新しい言語学

手紙3

   「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」を読んで  

「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」を読んだ。先ごろ読んだばかりの「日本の感性が世界を変える」とよく似た趣旨の本である。発行日が、前者は2014年7月2日に対し、後者が2014年9月25日となっているから、別々に構想されたものなのだろう。ただ、前者に後者の著者鈴木孝夫の名前が出てくるからお互いに影響し合ってはいるのだろう。共に欧米語に対する日本語の違いを指摘、その違いを活かすことが、後者は人類の存続、前者は世界の平和に役立つと説いている。
鈴木孝夫が言語社会学者であるのに対し、本書の著者金谷武洋は国外で日本語を教える日本語学者である。それ故か、後者は人類のあり方、文明というものにつての本質的な論考になっているが、本書は日本語と英語、フランス語との違いの具体例を豊富に紹介、その違いを整理はしているが、なぜそのようなことが起こるのかの解明は表面的な説明に終わってしまっている感がある(でも、非常にいい本です。是非お読みください)。

私は、鈴木孝夫の「日本の感性が世界を変える」については、二度にわたり書いたので、今回は金谷武洋の「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」について書いてみたい。
まず、本の帯に「私たちが学校で習った日本語は、間違っています!」とあるが、未だに主語にこだわる学校文法が間違っていることは、その通りだと思う。ただ、表紙側の帯にある「日本人は英語が苦手なのは、日本語が素晴らしすぎるから!」は間違いだと思う。 実際、私が英語をいつまでもマスターできなかったのは、英語の発音が日本語の発音と本質的に違うからである。加えて、英語の発想方法が違い、英単語をなかなか覚えられなかったからである。少なくとも私に関しては、日本人が英語を苦手とするのは、日本語と英語が余りにも違いすぎるからである。(もっとも、本の帯は編集者が作るもので、著者の真意を反映していないのかもしれない。)

本文に入ると、著者は、私が前々から言っている‘有難う’と‘thank you.’の違い、‘I love you.’と‘好きやねん’の違いについても取り上げているが、私とは理解が少し違うようである。その様なことを含め以下著者の説明を検討してみたい。
「英語と日本語の決定的な違い」として「英語の文には人間が出てくるのに、日本語の文には出てこない」と言っているが、そうだろうか。私の言う‘I’、‘you’を言うことを避けることと人間が出てこないこととは違う。日本語で‘I’、‘you’を避けるのは人間を避けているからではない。‘I’と自己を主張し、‘you’と相手を決め付けることを避けたいがためである。‘有難う’は著者も言うように「わざわざしてくださって、それは有り難いことだ」という意味で、‘あなたが私に’が隠されているに過ぎない。人間との近さについていえば、日本語の方が英語よりも余程人間くさい。これは、英語がものごとの客観説明であるのに対し、日本語は人間である自分の主観の吐露だからである。
私が英語を人間中心で、日本語は自然中心と言っているのは、ものの考え方のことで、著者のいう「する英語、ある日本語」がこれに該当する。英語人は「人は神が作った」と言う。この‘作る’という作為、すなわち‘する’が人間中心の考え方なのである。自然が作れば、それは生ったと言う。日本語人は「人も神も生った」と感じている。それが自然だと感じている。日本語人は‘I love you.’には作為のあざとさを感じ、余程鈍感でなければ口に出来ない。‘好きや’に自然な素直さを感じる。
したがって、著者の「大いなる自然を前にして、西洋の近代人は「一体だれがこんな素晴らしい自然を作ったのだろう」と思ってしまい、それが「神」という発想になったのでしょうが、それはおそらく本来は日本語のような自然中心の言語だった西洋語が少しずつ言語を人間中心に変えていったことと並行しているに違いありません。」という発言は発想が逆になっている。そもそも‘誰が作った’という発想の時点ですでに人間中心になっている(これは近代に入ってからの話ではなく、少なくとも聖書が作られた時点では既にそうなっている)。日本語人なら自然の中でただ素晴らしいと感じるだけである。そして、そのことにしみじみと幸せを感じるのである。有り難いと感じるのである。また、西洋人の「神」と日本人の「神」は、その概念が全く異なる。西洋の神は人格神であるが、日本の神は八百万の神で自然そのものである。この時点で、すでに西洋ではもの考え方が人間中心になっている。(ここで、著者が「神」を人間中心の根拠にしているのは面白いし、正しい。ただ、それが日本人的発想故か、西洋人もそう発想するのか。日本の神についてはどう考えておられるのか。興味があります。)
「西洋諸国の「お家の事情」で、近代社会になって個人主義が発展し、主語が必要になった」とあるが、‘I’、‘you’についてはそのような面もあるが、主語全体について、あるいは主語を必要とする文章構造になったことについて、個人主義で説明がつくのだろうか。なぜ個人主義がこうまで発展したのか、その「お家の事情」とは何なのか、そして、それが同時に言語に影響を及ぼしたこと自体が重要なのではないだろうか。
「ナゼ人称代名詞を使うか。動詞が活用するから・・」とあるが、では、ナゼ動詞が活用するのか。「主語があるから」ではいたちごっこになってしまう。ここにも根本的な原因があるはずである。表面的には、主語のあるなしは、論理形式の問題ではないだろうか。
「講師の池上先生の出した結論はこうです。英語が視点を状況の外に持つのは、英語に「主語」が不可欠だからです。」ともあるが、これも表面だけを見ているからで、視点を状況の外に持つことと、主語が不可欠なことが、同じ原因から生じた異なる側面と見ることも出来る。この根源にある原因を探ることが重要なのである。視点を状況の外に持つとは、客観視することである。

われわれ人類の祖先は、森を出て、直立二本足歩行を始めるようになり、手を自由に使えるようになると同時に、脳を大きくすることが出来るようになった。人類は進化の過程で、特に類人猿の段階で、旧い脳に新しい皮質が覆いかぶさるような形で大きくなり始めたが、直立の姿勢がとれるようになりより大きな重さに耐えられるようになって、脳をより大きくする可能性がでてきた。手をより器用に使いこなすには、脳からより細かなより複雑な指示を出す必要がある。そのためには脳を大きくしなければならない。ひ弱な人類がより危険な草原に出れば、より細かな注意も払わなければならなかっただろう。それやこれやで脳は大きくなり始め、手もより器用に使えるようになっていった。これらは同時並行的に相互に影響しあいながら進んでいった。そして人類は道具を作ることを覚え、火を使うことを覚え、栄養価が高くてより柔かいものが食べられるようになって、咀嚼のための顎が退化し、喉頭が奥に沈下し、口腔、咽喉が長くなり、結果として色々な母音を発声し分けられるようになった。
なぜ人類は声を出せるようになったのか。声は悲鳴とも唸りとも違う。意図して出せるそれぞれに違いのある音声である。犬猫はもちろんボノボ、チンパンジーも声は出せない。類人猿は口腔が短いため複数の母音を発音し分けられないのである。また、非常に重要なことは、声には発音体感がなければならないのである。種それぞれ共通の発音体感がなければならない。人間は各人が同じような発声器官、すなわち、唇、舌、口腔、ノド、声帯などの構造を持っている。同じ器官の同じような使い方には同じような体感が生じる。同じような使い方をしなければ同じような音は出ない。同じような音が出れば、同じような発声体感が生じているのである。オウムの口真似は声ではない。発声体感が同じではありえないからである。われわれの祖先の親戚であるネアンデルタール人が言葉をしゃべれなかったのは、咽頭が十分奥に沈下しきらなかったため母音を発音し分けられなかったためである。
なぜ人類は声を出すようになったのか。
クーイングのバライエティが増えていったからではないだろうか。あるいは、仲間への威嚇、自己主張、合図などの際にジェスチャーに音声が伴うようになり、それが自立して声になりコトバへと進化していったとも考えられる。いずれにしろ、この時の声は、発声する人の気持が反映したものだったろう。その声を聞いて、発声者の気持が分るのは、聞き手も同じ発音体感を経験しているからである。この相手の意図、気持を読む能力は類人猿の段階ですでに獲得している(ミラー細胞)。
声からコトバへの進化は一つの跳躍である。間に断絶がある。声は気持ちを表し、それが伝わるものであるが、コトバになるには概念化が必要である。声=気持という実在的なものと概念という抽象化されたものの間には断絶がある。抽象とは実物から何かを切り取った概念化であるが、これは新しい脳、新皮質の発達によって初めて可能になったのだろう。新皮質がなぜ生まれ発達したのか。旧脳を監視、監督するためではなかろうか。旧脳、すなわち自分自身を監視、監督することは自分自身を客観視することである。新皮質の発達によって人間は客観視することが出来るようになった。客観視することによって概念化も可能になった。この客観視が意識ではないだろうか。
意識はコトバによってはっきり姿を現すようになったのではないか。コトバには表せない意識というものも有り得る。それは意識というよりは前意識とでも言うべきものかもしれな。少なくとも、コトバによって意識は顕在化し大きく成長することが出来るようになった。そして、この意識が知の始まりだろう。したがって、知は新皮質の拡大によって初めて得られたのである。新皮質と意識とコトバと知は互いに影響し合いながら共に成長、進化していった。
意識が高度化し論理と結びついたものが思考である。
知と思考はある意味一体のものである。言葉は思考のために生まれたという学説がある。しかし、それは違うだろう。人間は言葉を得て、その副産物として、思考が可能になったのであろう。
人間は生物としてもともと情動的なものは持っていた。そしてその情動的なものを監視、監督する形で知なる意識を新たに獲得した。あたかも、新皮質が旧脳に覆いかぶさるように、知が情に覆いかぶさってきた。人間は情の上に知を獲得した。そして、人間は情と知の存在となった。
人間は声を得、コトバを得て、それを言語へと進化させた。コトバが言語になるには論理が必要である。客観視によって生まれた知の本質は論理である。新皮質の発達、知の進化によってコトバは言語へと進化した(ただ、この場合の論理はリニアーな単純論理であるが)。
人類が初めて言語を得たのはいつか。アフリカを出る前か、出てからか。出る前ならもともと言語は一つであったということになる。それが地球の各地に広がり、それぞれ別々の進化をとげ、また離合集散を経て、今の6000余りの言語になったと考えられる。
もともとの言語はどんなものであったか。初めのコトバは出来ては消え出来ては消えしていただろう。やがてその内のものが人々に認められ通用するようになった。言葉の使い方、並べ方なども色々な形が現れ消え、また現れしたのだろう。そしてやがて一つの形に落ち着いて行った。そのようにして出来た一つの言語も時の経過と共にいろいろと変わっていっただろう。一つの小さな変化の違いが最終的には大きな違いに帰結することは、複雑系科学の教えるところである。一つの言語が英語になり日本語になることは十分あり得ることである。
それでは最初の言語はどんな言語であったか。今では知る由もない。論理的に推測するしかない。何が最もありそうかと。確率論の領域である。
私は、最初のコトバは短い音で母音が中心、気持に裏付けられたものだったと思う。多分、クーイングから生まれてきたのではないかと思う。
人間の声は母音と子音から出来ている。口腔を共鳴させて出る音が母音で、声の主体は母音である。唇、舌、喉、そして口腔にいろいろ細工をして無理に特徴のある音を出すのが子音で、子音だけでは声にはならない。子音はそれぞれ違いがはっきりしておりデジタル的である。母音は互いに連続して発声することが出来る、すなわち境界のはっきりしない、ある意味あいまいなアナログである。
現在の日本語の母音は、ア、イ、ウ、エ、オ の五つであるが、それぞれが伝え得るイメージはハッキリしている。
/ア/ は、オープンでおおらか。そこから明るい、あわい、温かい、などのイメージも感じられる。
/イ/ は、強い意志。加えて、鋭さ、小ささ、冷たさ、などが感じられる。
/ウ/ は、身体の中から外への動き。そこから動きそのもの、内面的なものが感じられる。
/エ/ は、後下に平らに引くイメージ。そこから躊躇、遠慮、そしてそれ故、やさしさ、上品さが感じられる(もっとも、子音/K/、/G/と結びつくと生理音を連想させ、逆に下品さが出てくる)。
/オ/ は、口の中に籠るまとまり感。そこから重い、暗い、大きい、そして動きが少ないイメージとなり、存在感を感じさせる。
これらは口腔を中心とした発音体感から生じるものである。この発音体感は言語による違いは余りないと思われるが、言語により母音を重視するか、子音を重視するかの違いはある。
原初のコトバは、自分の気持を声として出し、相手にそれを感じとってもらうことを期待してのものであった。気持と声は結びついていた。それを結びつけるのが発音体感である。現在の言語学では、言葉の音に感じられるイメージを音象徴といっている。私は語感と言ってきたが、最近はそれぞれの音素の持つ発音体感をベースとするイメージを言音感、コトバの持つ連想を含めたイメージを語音感と呼ぶことにしている。したがって、言音感は万国共通であるが、語音感は文化、言語によって異なり得る。
原初のコトバは、したがって、極めて主観的なものである。言語としてもつぶやきに近いものである。これが言語の原型である。
やがて人々は、主観の表明にすぎないコトバを自分の外のものごとを指し示す言葉として使い始める。抽象化、概念化の始まりであり、思考の始まり、客観視の始まりでもある。知の始まりと言うことも出来る。
気持をベースとした声によるコトバを知の言葉として使えるようになっていったのである。主観のコトバで客観を表現するようになっていったのである。ここに声による言語の二重性、すなわち、気持(情)と知の二重性、主観と客観の二重性が生まれてきたのである。
人類は情の上に知を得て、知を発展させ、今の文明を得た。今の人類の繁栄があるのは知のお陰である。
この知の恩恵が大きいだけに、厳しい自然環境におかれた一部の人々は知に過度に傾倒した。情を劣るものとして排除しようとすらした。自らの内なる自然(情)を蔑視してきたのである。
ものの考え方として情を無視して知を追求した結果、西洋の哲学は個人なる概念を発明した(発見ではない)。知は個人絶対信仰を押し進め、個人主義を生み出し、義務の存在しない基本的人権なるドグマまで産み出してしまった(権利には必ず義務が伴うはずである)。これらのことが言語変化にも並行的に現れて、知の重視が言語の論理重視の客観視化へ、情の無視が語感の無視、母音の軽視に、そして個人絶対思想が‘I’、‘you’必須の言語へと導いていったのである。これが現在の西洋語である。
一方、日本語は温暖な自然環境にも恵まれて、つぶやきにも似た主観の言語であり続けることが出来た。日本語は母音を中心に気持を言葉の音で伝えることの出来る言語であり続け得たのである。日本語には語感が生き続けている。日本人は語感を感じながら言葉を交わしているのである(無意識にではあるが)。
英語は論理的で、客観的な言語であるから、説明的で舞台の上のセリフのような言語である。SVOの構造もしっかりしており、主語も必要なのである。‘I’、‘you’問題は個人主義故にそうなったという面もあるが、逆に、‘I’だ、‘you’だと都度確認するが故に知らず知らずに個人主義的考え方が強化されてきたという面も見落としてはならない。
日本語は主観のその場その場の言語であるから、いちいち‘I’だ、‘you’だと言う必要はない。むしろ言うことを不自然と感じ、言うことを避ける。また、その場その場の状況を前提とした言語だから、いちいち主語を立てる必要もない。

英語の‘refine’を日本語に訳すると‘洗練’、日本語の‘洗練’を英語に訳すると‘refine’である。英語の‘refine’と日本語の‘洗練’はほぼ同じものと考えられている。しかし、英語の‘refine’と日本語の‘洗練’は全く違う概念である。むしろ全く逆の概念である。‘refine’とは‘fine’にすること、すなわち‘純化’することである。‘洗練’とは‘練る’ことである。‘refine’は異物を除くこと。‘洗練’は異物をも練り合わせること、‘融合’である。純化と融合では真逆の行為である。英語と日本語では真逆の行為を同じ概念としている。
これが西洋文化と日本文化の本質的な違いなのである。
ものの考え方として、西洋文化では純化することを良しとし、日本文化では練り合わせ融合することを良しとするのである。
では、この違いはどこから出てきたのか。
自然は、すなわちこの世は元来混沌である。混沌の中で生き抜こうとした我々の祖先・人類は新皮質を拡大させ知を得た。知を得てコトバを得て、意識を思考へと高めることが出来た。知は思考によって自らを客観視することが出来るようになった。自らを客観視することから自我なるものを見つけ出した。この自我の発見から道が二つに分かれた。混沌なる自然の中に自らを置き続けるか、混沌と対決するかである。知の働きによって人間はいろいろと自然を克服してきた。ここで知への過剰な信頼が人間を自然との対決へと向かわせた。自然環境が余りにも厳しかったからかもしれない。比較的温暖な自然環境にあった一部の人々は、もの考え方として、自然との共生の道に留まった。共生と言うよりは自然の中に抱かれて生きるという感覚を持ち続け得た。
知の命じるままに自然との対決の道を選んだ人々は、ものの考え方として人間中心主義となった。言語も人間中心主義に変質していった。知至上主義は論理帰結として‘refine’・純化思想を生み出した。これは古代ギリシャの哲学者の言葉「イデアは一つである」にすでに見える。真理なる絶対のものがあるというのは一種の信仰である。それが一つであるというのは、リニアーな論理に基づくドグマである。この‘一つ’という思考が‘refine’思考に結びつく。そしてこれが○・×思考に結びつくのである。○・×思考は○か×以外のものを認めない(×だから、結果として○しか認めない、一種の原理主義である)。デジタル思考でもある。
‘refine’思考の知は情を否定する、あるいは軽視する。ここから西洋語は気持の伝達を捨て情報の伝達に傾斜していく。そして、母音を軽視し、語感を喪失していく。
自然と共生する道に留まった人々の言語は自然中心主義のままであり、主観としての気持の表明を中心として、語感を残し母音中心で今日に至った。これが日本語である。自然に親近感のある日本文化は、○・×だけではなく、△を認める。いや、むしろ△を重視する。△とは、単なる○と×の間のものではなく、○と×を繋ぐものでもある。切れ目がなくアナログなのである。英語がデジタルな子音を重視し、日本語がアナログな母音を重視することと符合する。

英語には、新皮質における思考、すなわち意識出来る思考として、‘think’という概念があるが、旧脳(情)における思考、すなわち意識化出来ない潜在意識としての思考としての概念‘思う’にあたる概念も言葉もない。同じく、知の行為としての‘love’はあるが、情の状態である‘好き’にあたる言葉はない。
日本語では、‘愛してる’と‘好きやねん’は違う。
これは英語の‘スル’と日本語の‘アル’の違いでもある。英語では「神が人を作った」のであり、日本語では「神も人も生った」のである。‘作る’は‘スル’、‘生った’は‘アル’である。‘スル’は作為であり、‘アル’は自然である。日本人は作為を自然より下のものと考えている。ちなみに、西洋では神は人格神で、人間の世界のものである。日本では神は八百万の神で、自然と一体のものである。
日本語の‘ありのままに’にあたる英語の概念は「Let it go!」であるのに対し日本語での概念は「Let it be!」である。‘スル英語’と‘アル日本語’の対照である。「Let it go!」をあえて日本語に訳すると「勝手放題」かもしれない。
人間中心主義は根本的には現状否定、それ故に‘スル’を良しとする。‘スル’は作為である。自然中心主義は現状肯定、‘アル’を良しとする。自然中心主義は基本的に‘ありのまま’を良しとして、自然への作為を極力避けようとするのである。
例えば、庭園造りでも、日本文化では、自然を極力生かした山水造りとするが、西洋文化では、土地を平らに開拓し、左右対称の幾何学模様の大庭園を造ろうとする。日本人にとって、日本庭園は自然に包まれたやすらぎを感じさせるが、西洋庭園は威圧感と共に、自然を征服した雄叫びを感じさせる。

鈴木孝夫の言うように、このまま自然環境破壊が進み、人口増加が進めばやがて人類はこの地球上に住めなくなる。その前に、人類の生き残りをかけた大騒乱時代があるかもしれない。それを避けるためにも、金谷武洋は世界を平和にするために日本語をもっと広めるべきだと言っているのかもしれない。
私はもっと根本的なことが重要だと考えている。それはものの考え方を変えることである。知偏重を改め、情とのバランスを取り戻すこと。知ゆえの‘個’を絶対と考える個絶対主義を捨て、繋がりのある個、流れの中の個の感覚を取り戻すことである。これは人間中心主義から自然との共生主義への回帰でもある。心のルネッサンスが必要なのである。
このためには、鈴木孝夫、金谷武洋両先生の言うように日本語を世界に広めることも有効だろう。しかし、その実現性はあるのか。難しいと思う。少しずつでも広げればいいでは間に合わないだろう。

私は、日本語を部分輸出してはどうかと思う。
○ まず、語感を取り戻し、気持の伝達が出来るように、オノマトペを積極的に輸出してはどうか。折角海外でも日本のマンガが読まれるようになってきたので、オノマトペをマンガにもっと使って欲しい。海外発信力の強い村上春樹も作品の中にもっとオノマトペを使って欲しい(各国語に翻訳しにくいが、そのまま使うように仕向けて欲しい)。
○ 語感の豊富な単語、特に接尾助詞、ね、な、よ、そして、格助詞、も、が、は、などを各国語に混ぜて使ってもらうように仕組む。「Let’s go NA.」、「Yes, yes, OK ne.」
○ 使いやすい言葉、有難う、すみません、そうかそうか、分かった分かった、などを‘もったいない’、‘おもてなし’と同じように考え方と一緒に輸出する。同じ言葉なら、東京言葉よりも関西弁の方がいいと思う。一つ一つの言葉の語尾の母音を強調して発音するからである。
○ もっとも難しいが、非常に重要なこととして、‘I’、‘you’を使わなくすることがある。‘thank you.’の代わりに‘ARIGATOO(有難う)’を使うとか、‘I’の代わりに極力‘We’を使う運動を起こすとか。‘you’の複数形‘youse’を‘you’の代わりに使うようにする手もある。
‘ユーアイ撲滅運動’(鳩山由紀夫撲滅運動ではありませんが)、‘アイを隠そう運動’。
など色々とあると思う。
 これが私の今年の初白昼夢です。本年もよろしく・・
      (平成27年1月1日)

    木村紀子先生への手紙  

木村紀子先生

「ヤマトコトバの考古学」「古層日本語の融合構造」、読ませていただきました。
最初「ヤマトコトバの考古学」を店頭で見つけ、買わせていただきました。
記紀をはじめ古い文献の深い読み込みに驚嘆いたしました。
古い日本の成り立ちを言葉から解きほぐしてもおられ納得もし、大変面白く読ませていただきました。
ここ数年悩んでいた「Ni」の意味に付き、それが「土」を表わしていることを知り、早速私のホーム・ページに一文を追加いたしました。
そのコピーを添付させていただきます。 
(私のホーム・ページのアドレスは 
http://theory.gokanbunseki.com
です。一度ご覧下さい。3ページ目、語呂合わせ に載せさせていただきました。)

また、「Shi」が「水」を表わすことは中西進先生のご本から知っておりましたが、その語源がいまひとつ分からず、何か手掛かりでもと思い「古層日本語の融合構造」を取り寄せ読ませていただきました。
そして、先生が、言語音感は発声時の口腔周辺の体感、並びに、視覚印象だとおっしゃっておられるのを発見、またまた驚嘆いたしました。

実は、私は、平成15年8月、商品などのブランド名の音の響きを分析することを目的に設立されたベンチャーの立ち上げに参画。この時、語感は聞こえではあるが、その元は発声時の口腔内体感であることを聞き、それを出発点に言葉の音の印象の数値化に成功、語感を自動的に分析するコンピューターソフトを開発、現在それらを使ってのビジネスを展開しております。

これまでのビジネス展開上もっとも大きな障害は、語感が発声体感に根ざしていることを理解してもらうことでした。
(語感そのものが存在することを受け入れない人もたくさんいます。彼らは、そんなものは教わったからだとか、意味だと思いこんでいるようです。)
そこで少々言語学の本も調べてみましたが、なかなか、言葉と語感の関係を認める研究者は見つかりませんでした。ソクラテスが「クラテュロス」の中で、幸田露伴が「音幻論」の中で、それらしきことをいっているのが見つかりましたが、単発でその後の発展はなかったようです。
あげくに、現状は、ソシュールが言語学の第一原理として「音と意味との恣意性」をとなえ、わが国言語学者もそれに盲従しているような有様です。
先生が言語音感から一部のコトバが出来ていることを認めておられるのに気づき、大変うれしく、また、心強く思いました。

ソシュールの第一原理を先生はどのようにお考えでしょうか。
私は多くの言葉が語感、あるいは、擬声語からできたと思っています。

先生は言語音感を音節(拍)単位で捉えておられますが、私は音素(音韻)単位で、主に口腔内の物理効果として捉えています。どちらかというと、舌での効果をより多く捉えています。もちろん、舌先を固くする、息を強く通すなどの意志的のものも加味していますので、物理効果だけとはいえないかもしれません。しかし、極力客観的に数値化できるように工夫いたしました。
ちなみに、二音節動詞の語尾部分について、先生が女性が使うとおっしゃっている Mu,Yu,Nu は、我々のエンジンで分析しても、やさしく、やわらかく、女性的となります。
一方、Ku,Gu は、固く、切れがあって、男性的とでます。
Tu も鋭さがあって男性的です。Ru は極めて技巧的で作為的です。
先生の分析では Su がありませんが、これはもっとも素直な音です。

随分偉そうなことを書いてしまいました。お許しください。
なお、Shi=水 の語源につき何かヒントでもあればご教示ください。ミズ とは別の系統のもっとずっと古いコトバではないかと思っています。
      平成21年8月18日
                  増田嗣郎
                msiro@kjps.net

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