新しい言語学

手紙13

   タテマエとホンネ  

建前と本音の使い分けは、従来、日本人の後進性として欧米人からも非難されてきた。
今、養老孟司の「「自分」の壁」と河合隼雄の「河合隼雄の幸福論」を読んでいるが、本音と建前の使い分けを両先生ともに肯定的に捉えておられる。
養老先生は、「社会というものも個人の集まりです。その性質も個人と似ていますから、「本音」と「建前」がある。そして本音、つまり本質的な部分は簡単には変わりません。」とした上で、江戸時代の「天地明察」にみる低い身分の主人公の幕府の大プロジェクト責任者への抜擢、さらに地方の在野の儒学者に過ぎなかった新井白石の幕政中枢への登用などを取り上げ、「江戸幕府を動かしていた人たちは、タテマエの身分制度に縛り付けられているようなバカではありません。彼らはとても高度な社会をつくっていました」とおっしゃっている。
河合先生は、「日本人はタテマエとホンネを上手に使いわけるのがうまい・・。」とか、「子育てについてのホンネとタテマエのバランスは・・。」とおっしゃっており、さらに「タテマエにとわれず・・」ともおっしゃっている。

タテマエとホンネの問題は、日本人のものの考え方と西欧人のものの考え方の違い、すなわち、「洗練」思想と「refine」思想の違いの典型的な表れでもあると思う。
二重性をそのまま認めようとするのが日本文化で、一つに絞り込むべきだとするのが西欧文化である。
少し乱暴だが、タテマエを知、ホンネを心・情とすると、日本の洗練思想は知と情を合わせ認めて、そのバランスを取ろうとしてきたが、西欧のrefine思想は情を捨て知のみにrefineすることを志向してきたのである。
言語についても、英語は知の伝達のみにrefineされてきたが、日本語は知の伝達機能を受け入れつつも気持の交流の機能を保持し続けてきた。すなわち、日本語の二重性はコトバの表面的な意味機能とコトバの音の語感伝達機能として保持され続けてきたのである。
このホンネ・心について、養老先生の「「自分」の壁」に面白い記述があった。すなわち、「日本人は欧米人と比べると、世間の中で「自分」を出さずに従っています。しかし、その分、頭の中の自由度は相当なものです。」。そして、「現在、世界のインターネットの書き込みのうち70パーセントほどが日本語だといいます。日本語を使っているのはせいぜい全世界の人口の二パーセントです・・・」なのだそうだ(本当かな?)。頭の中のホンネをインターネットなら自由に表出できるということなのだろう。
日本社会はタテマエという個人への規制が厳しい。その分、ホンネとしての心の中は自由だということだが、タテマエとホンネの区別のない西欧社会はどうなのだろうか。
養老先生はC・W・ニコルさんが「日本に来て一番良かったことは、宗教からの自由があること」と言ったとして、次のように言っている「日本人で、頭の中に宗教による枠が厳しくはめられている人はそう多くないでしょうが、外国ではそういうものがあるほうがふつうなのです」。これすなわち、「自由!人権!」と声高に叫ぶ西欧社会には隠されたホンネにすら自由がないということなのである。タテマエとホンネ、表と裏の区別がないとする西欧・refine社会のタテマエそのものに無理があるのである。ちなみに、宗教は情を宥めるために知が創り出したものであるが、西欧ではその宗教が情・心すらも抑え込もうとしているようにみえる。日本社会では、宗教は情・心の支えとして、知・理屈の世界とは別のものとして、知と共に共存している。
河合先生は、日本人の心・内面性について、臨床心理学者のアーノルド・ミンデル博士が「日本人の心理の特徴」として「自分の悩みとか、自分の内面を身体で表現するとなると、日本人ほど創造的な国民はすくないのではないか」と言ったとして、
「日本人はこのような不思議な「身」をもっているので、社交的な場面など意識の表層が関係するときは、身のこなしがスムーズにいかないのだが、ミンデルさんが扱うような、意識の深層とかかわる領域においては「身」のはたらきが急に豊かになる、と考えられないだろうか。」とおしゃっている。そして、「心と関連しての身体のはたらきという点で、日本人のことをもう少し詳しく考えてみたいと思っている。」ともおっしゃっている。
私は、「身」のはたらき、すなわち身体での心の表現が豊かなのは、日本人は、常日頃、日常会話に於いて語感を使い分け聞き取ることによって、心の内面の表現に慣れ親しんでいるからではないか、と思っている。
日本人は日常的に無意識裡にコトバの音の持つ発音体感(語感)でコトバを選び、そのコトバを聞く方も無意識裡にそのコトバの持つ発音体感(語感)を感じ取っている。これらのことが無意識のうちに行われるのは自転車のハンドル操作などを無意識に行っているのと同じである。意識しようとすると一部意識できるのも自転車のハンドル操作などと同じである。しかし、自転車の場合と同じく、すべてを意識化することもむつかしい。
話している時も無意識に語感の合ったコトバが選ばれ、聞いている方も無意識に語感を感じ取るのである。だから、無心になった時、心の内を身体の動きに表出しようとしたときに動きが素直に出てくるのである。発音体感、すなわち口腔での感覚を身体の動きに変換するだけだからである。口を大きく開けおおらかに声を出すことと体全体を脱力して大きく開くこととは結びつきやすい。喉の奥を詰めて固く発声することと体を固くすくめることとは結びつきやすい。口元を締めて鋭く発声しようとすることと指を真直ぐ前に突き出すことが結びつくかもしれない。人それぞれの表現方法はあるだろうが、口腔の感覚を体全体で表現することは比較的容易なのではないだろうか。日本人は日本語を話すことによって、口腔の微妙な感覚の差を発音し分け、そして聞き分けることに慣れ親しんでいる。だから、身体でも微妙な差を表現し分けることが出来るのではないだろうか。
社交的な場面というのはタテマエの世界である。タテマエの世界では身のこなしもホンネ・心が引っ掛かりスムーズにいかなくなるが、意識の深層とかかわる領域での身による表出は普段使いなれているコトバの語感による表出にとって代わるだけで、ごく自然に豊かになるのではないだろうか。

語感について少し付言すると、語感が非常によく表れているのが、日本語のオノマトペで、日本人はこのオノマトペを日常生活において非常によく使う。オノマトペによって、アリアリとした臨場感を伝えることができるのである。(日本人が欧米人に比べ余り大袈裟なジェスチャーをしないのは、コトバの音で十分伝わるからかもしれない。)
オノマトペはコトバの赤ちゃんに当たるもので、語感から直接出来たものが多い。そして、多くのやまと言葉がこのオノマトペから派生して作られた。従って、普通のやまと言葉にも語感に添ったものが非常に多い。
さらに、日常会話でよく使われる終助詞には、本来の語感に同じ音をもつ言葉の意味の連想が加わり豊かな語感が感じられる。‘念押し’、‘お願い’の‘ネ’、‘呼びかけ、誘い’の‘ヨ’、‘納得、説得’の‘ナ’、そして‘断定’の‘ダ’などには話し手の心の中がよく表れている。格助詞‘は’、‘が’の使い分け、そして、‘を’、‘も’の働きの違いも語感の違いによるものである。
古い日本人なら「いやよいやよも好きのうち」という言い方をご存じだろう。‘いや’は拒絶、したがって‘好き’の反対である。しかし、それに終助詞‘よ’が付くことによって逆転するのである。それは終助詞‘よ’に、この場合‘呼びかけ(呼応)’に加え‘揺らぎ(心の揺れ)’のニュアンスが強く感じられるからである。ちなみに、‘よ’が‘よん’になると‘ん’のもつ粘り感が加わって甘えの感じが強くなる。もちろん、この場合は、‘いや’がタテマエ、‘よ’がホンネである。
     (平成27年2月1日)

   今井むつみ先生への手紙  

今井むつみ先生

「ことばと思考」 読ませていただきました。
私は、音義説とは異なる立場で‘言葉の音の響きの与えるイメージ:語感’に着目して日本語を研究している者です。
日本の文化の特異性をことさら言い募るつもりはありませんが、従来から欧米的な‘ものの考え方’と日本的‘ものの考え方’の違いには関心がありました。そして、日本語を研究し始めて、日本語の欧米言語に比べての特異さに気付き、それが‘ものの考え方’の違いと深く結びついているのではないかと考えるようになりました。
先生も引用なさっているサピア・ウォーフ仮説として「言語は文化を規定する」とありますが、私は、また、「文化も言語を規定する」と考えています。言語と文化は共に影響し合いながら進化してきたのだと思います。ただ、個の人間にとっては、何も知らない赤子で生まれ、言葉を覚えることを通じて‘ものの考え方’を身につけるのですから、「言語が文化を規定する」のだと思います。
先生は、言語間の違いを‘世界の切り分け方’で取り上げていらっしゃいますが、私はそれでは不十分ではないかと思います。
有力な文明、例えば、欧米の近代文明と古い歴史を持つ日本の文明との違いを、欧米語と日本語の違いから解き明かそうとするのには、語彙の平面的なカテゴリー化の違いからだけでは不可能だと思います。
「言語間の違いは、その普遍的性質の前では取るに足りない」などという妄言がでてくるのは、ピンカーをはじめ欧米語でしか考えていないからでしょう。(他言語で考えることを知らなかったから)
英語と日本語の違いは、語彙ベースでの違いとか、単なる文法の違いではなく、その根底にある‘ものの見方’に違いがあるのです。
このことに関し、私が最近気付きましたのは、英語の‘I’、‘You’に相当する言葉が日本語にはないということです。
‘I’に対しては、‘僕、私、オレ、ウチ、・・・’などがあり、‘You’に対しては、‘君、あなた、お前、あんた、・・・’などがあることにはなっています。
しかし、日本語では、父親は自分の子供に対し、「お父さんは云々」という言い方をし、子供も父親に対し、「お父さんは云々」などという言い方をします。
また、学校の教室では、先生は生徒に向かって、「先生は云々」といい、生徒も先生に対し「先生は云々」というような言い方をします。
日本語では、‘I’ではなく‘お父さん’‘先生’であり、‘You’ではなく、同じく‘お父さん’‘先生’なのです。(‘I’と‘You’が同じになってしまうことでもあります。)
また、同じ人間が、友人には‘僕は・・’といい、上司には‘私は・・’といい、子供には‘お父さんは・・’といい、自分の妹には、‘お兄ちゃんは・・’と言い分けます。
‘お父さんは・・’という言い方は親子関係を前提とした言い方です。‘先生’も師弟関係を前提とした言い方です。
‘お父さん’‘先生’‘お兄ちゃん’という言い方には、これらの関係性が内包されているのです。場面、場面で‘僕’‘私’‘お父さん’‘お兄ちゃん’と言い分けるのも相手との関係性ゆえです。
したがって、英語の‘I’,‘You’に相当するといわれている日本語の表現は、すべて相手との関係性を内包した相対的なものなのです。
一方、英語の‘I’は誰に対しても‘I’です。また、‘You’も相手が誰であっても‘You’です。その意味で絶対的ということができます。
日本語には、このような絶対的な一人称も絶対的な二人称もありません。
この英語の絶対的‘I’,‘You’と、この‘I’,‘You’に相当する日本語の表現との日米ギャップは、幼児の自己意識の形成に重大な影響を与えます。
‘You’と決め付けられ、‘I’と自己主張を促されつづけて育てば、自分に対しても相手に対しても、自立した‘個’という意識をもつようになるでしょう。幼児は、言葉を覚えることを通じて、‘ものの考え方’を身に付けていくのですから。
一方、自分のことにしろ、相手のことにしろ、全てを関係性の中で表現することをインプリントされた子供たちは、自分を孤立したものではなく、それぞれに繋がったものと考えるようになるでしょう。
そして、‘個’、‘自立’の意識を植え付けられた子供たちは、自然に対しても、自分の外のもの、対立するものとして捉えるようになるし、反対に、すべての人々が繋がっているという感覚をインプリントされた子供たちは、自然に対しても自分もその一部であると考えるようになります。
自然に対して、対決するものと考えるか、自分もその一部であると考えるかは本質的な違いです。
欧米の文明の根底に‘対決の考え方’があって、日本の文明の根底に‘一体の考え方’があるとすると、欧米の文明と日本の文明とは本質的に異なることになると思います。
この日米‘I、You’ギャップの問題を科学的実験によって確認することは大変むつかしいと思います。
アンケート調査は、どのように質問を工夫しても、本質的に質問に使用する言語が違いますので不正確なものになる懸念があります。
そこで、取り敢えず、‘I’‘You’の使用頻度を日米で調べてみました。
本来であれば、赤ちゃんが生まれて一歳、あるいは四歳ぐらいになるまでに、‘I’という言葉、‘You’という言葉を、それぞれどれくらい耳にするかを調査すればいいのですが、実際には、まず不可能ですので、便法として、日常会話が中心の著作物の日英対訳で、‘I’,‘You’の数と、それに相当する日本語の数をカウントしてみました。
英語は、‘I’,‘You’すべて。‘my me your’は除きました。
日本語は、‘僕、私、・・’、‘君、あなた、・・’などの人称代名詞すべて。‘お父さん、先生、お兄ちゃん、’などの関係性普通名詞、そして、個人名は除きました。
英語では‘my’はカウントしていませんが、日本語では‘私の’はカウントしています。意味ではなく耳に入る音を重視したからです。
原本が英語である‘ローマの休日’‘ふしぎの国のアリス’と、原本が日本語である‘サザエさん Vol.12’‘オチビサン 3巻’を、対訳と共に使いました。これで日常的に使われている‘I’‘You’の実情が推測できると思ったからです。
この結果から分かったことは、衝撃的でした。
英語では‘I’が日本語の6倍以上、‘You’が10倍近くも使われていたのです。
日常英会話の辞書でも調べましたがもっと大きな差が出ました。(‘I’が約20倍、‘You’が30倍近く)
この特徴的な例としては、日常会話で最も基本的な言葉の一つである‘有難う’や‘すみません’があります。
日本語のこの二つの言葉には、‘I’に相当する言葉も‘You’に相当する言葉もありませんが、英語では‘Thank You’であり‘I am sorry’ですので、‘I’や‘You’があります。日本語では略されているのではありません。もともと、ない表現なのです。
日本語では、関係性が中心の‘個’の主張の弱い表現であるだけでなく、極力‘I’とも‘You’とも言わないようにする傾向があります。
例えば、父親が自分の子供に「お前は・・」と言うのは叱るときぐらいです。子供は父親に「お前は・・」と言われると突き放されたように感じるのです。(通常、父親は自分の子供に対してはその子の名前で言います。)
言葉使用上のこの差異が文化現象の差異としてどのように現れるかは大変むつかしい問題です。
‘個’としての自己意識を幼児期から植え付けることや、反対に、極力‘個’や‘自己’を主張しない環境に育ったことが、社会現象としてどのように現れるか、直接的に証明することは非常にむつかしいと思います。
一般的に文化の違いとして言われていることに、欧米の個人主義と日本の集団主義があります。ただ、上述の‘I,You’ギャップから生み出されるであろうのは、従来言われている集団主義ではなく、拡張自我としての集団との一体感でしょう。
欧米が ‘作る’文化で、日本が‘成る’文化だというのは、それぞれの文化の自然との関係から納得できます。
自然と対決するということは、自然を対象として分析し、分解し、人の意思によって新たに秩序立てることでしょう。これは力の考え方で、スピードを尊ぶことになるでしょう。
自然の一部として自然に身を任せることは、自然に任せ‘成る’を待つということでしょう。この考え方は無理はしない、調和を大切にするという態度につながります。ただ、時間が掛かります。
西洋文明は‘作る’文明、分解し組み立てなおす文明。力の文明です。
日本文明は‘成る’文明、醗酵に任せ、熟成を待つ文明。自然の文明です。
‘個’の自立を尊ぶ文明は、自由と競争に価値を置くでしょう。
関係性を大切にする文明は、バランスと調和を重視するでしょう。
これらの文化的差異を定量的に明らかにすることは非常にむつかしい。
そして、これらと‘I,You’ギャップとの関連性を証明することもむつかしい。
論理的整合性を言うしかないのかもしれません。

なお、定量的に明らかにできるものに一神教の信者の数の割合があります。
調査はしていませんが、欧米では一神教の信者の数は人口の50%は超えているでしょう。
日本では、従来一神教の信者の数は人口の3%を大きく超えることはないといわれていました。(もちろん、一神教の定義にもよりますが、墓参りなど先祖崇拝をするクリスチャンは一神教の信者とは見做せないでしょう。)
‘I,You’ギャップと一神教信者の比率差が似ているような気がします。日米以外でも調査をすると面白い結果が出るかもしれません。

以上が、これまでの私の問題意識の一部ですが、この論を進め、説に纏め上げる術が、今の私にはありません。
今井先生に、ご指導なりご協力なりいただければと思い、この手紙を書かせていただきました。
なお、今までの研究成果は乱雑ではありますが、ウッブサイトに載せています。一度ご覧頂ければ有難いのですが、
  日本語に関するものは   http://theory.gokanbunseki.com
  語感分析に関するものは  http://www.gokanbunseki.com
です。
なお、日本語と他の言語との違いは、‘I,You’ギャップのように表面に現れたものの他に、もっと本質的なところにあると思っています。
鈴木孝夫先生のおっしゃっている聴視覚言語的特徴もそうですが、私は日本語の最も本質的な特徴は、情緒性を残しえたことだと思います。日本語には母音を中心とした語感が今なお生きているからです。
これは、日本語のオノマトペ、助詞の多用によく現れています。
ご指導、よろしくお願いいたします。
           2011年1月11日
                    増田嗣郎
                   masuda@or2.fiberbit.net

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