新しい言語学

手紙7

   危険思想か 伊藤恭彦先生への手紙  

新潮新書「さもしい人間」を読んだ。最初は私の専門の‘さもしい’の語感が気になって読み始めたが、いろいろと考えさせられる事があり、著者の伊藤恭彦先生に直接手紙を書いてみた。
以下はその手紙ですが、皆様はどうお考えになるでしょうか。
なお、伊藤教授からは丁寧なお返事をいただきました。

伊藤恭彦先生
「さもしい人間」読ませていただきました。
私は哲学については全くの門外漢です。
さもしさを切り口に社会正義について書いておられ、今まで気づかなかったことも多く、面白く読ませていただきました。
ただ、読み終わったあと、政治哲学の問題としてもっと身近で大きな問題があることに気づきました。そして、今の哲学が現代の我々に何ら進むべき、あるいは考えるべき指針を示しえない旧態依然のまま止どまっているのではないかと考えるに至りました。
身近な大問題とは、高齢者の延命治療の問題です。
人工呼吸器をかぶせられ、パイプにつながれながら、命さえ永らえればいいと考えるのは、さもしくはありませんか。
ご本人がどのように考えているかは別にしても、そのように仕向ける親族をはじめ周りの人々も、さもしくはありませんか。
なかでも医療関係者は、製薬会社を含め、さもしくはありませんか。さらに、人権をはやし立てるマスコミもさもしくはありませんか。
これらの人々が人権を盾に正義ズラをするのは、哲学が‘命’について触れないからではないでしょうか(本当に正義と思っているナイーブな人もいますが)。
‘命’ の問題は宗教の問題だというのは逃げです。死の恐怖に対する救済は宗教の役割でしょう。しかし、人間としての ‘命’ の問題を考えるのは哲学の役割ではないでしょうか。
‘一人一人の命は何よりも大切’ 、‘命は地球よりも思い’ などというドグマティックな言い方は、個を第一と考える西洋哲学から出てきた考え方でしょう。哲学も個の尊厳を絶対とする西洋哲学からそろそろ卒業する必要があるのではないでしょうか。
ギリシャの昔には、人の心(精神、とか意識)というものは、人知の及ばない絶対的なものだったでしょう。しかし、今や脳科学もめざましく進歩し、意識も脳内活動から副次的に生まれてきた一現象に過ぎないことが分かってきています。また、個の存在も、進化論からも分かるようにDNAの流れの中での動的平衡状態という一過程にすぎないことも分かってきました。一人の人間の存在は、人類という大きな流れのごく一部のひと時のものにすぎないのです。
‘我思う 故に 我あり’ の思う行為も脳内活動から生じる現象にしか過ぎません(結果としての哲学、思想の価値を云々しているのではありません)。
個の命の問題は宗教に任せて、哲学は人間全体について考えなければならないのではないでしょうか(人類としてもよいが、人類は生物学上の分類で、精神性を持った特殊な種として人間とした)。
命が何よりも大切というのは個人的な心情であって、宗教の範疇の問題ではないでしょうか。
人工呼吸器を着けられ、チューブで栄養を流し込まれ、意識も朦朧としながら生きているだけということにどれだけの意味があるのでしょうか。かえって、人間としての尊厳が損なわれているのではないでしょうか。人間としての尊厳とは何なのか、今こそ示すべき役割が哲学にあるのではないでしょうか。
先生は、さもしいを「一般的には、欲深くいやしい態度が表れている様子を言い、特に豊かな生活をしていながら、他の人をさしおいて貪欲に自分の利益を追求すること」とおっしゃっていますが、豊かとか利益の追求とかの経済的なことだけではなく、ただただ生きようとすること、そして意味もなく個人的心情からだけで生かそうとすることはさもしいことではないでしょうか(経済的にも高齢者医療負担を後世に残すのは問題ですし、)。
私は、言葉の持つ音の響きそれぞれが人に与えるイメージを研究している者ですが(語感言語学)、さもしいによく似た言葉にあさましいがあります。あさましいは浅はかともつながる言葉ですが、さもしい、あさましい、そして、あさはかはどう違うか考えてみました。
さもしい(SaMoSiI)という言葉の語幹は‘SaM‐’ で、この‘SaM−’ という同じ語幹をもつ言葉に、寒い(SaMuI)、冷ます(SaMaSu),冷める(SaMeRu),さみしい(SaMiSiI)があります。
‘S’ という音は、発音するときに息を舌、唇の上を流すようにするので(流音)、水や空気の流れのイメージが脳の中に起こります。この時、舌、歯茎、唇の表面の水気を奪い、気化熱を奪いますので、少し冷たい感じもします。
‘a’ は母音の中では最も口を大きく開けて伸びやかに声を出しますので、拡散のイメージが出てきます。広がりますので薄いイメージもあります。
‘M’ は唇で一旦息を溜めて一部を鼻に抜きますので抜けるイメージもあります。
これらの一連のイメージから、寒い、冷ます、冷める、さみしいには、何か風が吹き抜けるイメージが感じられるのです。
さもしいにもこの冷たさのイメージがあるのですが、もう少し複雑です。‘o’ に重くこもるイメージがあって、‘M’ の盛り上がるイメージと対立してしまうのです。結果、‘Mo’ にはスッキリしない微妙なイメージが生まれるのです。そして、ここから、モヤモヤ、モジモジとかモタモタなどの表現が生まれたのです。
しかも、この‘Mo’ はさわやかに流れるイメージの‘Sa’ とも対立するため、SaMoSiI は非常に複雑なニュアンスをもった言葉になっているのです。
(‘そのよう’が縮まって出来た‘さ’に助詞‘も’がついた‘さも’の持つ偽善的ニュアンスも意味的連想として感じられる)。
あさましいは浅はかから出てきた言葉でしょう。浅はかな行為の結果あさましい状態にあるということではないでしょうか。浅はか(ASaHaKa)は‘A-a-a-a’ と母音‘a’ 並びで‘a’ のもつオープンで明るいイメージが強く出ています。そして、もともとの語源と思われる‘浅い’ のイメージから、軽率なというイメージが強く出ています。
ここから、あさましいには、軽率で見え見えというニュアンスが感じられるのです。これに対し、さもしいは、寒々としたモヤモヤ不透明な心根というニュアンスではないでしょうか。さらに、言葉の連想として、‘Mu SaBo Ru’ が加わって貪欲なニュアンスも出てくるのでしょう。(‘B’ は‘M’ の働きを強めるためにも使われる。寒い→寒ぶい、目をつむる→目をつぶる、メリメリ→ベリベリ)
このように見てくると、あさましいは軽率で無自覚にやっているという意味合いになり、さもしいは知りながらの(気づきながら、気づかないふりをして)、貪欲な心の持ちようというような意味合いになるのではないでしょうか。
したがって、先生の糾弾しておられるファーストフード、激安、エコ商品問題は、あさはかで、あさましいということになるのではないでしょうか。
そして、延命治療を中心とした高齢者医療のあり方こそ、さもしいのではないでしょうか。
保険が効くからといって、必要以上の薬を求める患者、そして、病院経営のこともあって、唯々諾々とそれを処方する医者、多少の延命効果があるからといって高価な抗がん剤を押し付ける医者、そしてその背後の製薬会社。そのような風潮に乗っかっている官僚、政治家、すべて、浅ましくはありませんか。そして、正義ヅラをしている。まさにその心根はさもしくはありませんか。
‘命、命、命 命が何より’ とはやし立てるマスコミ、そしてその流れに乗っかる政治家。これらは、むしろ浅はか、そして、あさましいと言うべきかもしれません。
私が哲学は個を克服すべきと言うのにはもう一つ理由があります。
それは、先生もちょっと触れておられる人口爆発、地球資源枯渇の問題です。
地球人口はすでに60億を超えています。今も発展途上国を中心に増え続けています。先生のおっしゃるように途上国の経済格差が改善すれば、ますます人口は増えるでしょう。やがて、地球人口は100億になるでしょう。しかし、いかに科学技術が発達してもこの地球に住める人口には限度があります。
間もなく、地球規模での人口制限が必要になってくるではないでしょうか。その時それぞれの人口数を決める基準は何かあるのでしょうか。途上国に人口抑制を要求しても聞かないでしょう。一方、先進国の人口は減り続けるでしょう。人口の人種構成は大幅に変わってきます。
成り行きに任せますか。紛争が各地で起こるでしょう。多分、宗教間の争いになるではないでしょうか。
宗教を超える哲学を作っておく必要があるのではないでしょうか。
宗教の克服という意味では日本は最先進国です。
日本における個の思想も幸いまだ借り物の段階です。日本には個を克服する哲学の素地があると思います。是非、人間を過去から未来へ繋がる一つの実存として捉える新しい哲学を作って欲しいと思います。
個にからんで先生に一つ質問があります。基本的人権は政治哲学の範疇だと思いますが、基本的人権に何か根拠はあるのですか。天の声ですか。
それから、権利には必ず義務が伴うはずですが、基本的義務とは何なんでしょう。国に対する義務であれば、基本的人権も国が与えてくれたことになります。しかし、基本的人権についての今の考え方はそうではないと思います。社会ですか。社会的義務とは何でしょう。あまり言われたことはないと思います。
義務を言わず、権利のみを主張する人権思想はさもしくありませんか。
私は哲学をまともに勉強したことはありません。しかし、人間というものに大変興味があります。このようなド素人がトンチンカンなことを言っているのかもしれません。是非、ご指摘いただきたいと思います。
ちなみに、私は政治的には、全体主義者でも社会主義者でもありません。民主主義が次善の策だと思っています。ただ、民主主義の弱点(特に人権)につけこむさもしい人たちがたくさんいるので、しっかりした哲学を提示し、その上で道徳を作り直す必要があるのではと思っています。
     平成24年8月15日

   或る哲学者への手紙  

ご丁寧なお返事、有難うございます。
また、ド素人の戯言にも耳を傾けていただき感謝いたします。
さらに、語感言語学にもご関心をお持ちいただき非常にうれしく思っています。

と申しますのも、語感の問題が日本語という言葉の本質に関わり、結果として、日本人の哲学にも深く関わっているにも関わらず、言語学界において無視され続けているからです。
これも、日本の言語学界が輸入物の言語学に盲住し、ソシュールの呪縛の中に安住しているからです。
実は、語感の存在にはソクラテスも気付いていました。しかし、欧米語は語感からどんどん離れて行きました。
日本語には語感はまだ十分残っています。われわれ日本人は語感を頼りに日本語のニュアンスを使い分けています(無意識に)。
語感の存在は、江戸時代の国学者、賀茂真淵、本居宣長、そして、鈴木朖らが論じています。戦後には、幸田露伴が「音幻論」を著しています。
最近では、鷲田清一先生が「「ぐずぐず」の理由」で語感についてかなり踏み込んで書いておられます(鷲田先生は語感という言葉は使っておられませんが、語感の存在には気付いておられるようです)。
鷲田先生はオノマトペを中心に考察しておられますが、もう一歩踏み込んで日本人のものの考え方についても論じて欲しかったと残念に思っています。
例えば、鷲田先生は日本語の「ころがる」という動詞がオノマトペ「ころころ」から出来たとまでは書いておられますが、私は「こころ」という概念も「ころころ」から出来たと思っています(古代の日本人は心をコロコロしたものと考えていたのでしょう)。
「魂(TaMaSHi)」は「玉(TaMa)」から出来た言葉ですが、日本人の「心」と「魂」に持つイメージの違いは、この二つの言葉の語感の違いに表れています。すなわち、「TaMa」の母音並びは「−a−a」で、軽くて拡散するイメージ、「KoKoRo」の母音並びは「−o−o−o」で重く纏まっているイメージです。ここから「魂」は浮遊し、「心」は重く沈むイメージになるのです(「霊(ReI)」は大和言葉ではありません。ですから、冷たく硬く感じるのです)。

哲学の問題を語感からアプローチすることも出来ます。「アル」、「ナイ」、「ナル」は基本的な大和言葉です。たぶん、日本語としては原初的な言葉でしょう。

「アル」は比較的分かりやすい。「A」は母音の中でももっとも原初的なものでしょう。言葉の出来始め、何についても「A」と発声した。私も「A」、あなたも「A」、アレも「A」、そして、存在そのものを「A」と言うようになったのでしょう。そして、「A・Ru」という表現が出来た。

「アル」の反対は「ナイ」。「A・Ru」は「A」に接尾詞「Ru」が付いたもの。「NA・I」は存在の「A」にまず「N」が付き、次いで接尾詞「I」が付いて出来たと思われます。
「N」は欧米語でも、No、not、never、nothing、nonなどと否定語に使われています。これは「N」の発音体感が「A」の発音体感の対極にあるからでしょう。「A」は口を大きく開けてのびのびと自然に発声します。一方、「N」は唇と舌を使って息をせき止め口からは出さず鼻に抜くようにして発音します。口からの音の漏れを抑えようとするのです。「A」とは正反対の発音姿勢です。ここから「N」には、抑える、あるいは、否定的なイメージが出てくるのでしょう(粘るイメージもあります)。
「阿吽」の「あ」と「うん」は対極を表しています。この「うん」は「ん」とも「NN」とも表記します。発音は「N」です。ここでも「A」の対極として「N」が考えられているのです。
ただ、日本語の「ナイ」は西洋的な「無」とは違うと思います。
日本語では「NaI」と「NaRu」は語基「Na」を共有していますが、意味的には逆に近い。「ナイ」の「イ」は状態を表す接尾詞、「ナル」の「ル」は動きを表す接尾詞で、現代の人々は「アル」を状態と捉えますが、古代の人々は「アルこと」を動きと捉えていたのではないでしょうか。
論理的には、「ナイ」の状態から「ナル」という動きを経て「アル」という状態になる、ということですが、この音的な変化は次のようになります。
(N・A・I → N・A・Ru → A・Ru)
ここから読み取れるのは、古代の人々は現代人と違って、「N」を「無」のイメージではなく、隠れて見えない状態と考えていたのではないでしょうか。実が成る、音が鳴るも、全く何もないところに突然何かが現れるというのは古代人にとっても納得しにくいことだったのではないでしょうか(お隠れになったという表現も同じような心情からかもしれません)。
語感的には,「N・A・Ru」は「Nu・A・Ru」から出来たとも考えられます。「Nu」は今も残るオノマトペ「ヌーと現れる」のイメージです。「Nu・A・Ru」は「ヌーと現れてアル状態になる」というイメージではないでしょうか(「Nu-」は「抵抗・粘り(N)」の中を「動く(u)」というイメージです)。
語呂合わせのようにお感じになるかもしれませんが、日本語は基本的には語呂合わせ(音のイメージ合わせ)で出来ているのです。
突飛な意見と戸惑われているかもしれません。ぜひ、ご研究いただきたいと思います。
なお、語感の感じ分けの問題は、中高年の学者ではなく、周りの若い女性に訊いてみて下さい(感性が全く違いますので)。

追記
「N」が全くの「無」ではなく、隠れた目には分からない状態にあると考えられていたと思われる根拠が更にあります。
まず、「何(NaNi)」という言葉です。
「何?」というのは、「何かがあるが、それが何であるか分からない」、そんな状況において発せられる問いです。「無」ではなく「何かがある」がその実体の分からない状態で、「NAI」から「NARU」過程の中間的状態とも考えられます。
「NANI」の「A」は広がるイメージを持ち、「I」は一本に絞りこむイメージを持っています。ですから、「NANI」は語感的には、見えない漠然としたものを絞り込んでハッキリさせる、とも読めるのです。現在、単拍の「NI」は「学校に行く」、「勉強に行く」、「おまえにあげる」などと使いますが、共に目的を示すのに使われます。すなわち、いろいろとある可能性の中から一つに絞り込むのに使われています。これは「I」の絞り込むイメージを使ったものなのです(「Ni」の「N」は、この場合は、「N」の持つ粘り感からくる密着感を主に使っていると思われます)。
なお、「何」から出来たと思われる言葉に「ナゼ」、そして、「謎」があります。
「なぜ」は口語では「ナンデ」です。「ナンデ」は「ナニデ」が訛ったものでしょう。「何で」は、元来は手段を問うものだったのでしょう。それが理由を問うものへと広がって使われるようになったのではないでしょうか。そして、「NIDE」、あるいは、「NDE」が「ZE」に変わったのでしょう。
さらに、「NAZE」から母音を変化させて「NAZO」という言葉も出来たのでしょう(母音「O」には重さが感じられ存在感が感じられます)。

「中(NAKA)」という言葉も関係があるかもしれません。「中」とは、何があるかは分からない、少なくとも外からは分からない状態です。なお、「か(KA)」は助詞として、疑い、疑問、戸惑いなどに使います。
この「NAKA」とも関係のある言葉に「穴(A・NA)」があります。「A」はもちろん「アル」ということ。すなわち、「A・NA」とは、あるけれども見えない「穴の中」の状態を表しているのではないでしょうか。
このように考えると、
ナイ ー 穴 ― 中 ― 何(ナゼ) ― 成
は一連の表現ということになるのではないでしょうか。
    (平成24年9月14日)

   長谷川三千子先生への手紙  

  長谷川三千子先生への手紙(2)  

長谷川三千子先生

 「日本語の哲学へ」を読ませていただきました。
私は、哲学は全くの門外漢ですが、日本語に興味をもち、少々研究している立場から、大変面白く読ませていただきました。
日本語で哲学をとのご主旨、大賛成です。
私は、日本語を語感から研究しているのですが、「ある」の問題にしろ、「てにをは」の問題にしろ、新たな攻略法があるのではないかと思い、この手紙を書かせていただきました。

先生は、P155に「ほとんど無意識のうちに「もの」と「こと」とを使い分けて・・・。われわれの言語中枢はそれを選択して誤ったことはないのだが・・・」と書いておられます。
先生方が議論なさって、これだけ難しい問題を、普通の日本人は、だれでも苦もなく使い分けている。特に使い分け方を習うわけでもないのに、大変不思議なことです。
それに、ここには、チョムスキーの、いわゆる‘刺激の貧困’の問題もあります。文法の問題としてではなく、言葉のもつ意味の問題としてですが。

この使い分けの問題は、「うつくしい」と「きれい」の使い分けにもあります。
「うつくしい」と「きれい」とは、ほとんど同じ意味です。
しかし、表現として「うつくしい」が使えても「きれい」が使えないケースがありますし、その逆に「きれい」が使えても「うつくしい」が使えない場合もあります。
「うつくしい友情」といえても「きれいな友情」とはいえません。また、「金払いがきれい」といえても「金払いがうつくしい」とはいえません。
われわれの言語中枢は、「うつくしい」と「きれい」とを使い分けているのです。

「もの」と「こと」、「うつくしい」と「きれい」を微妙に使い分ける能力を、われわれの言語中枢がもっているのです。(すべての日本人が、使い分けのすべてのケースを覚えているわけではないでしょう。)
この能力の源は‘語感’なのです。
‘語感’というと、聞こえと思われるでしょうが、生理学的には違います。
‘語感’の基は、自らの発音体感なのです。主体的なものです。ですから、「もの」、「こと」の違いを深く味わい、反芻して考察することもできるのです。(自分の頭の中で、実験・検証ができるということです。)
言葉としての声は、空気の振動にしか過ぎません。空気の振動が、意味とか微妙な感じとかを伝えられるわけがありません。空気の振動がシグナルとなって、そのシグナルに対応した意味なり‘語感’なりが聞く人の言語中枢に浮かび上がるのです。
言葉の意味は、意味秩序(個々の人の言語中枢にそれぞれ作りこまれた)として今までに覚えこんだものから選び出されるのでしょうし、‘語感’も、発音体感として今までに蓄積されたものから浮かび上がってくるのです。
ちなみに、われわれの発音体感説は、いわゆる、音義説 ―言葉の音が意味を持っている― とは違います。
一つ一つの音が、それぞれ意味をもっているというのではなく、一つ一つの音に、その音を発音したときのイメージが付いて回るということなのです。
先生がおっしゃるように、どこか他所からやってきてまとわりついたのではなく、この音と切りはなしがたくむすびついたものなのです。(多分、先生は、うすうす‘語感’に気付いておられるのです。)
そして、私は、日本人が言葉を使い分けるときに、この‘語感’が無意識のうちに働いているのだと思います。
先の例の、「うつくしい」と「きれい」のケースでは、「きれい」に、切れ、固さのイメージがあって、割り切れる合理性とは相性がよく、「うつくしい」には、柔かさと内面性が感じられ、友情にはなじみやすいのです。
一つの言葉のもつ‘語感’は、その言葉を構成する音(音素)のもつ‘語感’の全体です。したがって、一つの言葉はいろいろなイメージを併せ持っています。それらのイメージが、大なり小なり、その  言葉の意味を裏付けたり、ニュアンスとして、その言葉に深みを与えたりしているのです。
「もの」の‘語感’は‘MoNo’として分析します。‘MoNo’と‘KoTo’の違いは、‘M・N’に対し‘K・T’の違いです。
‘M’‘N’は共に鼻音系で柔かく、ややあいまいで粘り気があります。‘M’には満ち溢れた大きさも感じられます。
‘K’‘T’は共に固く、切れ、鋭さなどが感じられます。受け止めて、とらえ返すと感じるのも、‘T’に、止まる、止める、溜まる、などのイメージがあるからでしょう。(ソクラテスもそう言っています。)
先生が、「こと」に、くっきりした輪郭を感じられるのは、このせいだと思います。
「もの」に無のかげが感じられるのはなぜか。
これはむつかしい問題ですが、私は、‘Mu’(無)、‘Nai’(ない)の意味的な影響ではないかと思います。

‘語感’は発音体感ですが、その最もプリミティッブなものが‘A’の発音です。
なんの屈託もなく、大きく口を開けて、大きな声を出せば、それは‘ア’的な音でしょう。私は、これが言葉の最初だと思います。
日本語では、最初、すべての存在が‘ア’だったのではないでしょうか。
私も‘ア’、貴方も‘ア’、あれも‘ア’、世界も‘ア’だったのではないでしょうか。やがて、それらが分節されて、吾となり、天、海(アマ)ができ、動詞になって、‘ある’も出来たのではないでしょうか。
‘A’が絶対的存在であるのに対し、‘O’には個別的存在感があります。
‘O’は口の中を丸く大きくして、口の奥の下の方で発音するため、重く、大きく、やや暗く、包まれたイメージがするのです。

‘ア’の発声の対極は‘ン’です。阿吽の呼吸の‘ん’です。発音としては‘M’‘N’です。口を閉じて声を出さない。これで‘ア’の反対、あるいは、否定を表わそうとしたのではないでしょうか。
‘A’が存在であるのに対し、その反対として、‘N’をつけて‘Na’、そして、その言い切りとして‘I’をつけて‘NaI’となったのではないでしょうか。(欧米語にも、‘N’を先頭にもってきて、否定的な意味を表わすものが多くあります。)
一方、‘A’に‘Ru’をつけて‘ARu’が出来た。‘Ru’は動きを表わすのに使われますので、‘ある’には動きがあると、われわれの祖先は感じていたのかもしれません。ただ、実際に動くということではなく、命があるものという感覚、実在という感覚ではなかったかと思います。(全てのものに命があるとも感じていたようです。山川草木悉皆成仏)
(ソクラテスも‘R’は舌を最も振るわせるので動きを表わすとも言っています。)
‘ない’には、それはないとも感じていたのでしょう。

「こと」を音的に展開すると、‘コトコト’、‘コンコン’、‘トントン’などがあります。すべて、途切れた固い音です。
‘KoTo’と‘ToKi’(時)は音的には似ています。同じ傾向の音です。
「もの」からは‘MoNoMoNoSiI’という表現が生まれましたが、この表現には‘OMoOMoSiI’と似たニュアンスが感じられます。(ものものしい:重々しい)
「もの」と「こと」から「もと(基、元、源、本)」が出来たのかもしれません。
(MoNo,KoTo → MoTo)

先生は、「なる」についてもふれておられますが、‘NaRu’は‘NiARu(にある)’が詰まってできたもので、「ある」の一態様です。
‘に(Ni)’は場所を指定するものですが、「何」については一切ふれていません。‘〜がある’、‘〜はある’は「何」を要求しますので、この点、‘なる(=にある)’の方が純粋存在に近い概念かもしれません。
‘ダーザイン’が‘なる’。‘ミットザイン’が‘もある’、あるいは、‘とある’。そして、絶対的存在が‘あ’ということになるのでしょうか。
‘である’は‘It is’で、‘There is’は‘がある’と‘はある’でしょう。
‘がある’と‘はある’の違いは、‘がある’という場合は、‘何’が強調され、‘はある’の場合は‘ある’に重点が置かれています。‘が’は‘Ka’を濁音化して強調したもので、くっきりと際立たせる働きがあります。
一方、‘は’の発音は‘Wa’で、‘W’は半母音ともいい、‘U’から‘A’への変化を一つにしたもので、余り自己主張の強い音ではありません。‘Wa’には中から外へ広がっていくイメージがあります。
ちなみに、‘を’は‘Wo’で、‘U’から‘O’への変化を一つにしたもので、中のものが一つのものに纏まっていくイメージがあります。

ところで、P16で「そいつはいい考えだ!」には「ある」がないと書いておられますが、‘だ’は‘である’が縮められたもので、潜在的には「ある」があるのではないでしょうか。

「てにをは」をはじめ、助詞、助動詞、それぞれに前の語句の働きを示す機能がありますが、その機能を裏付けているのが‘語感’です。
特に、終助詞‘ね’、‘よ’、‘な’などでは、気持ちを表わす母音の働きが顕著です。
‘ね’は、‘おねがい’、‘おねだり’、‘ねんおし’の‘ね’だということは、‘語感’と言葉の出来方に関係がありそうなことを示しており、日本語の面白いところだと思います。
‘よ’は、‘よびかけ’、‘よそよそしさ’の‘よ’ともいえます。
‘な’は、‘なかよし’、‘なじみ’、‘なだめ’、‘なぐさめ’の‘な’でしょうか。

素人の私が、‘ザイン’の問題にまで口出ししてしまい、申し訳ありません。
私としては、日本語にとって‘語感’の問題が本質的なものだということが言いたかったのです。
発音体感の詳細など、分かりにくいところもあったかと思いますが、お声をお掛けくだされば、いつでもご説明にお伺いいたします。
私個人のサイトにも一部を公開しています。ぜひ、ご覧下さい。
  http://theory.gokanbunseki.com
  http://www.gokanbunseki.com
浅学にもかかわらず、いろいろ生意気なことを申し上げました。年の功に免じお許しください。
 
          平成22年11月1日
                         増田嗣郎

  長谷川三千子先生への手紙(1)  

長谷川三千子先生

「諸君!」4月号の「言霊のさきはふ国で ・・・」を読ませていただきました。
事霊のお話し腑に落ち、大変参考になりました。

 定年退職後、コトバの音のもつイメージを解析するビジネスに係わったことから言語に関心をもち、日本語につき多少勉強しました。勉強するにつれ、大和言葉が、そのコトバを発声するときの身体感覚に素直(忠実)な言葉だとますます思うようになりました。そして、例えば、事、言をなぜコトといふのか、などを考えてきました。ただ、コトが事と言を表わす、モノが物・者と霊を表わすといふことを、日本文化が相矛盾する二面を併せ包み込むおおらかな文化だからだ、程度にしか考えていませんでした。しかし、先生のお話から、矛盾しているもの、異なるものとしてではなく、二つのものの奥の本質的なものを見ているのだ、といふことが分かり、大変うれしく、すっきりいたしました。
モノが物・者だけでなく霊をも表わすことが了解できました。また、コト霊といふコトバから、日本人が古来(仏教伝来以前から)山川草木悉皆成仏という感覚を持っていたことが分かりました。(コトには行為も含まれますから、山川草木よりももっと広いですね。)

私は、コト(事)を言に結び付けているのは 語感 だと思っています。
そして、日本語は、特に、語感に忠実な言葉ですので、語感から日本語、そして、日本文化を読み解くことができるのではないかと思います。

先生のお話から、言語哲学といふ言葉を初めて知りました。大変面白そうです。
ちなみに、語感から見ますと「心(ココロ)」、「霊(タマ)」は共に丸いイメージで、「ココロ」は重く、内に深くあって、「タマ」は軽く、広がるイメージをもっています。
ある、いる、おる の違いも、a,i,o の語感の違いからも分かります。
あれ、これ、それ、たれ(だれ)の a,k,s,t の距離感の違いも、古代の日本人の感じ方が分かり、言語哲学の対象として面白そうです。

先生のお考えを頂戴し、新しい展開が出来そうです。有難うございました。

拙いながら、私の今までの研究成果は、私個人のウエッブ・サイトに載せています。お時間があればご覧頂き、アドバイスなり頂ければ幸いです。
 語感分析の実例   http://www.gokanbunseki.com
 独りよがりの理論  http://theory.gokanbunseki.com

     東京都荒川区南千住6−37−2−1203
                   増田嗣郎
               メール msiro@kjps.net
             平成21年3月12日

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