新しい言語学

手紙4

     中村明先生への手紙  

中村明先生

 「センスある日本語表現のために」を読ませていただきました。副題の「語感とは何か」に惹かれて取り寄せました。じっくり読ませていただき、吃驚仰天いたしました。
「語感とは何か」と題しながら、また、いろいろ語感について論じながら、語感の本質にまともには触れていないからです。辞書的な定義は別にして、常識的に言えば、語感とは“言葉の音の響きの聞こえ”ではないでしょうか。感覚的言語論とおっしゃっているのは、この聞こえのことでしょうか。また、超えるとおっしゃっているのは、これを無視してという意味でしょうか。

 先生は、言葉の音の響きの聞こえにいろいろ差があることにお気づきではないのではないでしょうか。文中、促音の効果、濁音の効果、半濁音特有の語感などとおっしゃっていますので、うすうす気づいておられても、ご自身では感じ分けておられないのでしょうか。
 意味の違いではなく、慣行上の違いでもなく、言葉の音一つ一つが異なる固有のイメージをもっていることがお分かりになっていないのではないでしょうか。

 今朝たまたま見ていた民放のテレビで、街頭インタビューに答えて、若いイタリア人女性が、日本語で優しい感じの言葉は“ユキ”と“アイ”、そして“オコノミヤキ”は重たい感じだといっていましたが、まさにこれが語感です。
 先生も、文中、接辞「ど」、「か」、「いけ」の語感について書いておられ、また、“感触の違いに似た意味の微差”ともいっておられるので、意識下では感じておられるものの意識上に明確に上げることが出来ずにおられるのではないでしょうか。(なんらかの色やにおい、あるいは肌ざわりのようなもの、ともおっしゃっています。)

 言葉の音一つ一つが何らかのイメージを持っていることは、江戸時代の国学者、鈴木朖をはじめ賀茂真淵、本居宣長が論じており、幸田露伴も「音幻論」で母音一つ一つのイメージの説明をしていますが、海外でもソクラテスがプラトンの「クラテュロス」の中で、R は舌をもっとも動かすので動きを表わすなどと、いくつかの音の説明をし、言葉は口によるもののあり様の模倣だとまでいっています。
 私たちはこの考え方を発展させ、言葉の音の響きの聞こえ、すなはち、語感は発声体感が基になっていると見定めました。

 「ど」(Do)は To の濁音で、T にはソクラテスもいっていますように、止まる、溜まる イメージがあり、この T が濁音化されることにより T のイメージが強調され、Do はアイウエオの中ではもっとも重く、中身の詰まった感じになります。
「か」(Ka)の K は子音の中ではもっとも軽く、乾いて、薄い感じがあり、母音のなかでももっとも淡く薄い感じの a といっしょになって、ひ弱さを強調する接辞として使われているのです。
「いけ」(iKe)は、生命力、意思を表わす鋭い i と、薄さ、固さからくる鋭いイメージを持つ K と、躊躇感を表わしやすい e が一つの流れとなって、自分の意思としての嫌悪感を表わす接辞となっているのです。この同じイメージを使った言葉としては、「いけづ(大阪弁)」などがあります。ただ、最近では「イケメン」などよい意味で使われるようにもなりました。これは、いけ!いけ!の前向きのイメージが強く感じられるようになったからでしょう。(この場合の、e は押さえるイメージの念押し的な使われ方です。命令形)

 “森”と“林”の違いも語感的には明確です。
Mo という音は、ものごとが盛り上がっていくイメージですし、“林”はパラパラと木が生えている感じです。
ご存知のように、奈良時代以前は“林”は PaYaSi と発音していました。もっとも、PaRaPaRa が“林”の語源かというと、私は“お囃子” から来たのではないかと思っています。奈良のお水取りとときに掲げる松明を HaYaSHi(元はPaYaSHi) というそうですが、その材料になる薪を切り出す裏の林を パヤシ→ハヤシ というようになったのではないでしょうか。

 私たちは日本語の音韻すべてがそれぞれ持つイメージを推定、コンピュータ化に成功しました。先生は今のところ語感を分析的に把握するための有効な方法はない、とおっしゃっていますが、ビジネスの世界では実用化されています。
“レクサス”という音が“ベンツ”、“ビーエム”ほど重厚感がないこともすぐグラフでO/P することができます。

 「死ぬ」も、もとは何らかの間接的な表現であった、とおっしゃっていますが、全くそうで、私は、水がなくなる説に賛成です。
先生のおっしゃる“しおれる”の他に、“しぼむ”“しなびる”“しみる”“しづく”“霜”などもそうでしょうし、“沈む”“静”“塩”などもそうではないでしょうか。(つけるとしおれるから塩。)
「死ぬ」の ぬ の使い方は、帰るという意味の大阪弁「いぬ」と同じではないでしょうか。

 先生がおっしゃる語感、すなはち、「言語使用上の語感の違い」という意味での語感のベースには、言葉の音の響きの聞こえ(本来の語感)があるのではないでしょうか。この語感を感覚的な個人的なものとして無視してしまっては、ものごとの表面をなぞるにすぎないことになってしまうのではないでしょうか。(ソシュールの犯した過ち)

 随分無礼なことを書きましたが、お叱りのお言葉でもいただければ幸いです。(もっとも、センスある日本語表現のためには、とても親切なよいご本だと思っています。)
 以上書きましたことは私のホーム・ページにも詳しく書いております。また、具体的な分析例は、その次のホーム・ページに載せてあります。ぜひご覧いただき、ご意見など頂ければと思います。
    http://theory.gokanbunseki.com
    http://www.gokanbunseki.com
                      平成21年4月27日
           増田嗣郎
追補

 半濁音について、言葉の活動的ひびきに関係しているように思うと書いておられますが、これもまさにそうで、P音は両唇を破裂させるようにして発声しますので、軽く飛び出すイメージがあります。なお、半濁音という言い方は日本語独特のもので、P は無声音で、P の有声音は B です。濁音になると、重み、濃さが増して爆発のイメージになります。ボイン は迫力がありますが、ポイン は軽い、コイン となると、カワイクなります。
 「朝カル」について、カル が軽いを連想させてとおっしゃっていますが、語感的に カル そのものが軽いのです。
 ホロビッツには滅びではなく、ホロにがい、ホロッとするなどの深みを感じるのではないでしょうか。(冗談を真に受けている訳ではありませんが、)

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