新しい言語学

手紙2

   石黒圭先生への手紙  

石黒圭先生

先生の書かれた「日本語は「空気」が決める」を読ませていただきました。
大変わかりやすく、幅広い範囲をカバーしておられ、勉強になりました。説明が丁寧で、特に専門用語に英語訳が付いていて大いに助かりました。

私は定年退職後に言語学の研究を始めた全くの初心者です。
言語学の研究を始めましたのは、定年退職後、言葉の音の響きが聴く人に与えるイメージをコンピューターで解析するビジネスの立ち上げに参画したことからです。
私たちは、言葉の音の響きの持つイメージを語感と呼んでいますが、この私たちのいう語感の存在が、特に言語学界で認められていないことに驚き、言語学そのものの勉強を始めました。従いまして、あちこちつまみ食い的な研究方法でしたので、先生のこのご本が全体バランスを考える上で、いい機会になりました。
また、先生が、第一言語が重要とおっしゃり、日本における英語の早期教育に否定的なお考えをお持ちになっていることが分かり、我が意を得たりと、大変心強く、またうれしくも思いました。

ところで、先生は英語教育の早期導入に反対の根拠として、カミンズの相互依存仮説を挙げ、日本語を第一言語とする日本人は、日本語で思考をおこなっているから、幼い時期は焦って外国語を習得することよりも、日本語でしっかり考えられる力を養成することが大切だ、とおっしゃっていますが、一方で、人は言葉によってのみ思考をしているわけではないとして、言語相対論の立場を取っておられます。しかし、これは少し矛盾ではないでしょうか。私は、サピア=ウォーフの仮説については、言語絶対論の立場ですが、言語によって思考の仕方が根本的なところで違うのではないかと思っています。

先生は、「たとえば、満開の桜が突然目に入ったとき、網膜に映る桜の像が言語によって変わることはありません。つまり、この時点では思考に言語が影響を与えていないわけです」として、「ある程度影響するという妥当な結論・・・」とおっしゃっていますが、満開の桜は視覚の問題で、言語は基本的には聴覚の問題です。
聴覚の問題としては、東京歯科医科大学教授の角田忠信博士が「日本人の脳」の中で、日本語で育った人は虫の声を言語と同じ左脳で聴くが、西欧人は右脳で雑音として聴くという説を立てておられます。しかし、その実験方法に職人的技術が必要で再現性に問題があるため、未だ世界の学界で認知されるには至っていません。
私は、脳科学のここまで進歩した現時点では、そろそろ科学的検証が可能になったのではないかと期待しています。fMRIを使うのが面白いのではないかと思います。ただ、fMRIは装置の中で大きな機械音がするため、音に関する調査ができなかったのですが、最新の音響メーカーなどが開発したノイズキャンセリング技術などを使えば可能なのではないでしょうか(Bose,パイオニアさんあたりがやってくれないものでしょうか)。
角田博士は、日本人だけが虫の声を言語と同じ左脳で聴くのは、日本語に単母音の言葉があるからだとおっしゃっています。西欧人は単母音を言葉として認識しないのだそうです(認識する必要がない)。
日本語の「虫の声」にあたるフレーズは英語にはありません。人の声はvoiceですが、虫の声はchirping of insectsか、あるいはsound、下手をするとnoiseになるのではないでしょうか。
soundをvoiceとして受け止めるのは日本文化ゆえだとおっしゃる方がいますが、これこそサピア=ウォーフの仮説の言っていることではないでしょうか。

更に、日本語と英語では、この世での自分の位置づけが違ってくると思います。
日本語人と英語人では、この世、自然についての考え方が違います。
日本語では、自分も自然の一部だと感じていますが、英語では、自然は自分の外にあって、自分と対立するもの、従って働きかけて変えていくべきものと考えています。これが日本語の「なる(自動、あるいは受動)」という感じ方と、英語の「する(能動)」という考え方の違いとなって現れています。日本人は神様も自分たち人間も「なった」と思っています。英語人は、人間は神が「つくった」と考えているようです。
このような日本人と英語人の感じ方、考え方の違いは、日本語、英語という言語の違いによって次世代へと引き継がれていきます(このことがサピア=ウォーフの仮説の最も重要な点です)。

小説家の片岡義男さんは、まさにパーフェクトな英語と日本語のバイリンガルで、英語的ものの考え方をする方ですが、彼は、ご自身の著書「言葉を生きる」の中でご自身の体験として、「広島に原子爆弾が落ちた」と聞いて、「落ちたという動作の因果関係が理解出来なかった僕は、落ちたとはどういうことかと大人たちの一人に訊いた」と書いています。
日本語人は「なる」思考であるため、自然現象的に「原爆が落ちた」と聞いてもあまり違和感をもたない。むしろ、それは大変だと結果の方を心配します。しかし、英語人は人間中心の「する」思考ですので、誰がという風に反応するのでしょう。

日本語の「雨が降っている」、「大きな山がある」を英語にすると、「It is rain.」、「There is a big mountain.」でしょう。しかし、英語に直訳すると、「Rain falls.」、「A big mountain is.」ではないでしょうか。
日本語では主語は「雨」であり、「山」です。しかし、英語では、この場合「rain」、「mountain」を主語にはしません。「明日は雨だ」という日本語を素直に考えてみれば、やはり主語は「明日」でしょう。
日本語では、モノだけではなく、自然もコトも主語になりうるのです(自然を人間とも同類扱いをする)。ですから、日本語では「有難う」、「済みません」などの表現が可能なのです。「有難う」、「済みません」を英語に直訳すれば、「impossible to be」、「not finished」ですが、英語でのこんな表現はありえません。英語では人間中心にしか考えられないのです。「有難う」、「済みません」も英語では、「Thank you.」、「I am sorry.」というように、I とyouのコトなのです。自然、コトに対する考え方が日本語と英語では根本的に違うのです。「もったいない」も英語には出来ないでしょう。

さらに、自分の位置づけで大きな違いがあるのは、Iとyouの問題です。
英語では言葉を覚える最初から、youと言われ、Iと言うように強制されます。これは親子であっても、お前はお前、私は私という個人主義の教育です。当然、生まれてすぐからの、Iとyouの峻別の刷り込みは、良い意味でも悪い意味でも自我の確立につながります。 欧米では、母親も父親もyouなのです。そして、母親も父親も自分に対してはIとしてなのです。I, youというのは峻別の思想です。この思想教育が生まれてすぐから始まるのです。峻別は自立にもつながりますが、孤立にもつながります(孤立の結果を救うものとして宗教が必要なのかもしれません。ちなみに、日本人で本当に一神教を信じている人は3%もいないだろうといわれています)。
日本語はゼロ代名詞言語(pronoun-dropping language)と呼ばれるのだそうですが、droppingという表現は英語から見たもので、日本語から見れば、ないのが普通ですから、間違いです。ないのが普通ということは、ないことが原則で、あることが特別ということです。では、なぜそうなのかというと、日本語が日常生活で、youと決め付け、Iと主張することを避けようとするからなのです。むしろ、逆に日本語では互の繋がりを確認、強調しようとします。これは、例えば終助詞「ね」、「な」、「よ」などの多用にも現れています。

また、日本語では動詞の活用変化の中に「Let us」が組み込まれたものがあります(構造化されているということ)。「Let us」は単独行動ではなく、繋がり志向です。例えば、行く→行こう。
仲間に「がんばれ!」と言うのと、「さあ、がんばろう!」と言うのとでは随分違います。「がんばろう」には、自分も頑張るとか、自分も応援しているというニュアンスがあります。「がんばろう」は繋がり志向の言葉なのです(連帯感)。「がんばろう」は、動詞「がんばる」の活用変化です。日本語では、繋がり志向が制度化されているのです。

先生は「ぼく、たぬき。」に対して英語にも「I am the Hamburger.」という言い方があるとご紹介になっていますが、「ぼく、たぬき。」は直訳しても、「I am the Tanuki.」ではありません。「Me, the Tanuki.」ではないでしょうか。
日本語の「ぼく、学校へ行く。」の「ぼく」は主語なのでしょうか。英語の「I」なのでしょうか。この場合の「ぼく」は、「I」ほど自己主張は強くありません。
「ぼくは学校へ行く。」、「ぼくが学校へ行く。」、「ぼくも学校へ行く。」の「ぼく」は主語です。しかし、これらの「ぼく」も自己主張のためではなく、格助詞「は」、「が」、「も」の持つ差別化の働きを生かすためにあるのです。「ぼく」に重点があるのではなく、格助詞「は」、「が」、「も」に重点があるのです。もちろん、「ぼく、学校へ行く。」の「ぼく」は格助詞がdropしたものではありません。格助詞の入れようがありません。格助詞を入れると意味が変わってしまいます。
生まれたばかりの赤ん坊に対し、母親は自分のことを「ママ」とか「お母さん」と言います。この「ママ」、「お母さん」を役割語と呼ぶのは英語の発想です。日本語的発想では関係語と呼ぶべきでしょう。この「お母さん」を英訳すれば、「mother」ではなく、「your mother」です。そして、母親、父親は決して我が子をyouとは呼びません。大抵はその子の名前で「しんたろう」とか「しんちゃん」という風に呼びます。「you」と突き放すのを嫌うのです。「I」と身を引き距離を置くのも嫌うのです。ここから、英語世界と日本語世界の人間関係の根底的違いが始まるのです。

先生は、「日本語の二人称表現は失礼だと言われる・・・」として「先生のことを「あなた」と呼んでしまう・・・」をその例としておられます。そして、その理由として「わたし」―「あなた」関係を親しい関係として、「面と向かって、目上の人に、あるいはさほど親しくない人に「あなた」と呼び掛けることは、「わたし」―「あなた」関係を強要することにつながり・・・、失礼に感じられてしまう」と書いておられますが、これは違うと思います。
「あなた」と呼ぶのは親しい関係ではありません。むしろ、距離を置く言い方です。
子供が母親、父親に「あなた」と面と向かって言うことはまずありません。母親、父親も我が子に対し「あなた」と言うことも余りありません。余程、改まった時に「あなた」、そして叱る時に「お前」と言うことはありますが、普通はゼロかその子の名前を呼びます。
先生に対して「あなた」と呼ぶのが不自然なのは、先生と生徒という師弟関係(名目的なものを含めて)を無視して、関係を断ち切って、対等の個対個と位置づけるから、よそよそしくも、傲慢にも聞こえるのです(だから、失礼なのです)。
ちなみに、「先生」と呼ぶのは役割語としてのケースもありますが、小学生が担任の先生を「先生」と呼ぶのは、「my teacher」的使い方で関係語だと思います。そして、先生は生徒に対し、大勢の場合は「君たち」、「あんたたち」と言いますが、生徒一人ひとりには「きみ」、「お前」、「あなた」などと言うことはありません。言うのは叱る時ぐらいです。叱るということは距離を置くということでもあるからです。普通はその子の名前で呼びます。

石黒先生は「あなた」の使用例として、「めぞん一刻」の一場面を紹介しておられますが、ここでの会話は日常生活ではありえないフィクションです。まず、お墓の前で声に出して言う人はまずいないでしょう。これは当然、五代に聞かせるための間接話法でお芝居です。そして、「あたし・・・あなたに会えて本当に良かった」は感動的なセリフですが、現実の世界でこんなことを言う日本語人はいるでしょうか。「I love you.」に当たる「私は貴方を愛しています」と同じように、実際に言う人は日本語人にはまずいないでしょう。それに、この「あなた」に、私は、上から目線を感じるのですが、いかがでしょうか。

私は先にも申し述べましたように、言葉の音の響きの持つイメージ、すなわち語感を研究しているのですが、先生は「語感の働き」とおっしゃっていて、語用論的にのみ考えておられるようですが、日本語の言葉の音それぞれが持っているそれぞれのニュアンスはお感じにはなりませんか。
先にふれました終助詞「ね」、「な」、「よ」の使い分け、そして格助詞「は」、「が」、「も」の使い分けも、語感の違いを生かしています。「も」と英語の「more」が同じ語感を使っているのは面白いと思います。ただ、日本語には語感の残っている言葉が多いのに対し、英語は少ないと思われます。

これらのこととも関係があるのですが、日本語と英語の根本的な違いの一つとして日本語の拍の問題があります。
日本語の言葉は、子音+母音 の拍の組み合わせで出来ています。英語はシラブルから出来ていて、そのシラブルは子音と母音がごちゃ混ぜです。一つの単語に母音が一つもないこともあります。このことから、日本語は母音を中心に出来ており、英語は子音を中心に出来ていると言うことができると思います。
ところで、母音と子音は全く異なります。
母音は口腔の形を変え、喉の奥から出した振動音を口腔で共鳴させて出す自然音です。ですから、長音として伸ばして出すこともできますし、他の母音へ連続して変化させることも出来ます。一方、子音は、喉の奥からの息を、喉、舌、唇で障害を作り、そこで破裂させたり、こすったり、弾いたり、振動させたりして出す不自然な障害音です。
この母音、子音の発声の際の、唇、舌、口蓋、喉、鼻腔などの操作によって色々な感覚が生じます。これが発音体感で、これがそれぞれの音に語感が生じる大元です。日本語の拍は子音、母音のセットですから、発音体感の組み合わせも分かりやすいのです。拍それぞれが独自の語感を持っていることになりますので、日本語は語感を感じやすいのです。
日本語では、赤子はこの分かりやすい語感を感じ分けながら、言葉を覚えていくのです。ですから、語感と意味の合っている言葉は覚えやすいのです。ただ、そのために成長してから、言葉の音が伝えているものが、意味故なのか、語感なのか区別が非常につきにくくなってしまうのです(これで別に不便はないのですが)。そのため、音に感じるのは全て意味ゆえだと思い込んでしまう人がたくさんいるのです(言語学者にも、特に中年以上の男性)。

この語感の存在は、アメリカの脳生理学者ラマチャンドランの「ブーバ・キキ調査」でも証明されていますし、ソクラテスも「クラテュロス」(プラトン全集)の中で色々論じています。我が国でも、江戸時代の国学者本居宣長、鈴木朖(雅語音声考)、そして最近では幸田露伴が「音幻論」で論じています。言語学者ではありませんが哲学者の鷲田清一さんも「「ぐずぐず」の理由」などを読みますと、かなり感じ取っておられるようです。
日本語で「行くね」と言ったのと、「行くよ」と言ったのでは伝わるニュアンスが異なります。これは終助詞「ね」と「よ」の語感の違いです(語感の違いから用法がそうなったということです)。
「ね」には親しさと念押し的ニュアンスがあります。「よ」には柔らかさと呼び掛け的ニュアンスがあります。
このような自然音である母音中心の日本語で語感を感じ分けながら育てば、自然との親和力も育ち、虫の声、風の音にすら言葉を聞けるようになります。一方、不自然な子音中心の英語で育てば、自然への親和力は育たず、秋の虫の声も雑音にしか聞こえなくなります。その延長で、朝日に匂う山桜、川面の紅葉の錦を、そして、その風情を愛でるという風流は育たないと思います(言葉だけが原因ではありませんが)。
なお、このように日本語に語感が十分残っていることが、日本語が高コンテキスト言語でありうる原因の一つであると思います。

このように日本語と英語それぞれのものの考え方、感じ方に与える影響は非常に大きいのです。ですから、私はサピア=ウォーフの仮説でいえば、言語決定論ではないかと思います。
そして、それだけに英語の早期教育には問題があると思うのです。非常に心配です。

初心者の私が、専門家に対して随分生意気なことを書いてしまいました。お許し下さい。
語感の定義など言葉足らずな点も多々ございますが、もしご興味がおありでしたら私のサイトをご覧下さい。また、私の思い違いなどお気付きになりましたら、是非ご指導ください。
      平成25年6月7日
                  増田嗣郎
               masuda@or2.fiberbit.net
語感言語学   http://theory.gokanbunseki.com
語感分析    http://www.gokanbunseki.com

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