。

「中(NAKA)」という言葉も関係があるかもしれません。「中」とは、何があるかは分からない、少なくとも外からは分からない状態です。なお、「か(KA)」は助詞として、疑い、疑問、戸惑いなどに使います。
この「NAKA」とも関係のある言葉に「穴(A・NA)」があります。「A」はもちろん「アル」ということ。すなわち、「A・NA」とは、あるけれども見えない「穴の中」の状態を表しているのではないでしょうか。
このように考えると、
ナイ ー 穴 ― 中 ― 何(ナゼ) ― 成
は一連の表現ということになるのではないでしょうか。
    (平成24年9月14日)

   長谷川三千子先生への手紙  

  長谷川三千子先生への手紙(2)  

長谷川三千子先生

 「日本語の哲学へ」を読ませていただきました。
私は、哲学は全くの門外漢ですが、日本語に興味をもち、少々研究している立場から、大変面白く読ませていただきました。
日本語で哲学をとのご主旨、大賛成です。
私は、日本語を語感から研究しているのですが、「ある」の問題にしろ、「てにをは」の問題にしろ、新たな攻略法があるのではないかと思い、この手紙を書かせていただきました。

先生は、P155に「ほとんど無意識のうちに「もの」と「こと」とを使い分けて・・・。われわれの言語中枢はそれを選択して誤ったことはないのだが・・・」と書いておられます。
先生方が議論なさって、これだけ難しい問題を、普通の日本人は、だれでも苦もなく使い分けている。特に使い分け方を習うわけでもないのに、大変不思議なことです。
それに、ここには、チョムスキーの、いわゆる‘刺激の貧困’の問題もあります。文法の問題としてではなく、言葉のもつ意味の問題としてですが。

この使い分けの問題は、「うつくしい」と「きれい」の使い分けにもあります。
「うつくしい」と「きれい」とは、ほとんど同じ意味です。
しかし、表現として「うつくしい」が使えても「きれい」が使えないケースがありますし、その逆に「きれい」が使えても「うつくしい」が使えない場合もあります。
「うつくしい友情」といえても「きれいな友情」とはいえません。また、「金払いがきれい」といえても「金払いがうつくしい」とはいえません。
われわれの言語中枢は、「うつくしい」と「きれい」とを使い分けているのです。

「もの」と「こと」、「うつくしい」と「きれい」を微妙に使い分ける能力を、われわれの言語中枢がもっているのです。(すべての日本人が、使い分けのすべてのケースを覚えているわけではないでしょう。)
この能力の源は‘語感’なのです。
‘語感’というと、聞こえと思われるでしょうが、生理学的には違います。
‘語感’の基は、自らの発音体感なのです。主体的なものです。ですから、「もの」、「こと」の違いを深く味わい、反芻して考察することもできるのです。(自分の頭の中で、実験・検証ができるということです。)
言葉としての声は、空気の振動にしか過ぎません。空気の振動が、意味とか微妙な感じとかを伝えられるわけがありません。空気の振動がシグナルとなって、そのシグナルに対応した意味なり‘語感’なりが聞く人の言語中枢に浮かび上がるのです。
言葉の意味は、意味秩序(個々の人の言語中枢にそれぞれ作りこまれた)として今までに覚えこんだものから選び出されるのでしょうし、‘語感’も、発音体感として今までに蓄積されたものから浮かび上がってくるのです。
ちなみに、われわれの発音体感説は、いわゆる、音義説 ―言葉の音が意味を持っている― とは違います。
一つ一つの音が、それぞれ意味をもっているというのではなく、一つ一つの音に、その音を発音したときのイメージが付いて回るということなのです。
先生がおっしゃるように、どこか他所からやってきてまとわりついたのではなく、この音と切りはなしがたくむすびついたものなのです。(多分、先生は、うすうす‘語感’に気付いておられるのです。)
そして、私は、日本人が言葉を使い分けるときに、この‘語感’が無意識のうちに働いているのだと思います。
先の例の、「うつくしい」と「きれい」のケースでは、「きれい」に、切れ、固さのイメージがあって、割り切れる合理性とは相性がよく、「うつくしい」には、柔かさと内面性が感じられ、友情にはなじみやすいのです。
一つの言葉のもつ‘語感’は、その言葉を構成する音(音素)のもつ‘語感’の全体です。したがって、一つの言葉はいろいろなイメージを併せ持っています。それらのイメージが、大なり小なり、その  言葉の意味を裏付けたり、ニュアンスとして、その言葉に深みを与えたりしているのです。
「もの」の‘語感’は‘MoNo’として分析します。‘MoNo’と‘KoTo’の違いは、‘M・N’に対し‘K・T’の違いです。
‘M’‘N’は共に鼻音系で柔かく、ややあいまいで粘り気があります。‘M’には満ち溢れた大きさも感じられます。
‘K’‘T’は共に固く、切れ、鋭さなどが感じられます。受け止めて、とらえ返すと感じるのも、‘T’に、止まる、止める、溜まる、などのイメージがあるからでしょう。(ソクラテスもそう言っています。)
先生が、「こと」に、くっきりした輪郭を感じられるのは、このせいだと思います。
「もの」に無のかげが感じられるのはなぜか。
これはむつかしい問題ですが、私は、‘Mu’(無)、‘Nai’(ない)の意味的な影響ではないかと思います。

‘語感’は発音体感ですが、その最もプリミティッブなものが‘A’の発音です。
なんの屈託もなく、大きく口を開けて、大きな声を出せば、それは‘ア’的な音でしょう。私は、これが言葉の最初だと思います。
日本語では、最初、すべての存在が‘ア’だったのではないでしょうか。
私も‘ア’、貴方も‘ア’、あれも‘ア’、世界も‘ア’だったのではないでしょうか。やがて、それらが分節されて、吾となり、天、海(アマ)ができ、動詞になって、‘ある’も出来たのではないでしょうか。
‘A’が絶対的存在であるのに対し、‘O’には個別的存在感があります。
‘O’は口の中を丸く大きくして、口の奥の下の方で発音するため、重く、大きく、やや暗く、包まれたイメージがするのです。

‘ア’の発声の対極は‘ン’です。阿吽の呼吸の‘ん’です。発音としては‘M’‘N’です。口を閉じて声を出さない。これで‘ア’の反対、あるいは、否定を表わそうとしたのではないでしょうか。
‘A’が存在であるのに対し、その反対として、‘N’をつけて‘Na’、そして、その言い切りとして‘I’をつけて‘NaI’となったのではないでしょうか。(欧米語にも、‘N’を先頭にもってきて、否定的な意味を表わすものが多くあります。)
一方、‘A’に‘Ru’をつけて‘ARu’が出来た。‘Ru’は動きを表わすのに使われますので、‘ある’には動きがあると、われわれの祖先は感じていたのかもしれません。ただ、実際に動くということではなく、命があるものという感覚、実在という感覚ではなかったかと思います。(全てのものに命があるとも感じていたようです。山川草木悉皆成仏)
(ソクラテスも‘R’は舌を最も振るわせるので動きを表わすとも言っています。)
‘ない’には、それはないとも感じていたのでしょう。

「こと」を音的に展開すると、‘コトコト’、‘コンコン’、‘トントン’などがあります。すべて、途切れた固い音です。
‘KoTo’と‘ToKi’(時)は音的には似ています。同じ傾向の音です。
「もの」からは‘MoNoMoNoSiI’という表現が生まれましたが、この表現には‘OMoOMoSiI’と似たニュアンスが感じられます。(ものものしい:重々しい)
「もの」と「こと」から「もと(基、元、源、本)」が出来たのかもしれません。
(MoNo,KoTo → MoTo)

先生は、「なる」についてもふれておられますが、‘NaRu’は‘NiARu(にある)’が詰まってできたもので、「ある」の一態様です。
‘に(Ni)’は場所を指定するものですが、「何」については一切ふれていません。‘〜がある’、‘〜はある’は「何」を要求しますので、この点、‘なる(=にある)’の方が純粋存在に近い概念かもしれません。
‘ダーザイン’が‘なる’。‘ミットザイン’が‘もある’、あるいは、‘とある’。そして、絶対的存在が‘あ’ということになるのでしょうか。
‘である’は‘It is’で、‘There is’は‘がある’と‘はある’でしょう。
‘がある’と‘はある’の違いは、‘がある’という場合は、‘何’が強調され、‘はある’の場合は‘ある’に重点が置かれています。‘が’は‘Ka’を濁音化して強調したもので、くっきりと際立たせる働きがあります。
一方、‘は’の発音は‘Wa’で、‘W’は半母音ともいい、‘U’から‘A’への変化を一つにしたもので、余り自己主張の強い音ではありません。‘Wa’には中から外へ広がっていくイメージがあります。
ちなみに、‘を’は‘Wo’で、‘U’から‘O’への変化を一つにしたもので、中のものが一つのものに纏まっていくイメージがあります。

ところで、P16で「そいつはいい考えだ!」には「ある」がないと書いておられますが、‘だ’は‘である’が縮められたもので、潜在的には「ある」があるのではないでしょうか。

「てにをは」をはじめ、助詞、助動詞、それぞれに前の語句の働きを示す機能がありますが、その機能を裏付けているのが‘語感’です。
特に、終助詞‘ね’、‘よ’、‘な’などでは、気持ちを表わす母音の働きが顕著です。
‘ね’は、‘おねがい’、‘おねだり’、‘ねんおし’の‘ね’だということは、‘語感’と言葉の出来方に関係がありそうなことを示しており、日本語の面白いところだと思います。
‘よ’は、‘よびかけ’、‘よそよそしさ’の‘よ’ともいえます。
‘な’は、‘なかよし’、‘なじみ’、‘なだめ’、‘なぐさめ’の‘な’でしょうか。

素人の私が、‘ザイン’の問題にまで口出ししてしまい、申し訳ありません。
私としては、日本語にとって‘語感’の問題が本質的なものだということが言いたかったのです。
発音体感の詳細など、分かりにくいところもあったかと思いますが、お声をお掛けくだされば、いつでもご説明にお伺いいたします。
私個人のサイトにも一部を公開しています。ぜひ、ご覧下さい。
  http://theory.gokanbunseki.com
  http://www.gokanbunseki.com
浅学にもかかわらず、いろいろ生意気なことを申し上げました。年の功に免じお許しください。
 
          平成22年11月1日
                         増田嗣郎

  長谷川三千子先生への手紙(1)  

長谷川三千子先生

「諸君!」4月号の「言霊のさきはふ国で ・・・」を読ませていただきました。
事霊のお話し腑に落ち、大変参考になりました。

 定年退職後、コトバの音のもつイメージを解析するビジネスに係わったことから言語に関心をもち、日本語につき多少勉強しました。勉強するにつれ、大和言葉が、そのコトバを発声するときの身体感覚に素直(忠実)な言葉だとますます思うようになりました。そして、例えば、事、言をなぜコトといふのか、などを考えてきました。ただ、コトが事と言を表わす、モノが物・者と霊を表わすといふことを、日本文化が相矛盾する二面を併せ包み込むおおらかな文化だからだ、程度にしか考えていませんでした。しかし、先生のお話から、矛盾しているもの、異なるものとしてではなく、二つのものの奥の本質的なものを見ているのだ、といふことが分かり、大変うれしく、すっきりいたしました。
モノが物・者だけでなく霊をも表わすことが了解できました。また、コト霊といふコトバから、日本人が古来(仏教伝来以前から)山川草木悉皆成仏という感覚を持っていたことが分かりました。(コトには行為も含まれますから、山川草木よりももっと広いですね。)

私は、コト(事)を言に結び付けているのは 語感 だと思っています。
そして、日本語は、特に、語感に忠実な言葉ですので、語感から日本語、そして、日本文化を読み解くことができるのではないかと思います。

先生のお話から、言語哲学といふ言葉を初めて知りました。大変面白そうです。
ちなみに、語感から見ますと「心(ココロ)」、「霊(タマ)」は共に丸いイメージで、「ココロ」は重く、内に深くあって、「タマ」は軽く、広がるイメージをもっています。
ある、いる、おる の違いも、a,i,o の語感の違いからも分かります。
あれ、これ、それ、たれ(だれ)の a,k,s,t の距離感の違いも、古代の日本人の感じ方が分かり、言語哲学の対象として面白そうです。

先生のお考えを頂戴し、新しい展開が出来そうです。有難うございました。

拙いながら、私の今までの研究成果は、私個人のウエッブ・サイトに載せています。お時間があればご覧頂き、アドバイスなり頂ければ幸いです。
 語感分析の実例   http://www.gokanbunseki.com
 独りよがりの理論  http://theory.gokanbunseki.com

     東京都荒川区南千住6−37−2−1203
                   増田嗣郎
               メール msiro@kjps.net
             平成21年3月12日

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