新しい言語学

手紙

     水村美苗先生への手紙  

水村美苗先生

「日本語が亡びるとき」を読ませていただきました。大変、感銘を受けました。私は、日本語、日本文化は将来も大丈夫と漠然と考えていましたが、この本を読ませていただき、日本文化の危うさがよく分かり、背筋の凍る思いです。
もともと、幼児の早期英語教育には、脳生理学上、大反対でしたが、国語教育の充実を改め痛感いたしました。

ただ、一つ、先生のお考えに加えていただきたいことがあり、この手紙を書かせていただきました。それは、先生が P305 で「日本語は<話し言葉>としては特別な言葉ではない。」とおっしゃっていることに関してです。

私は銀行を定年退職後ベンチャーの立ち上げに参画した関係から, 語感分析という全く未知の分野に入りましたが、そこで世間の無理解という大きな壁にぶち当たりました。
一番大きな壁は、ソシュールの、いわゆる、第一原理‘音と意味との恣意性’でした。これは、語感なぞ存在しないというに等しいのです。
日本の学者も、鈴木孝夫先生を含め、この原理を墨守しています。若い学者の中には、さすがに、オノマトペを除いてなどと言っていますが、日本語の日常会話に2000以上もあるオノマトペを例外として排除してしまうのは学問的にも不誠実です。
ソシュールは日本語をあまり知らなかったのだと思います。

私たちの研究では、少なくとも日本語では、オノマトペだけではなく日常会話のコトバの音と意味のあいだには相関があります。(日本語にはオノマトペから出来たと思われるコトバがかなりあります。光、転がる、・・・)
なぜ、日本語では音と意味との相関が残り、欧米語では見えにくくなっているのかには、大きくは二つの理由があると思います。
一つは、欧米語は印度ヨーロッパ祖語から色々に分かれ、色々に変化し、また、それが征服・融合を繰り返した結果、人為的なものが大きく加わった。一方、日本語は他の言語の直接侵略もなく、自己生成的に自然に出来上がってきたということです。
そして、もう一つは、日本語が、子音に母音をくっ付けて拍を作り、この拍を連ねることによって一つのコトバを作るという非常にシステマティックな体系になっているのに対し、欧米語は、シラブルという子音・母音ごちゃ混ぜの音のブロックをコトバの単位としていることです。日本語では各子音のもつ素材感的イメージに各母音のもつスタンス的イメージを加え、それを連ねることによってコトバが作られているのです。(日本語の膠着性もこの流れにあると思います。)一つのコトバが、それ自体で一つの物語になっているのです。
このように、日本語はかなり特別な言葉です。言語の原型がより多く残っているのではないでしょうか。これらの分析の実例は、私のサイトに乗せておりますので、是非一度ご覧下さい。
http://www.gokanbunseki.com

また、言語に関する私の考えも、昨年暮れ新しいサイトを作り、乗せ始めました。ただ残念なことにアクセスがほとんどありません。先生のおっしゃる普遍語で書きたいとも思いますが、今の私にはその能力がありません。翻訳を何方かに頼もうかとも思いますが、どうしていいか分からない現状です。
つたないサイトですが、一度ご覧いただき、ご批判、ご指導をいただければと願っています。
http://theory.gokanbunseki.com

浅学ゆえの勝手な思い込み、理解不足があるかもしれません。お許しください。

先生の益々のご活躍をお祈りいたします。
平成21年1月15日
増田嗣郎
msiro@kjps.net

     渡部昇一先生への手紙  

渡部昇一先生

先生のご本を「日本史から見た日本人」をはじめ色々読ませていただきました。いつも日本人としての誇りを思い起させてくれ、うれしく、楽しく読ませていただいておりました。

 定年退職後、新商品のブランド名の感性評価をするビジネスの立ち上げに参画したことから、言語学の勉強を始めソシュールなども少々かじりましたが、一つの非常に大きな疑問に突き当たっていました。

 今般、先生の「語源力」を読み、わが意を得たりの感がしましたと共に、先の疑問がますます大きくなってまいりました。
 その疑問とは、ソシュールの「一般言語学講義」にある言語学の第一原理、すなはち、“音と意味との恣意性”についてのものです。
 先生のご本でも、先生は“擬声から言葉が生まれるのは洋の東西を問わない。人間の発声器官が同じであればある意味では当然のこと。”とおっしゃっています。
擬声という以上、意味と音とは無関係ではありえません。そしてこの擬声から言葉が出来ているとすると、この言葉に関する限り意味と音との恣意性は言えないのではないでしょうか。
そして、日本語には擬声語から出来たと思はれる言葉がたくさん残っています。少なくとも日本語に関する限りソシュールの言語学第一原理は間違いなのではないでしょうか。(これは、似顔絵は恣意的なもので、自由勝手に描けばよいといっているようなもので、似てもいない似顔絵なんて誰も使いません。それに、純粋記号論ならいざ知らず、恣意性を第一原理にする意味がありません。言語を記号と決めつけ、言語の全体像を見ていないのではないでしょうか。)
 先生はいかがお考えでしょうか。

以下日本語の例の一部をご紹介しますと、
○ H音は、平安時代は F音ですが、奈良時代以前は P音です。したがって、
  ピカリ → フィカリ → ヒカリ(光)
となり、この過程で ヒ(日)が生まれました。
 また、火が ポッ とつく、あるいは、ポッポ と温かいことから ポ ができ、これが語尾変化をして
  ポ → ピ → ヒ(火)
となった。同じように
  ポ(火)の尾 → ホノオ(炎)
  ポ(火)垂る → ホタル(蛍)
が生まれました。
○ 「ウーム」「ん」から「考える人間」が出来たとのことですが、日本語ではもっと単純で、
  ウー!   から うめく、うなる ができ、
  ウン    から うなずく ができ、この うなずく から うなじ、うなだれる ができた。
  ウン?   からは うたがう(疑う)もできました。窺う も。
これらの ウ は、実際の発声は ン 的な鼻音に近く、先生のおっしゃるように、内的な感情を表わしやすいのです。
○ われわれは、ソクラテスも「クラテュロス」の中でいっていますように、(ものの)最初の名前(すなはち、初期の言葉)は口でまねたものだと思っています。
K の発声は、咽の奥を舌の奥の部分で一旦ちょっと塞ぎ、これを破裂させるように開いて息を口腔内に流し込む、この時、流れ込んだ息は口腔内を回転、舌などの皮膚の表面の水気を奪うので、まず、固さ、軽さのイメージがあって、それに、回転のイメージが加わり、最後に、乾いた、冷たい感覚が生じます。
  KaRaKaRa
  KiRiKiRi
  KuRuKuRu
  KoRoKoRo
には、すべて回転のイメージがあります。そして、使われている母音のイメージによって、
  KaRaKaRa  は 明るく、軽やかに回り
  KiRiKiRi  は 細い直線のイメージのために縦に回る
  KuRuKuRu  は 鼻音の内的イメージのために目が回るイメージとなり、ここから、包む(KuRuMu)、狂う、苦しい などができ、くるま(車)という言葉もできました。
  KoRoKoRo  は o に重いイメージがあり、地面に接して回るイメージとなり、転ぶ、転がる などの言葉ができ、さらに 殺す(転がるから)という言葉もできました。先生は、魂も玉とおっしゃっていますが、古代の日本人は心も丸いものと考え、コロコロ転がる丸いものから、KoKoRo という言葉もできたのではないでしょうか。
○ その他(ほんの一部)
  フーフー  吹く
  タラタラ  垂れる
  トロトロ  とろける → 溶ける
  スベスベ  滑る
  ドキドキ(トキトキ)  ときめく
  オドオド(オドロオドロ)  驚く、脅す。おどける、踊る もそうかも。
  チュウチュウ  吸う(幼児語はチュウ)
  クチャクチャ  食う(くちゃ寝、くちゃ寝 という言い方もある。)ここから口も。
食うの Ku と 吸うの Su の対比ですが、K には固いイメージが、S には流れるイメージがあります。また、古代には T と S の発音が曖昧であったとの説もあります。

 なお、余分なことかもしれませんが、シーモスのご説明のところで「クラテュロス」からの引用として thumos とされていますが、岩波全集の「クラテュロス」では  thymos となり u が y になっています。

 以上、素人ゆえの独断、思い込みもあろうかと思います。先生のご指導がいただければと思い手紙を書かせていただきました。

 なお、今までの私の論考は個人のウェッブサイトに載せています。
    http://theory.gokanbunseki.com
また、語感分析の技術を使った分析例などは、
    http://www.gokanbunseki.com
に載せています。この中に、GLUCK についての考察もありますので、そのコピーを添付させていただきます。先生は、lu の滑らかさ、ck の切れ をしっかり感じ取っておられるようですね。
              平成21年4月29日
                        増田嗣郎
                       msiro@kjps.net

渡部昇一先生

 お忙しい中、わざわざのお返事有難うございました。先生の新しい語源のご本が早く出ますことを心待ちにしております。

 私自身は語源を研究しているわけではなく、語感と言葉の関係に関心をもっている者ですが、先生のお返事に一つ非常に気になるところがございましたので、あえて、再度、書かせていただきます。
 先生は「光(ひかり)」はオノマトピアではなく音象徴だと書かれていますが、「ヒカリ」は音象徴ではありえません。なぜなら、ヒカリ の ヒ が 光 の特徴の何をも象徴していないからです。ピカリ なら音象徴といえます。ピカリ はオノマトピア・ピッ あるいは、ピカッ からきた表現でしょう。
ところで、ヒ は ピ、ビ の清音(無声音)ではありません。仮名では、ヒ、ピ、ビ と同じ ヒ を使うため誤解されがちですが、H音とP・B音は発声的には種類の異なる音なのです。P・B は両唇破裂音ですが、H は声門摩擦音です。また、Hi は H音の中でも特殊で、硬口蓋摩擦音なのです。このため、ヒ と ピ は語感的には、同じ流れではなく、大きく変わってしまうのです。
ちなみに、語感的には、ピ には、固く、鋭く、小さな直線的なものが飛び出すイメージがあり、ヒ には、冷たく、少し紗のかかったイメージがあります。
したがって、光 は、オノマトピア・ピッ あるいは、ピカッ から音象徴語 ピカリ ができ、それが歴史的に転じてできた言葉というべきではないでしょうか。

 生意気なことを書き申し訳ありません。
 先生のますますのご健勝をお祈りしています。
             平成21年5月20日

     日下公人先生への手紙  

日下公人先生

 先生のご本、いつも楽しみに読ませていただいています。
 先生の直言に、心のもやもやも晴れ、気持ちもすっきりし、元気づけられます。
 今回の「日本人の覚悟」も楽しく読ませていただきました。

 私は、某都銀を定年退職後、たまたま、言葉の音のイメージを分析するビジネスの立ち上げに参画したため、言葉の音の響きの聞こえ、すなわち、語感の研究を始めました。日本語を中心に語感を研究するにつれ、日本語の奥深さ、すばらしさに気づかされました。そして、今回の先生のご本の内容とも符合する色々な知見を得ましたので、勝手ながら、ご報告させていただきます。

 まず念のため、語感についてご説明しますと、
語感とは、‘言葉の音の響きの聞こえ’ですが、言葉を聞いたときに、一つ一つの音に感じるイメージです。
髪の毛の表現として、‘サラサラ’、‘カラカラ’のいずれが適当か分かるのは、使い方を覚えているのではなく、語感の違いを感じるからなのです。
この聞こえの違いは、もともとは発声体感から来ているというのが我々の主張ですが( ソクラテスもそのようなことを言っています。岩波書店「プラトン全集2 クラテュロス」)、日本語には、この語感が今もありありと残っています。(本当は日本語だけではないのですが、)

 語感から日本語を研究した結果、日本語は 知・情・意 のバランスがとれていること、又、自然との融合性が非常によいことが分かりました。

 日本語の非常に大きな特徴に 拍 ということがあります。日本語の言葉の単位は、子音+母音(ときに子音がない)、すなわち、拍 です。(この拍に対する英訳はありません。)
 欧米語の言葉の単位は、子音、母音の一塊、すなわち、syllable です。
この違いは大きいのです。拍にはかならず母音があり、日本語は母音中心に出来ているということが出来ます。一方、欧米語は子音で終わることも多く、子音中心の言葉ということが出来ます。
(なお、日本語では母音・子音という言い方をします。母と子です。勿論、母あっての子です。英語では、Vowel,Consonant といいますが、Mother tongue,Father tongue ともいいます。勿論、力があって中心となるのは父、子音でしょう。)
 ところで、母音と子音とは全く種類の異なる音なのです。発声時に母音は、咽の奥から出た震動を主に口腔で共鳴させて出す自然音です。口の形、舌の位置などを変えることによって、ア、イ、ウ、エ、オ などの音を連続させて出すことが出来ます。ア から イ へ、イ から ウ へ連続して変化させることも出来ますし、それぞれの音をのばして発声することも出来ます。
これに対し、子音は、咽の奥から出た息を、口腔内に舌や唇で障害を作って、そこで破裂させたり擦ったりして無理やり出す音で、連続変化させることも、のばして発声することも出来ません。例えていうと、母音は自然でアナログ的、子音は人工でデジタル的ということができます。
 この発声法の根本的違いから母音・子音の語感の本質的な違いが出てきます。母音は情感を表わしやすく、子音は素材感、材質感を表わしやすいのです。人類の進化から考えますと、母音はグルーミングから、子音は威嚇、警戒から発達してきた言葉の音なのではないでしょうか。
 先生は「ヨーロッパ語を使っていると自然にそう考えるようになる。インド言語でも中国言語でも、これらの言語は何ごとにおいても分析的で、事物事象を分析・分類したうえで論を立てている。」とおっしゃっていますが、共生の世界では母音が生き残り、争いの世界では子音中心になったのかもしれません。デジタル的な子音は分析に適しており、知的といえます。アナログ的な母音は、曖昧さがあり、情緒的ということができます。
 したがって、母音中心の日本語は 知と情 のバランスがとれているということができます。(大和言葉だけでは情緒的過ぎますが、漢語など外来語が入り、語感的にもかなり知的になっています。)なお、ア、イ、ウ、エ、オ の五つの母音のうち、イ はもっとも意思・意欲を表現しやすく、知・情・意のバランスがとれているともいえます。

 先生が「何でもいっしょ」とおっしゃっている日本人の自然観についても言葉が関係していると思われますのでご報告します。旧聞に属しますので、すでにご承知かと思いますが、日本語人だけが単母音を言語として聞くことができるということです。東京医科歯科大学名誉教授角田忠信博士のご研究です(「日本人の脳」)。
この説では、欧米人は単母音を言葉として認識できず雑音として処理しているのだそうです。その結果、日本人は虫の声は勿論、風の音をも声として聞き取ります。この辺りからも日本人の自然との一体感が生まれてくるのではないでしょうか。
(あるいは、逆に、そのような一体感を大切にしたので、日本語がこのような形で残ってきたのかもしれません。)

 なお、一つ一つの母音の持つイメージ、子音の持つイメージなどの研究成果は、私個人のサイトで公開しています。一度ご覧いただければと思います。
    語感言語学
      http://theory.gokanbunseki.com
        語感から見た母音・子音 ほか
    語感分析の実例
      http://www.gokanbunseki.com
 先生のますますのご健勝とご活躍をお祈りしております。
               平成21年5月20日
                      増田嗣郎

PS.サイト掲載の一部を添付させていただきます。重複がございますがお許しください。

     町田健先生への手紙  

町田先生

「日本語の正体」読ませていただきました。

日本語が、効率的な言語であることと、人間の言語が持つ本質を追求する上での一つの重要なモデルになりうるというご結論には大賛成です。
 又、日本語の大きな特長として、「主題」と言う概念と「述語」と言う概念を導入されたのはすばらしいお考えだと思います。場の言語としての日本語の変動性を、「主題」と言う概念を持ち込むことによって非常に説明しやすくなります。

 ただ、脳の負担をより軽くするということで「効率」という言葉を使っておられますが、これは誤解を招きやすいので「合理性」になさってはいかがでしょうか。理由は二つあります。
 まず、人間は常に脳の負担を減らす方向を志向するわけではないということです。むしろ、バイアスがかからなければ、人間は自分の能力のありったけを実現しようとします。これは機能快といわれるものです。
 二つ目の理由は、単語をはじめものごとは覚え込むだけではダメで、適時思い出せてはじめてその目的を達します。そして、我々は丸暗記よりも何かものごとに結びつけた記憶、イベント記憶の方が思い出しやすいということを経験的に知っています。例えば、「大化の改新645年」と覚えるよりは「大化の改新、虫5匹」と覚えた方が思い出しやすいというようなことです。あることのデータだけを覚えるよりも、それにまつわる色々な情報をいっしょに覚えた方が思い出しやすいのですが、脳の使用という意味では、記憶しなければならない情報量は格段に増えます。しかし、我々は生活の知恵として何かに結び付けて覚えようと工夫します。これは理解することと似ていて、全体体系に組み入れて覚えると、覚えやすいし思い出しやすいからです。これは、「効率性」というよりも「合理性」といったほうがいいのではないでしょうか。量が増えても体系化された(意味を持った)方が覚えやすいという性格が脳にはあるのです。(この脳の性格、すなわち、合理性は、チョムスキーの生成文法の根底にあるものと同じものだと思います。)
 脳内の情報処理は、神経インパルスが単線で直線的に伝わるのではなく、ネット的に伝わります。この流れのネットの中で、記憶もされ、想起もされるのです。ですから、思い出す糸口が多ければ多いほど、すなわち、体系化されているほど、思い出しやすいのです。
 そしてこのことは、言語のコトバの記憶と想起にもあてはまります。10万余りのコトバを丸暗記するよりは、それぞれが何らかの別の情報と法則的に結びついておれば覚えやすく思い出しやすくなるのです。そして日本語は、もともと「語感」というイメージの体系に裏打ちされています。この意味でも日本語は合理的で、幼児にとって覚えやすく思い出しやすいのです。

 さて、先生のこのご本の結論には大賛成なのですが、その分析が「すべての側面について」と書かれていますが、大きな側面が洩れていると思います。それはソシュールの呪縛、あるいは、西洋言語学の限界といったものなのかもしれませんが、以前にもメールで申し上げましたが、「音と意味との恣意性」へのこだわりと、「言語の本質は意味の伝達」であるというドグマ故に、すべてを「意味」に限定してしまっている結果だと思います。又、アカディズムという囚われ故か、対象を文としてしまってコトバの考察がないがしろにされています。コトバの文法的な分析はなされていますが、コトバの中にまで立ち入ってのコトバの成り立ちの分析はなされていません。
日常生活において、完全な文で話されることはほとんどありません。単語のみのこともザラでしょう。しかし、コミュニケーションは立派に成立しています。ただ、この時のコトバの働きを意味のみに絞っては言語の本質を解明することはできません。「文が何を表わすかをはっきりさせれば、言語が伝達する意味の正体を明らかにすることが出来ます。」とおっしゃっていますが、日常我々が伝え合うのは、文法的な文の構造に規定されるような意味だけではなく、もっと広いニュアンスを伝え合っています。そして、このニュアンスは主にコトバに宿っています。
 あなたが道を歩いていると向こうから同級生が歩いてくるとします。あなたは「ヤァ」といって軽く手を挙げ通り過ぎます。また、しばらく歩くと昨日テニスをやった友人がやって来る。あなたはやはり「ヤァ」といって立ち止まる。これは日常よくある風景です。ところで上の二つの「ヤァ」の意味は何でしょうか。同じでしょうか。あなたの心の中では、最初の同級生に対しては、「元気そうにしているね」程度でしょう。しかし、次の友人の場合は、「昨日は楽しかったね」とか「どうだ、参ったか!」というような気持ちを込めて「ヤァ」といったのでしょう。同じではありません。
あるいは、「ヤァ」はそもそもコトバじゃないのでしょうか。それでは、「おはよう!」はコトバじゃないのでしょうか。
「ヤァ」「おはよう」は挨拶語。「オォ!」は感嘆詞。挨拶語、感嘆詞はコトバじゃないのでしょうか。それぞれに意味はありません。意味が決められません。状況によってその意味するものが変わるからです。
ソシュール的にいえば、意味の無いものはコトバではないことになります。意味を言えないために、言語としてママ子扱いされているものにオノマトペがあります。それぞれ明確なイメージを持っていて使い方を間違えることはまずありません。しかし、「カラカラ」の意味はといわれると使う状況を説明するしかありません。「カラカラ」にソシュール的意味はなくイメージがあるだけです。

そもそも言語の本質として「意味の伝達」と定義するところに無理があるのです。「イメージの伝達」と幅を持たせればいいのです。そうすれば、挨拶語、感嘆詞もオノマトペも立派なコトバとなります。
 挨拶の言葉「おはよう」に意味はあるでしょうか。もともとは「お早いことでございます。ご苦労様です。」といったような挨拶の言葉が縮まって出来たといわれています。しかし、今の「おはよう」に早いですねという意味はありません。ある業界では夜でも「おはよう」といっています。では、どうしてその日最初に会ったときに「おはよう」というのか。この言葉の音のイメージが、まずインパクトがあり(オ)、やさしく、やわらかい(は・よぅ)と続くからです。
朝の挨拶としては、意味的には「アサ!」でも「いい朝ですね」でもよかった。しかし、「おはよう」の音のイメージが最適だったので、皆が使うようになり定着していったのでしょう。「おはよう」になったのは必然ではありませんが、理由はあるのです。これを恣意的というのは誤りです。
「こんにちは」も、元々は「今日はいいお日和で、・・・」とか「今日はあいにくの雨で、・・・」とかが詰まって「今日は」となったといわれています。「キョウハ」ではなく「コンニチハ」というのは古い言い方で、すでに意味を離れてしまっている証左です。
「さよなら」も「さようなれば、失礼仕る。」などの詰まったもので、随分古い言葉です。やはり意味ではありません。
「おはよう」に比べて「こんにちは」の音は切れがあります。昼間のシャキッとした挨拶に適しています。「さよなら」の音には少し粘り気があります。心を残す別れには適しているのでしょう。
挨拶語は意味ではなくイメージで使われています。コトバの音とイメージには強い繋がりがあります。恣意的ではありません。(「こんにちは」と「さよなら」の逆は語感的にありえません。)

 日本語の名詞の中にも意味で説明するのがむずかしいコトバがあります。
   「今日はほんとうに気持ちがいいね。」
   「これはほんの私の気持ちです。」
   「あなたの気持ちはよく分かります。しかし、・・・」
これらの文の「気持ち」の意味はといわれると、かなりむずかしい。
Mental,emotional,spiritual situation といっても、状況に応じての感謝の気持ち、怒りの気持ちが入ってきません。「気持ち」というコトバが持っているのは一つの意味ではなく、幅を待ったイメージ(ニュアンス)なのです。
 言語の役割の一つに正確な情報の伝達という側面があります。正確という意味でより狭い意味に、一つの意味に絞り込まれるのが望ましい。それ故もあって、西洋言語学は「意味の伝達」に絞り込んだのでしょう。しかし、それでは情報論あるいは記号論であって言語学ではありません。日常会話の生きたコトバ、「ヤァ」「カラカラ」「おはよう」を扱えない言語学はまやかしの言語学です。

 日本語にも近代西欧科学に則した、意味に絞り込んだコトバがあります。その代表は、学術用語、法律用語です。これらをデジタル語とすると、幅のあるイメージを持ったコトバはアナログ語ということができます。そして、このアナログ語には、やまとことば、オノマトペ、などがあります。
感嘆詞はオノマトペです。気持ちを音で表わそうとしているから擬態語です、そして、アナログ語です。
挨拶語もアナログ語です。例えば、道を歩いていて突然「ヤァ」と声をかけられた。見ると久しぶりの古い友人である。そこであなたは「ヨォ」と返した。また、しばらく歩くと大学の先輩がやってきた。あなたは「おはようございます」と声をかけた。先輩は「おはよう」と返してきた。
 これらの「ヤァ」「ヨォ」「おはようございます」「おはよう」の意味は何か。意味はありません。意味ではいえなく、朝の挨拶のコトバというしかありません。しかし、「ヤァ」と「ヨォ」ではニュアンスが違います。「おはようございます」と「おはよう」もニュアンスが違います。それぞれの持つニュアンスが微妙に違うのです。それを我々は使い分けています。「ヤァ」の明るさに対し「ヨォ」は驚きのニュアンスが入っています。「おはようございます」の尊敬の念に対し「おはよう」には親しみ・温かさがあります。意味的には同じ挨拶語ですが、持っているイメージは違うのです。

 人間の言語の起源については色々な説がありますが、その中の有力なものにグルーミング説があります。仲間同士仲良くしようという毛づくろい行為に代わるものとしてコトバが出来てきたという説です。「あなたに敵意は無い」「あなたと仲良くしたい」「あなたを気遣っている」。これらの表現がグルーミング行動ですが、これを声でしようとしたのがコトバの始まりともいわれています。この説に従えば、最初の頃のコトバは広い意味での挨拶語です。そして擬態語的要素もあります。なぜなら、自分の気持ちを声という音で表わして伝えようとしているからです。音(声)による気持ちの模写、これはオノマトペであり、アナログ語です。

 一方、デジタル語はどのように始まったか。言語のもう一つの起源説に警戒・縄張り主張説というのがあります。自分たちの縄張りに近づいた人間に警告・脅かしの声を発するとか、仲間に注意を知らせる声を発する。これらの声は、当然、鋭く、意志のはっきりしたものになるでしょう。よりデジタル的な音でしょう。そして自分の権利の主張へと発展していけば、より論理的となり、あいまいさを排除する方向へ進化していくでしょう。
この自己主張・論理重視が、近代合理主義・科学主義の流れにつながっていき、近代西欧社会はデジタル語を本来のあり方として、アナログ語を遅れた、幼稚なものとして軽視する方向に流れてしまったのではないでしょうか。
 ソシュールが「音と意味との恣意性」をいったとき、彼の頭には、言語としては、本来あるべき姿としての、デジタル語しかなかったのではないでしょうか。それ故、オノマトペを排除してしまったのでしょう。いかなソシュールとて、オノマトペの音と意味がまったく恣意的とは考えなかったでしょう。言語として、彼の眼中になかったか、例外として排除してしまったのでしょう。

 西欧社会といえども、グルーミングから生まれたコトバがないわけではないでしょう。しかし、曖昧さを嫌う社会の流れの中でだんだんデジタル的になっていったのかもしれません。日本社会には、オノマトペをはじめ、やまとことばを中心としたアナログ語がたくさん残っています。有史以来の言語の歴史を見ると、日本語は限られた地域の中で他言語の急激な流入もなく、したがって、本質的な変化もなしに自己組織化的に順調に熟成してきました。一方、西欧各言語は、印度ヨーロッパ祖語から様々に分岐、そして様々に合流し、未だ異分子の寄せ集め的モザイク状態にあり、融合、熟成には程遠い状態にあるのではないでしょうか。異なる言語を統合するには、意味の統合をまずやらねばならず、イメージの統合までいけないまま現在にいたったのではないでしょうか。ここから、西欧言語学としては、言語に期待するものを意味のみと割り切らざるを得ず、いまや、意味のみと思い込んでいるのではないでしょうか。

 町田先生がおっしゃる効率性についても、日本語では、やや純粋培養に近い環境での言語の生成過程で、自然な合理性で形作られていき、一方、他言語の干渉の多い環境で形成された言語は合理性に破れが生じてしまっているのではないでしょうか。
 そういう意味でも日本語は先生のおっしゃる人間の言語のもつ本質を追及する上で一つの重要なモデルとなりえます。ソシュールの呪縛を解き、新しい言語学を考えるには、従来切り捨てられてきたアナログ語をより本源的言語として取り上げる必要があります。
幸い、日本語の基層をなすやまとことばはアナログです。また、日本語の日常会話で多用されるオノマトペもアナログです。日本語の成り立ちを考えることから言語の新しい本質が見えてくると思います。

日本語の日常会話では、オノマトペを非常によく使います。感嘆詞もオノマトペの一種でした。そして、やまとことばの多くがオノマトペから出来たと思われます。また、そうでなくともオノマトペ的に出来たと思われます。
ところで、そもそもオノマトペとは何なんでしょうか。
オノマトペは擬音語、擬態語の総称です。では、擬音語、擬態語とは何なんでしょう。
擬音語は音を声で模したもの、すなわち、まねをしたもの。しかし、声帯模写ではなく、コトバの音にしたもの。ここに、「こう聞きなす」という「見なし」が入ります。(だから言葉なのです。そして、文化によって変わってくるのです。)
では、擬態語は? 状態をコトバの音で模したものです。しかし、状態という音でないものをどうして音で模すことができるのか。両者の間に共通のものがなければそれは不可能です。その共通のものこそイメージです。一つの状態に対して人間は色々なイメージを心に浮かべます。人がゆっくり歩いている状態に対しても、イヤイヤそうだとか、体が痛そうだとかのイメージを持ちます。一方、コトバの音も色々なイメージを持っています。粘り気があって重たげなイメージであれば、「ノロノロ」があります。静かな感じであれば「ソロソロ」があります。このコトバの音の持っているイメージを「語感」といいます。音象徴ともいいます。オノマトペの定義の一つに、この音象徴を持っていることというのがあります。しかし、音象徴性は感嘆詞にはもちろん大半のやまとことばにあります。アナログ語はこの「語感」に裏打ちされているのです。
ソシュールの言語学は言語の一部を扱ったに過ぎません。デジタル語のみを扱ったのです。日本語の日常会話の大半はアナログ語です。ソシュールの「音と意味との恣意性」は適用できません。コトバの音のもつイメージ、「語感」と、そのコトバのもつイメージはリンクしているのです。
 そもそも言語は、グルーミングにしろ、警告のためにしろ、意味以前のイメージ(気持ち)を伝えるために出来たのではないでしょうか。したがって、コトバの音がイメージを持っているのが前提です。むしろ問題は、音のイメージとリンクしていたコトバが、どうして恣意的な意味を持つようになったかです。ソシュールは欧米の言語の混沌に幻惑されて言語の本質が見えなくなっていたのでしょう。
コトバの音のもつイメージにソクラテスも気づいていました。ヘルマン・ヘッセも「幸福論」の中で幸福という単語の音のイメージについて書いています。ドイツ語ですが、我々日本人の感じる「語感」とほとんど変わりません。

コトバの音のイメージ、「語感」は何に由来するのか。一般には、聞こえは意味と同じように学習するのだと考えられてきました。しかし、われわれは、その音の発声時の体感から来ると見定めました。発声のときの口腔内の体感、舌をどうする、唇をどうする、息をどうする、そして、そのベースにある心的状態、例えば、激しくとか、やさしくとか、そういうすべての体感がコトバの音と対になって記憶され、その音を聞いたときも体感として再現されるのだと見定めました。

このことにもソクラテスは気づいていました。「 R は最も舌を動かすので動きを表わすのに使われる・・・」というようなことを言っています。しかし、この考え方はその後の学者によって、音と意味とを結びつけたもの、すなわち、音象論として否定されてしまいます。一義的な意味と結び付けようとするから矛盾もでてくるのであって、音が持っているのはイメージのカタマリであって、一義的な意味ではありません。幅を持ったイメージと考えれば無理がなくなります。

ソシュール派の恣意性の説明に「DOG」がよくでてきます。「犬」でも「DOG」でもよく、「DOG」にする必然性はなかったという言い方です。しかし、「語感」からいうと、「DOG」と「CAT」の逆はありえません。犬を「CAT」と呼び、猫を「DOG」と呼ぶのは語感的には無理です。同じように、IN−OUT,ON−OFF,CLEAN−DARTY など逆が無理な組合せはたくさんあります。いかなグジャグジャな英語にも「語感」は生きているのです。(勿論、日本語の「犬」と「猫」の逆もありえません。猫はネエネエと泣くからネコなのです。)

論理的に厳格な言い方をすれば、音と意味には恣意性があるのかもしれません。しかし、音とイメージには関連性があります。ソシュールの誤りは、言語の本質は「意味の伝達」としたことで、本来は言語の本質は「イメージの伝達」とすべきであったのです。ソシュールの考え方はデジタル語のみに適合し、アナログ語には適合しません。
言語のあるべき姿をデジタルと考えるか、ありのままのアナログと考えるか、一時の西欧の啓蒙思想が理性を理想とし、感情を劣ったもの、遅れたものとした反映がいまだ言語学界にあるのでしょうか。理性至上主義のワナにはまってしまっているのです。もちろん、デジタル語もアナログ語もともに必要です。しかし、言語の本質はアナログです。デジタルは特殊な形態にしかすぎません。

「音と意味との恣意性」というドグマを捨て、コトバの音がイメージをもっていることを認めると、初期の日本語の成り立ちが容易に分かります。
 最初のコトバが単音であったか、音のカタマリであったかは議論の分かれるところですが、日本語の最初は単音だったでしょう。なぜなら、日本語には単拍のみならず単母音のコトバがいまだに残っています(吾、胃、卯、枝、尾)。本当の始まりは単音ともカタマリともつかないようなものだったのでしょうが、コトバといえる段階では単拍に収斂していったのでしょう。単音ということになると、母音か子音かということになりますが、グルーミングを想定すると自然な音、母音が先でしょう。それらに親密感を感じさせる M,N の子音が続いたのでしょう。
 母音の中でも最も自然にのびのびと大きな声が出せるのが /ア/。したがって、最初の頃は、すべてのものが /ア/ だったのではないでしょうか。ものを声の音で“見なす”。これがコトバの始まりでしょう。この“見なし”がコトバの本質です。しばらくは、すべてが /ア/ だったのでしょう。やがて区別する必要から、音を変えることをやり始めたのでしょう。

音を変化させるには三つの方向があります。一つは他の単母音を使う。これは、それぞれ発声の仕方が異なりイメージがかなり違ってきます。あえて /イ/ と発声するには、口先を緊張させ強く息を出さねばなりません。そこから、自らの意志的なもの、前向きの直線的なものを感じます。/オ/ と発声するときは、口の中を丸くしてノドの奥の下の方に意識がいきますので、重い、こもった、大きな感じなどがします。これらのイメージから、「イイ」「イヤ」「行く」(YESも?)、そして、「重い」「大きい」「奥」などのコトバが出てきたのでしょう。もちろん、最初から /ア/ とか /イ/ とかはっきり発音できていたわけではないでしょう。/ア/ と /イ/ の中間、あるいは、混じった音 /ヤ/ などだったのでしょう。それが発声しやすい、あるいは、聞き分けやすい現在の母音体系に収斂してきたのでしょう。その意味でも13もの母音を持つ欧米語はいまだ混沌の中にあるのかもしれません。

二つ目の方向は、前に他の音を付ける方向ですが、すべての存在の /ア/ の前に /ウ/ を付けて、/ウア→ワ/ となり、自分、自分たちをあらわすようになったのでしょう。(もちろん、/ワ/ が先で、絞り込まれて /ウ/ と /ア/ になったのかもしれませんが、)
現在の英語でも、不定の存在を示す“a”(/ア/)に自らの意志的な /イ/ を付けて“I”(/アイ/)。そして、/ア/ を /ウ/ に変えて“We”(/ウイ/)になっています。(文字の無かった時代、コトバは音だけだったでしょうが、当時の英語はこうではなかたでしょうから、これらはあくまで知的遊戯です。ただ、面白いですね。) /ウ/ の音には、内向きなもの、仲間的なものが感じられます。/ウ/ の発声は、口の中の奥の上の方に意識がいきます。鼻音に近いのかもしれません。

 そして、三つ目の方向、これが日本語が主に採用した方向ですが、色々な音を後にくっ付ける。最初は一つ、そして、ものごとの区分けが進むにつれ、二つ三つとふやしていったのでしょう。すべての存在 /ア/ に /レ/ をくっ付けて /アレ/。(英語では不定冠詞 /a/ に /ザ/ をくっ付けて定冠詞 /za(the)/ になっている。これも知的冗談。)
 そして、/ア/ の持つ、開けた感じ、広々とした感じ、明るい感じなどから、“開く”、“明るい”、“天(あま)”が出来たのでしょう。そして、これらから“明ける”“開ける”“赤”“朝”“明かり”“雨”など、後ろを変化させてコトバが増えていったのでしょう。したがって、日本語では語幹の音のイメージが「主題的」となっています。

この第三の方向をとったのが日本語の根本的な特長です。単母音から単拍(子音+母音)に広がり、拍に拍をつないで二拍、そして三拍・四拍へと広がっていった。この拍をつないでの造語法、これが日本語の決定的な特長です。文としての膠着性も自然にこの流れから出てきたのでしょう。一つの細胞が分裂して二つに、そしてまた分裂して四つにと数を増やしつつ全体を形作っていく、この生命の営みにも似ています。ということは、自然の理にかなっている、すなわち、合理的ということです。

 拍方式の強みの第一は、組み立て式ということです。いくらでも新しいコトバを作ることが出来ます。拍の数を増やせば無限大です。外国のコトバも日本語の拍に変換して日本語に取り入れることが出来ます。漢語も呉音、漢音、唐音を日本語の音に聞きなし、取り入れました。“金”“銀”の当時のシナでの発音は今の我々日本人にはあまりよく区別がつきませんが、それを、キンキンキラキラの/キン/、いぶし銀の/ギン/と聞きなした。この反対、金を/ギン/、銀を/キン/とすることは語感的にはありえませんから、当時の日本人の語感は大変鋭かったのでしょう。ポルトガル語も英語もどんどん取り入れることが出来ました。大変柔軟な言語になったのです。

 第二の強みは、音の持っているイメージが、コトバとして組み立てられても、そのままイメージの流れとして残ることです。ですから、コトバはイメージの流れ、イメージのカタマリを持っているのです。デジタル語は、もともとは、このイメージのカタマリから一片を切り出し、約束事、すなわち、意味としているのです。アナログ語は一片ではなく、数片というかカタマリを切り出しているので、色々な意味を持たせることが出来るのです。もちろん、日本語の中にも、「語感」と離れてしまったコトバがあります。外来語で意味を優先したとか、合成の過程で「語感」が無視されたもので、“美人”などうつくしさを感じさせる「語感」ではありません。“陶器”“磁器”も「語感」が逆になっています。欧米語ではこのようなケースが大半なのかもしれません。ただ、欧米語の中にも「語感」に添ったコトバもたくさんあり、我々が日常導入しているコトバはそのようなコトバです。(「語感」が合っているから、日本語の中に残っていったのかもしれません。)クール、クリアー、スムース、キル、カット、ドン、ボス、ソフト ・・・。
“経済”“政治”などのコトバは「語感」と関係がありません。意味から作られたコトバです。しかし、このように作られたコトバの中にも「語感」に合うものもあります。“哲学”など固いイメージがあります。“抽象”“具象”のペアーも「語感」は合っていると思います。
法律用語、技術用語、経済用語などデジタル語は別にして、日常使われるコトバ、アナログ語は「語感」に合っていないと使われなくなり、廃れてしまうのではないでしょうか。したがって、長く使われ続けているコトバは、「語感」に添ったコトバなのです。欧米語は、この熟成の期間がまだ充分ではないのではないでしょうか。

 この第二の強みから、第三の決定的な強みが出てきます。すなわち、コトバの音とイメージがリンクしていることから、幼児にとって覚えやすく、思い出しやすいのです。脳の中の音韻秩序、あるいは、拍秩序がイメージの体系と結びついているのです。似たイメージのコトバは似た音です。似たニュアンスの変化も似た音の変化となります。ここに法則性が存在するのです。このように法則性をもった音韻体系、イメージ体系、コトバの体系、そして、それぞれがリンクしていることは、すべてを脳の中に構築していく幼児にとって、やりやすいのです。合理的なのです。(これらの合理性が生成文法の基底にあるものなのです。)

 日本語の拍にあたるものが欧米語にはありません。欧米語のコトバの構成単位はシラブルです。このシラブルは、拍が子音+母音と規則正しくなっているのに対し、子音、母音ぐじゃぐじゃのカタマリです。英語では3000のシラブルがあるといわれています。そして、このシラブルには拍のような規則性はありません。規則性の薄い3千のシラブルを覚えなければならないとすると、これは合理的ではありません。英語を表記するアルファベットは表音文字といわれています。しかし、英語の各シラブルは厳密には表音ではありません。ずいぶんずれてきています。したがって、シラブルは表意的とも考えられます。そして、それがもし音のイメージとリンクしていないとしたら、覚えるのが大変でしょう。(多分、一部リンクがあると思います。)

 規則性のない音のカタマリのシラブルから考えると、これらの言語の始まりは、日本語の拍のような組み立て式ではなく、カタマリ・ブロックから切り出す、削り出し方式だったのではないでしょうか。各用途に合わせてカタマリから削りだす、ケービング、あるいは、石器の作り方に近いのではないでしょうか。一方、日本語は組み立て、積み上げ方式ですから、おもちゃのレゴ、あるいは、縄文土器の作り方に似ています。

 ただ、現在のではありますが英語の単語を見ていくと、a、the、he、she,I,we など、短い音でパーツを付けたり、取り替えたりして出来ていることから、組み立て方式が根底にあったのではと推測されます。加えて、you、are、am、wereなどを加えると、大半が母音、あるいは、母音的な音で出来ており、アナログ的です。音としてのアナログはデジタルよりも多くのイメージ・情報を持っています。
欧米語は古層に組み立て方式のアナログ語を持っており、その上に削り出し方式のデジタル語が覆いかぶさっているのではないでしょうか。

 そのような特殊な言語を対象としたため、ソシュールの言語学は特殊な言語学になってしまったのです。素直な、合理的な言語を対象に、新たな言語学を作る必要があります。

私の主張のまとめ
○ 言語とは、完全な文だけではなく、単語そのものも言語たりうる。
○ それ故、単語を言語として分析する必要がある。
○ 言語の本質は意味の伝達だけではなく、イメージのカタマリの伝達である。
○ 音と意味との恣意性は、限られた枠内での恣意性であり、また、例外的なもので、音とイメージとは深いところで結びついている。
○ 意味とイメージの関係は、意味はもともとイメージのカタマリの一片を切り出したものであるが、他言語等との交接を経て、繋がりが切れてしまったものもある。
そして、
○ 日本語は言語本来の姿をとどめている合理的な言語なので、日本語を対象に新しい言語学を構築する必要がある。
○ そして、その手掛かりとなるのが、コトバの音の持っているイメージ、語感である。
  (語感言語学の提唱)

 長々と書いてしまいました。初学者ゆえの大きな思い違いがあるかもしれません。どうぞ、是非、ご指導ください。
     増田嗣郎       平成20年10月29日

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