新しい言語学

手紙5

   「「自分」の壁」を読んで(3)   知か情か  

養老孟司の「「自分」の壁」を読んだ。
いろいろと得るところはたくさんあった。
考えるヒントをいろいろともらった。
ただ、私とのものの考え方の違いもいろいろとあった。
今回は、あえて、違いについて書いてみたい。
「サツマイモ、カボチャが食べられない」については前回に書いた。どうでもいいようなことではあるが、情と知の使い方の問題でもある。
養老先生は、過去のトラウマからくる食べたくないという感情を放任した。私は、食べられないはずはないとの知の理解から、感情を宥め矯正し、本来の姿に戻してやった。今では、私はサツマイモ、カボチャはむしろ大好きである。
次に驚いたのが次の発言である。
「だから異性関係で悩んだこともありません。どんなに一人であれこれ悩んだところで、相手が反応しなければどうしようもない。」
こんなことがあり得るだろうか。
こんなに割り切れるものなのだろうか。知が情を完全に支配している。
片思いなんて馬鹿馬鹿しいことなのだろうか。
私事になるが、私には小学校の頃から気になる女の子はいた。
あれこれ悩むから感情も豊かになるのではないだろうか。
次に驚いたというよりは驚愕したのは次の発言である。
「長い間、私には不思議で仕方がないことがありました。なぜ人は解剖を嫌がるのか。これがよくわかりませんでした。」
逆に私にはこれがよくわからない。私は人どころか、動物の解剖もしたくないし、見たくもない。
職業意識による慣れで気にならなくなることは有り得る。
しかし、不思議と思うことが不思議である。
やはり、知が勝ち過ぎていらっしゃるのではないだろうか。
次に、私とは少し違うかなという点もいろいろあった。
まず親孝行について、「昔の修身(道徳)の教え・・。親孝行は、子供に対して「お前はお前だけのものじゃないよ」ということを実は教えていたのです。」とおっしゃり、親の面倒を看るのも当然のようにおっしゃっているが、私は子供の面倒は当然みるが、親である私たち夫婦の面倒を看てもらおうとは思っていない。子供の私に対する孝行は、自分がちゃんと自立し、自分の子供、すなわち孫たちをちゃんと育てることだと思っている。
次に気になったのが、「自分と世界との区別がつくのは、脳がそう線引きをしているからであって、「矢印はここ」と決めてくれているからです。その部分が壊れてしまえば、目に入るもの、考えていることも全部、脳の「中」にあるわけですから、自分の「中」にあるのも同じです。区別はつきません。世界と自分の境目がなくなっている状態です。」の「自分の「中」にあるのも同じです」の部分である。
自分の「中」と言っているが、私は自分が「中」ではないかと思っている。‘の’と‘が’の違いであるが、‘の’であれば自分が外側、‘が’であれば自分が中側である。世界を自分の中と考えるか、世界を自分の外側と感じるかは大きく違う。自分中心に考えるか、世界の中の自分と感じるかの違いである。
自分中心、知中心に考えるのは、欧米的考え方である。
日本の古来からの感じ方は、自然の中の自分と捉え、情と知のバランスを大切とする感じ方である。
さらに、このことと絡んでよく分らないのが次の発言である。
「そもそも「自分」とはいったい何なのだろう。この問題はずっと気になっていました。なんとなく答えが見えてきたように感じたのは、「動物は「自分」を持っているのだろうか」ということを考えはじめてからでした。・・・。生物学的な「自分」とは、この「現在位置の矢印」ではないか、と私は考えているからです。」
まず、「生物学的な「自分」」とはどうゆう意味か。動物は「自分」は持っていないと言っているので、生物学として考える人間の「自分」、という意味だろうか。それが矢印とは一体どうゆうことか。
人間が生物学的に「自分」を考えると肉体という実体がある(境界が曖昧であろうと、有るものは有る)。矢印には実体はない。ただ、「自分」と感じるのは自分だけであって、それは単なる意識に過ぎない。意識に過ぎないが、それが矢印とはどうゆうことだろう。矢印は指し示すだけでそのものではない。
どうゆうことだろう。分らない。
「「自分」とは一体何なのだろう」、ということだが、私は「自分」というのは単なる意識で、しかも、その意識は幻想に過ぎないと思っている。知を得て思考的意識を得た人間が創作した幻想だろう。知が自己完結するために創りだしたものだろう。
養老先生も「「意識はどの程度信用できるものなのか」という疑いを常に持っておいたほうがいい、ということです。」と言い、「常に「意識外」のものを意識しなくてはならない。」とおっしゃっている。この意識は思考的意識のことであろうし、意識外とは感覚的意識のことではないかと思う。大雑把に言って、思考的意識は知、感覚的意識は情のことであるから、意識外を意識するとは、知だけに頼るのではなく、情を大切にしろということではないだろうか。(恋心も大切にせよ、ということではないのかな。)
   (平成27年2月11日)

   「「自分」の壁」を読んで  意識とは何か  

友人に勧められ養老孟司の「「自分」の壁」を読んだ。人間を考える上でのヒントというか取っ掛かり満載の本である。もちろん、すべてに納得できるわけではない。むしろ、私とはものの考え方が本質的に異なるかもしれない。

著者は私とは同じ年の生まれ、したがって、共に戦中戦後の混乱した社会情勢の中で育った。戦中戦後の食糧難の時代、芋それも干し芋と水っぽい南京ばかり食わされたのも同じ。しかし、ここからが違う。著者は今でもサツマイモとカボチャは食えないという。私も食糧事情がよくなってしばらくは芋も南京もオカラも見るのも嫌だった。しかし、今はサツマイモもカボチャも好きである。
私は小さい頃から食えないものがあるのは自分が意気地なしなんだと思うくせがあった。他人がうまいと言って食っているものを食えないのは自分が弱いからだと思っていた。また、自分が食えないのをそのまま放っておくのは、自分を甘やかすことだし卑怯なことだとすら思っていた。だから別段無理をすることもなく、サツマイモもカボチャもオカラも食えるようになった。

読み始めていきなり2つのヒントに出くわした。一つは脳溢血で左脳の機能の麻痺した人の自己感覚の変化、そして、今一つが臨死体験時の幽体離脱。共にかって本で読んで知ってはいたが、これらを読んで、今の私の研究テーマと関係があるのではと改めて気付いた。
今、私が関心を持っているのが、欧米人と日本人のものの考え方の違いとその裏にあると思われる欧米語と日本語の違い、そしてその相関関係などであるが、私は西洋文明は自然と人間を対立するものとして捉えているが、日本文明は人間も自然の一部と捉えており、それが言語にも反映して、欧米語は人間中心で知・論理を最重要なものとするが、日本語は自然中心で気持・情の交流を重要と考えていると思っている。
したがって、欧米語は物事を客観的に論理的に表現しようとするから、形式と割り切りを重要とするが、日本語は気持ちを中心に主観を主観的にその場その場の状況に応じつつ、つぶやくだけであるので、固い形式も必要ではなく、主語というようなものも必ずしも必要ではない。ただ、気持の交流をベースとしているので、語感を伝え合うことが必須で、母音が重要な役割を果たしている、と考えている。
日本文明が人間と自然、知と情の両方を重要視しそのバランスを取ろうとするのに対し、西欧文明は人間、そして知のみを重視し、自然、そして情を切り捨てようとしてきた。すなわち、日本文明が共生、融合の考え方(洗練)であるのに対し、西欧文明は排斥、純化の考え方(refine)である。
これらのことと、左脳の機能、そして臨死に際しての全体脳の機能低下とが関係があるのではないかと気付いたのである。あるいは、西欧文明と日本文明の本質的違いの根本的原因がそこにも現れているのではないかと考えたのである。

左脳の機能を失った人の感じる多幸感、臨死に際しての体験としての多幸感については、「幸せについて(1)(2)」で書いた。ここでは臨死体験としての幽体離脱について書いてみたい。

養老孟司はこの本の中で、臨死体験について、次のように書いている。
「洋の東西を問わずによく報告されているのが、ベッドに寝ている自分を、上から見下ろしていた、・・・」。そして、「ギリギリまで意識がなくなった最後の状態でも、「上から見ている自分」というものを私たちは持っていることになる。そんな状態でも持っているということは、かなり本能に近いところで、その鳥瞰する自分を持っていることになる。無意識に近いところで、そういう客観性を私たちは持っているのではないかと考えられます。」と言い、自動車の運転を例に挙げて、「上手な人は、・・・、道路の全体像を頭に浮かべることができます。この鳥瞰するような意識は、人間は誰でも持っています。だから死にそうな時にも、幽体離脱して自分を見ることができる。」とまで言っている。
これは極めて重要な発言であるので、まず臨死体験について、日本人についてもそうなのかネットで調べてみた。ところが、ネット上の数十件の体験報告を見た限りでは、上から自分を鳥瞰したという事例が見当たらない。浮遊感はあるものの自分の体から抜け出したという幽体離脱の報告も余りない。養老先生は日本人のそのような報告をお読みになったことがあるのだろうが、特殊な例ではないのだろうか。特殊な例を一般化するのは危険である。
また、先生が例に挙げている自動車の運転についても疑問がある。私は自動車の運転が好きで運転歴55年、車も3台乗りつぶした。しかし、事故らしい事故を起こしていない。だから、上手とまでいかなくとも下手ではない。ところが、先生の言われるような鳥瞰するような意識は持ったことがない。私は車の左右は勿論後ろをよく見ている。前も前の車だけでなくその前の車も気になる。車も車種だけではなく、その車を運転している人の性格、気持も気になる。だから、女性、年よりの車の後は避けるようにしている。これは鳥瞰ではない。視点が自分から離れることはない。これを先生は鳥瞰と思っていらっしゃるのだろうか。(2車線の首都高を走っている時、どちらの車線を取るか、2・300メートル先が鳥瞰出来ればとよく夢想する。)
西洋の事例として、上から自分を眺めていたという臨死体験は何度か読んだ。しかし、日本人にもこれが当てはまるのだろうか。

先生の発言で特に気になっているのが、「本能に近いところで、(あるいは)無意識に近いところで、鳥瞰する自分、(あるいは)そういう客観性を私たちは持っている・・」である。
私も、意識というものそのものに客観性があるのではないかとは思っている。先生はそのことを感じ取っておられるのだろう。ただ、意識について先生は次のようなことも言っている。「意識というものは、自分の体を把握するためにできたものではありません。もっとも原始的な意識は、外界に対応するため、環境に適応するためです。本来は遺伝子が環境に適応するわけですが、その適応はとても長い時間、何世代ぶんもの時間がかかりますから、もっと現実の環境に適応するのには脳が必要だったわけです。そのために進化したのが人間の意識です。それ以外には、意識は根本的に他人の行動や思考を理解するためにある。自分の体の把握のためではないのです。」。
そうだろうか。客観視とも矛盾しないか。
意識については、先生は「そもそも「意識」とはなになのかということが定義できていないのですから。」ともおっしゃっている。

私は、意識には感覚的意識と思考的意識があるのではと思っている。
感覚的意識とは、無意識の根底にあり、言語的矛盾ではあるが、敢えて言えば、意識化されない意識である。
養老先生のおっしゃっている意識とはこの意識のことではないだろうか。動物も昆虫も持っているであろう意識である。ただ、この意識が鳥瞰する意識かというと疑問がある。
この感覚的意識は、生物は旧脳の段階から持っている。身体の内外の情報を評価するためである。人間では情の範疇に入る。
高等動物は旧脳に加え新皮質を得た。われわれ人間の一つの特徴は、この新皮質を過激に拡大したことである。
では、なぜ旧脳という脳がありながら、新たに新皮質を発達させたのか。新皮質の役割は何なのか。
私は、新皮質は旧脳を監視監督するためにあるのではないかと思う。アナログで曖昧、多元的な旧脳のアウトプットを整理統合、取捨選択して、効率化・高速化するために発達してきたのではないだろうか。したがって、デジタルである。
そもそも、監視監督するということは、第三者として外から対象を眺める、客観視することである。したがって、新皮質の本質的機能は自らを客観視することである。それ故、新皮質の発達していない昆虫には自意識はない。多分、新皮質の余り発達していない犬や猫も自らをかわいそうと憐れむ感覚は持っていないだろう。ひもじいとか寂しいとか感じはするだろうが、だからといって、将来を悲観するようなことはないだろう。
養老先生のおっしゃる客観視は、むしろ本能から離れた新皮質の働きだと思う。そして、それが鳥瞰にまで進むのは文明文化の違いではないかと思う。
日本文明に比べ、西欧文明は知、すなわち新皮質の働きを極度に評価する。そして、この知、すなわち客観視の究極が鳥瞰なのではないだろうか。
金谷武洋先生が「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」の中で紹介しておられる例であるが、川端康成の「雪国」の冒頭の一文「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった」をE・サイデンステッカーが英訳した英文「The train came out of the long tunnel into the snow country」を学生たちに読ませて、それを絵にさせるとほとんどの学生が汽車がトンネルを出る様子を上から見たように描くのだと言う。まさに鳥瞰である。日本語の原文を読んで絵にしようとしても決してこうはならない。原文では主人公、すなわち自分は汽車の座席に座っている。自分が見ている景色であり、感慨である。あくまで主観である。翻訳した英文は客観描写である。そして、鳥瞰である。日本語の原文が主観でも、英語にすると客観になるのである。客観にせざるをえないのである。これが言語の違い、すなわち文化・文明の違いである。
臨死体験もそうなのではないだろうか。オカルト的発想は別にして、科学的に素直に考えると経験したこと以外脳に浮かんでくるわけがない。知らないことが(組合せは別にして)脳に出てくるわけがない。その点夢に近いのではないだろうか。
人は臨死に際して自分の知っていることを体験する。日本人は日本文化に則した臨死体験をする。西欧人は西欧文化に則した臨死体験をするのではないだろうか。日本語人は日本語的臨死体験、主観的、繋がり的体験が多いのではないだろうか。英語人は英語的、客観的、個人的、そして鳥瞰的な臨死体験が多くなるのではないだろうか。
そして、養老先生の言う客観性は、死に際しての知と情、すなわち、新皮質と旧脳のバランスの乱れから、日本人にも時に表れるのではないだろうか。だから、日本人でも鳥瞰はありうる。しかし、それは例外ではないだろうか。

そもそも意識とは何か、養老先生のおっしゃるように、定義されていない。定義はされていないが、意識というものは現実に存在する。そこで、意識について私の考えるところを述べてみたい。
昆虫に意識があるかどうか。あるとしたらそれは感覚的意識だろう。昆虫は思考はしない。昆虫は思考的意識は持っていない。思考は客観化して初めて可能だから、新皮質が発達して初めて思考できるようになる。昆虫には新皮質はない。
犬猫に思考的意識はあるか。犬猫も考えはするだろう。しかし、客観化は出来ないだろう。
‘考える’と‘思考する’は違うか。
‘思う’と‘考える’は違うか。
‘思う’と‘考える’は違うように思う。乱暴な言い方だが、旧脳、潜在意識での脳の演算が‘思う’、そして、新皮質、顕在意識での演算が‘考える’ではないだろうか。
‘思考’は字ずらからすると、‘思う’と‘考える’両方を含んでいるように見えるが、概念的には‘考える’に比重を置いているように思う。
犬猫の‘考える’は計算が余り入っていないようだから、‘思う’の段階かもしれない。
人間では、旧脳での感覚的意識に、新皮質の客観的意識が加わり、言語を獲得したことによって、それが思考的意識へと進化していったのではないだろうか。そして、人間は旧脳の感覚的意識と新皮質の思考的意識を同時に持つことになったのではないだろうか。感覚的意識は潜在意識として、思考的意識は顕在意識として。そして、日本語では、潜在意識が言語化されて顕在意識へ上がってきたのを‘思う’と言い、顕在意識での思考的意識を‘考える’と表現しているのではないだろうか。
臨死に際して、この感覚的意識と思考的意識の統合が崩れて、それぞれバラバラに表出してきたのが多幸感であり幽体離脱、あるいは鳥瞰の感覚なのではないだろうか。
 さらに言えば、多幸感は左脳の機能を失うことによっても生じる。と言うことは、左脳が思考的意識の座として多幸感を封殺しているということになるのではないだろうか。
 知、すなわち思考的意識は原始的幸せ感を封印し、代わりに、地位とか名誉とか財産とか、具体的なものを積み上げることによって幸福感を演出しているのではないだろうか。そして、知は、病気とか家庭の不幸とか地位の喪失とかをマイナスの幸福感として同じく積み上げてしまうのではないだろうか。本来、生物にはマイナスの幸せはなかった。しかし、知を得た人間はマイナスの幸福感、すなわち不幸をも背負い込むことになったのではないだろうか。
 先進文明国における格差問題。すなわち、絶対的には豊かなのにも関わらず、より豊かな人がいることによって感じる貧困感。これは、もの、お金にのみこだわる知の弊害ではないだろうか。幸福をものにお金に求めてはきりがない。知の欲望には限度がない。
 そろそろ知の先進国も、ものの幸福ではなく、人との繋がり自然との繋がりから得られる幸せを大切にする情・心の文明に回帰しなければならないのではないだろうか。少なくとも、知と情のバランスを取り戻さなくてはならない。知の宗教によってではなく、あくまで情・心を取り戻すことによって。
    (平成27年1月29日)

   幸せについて(2)  

‘幸せ’と‘幸福’は同じか。
違うような気がする。
何が違うか。
そして、それぞれの反対概念である‘不幸せ’と‘不幸’は同じか。
‘不幸せ’には宿命的なイメージがあるが、‘不幸’には襲ってくるようなイメージがる。‘不幸’の方が破壊的である。
反対概念といっても二つの種類がある。
‘アル’の反対は‘ナイ’である。‘アル’を1とすると‘ナイ’は0である。1か0である。
ところが、1の反対はと言われると、1の反対は−1である。1か−1かである。
‘不幸せ’は‘幸せ’のない状態0である。
‘不幸’は‘幸福’の−1である。
‘幸福’の0の状態は‘幸福でも、不幸でもない’である。英語にはこのような状態を表す概念はない。○か×しかない。
‘幸せ’も‘幸福’も日本語である。
ただ、‘幸せ’は日本古来のやまと言葉。
‘幸福’は漢語を模して作った和製漢語である。
やまと言葉は本来語感を生かして気持・情を表そうとする主観的な言葉である。
和製漢語は漢字を組合わせて作られているが、漢字は概念規定がしっかりしており、その組合せは論理的で、結果、漢語は客観的な言葉となる。
したがって、やまと言葉は心情的であいまい。
漢語は即物的でハッキリしている。
やまと言葉の‘幸せ’は心の状態を表すが、漢語の‘幸福’は、具体的に、ものが豊富かどうか、環境に恵まれているかどうか、健康かどうか、などの積み上げである。
だからこの反対概念として、ものが失われる、環境が破壊される、健康が損なわれる、などのことが‘不幸’となるのである。
   (平成27年1月15日)

   幸せについて(1)  

‘幸福’と‘幸せ’は違う。
‘考える(I think ~)’と‘思う’は違う。
‘愛する(I love you.)’と‘好き’は違う。
‘幸福’も‘考える’も‘愛する’も頭でのこと、すなわち知の行為である。
‘幸せ’と‘思う’と‘好き’は心の問題で、気持、すなわち情の行為である。
知は左脳(言語脳・論理脳)、情は右脳(感覚脳・感性脳)という言い方もできる。
知は新皮質、情は旧脳(大脳辺縁系)と言うことも出来る。
知は意識、情は無意識。あるいは、知は顕在意識、情は潜在意識という言い方もできる。
もちろん、左脳と右脳の働きがはっきり分かれているわけではない。
新皮質と旧脳が別々のものでもない。
顕在意識と潜在意識に、はっきりした境目があるわけでもない。
意識は言葉を得ることによって生まれた。すなわち、言葉によって意識することが可能になった。
それでは、言葉が生まれるまでは意識はなかったのか。
前意識、すなわち思いという様なものはあった。しかし、言葉がなければ表現できない。
自分自身に対しても表現できない。潜在の状態だろう。やはり思いだろう。
意識と潜在意識の関係は微妙である。
潜在意識も言葉で表現できれば、その部分は顕在意識である。ただ、その素になる言葉に表現できない部分が潜在意識である。
顕在意識についても、その根元に言葉では表現できない部分もある。
顕在意識は潜在意識から隔絶しているわけではない。
意識全体として、顕在意識と潜在意識は繋がっている。そして、その境目は動くのである。
顕在意識はこの意識全体のごく一部に過ぎない。
意識は言葉を得て意識となり、言葉の進化と共に思考を生み出した。
言葉は概念化で、物事を切り出すことであるが、これは物事の客観化でもある。
客観化は論理を可能とする。
意識は言葉を得て、客観化が可能となって、思考へと進化した。
この思考は言葉を進化させた。
意識と思考と言葉は三つ巴となって互いを進化させ、自らも進化してきたのである。
この意識の思考の部分を知ということも出来る。
言葉と顕在意識と客観化と論理と思考が知のベースである。
この知のみを重視したのが西欧文化である。知至上主義である。頭脳を重視した。
情を捨てなかったのが日本文化である。情にもこだわったのである。
日本文化は潜在意識を切り捨てなかった。むしろ思いを大切にした。心を大切にした。
もちろん、言葉を得て顕在意識が思考化し進化するにつれ、潜在意識も論理を得て共に進化した。
英語には、日本語の‘幸福’、‘考える’、‘愛する’にあたる言葉はある。
これらの言葉は知の行為を意味する。作為である。
しかし、日本語の‘幸せ’、‘思う’、‘好き’にあたる概念はない。従って、言葉もない。
これらの言葉は情の状態を意味する。自然な受け身の状態である。
‘幸福’は獲得するものである。努力して獲得するものである。
‘幸せ’は訪れるものである。自然となるものである。
‘幸福度’というものは有り得る。指数で計算しうる。客観化できる。
人の‘幸せ’は計ることも出来ないし、他人と比べることも出来ない。主観の問題である。

先ごろ養老孟司の「「自分」の壁」を読み始めて、面白い記述に出会った。
脳溢血で左脳の機能を失った女性脳科学者の話と臨死体験の話である。
共にかって読んで面白いと思った話ではあったが、今改めて指摘されて面白いことに気付いた。
左脳を失った科学者も臨死の体験をして蘇った人も、共に多幸感に包まれていたと言っていることである。
臨死体験については、死の恐怖を和らげるためドーパミンが出るのだという説明を聞いたような気がするが、左脳を失って多幸感に包まれるとは不思議なことだと思っていた。
今思いついたのは、この二つは同じことではないのかということである。
少し飛躍するようだが、人間は意識を得、知を得ることによって、多幸感を見失ってしまったのではないかということである。
‘幸せ’は心・情で感じるもの、これを知が覆い隠してしまっているのではないのか。
言語脳として言葉の出入り口である左脳の機能がなくなることにより、あるいは、臨死により脳全体の機能が低下し、知の束縛が薄れ、本来の情の状態が表面に出てきたのではないか。
生物にとっては、生きることそのことが‘幸せ’なのではないか(どう感じているかは別にして)。
人間だけが知を得たことによって、‘幸せ’を感じられなくなったのではないのか。
その点、知至上主義の西欧人よりも、情の感覚を残している現代の日本人の方が幸せ、さらに西欧化される以前の近世以前の日本人の方が幸せだったのかもしれない。
‘幸福’と違って‘幸せ’はものの豊富さ、便利さとは関係がない。
豊富にものに囲まれ、便利な生活をしている人でも不‘幸せ’な人も多い。
厳しい自然環境の中貧しい生活を強いられている人々の中にも‘幸せ’な人はたくさんいる。
現代文明は、あくなき‘幸福’の追及を進めてきた。より多くのものを、そして、より便利なものを求め続けた。‘幸せ’を見失ったままに。
ただ、人類にとって、より‘幸せ’がよりよいことであるかは別の問題である。人類は‘幸せ’を捨て、知を得たのである。ほどほどでもやむを得ないのではないか。もちろん、知によるあくなき‘幸福’の追及は論外である。ものには限度がある。地球にも限界がある。
  (平成27年1月15日)

   われわれは幸せか  

幸せとは求めるものではない。
自然にやって来るものである。
正確には、幸せとは頭で考えて求めるものではない。
頭で求められるものではない。
そもそも、幸せは頭のマターではない。
幸せは心で感じるものである。
幸せは知では得られない。
(なお、心で感じるのが幸せで、頭で考えるのが幸福なのかもしれない。)
人間は、幸か不幸か知能を獲得してしまった。
結果、人間は心に加えて頭を持つようになってしまった。
加えて、人間は頭を心より上のものと考えるようになった。
一部の知的と言われる人々は、感情は劣ったもの、知こそ人間に相応しいとまで考えるようになった。
知至上主義である。
近代の西洋文明の考え方である。
この西洋文明にかぶれた日本のインテリといわれる人々も、知を至上のものとして、それを誇りひけらかしている。知が十分なものではないにも拘らずに、である。
この知至上主義の西洋文明は、個というものを発明した。
個の創造は知のあくなき追求の当然の結果かもしれない。
知は基本的には個の行為である。
個の頭の中で行われる行為である。
知が個の行為であるがゆえに、Cogito, ergo sum(我思う、ゆえに我あり)と自己の存在に気付いたのである。
自己として、個として、区分けすることを覚えたのである。
そして、知至上主義は個至上主義へと進んでいった。
これが個人主義である。
個人主義は知至上主義が産み出したものである。
知は人間を個として分断する道に迷い込ませた。
生物は基本的には本能で生きている。すなわち、情で生きている。
生物には個としての意識は無い。種として生きている。
人間も生物である。
しかし、人間は本能だけで生きているのではない。
後天的に得た知でも生きている。
むしろ、本能を抑え知のみで生きることを良しとしている。
知至上主義は情を抑え知で生きることを求める。
しかし、人間はあくまで生物である。情で生きる存在である。
知は新たに加わったものに過ぎない。
情を捨て知のみを求める知至上主義には無理がある。
知至上主義の暴走はやがて一神教に陥る。
個に分断され、知を至上のもとすることを求められた人々は、何かに救いを求めざるを得なくなる。
そこで発明されたのがメシア思想、一神教である。
一神教は一神への隷属を求める。
一神への隷属は個人主義とは相矛盾する。
一神教によって与えられる救い、幸福は自己満足に過ぎない。
矛盾によってもたらされる幸せ感は自己欺瞞である。
また、個人主義ゆえに生まれた一神教は基本的に排他的である。
他の神の存在を許さない。
この厳しい排他性は人々を争いに導く。
争いがすべての人々に幸せをもたらす訳がない。
共存は一神教とは相いれない。
論理矛盾である。
地球規模での人々の争いは、やがて人類の滅亡を招くだろう。
この人類の滅亡から逃れるすべはあるのか。
一神教を克服することはできるのか。
まず、知至上主義を克服することである。
そして、個人主義を克服することである。
人間は生物である。
生物は本能で生きる。
人間にも本能はある。
われわれは生物であることを思い出し、本能を取り戻すことである。
知至上主義を捨て、感情を大切にし、知と情のバランスを取り戻すことである。
個人主義を捨て、自然との一体感を取り戻すことである。
情を回復してはじめて、われわれは本当の幸せを感じることができるのである。
知による自己欺瞞ではない本来の幸せを感じることができる。
なお、誤解なきよう付言すると、本能と欲望とは違う。
本能のみで生きる人間以外の生物は仲間を含め無駄な殺戮は行わない。
レジャーとして動物を殺したり、やたら仲間同士の殺し合いをするのは人間だけである。
本能を捨て、知を至上とする人間だけが残酷なのである。
人間以外の動物は殺戮のための殺戮は決してしない。
本能が残酷なのではない。
知が残酷を生み出すのである。
知と情のバランスが大切なのである。
情を回復することが急務なのである。
人間は生物である。機械ではない。
機械に幸せはない。
   (平成26年10月17日)

   科学の見地から、人間を考える  

自分は幻想である。
私は幻想である。
あなたも幻想である。
正確には、自分という意識は幻想である。
それが証拠に、肉体が不全になると意識は消えてしまう。自分という意識も消えてしまう。
自分という意識には実体はない。有るのは肉体だけである。
意識は肉体の起こす現象に過ぎない。自分という意識も現象に過ぎない。
肉体が消えると意識も消える。自分という意識も消える。
われわれは自分という絶対的なものがあるように思っている。
しかし、肉体が消えると自分も消える。絶対的なものは何もない。
自分という意識は幻想に過ぎない。幻想だから意味がないという訳ではない。
人の一生の間続く幻想だから、それはそれなりの意味がある。
人の一生を全うさせるための幻想だから、その限りにおいて意味がある。
それ以上ではない。もちろん、それ以下でもない。
   Cogito, ergo sum
   われ思う、故にわれあり
まさに、このことを言っているのではないだろうか。思わなければ、われはないのである。
多分、もっと哲学的な深い意味があるのだろう。
しかし、多分、それは人間の自己満足に過ぎないのではないだろうか。(分っている人にとっては、自己欺瞞かもしれない。)
哲学は、勿論宗教も、自分の存在価値を何とか捏造しようとするものだからである。
一人一人の人間の存在理由はある。
ホモ・サピエンスという生命の流れの一端を担っているからである。
ただ、命の流れの一滴である。一滴にすぎない。
この一滴に何やら絶対的な価値があるやに考えたくなるのが人間の性である。
これは、幻想である自分という意識が生み出す更なる幻想である。
幻想には幻想としての価値はある。
しかし、それが行き過ぎると妄想になる。
自分という幻想が嵩じると絶対的な自分という妄想になる。
個の妄想である。
そしてそれが更に嵩じると肉体にまで及び、不老長寿願望にまでなる。
幻想の暴走、妄想の妄走である。
現代社会は、個の妄走社会ではないだろうか。
個を絶対と考え、ホモ・サピエンスとしての在り方を見失っているのではないだろうか。
自分が幻想であること、個が幻想であることに目を瞑って迷走し続けているのではないだろうか。
基本的人権、これは誰に対して権利要求をしているのか。それに対する義務を誰に負っているのか。
歴史的には、絶対王政、封建制に対する人々の要求ではあった。今は表面的には絶対王制も封建制もない。
今や、基本的人権はホモ・サピエンスという大枠の中で考えなければならないのではないだろうか。同時にわれわれの負う基本的義務も。
権利の存するところには、必ず義務が存する。
義務を忘れたところに、現代の妄走があるのではないだろうか。
それでは、ホモ・サピエンスとしてのわれわれの基本的義務は何なのか。
ホモ・サピエンスが生き残ることである。
生き残れなければ、私の子孫も、あなたの子孫も存在しえない。
あなたのDNAの一部を持った子孫が存在しなくて、あなたの存在意義がどこにあるのか。

意識はわれわれの祖先の発明である。
進化の過程での発明である。
ネアンデルタール人にも意識はあったろう。
われわれの祖先がどの段階で意識を持ち始めたのかは分らない。
類人猿は意識を持っているだろうか。
少なくとも、自分という意識はないのではないだろうか。
意識するには言語が必要だという説がある。
言語化とは、概念化、象徴化である。
少なくとも、自分を意識するためには象徴化が必要である。
人間は言語を獲得して初めて自己を意識できるようになったのではないだろうか。
意識するには、第三者の立場に立ってものごとを眺めなければならない。
ただ、眺めて気がするという段階では不十分で、それを表現(説明)しなければならない(自分に対しても)。
表現するには言葉が必要である。
したがって、意識には言語が必要なのである。
自分を意識するとは、自分と異なる第三者の立場に立って自分を眺めなければならない。そして、それを言葉で表現しなければならない。
この時、第三者の立場に立って表現しようとしているのは誰か。
また、その説明を聞いているのは誰か。
共に自分である。自分の中に話をしている自分とそれを聞いている自分がいるのである。
これでは内部分裂ではないのか。自己矛盾ではないのか。二重人格ではないのか。
このようなことが起こりうるのは、そもそも自分が、自分という意識が幻想だからである。
自分の中に二つの自分を持つ。そして、一つの自分がもう一つの自分を観察し、話しかける。
これは、人間が従来の古い脳・大脳辺縁系の上に新しい脳・大脳新皮質を獲得し発展させたことによって可能になったのではないだろうか。
ホモ・サピエンスは古い脳を監視するために新しい組織、すなわち新皮質を獲得し発展させたのではないだろうか。
大脳新皮質の中でも前頭前皮質といわれる部分は、われわれの進化の過程で600万年〜700万年前に、脳全体が3倍大きくなった中で、6倍大きくなったという。
この前頭前皮質は自分を見る新しい自分として進化してきたのではないか。
そして、やがて自分だけでなく外部のものも見ることが出来るようになり、客観視が可能になり、ミラー細胞的働きが出来るようになってきたのではないだろうか(ここまではチンパンジーも出来る)。
そして、さらに進化し、自分自身を外部のものと同じように客観的に見ることが出来るようになった。
これが自己認識の始まりであり、意識の始まりではないだろうか。
意識には言語が必要である。
この前頭前皮質の進化のどの段階で言語を獲得したのかは分らない。
言語を獲得するためには、脳の進化も必要だったろう。
そして、脳も大きくなり、言語を獲得することによって、ものの象徴化、概念化が可能になり、やがて、それらのものごとを組み合わせての論理展開も可能になっていったのだろう。
したがって、大脳新皮質の進化と言語の進化は相互に依存しながらパラレルに進んできたのではないだろうか。
脳の進化と言語の進化と意識の進化は三つ巴のパラレルとなって進化してきたと思う。
もちろん、思考も意識の一部である。
脳は肉体の一部である。肉体は実体であり、実在である。
命は現象である。事実である。
意識も現象であろう。しかし、外部からは観察できない。
意識には実体はない。実在ではない。事実でもない。
やはり意識は幻想なのだろう。
意識現象はある。しかし、その意識の中身は幻想なのである。
意識を得ることによって、思考することによって、ホモ・サピエンスはその存続をより確かなものにしえたか。
確かに物質文明によって、ホモ・サピエンスはこの地球上に増殖し、人口は今や60億を超え、やがて100億に達するのも時間の問題といわれている。
ホモ・サピエンスははたしてこのまま増殖し続けられるだろうか。
ホモ・サピエンスの生存環境としての地球は変質しつつあるのではないだろうか。
地球温暖化だけではない。地球温暖化は結果としての一つの現象にしか過ぎない。
原生林が消滅し、内陸部の砂漠化が進み、氷河まで縮小し始めているという。
海の流れも変わるだろう。大気の流れも変わり始めたのではないだろうか。
我々の生きる環境は、それぞれに大きな変化に見舞われるのではないだろうか。
その時、人々はどうするか。
民族大移動の時代が始まるかもしれない。
地球規模での民族の大移動の時代が。
それは地球規模での騒乱の時代である。
その一歩前で我々は踏み止まれるだろうか。
踏み止まらなければならない。
もう時間は余りない。
    (平成26年10月17日)

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