新しい言語学

手紙6

   新しい哲学の方向性について 「名前の哲学」を読んで  

      

「名前の哲学」(講談社メチエ)を読んだ。「名前の・・」につられてこの本を読んだ。特に、この本の帯に書かれた「プラトンにはじまる西洋哲学2500年への挑戦!」に惹かれた。そして、結論的にいうと、見事に騙された。そもそも、プラトンの言わんとするところの本質を理解していない。そして、西洋哲学への挑戦が、20世紀と言いながら、前近代的な観念論に止まっている。
冒頭プラトンの「クラテュロス」を取り上げ、「クラテュロスの「言語本性説」が正しいとして、名前と対象のあいだにどんな必然的な関係があるのだろうか。プラトンは「模倣説」という奇妙な考えをもちだす。」と言った上で、プラトンの子音r 、子音d とt の説明に対し「名前をあくまで「真理を語ること」という前提のもとに論じようとすると、こんな極端な見解をとらざるをえなくなる。」と切り捨てている。プラトンは子音r の発声は舌を最も震わせるので、動きを表し、子音d ,t の発音は舌を歯の後ろに強く押し付けるので、束縛と静止を模倣しているのだと言っているのであるが、著者村岡晋一は言葉の音のことが全く分かっていないように思われる。あるいは、言葉の音がそれぞれ異なるイメージをもっていることが感じ取れないのかもしれない。この点、同じ哲学者でも「「ぐずぐず」の理由」を書いた鷲田清一なら、また違った反応があるのではないかと思う。九州帝国大学教授で英語学、音声学の西原忠毅も「音声と意味(SOUND AND SENSE)」の中で「/r/ は運動を暗示し・・」と言っている。
この本の帯に小さく「ドイツ・ユダヤ思想が、世界を別様に輝かせる―」ともあって、読み始めて気付いたのであるが、この本はユダヤ系のドイツ哲学、あるいはユダヤ教、すなわち聖書を前提とした哲学を中心とするもののようであった。ヴァルター・ベンヤミンの言葉「名前において人間の精神的本質は自己を神に伝達する」を引用し、「そもそも人間の言語は神、とりわけ神の言語とどんなかかわりがあるのだろうか。」と言っているが、現代の哲学に神が前提として出てくるのには仰天する。
20世紀から21世紀にかけての科学技術の進歩は著しい。特に、遺伝子、すなわちDNA、そして大脳組織にかかわる人間科学、ならびに、情報・通信技術と科学、すなわちAI 科学技術の進展は目覚しい。当然これら科学技術のもたらす新知識は哲学にも変化をもたらした。ドーキンスの利己的遺伝子論は、無神論に弾みをつけ、個の存在の絶対性にも疑問符を付けるに至った。大脳生理学、AI 技術は、唯脳論を生み、ユヴァル・ノア・ハラリのホモデウス論まで生み出した。「私は「脳」ではない」のマルクス・ガブリエルのようなそれらに対する抵抗もみられるが、結局、精神を持ってこざるを得ないところに限界を感じる。西洋哲学全般にも言えることであるが、ドイツの哲学者であるカブリエルにも神の影が見え隠れしている。
米国の認知科学者スティーブン・スローマンとフィリップ・ファーンバックの「知ってるつもり 無知の科学」には、「集団意識」、「集団知能」、「社会脳」などの新しい概念の提示があり、「思考は集団的行為である」とまで言っている。人間についての新しい見方ではないだろうか。更に、「情動はこうしてつくられる」で心理学・神経科学者のリサ・フェルドマン・バレットは、怒り、悲しみ等の情動も人間が持って生まれる生来のものではなく、人間社会の中で自らが構築していくものだという最新の考え方を紹介している。彼女は、ものの考え方として、旧来のすべてのものには本質という様なものがあるとする「本質主義」から、ものごとの概念は各人がそれぞれ社会的接触から自ら作り上げていくとする「構築主義」への変革は必然だとしている。この考え方は、最新の脳科学から得られた知見に整合するもので、例えば彼女は「生物的領域と文化的領域の境界は穴だらけ(ぐちゃぐちゃということ)」とか、「(人間の脳は)物理的環境や社会的環境に応じて配線され、最終的に多様な心を生み出す」などと言っている。ここでも、人間は一人で人間になるのではなく、社会の中で社会との接触を経て作り上げられると考えられており、人間個人を考える時も人と人との接触、すなわち社会を無視しては考えられないことを示している。この本では「社会的現実」とか「感情的現実主義」などの新しい概念の紹介があるが、例えば、「感情的現実主義」とは「信じているものを実際に経験する現象」だといい、結果、「反証があるにもかかわらず、その人をして何かを信じさせ続ける。無知や悪意のせいではない。脳の配線や働き方の問題なのであり、見るもの信じるものすべてが、(都度)脳の身体予算管理(受け入れ体制のこと)の影響を受けている。」のだという。これは、今世界を騒がせているCo2地球温暖化騒動もそうかもしれないし、某国の反日種族主義もまさにそうだろう。わが国の「戦後民主主義」「一国平和主義」なども、GHQ のWar Gilt Information Program の成果と考えれば、そうかもしれない。人間は、何処でも、いつの時代にも、妄想のもとで右往左往しているのだろう。哲学も、この右往左往する人間の個の内面のみに拘っていても、最早、無意味である。社会の中の人間を全体的に捉える哲学が必要なのではないだろうか。
ところで、そもそも、「名前の哲学」という言い方は比喩的表現で、単に「名前とは本質的に何なのだろう」とう問いなのだろう。そうだとすれば、プラトンの模倣説こそが名前の本来のありかたではないだろうか。ただ、プラトンが言葉の音が意味をもっていると言ってしまったために、この考え方が音義説として否定されてしまったのである。正確には、言葉の音は意味をもっているのではなく、それぞれ色々なイメージをもっているのであって、物事の名前は、そもそもは、その音のイメージの選択的組合せによって作られたと思われ、その残渣は今に残る言葉の数々に見出すことができる。英語についてもそうで、先の西原忠毅の「音と意味」は英単語の音韻とその単語の意味との相関を網羅整理したものである。模倣説は再評価される必要があると思う。ただ、人間の個人の名前は、その人の属する社会によって命名の習慣が異なるので、その習慣そのものは社会学の範疇の研究対象である。なお、与えられた名前の、成長過程での、本人への影響は心理学の問題でもある。
プラトンの模倣説は曲解によって葬られてしまったが、この本にも出てくるサピアとウォーフによる「サピア=ウォーフの仮説」も矮小化され片隅に追いやられた観がある。この説も、言葉の音がそれぞれ異なる多様なイメージをもっており、それを聞く人々が意味と同時に感じ取っていることに気付けば新しい理解の道が開けると思う。なお、「サピア=ウォーフの仮説」、とは「言語が文化を規制する」という説であるが、私は、文化も言語に影響を与えるので、言語と文化は相互に影響を与えあう、とするのが正しいと思う。
今後、若い人たちが、これらの新しい知見、すなわち、人間一人一人は、自分自身で自動的に人間になるのではなく、社会の中でその社会との接触を経て、自分自身を作り上げることが出来ること。そして、言葉には意味だけではなく、それぞれの音の持つイメージがあり、人々は意味だけではなくそれらのイメージも交換し感じ取っていること、などを理解し、哲学、言語学などの人間学の新しい地平を拓いてくれることを期待したい。
    (令和2年2月11日)

   新しい哲学のあり方について「「私」は脳ではない」を読んで  

 ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルの「「私」は脳ではない―21世紀のための精神の哲学」(Ich ist nicht Gehirn—Philosophie des Geistes furdas 21.Jahrhundert)を読んだ。哲学独特の言語表現の乱舞で、ついて行くのに苦労した。そもそもは、「私は脳ではない」という表題を見て、人間の身体性を強調した主張かと思ったが、読み始めてすぐ違うことに気が付いた。唯脳論、すなわち神経中心主義そのものを否定する主張であった。さらに進んで、唯物論をすら否定するものでもあった。
 従って、当然といえば当然であるが、著者のガブリエルは「ホモ・デウス」のユヴァル・ノア・ハラリと「利己的な遺伝子」のリチャード・ドーキンスを論難している。
ハラリに対しては、ハラリはテクノ・イデオロギー信奉者であり、その主張は終末論だと断じている。ガブリエルは、自然科学とテクノロジーを万能と考える自然主義は、この惑星(地球のこと)を破壊する推進力になる、として、人間的なテクノロジーを発展させるために、哲学と精神科学という形式による人間の探究が必要だとしている。ガブリエルは人間の精神というものとその自由を最も重要だと考えており、自然主義に反対する理由として、自然主義は、存在するすべてのものは結局は自然科学的に調べることができる、という前提にたっており、そこには唯物論は正しいという暗黙の了解がある、としている。そして、「それでは、なぜ自然法則に従う物質粒子が意識をもつ生命体を生み出せるのか分からず、結局このようなやり方では、人間の精神は決して理解できません」と言っている。さらに、「非物質的現実が存在し、このことをあまり性急に無視すると、宗教を最初から一種の迷信か怪談のように考えてしまい、そのため結局は宗教を理解できなくなってしまいます」とまで言っている。これでは、まるで宗教が前提となってしまっているのではないだろうか。
この流れで世界宗教撲滅運動を進めるリチャード・ドーキンスを次のように切って捨てている。
「ドーキンスが時代錯誤をして過去に投影している自然の概念などまったく持ち合せていない聖書の「創世記」の作者が、どうやって神は超自然的創造主であるという考えに思い至ったというのでしょう? 自然の出来事について自然科学的説明と超自然的説明を対置させるという時代錯誤は、ドーキンス率いる歴史がよく分かっていないネオ無神論でよく見受けられるものです。」
私は、むしろ自然現象の本質がまだよく分かっていない時代の人々が、人間を含めたこの世のすべてのものを神が作ったとしてしまうのは一つの素直な発想であったと思う。非常に厳しい環境に置かれた人々が自分自身を納得させる方法としては非常に優れた工夫であったと思う。
しかし、ガブリエルはさらに、「このような非常に単純な宗教批判モデルは、数百年前からありました。しかし、歴史や史料の正当性、妥当性をよく吟味する姿勢、すなわち学問的神学や宗教学が長く採用してきた観点からすれば、宗教とはドーキンスが想像したようなものであるはずだ、というのは、そもそも根拠のない恣意的な信念にすぎません。」と言っている。ここから分かるように、ガブリエルの言う歴史は学問的神学や宗教学上の歴史であって、これらの議論も宗教あってが前提の議論となっている。
ガブリエルは、存在するすべてのものは結局は自然科学的に調べることができない、さらに非物質的現実が存在する、として自然主義を否定し、なぜ自然法則に従う物質粒子が意識をもつ生命体を生み出せるのか、が分からないとして、唯物論を否定し、そこに、精神、あるいは意識を持ってきているが、これでは旧来の二元論ではないだろうか。ガブリエルの方が時代錯誤なのではないか。確かに自然科学で全てを調べつくすことは出来ない。しかし、自然科学の進歩とともにいろいろな事が明らかになってきた。脳における意識の発生のメカニズムもやがて解明されるだろう。ところで、なぜ引力が発生するのか、解っているのだろうか。その法則性はよく分かっている。しかし、その究極の原因が解っているのだろうか。脳と意識については、その法則性は間もなく解明されるだろう。今分からいからといって、自然を超越したものを持ってくるのは、便法ではあるが、逃げではないか。宗教に拘るのもその流れではないだろうか。
ガブリエルは、「人間の精神は純粋に生物学的現象ではない」とか、「哲学は伝統的に、精神を意識的体験といった類いの主観的現象とは、まったく考えません」とも言っており、精神を祀り上げ、一種神格化しているように見える。これでは、哲学を倫理学か宗教の一種に貶めてしまうのではないだろうか。
さらに、「脳について、脳には意図もありません。意図があるのは人間だけで、その身体には、その人の脳よりはるかに多くのものが属しています」とも言っている。これは正しい。唯脳論は間違いである。ただ、脳が意識において主要な働きをしていることを軽視しているのではないか、さらに、「脳は、ある自然環境に存在し、必要に応じてその環境に反応できる複雑な有機体の中で、情報処理という特定の機能を果たしているのです」と言っているが、これも正しい。ただ、情報処理の中に意識の発生がありうることが理解できていないようである。
私がものを見ているとき、私の脳内では、網膜に入ってきたその外部情報が神経インパルスに変換され数次の視覚野での処理を経て視覚連合野に達する。その結果、私にはありありとものが見えるのである。私の脳内にスクリーンがあるわけではない。ホモンクルスがいるわけでもない。しかし、私にはありありと見えている。ここには精神というような高度なものも必要ではない。まさに、このものが見えているということは一種の意識現象ではないだろうか。脳内の情報処理の過程で意識が発生しているのである。その他の情報処理で、また違った意識が発生してもおかしくはない。より高度な意識、すなわち精神も脳内神経網の活性化の結果と考えてもおかしくない。ただ、脳は、脳だけで存在するのではない。身体の一部として存在しうるのである。身体のない脳は、もはや脳ではない。唯脳論は誤りである。ハラリも間違いである。
なお、人間の大脳の神経細胞の数は140億程度と言われている。そして、それぞれの細胞が数百とも言われる多くのシナプスを持ち、他の細胞と相互に繋がり膨大なネットワークを形成している。繋がりだけをカウントしても、140億×数百 であるから数十兆単位となる。このネットワークの一部の活性化で意識現象が起こっても不思議ではない。このネットワークの形成には自己組織化的な力が働き、より複合的な、そしてより複雑な意識が発生するように進化してきたのではないか。見えているというような感覚的な意識から、感情的な意識、そして思考ともいえる意識へ進化してきたのではないだろうか。精神と言われるものも、この感情としての意識と思考としての意識の相互作用の止揚として生まれ出たのではないだろうか。「量が質を変える」とも言われる。
ガブリエルが、「自分のことを、強い欲望に駆られ、実のところ自分の遺伝子を次世代に引き継ぐことしか頭にないバイオマシンであると理解する真っ当な理由があるのでしょうか?」とも言っている。「精神の自由がないから」とも言っているが、それでは宗教的イデオロギーになってしまうのではないか。マシンという言い方はきついが、私は、ドーキンスのこの考え方は納得できる。
精神の自由に執着するのは、「個」の自主性に拘りたいからであろうが、進化上、意識の発生、そして自意識の発生は、たまたまの副産物ではないか。それも人類が誕生して以降のことに過ぎない。たまたまとは突然変異ゆえのことであり、突然変異は多様性の一局面であり、多様性は自由であることの結果である。生命の誕生、そして生命体の進化は多様性、すなわち自由の結果なのである。それゆえに、生命にとって自由は本質的なものである。自由を精神にのみ求めるような瑣末なものではない。自由は人間存在の本質に関わるものである。
ドーキンスの説に従えば、「個」よりも種の子孫の存続の方が大切ということになる。この視点がハラリにもガブリエルにも欠けている。哲学は、古色蒼然とした精神などを持ち出すのではなく、「個」を脱皮し人間としての人類全体という視点に立つ必要があるのではないか。この点、「知ってるつもり 無知の科学」(THE KNOWLEDGE ILLUSION—Why We Never Think Alone)のスティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバックはより進んでいると思う。スローマンとファーンバックは「社会脳」、あるいは「集団的知能」という考え方を提唱しているが、この考え方は、一つの社会を構成する成員一人一人が全ての知識を持っているのではなく、一人一人の持つ異なった知識の総体が「集団的知能」で、この全体的知能の恩恵に各人一人一人が浴しているというものである。一人一人が全てを知っていなくとも、概略さえ掴んでいれば、知っていることと同じく、この社会での生活を全うできる。知識の共有で社会が成り立つと同時に「個」も成り立つということである。そして、さらに知識の共有は意識の共有に繋がる。最早、人間は一人では人間ではありえなくなっているのである。
ちなみに、偏った教育(知識)が偏った社会潮流・大衆運動(意識)に繋がる事例は今も世界に散見される(このことは大問題なので、その意味でも、新しい哲学の構築が急がれる)。
スローマンとファーンバックは横の繋がりに着眼した。ドーキンスはDNAを介した祖先から子孫への縦の繋がりに着目した。「人間」というものを考える時、この縦と横とを統合した全体的視点で「人間」というものを捉えなければならないのではないだろうか。
「個」の意識は進化上のたまたまの副産物である。そろそろ「個」を卒業して、「人間」という地平に立たねばならないのではないか。なお、「人類」というと「個」の全体というイメージを惹起する。したがって、哲学は、これらの一段上の「人間」という立ち位置に立たねばならない。

哲学は、今の世界で絶対の真理のごとく奉られる「人権」というものにも、根本的にメスを入れる必要がある。「人権絶対」の思想はイデオロギーではないか、一種のドグマではないか。哲学は、「人間」という立場で、これに冷静なメスを入れる段階に来ているのではないだろうか。何事もアンタッチャブルにしてはいけない。
ガブリエルは、「自己意識は社会という文脈の中に埋め込まれていますが、脳のプロセスの場合、社会的文脈はない・・。内部で情報処理が起こるだけなのです。真に社会的な相互関係はさまざまな人間が関わりますが、彼らがまとめて私の脳に現れることはありません」とも言っており、脳の活動を非常に表層的にしか見ていない、あるいは見れていない。ガブリエルにはスローマン、ファーンバックの「社会脳」という見方が完全に欠落している。スローマン、ファーンバックは「社会脳仮設」として、「脳の大きさと社会集団の大きさには密接な関係がある」と言っており、これは、古代の人々の脳の大きさと集団の大きさとを現代人のそれぞれと比較した最新科学の成果である。人々の脳が大きくなった結果、人々はより大きな集団(社会)を作れるようになったのである。地球人の脳は、いわゆる民族人、種族人の脳よりも大きくなる必要があるのかもしれない。
私が最もガブリエルに違和感を持つのは、ガブリエルが公然と「自然主義」に反対し「反自然主義」を公言している点である。もちろん、反自然主義といっても自然そのものを否定しようというものではなく、自然科学に対してではあるが、言葉の端々に自然そのものに対する畏敬の念の欠如が、日本人である私には感じられる。もっとも、自然を自分の外に対置し、客観的に対決しようとする姿勢は欧米の学者に顕著に見られるが、これも大きな問題である。

これからの哲学は、人間の哲学でなければならない。人間は知能だけではなく、感情を持った生き物である。デカルトの「Cogito ergo sum.」(I think, therefore I am.)は知の行為である。情は入っていない。日本語の「思う」にはやや情的なもの、すなわち知だけではないニュアンスが感じられるが、「think」にはそれはない。「think」は‘なぜ’の理由を要求する。西洋の哲学は知に徹しようとする。情的なものを極力排除しようとする。これでは人間の哲学ではない。人間は知と情の存在である。そして、情がむしろ根源的である。情を捨て知のみを追求する哲学は片端の哲学である。哲学は論理を弄ぶ知的遊戯になってはいけない。本来の哲学は人間の本来的な有り方を問うものでなければならない。個々の人間のあり方を通して人間というものの有り方を問うものでなければならない。個々の人間の集合としてではなく、個を超越して、人間の本来のあり方を問わねばならない。今の哲学は「我(われ)」に拘り過ぎである。我の心の底にある、あるいは我の奥にある人間のあり方を見なければならない。この人間のあり方を社会として見た場合が社会学で、自分自身のあり方として見たのが哲学(狭い意味での)であろう。

社会体制のあり方、民主主義がいいのか社会主義がいいのか。自由主義がいいのか全体主義がいいのかは、社会学の問題ではあるが、「個」のあり方としての哲学をベースにしたものでなければならない。したがって、基本的人権問題、男女平等問題は哲学の問題として考えなければならない。少子化問題も社会の問題というよりも、哲学の問題だろう。
今世界で躍進著しい中国は基本的には社会主義、そして全体主義の国家である。それが対外貿易、経済面で一部自由主義を取り入れている。そして近時、覇権主義の本質が顕わになりつつある。しかし、一方、科学技術、システム・イノベイションの進化も著しい。一つの社会実験ではあるが、人類のあり方としてどうなのか、人間の哲学として考えてみる必要がある。多様性の一つのチャレンジかもしれないし、一時のあだ花的社会的退歩かもしれない。ウイグル問題をはじめとした人権問題も個の人間の問題ではなく人類の問題として考える必要がある。

ガブリエルは、精神の自由にからんで、目的とか意図とかの言い方をよくしているが、この宇宙、この世界が存在するためには、何かその目的、意図がなければならないのだろうか。人間一人ひとりが、それぞれ自分の生きていく目的がなければならないのだろうか。生きているのだから精一杯生きる、ではダメなのだろうか。この世界もアルからアルではいけないのか。
この宇宙の究極の存在理由は解る筈がない。
それを、何らかの目的をでっち上げるのは、安心のための方法とはいえ、人間の不遜、人間の知の驕りではないだろうか。人間が、たまたま進化の副産物として意識を得、知を獲得したことの必然の副作用ではないだろうか。
いつの時代も、どこの社会でも、これからも、個人にとって分からないこと、不条理に思われることは存在する。その不安、不満を中和するために神を持ってくることは、便法として非常に有効であったし、これからも有効であろう。ただ、絶対神を戴く一神教は副作用も大きく、また中毒性もあり、これからの世界の、人類の、そして人間の大問題になってくるのではないだろうか。

新しい哲学の入口として、「我思う、ゆえに我あり」に代わる言葉としては、日本語なら「生きてて良かった」ではないか。個人の人生の目的に代わるものは「生きがい」ではないか。都度都度の「生きがい」は「働き甲斐」「やり甲斐」、そして「死に甲斐」にもなり得る。この「死に甲斐」、英語にはならないと思う。英語なら犠牲というニュアンスが強いだろう。日本人にとっては、自己実現的ニュアンスがある。欧米思想はその意味でも一神教に縛られ、「個」に囚われているのだと思う。「死に甲斐」に関して、ISISのジハードを太平洋戦争時の神風特攻隊に擬える向きがあるが、この二つは本質的に異なるものである。当然、文化の違いではあるが、ジハードは自分が天国へ行ける代償としての自爆であるが、特攻は、父母のため、兄弟のため、同胞のため、国のためであって、自分のためではない。靖国で会おうというのは、靖国という天国があるのではなく、また、靖国へ行くのが目的でもない。自分たちは死んでも一人ぼっちではないという確認に過ぎない。あくまで自分のためではなく、ちちははの、兄弟姉妹の、はらからの安寧のためである。その意味で、日本文化において、「死に甲斐」は「生き甲斐」でもあるのである。
日本文化における「個」のあり方は欧米文化における「個」のあり方と根本的に異なる。それは日常の日本語の使い方にも現われている。日本語の日常会話では、英語のI 、そして、you にあたる言葉を使うことを極力避ける。特に、主語として使うのを避けようとする。英語のI, そしてyou に当たる日本語はたくさんある。I に当たる日本語としては、代表的なものだけでも、僕、わたし、俺、わたくし、うち、がある。You に当たる日本語としては、あなた、お前、君、あんた、がある。しかし、日常生活で、「僕は・・」、「私は・・」というように主語として使われることはまずない。言う方も聞く方にも自己を主張しているように感じられるからである。時に「僕、いらない」、「私が行く」のような言い方をする。これらはいずれも自己の主張ではなく、むしろ自己が犠牲になるというようなニュアンスで自己主張の逆である。「僕、いらない」の‘僕’が主語であるかは疑問である。主格の助詞‘は’が省略されているわけではない。「僕はいらない」となると、やはり自己主張になってしまう。それを嫌って「僕、いらない」と言っているのである。僕についてはというような消極的な言い方で、自己主張の逆である。
「太郎、お前、行くか?」と言った場合、‘太郎’も‘お前’も主語ではない。主語として、「太郎、お前は行くか?」と言った場合、相手太郎を‘お前は’と言って自分と切り離したようなニュアンスが出る。そのため、通常、親子間、友人の間でこの様な言い方を避けるが、親が子を叱る場合は、「太郎、お前が悪い」と、むしろ突き放すような意味合いで、あえて主語として使う。
「先生、おはようございます」「先生、明日学校へいらっしゃいますか」と言った時の「先生」は主語ではない。呼びかけに近い。「先生は明日学校へ来られますか?」と先生ご本人に言った場合、この「先生」は主語である。しかし、この場合、「先生」の代わりに「あなた」、「お前」などの人称代名詞を使うことはない。この「先生」は「私の先生」という意味合いで使っている。父母をはじめ親しい人に対しても同じような使い方をする。「お父さん」、「お母さん」というのは「私のお父さん」、「私のお母さん」という意味が込められている。「お兄ちゃん」、「お姉ちゃん」、「おじいちゃん」、「おばあちゃん」も同じで、むしろ関係性を確認、あるいは強調するために使われるのである。英語での「My dear friend」の「my dear」とも少し異なる。「my dear」の場合、「my」で自己がしっかり立って、相手に対しいるが、日本語の場合は相手が中心で自分が繋がっているというニュアンスが強い。「おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃん」とか「ねえねえ、おばあちゃん」などと子供が甘えるのは、自分との繋がりを確認、あるいは味わっているのである。なお、本当の意味での「甘え」に相当する英語はない。
親が子供に話しかける時、人称代名詞を使うことはまずない。その子の名前を使う。「花子、学校へ行く時間だよ」と。祖父母は「花子ちゃん、大きくなったね」とか、「太郎君、がばってるか」とか、‘ちゃん’、‘君’を付けて使う。人称代名詞ではよそよそしいのである。よそよそしいとは、互いの繋がりが感じられないのである。日本人は互いの繋がりを感じ合いながら生きている。安土桃山時代、南蛮渡来のイエズス会宣教師が地元人々に「イエス様の有り難い教えを信じて自分が天国に行けても、死んだ祖父や祖母がそこへ行けないのなら、自分だけがそこへ行くわけにはいかない」と言われて返答に窮したという記録もある。欧米人は本来持っていたこの繋がり感を一神教によって断ち切られてしまったのかもしれない。一神教は理屈の宗教である。その意味、知の宗教である。しかし、屁理屈の宗教でもある。
欧米人は知を重んじ、情を軽視する傾向にある。むしろ情を否定的に考えている。不自然である。ガブリエルのこの反自然主義的な主張にはさらに宗教的なものさえ感じる。ユヴァル・ノア・ハラリの唯脳論的考え方にも情に対する評価が完全に欠落している。
この知偏重ゆえに一神教に陥ってしまったのか、一神教ゆえに知偏重になってしまったのか、両方があるのではないだろうか。いづれにしても、そろそろ目を覚ますべきだと思う。
欧米の極端な人権思想(個人の人権)、男女平等論(絶対的平等)は不自然であり、すでにドグマに陥ってしまっているのではないだろうか。
そもそも男と女は生理的に違う。男と女は人間として本質的には同じである、という言い方は旧来の本質論的考え方(essentialism)である。男と女は生物として、役割を分担している。役割分担をしている、あるいは役割を分担しうるということは、生物として機能が違うということである。従って、人間としての男と女の平等には制約がある。生理的な制約である。この生物としての生理的制約を無視した男女の絶対的平等論は間違いである。そもそも不自然である。おしなべて文明先進国で出生率が低下しているのも、その一因はこの不自然で間違った考え方、あるいはこの間違った考え方に基づく行政施策、社会慣行にあるのではないだろうか。現下の韓国の出生率の低下は民族的ストレスによるものとも思われるが、それに次ぐ我が国の出生率の低下は、男らしさ、女らしさは悪いとする誤った戦後教育によるものと思われる。生物として、男は男らしく、女は女らしくあるべきであるが、誤った過度の男女平等論が男女差否定論にまでなってしまい、男らしさ、女らしさが幼稚、あるいは野蛮なことででもあるかの風潮が社会をおおってしまい、結果、男は去勢され、女は男らしくなってしまった。そして、結婚しない、結婚しても子供を作らない、子供が出来ない、ということになってしまったのではないだろうか。
元来、日本は女卑の国ではない。むしろ女尊の国である。国の始まりは天照大神。女性である。卑弥呼も女性である。世界最古の長編恋愛小説を書いたのは紫式部。女性である。清少納言も女性である。万葉集にも女性の作品が多く搭載されている。決して男尊女卑ではなかった。現代でも「カカァ天下」という言葉は生きている。これは家庭内では奥さんが実権を握っているという意味で、欧米の「Lady First」とは違う。むしろ、真逆である。Lady がFirst でないから、「Lady First」というルールを作ったのである。男尊女卑だから、「Lady First」という形を作ったのである。本当に女尊かは別問題である。
本来女尊である国に形式としての男女平等を強制すると行き過ぎが生じる。それが我が国の現状である。
男は男らしく、女は女らしくあるべきである。男には男らしさを発揮できる場所があり、女には女らしさを発揮できる場所がある。男には男の役割があり、女には女の役割がある。男と女は分業すればいいのである。お互いに補い合えばいいのである(「古事記」にもあるが)。社会的分業は文明発展の一歩であった。男女の分業も何も寝室内だけのことではない。社会にあっても、男女の分業は有用であり、有効である。男尊女卑の国の画一的男女平等論を本来女尊の国に強制するのは間違っている。

日本の文化と欧米の文化は異なる。どちらが優れているかという問題ではない。それぞれ長所もあり短所もある。いずれかに統一すべきという問題でもない。双方がそれぞれの良さを取り入ればよいのである。
日本文化と欧米文化の違いは何か。根本的な違いが三つある。まず、自然に対する態度の違いである。自然と繋がっていると感じているか、自然とは対決すべきものと考えているかの違いである。次に、人間の在り方として、情を大切に思うか、知を最重要と考えるかである。そして、三つ目は、ものごとの在り方を連続(アナログ)した変化しうるものとして捉えるか、それぞれ独立した個別(デジタル)の本質的なものとして捉えるかである。この三つの違いは互いに関連しており、いずれが原初的なものかは断定できない。(なお、リサ・フェルドマン・バレットの「情動はこうしてつくられる」(HOW EMOTIONS ARE MADE)によると、物事の見方が本質主義から構成主義(constructionism)に変わりつつあるという。デジタル的見方からアナログ的見方へ変わりつつあるということである。もちろん、学問の世界の話ではあるが)。
日本文化では、人々は自分も自然の一部で、自然の中で生かされていると感じている。日本人は、日本語の特殊性もあって、草むらの虫の音も声として聴くことができる。時には風の音にも声を聞き取ることがある。欧米人は虫の音を雑音としてしか聞けない。彼らの欧米語が子音が中心であるのに対し、日本語は母音が中心であるが、母音は連続して発声することのできる自然音で、虫の声はこの母音に近い。逆に言えば、子音は不連続(デジタル)で、人工的、すなわち不自然なのである。なぜ、このような母音を日本語は残し、欧米語は捨てたのか。欧米人が知を重視し、論理を重視し、ものごとの白黒をはっきりさせることを志向したからではあるが、欧米語を使うことによって、この自然対決、論理重視、デジタル思考の傾向がますます強まった面もある。
人間の脳は、本能を司る古い部分に情緒を扱う部分が、そして、さらにその上に知性を司る部位が覆いかぶさるように進化してきたが、欧米文化はこの新しい知の部分を人間の特質として最重視するが、日本文化は生物としてより本源的な情の部分を信頼する傾向にある。
理詰めの論理を重ねた結果、欧米文化は個の存在を絶対と考えるようになり人権思想を先鋭化してきた。しかし、ドーキンスの世代を越えて繋がる遺伝子、そして、スローマン、ファーンバックの言う横に繋がる社会脳の考え方が出てきて、人間を個のみと考える考え方から、縦横の繋がりとして考える考え方も理解できる段階に近づいて来たのではないだろうか。元来の日本人の感じ方はこれに近い。
日本人は日常生活においても自然であることをよしとし、不自然であることを極力避けようとする。また、物事に白黒をつける二者択一的考え方を幼稚と感じ、ほどほどの中庸を志向する傾向が強い。日常会話で、自己を主張することは勿論、相手を切り離し突き放すことを躊躇する。大半の日本人は特定の神を信じているわけではないが、折々に神社に参拝し、お寺に詣でる。山に、岩に、滝に、大木に、神聖なものを感じ、死すれば土に帰ると感じている。人間、歳降ると我欲にまみれ汚れると感じ、幼子の無垢な心を愛でたりもする。穢れを払い、身を清めることにやすらぎを感じるのは、高温多湿の気候風土の特性故もあるが、日本人の最終的な心情である。(幼子をより自然、そして、身に何も着けない裸をより自然、と感じるのが日本人の感性である)。
新しい哲学は、個を超越して、人間そのもののあり方を問うものでなければならない。
新しい哲学は、このような日本的考え方を足掛かりとして、見出されるのではないだろうか。
新しい哲学を構築する、という言い方もある。しかし、構築するとは人為的で、人間の驕りが感じられる。自然の中にあるものを努力して見出すというのが日本人的感性である。
   (令和元年12月25日)

   ときめき = SPARK JOY  まさに名訳  

近藤麻理恵さんが米国タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」の一人に選ばれた。
お片づけコンサルタント近藤麻理恵さんの著書「人生がときめく片づけの魔法」が英訳され、ニューヨークを中心に全米で大ヒットしたのだという。
たかがお片づけ、それがなぜ米国で受けたのか。
英訳本のサブタイトルが「The Japanese Art of Decluttering and Organizing」。
日本精神といえば大袈裟だが、日本的ものの考え方が米国の女性の琴線に触れたのだという。逆説的だが、ものを大切に思う心がものを捨てる踏ん切りをつけさせたようだ。
片づけなければならないものを一つ一つ手にとってときめくかどうか、ときめきを感じれば残し、ときめきを感じなくなったものは、感謝を込めて有難うと言って捨てる。ただそれだけだが、この中に日本人ならではの感性が生きている。
日本人は、使い古したお人形の供養は勿論、針供養、お世話になった道具の供養までする。先祖代々、ものにも魂が宿っていると感じてきたのである。日本人は自然との距離が近い。むしろ、自分も自然の一部と感じている。だから、ものも仲間なのである。
一方、欧米人にとっては、自然は自分の外、むしろ対決する対象である。ものに魂があるなどと考えるのは邪教であり、未開の考え方だと思っている。したがって、ものは使い捨てで当然だと思っている。しかし、ものを捨てることに、心ある女性は心の片隅に何か引っかかるものがあったのだろう。そこに、感謝を込めて有難うと言いながら捨てなさいと言われると踏ん切りがつきやすくなるのだろう。
また、ときめきを判断の基準にするのも分かりやすい。
ところで、ときめきの英語訳は何か。和英辞書をひくと、a throb, a palpitation とでる。鼓動、動悸のことである。単に表面的な現象を言っているにすぎない。心の現象として捉えた spark joy は意訳かもしれないが名訳である。これもヒットの要因だろう。
日本語のときめきも比較的新しく出来た表現である。胸の鼓動を表すオノマトペ‘トキトキ’から出来た言葉であろう(胸のときめきとは関係のない‘時めく’という表現もある)。‘トキトキ’が濁音化して‘ドキドキ’が出来、時を刻むことから‘時(刻)’という言葉も出来たという有力な仮説もある。
時を刻む表現として‘チクタク(tick-tack)’がある。数少ない英語のオノマトペの一つである。この‘チクタク’と‘トキトキ’に共通点がある。音で表現すると‘TiKu-TaKu’と‘ToKi-ToKi’となり、子音/T/と/K/を使っていることである。なお、母音/u/終わりの/Ku/で終わる‘チクタク’は動き、すなわち進行の、そして、母音/i/終わりの/Ki/で終わる‘トキトキ’はキレ、すなわち刻みのイメージを強く感じさせる。
なお、漢語‘動悸’とオノマトペ‘ドキドキ’の関係がよく分からない。漢語‘動悸’の日本語読みから‘ドキドキ’が出来たとすれば余りにも出来過ぎの様な気がする。‘ドキドキ’が擬態語としてまさにそのように感じるからである。当時の中国でも‘動悸’を‘ドウキ’に近い音で読んでいたのだろうか。そうなると漢語‘動悸’はどのように生まれたのか。音からだろうか。当時は中国でも語感を感じる人がたくさんいたということだろうか。十分ありうることではある。

   「日本の感性が世界を変える」を読んで  

最近、すばらしい本に出合った。
「日本の感性が世界を変える」という本である。
表題はまがまがしいが、中身は物事の本質を突いたすばらしい本である。
著者は我が国言語学界の大御所鈴木孝夫。
言語学者ではあるが、言語学をはるかに超えた広い見地から、われわれホモサピエンスの今の在り方に警鐘を鳴らす警世の書である。
鈴木は言う、
近代に入っての人間の自然環境の破壊ははなはだしい。
人間が農耕を始めたことによる森林の伐採に加えて、自然改造と称しての大規模河川の改築、そして、近代工業化に伴う石炭、石油、天然ガスの大量消費によるCo2の大量放出。
例えば、アメリカ大陸における、過度の乱獲によるバッファローの絶滅、DDTの大規模散布によるアメリカ駒鳥(ロビン)や白頭鷲が絶滅に瀕していること、などなど。
そして、これらの自然環境破壊、そして自然生態系の破壊は今なお続いている。
これらの自然破壊によって、われわれの住む地球の住環境は急激に蝕まれつつある。
一方、われわれ人類の人口は今や70億。やがて100億に達するのも近い。
このまま自然破壊が進み、人口が増加し続け・・・
このまま事態が進めば、われわれホモサピエンスの存続自体不可能になる。
では、どうしてそうなったのか。また、どうすればよいのか。
鈴木は言う、
西欧文明が、理性と論理を極端に重視し、人間中心主義(または人間至上主義)だからだと。
そして、西欧型の近現代人は人間の幸福と繁栄のみを目指したからだと。
この危機を回避するためには、西欧キリスト教的世界観とは対極のアニミズム的で汎神論的世界観が今改めて世界的に見直されるべきだと。
さらに鈴木は言う、
この古代的な世界観、すなわちアニミズム的で汎神論的世界観を日本という国がまだ失わずにかろうじて保持しているので、この日本文化と日本語を世界に広めるべきだと。
私も、全くその通りだと思う。
この論考の中で、この人類の危機の本質的原因として、人類が本能の代わりに文化と言語を使って繁栄してきたことを指摘しているが、これは正に正鵠を射た慧眼だと思う。
かって人類発祥の地といわれるアフリカを出て日照の少ない北へ向かった人々は、自然環境に適応すべく肌の色を黒から白、あるいは黄色に変えた。自然環境によって、鼻の高さも変えた。足の長さも変えた。人種によって腸の長さも違うという。
かっては人類も自然環境に適応して自らの肉体を変えてきたのである。
しかし、火を使うことを覚え、衣服を作り寒さを防ぐことを覚え、すなわち文化を得ることによって、今や人類は本能によらず、すなわち自らの肉体を変えることなく、どのような環境にも住めるようになった。肌の黒い人も寒冷の地に住んでいるし、肌の白い人も熱帯地域に住んでいる。文化の力によって人類はいかなる自然環境にも適応できるようになったのである。
ただ、これが悲劇の始まりでもあると私は思う。
二足歩行を始め大きな脳を手に入れた人間は、知と言葉を得て文明を発展させた。
そして、西欧文明は個を発明した。個の観念は生物には存在しない。人間の創造である。知ゆえの発明である。あらゆる生物の中で個の存続を種の存続よりも優先させるのは人間だけであると言う。
知に拘り、個を偏愛した西欧文明は哲学を得るとともに一神教に囚われた。
知を偏愛し、本能を軽視し、情を蔑ろにすることは、人間を人間でなくすることである。
個人主義を追求することは、全体を捨て、すべてとの繋がりを断ち切ることである。
情を持つ人間は知だけでは耐えられない。繋がりを失くした人間は絶対孤独には耐えられない。
かくして人々は絶対者に救いを求めた。この行為は情の行為である。知を至上のものとし情を捨てた挙句、情の行為に走らざるを得なかったのである。
この絶対矛盾を西欧文明は知の論理で取り繕うとしてきた。しかし、今やその矛盾は隠し遂せなくなってきた。一神教は本質的に他者を認めない。共存を許せない。それが一神教の一神たる所以である。
地理的条件ゆえか、幸い日本語は知と情のバランスを失わずにこられた。そして、極端な個人主義の病にも侵されなかった。日本文明は一神教を必要とはしなかった。
西欧文明と日本文明は本質的に異なる文明である。日本は近代化によって西欧文明を大量に取り入れた。しかし、それは表面だけのことであって、日本人のものの考え方の本質はほとんど変わってはいない。近代化によって日本語の本質が変わったわけではない。
この日本語を世界に広めるべきだと鈴木は言う。
日本語にはタタミゼ効果があるのだと言う。タタミゼ効果とは、日本語で話していると柔らかい人になるのだと言う。日本語には「私」という言葉が必ずしも必要ではないので、日本語の中では状況全体がざっくりあって、全体の中に何となくいることが、ふぁーとして心地よいのだ、と或るフランス人も言っているのだそうである。
この日本文化と日本語の同化の力が何によるものなのか、鈴木はまだ正確な分析をしたわけではないが、現代の日本に根強く残る自然との融和性や共生的世界観、そして日本語自体に秘められている感性的なユニークさが、外国人をしておのずから日本化させてしまうのだ、と言っている。
私は、実は、ここの処が大切だと考えており、日本語学の権威でもある鈴木孝夫の考えを聞きたいと思っていたので、この点やや期待はずれではあった。
日本語に秘められている感性的ユニークさとは具体的にどうゆうことなのか。
根強く残る自然との融和性や共生的世界観と日本語との関係はどうなっているのか。
タタミゼ効果はなぜ起きるのか。
「私」と言わないことが、なぜ、ふあーとして心地よいのか。
これらは言語学の解くべき課題である。特に日本語学の大きな使命である。
  (平成26年11月21日)

   「日本の感性が世界を変える」を読んで(2)  

  母音文化と子音文化(日本文化の特異性)  

 
日本人に自然との融和性や共生的世界観が残っているのはなぜか。
それは、日本語の中心に母音が残っているからである。
日本語の言葉の要素・拍は(子音+母音)であるが、母音がベースである。一方、西欧語には子音も母音もシラブルには含まれているが、子音が中心と言われている。西欧語の中でも比較的古いと思われるイタリア語、スペイン語は開音節語といわれ、母音で終わる単語も多いが、英語は開音節語ではない。

日本語は母音言語であり、日本文化は母音文化である。
西欧言語は子音言語であり、西欧文化は子音文化である。
言語と文化の関係は、言語は文化の中で生まれ、文化の根底をなすものの考え方は言語の習得を通じて次世代に引き継がれていくという関係にある。すなわち、文化と言語は表裏一体のものである。
自然との融和性や共生的世界観のある文化の中で一つの言語が育まれ、その言語の習得を通じてその文化が次世代へと次々と引き継がれていく。
日本語に母音が残っているのは、日本文化に自然との融和性や共生的世界観が残っているからであり、現在の日本人に自然との融和性や共生的世界観が残っているのは、日本語が母音中心のままであるからである。

母音と子音とは本質的に異なるものである。
日本語では母音と子音は拍としてワンセットとして発音するので、母音、子音の区別を余り意識しないが、発音方法が全く異なり、本質的に異なるものである(拍は基本的には母音がベース)。
母音は、口腔に息を流し、口腔を共鳴させて出す自然音で、連続して発声することができる。舌、唇を使って口腔の形を変えることによって、色々な母音を発音し分けられるが、 一つの母音から他の母音へも連続して変化、発声することができる。
母音は自然音で、連続して発声することができる繋がりのある、すなわちアナログな音である。
子音は、口腔内に障害を作り、喉からの息をそこで破裂させたり、擦ったり、舌を震わせたり、鼻腔へ一部流したりして出す障害音で、人工音である。子音同士は連続して発声できないので、デジタルな音である(母音とは繋がる)。
母音にしろ、子音にしろ、言葉の音を発声するときには、必ず体感が生じる。意識に上らせるかどうかは別にして、意識下では体感が生じている。
唇を破裂させる感覚、舌で弾く感覚、唇をつぼめる感覚、喉を締める感覚、口腔内を大きくする感覚、舌を平らにする感覚、舌と口蓋との接触感、そしてそれらに伴う息の拡散する感覚、息の籠る感覚、息の流れる感覚、さらに息の流れることによる口腔内の粘膜の水気の奪われる冷たさ、あるいは乾いた感じ、鼻腔へ息の籠る感じ、などなど、色々な体感が生じる。いちいち意識はしないにしろ、あるいは意識できないにしろ、意識下、潜在意識の領域では常に感じられている。これがいわゆる音象徴の素である。私はこれを言音感と呼んでいる(従来は語感と呼んでいたが誤解されることが多いので言音感としたい。コトオンカン、あるいは、ゲンオンカン。)。
母音、子音共にそれぞれ異なる発音体感(言音感)をもっている。それぞれ発声方法が異なるので、それに伴い体感(言音感)も異なるのである。
この言音感も母音と子音では本質的に異なる。母音と子音では発声方法が本質的に異なるからである。
アナログな母音の言音感は多義的で、したがって曖昧である。そして自然音であるからやさしく温かい。
デジタルな子音の言音感は、それぞれ特異でありシャープである。そして人工音であるから癖があってやさしくない。
日本語は母音をベースに残しているので、言葉全体として、やさしく感じられる。しかし、曖昧でもある。
西欧語は母音を捨て子音を重視する方向に向かっているので、言葉全体としても切れがあってシャープである。しかし、やさしさは少ない。
では、どうして日本語には母音が中心として残り、西欧語では子音中心に変わってきたのか。
それには、そもそもの言語発祥から考える必要がある。

人間はいつ言語を得たのか。
神が与えたとするのは論外である。それは思考の停止に過ぎない。
人々の間に自然発生したとしか考えられない。
それでは、それはどんな言語だったか。
最初から完全な言語が出来るわけがない。
最初は前言語的な音のかたまりだったろう。
人間も猿の時代から叫びはしていたから、どの段階で叫びではない声を獲得したのか。
われわれ人間の祖先は森を出て直立二足歩行を始めて、手が自由になり、頭・脳も大きくすることが出来るようになり、さらに咽頭が奥に沈下して声道が広がり色々な母音を発声することが出来るようになった。
このような進化の過程で、人間は声を得、言葉を得たのであるが、それが何のためであるかは諸説がある。大きくはコミュニケーションのため説と思考のため説である。
私は、クーイングがきっかけではないかと思っている。それが同時にコミュニケーションにも使われるようになり、思考を形成するのにも役立ったのだと思う。したがって、どれが起源というよりは三つが絡み合いながら人間自体の進化と同時並行的に進化してきたのだと思う。ただ、従来の欧米の学説ではクーイング説が等閑にされている感があるので特に強調しておきたい。
厳密にいえば、クーイングもコミュニケーションの一種ではあるが、従来の言語学ではコミュニケーションを情報の伝達としか考えていないようなので、二つを敢えて分けて考えてみたい。
クーイングとは、赤ん坊が母親に甘えて出す一種の鼻声であるが、母親がそれを真似て出してみたり、大人同士の間でも甘えふざけの表現として出すことがある。この声音は‘クー’に近く、導入の区切りとして子音(/k/)が入るが主体は母音(/u/)である。この段階のクーイングは情報というよりは気持の表現であり、気持の伝達である。
気持とは、主観的なもので曖昧で言葉に言分けし切れない。
曖昧な気持というものを表現するには、同じく多義的で曖昧な自然音である母音が適している。
気持というものと、声すなわち声音と、そして言葉と、いずれが先か。
われわれホモサピエンスの祖先にクロマニオン人がいるが、彼らと同時期にヨーロッパに住んでいたネアンデルタール人はクロマニオン人よりも頑丈な体でクロマニオン人と同じか、むしろ大きな脳を持っていたと思われるが、その後ネアンデルタール人は絶滅し、クロマニオン人は今に生き残った。その理由の一つとして、ネアンデルタール人は顎も頑丈で咽頭が降下せず、したがって声道が広がらず、母音を発声し分けられなかった、その結果、言葉が発達しなかったためとも言われている。しかし、ネアンデルタール人は歌を歌い、死者を埋葬し花を手向けていたとも言われているから、言葉はなかったが気持ちはすでに持っていたことになる。
まず気持があって、次に母音が発声できるようになった。
最初は子音の入り混じった母音だったろう。唸りとあまり変わらなかったかもしれない。
どの段階で声と言えるものになったか。
幾種類かの発音し分けられる、そして聞き分けられる音が出るようになって初めて声と言えるのではないだろうか。
異なる幾種類かの音声を出せるようになる、これが声の始まりであり、言葉の始まりでもあると思う。
ネアンデルタール人は歌は歌えた。鼻歌のようなものだったろう。母音を発音し分けられなかった。ネアンデルタール人とは別の進化の道を歩んだわれわれホモサピエンスの先祖は、直立二足歩行に加え、食べ物を焼いたり似たりして柔らかいものを食べられるようになって、顎も弱くなり咽頭が奥へ降下し声道が広がり、母音を発声し分けられるようになった(結果的に)。
最初は、赤ん坊をあやしながら、幼児を叱りながら、色々な音を出していたのだろう。その内、人々は声の傾向に気付き始めたのだろう。気持は音声の発声の仕方に反映する。
のびのびとしたおおらかな気持ちで音声を出そうとすると、口を大きく開けてやさしく発声するので/ア/的な音になる。もっとも基本的で自然な母音がこの/ア/である。(欠伸の/ア/。日本人が欠伸をする時は、大きく身体を伸ばしながら「アー」というような声を出す。英語では‘yawn’。やはり母音/ア/が中心である。)
叱ったり、注意するために口元に力を入れて強く発声すると/イ/的な音になる。
落ち着かせようとしたり、静かな気持で発声しようとすると、口の中を大きくして、籠るように発声するので/オ/的な音になる。
/u/は唸りにも近く、もっとも原初的な、あるいは内面的・情的な母音だろう。いらいらしたり、うじうじしたりした内面の気持を抑えるように発声すると/ウ/的な音になる。
謙ったり、遠慮気味だったり、少し抑える気持で、舌を下に平らに少し顎を引き気味に発声すると/エ/的な音になる。
いろいろな音が出せるようになって、音声に偏り、すなわち傾向が出るようになったのではないか。強い気持ちの時は/イ/的な音が多く、引き気味の時は/エ/的な音が多いというように。それに気付いた人々は意識的に音声を使い分けるようになったのではないか。
ここで重要なのは、ある気持で発声した音声を聞いた時もその同じ気持を感じられるということである。これは、ある気持で自分が発声したことのある同じ音声を他人から聞いた時もその同じ気持を感じ取れるからである。学習という面もあるが、基本は共感、あるいは共鳴である。ミラー細胞の働きである。

この共鳴が言語活動の原初的基本である(言語場における共振)。
気持と音声を結びつけるのが言音感。この言音感を介して人々は音声から気持を自動的に感じとる。これが共鳴である。言音感を介して共鳴が起こり共感できるのである。
言葉の原初においては、音と気持は結びついていた。音と気持を結びつけているのは発声体感、言音感である。
原初の音声は意味は持っていない。気持を伝えるだけである。気持は漠として曖昧で多義的である。ただ、方向の違いははっきりしている。音声の‘ア’と‘イ’の違いがはっきりしているように、オープンな気持と自己を主張したい気持の違いもはっきりしている。
最初は/ア/的な音、/オ/的な音などで気持を伝えあっていた人々は気持以外のことも伝えようとし始めた。最初は身ぶり手ぶりで伝えていたことも音声で伝えようとし始めた。
例えば、自分を主張するのに自分を指さして相手の注意を引くため‘ア’、‘ア’と言った。相手のことを言うために相手を指さし‘ア’、‘ア’と言った。離れたものを指さして‘ア’、‘ア’と言った。これが一つの言葉の始まりではないだろうか。やがて、‘ア’は‘我(Wa)’となり、‘吾’となり、‘アレ’となった。情報としての言葉の誕生である。言葉の意味の誕生でもある。
言葉の意味とは、概念化であり、他を切り捨て一つに決め付けることである。気持は多義的でアナログであるが、意味はデジタルを指向する。
意味は取り決め、約束事であるが、音との結びつけは、もともとは恣意的になされたものではなく、人々の支持によって決まっていったものであるが、その支持は納得性、すなわち言音感にそぐうかどうかによって決まっていったと思われる。ただ、派生によって多くの言葉が作られるにつれ、言音感から離れていったもの多く出てきた。
言葉は、本来、気持と意味、両方を合わせ持っているのである。アナログでありながらデジタルを指向するのである。矛盾ではある。

ここから言葉はいろいろな方向へ進化する。
その一つが、アナログを嫌いデジタルを指向する、純化の方向である。
これが欧米語が辿った方向である。曖昧なアナログ、すなわち気持を捨て、意味中心のシャープなデジタルに徹しょうとする。結果、母音を軽視し、子音中心の言語になっていった。それに伴い、言音感を感じることをしなくなり、感じることが出来なくなってしまった(しかし、欧米語の単語の中にも言音感を豊富に持っているものもたくさん残っている)。
他方、一部の言葉は、気持を伝えるアナログを残しつつ、デジタルな意味も的確に表現できる道を模索してきた。それが日本語である。
ここで重要なことは、言葉は、意味を獲得する以前に、気持を表し言音感を持っていたことである。そして、一部の言語では今もそれを持っているのである。
それが日本語である。日本語は本来気持を表す言葉であり、日本語には言音感が生きている。

母音がいろいろな母音に分離していく一方、/ア/的な音も、/Wa/,/Ka/,・・と分離していったのではないか。そして、純粋な母音、/ア/なども出来た。
‘ア’と‘Wa’の使い分け、例えば、‘吾’を‘ア’とし、‘我’を‘Wa’とする、ことから子音も出来ていったのだろう。
子音の言音感も発声体感から生まれてくる。
日本語では、母音の発声体感が気持を反映しているのに対し、子音の発声体感は、それを修飾する形となる。言語の始まりに於いては、すべての言語でそうだったのだろう。
子音/k/の発声は、喉の奥を小さく締め、そこを破裂させて息を口腔に流し込むのであるが、この時生ずる発声体感は、言葉であえて言分けすると、固く、覆いかぶさるイメージがあって、切れ、乾燥、軽さが感じられる。覆いかぶさるイメージとは、例えば、‘Ka’と発声する時の口腔の形からくる感覚であるが、ここから回転のイメージも出てくる。面白いことに、英語のカーブ、カール、コーナー、キューブ、さらにコロナ、クラウンなどもこのイメージと繋がりがあるように思われる(どなたか、さらなる研究をお願いしたい。さらに面白いのは、これらの単語の先頭文字がCで、この字の形が口腔の形と同じであることである。他のアルファベットについても発音時の形をイメージしているのではないかと思われるものが多くある。)。
日本語では、これにもっとも自然な状態を表す母音/ア/がついて/Ka/となり、この/カ/の持つ言音感を使っての言葉、固い、軽い、乾いた、微か、そして、これらの言葉の派生形として、咬む、刈る、枯れる、などの言葉が出来てきた。これらの言葉の前段階としてオノマトペ、カタカタ、カチカチ、カラカラ、カサカサ、カスカスなども出来ていたのだろう。
ベースとして意志を表す母音/i/は、言音感として、鋭い直線のイメージを持っているので、/Ki/は、切れのイメージが強く、固く鋭いオノマトペ、キラキラなどに使われる(アルファベットの‘K’の形は切れのイメージをよく表している)。
/K/はその固さと直線のイメージから、‘木’を表すのに使われたが、歴史的には、‘Ko’、‘Ki’、‘Ku’と使われた。‘Ko’は‘木陰’、‘苔’。‘Ki’は‘木’。‘Ku’は‘果物’。‘竹’、‘苔’、‘毛’の‘Ke’も関係があるかもしれない。
唸りにも近い母音/u/のついた/Ku/は、発声時の喉の奥を締めるイメージから、苦しいイメージがあり、/K/本来のカーブのイメージが屈折のイメージとなり、咥えこむイメージともなる。ここからオノマトペ、クネクネ、クラクラ、クタクタ、クチャクチャなどが出来た。/Ku/は、やや鼻にかけ、やわらかく発声すると赤ん坊の甘え声になる。
‘食う(KuU)’もこの咥えこむイメージからではないかと思われるが、食べる際に出る音、クチャクチャからではないかとの説もあり、「クチャネ、クチャネ(食っては寝る)」と言うことから、そうかもしれない(ちなみに、‘吸う’はチューチューからとも)。
母音/e/は日本語の母音の中ではもっとも遅く導入されたと思われるが、それだけにエ行で始まるオノマトペは非常に少ない。/Ke/で始まるオノマトペも少ない。ケラケラ、ケタケタ、ケロッ、ケチョンケチョンなどがあるが、乾いて、薄く、固く、鋭い/K/のイメージに、覆いかぶさる/K/の全体的イメージを/e/で押し下げ平らにする、押し下げられる苦しいイメージなどが感じられる。/K/の有声音/G/がゲーゲー、ゲロ、ゲップなど生理現象を表現するのに使われるが、/G/と共にその無声音/K/も生理に関する音として、日本語では下品に感じられる(連想の効果)。下卑た、けばけばしい、下品などに、それが感じられる(なお、‘下品’という字を卑しいというような意味合いで使うのは日本語独自の使い方である)。(また、吐きそうになる表現として‘えづく’という言葉があるが、これがゲーゲー、ゲロゲロの/e/からきたのか、/e/そのものの発声が喉の奥の下へ引くようするためか、つまり喉に詰まる感じゆえになのか分からない)。
口に籠る、すなわち、まとまり感のある/o/を/K/で覆いかぶさるので、/Ko/にはまとまり感がさらに強く出る、さらに/K/の切れ、薄い、小さいイメージが加わって、カワイさのイメージまで出る。「コロコロっとカワイイ」。コンコン、コチコチ、コトコトなどは、/o/のまとまり感と/K/の固さ、小ささなどを感じさせるオノマトペである。

この様に日本語の音素(母音・子音)、そして拍(子音+母音)は言音感を持つ。
日本語の言葉は、拍を連ねて作られる。一拍のものもある。
拍を連ねた言葉も音感をもつ。それは言音感の連なり、流れである。これを語音感としよう。全ての言葉は語音感を持つ。語音感は言音感の連なりである。
原初の言葉は、言音感を手掛かりに作られた。多分、たまたま。何度も作られては消えていったのではないか。そして、人々に受け入れられ、たまたま残ったものが言葉となっていったのだろう。人々が受け入れたのはその納得性ゆえだろう。言音感的に納得できるかである。
日本語の一つ一つの言葉は言音感の連なりで、言音感による物語のようになっている。
拍そのものの言音感が、〜 的なものが 〜 的な状態にあるというような物語になっている。
言音感はそもそも多義的でクオリア的なので、その連なりと意味との関連は必然ではないが、納得性である。納得性のある言葉ほど後世に残りやすい。
時代と共に言葉は増える。全く新しく増えることもあるが、派生して表現が豊富になる。語尾の活用変化によっても表現は増える。派生は意味連なりで音連なりに増える。しかし言音感が必ずしも一致しているとは限らない。言音感からづれた言葉も出来得る。例えば、オノマトペ‘コロコロ’と動詞‘ころがる、ころがす’は意味的にも言音感的にも近い。しかし‘ころがす’から音連なりに派生して意味的に出来たと思われる‘ころす’は語音感としては必ずしもピッタリではない。ただ、新しい言葉が出来、使われ始めると、音繋がりに意味も繋がっているような錯覚を起こさせる。いわゆる連想である。音繋がりの言葉の意味を連想することによって、その言葉の言音感まで感じてしまうのである(コロッと死ぬという言い方まで出来た)。
語尾の活用変化は約束事である。音が意味と直接繋がるわけではない。しかし、語音感には語尾の言音感も影響する。ただ、熊倉千之の「日本語の深層」によると、語尾の活用変化にも当時の人々の感性が活かされているという(熊倉千之は音象徴の存在を素直に認める数少ない言語学者の一人である)。
このように、言音感の繋がりである言葉の語音感は、その言語特有の文法的約束事や言葉同士の音繋がりによる連想関係によって、その言語特有の語音感となっている。
言音感は基本的に発音体感であるが、その総体である語音感にはその言語独自の慣用的なものが入って来るのである。慣用であるから、恣意的とも取られ、言音感の存在が疑問視される原因にもなっている。したがって、言音感と語音感は峻別して考えなければならない。

他国との交流により他国語も入って来る。日本では、漢字をその概念を音と共に受け入れたが、その際中国音を日本語の音に聞き做して受け入れた。そして、その時、語音感的に合うように聞き做したのではないだろうか(作為的というよりは当然そうなってしまう)。
逆に、聞き做した音の言音感につられて、漢語本来の意味以外のものをくっつけて日本語化したものもある(本来、漢語‘遠慮’には「遠慮する」というような意味合いはない。それは、/e/の持つ言音感、引くイメージから出てきたものと思われる)。
近代に入り、西欧諸国からもいろいろな言葉が入ってきて、日本語として日常会話でもよく使われるが、良く使われる言葉は概して語音感が意味合いとマッチしているものが多い(日本語的に発音して)。

このように日本語は気持を伝えつつ意味も伝えられるように進化してきた。アナログに加えデジタルも表現する道を選んだ。
一方、西欧語はアナログ・気持を曖昧として捨て、デジタル・意味・情報に純化する道を選んだ。これは西欧の・純化思想である。日本の洗練は違う。洗練は純化することではない。練り合わせることである。異なるものを練り合わせ、馴染ませることである。混合ではなく、融合でもない。それぞれの良さを残しつつ、全体として一体としてまとめることである。時間が日本にこれを許した。(英語‘refine’の日本語訳は‘洗練’、日本語‘洗練’の英語訳は‘refine’である。)

日本語には言音感が残り、母音が残った。
西欧語には、ソシュールも言うように、言音感は残っていないのだろう(言語学の第一原理―音と意味との恣意性―)。少なくとも、人々は言音感を感じられなくなってしまっているのだろう。母音は必要ではなく、ますます廃れていくのかもしれない(?)。
西欧語は、情報の伝達に特化する純化の道を選んだ。
西欧のこの純化思想はいつ始まったのか。古代ギリシャのプラトンが「イデアは一つである。」と言ったのはその走りかもしれない。その後の知至上主義がそれを加速化させたのだろう。この知至上主義が、西欧社会に於いて、個の発明に繋がり、今日の個人主義絶対のドグマに陥らせたのだろう。

日本語と西欧語は本質的に異なる。
したがって、それによって次代へと引き継がれてきた日本文化と西欧文化は本質的に異なる。
日本語は、母音の重要度、言音感の保持、活用に於いて、西欧語と本質的に異なるが、その他の面でも大きな違いがある。
言葉を発するスタンスが違う。
クーイングの流れを色濃く残す日本語は、自分の気持を母音を中心に相手の共鳴を前提として伝えようとするので、主観的な表現となる。自分の気持を言葉にすれば、その気持が言音感を介して、相手に伝わるというスタンスである。
日本人、そして日本語に特徴的なのは、この共鳴、あるいは共感に関して、個と個の対立という関係ではなく、自分が相手まで広がる、そして相手も自分まで広がるという感覚があるということである。個として同じ方向を向いているというような感覚ではなく、同じ場で溶けあっているという感覚である。自然についても同じで、自分が自然の中に溶け込み、自然の一部だという感覚である。
これは西欧的感覚とは対照的である。西欧的感覚では、個と個は別々のものであり、人間と自然は対立するものと考えている。この感覚の違いは、母音と子音の違いをまさに反映しているように見える(アナログとデジタル)。
日本語は主観の言語で、自らの主観をただ述べるだけ、そうすれば自分と繋がっている相手にも自分の気持はそのまま伝わるという感覚である。あるいは、場を共有しているという感覚である。例えていえば、温かいお風呂に一緒に入っているという感覚である。
したがって、日本語はその場その場の言語でもある。その場その場での主観をただ述べるだけだからである。
だから、自分が喋っているのだから、‘I’という必要はない。あなたとの共通の場で喋っているのだから、あなたに対しても‘you’という必要がない。そもそも日本人は同じ場にいて、‘I’だ‘you’だと区別したくないのである。そもそも繋がっているものをわざわざ切り離したくはないのである。それが日本文化であり、日本語なのである。
日本語は、基本的に、その場その場の気持を主観的に述べる言語である。
西欧語は違う。まさに正反対であるかごとくに違う。
西欧語は、情報を正確に客観的に相手に伝えようとする。したがって、舞台の上のセリフのように説明的になる。主語も、‘I’も‘you’も必要になる。くどくなるが客観的で正確である。個と個は別々のもの、対立しているものなのである。‘I’と‘you’は別々のもの、むしろ対立しているのである。自然と人間も対立しているのである。

このような日本語と西欧語の違いはなぜ起こったのか。
それは、日本語が今なお原初のクーイング的要素を残し気持を伝える言語として進化してきたからである。
一方、西欧語は気持を捨て情報を伝える言語として進化してきた。結果として、日本語には言音感が残り、西欧語では言音感は意識すらされなくなってしまった。
ただ、日本語にも、社会の発展とともに、情報の伝達機能強化の必要が生じてきた。ここで日本人の祖先は、気持か情報かの二者択一の選択はせず、両者併存の道を選んだのである。純化の道ではなく、共存の道である。子音的ではなく、母音的にである。
共存の道は困難な道でもある。漢語の導入、音訓方式の発明、仮名の発明による仮名漢字交じり文の工夫などによってなんとか乗り越えてきたが、日本語は曖昧であるとの誤解が今なお広く残る原因にもなっている。
結果、日本語は気持と情報、そして聴覚(音声)と感覚(発声体感―口腔体感―言音感)の二重言語となったのである。
(なお、鈴木孝夫は、聴覚に加え、同音異義語が多いため漢字を見て初めて意味が分かるため視覚も使っており、併せてテレビ型言語だと言っているが、もともと感覚(触覚を中心とした体感)も使っているので、聴覚、触覚に視覚を加え三重言語(トリ感覚言語)になったといえるのかもしれない。もちろん、西欧語はシングル言語である。)
日本語が従来の日本語・やまと言葉に異国語である漢字をそのまま取り込んだり、近代に入ってはカタカナ語を取り入れたりするのは、日本文化に純化の思想(refine)がなく練り合わせの思想(洗練)があるからである。また、同音異義語をそのまま受け入れたり、音訓二重の読み方を受け入れたりしたのは、あるいは、人々にそれが可能であったのは、そもそも日本語が気持と情報(言音感と意味)の二重性に慣れ親しんできたからではないだろうか。

気持は情の領域の問題である。情報は知の領域の問題である。人間は情のベースの上に知が覆い被さるような形になっている。日本文化は伝統的に知情意のバランスが大切としてきた。西欧文明は古代ギリシャ以来、知を至上のものとして知の追及に邁進してきた。ここにも、日本の練り合わせ(洗練)と西欧の純化(refine)の対照が見られる。

ソシュールは、言語活動(ランガージュ)をパロール(言)とラング(言語)に分けた。私的なものをパロール、社会的なものをラングとし、言語学の研究対象としては私的なパロールを外し、社会的なラングのみとした。本来分けられないものを無理やり分けて、片一方を無いものとしてしまったのである。ソシュールは言葉の気持の部分をパロールとし、情報の部分をラングとしたのかもしれない。そのために、言音感の部分が見えなくなってしまったのかもしれない、あるいは、見たくないために切り離してしまったのかもしれない(そもそもソシュールは母音を研究していたのだから、言音感の存在に気付かないわけがないと思う。あるいは、言音感が余りにも生理的で原始的なので、学問の対象にはそぐわないと決め付け排除してしまったのかもしれない)。ソシュールがわざわざパロールを切り離したことを逆に考えると、当時の西欧には語音感的なものが多分に残っていたのかもしれない。現在のヨーロッパに於いても、米国は別にして、言音感的なものは残っているのではないだろうか。

 人間が二人以上いて言葉が発せられれば、そこに言語場が成立する。言葉は物理的な空気の振動である。空気の振動自体は、多少高さ、鋭さの違いなどは伝え得るが、振動の違い以外は何も伝えることは出来ない。
気持を伝え得るのは、その振動を起こした時の感覚のニュアンスをその同じ振動をキャッチした時も感じ得るからである。すなわち、口腔を中心とする発音体感を聞いた時も感じるからである。感覚の共鳴といえるかもしれない。ミラー細胞の働きである。
情報が伝わるのも基本的には同じ原理であるが、もう少し複雑である。言葉の音、例えば、お母さんの発した‘おはよう’の/o/とお父さんの発した‘おはよう’の/o/は違う。音の高さ、すなわち周波数からして同じではない。では、なぜ周波数の違う音を同じ/o/として感じるのかは、周波数のかたまりの形が同じだからである。同じ口の形をして同じように発声すれば、同じかたまりの形になるのである。幼児は言葉を習得する過程で、お母さんの/o/もお父さんの/o/も同じ/o/として認識できるように音韻のシステムを脳の中に構築する。そして、お母さんの/o/もお父さんの/o/も同じ自分の/o/に変換して、以降の脳内の処理を行う。これによって、逆に、自分が/o/を発した時の体感を、お母さんの/o/を聞いた時もお父さんの/o/を聞いた時も感じ取れるようになるのである。いろいろな人の‘おはよう’の/o/に同じ言音感を感じ取れるのは、それが自分の発音体感だからである。多分、日本語では音素の言音感のリストに加えそれぞれの拍の持つ言音感のリストがシステムとして一人ひとりの脳の中に出来ているのだろう。
 情報としての意味を伝え得るのは、一つの言葉とその意味が脳の中で結びついて記録されているからだろう。多分、その記録は辞書的な箇条書き的なものではなく、事例の集積のようなものだろう。それぞれ重み付けされた使用例の累積のようなものだろう。この集積は時々刻々と変化する。時々刻々、新しいものが加わっていくし、古いものは徐々にフェードアウトしていく。新しい経験によって重み付けも変わっていくだろう。そして、これらは個人個人の頭の中での話である。ある言葉の意味というような一つの知識が、例えば、辞書から、あるいは他人の口から空を飛んで入って来るというようなものではない。耳で聞いて、目で読んで、自分の脳の中で再現して初めて、自分の中に伝わるのである。したがって、元のものと自分の中に再現出来たものが同じであるという保証はない。多分、微妙に違うものだろう。自分の脳の中に於いてすら、新たな経験によって微妙に変化しうる。知識というものは、フィックスした固いものではなく、常に揺れ動いているのではないのか。
有機体のように。
「イデアは一つである」というような考え方は、有機ではなく無機の考え方である。生命のないもの、死んだものとしての考え方である。
 一人の人が言葉を発する、それを聞いた人がその言葉の意味を理解出来るのは、聞いた人の脳の中にその言葉を聞いた経験の蓄積があって、その蓄積の全体からその人なりの意味の理解(類推、解釈)が出来るからである(だから、全く間違った意味に覚えているといこともある)。
 言葉を発した人と言葉を聞いた人との間にあるのは、ただ空気の振動だけである。そして、その空気の振動は単に空気の揺れに過ぎない。
 言葉は複雑な振動の組合せの時系列的な構造体である。/ア/の音自体、いろいろな周波数の振動の組合せの時間的な流れである。言葉の音、それぞれで振動の組合せ、すなわち構造が異なる。一つの言葉は、一つ一つの音の連なり、すなわち時系列的な異なる構造の変化の流れの総体である。
 この時系列的構造体に意味を結びつけたのが情報としての言語である。この結びつけは結果としては恣意的とも見える。言語によって言葉が全く異なるからである。
 この時系列的構造体は、そもそもは発音体感と結びついている。音素一つ一つに発音体感(言音感)が結びついているのだから、音素の連なりである言葉は、発音体感の連なりである(語音感)。

 この発音体感を捨ててしまったのが西欧語である。今もそれを使っているのが日本語である。日本語では、情報としての意味に加えて、気持など感覚的なニュアンスを、言葉で伝えようとする。また、伝わるのである。
日本人が日常的に非常によく使い、微妙なニュアンスをリアルに伝えることが出来るものにオノマトペがある。
日本語にはオノマトペは言葉としては4500余り、語基としては1500余りあるといわれているが、オノマトペは語音感を比較的に直接反映した言葉である(韓国語でもオノマトペは日本語以上に使われているということなので、韓国語にも言音感、語音感は生き残っているのかもしれない)。
 日本語では、オノマトペの他に助詞、間投詞などに言音感、そして語音感は生きている。
 少し甘え気味の「ネー、ネー」、なだめる時の「マー、マー」、止める時の「ダメ!」、これらは言音感そのものである。
日本語にはオノマトペから出来たと思われる言葉もたくさんあり、またそれらから派生したと思われる言葉もたくさんあるので、言音感、あるいは語音感を感じさせる言葉は非常に多くある。このことが、幼児期の言葉の習得に役立っているとも考えられる。幼児が言葉の音の発音体感と意味とを結び付けて覚えられるからである(単純記憶よりもイベント記憶の方が思いだしやすい)。
 この意味で、日本語は二重タスク言語である。バイタスク言語である(バイチャネル言語ともいえる)。

基本的に体感である言音感は多義的である。いろいろな感覚的イメージを同時にもっておりクオリア状態である。日本語ではベースとなる母音はスタンス的状況説明的イメージをもち、子音はより具体的な素材的なイメージをもっているので、これらが組み合わさった拍の言音感、そして拍の連なりである語音感は非常に多義的で複雑なイメージを持っている。余りにも多くのイメージをニュアンス的にもつため、西欧的考え方では、それは無いに等しいとするようである。しかし、多義的ではあっても、方向性の違いが明らかで言音感、語音感は明確にあるのである。/a/と/i/の言音感、/K/と/S/の言音感、‘カ’と‘キ’、そして‘カ’と‘サ’の語音感は明確に違うのである。
 原初的な言葉はこの言音感、語音感から出来たと思われる。すなわち、言葉の音とその言葉の意味はこの言音感、語音感によって繋がっていたと思われる。意味とは概念的、すなわち絞り込まれたものである。言音感、語音感は多義的である。一つの言葉の意味とはこの多義的なイメージの極一部を使ったものである。
多義性からの部分的選択である。
では、その選択はどの様に行われたか、それは‘たまたま’だろう。偶発的に使われ、それを‘たまたま’人々が受け入れたのだろう。それぞれの言葉でそれぞれの‘たまたま’があったのだろう。単純に恣意的と考えてはいけない。必然ではないけれど理由はあったのである。言音感的には合っているのである。納得性があるのである。人々は納得して受け入れたのである。
これらの現象は、単純なリニアーな論理として考えてはいけない。複雑系の科学として理解しなければならない。
 原初の言葉は基本的には言音感、語音感から出来たのだろう。ただ、言葉の数が増えてくると、すなわち、いろいろの概念を言い分けようと、すなわち言葉を新しく作ろうとすると、いろいろと問題が起こってくる。言葉の音の数が限られているので、特に日本語の拍の数は少ないので、ある言葉と同じ言音感の別のイメージを使ったよく似た言葉が出来て競合してしまうようなことも度々起こったのだろう。最終的には人々の支持で生き残る言葉が決まっていったのだろう(言葉の生存競争)。ニュアンスの違いを出すために他の言音感をもった拍をくっつけることで新しい言葉も作られただろう。新しい言葉の作られ方としては、音連なりに新しい意味連なりの言葉が多く作られたのではないだろうか。ただ、ここでも問題は、音連なりの言音感的連なりと、意味連なりの意味との方向性が必ずしも一致しないことである。例えば、‘転がす’からの‘殺す’もそうだが、オノマトペ‘トントン’、‘タンタン’からと思われる‘手(タ、テ)’は必ずしも言音感とは繋がらない(‘テ’の場合は/e/に繋がるイメージがあるから、ある程度は納得性はあるが)。ただ、余りにも言音感とそぐわない場合は、その言葉は生き残れなかったと思われる。
 音連なり、意味連なりに出来た、いわゆる派生語が多くなると、言葉の意味そのものが一種のイメージとなって、音連なりの他の言葉の語音感に混入してくる。いわゆる連想である。この連想の力は強力である。そもそも言葉の音と意味との結びつきは脳内に記録されて、選び出されるのだが、その検索過程で類似音の言葉もチェックされるからだろう(例えば、‘クソ’という言葉には嫌な、下品なイメージがあるが、拍‘ク’、‘ソ’のいずれにもそのようなイメージはない。意味からくるイメージである)。(また、オノマトペ‘コンコン’は、雪が降るさま、泉が湧き出るさまなどに使われるが、擬態語として、区切りがありながら連続していくさまをよく表しているが、‘コンコンと’は擬情語として根気よく説得する表現にも使われる。このとき、音連なりの‘根気’、‘懇切丁寧’などの意味も連想として効いているように思われる。)
 日本語で語感と言った場合、この連想を言っている場合が非常に多い(語感辞書などでも)。
 したがって、私も語音感には言音感の流れとは別に、意味的連想も加えようと思う。これが、私が言音感と語音感とを分けて考える一つの大きな理由である。言音感は体感。語音感には、その言語独自の語用論的慣用的なものも混じり込んでいる。
 従来の音象徴、語感などの研究に於いて、この体感と意味的連想がいっしょくたになっているため、音象徴がアルとかナイとか、あるいは音象徴はいい加減なものだから正統な学問研究の対象にはなりえないなどとされてきた。日本語学者に於いてですらである。

そもそも日本文明が自然融和的で共生的世界観を持っているのはなぜか。
逆に西欧文明が自然と対立的で対決的世界観を持っているのはなぜか。
結論から言うと、人々のおかれた自然環境の厳しさの違いと、地勢的人間関係の違いからだと思う。
人類は同じ集団から分かれ世界各地へ広がっていったと思われる。その後の地球環境の激変などもあって、あるグループは寒冷の不毛の地に生きざるをえなかっただろうし、あるグループは灼熱の砂漠に生きざるをえなかっただろうし、そして、あるグループは温暖な緑地帯に住むことができた。さらに、自然環境が厳しいほどグループ間の生き残りをかけた争いも激しかったろう。
自然環境の厳しい地に生まれた人々は、自然に甘えることは許されず、自ら自然と闘い、生き残らなければならなかった。それらの人々にとっては、自然は仲間というよりは逆に闘う相手、敵であったのかもしれない。加えて、近くに他グループがいれば、交流もあったかもしれないが争いも絶えなかっただろう。そのような環境で進化を続けた人々は、人間としての知能を発達させ、言語を発達させ、文明を作り上げていった。このような文明は当然自然とは対決的なものになるだろう。自然との対決だけではなく、この様な厳しい環境下では各自の自己責任的なものがより必要だったろう。言語も対外的コミュニケーション用、すなわち自己主張のための言語として発達していっただろう。知能の進化は人間独自の知を生み出した。
知は情と違って自然と対決するものとして発達していった。知は自然と対決することによって科学を発展させた。
知は、哲学として、個人という概念を発明した。個の概念のさらなる追及は個人主義を生み出し、個をばらばらにした。
知は自然の奥に自然を越えるものとして真理なるものを捏造し、真理は一つなどという虚構を作り上げた。
知は論理として正誤、すなわち○か×の二者択一を志向した。
これがrefine思想である。
知への狂信は知至上主義となり、情を劣るものとして排除しようとする。情を否定され、個として繋がりを断たれバラバラにされた人々は救いを求め宗教を発明した。そして、知はその宗教すら一神教へと偏向させた。一神教は知ゆえの発明でありドグマである。
これらの文明の発展過程で作られた言語は、対決のための言語、自己主張のための言語となり、曖昧を許さない唯物的、そして論理的、説明的、客観的なものになる。反面、情を表現する必要はなく、物事の区別のよりはっきりしている子音中心のものになるだろう。(なお、子音は母音に比べ全体的に周波数帯が高く、相手によく聞こえるので、自己主張のためには子音の方が有利とも言われている)。
‘I’だ‘you’だと人間中心の言語表現となり、主語や述語の必要な形式的には固い言語になる。
比較的温暖な地に生まれた人々は、自然との一体感を持ち続けることが出来た。元来人間も自然の中に生まれ、自然の恵みによって生きていたのであるから、むしろこれが当然である。余りにも厳しい自然環境に生きなければならなかった人々が自然に反抗し、あるいは反抗せざるをえなかったのは、むしろ例外的である。この反抗組が今や人類の主流を占めているのは、ある意味すばらしいことではあるが、その思想のままでは、今後の人類の存続が危うくなる危険性が出てきた。

幸い日本列島は気候も温暖で食糧にも比較的恵まれていたので、人々は自然との一体感を持ち、すべてのものと共生することが出来た。また、大陸とも適当に離れているため、急激な人口流入もなく、都度渡来の人々も融和吸収することが出来た。したがって、古来からの人々のものの考え方は本質的には変わらず、日本語も本質的には変わらずに今日に至っている。日本的ものの考え方、そして日本語は人類本来のものを残しているのかもしれない。
日本的ものの考え方は、自然の性格、母音の性格に似て、アナログ的で、○×式に物事を決め付けることを嫌い、○と×の間に△を想定する。そして、しかもこの△がむしろ主流となる。
日本語は気持を伝える言語で、母音を主にし、言音感、語音感を残している。したがって、主観の表明で、その場その場の状況依存の変動型言語である。もちろん情報も正確に伝えられるように改良もされており、知も情も同時に伝えられるバイタスク言語である。情報の伝達機能は大陸からの漢字の導入により飛躍的に向上した。
日本語を習った外国人が、日本語に温かさ、やさしさを感じるのは、母音が効いていることや、‘I’、‘you’と決め付けることを忌避していること、曖昧な表現をよしとすることなどによるが、外国人も語音感からやさしさ、温かさを無意識に感じ取っているのかもしれない。

西欧では、人は神が作った。
日本では、人も神もなった。
‘ナル’とは状態に近いイメージで、‘アル’と‘ナイ’の間のものである。‘ARu’と‘NaI’の間を繋ぐのが‘NaRu’なのである(ローマ字の組み合わせをよく見て欲しい)。
‘作る’は人為であるが、‘なる’は自然である。西欧文明は人間中心であるが、日本文明はむしろ自然中心である。人間が出しゃばるのを嫌う。
英語では、「I love you.」は行為である。日本語では、「好きやねん」は状態である。自然にそうなっちゃったという感じである。
英語の「Thank you.」も行為である(あなたに感謝する行為)。「有難う」はやはり状態である(有り難い状態)。
ちなみに、‘love’と‘好き’は違う。‘love’は人為で、上から目線が感じられ、日本語では‘愛する’に近い。‘愛する’は知の行為。‘love’も知の行為である。‘好き’は情の状態である。日本語には、‘恋しい’、そして‘片思い’の‘思う’という表現もある。もちろん、これらは理屈を考えない情のなせるわざである(ある意味、馬鹿な行為である)。日本語には、‘愛する’、‘好き’、‘恋しい’、‘思う’とあるが、英語には‘love’しかない。情を表現する言葉がない。日本語が気持を伝えようとする言語であるのに対し、英語が情報を伝達する言語を指向しているからである。
日本語は情の言語であり、英語は知の言語である。
これは、‘think’と‘考える’の関係とも符合する。日本語には‘考える’、‘思う’、‘気がする’、そして‘感じる’とあるが、英語には、‘think’と‘feel’しかない。‘思う’と‘気がする’に対応する表現がない。そもそもそのような概念がないのである。‘考える’は意識される層での行為であるのに対し、‘思う’、‘気がする’は意識されない層、意識下での脳活動の結果である。
なぜそう‘考える’のかは、問われれば答えることが出来る。知の行為だからである。
しかし、なぜそう‘思う’のか、なぜそんな‘気がする’のかは答えられない。何となく、とか、多分ムニャムニャだからだろう程度しか答えられない。意識下の行為だからである。
英語では、説明できないものは‘think’ではない。説明できないものはないものとするか、すべて‘feel’としてしまうのだろう(無意識に、無理やり理由を付けてしまうのかもしれない)。
日本語の‘愛する’を英語の‘love’、日本語の‘考える’を英語の‘think’とすると、‘好き’、‘恋しい’に当たる英語がないように、‘思う’、‘気がする’に相当する英語がない。英語を話す人々も、意識下でも考えてはいるのだろう、何となく感じていることもあるだろう。しかし、○×思考では、そのようないい加減なものは認められない。認めてはいけないという強迫観念があるのかもしれない。知至上主義の弊害である。

 人間は、進化の過程で大きな脳を得たことから知能を発達させ、言葉を得たことから文明を発達させた。このすばらしい近代科学文明も、知の獲得ゆえである。
 しかし、一方、人間の住む自然環境は大きく破壊された。そして、人間の数もこの地球自然環境のキャパシティの限界に近づきつつある。人間と自然とのバランスが崩れたのである。
 これは、近代人間が知と情のバランスを崩したからではないのか。知を至上のものとして、情を否定しようとしたからではないのか。
 知の命じるままに、個を絶対のものとし、個をばらばらにしてしまったのではないのか。
 人間も繋がりがなければ生きていけない。人間も生物である。生き物である。
 個の断絶を知で糊塗しようとしてきた。それが宗教であり、一神教である。
 人間は情と知のバランスを取り戻さなければならない。それを、知でやろうとしてはいけない。また、糊塗に過ぎなくなってしまう。
 情を取り戻すには、ものの考え方を変えなければならない。文化を変えなければならない。それを次代に伝えるには、言語を変えなければならない。
 日本語は情と知のバランスを保っている数少ない言語の一つである。先進文明国の言語としては唯一かもしれない。
 したがって、日本語を世界に広めることには大賛成である。
 しかし、それは可能か。大変むずかしい。
 ただ、日本語的ものの考え方を広める努力は出来ると思う。英語を、徐々に日本語化することも出来るのではないだろうか。オノマトペをもっと輸出してはどうか。マンガとオノマトペの相性はよさそうである。日本の外務省、文化省もそのような努力をするべきではないのか。ちなみに、文化科学省という名称はよくない。科学も必要だが、より重要なのは情とのバランスをとることである。日本語的に言えば、子どもの心を育てることである。そのためには、英語の早期教育などという時代に逆行したことをするのではなく、時代を先取りして、日本語を、日本語のこころを、もっと大切に教えるべきである(偉そうなことを言ってすみません)。
       (平成26年11月26日)

    日下公人先生への手紙  

日下公人先生

 先生のご本、いつも楽しみに読ませていただいています。
 先生の直言に、心のもやもやも晴れ、気持ちもすっきりし、元気づけられます。
 今回の「日本人の覚悟」も楽しく読ませていただきました。

 私は、某都銀を定年退職後、たまたま、言葉の音のイメージを分析するビジネスの立ち上げに参画したため、言葉の音の響きの聞こえ、すなわち、語感の研究を始めました。日本語を中心に語感を研究するにつれ、日本語の奥深さ、すばらしさに気づかされました。そして、今回の先生のご本の内容とも符合する色々な知見を得ましたので、勝手ながら、ご報告させていただきます。

 まず念のため、語感についてご説明しますと、
語感とは、‘言葉の音の響きの聞こえ’ですが、言葉を聞いたときに、一つ一つの音に感じるイメージです。
髪の毛の表現として、‘サラサラ’、‘カラカラ’のいずれが適当か分かるのは、使い方を覚えているのではなく、語感の違いを感じるからなのです。
この聞こえの違いは、もともとは発声体感から来ているというのが我々の主張ですが( ソクラテスもそのようなことを言っています。岩波書店「プラトン全集2 クラテュロス」)、日本語には、この語感が今もありありと残っています。(本当は日本語だけではないのですが、)

 語感から日本語を研究した結果、日本語は 知・情・意 のバランスがとれていること、又、自然との融合性が非常によいことが分かりました。

 日本語の非常に大きな特徴に 拍 ということがあります。日本語の言葉の単位は、子音+母音(ときに子音がない)、すなわち、拍 です。(この拍に対する英訳はありません。)
 欧米語の言葉の単位は、子音、母音の一塊、すなわち、syllable です。
この違いは大きいのです。拍にはかならず母音があり、日本語は母音中心に出来ているということが出来ます。一方、欧米語は子音で終わることも多く、子音中心の言葉ということが出来ます。
(なお、日本語では母音・子音という言い方をします。母と子です。勿論、母あっての子です。英語では、Vowel,Consonant といいますが、Mother tongue,Father tongue ともいいます。勿論、力があって中心となるのは父、子音でしょう。)
 ところで、母音と子音とは全く種類の異なる音なのです。発声時に母音は、咽の奥から出た震動を主に口腔で共鳴させて出す自然音です。口の形、舌の位置などを変えることによって、ア、イ、ウ、エ、オ などの音を連続させて出すことが出来ます。ア から イ へ、イ から ウ へ連続して変化させることも出来ますし、それぞれの音をのばして発声することも出来ます。
これに対し、子音は、咽の奥から出た息を、口腔内に舌や唇で障害を作って、そこで破裂させたり擦ったりして無理やり出す音で、連続変化させることも、のばして発声することも出来ません。例えていうと、母音は自然でアナログ的、子音は人工でデジタル的ということができます。
 この発声法の根本的違いから母音・子音の語感の本質的な違いが出てきます。母音は情感を表わしやすく、子音は素材感、材質感を表わしやすいのです。人類の進化から考えますと、母音はグルーミングから、子音は威嚇、警戒から発達してきた言葉の音なのではないでしょうか。
 先生は「ヨーロッパ語を使っていると自然にそう考えるようになる。インド言語でも中国言語でも、これらの言語は何ごとにおいても分析的で、事物事象を分析・分類したうえで論を立てている。」とおっしゃっていますが、共生の世界では母音が生き残り、争いの世界では子音中心になったのかもしれません。デジタル的な子音は分析に適しており、知的といえます。アナログ的な母音は、曖昧さがあり、情緒的ということができます。
 したがって、母音中心の日本語は 知と情 のバランスがとれているということができます。(大和言葉だけでは情緒的過ぎますが、漢語など外来語が入り、語感的にもかなり知的になっています。)なお、ア、イ、ウ、エ、オ の五つの母音のうち、イ はもっとも意思・意欲を表現しやすく、知・情・意のバランスがとれているともいえます。

 先生が「何でもいっしょ」とおっしゃっている日本人の自然観についても言葉が関係していると思われますのでご報告します。旧聞に属しますので、すでにご承知かと思いますが、日本語人だけが単母音を言語として聞くことができるということです。東京医科歯科大学名誉教授角田忠信博士のご研究です(「日本人の脳」)。
この説では、欧米人は単母音を言葉として認識できず雑音として処理しているのだそうです。その結果、日本人は虫の声は勿論、風の音をも声として聞き取ります。この辺りからも日本人の自然との一体感が生まれてくるのではないでしょうか。
(あるいは、逆に、そのような一体感を大切にしたので、日本語がこのような形で残ってきたのかもしれません。)

 なお、一つ一つの母音の持つイメージ、子音の持つイメージなどの研究成果は、私個人のサイトで公開しています。一度ご覧いただければと思います。
    語感言語学
      http://theory.gokanbunseki.com
        語感から見た母音・子音 ほか
    語感分析の実例
      http://www.gokanbunseki.com
 先生のますますのご健勝とご活躍をお祈りしております。
               平成21年5月20日
                      増田嗣郎

PS.サイト掲載の一部を添付させていただきます。重複がございますがお許しください。
 

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