新しい言語学

実験

   「オノマトペの謎(ピカチューからモフモフまで)」を読んで  

4年前、論文集「オノマトペ研究の射程」を読んでいろいろご提言させていただいたが、今回、同じくオノマトペ研究の最新論文集・岩波科学ライブラリー261「オノマトペの謎」を読む限りにおいては、本質的なところでは、何ら進展はしていないように見える。
目次の‘序’に続いて、「1:「スクスク」と「クスクス」はどうして意味が違うの?」、「2:オノマトペの意味は変化するの?」とあり、意味という表現が目につく。オノマトペの意味という言い方は非常に誤解を招きやすい。一部、音象徴的意味と言っている著者もいるが、一般的に意味と言ってしまうと辞書的意味と取られてしまう。まして、音の意味と言ってしまうと、それぞれの音がそれぞれ辞書的意味を持っているかのように誤解されかねない。一部の著者自身がそのように思い込んでいるや、にも見える。先の提言でもご説明させていただいたが、オノマトペ「コンコン」は異なる7つの場面で使うことが出来る。となると、一つのオノマトペが7つの意味を持っているということになる。意味の概念としておかしくはないだろうか。オノマトペも言葉の音も意味を持っているのではなく、意味の一つ前の段階のイメージの塊、すなわちクオリアを持っているに過ぎない。正確には、持つではなく、イメージ群を惹起しうるのである。
言葉の音は、物理的には、何の意味もどのようなイメージも持ってはいない。あるのは音の違いだけである。周波数の違いではない。発音方法の違いから来る周波数の組合せ変化の違いである。周波数の時系列的組合せ構造の違いと言うことも出来る。母音‘ア’と‘オ’の違いは発音方法の違いであるが、物理的には、雑多な周波数の組合せの時系列的変化全体の違いである。人と同じ音を出すには同じような発音方法で発声する必要がある。このことは、逆に言えば、同じ音が出ていれば同じような発音方法をしていることになる。人の発している音が‘ア’と聞こえれば、それは自分が発する時の‘ア’と同じなのである。
言葉の音がイメージを持っているとすれば、それは客観的にではなく主観的にである。言葉の音を発する時の口腔体感を、その音を聞いた人は自分がその音を発した時の口腔体感として感じ取る。音がイメージを運ぶのではない。音そのものには何もなく、その音が切っ掛けとなって自分自身の中に自分自身の発音体感がイメージとして再現されるのである。
これが従来から私が主張している「言語場の理論」(FIELD THEORY OF LANGUAGE)である。素直に言えば、「音虚構論」である。「音構造論」(SONIC STRUCTURE OF A WORD)でもいいかもしれない。この考え方は黒川伊保子の「発音体感説」(BODILY SENSATIONS OF PRONUNCIATION)を補完するものである。

音象徴という言い方も、「オノマトペの謎」では、当然のことのように、非常に多く使われているが、私は避けるべきだと思う。音象徴というと音が何らかのものを象徴する、すなわち何らかのイメージを持っているかのように誤解されかねないからである。言葉の音それぞれが意味を持っているとする音義説は、古くは古代ギリシャのソクラテスに始まり、わが国においても、鎌倉時代の僧仙覚、江戸時代の国学者賀茂真淵、本居宣長、鈴木朖、そして近代の作家幸田露伴と唱え続けられて来たが、反論し続けられ今に至るも認められていない。それは、音が意味を持つとするからで、物理的に証明できないからである。実際に音は意味もイメージも何も物理的には持っていない。音象徴という言い方によって音義説の轍を踏みかねない。これらのことが言葉の音の研究が遅々として進まない一つの大きな原因ではないだろうか。言葉の音の研究は泥濘に嵌まり込んでいるのである。
ちなみに、音象徴を英語では、SOUND SYMBOLISM というが、ただ単にシンボルと言ってしまうと、音とそのシンボルの間の必然性が感じられない。しかし、音とその音が惹起するイメージは本質的に繋がっている。イメージは単なるシンボルではないのである。その意味で、SOUND SYMBOLISM も間違いである(SOUND SENSATIONSの方がベターか)。

この泥沼を抜け出す唯一の方法は、素直に黒川伊保子の「口腔体感説」を認めることである。私はもう少し広く発音体感全体と考えた方がいいと思うが、黒川理論を採用することである。実際、「オノマトペの謎」の中でも、浜野祥子がPについて「唇を閉鎖した時の緊張感が、音象徴につながっているわけだ」とか、「鼻腔に空気が迂回されることによって生成される共鳴音だということだ。撥音Nの音象徴「共鳴音、反動、余波」といった意味は、この中心的特徴に結びついている」と言い、「オノマトペの音象徴には、かなりの音声的な基盤がある。音と音が表すものの間に自然な関係があるのだ」とまで言っている。ここでの問題点は、音象徴と言ったり、あたかも客観的に観察しているかのような書き方になっていることである。では、なぜ唇の緊張が音に緊張のイメージを付与するのか。なぜ鼻腔での共鳴が音に共鳴のイメージをもたらすのか。その説明がない。それは、それらが自らの口腔体感だからである。唇、鼻腔での発音体感だからである。
では、なぜ素直に口腔体感と言わないのか。口腔体感と言ってしまうと発声した人のことだけになってしまうからではないだろうか。その音を聞いた人がなぜそのようなイメージを持つのかが分からなくなってしまう。さらにそこに、音象徴と言ってしまうと、音そのものがそのようなイメージを持っているかに受け取られ、聞き手がそのようなイメージを受け取るのが当然のことのように思えてしまう。これが誤解の大本なのである。音は何も持ってはいない。音がイメージを持っている訳ではない。ではどこから聞き手はそのイメージを得るのか。その答えが私の言う「言語場の理論」、すなわち、聞き手の脳内での過去の発声経験に基づく発音体感の再現説である。この「言語場の理論」を理解することによって黒川理論も理解されやすくなるのではないだろうか。

さらに、発音体感説が理解されにくいのは、発音体感が基本的には発音時に意識されないからである。意識に上らない、意識下、すなわちサブリミナルだからである。一つの音を発する時、大きな感じがするのか、小さい感じがするのか、あるいは、固い感じがするのか、柔らかな感じがするのか、通常はいちいち意識されない。しかし、意識下に記憶される。この意識下に記憶された発音体感が同じ音を聞いた時にも意識下に再生されるのである。これも通常は意識されない。しかし、‘mal’と‘mil’のいずれが大きいかと聞かれると‘mal’と答えることが出来る。ではなぜと聞かれても理由までは通常答えられない。せいぜい「なんとなくそんな気がする」というのが大抵の人の状態である。通常、意識出来ないので、音そのものが何らかのものを持っていると言われると納得してしまう。言語学者においてすらこの錯覚に陥っている人は多い。
人の脳の活動には意識出来るものと意識出来ないものとがある。意識出来るものよりも意識出来ないものの方が多い。原則は意識出来ないだろう。意識出来るのが極一部ということである。意識していたものがだんだん意識しなくなり、遂には意識出来なくなるということもある。自転車に乗った時のハンドル操作などはそうだろう。意識していないことを意識出来るようになることもある。発音体感はこの辺りだろう。意識と潜在意識との境界である。
サブリミナルなものを意識上に上げるには多少の訓練が必要である。歌人、詩人、マンガ家、作家などの皆さんは常日頃腐心しておられると思う。哲学者の鷲田清一さんも「「ぐずぐず」の理由」を読むと気にしておられるのがよく分かる。
感性の問題でもあるので、苦労する人とすぐ分かるようになる人とがいるのも現実である。通常、年寄りよりも若い人、男よりも女、の方が有利なようである。ただ、自分が意識化できないからといって無いとしてしまうことは真理に対する冒涜である。学界に於いては、これが老害である。若い研究者は自分の感性を信じて素直に主張して欲しいと思う。
この際、現象面をとらえて、音象徴をサブリミナル・インプレッション(SUBLIMINAL IMPRESSION)と呼ぶのも一案である。音の持つサブリミナル領域へのインプレッションである。インプレッション、さらにサブリミナルとすることによって、音そのものの問題ではなく、感じる側の問題であることが明確になるのではないだろうか(もちろん、音象徴の本質は発音体感である)。

今回、浜野祥子の取り上げたテーマは「「スクスク」と「クスクス」はどうして意味が違うの?」で、意味と言っているのが引っ掛かるが面白いテーマである。なぜ‘ス’と‘ク’の順序を変えると意味するところが全く変わるのか。浜野祥子は二音節オノマトペ語基において第一子音にするか第二子音にするかでその子音の音象徴が変わると言い、結論として「特に日本語の二音節オノマトペ語基は、音声的基盤にもとづく音象徴という独特の要素を持ちながら、同時に音まねとは程遠い、言語的な原理に支配されているということだ」と言っている。しかし、音まねはオノマトペの本質であって、「スクスク」と「クスクス」の違いも黒川の「口腔体感説」で、音まねとして十分説明できる。Sは舌の上を息を流して発声し、Uには出入りの、あるいは上への動きのイメージがあり、結果‘ス’にはスムーズに動くイメージが感じられる。Kの発声は喉の奥を少し締めそこを破裂させて息を口腔に流し込むので、‘ク’には息をちょっと詰めて動くイメージもある。「スクスク」は「スーと伸びて息を詰め(ちょっと止まる)、またスーと伸びて息を詰める(ちょっと止まる)」イメージ。「クスクス」は「クッと息を詰めたものをスーと流す、またクッと息を詰めたものをスーと流す」イメージで、まさに時系列的な音まねの典型である。もちろん、「スクスク」も「クスクス」も意味を持っている訳ではない。イメージを持っているのである。意味するところのイメージを惹起するのである。また、オノマトペに言語的な原理が芽生えつつあるのは当然であるが、イメージとすることによって、同じ音でも第一子音と第二子音とでは音象徴が変わるとするような作為的な考え方をする必要は全くない。もちろん、オノマトペを始め一つの言葉はいろいろなイメージを持っているので、その言葉が使われる場によって意味するところのものに繋がるイメージは異なる。最適なイメージが無意識裡(サブリミナル)に選択されるのである。ただ、どのイメージが選択されようと他のイメージが消えてしまうわけではない。これらのイメージがいわゆるこの言葉のニュアンスを生み出すのである。

坂本真樹は「「モフモフ」はどうやって生まれたの?」で、ブーバ・キキ効果を取り上げ「口の開き」とか「口の狭め方」などと言い、「筆者は、言語音と触感覚の間も、ある程度普遍的な結びつきがみられるのではないかと考えている」、「「モフモフ」・・・、例えば、そのような言葉を発音する時にどの言語の話し手でも、必然的に口の開きが所定のものになることによるのかもしれない」とも言っているので、ある程度発声時の口の態様が音のイメージに関わることに気付いているようではあるが、音と触感覚がどのように結びついてるかまでには思いが至っていない。「私たちの頭の中に言語音や印象の結びつきのデータベースがあるとすると、・・」と言っているのでデータベースのようなものが脳内に蓄積されていると考えているのかもしれない。また、「言語音や形態と意味の間に、・・関係性が見られる・・」、あるいは「「キキ」という音の響き、あるいは「キキ」と発音する時の口の狭め方と星形図形の形状に関連性を感じる・・」とも言っているのでこのような形のデータベースが存在していると考えているのかもしれない。
私は脳の中にはデータベースのようなものはないのだと思う。ただ有るのは脳の中の経験の痕跡の積み重ねだけである。そして、思い出すとは、それらの再体験だと思う。データベースをアウトプットするのではなく、経験の積み重ねから新たに再体験をするのである。だから記憶は常に変化する。新しい経験が追加されていくからである。言葉の音を聞いた時もその音の発音体感を再体感する。再体験することによって、筆者が言うところの意味との関係性や形状との関連性を都度新たに感じるのである。個々の繋がりをデータベースとして覚えているのではない。最新AIのディープラーニング技法がこの脳の仕組みを模倣しているのだと思うが、脳内の記憶の仕組みは無限多重だろう。そのためには、論理思考と同じように、外延ではなく入れ子方式(再帰構造)になっているのだろう。入れ子方式なら、有限のネット網に無限の焼き付けが可能だからである。もちろん、古い記憶は入れ子の中にフェードアウトして行く。強い記憶は他のネットにもフックが掛っている。だから、何かの切っ掛けで思い出が次々と蘇ることがあるのである。近い将来、言葉の音のイメージを抽出するのにこのディープラーニング(深層学習)のAI技術が逆に使えるのではないかと思っている。
ちなみに、坂本真樹は触感覚を指先中心に考えているようだが、舌、唇、喉、口蓋、鼻腔など口腔の感覚の大半は触感覚なのである。したがって、発声時の口腔体感のほとんどが触感覚である。

坂本真樹は「オノマトペが表す印象を数量化するシステム」を紹介しているが、そこで使っている43種の形容詞対が解せない。色々苦労したとの説明があるが、選択の基本を間違えているのではないだろうか。「表す印象」という言葉につられて、言葉の音がもたらす印象ということが忘れられているのではないか。触感覚にしろ感覚ということであれば、まず、「大きい―小さい」があるが、これが43対の中に見当たらない。「mal」と「mil」を取り上げて「どちらが大きいか」などと言っているのに取り入れない理由が思い付かない。次に「好き―嫌い」の対があるが、これは感覚ではなく感情、すなわち評価の問題である。言葉の音に普遍的に好きな音、嫌いな音があるのだろうか。個人的にはあるかもしれない。過去の嫌な思い出を惹起する音があるかもしれない。しかし、全ての人が嫌う言葉の音などないだろう。わが国中世の上流社会では濁音は雅ではないとして差別されたこともあるようだが、黒川伊保子の「怪獣の名は なぜ ガギグゲゴなのか」にもあるように子供たちは濁音が大好きである。また、評価の形容詞対として「良い―悪い」があるが、これも、良い音、悪い音があるのだろうか。声としては良い悪いは有り得る。しかし、言葉の音そのものとして良い悪いが有り得るだろうか。くわえて、言葉の音を論ずる場合、「好き―嫌い」と「良い―悪い」にどれだけ違いがあるのだろうか。「好き―嫌い」と「快い―不快」はほとんど同じではないのか。
「上品―下品」と「精錬された―野暮」もどれだけ違うのか。上品だけど野暮とか、精錬されているが下品、なんて有り得るか。
「弾力のある―弾力のない」と「伸びやすい―伸びにくい」も一般感覚としてどれだけ違うのか。
そもそも評価の形容詞対の選択を間違えているのではないか。この評価は、音とオノマトペの持つイメージを結びつける印象を浮かび上がらせようとするものであるが、印象とは何か、整理しきれていないのではないか。
感性的印象としては、まず、感覚的なものがある。触覚を中心に物理的属性である。大きい小さい、固い柔かいなどで、評価は入らない。これが一次的印象である。基本的印象ともいえる。次に、この基本的印象の組み合わせによって快不快などの感情が起こる。これは一次的感覚を過去の記憶などと照合して評価として起こるもので、いわゆる印象である。この感覚と感情をいっしょにしてはいけない。発音体感、特に口腔体感は感覚である。まだこの段階では感情は生じていない。したがって、感性的印象評価は感覚に絞って行うべきである。ちなみに、視覚の大半の大元は触覚である。鋭いなども手、舌で触れて覚えたものである。そもそもものの輪郭も手で触って覚えたものである。視覚独自のものは、色に関するもの、距離、速度などだけであろう。スピード感を除いてこれらは音の持つイメージ(発音体感)と直接の関係はない(距離感はある)。
感情的印象評価は、過去の経験などとの照合の上での評価であるから、基本的に個人によって異なる。先にも触れたように好き嫌いは年齢によっても異なるが、性別でも異なる。特に、文化によって異なることも多い。日本では生理を連想させる音、‘グッ’とか‘ベ’、‘チェ’などの音は下品と思われることが多いが、欧米では‘グッチ’、‘ベンツ’、‘カルチェ’などこれらの音を中心とした一流ブランドも存在する。
評価対を考えるとき、感じる側からのみ考えるのではなく、音そのものの発音体感の際立つ違いから考えるのも有用である。例えば、Aは大きいイメージといっても広がる拡散のイメージで、Oの纏まりの大きさのイメージと異なる。Iには小ささのイメージがあるが、これは絞り込んだ小ささで、それゆえIには鋭さ、直線性、固さ、凝縮されたもの、さらに意思的なものも感じられる。このように、言葉の音一つ一つの発音体感を言語化する必要がある。その上で、これらからくみ取れる印象を評価対として選別するのである。(必ずしも対にする必要はない)

掲載の評価表の中で、濁音の有無(X2)の項目に半濁音とあるが、日本語では半濁音といわれるものはP音だけである。このP音は有声音ではなく無声音で本質的には清音である。H音があるために特殊扱いされているが、P音の濁音はB音である。P音を他の清音と別扱いする必要はないと思う。

坂本真樹はこのシステムについて「著者の主観による音韻と意味の対応関係ではなく、被験者実験によりデータを取得している」として、客観性をアピール、科学的としているが、感性に関しては客観が絶対とは言い切れない。感性は主観の問題である。数をもってすれば客観となり得るか。「群盲象を撫でる」ということわざもある。例えば、お茶の品質の評価をする、利き酒をする、これらの時、多数決で決めるのか。名人が一発で見抜くこともある。ただ、科学的を主張するため、客観性を言うためには、ある程度の人間を集める必要がある。その上で、訓練をして、多数意見として集約するのも有効かもしれない。ただ、音のイメージはサブリミナルである。通常、人は意識しない。大半の人は意識出来ないかもしれない。また、ある程度意識出来る人もその感じを言語化することはむずかしい。それぞれの音の口腔感覚を意識化するにはある程度の慣れ、すなわち訓練が必要だろう。さらにその感覚を言語化するにはさらなる研鑽が必要である。
引用文献「人工知能学会論文誌」掲載の「オノマトペごとの微細な印象を推定するシステム」によると、実験の被験者は大学生78名で、これを6つのグループに分け、別々の対象を評価させているので、一つの対象を評価しているのは13名である。さらに、このシステムの結果の有効性を検証するための実験に参加したのが学生11名とある。この78名及び11名の方々が選び抜かれた人々であれば納得もいく。ただ、これらの人々の同質性、並びに女性の少ないのが気に掛る。

さらに坂本真樹は「オノマトペ自動作成システム」を開発したと宣言しているが、科学者が創作の分野に口出しするのは僭越ではないだろうか。科学者としてやるべきことはまだまだあるのではないか。創作はクリエイターに任せ、その成果を評価するお手伝いをするのが科学者・技術者の分ではないだろうか(創造的発想は必要だが)。
なお、このシステムで算出したとして、「モフモフ」に次いで‘やわらかくて暖かい印象’のものとして、「モフリモフリ」、そして「モフッ」を挙げているが、「ホワッ」、「ホワホワ」、「モファー」の方が「モフモフ」より柔らかくて暖かいのではないだろうか。感じ方にもよるが一般的にはどうだろう。なお、粘り感については「モフモフ」の方が上ではある。

言葉の感性分析は、似顔絵のようなものではないだろうか。似顔絵には上手い下手はあっても、正しい正しくないはない。むしろ正確でなくとも特徴をよく捉えていれば評価される。では、似顔絵は非科学的ででたらめなのか。そんなはずはない。すばらしい似顔絵もあれば、すばらしい戯画もある。鳥獣戯画は芸術である。芸術は非科学的か。今のデジタル科学が扱えないだけである。近い将来、複雑系の科学によって感性を科学として扱えるようになるだろう。感性はアナログである。○か×のデジタルではない。○でもなく×でもないものを認めるアナログである。複雑系の科学は確率的あり方を扱うことが出来る。曖昧なあり方も確率として扱うことが出来る。主観で曖昧といわれる感性も科学として扱うことも出来るようになるだろう。今は曖昧なものは曖昧のものとして確率論的に扱えばいいのである。○か×の枠にはめてしまおうとすると感性の実態が失われてしまう。意味と言ってはいけないのである。

私は音象徴に当たる現象を語感と言ってきた。語感はサブリミナル・インプレッションである。語感を英語にするとsubliminal impression of word sound (SIWS)である。
語感には言音感と語音感がある。言音感は、一つ一つの音韻、あるいは一つ一つの音節、日本語では拍、の持つクオリア、すなわちイメージ群である。脳の中で一つ一つの音韻のイメージとして記憶されているのか、一つ一つの拍のイメージとして記憶されているのか分からない。多分、一時的には拍として記憶され、それらの記憶の蓄積の中から音韻のイメージとして抽出・記憶されていくのだろう(立体的に)。拍の記憶は日本語人特有のものだろう。言語によって、例えば、シラブルとしてイメージ記憶されているということもあるだろう。なお、ここで記憶と言っているのは脳内の痕跡のことである。経験の痕跡である。いわゆるデータベースとしてではない。もちろん、データベース的に働くが、データベースとして場所的にまとめられている訳ではない。機能として、結果としてデータベース的に働くのである。
語音感は、音韻のイメージの連なりから新たに生み出される一つの言葉としてのクオリア、すなわちイメージ群である。これがいわゆる語感である。この語感には二つの面があって、一つは先の音韻のイメージの連なりから出てくるものであるが、今一つは類似の語の意味からの連想として出てくるものがあるのである。このように言うと本来の語感ではないではないかとの疑念もありうるが、日本語では類似の語自体が本来の語感を体現していたり、少なくとも本来の語感と矛盾していないのが大半で、必ずしも語感と無関係なのではない。例えば、オノマトペ「コンコン」は「コンコン咳をする」、「水がコンコンと湧き出る」、「雪がコンコン降る」などと使うとともに「コンコンと言い聞かせる」とか「コンコンと眠っている」とも使う。これらの表現には、「根を詰めて」とか「懇請する、懇願する」、そして「昏睡状態だ」などの表現からの連想も効いているように思われる。しかし、‘コ(ko)’には切れ切れの小さな纏り、そして少し重さのイメージもあり語感として無理があるわけではない。市販の語感辞書などはこの連想を中心にしており、言音感には気付いてはいないのではと疑いたくなるものも多い。私はこの言音感と語音感を合わせ語感と呼んでいるが、より本質的なのは言音感である。

最後に、小野正弘「2.オノマトペの意味は変化するの?」について述べたい。
小野先生は「オノマトペがあるから日本語は楽しい」、「感じる言葉 オノマトペ」などを出版され、オノマトペを「心の声」とか「肉体感覚的表現」などとおっしゃり、オノマトペの本質を充分理解されておられるようだが、今回は「オノマトペの意味は変化する」などと書いておられ誤解を招くのではないかと危惧する。先生はオノマトペの歴史的変遷にも詳しく、この本では「よよ」というオノマトペの歴史的変遷にふれておられる。「例えば、「よよ」というオノマトペは、平安時代には〈涙がとめどなく流れる様子〉と〈よだれが口からあふれ流れ出す様子〉を表していたのだが、のちに、〈女性が哀れげに泣く様子〉を表すようになった」と、すなわち「様子を表す」と正確に表現しておられる。にも関わらず、そのすぐ後に「オノマトペの意味が変わった」ともおしゃっている。しかし、オノマトペは意味など持っていない。持っているのはイメージ群である。そして、このイメージ群も変化しない。このイメージ群で表す様子が増えたのである。異なる様子を表すのにも使われるようになっただけである。‘よ’は発声的には母音IからOへの変化である。集中したものからある程度大きさのある纏まりへの変化である。拡散ではない、膨張でもない、溶融というか不確かな動きを感じさせる。それが「よろめき」「よたよた」「よぼよぼ」、そして「よ垂れ」へとなったのであろう。〈女性が哀れげに泣く様子〉とあるが、これは不正確で、正しくは〈よよと泣き崩れる様子〉である。「よよ」とは泣き崩れる様子である。そして、いずれにしても、「よよ」の持つイメージは変わっていない。
次に、小野先生は本題の「きんきん」について意味変化過程図を作られているが、「きんきん」の持つイメージは変化していない。そもそも「きんきん」には音的には冷たさのイメージはない。「きんきん」の惹起しうるイメージは、固さ、鋭さ、そして響きであるが、冷たさはない。「キンキンに冷えたビール」では、「キンキン」は「冷えた」状態を描写しているのである。「冷たい」ことを描写しているのではない。固さ、鋭さは冷えた状態と整合する。固さ、鋭さと感覚としての冷たさは直接には関係がない。また、冷たいものを食べると、後頭部が痛くなることがあり、これを「頭がキーンとする」などと言うが、この頭を締め付けられる感じの「キーン」の連想も関係があるのかもしれない。小野先生の意味変化過程図の中に「固く張りつめるほど冷たい」とあるが、「固く張りつめる」と「冷たい」の間にどのような関係があるのだろうか。氷のかたまりか厳寒の朝の空気でも介在させないと繋がらないのではないだろうか。なお、「キンキン」がビールに似合うのは、「キンキン」と「キレ」が音として近いからでもある。ビールはキレとコク。(なお、コクは「ドライ」の音に感じられる)。小野先生の言うオノマトペの意味、すなわちオノマトペの持つイメージ、は変化させなくとも「キンキンに冷えたビール」は説明できるのである。
   (平成30年1月1日)

   「「あ」は「い」より大きいか!?」を読んで  

日経の広告につられて、「「あ」は「い」より大きいか!?」を買って読んでみた。題名からして軽い本かと思って読んだが、意外としっかりした本であった。実例も豊富、しかもポケモンGOなど最新の話題を取り上げており、わかりやすく、面白い。文献紹介も丁寧で、ネットのサイト紹介まである。よく出来た入門書である。
副題は、「音象徴で学ぶ音声学入門」とあり、音声学の本である。私は15年近く前、語感、すなわち、いわゆる音象徴の研究を始めたが、音声学は知らなかった。というか、音声学には関心がなかった。語感研究の本筋ではないと思っていたからである。この本を読んで、音声学が意外と盛況であることに驚いた。ただ、いわゆる音象徴の研究には、音響音声学の現状では道半ばというか、迂遠であるとの印象を深めた。
語感の研究に音響音声学がなぜ迂遠かは、最後に論ずるとして、まず、この本で説明されている音象徴研究の現状について考えてみたい。

この本では、まずプラトンの「クラテュロス」の中の‘名付けの正当性’についてのソクラテスの議論がかなり詳細に紹介されている。ソクラテスはいろいろな音韻についてその意味するところを述べているが、その適否について筆者川原繁人は、一部認めているものの、すべてについては言及を避けているように思われる。私は、ソクラテスの音に対する感覚は、今のわれわれとほとんど変わらないと思う。
ついで、音象徴に否定的なソシュールの紹介がある。音象徴を研究するものとしては学問的にフェアーな態度だと評価できるが、「音と意味との恣意性」を、これは(must be)ではなく、(can be)なのだとしたのは単なる逃げではないだろうか。優等生の態度である。しかし、ソシュールは、言語活動のうち公的・社会的なラングについてのみ言ったのであって、私的・個人的なパロールについては何も言っていないのである。いわゆる音象徴は、極めて個人的・私的な現象である。この問題でソシュールを気にする必要はないと思う。
音声学による音象徴現象の説明として、まず「丸っこい」、「角ばっている」の例として、/maluma/、/takete/ を挙げ、「共鳴音→丸っこい→女性的」、「阻害音→角ばっている→男性的」としている。なお、共鳴音は、/m/、/n/、/y/,/r/、/w/、阻害音は、/p/、/t/、/k/、/b/,/d/、/g/、/s/、/z/、/h/、である。そして、共鳴音と阻害音の違いを、定義として、「口腔内気圧の上昇」であるとし、圧力変化の角ばっている阻害音は角ばって感じられ、圧力変化がゆっくりと丸っこい共鳴音は丸っこく感じられるとしている。音それぞれによって、丸っこさ、角ばりの程度は異なるとしているものの、これでは、ラマチャンドランで有名なbooba/kiki効果を説明できないため、「/b/ は破裂が非常に弱く、口腔内気圧の上昇があまり起こらずにすむので、角ばった感がありません。そして、母音/u/ が丸っこい」と言っている。それなら最初から、/b/を外しておくべきではないのか。私は、むしろ/b/は丸っこいと思う。/b/の清音である/p/も丸っこいと思う。/b/も/p/もほっぺたを丸く膨らませて、それを軽く破裂させて発音するので、当然丸っぽい感じがするのである。加えて、母音/u/の丸っぽさも言っているが、/u/よりも/o/の方が丸っぽいと思う。母音を含めて口腔内圧力説で説明が付くのか。口腔内圧力説は適当ではないと思う。母音/u/も/o/も口の中を丸くして発音するのである。また、コトバのいわゆる音象徴を云々する場合、母音も子音も同時に考えなければならない。私は、日本語では母音の方が強く効いている場合の方が多いとすら感じている。
次に「「母音の大きさのイメージ」というのは音象徴研究の基礎的な課題の一つ」であるとして、「/a/=大きい」、「/i/=小さい」のは、「/a/を発音する時に顎が大きく開き、/i/を発音する時は小さくしか開きません」としたものの、/a/と/o/のどちらが大きいか結論がない。/apa/と/opo/と、どちらが大きいかの問いかけに止まっている。スペクトグラムの第2フォルマントによっても分かるとして、母音の表があるが、それを見る限りでは、/o/の方が/a/よりも大きい。結論として、「調音的な「口腔の開き方」と音響的な「第2フォルマントの高さ」の両方が、母音の大きさのイメージに影響していると言えます」と言っているが、これでは、/a/と/o/のどちらが大きいか結論が出ない。そもそも、口腔の開き方と第2フォルマントの高さは、原因の一つとその結果の一つの関係にあり、同列に扱うのは論理的ではない。/a/と/o/の大きさは、大きさのあり様が違うのである。/a/は広がる大きさ、/o/は纏まりとしての大きさである。「空は広いな、大きいな」は/a/、「大仏様は大きい」は/o/なのである。/apa/と/opo/については、/apa/の方が明るい、/opo/のほうが重い、とは言える。
ところで、第2フォルマントが大きさに関係があるとしても、第1、第3フォルマントは何に関係があるのだろう。第1フォルマントが「舌の盛りあがっている部分の空間の共鳴」に対応するとは言っているものの、いわゆる音象徴にどのような効果をもたらすのかが不明である。「第1フォルマントによって大きさのイメージが決まるとなると、「あ=小さい」「い=大きい」になってしまうので、音象徴的には理にかなっていない。なぜ第1フォルマントが音象徴に影響しないのかは、謎である」と言っている。この段階で、スペクトグラムで音象徴を説明するのは無理なのではないか。音声を構造として捉える、すなわち2次ではない高次のスペクトグラムを開発する必要があるのではないだろうか。
次は濁音について、川原先生は「私は最初、日本人が「濁音=汚い」と思うのは、「濁」という漢字のせい、「濁っている音」なんていかにも汚そうだからと思っていました」と書いている。正直というか素直というか、有声音に濁りを感じられなかったのだろうか。ちなみに、濁音、清音という漢字は日本人の感性で作った日本語である。ただ、川原先生は濁音をすべて一律に扱っているが、少し乱暴ではないだろうか。濁音が無声音に比し大きいと言っても、/p/の濁音と/k/の濁音では、大きさに違いがある。/b/は破裂の激しさであり、/g/は打撃の激しさである。ちなみに、/d/は衝突の激しさ、/z/は摩擦の激しさである。基本的に、清音、すなわち無声音にエネルギーが加わったものである。子供たちは濁音のこのパワー感が好きなのである。

 その他、気になる記述について二三述べてみたい。
 近代の音響学や形式音韻論の理論的な基礎を作った一人であるローマン・ヤーコブソンの文章を取り上げている。ヤーコブソンが「例えば、周波数の高い音(=前舌母音)と周波数の低い音(=後舌母音)は、「明るいvs.暗い」「尖っているvs.丸っこい」「薄いvs.厚い」「軽いvs.重い」などのイメージ対立を喚起することができる」と言っているのに対し、「ヤーコブソンは明らかに、「大きさ」の違いだけではなく、さまざまな感覚における違いに注目しています」とした上で、「このヤーコブソンの主張を、子音まで含めて研究した人はまだいません」と言っているが、九州大学名誉教授の西原忠毅は「音声と意味(SOUND AND SENSE)」(副題A Study of the Expressiveness of Word-Sound in Modern English)の中で、英語の母音はもちろん子音についても、その音感を詳しく解説している。もちろん、「大きさ」の違いだけではなく、さまざまな感覚における違いも明らかにしている。なお、西原教授の専攻は英語学、音声学となっている。西原教授は「Wundt以来、発音器官の運動を音感形成の一つの大きな原因とみなす説があって、それが共感覚の理論となっている。われわれはそれに賛同する立場であって、聴覚印象(acoustic impression)と同様に調音感覚(articulatory sensation)を重視するものである」と言っており、共感覚についての誤解があるものの、調音感覚に気付いている。ただ、調音感覚と聴覚印象とが同じものであるという機序にまでは思いが至っておられなかった。
また、川原先生は「さらに、英語本文に出てくるacuteという音には、前舌母音だけでなく、「タ行」や「ナ行」などの舌先で作りだされる子音も含まれます。また、graveという音には、後舌母音だけでなく、「パ行」や「マ行」の舌を使って出す音や、「カ行」などの口の奥で発音する子音も含まれます」とも言っているが、acute(アキュート)のどこに「ナ行」の音が使われているのか。また、grave(グラーヴ)のどこに「パ行」「マ行」、そして「カ行」の音が使われているのか。また、川原先生は母音「ア」を後舌母音としておられるが、そうするとacuteという音には前舌母音も見当たらない(原稿の校正ミスか)。ヤーコブソンと川原先生は考え方が違うのではないだろうか。私は、やはり周波数で考える考え方は迂遠だと思う。西原教授の考え方の方が素直だと思う。
次に、ポケモンを取り上げたのは非常に目の付けどころがいいと思う。いろいろな怪獣がいるし、それぞれ性格などの違いもハッキリしていて分かりやすい。若い人の間で今も人気があるし、世界的な広がりもある。私も、孫に付き合ってポケモン・センターへはよく行ったし、ポケモンGOも時にはやっている。そこで、この本で二三気になったので挙げると、まずピカチューについて。
「ピカチュー」の進化前の名前が「ピチュー」、これに関して「進化前であることを表現するために「ピカチュー」の「カ」が削られて、名前が短くなっています。ここには、「長い=強い」「短い=弱い」というつながりが明確に現れています」と言っているが、そうだろうか。作者はピカチューを強いモンスターと考えて名付けたのだろうか。むしろカワイイ・モンスターとしてイメージしたのではないだろうか。光のピカッとチューチューねずみのチューとの合成語。音として、鋭さはあるものの小ささ、カワイサが勝る。強さはない。ここから(進化前だから)単純にすべく短くして、キレのある「カ」を取ると、小ささが際立ち、幼さも感じられる。これが作者の感性ではないだろうか。
次に、「ポケモンの名前に含まれる後舌母音が多いほど、ポケモンの体重は重くなる」、「ポケモンの名前に含まれる両唇音が多いほど、ポケモンの体長は小さくなる」と言っているが、/o/では重くなるが、/a/で重くなるだろうか。また、/p/では小さくなるが、/m/で小さくなるだろうか。後舌母音、両唇音と一律に決め付けるのは乱暴である。同じ後舌母音、両唇音でもそれぞれ違いがあるのである。
ところで、これらの調査分析で相関が出たとして、それが何を意味しているのだろうか。ただ、名付けの作者たちに語感に対する感性があるということに過ぎないのではないか。私は個人的には、上手い名付けもあるが、無理な名付けもあるように思うが、どうだろう。
なお、別のところで、「おやつの名前には/p/が使われることが多い・・」として「「おやつ=/p/」というつながりは、・・・、むしろ、「「パピプペポ」=外来語」というのは、「日本語の語彙の中では、/p/を含んだ単語は外来語である確率がとても高い」という事実から生じた音象徴と言えます」とあるが、これは考え過ぎだろう。おやつの名前に/p/が多いのは、単に子供が発音して楽しく、大人にもカワイク聞こえるからである。ピカチュー、ポケモンも/p/で始まる、なるほどポケットもモンスターも外来語ではある、しかし、外来語として意識して名付けただろうか。私は単にカワイク、面白いからだと思う。なお、「ピカッ」は日本の古くからの表現である。「日本」の読みも古くは「Nippon」である。

最後に語感の研究に音響音声学はなぜ迂遠と言ったかについて。
川原先生は、まず音声学を調音音声学、音響音声学、知覚音声学に分け、調音音声学を「発音の仕方の研究」、音響音声学を「話し手が発した音がどのように空気の振動となって伝わるかの研究」、知覚音声学を「人間が空気の振動をどのように理解するかの研究」、だとし、「音そのものに、あるイメージがあって、・・」と言っているが、音そのものが何かを持っているとするのは、間違いとまでは言えないとしても、迂遠であり、無駄骨である。なぜなら、いわゆる音象徴は、作為的に決められた意味とは違い、無意識に自然発生したイメージであり、そして、このイメージの源は発音時の身体感覚、すなわち発音体感だからである。言葉の音すべてがそれぞれに異なる。異なる音を発音するためには、異なる発音の仕方をする。唇の形、舌の使い方、口腔の形、喉の使い方、息の流し方、声帯の使い方、それぞれが微妙に違う。違う使い方をすることによって、それぞれ違う感覚が、それぞれに生じる。一つの音の発音体感は、それらの感覚の総体である。いわゆるクオリアである。単純な感覚の羅列ではない。大きくもあり、重くもあり、固くもあり、・・などの融合体である。このクオリアが聞き手に伝わるのは、聞き手が自ら、その発音体感を体感するからである。そもそも言葉の音は、音響的にいって、すべての人が同じなのではない。お年寄りの発する/ア/は小さな子供の発する/ア/とは違う。音の高さからして違う。男と女でもかなり違う。これらの高さも違う音を同じ/ア/として聴き取れるのは、学習の結果である。色々な「おはよう」を聞いて、同じ言葉だと聞き分けるには経験の積み重ねが必要なのである。聞き手は周波数の高さを統計的に分析して音の違いを聞き分けているのではない。発音の仕方の違いによる音の構造の違い、多分色々の周波数分布の構造の違いを感知しているのだと思う。言葉を覚える段階では、お年寄りの/ア/も幼子の/ア/も、自分の発音する/ア/として、脳内で処理するのである。だから、誰が言った言葉でも、音の高さは違っても、同じ意味の言葉として聴き取れるのである。他人の発した言葉を聴き取るということは、自分の言葉として一旦脳内で変換するということなのである。この時、発音体感も付随する。同じ音であるから、自分自身の発音体感が蘇るのである。だから、お年寄りの言葉でも、幼子の言葉でも、同じ言葉であれば同じ音象徴が感じられるのである。いわゆる音象徴の研究には、中間の媒体としての音そのものの研究は不要なのである。この本にも紹介のあるマガーク効果はこのことを証明しているのではないだろうか。「が」という音を聞かせながら「ば」という音を発音する口元を見せると、「だ」と聞こえるのである。聞き手は無意識に口元の動きから音を判断しているのである。「Ga」の/g/の調音点は喉の奥、「Ba」の/b/の調音点は唇、そこで脳はこの中間に調音点を持つ/d/の「Da」と判断するのである。言葉の音の判断にも脳が関与している証拠である。川原先生はこの現象を「脳が音を聞く時に、視覚の影響を受けてしまう」として、「視覚」、「聴覚」、「触覚」などの感覚が互いにつながっている、としているが、繋がっているということだけではなく、どのように協働しているかが問題なのである。脳は過去の記憶と照合し、判断し、合理化、すなわち妥協をしているのである。
多感覚知覚(マルチモダリティ)を取り上げ、音声学の枠を超えて、とおっしゃっているが、音象徴、さらに言語現象を考える上で、大脳生理学の知見の導入は不可欠である。なお、文献紹介にも名の上がっているRamachandranは、booba/kiki効果の原因としてSynesthesia(共感覚)を挙げ、視覚と聴覚の経路上の混線であるとしたが、これはラマチャンドランの誤解で、ブーバ/キキ効果は、基本的には、触覚と触覚の近似にすぎない。聞こえは発音体感、すなわち触覚であり、視覚での形の認識は、幼児期の手による触覚の記憶がベースにあるからである。
したがって、結論的に言うと、いわゆる音象徴の研究は、発音体感の究明がすべてである。そして、発音体感のさらなる究明、そして言語現象のさらなる研究には、マガーク効果をはじめ、大脳生理学の研究は不可欠である(共感覚をいわゆる音象徴の原因と誤解しないためにも)。
なお、川原先生は「意味」を感覚の1つとして考えると、と言っているが、これは余りにも乱暴だと思う。「意味」は人為的、すなわち人間の知的な行為の産物であって、自然な、すなわち生得的な感覚と同列にマルチモダリティとして扱うのは乱暴に過ぎる。音と「意味」とが繋がるのは、その言葉の意味として学習し、脳内に記憶・蓄積しているからである。意味といわゆる音象徴は、一つの言葉の表と裏の関係にあると思う。やはり、表と裏は峻別して考えるべきだと思う。
言語現象については、別稿でも「場の言語学」として縷々説明してきたが、発せられたコトバを聞いた人が自分の脳の中で、そのコトバを再生することによって初めて意味が伝わるのである。コトバの音に意味は乗っていない。その証拠として、いかに博学の人でも、初めて聞いたコトバの意味は分からない。音からは読み取れないのである。一度意味を教われば、そのコトバの音を聞いてすぐ意味は分かる。教わり覚えることは、自分の脳内の作業である。この作業があってはじめてコトバの音を聞いて意味が伝わるのである。この場合、コトバの音とその意味との関係は恣意的である。これがソシュールの「音と意味との恣意性」なのである。(ただ、いわゆる音象徴はそうではない。すべてのコトバが音と関係がないわけではない。特にオノマトペはいわゆる音象徴のかたまりですらある)。
聞いたコトバを自分の脳内で自分の音のコトバとして再生する。そこで初めて、自分の覚えた意味と照合できるのである。そして、同時に自分の音の発音時の発音体感も再生される。この発音体感が語感、いわゆる音象徴なのである。一種のミラー現象である。視覚についてはミラー細胞があるという。人が梅干を食べているのを目にすると、自然と塩っぱく感じ唾が出て来る。コトバの音にも、聴覚野にミラー領域があるのであろう。ウエルニッケ野がそうなのか、あるいはそれに連なるしかるべき領域が感覚野にあるのだろう。
聞き手の受けるコトバの意味は、そのコトバを発した人の意図した意味である。しかし、コトバの音には何も乗ってはいない。意味は約束事である。したがって、そのコトバの意 味を研究するために、そのコトバの音を研究しても無意味である。
語感、いわゆる音象徴についても、ほぼ同じことが言える。ただ、発音体感は発音行為に伴うもので、音そのものもこの発音行為によって生じるので、同じ発音行為によって生じる感覚と音とが無関係とは言えない。それ故、いわゆる音象徴の一部が、フォルマントとか口腔内圧力変化などとして窺えるのである。ただ、現在の分析技術では道遠しである。聞き手が感じるイメージは発する人の発音体感と同じなのであるから、いわゆる音象徴については発音体感だけを研究すれば十分なのである。
この本では、「最後のメッセージ」と題して、「(音、すなわち)「単なる物理現象」から、直接的に「意味」を読み取っている可能性がある・・」とあるが、違うと思う。「単なる物理現象」を脳内で自ら再体験することによって、自らの発音体感として語感、いわゆる音象徴を感じ取っているのである。もちろん、同時にその言葉の意味も自らの脳内の辞書から読み取っているのである。
自らの発音体感であるから、具体的にくわしく感じ分けることができる。阻害音、共鳴音などという大雑把な掴み方ではなく、/g/と/d/の強さの違い、/a/と/o/の大きさの有り様の違い、というように分析することが出来る。ただ、語感、いわゆる音象徴は、体感であるからクオリアである。イメージの複合体・融合体であるから、切り口に注意する必要がある。「大きさ、小ささ」の一辺倒では、音韻の違いの持つ味わいが出てこない。同じく大きいものでも、明るいものも、暗いものもある。軽いものも,重いものもある。固いものも、柔らかいものもある。それぞれが複雑なイメージの融合体なのである。
オノマトペも、そして日本語の場合日常使う言葉の多くも、その音の持つ多くのイメージの一部を使って作られている(結果として)。イメージの選択的使用ではあるが、聞き手の納得も得やすく、意味だけではなく、感覚的なもの、感情的なものも同時に伝わる。また、直接選択されなかったイメージも、その言葉のニュアンスとして、その言葉の深みを増す働きをしている。
なお、発音体感は主観であるから、客観の科学とするには、それなりの工夫が必要である。この問題については別稿でくわしく論じている。
(余分なことかもしれないが、P194.に「・・、ソシュールの言語感をより深く理解することができるでしょう」とあるが、「言語感」は「言語観」の校正ミスではないだろうか。)
    (平成30年1月28日)

   目でも聞いている   マガーク効果  

古来、日本人は‘目でもものを言って’いたが、最近の心理学の実験で、人間は誰でも、‘目でも聞いている’ことが分かった。
これは、文学的比喩表現の問題ではなく、実際に目で、口で発せられた言葉の音を判断しているようなのである。
この実験は、‘Ba’と発音している口元を見せながら、実際には‘Ga’の音を聞かせて、どのような音が聞こえたかを答えさせるもので、この場合、ほとんどの被験者は‘Do’と聞こえると答えたという。
耳では‘Ga’と聞こえているにも拘らず、口元では‘Ba’と発音していると脳が判断し、この矛盾を解決するため、脳が勝手に‘Ga’と‘Ba’の中間の音‘Da’が聞こえたことにするようなのである。
ちなみに、‘Ga’は口の奥・ノドでの破裂音、‘Ba’は唇での破裂音、そして、‘Da’はその中間の口の中での歯茎破裂音である。‘Ga’と‘Ba’を逆にして、‘Ga’の口元を見せて‘Ba’の音を聞かせても‘Da’に聞こえるようである。
これを‘マガーク効果’という。
われわれは唇を読んで、聞いているのである。
この‘マガーク効果’について、研究者たちは、相手の口の動きと音を結びつけて覚えているのだとしている。
私は、これは少し違うと思う。
相手の口の動きを覚えているのではなく、自分の口の動きを覚えているのである。
相手の口の動きを見て、ミラー・ニューロンの働きで、脳内で自分もその口の動きを再現、そして、自分の口の動きと結びついた音が自動的に脳内に浮かび上がるのである。
外からの音の聞こえに、自分の発音体感としての‘語感’が自然に浮かび上がるのと同じである。
言葉の音を聞き、あるいは、言葉の音を読んで、脳内に自動的に口の動きが再現され、その口の動きに伴う発音体感が浮かび上がるのである。もちろん、一つ一つの口の動きを意識するわけではない。意識下で再現されているのである。発音体感もいちいち意識されているわけではない。しかし、意識下で体感され潜在意識として働くのである。
‘マガーク効果’では、耳で聞いた音と口の動きから判断した音が異なり、脳は、意識下でこの矛盾を解決するため、この二つの音の中間の音を聞いたことにするのである。

   ココ、ソコ、アソコ 再考  

日本語の空間的な原理として空間詞‘こそあど’がある。
ここ、そこ、あそこ、どこ である。
もともとは、
ア(A)、ソ(So),コ(Ko)
から、
あっち、そっち、こっち 
や 
あれ、それ、これ、
あの、その、この 
が出来、やがて、
ここ、そこ、
へ広がり、これから 
あそこ 
が出来たのだろう。
ア、ソ、コ の空間的位置関係は、それぞれの音を口腔内のどこで発音するかで決まってきたのだと思う。(A,So,Ko ――― A,S,K)
すなわち、A は口の外へ広がるように発音する。S は口の中から外へ向かうように発音する。そして、K は口の奥、ノドから口の中へ発音する。調音点の自分の中心からの距離感の違いである。(ノドが中心)
ちなみに、A には全体にあまねく遍在する実在感、O には一つに纏まった重さを伴う存在感がある。(空の広さ、海の広さは A。象の大きさは O である。あま(AMa― 天、海。OOKi)

ところで、ド は どれ、どの、どこ という風に選択・問いに使われるが、どうしてであろうか。
先の‘マガーク効果’では、‘バ’と‘ガ’の矛盾から中間の‘ダ’に聞きなすということであったが、ここでは、意識的に、アレでもない、ソレでもない、コレでもないものに対して、やはり発音の調音点がその中間の‘T’、すなわち、‘ト’を使って、トレ としたのではなかろうか。そして、やがて疑いを強調する意味もあって、それを濁音化し、ドレ になったのではないだろうか。(有声音化すると濁り、そして、曖昧さが加わる。)
この‘ト’という言葉から、問う、問い などの言葉が派生してきたのだろう。
‘A’ は母音、‘S’は流音、‘K’は破裂音、‘T’も破裂音と発音方法は違うが、調音点の位置としては、‘A’が大外、‘S’が外に向かって、‘K’は真ん中、そして、‘T’は外でもなく真ん中でもない中間の位置ということになる。
もちろん、古代の人々が調音点が何処などと考えていた訳ではあるまいが、何となく外向きだとか、中心の感じだとかは感じ分けていたのだろう。ちなみに、‘ト’には‘語感’として、溜まる、留まる感じに加え粘り気があり、これが停滞感、戸惑い感に繋がり、疑問に使われるようになったのだろう。

   心 と 魂  

‘こころ(KoKoRo)’という言葉も、自分の中心にあり、コロコロした丸い感じとしてイメージ的に出来たのだろう。
よく似た‘たま(TaMa)’という表現は、‘こころ’に重いイメージがあるのに対し、高いところの丸いもの的イメージで、尊さと共に上に向かうイメージがある。
(‘こころ’の母音並びは‘o・o・o’、‘たま’の母音並びは‘a・a’。)
したがって、‘たま’は飛んでも、‘こころ’は沈むのである。
なお、高さに貴さを感じるのは基本的な共感覚かもしれない。
     平成23年5月13日

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