新しい言語学

手紙(14)

   中山宥 先生への手紙  

「<脳と文明>の暗号」読ませていただきました。大部の翻訳ご苦労様でした。
「ひとの目、驚異の進化」が大変面白かったので、今回もすぐ買って読みました。
私は言葉の音のイメージを研究しているものですが、今回は言語の起源にも関わるもので大変期待して読ませていただきました。
この本の基本的な主張、言語の能力も人間が元来持っている機能を転用したとの考え方には全く賛成なのですが、立論がそれぞれかなり強引で少なからず抵抗を感じました。中にはどう考えても理解できない部分があり、もしや引用の間違いでもあるのではと思い、この手紙を書かせていただきました。
明らかに解せない記述が二箇所あります。
○ P95 「一方、theseのような単語―共鳴音で始まり、破裂音で終わる語―は・・・」とありますが、theseは有声摩擦音で始まり共鳴音があって有声摩擦音で終わっています(正確には、最後に少し有声の母音(共鳴音)が入ります)。破裂音はどこにも見当たりません。
○ P76 「(また、少なくとも英語の場合、歌のような“すべる”音に関係する単語は無声摩擦音を含むことが多い点にも注目してほしい。Rev,vroom,buzz,zoom,fizzなど)。」となっていますが、無声摩擦音が見当たりません。もちろん、v,z は有声音です。
原書との齟齬がないかどうかご確認いただければと思います。もし原書がこの通りであるのなら、明らかな間違いです。

以上、取敢えず、ご連絡旁々、お願いまで
     平成25年11月28日
編集者殿
ご丁寧なご報告、有難うございます。
 やはり、誤訳だったのですね。でも、この部分は核心的部分ではありませんので大きな影響はないと思います。
 実は、もっと大きな問題があるのです。(翻訳者とは関係がありませんが)
 それは、本書(原書)が、言語についていえば本質をはずしているのです。言語について、<脳と文明>の暗号を、自然を模倣しているとしか言っていないのです。詳しくは、言葉の音の発音方法が自然の物理現象を模倣しているとしか言っていないのです。
 “ぶつかる”が破裂音で、“すべる”が摩擦音で、“鳴る”が共鳴音だと言っているに過ぎないのです。暗号と言っても形だけを云々しても意味がないでしょう。暗号を解読して、あるいは、せめて解読法を示唆してはじめて意味があるのです。
 言語を何のために人類は獲得したのか、コミュニケーションという言葉も出てきます。チョムスキーの思考のためという考え方もあります。私はコミュニケーション派ですが、コミュニケートするために、どのように自然を模倣しているかが大切なのです。暗号といえば、暗号の字の形の問題ではなく、その文字でどのように情報を伝えるかが重要なのです。内容が問題なのです。人間のコミュニケーションの内容は自然現象の描写だけではありません。むしろ、気持ちの伝達のほうが大きな比重を占めるのではないでしょうか。従って、破裂音にしろ、摩擦音にしろ、共鳴音にしろ、それらでどのように気持ちが伝えられるかが重要なのです。
まして、“ぶつかる”を破裂音にするのは乱暴です。大雑把すぎます。衝突音と破裂音は違います。日本語では、衝突音(衝撃音)は/t/、/d/、破裂音は/p/、/b/、そして/k/、/g/は切り込む、あるいは噛み込むイメージのときに使います。
「パタン、キュー」という表現があります。これは状況の模倣ではなく、実況放送です。「パ」が倒れる際の振動音、「タ」が床に倒れたときの衝撃音、そして「ン」はそのまま静止した状況の描写です。
「ドスーン」は「ド」が衝突音、「スー」がそれに伴う振動波とその名残、そして「ン」がそれで止まったという描写です。
 /d/と/t/、すなわち、有声音と無声音の違いは、迫力、重量感の違いです。硬さはむしろ/d/より/t/のほうが硬いでしょう。金鎚で釘を打つのはトントン、手でドアを乱暴に叩くのはドンドンです。(この本では逆になっています。P85)
 共鳴音として母音と子音をいっしょくたにしているのも大問題です。母音と子音とは本質的に全く違うものです。母音は共鳴させて言葉の音を響かせる自然音です。子音は無理に出す障害音で、単発でしか出せません。
 それはさて置き、脳と文明の暗号の実体は音象徴(語感)です。物理現象の模倣ではなく、気持ち、コト・モノの音による摸写、なぞらえです。
 オノマトペの発達していない英語などを母語として育った人たちには、言葉の音の陰影は気づきにくいのではないでしょうか。
 やはり、言葉の音の微妙なニュアンスを日常会話においても使い分けている我々日本人が、この暗号の実体を世界に発信しなければならないのではないでしょうか。
 随分、脱線しました。中山先生からご連絡があれば、また、ご教示ください。
 有難うございました。
         平成25年12月7日
編集者殿
早速のご報告有難うございました。
二番目の誤りは、単なる単純ミスだったのですね。この間違い方にまでは、私の想像力も及びませんでした。
ただ、一番目の誤りにはさらなる疑問が生じます。
まず一つ目は<修正後>の「逆に、歌らしいさのない“すべる”音に関わる…」は<修正前>には見当たりませんので、何処から出てきたのでしょうか。<修正前>では省かれていたということでしょうか
そして、いま一つの疑問は、<修正後>の( )内の記述とその前文「無声摩擦音が有声摩擦音のおおよそ二倍含まれている…」とのつながりがちぐはぐになってしまうことです。(「また、少なくとも・・・」を「なお、少なくとも・・・」とすれば、何とかつながりますが)。
原著の問題なのでしょうが、「歌のような“すべる”音」、「歌らしくない“すべる”音」という表現も変ですね。他に「耳障りな“すべる”音」が出てきますが、この音だって歌らしさはないでしょう。無声摩擦音だけを歌らしくないとするのはナゼなのでしょう。
無声摩擦音が有声摩擦音よりも多いのは、単に発音しやすいからではないでしょうか(力が入らない)。なお、古代のヤマトの大宮人は有声摩擦音、有声破裂音を「雅でない」と嫌いました(濁音)。また、多分同じ感性から、著者が共鳴音とした/R/音を語頭から排除しました(日本語では(そり舌)弾音)。
著者はここで何が言いたかったのでしょうか。
結局、著者は、視覚については素晴らしい着眼点を得たのですが、言語については横道にそれてしまったようですね。言葉の音のことが充分わかっていなかった上に、単なる思い付きで走ってしまったということでしょうか。音楽のことはよく分かりません。
中山先生にもお知らせしておいてください。
有難うございました。
       平成25年12月18日

   ある哲学者への手紙  

「語りえぬものを語る」読ませていただきました。
学問としての哲学の素養のない私には、まるで言葉のお遊戯のようで、結局よく分かりませんでした(むしろ、オリンピック競技の体操のようで、C難度、E難度の連続で頭がついていけませんでした)。
結論として、人間は後悔をする存在なので自由でありうるということで安心しましたが、猫は後悔をしないので自由ではないということなのでしょうか。猫は、最も自由勝手に振舞っているように見えるのですが。ただ、猫が自分で自由だと思っているかどうかは分かりません。 

冗談はさておき、私は先生と西村義樹先生共著の「言語学の教室」を読み、先生がサピア・ウォーフの仮説に触れておられるので、哲学者がサピア・ウォーフの仮説をどのように考えておられるのかが知りたくて「語りえぬものを語る」に挑戦してみたのです。
私は大学では数理経済学を専攻しましたが、銀行定年退職後、言語学の勉強を始め、日本語の特殊さが気になるようになりました。そして、サピア・ウォーフの仮説に出会い全くその通りだと思ったのですが、なお調べてみると、言語学界ではサピア・ウォーフの仮説は否定的に扱われていることが分かりました。最近、ガイ・ドイッチャーの「言語が違えば、世界が違って見えるわけ」を読み、肯定的に見直されているのにホッとはしたのですが、表面的な現象の議論に終わっているようで残念に思っていました。

先生は「英詩を完全に日本語に翻訳することはできないだろう。では、そのことは日本語と英語が異なる概念枠をもつことを意味するのか。・・・必ずしもそうではない。」とおっしゃっていますが、そうでしょうか。逆に、日本の俳句を英語に翻訳できるでしょうか。できたとしても、どれほどの言葉が必要でしょうか。長々としたものにならざるをえないのではないでしょうか。先生は別のところでは、「ある概念が一語で言い表わせるのか、それとも長々した表現でしか言えないのか、それは本質的な違いと言わねばならない。」ともおっしゃっています。
私は、日本語と英語は本質的に異なった言語だと思います。表面的な違いはいろいろありますが、最も基本となる‘自分’についての、あるいは‘自分’と自分の周りとの関係についての概念がまったく違います。
日本語には英語の‘I’と‘you’に相当する概念がありません。
日本語では、父親が自分の子供に対して直接 ‘お前’、‘あなた’、‘君’ などと言うことはありません。叱るときぐらいです。子供も自分の親に向かって ‘あなた’ と言うことはまずありません。言うには決別の覚悟がいります。父親、母親が自分の子供に向かって自分のことを ‘私’、‘僕’、‘オレ’ と言うこともまずありません。言う必要があるときは、自分のことを ‘お父さん’、‘お母さん’、あるいは ‘パパ’、‘ママ’ のように相手との関係を前提とした言い方をします。欧米では、自分以外を ‘you’ と切り捨て、必ず ‘I’ と言うことによって個の自立(孤立)を促すように育てます。日本では、全く逆に互のつながりを確認する表現を多用し、相手を突き放したり、自己を主張するような表現を極力避けます。結果として、日本と欧米では、自己という概念が質的に違っているのではないでしょうか。これこそ、概念枠が違うということではないでしょうか。
そして、逆に日本語の「いってらっしゃい」、「ただいま」、「おかえり」、「おかげさまで」などは、英語では使いこなせない概念ではないでしょうか。これらも人とのつながりを前提とした表現です。したがって、これらは単なる言語習慣の問題ではなく、その社会のものの考え方の違いの問題だと思います。
余談ですが、先ごろ歌手の藤圭子さんが亡くなり、娘の宇多田ヒカルさんがツイッター上にコメントを出しておられましたが、その文章に母という言葉と彼女という言葉が混在していました。宇多田ヒカルさんが実母に対し彼女という表現を使ったのは、母と娘の異常な悲しい関係の結果かもしれませんが、宇多田ヒカルさんが英語圏で生まれ育ったからかもしれません。私は、亡くなった父、母に対して、彼、彼女という表現は使えません。

さらに、日本語と英語の本質的違いとして、音象徴の問題があります。英語にも音象徴を色濃く残した単語も多数残っていますが、日本語は音象徴を前提とした構造になっていますし、何よりも、われわれ日本人は音象徴を感じ分けながら言葉を交わし合っているのです。
音象徴についてはソクラテスも詳しく論じていますが、欧米語はより人工的な言語へと変化し、言葉の中の音象徴に気付くのは詩人など一部の人だけになってしまいましたが、日本語では、日常会話でのオノマトペの多用、助詞の使い分けを、音象徴を感じ分けることによって今でも行っています。
日本人が日常よく使う表現「行くよ」と「行くね」ではニュアンスが違います。「よ」と「ね」との違いですが、全ての日本人がこれを間違えずに使い分けます。「よ」と「ね」の違いを言語学者は意味の違いだと言いますが、その違いを裏付けているのが音象徴なのです。
日本人は日本語で育ちます。日本語の言葉は拍で出来ています。拍は子音+母音ですが母音が中心です。母音は話す人が自分の気持ちを載せやすいのです。「アッハッハ」と「オッホッホ」の違いは母音 ‘a’ と ‘o’ の違いです。日本人で「アッハッハ」と「オッホッホ」の違いを感じない人はいないでしょう。「アッハッハ」と笑うときは、手を腰に当てるかして胸を反るでしょう。「オッホッホ」と笑うときは、掌で口元を隠してみたくなります。日本人は音象徴を感じ分け使い分けながら育つのです。
先生は「言語学の教室」で、甘いという言葉が「人間が甘い」、「ワキが甘い」などと使われるのは、「かって甘いものが「女こども」の好むものというイメージで捉えられ・・・一段下に見られていた。ここからくるんじゃないか。」とおしゃっていますが、冗談なのでしょうが、これは間違いです。音象徴からくるのです。「あま(AMa)」という音には、拡散と充満のイメージがあります。充満したものが拡散していくとも読めます。結局、緩むイメージがあるのです。ワキが緩むからワキが甘くなり、顔が緩むから甘い顔をすることになるのです(「あま」という言葉自体、頬が緩むことと関係があるかもしれません)。
英語の「sweet」は音象徴的には、滑らかな流れが一点に集中するイメージですから、スイートスポットという表現はまさにピッタリです。
音象徴の問題は言語としては概念枠問題を超えたもっと本質的な問題です。サピア・ウォーフの仮説は、これらの観点からも、もっと論ぜられるべきだと思います。

余計なことかもしれませんが、「語りえぬものを語る」の中に言語学の立場からすると気になる発言がありましたのでご説明しますと、先生は「まったく新しい論理空間の習得ということもありうる。いつか宇宙人に遭遇し、われわれはもしかしたら全面的に新しい論理空間を学ばねばならないかもしれない。そんなものが習得可能なのかと問われるだろうか。いや、われわれもまた、そのようにして母国語を習得してきた。われわれは、子どもの頃、はじめての言語を学び、はじめての論理空間を編み上げていったのである。(P144)」とおっしゃっていますが、そんなものは習得可能ではありません。子どもの頃の言語の習得、そしてそれに伴うものの考え方の構築は一度限りです。論理空間の基本の習得には臨界期があるのです。もちろん、増築、多少の改築は可能でしょうが土台は一生不変です。バイリンガルの人も、ものの考え方はいずれかの言語のものです。日本生まれで英語で育った小説家の片岡義男さんは完璧なバイリンガルですが、彼の書いたものによりますとものの考え方は英語のようです。したがって、彼は「原爆が落ちた」、「風呂に入る」は変だし、「だっこ」という言葉は使えないと言っています(また、彼の文章には「僕」が多い)。宇多田ヒカルさんがどうなのかは分かりませんが、研究テーマとしては面白そうです。

日本語と英語の違いについての私の素人考えについて哲学者としての先生はどのようにお考えになるのか、その一端でもご教示いただければと思いメールいたしました。
私の音象徴(語感)についての論考はウッブサイトに載せています。ご覧いただければ幸いです。
    平成25年9月13日
         増田嗣郎
       masuda@or2.fiberbit.net
       http://theory.gokanbunseki.com
PS。恐る恐る、哲学書の校正ミスの指摘は非常に勇気がいるのですが、P.368の3行目の「審級」は「審判」ではないでしょうか。

   「言葉の誕生を科学する」  

小川洋子先生

先生と岡ノ谷教授との対談本「言葉の誕生を科学する」を読みました。
私は言葉の成り立ちに興味があり、教授の説は以前から知っていたのですが、納得できないでいました。
今回は小川先生との対談ということで、この辺りを小川先生がどのように理解なさるか興味があり、この本を読ませていただきました。
この本の中では、はっきりとはおっしゃってはいませんが、やはり小川先生も納得してはおられないのではないかとお見受けするところが何ヶ所かありました。
そこで、キーとなる以下の2点につき、小川先生が納得なさったかどうかお聞きしたく、お手紙させていただきました。

○ P61.先生の「言葉そのものには情動がないのか」との質問に対し、教授は「むしろ言葉は情動を乗せない道具として進化してきた」と答えていますが、先生はこの考えに納得なさいましたか。
教授が、もともと言葉には情動が乗っていないと考えているのか、もともとは乗っていたが、それをなくす方向に進化したと言っているのかよく分かりませんが、先生はもともと乗っていないとお考えでしょうか。
やまとことば、特に日本語のオノマトペにはありありとした情感が感じられるものがたくさんあると思いますが、いかがでしょうか。
日常の会話の同じ場面で、「行くね」と言った場合と「行くよ」と言った場合では相手に伝わる情感が違います。終助詞「ね」、「よ」にそれぞれ情感が乗っているのではないでしょうか。(もちろん、携帯メールでも、この違いは伝わります。)
また、情動を乗せない方向へ進化したというのは、言語の記号としての面についてのみ当てはまるのではないでしょうか。ソシュールの捨てたパロールについては、本質的に情動がその中心をなしており、当てはまらないのではないでしょうか。
生きた言葉、特に日常会話は、単なるラングではなく、パロールを含むものです。コミュニケーションは、報(知識)の交換だけではなく、情(気持ち)の交換です。すなわち、言葉は情を含んだ情報の交換だと思います。(携帯メールの顔文字なども、気持ちを表現する工夫の一つでしょう。)
確かに、欧米語は情を排除する方向に進化(退化?)してきたのかもしれません。しかし、私たちの日本語は、今なお、情を豊かに伝える言葉です。
この辺り、文学者として、小川先生はいかがお考えでしょうか。
(ちなみに、書き言葉としてのインターネットに気持ちの状態をいかに乗せるかですが、これは、顔文字を含め言葉の選択の工夫の問題ではないでしょうか。和歌などは、その究極の形ではないでしょうか。)

○ 次に、図4(P22)について先生は納得なさいましたか。
狩りの歌「まくびべがくぎけぶへみろきけこぼ」と食事の歌「べぐざぼびぎけぶがよひまくじべ」の‘ぎけぶ’の部分が共通というような説明ですが、ここですでに‘ま’、‘く’、‘び’などの音声があるということは、これらの言葉の音が既に誕生しているということになるのではないでしょうか。
なぜ、どのようにして、人類は‘ま(Ma)’という言葉の音を獲得したのか、‘く’という音声を獲得したのかが問題であって、すでに‘ま’、‘く’、‘び’、‘べ’、・・・などの音声があると前提にするのは、言葉がすでに出来ていると考えていることになるのではないでしょうか。
言葉より先に歌があったとすれば、その歌は歌詞(言葉)のない鼻歌のようなものか、夜明けのスキャットのようなものではないでしょうか。鼻歌からは言葉は生まれないでしょう。歌うネアンデルタールが言語を獲得できなかったように。

ちなみに、単語起源論に「これを組み合わせる規則はどこから生まれてくるんだ。」と教授は論難なさっていますが、言葉が一つできれば、それが二つになり三つになるのは時間の問題でしょう。そして、最初の言葉はものの名前のようなものでしょうが、やがて動きに関わるようなものも生まれてくるでしょう。そして、一つの言葉だけを発していたのが、言葉を二つ並べることも、やがて誰かが始めるでしょう。初めのうちは言葉を並べるだけ、すなわち、カタコトのようなものでしょう。しかし、カタコトだってコミュニケーションは出来ます。カタコトが始まれば、より正確に意思を伝えるため、語順を決めていくグループも出てくるでしょう。言葉の働きを助詞をつけて分かるようにするグループもあったのでしょう。それらの結果として、今現在、少なくとも、欧米語の文法と日本語の文法は本質的に違ったものになっています。
(絶対言語としての欧米語、相対言語としての日本語。例えば、日本語には必ずしも主語はいらないとか、日本語には欧米語の I,You に相当する概念も言葉もないとか。)

以上2点は言葉の本質に関わる問題です。小川先生は本当に納得なさったのでしょうか。
私は、既に中高年になってしまった男の学者の感性には余り期待をしていません。女性であり、作家としての鋭い感覚をお持ちの小川先生の感性に期待しております。
            平成23年5月6日
                           増田嗣郎

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