新しい言語学

今後の課題

   過ちは 繰返しませぬ    日本語の主語  

広島にある「原爆死没者慰霊碑」に「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」とある。
これが日本語の典型で、‘繰返しませぬ’の主語がない。
いろいろ議論があるが、あえて主語を入れるとすれば、論理的には‘米国人’だろう。
‘日本人’とするのは自虐が過ぎるだろう。
一般的には‘世界市民’ということになっている。しかし、‘世界市民’など存在しないイデオローグな理想論である。
日本人が素直に考えれば‘人間’である。「人間として、繰返しませぬ」といっているのである。
しかし、日本語のよさは、ここに主語をはっきりとは入れないことである。何を主語とするかは、読む人の品性にまかせているのである。
(下劣は人が読めば、下劣にも読める。大人の言語なのである。)

昨今の総理の座に執着する菅首相の姿は、あさましくも見苦しい、そして、みじめで滑稽ですらある。
潔さを美徳とするわれわれ日本人にとっては、全く以て、恥ずかしい。
この‘恥ずかしい’の主語は何か。
恥ずかしいのは菅さんである。
しかし、日本語のこの表現には‘私も’が含まれている。私も恥ずかしいのである。この私も恥ずかしいの‘私’は、日本人として、であり、人間として、なのである。
日本語の‘恥ずかしい’の表現には、菅さんの立場に自分を置き、その自分・私が、日本人、そして、人間にまで広がる意味合いを含んでいるのである。(私が、菅さんが好きかどうかは別のことである。)
(これらの感覚は、欧米人には到底理解できないのではないだろうか。これが文化の差なのである。)
画像の説明

   (平成23年8月6日)

   お恥ずかしい  

お陰さま、お世話さま、お気の毒、お叱り、お願い、お詫び などの‘お’は、丁寧語というよりは、相手に対する敬意を込めた表現だと思う。
では、お恥ずかしいの‘お’はどうか。
恥ずかしいのは自分である。自分の行為に敬意の‘お’をつけるのはおかしい。
‘恥ずかしいわ’とも言うが、‘お恥ずかしい次第です’などとも言う。そして、‘恥ずかしいわ’よりも‘’お恥ずかしい・・‘の方が奥ゆかしく感じられる。
これは、お恥ずかしいの‘お’も先の例と同じく相手に対する敬意を含んだものだからである。
確かに、恥ずかしいは自分が恥ずかしいのである。しかし、同時に相手にも恥ずかしい思いをさせているという感覚があるのである。
‘恥ずかしい’は日本語ならではの相手をも巻き込んだ表現なのである。恥の文化は奥の深い文化なのである。
なお、‘お粗末でした’と照れ笑いするのも、この恥の感覚と一種通じるものがある。
    (平成23年8月15日)

   日本語の構造  

   日本語は ハイブリッド言語 である。  

「日本語の奇跡」の中で、山口謡司先生は、日本語は情緒を表す平仮名<いろは>とシステムを表わす片仮名<アイウエオ>からなっていると書かれている。一方、「日本語教のすすめ」の中で鈴木孝夫先生は、日本語はテレビ型言語で、日常会話においても、漢字が使われると書いておられる。すなわち、日本語には同音異義語が多く、我々は日常会話においても、これらの言葉を頭の中で漢字に引き戻して意味を確認しているのだという。だから、聴覚に加え、漢字を思い浮かべる視覚も使っており、聞くだけのラジオ型に対し視覚も使うテレビ型の言語だというのである。

 私は、従来、日本語は平仮名語、カタカナ語、漢字語からなっているといってきた。すなわち、やまとことばの平仮名語、外来語のカタカナ語、そして、かって大陸から輸入した漢字語である。
 もちろん、やまとことばは情緒を表現しやすい。カタカナは記号としての役割を持ち、新しい概念を表わす外来語をそのまま採り入れるのに役立つ。漢字はかって新しい思想と共にわが国に入り、諸概念と共に論理思考をわれわれにもたらした。

 日本語は、情緒の平仮名、記号としてのカタカナ、論理・思想としての漢字で組み立てられている。そして、私は、そのベースに語感というものがあると思っている。
 特に、やまとことばは語感から生まれたと思われるものが多く、また、そうでなくとも語感に添うものが多い。(それ故、情緒的なのである。)
 漢字は、その読みを現地の発音を日本語的に聞きなして、呉音、漢音、唐宋音として日本語に採り入れたが、このとき語感が働いて漢字の意味と音のイメージが合うように聞きなされた。例えば、‘金’と‘銀’との中国での発音は、もちろん、‘キン’、‘ギン’ではない。それぞれの発音を‘キン’、‘ギン’と聞きなして日本語にしたのであるが、中国語での発音は、‘キン’と‘ギン’が逆でもありうるような微妙な音で、これを清音と濁音に聞き分けたのは、当時の日本人の金、銀のイメージの違いに対する感性である。
 また、漢字が輸入され日本語化したときの音のイメージによって、その漢字が本来持っていた意味とは違う使われ方をするようになった言葉もある。‘深謀遠慮’の‘遠慮’も、語頭の‘エ’音の少し引いたイメージから、今われわれが使っている「遠慮する」というような意味で使われるようになったが、本来のこの言葉にはこのような意味合いはない。(漢和辞典などで、‘日本語独自の意味’などとあるのはこのようなケースである。非常にたくさんある。)
 このように漢字の読みのベースにも語感が効いているのである。

 平仮名語もカタカナ語も、同じ50音からなっていて耳で聞く限りは同じであるはずにもかかわらず、平仮名語は母音的にやさしく聞こえ、カタカナ語は子音的に固く聞こえる。これらの言葉も我々は頭の中で視覚的にも再現して意味理解をしているのかもしれない。その意味でも、日本語は鈴木先生のおっしゃる以上に視覚言語である。

 私は、日本語は語感をベースにして、その上に平仮名語、カタカナ語、漢字語が乗っかった形になっているのだと思う。そういう意味で、日本語は鈴木先生のおっしゃるテレビ型に加えて、常にバックグランドミュージックが鳴っていて、その場の気分を伝えている、シアター型言語ということが出来ると思う。日本語は、鈴木先生のおっしゃる聴覚・視覚に加え体性感覚をも加えた五感言語なのである。

 ソシュールのいうlangueは山口先生がおっしゃるシステムにあたり、paroleは情緒にあたるとすると、欧米語というものは情緒を表わす平仮名を捨て、システムに当たるカタカナのみを残した言語ということができる。
 もちろん、漢字のような表意文字も持たないが、単語のスペリングが固定して音から離れ、やや表意的になってきているかもしれない。特に、シラブルとして、文字の一つのカタマリとして表意的なものを持ち始めているように思われる。

 平仮名、カタカナの違いは表記上の問題で、‘か’も‘カ’も口に出して音にしてしまえば同じである。実は、日本語では、この言葉の構成単位、拍の中に情緒とシステム、言い換えれば、論理性の基になる記号性が包摂されているのである。
拍は、子音+母音 であり、常に母音を持つが、この母音が情緒を表わし、子音が記号の基となる素材感を表わすのである。
ソシュール的にいえば、母音がparoleで子音がlangueである。
 そして、欧米語は、より論理的であろうとして、情緒を捨て記号性をたかめようと、母音を捨て子音中心の言語へと変質していった。しかして、欧米語はlangueで、日本語はparoleとlangueのハイブリッド言語ということになった。
 そもそも日本語は表音文字<いろは>、<アイウエオ>と表意文字<漢字>の融合したハイブリッド構造であるが、結果として、聴覚と視覚とを要求するハイブリッド言語ということもできる。加えて、体性感覚まで効かせた言語ということになるとハイどころかウルトラブリッド言語といえるかもしれない。

 日本語はこのように機能的にも構造的にもハイブリットなのである。

 ソシュールは個人的・瞬間的という理由でparoleの部分を捨てたが、日常会話は情報の伝達のみではなく、むしろ互いの気持ちの交換であり、paroleを捨ててしまえば、日常会話の、ひいては言語のごく一部しか見ていないことになる。
 paroleは個人的・瞬間的で、人の気持ちは捉えどころがなく定量的に捉えにくいが、一つの言葉の中の母音の伝える気持ちの方向性は明らかにすることは出来る。
 語感分析をすることによって、その言葉の意味ではなく、その言葉の語感的ベースを解析して、伝えたい気持ちの方向性を抽出することができる。すなわち、語感の考え方を採り入れることによって言語を記号としてのlangueとしてだけではなく、気持ちを伝えるparoleをも含んだ言語本来の全体像を捉まえることが出来るのである。
 特に、気持ちを伝えることを大切にする日本語を解明するには、語感分析的考え方を言語学に導入することが不可欠である。
          (22.04.12)

 

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