新しい言語学

手紙(12)

   リービ英雄先生への手紙  

リービ英雄さま

 突然、お手紙する失礼をお許し下さい。
 「我的日本語」を読ませていただきました。
 私は、本そのものはよく読みますが、文学作品は余り読んでおりません。文学理解の資質がやや欠けているのかもしれません。どちらかというと、理系的発想をする人間です。
ただ、日本語には興味があって、今、勉強をしています。

 先生のこのご本を読ませていただき、二・三違和感を持ちましたので、書かせていただきました。
 もっとも違和感を持ちましたのが、芭蕉の句の‘千々にくだけて’を暴力的と受け取っていらっしゃることです。
 まず、‘くだけて’を‘くだかれて’と解釈されているようですが、これは自動詞的な使い方で、自然に‘くだけた’というイメージではないでしょうか。
 欧米文化には、すべて人間が‘作る’という発想が根底にありますが、日本文化には、‘なる’という考え方が根底にあります。欧米では、人間も言葉も神が創ったと考えているようですが、日本では、神も人間も‘なった’と考えられているのです。(なりし神の名はウマシアシカビヒコジ、青草人)
 日本は、おっしゃるように火山の国ですが、われわれは、混沌の海をかきまぜた矛から滴り落ちてできたのが島々だと感じる方に親和感があります。
‘くだけた表現’、‘あの人はくだけたお人だ’などの言い方がありますが、ここにはいっさい暴力的なイメージはありません。むしろ、やさしさすら感じられます。
また、夏の海には荒々しさはありません。荒々しいには冬の日本海です。春の海はのたりのたり。夏の海のイメージは、まばゆいではないでしょうか。
 Broken English という表現には、やや乱暴さを感じますので、‘broken into’という訳にも問題があるのかもしれません。
 次に‘千々に’についてですが、‘千々’という音、特に‘CHi’には、小ささ、かわいらしさ、内面性などが感じられ、量的なパワー、迫力はいっさいなく、暴力的ではありません。‘千々に心乱れて’などと使うように内面的なものすら感じられます。(‘Di’は‘Ti’の連濁)
 日本人はオノマトペを日常会話でよく使いますが、これは、意味からではなく、主にオノマトペの‘語感’から使っているのです。
 ‘千々に’は9・11にはそぐいません。
‘千々に’のイメージは、繊細で、ときには、詩的ですらありますし、固体に対しては使わないのではないでしょうか。使うのは、心、ゆめ、思いなどに対してではないでしょうか。
この俳句があまり評価されないのは、この辺りに違和感が感じられるからではないでしょうか。
 先生の日本人の友人が「多くの日本人にとって・・」と本当に言ったとしたら、そのお友達はものごとを頭だけで考えようとする中高年のインテリ男性か、あるいは、先生におもねっての日本人的やさしさからくる発言ではないでしょうか。先生にもはっきりものを言っているようにみえる多和田葉子さんにでも確認なさってはいかがでしょうか。
 9・11をオノマトペで表現すると、‘木っ端微塵’でしょうが、これでは‘語感’的に軽すぎますので、‘オドロオドロに崩れ落ちた’とでもなるのでしょうか。

 (マンガならオノマトペをたくさんぶち込めばいいのでしょう。例えば、
  ズバッ、ズズズズ、ズシーン、ドカーン、ドドド、バラバラ、ドロドロ、ザー ・・・)

 失礼を承知で申し上げれば、先生は、日本語は完全にマスターなさっているようですが、‘語感’はまだ十分にはお分かりではないのではないでしょうか。
 先生は、日本語の特徴は話し言葉ではなく書き言葉にあるとおっしゃっていますが、私は話し言葉にこそ日本語の特異性があると思います。
 もちろん、書き言葉にも先生がおっしゃるように、漢字、平仮名、片仮名を混用する視聴覚言語としての大きな特徴があります。
(私は、日本語はハイブリット言語、3D言語、そして、多脳言語だと言っています。)
 しかし、私は、日本語の本質的な特徴は、これらのことを可能とした‘拍システム’とそれによって生き残った‘語感’にあると思っています。
(‘拍システム’とは、子音+母音で一音節を作り、これを組み合わせることによって次々と言葉を作っていくシステム。組立方式、積上方式。日本語の膠着性の大元でしょうか。)

次に違和感を持ちましたのは、先生が「一人称、二人称の使い分けが日本語の特徴だ。」とおっしゃっている点です。(多和田葉子さんの発言によって、幻想かと取り消されたような形にはなっていますが、)
 私は、むしろ、日本語の特徴は、一人称・二人称を使わないことだと思います。
これは、書き言葉では論旨を明確にするために、‘私は’とか‘あなたは’と書きますが、日常の会話では、まず、‘私は’とか‘お前は’などとは言いません。(知らない人達の中に入っていくときには、自己を主張する必要から、多少使うのかもしれませんが、)
 やむを得ないときでも、‘I’,‘You’にあたる言葉を使うことを避けます。
学校の教室では先生は自分のことを‘私は’とは言いません。大抵は‘先生は’と言います。
家庭でも父親は子供たちに向かって‘僕は’などとは言いません。‘お父さんは’と言います。
この‘先生’、‘お父さん’は‘I’とは同じものではありません。‘先生’という言葉には生徒たちが、‘お父さん’という言葉には子供たちが、前提として入っているのです。(生徒がいての先生、子供がいてのお父さんですから。)
‘I’のように絶対的に独立したものではないのです。(また、孤立もしていません。)
同じように、父親は子供に対して‘お前は’とは、まず、言いません。言うのは叱るときぐらいです。(‘お前は’と言うと、突き放した感じになるからです。)
 このように、日本語では、‘I’‘You’のような自己を主張する言葉を使うことを嫌うのです。

 もう一つ現象面での話し言葉の特徴に、オノマトペの多用と助詞・助動詞の存在があります。
これらは‘語感’を活かした言葉です。特に、終助詞は一拍であるにも関わらず、微妙な気持ちを伝えることができます。
 先生のおっしゃる切れ字‘や’も‘語感’を活かした言葉です。同じく主題を提示する‘は’の明白さに対し、‘や’は、ややぼかした主題の提示なのです。(‘や’には詠嘆のイメージもあります。これは、拗音的な‘Y’からくるものです。)
 ‘は(Ha)’の‘H’が、明るく、はっきりしているのに対し、‘や(Ya)’の‘Y’には、揺らぎ、曖昧さがあります。‘が(Ga)’の‘G’ともなると、くっきりと際立たせる効果があります。(‘G’は‘K’の濁音で‘K’の‘語感’を強めた効果があります。)
 ‘a’は、そもそも、存在そのものを表わす前向きな音です。
 先生がイメージとおっしゃっているものの正体が、この‘語感’なのではないでしょうか。
 先生が‘くだけて’の‘て’に浮かんでと感じておられるようですが、これも‘語感’です。
‘Te’の‘T’には、止まる、溜まる、着く、のイメージがあり、‘e’には、下に広がり繋がるイメージに加えて受身的なイメージがあるのです。(身を引くイメージ)

 終助詞としては‘ね’‘よ’の使い分けに‘語感’がしっかりと活かされています。
「行くね」と
「行くよ」では、
相手との気持ちの上での近さが違います。
「行こうね」と
「行こうよ」となれば、
行くか行かないかの相手の態度すら違う前提になっています。
‘Ne’と‘Yo’の‘語感’には心理的距離感において大きな違いがあるのです。
 日本人が神経質だとの印象をもたれるのは、日本人が‘語感’の違いに敏感に反応するからではないでしょうか。

 次に些細なことではあるのですが、ミスプリではと思い書きますと、
P098. ‘淡海の海’の振り仮名が‘あふみのうみ’となっていますが‘あふみのみ’の方が字余りでなくていいのではないでしょうか。(確か、私はそのように習いました。)
P181.最後の行 ‘日本語を訳してみて’は‘日本語に訳してみて’ではないでしょうか。

私は先生が日本語を愛してくださっていることを大変うれしく思っています。
また、先生が日本語だけでなく中国語までマスターなさろうとしておられる熱意とご努力には心底感服いたします。
 ただ、先生に、より完璧な日本語人になっていただきたく、その一助にでもなればと思い書かせていただきました。
 浅学にもかかわらず、立ち入った物言いをし、申し訳ありません。年の功に免じお許し下さい。

 なお、‘語感’などにつきましては、私のウエッブサイトにいろいろ書いております。
これらにつきましても、ご批判などいただければ幸いです。
     http://www.gokanbunseki.com
     http://theory.gokanbunseki.com
                   増田嗣郎
                    masuda@or2.fiberbit.net
         平成22年12月6日

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