新しい言語学

語呂合わせと連想

   語呂合わせ と 連想ゲーム  

   蚊 の語源 嘘か誠か  

日本語が語感と連想から出来たとすれば、
蚊 → 咬む → 痒い  → 掻く
KaKaMu→KaYui→KaKu
ということもありうる。
しかも、一拍の名詞は古い言葉だと思われる。

語感からはどうか。
「ブーン」という羽音から漢字「蚊」が出来たのは分かる。漢字にもオノマトペ的に出来たものもあるのだ。
それでは、なぜ日本語で蚊が「プーン」あるいは「ブン」にならなかったのか。
それは「蚊」の字が日本に入ってきたときには、すでに「カ」という呼び名が定着していたのである。
「カ」の語感には、「か細い」、「か弱い」、「かそけき」、「かすか」、「かすみ」の /Ka/ のイメージがあり、「蚊」のイメージの一面を表わしている。
咬む の表現は、現象としては正しくないが、刺された当人のイメージは、まさに 咬まれた、食われた であろう。
咬む、掻く には K の持つ固さのイメージが生きている。
掻く は粘土の表面を 掻く から 書く へと連なるが、蚊とは別の語源があるのかもしれない。
         (平成21年7月7日)

   来る 寝る の 語源  

たまたま本屋さんの店頭で目に留まって「ヤマトコトバの考古学」(木村紀子)を手に入れた。記紀をはじめ文献の引用が豊富で大変面白かった。ざっと目を通して色々なヒントを得たが、その一つが「来る」と「寝る」の語源についてである。

特に語源を研究しているわけではないが、ヤマトコトバの場合、語感から語源が推測できるケースが多く、つい連想をたくましくしてしまう。ところが、「来る」と「寝る」は基本的な言葉でありながら、その語源がよく分からなかった。

木村先生によると、我国に文字が入ってくる以前に「刻木結縄」の時代があり、数の記録などのために縄の結び目などが使われていたという。暦の計算にもこの縄の結び目が使われていて、ここから「繰り越す」、「繰り上げる」、「繰り延べる」など月日に関係した表現が出来たのだという。すなわち、結び目のある縄を手繰ることからこれらの言葉が出来たのだという。
それでは、ナゼ 手繰るというのか。手(タ)は手でという意味として、ナゼ 繰る(KuRu)というのか。
これは、オノマトペ・クルクル(KuRuKuRu)回るからだと思う。
月日を数えるため、輪になった結び目のある縄を引き回したことを手繰るといったのだと思う。
そして、それからの連想で、月日の巡って来ることから、来る(KuRu).そして、人が近づくのも「来る」というようになったのではないか。
ちなみに、オノマトペ・クルクル からは、「狂う」、「苦しい」などの表現が現れた。(目が回ると苦しい。)
手繰る に類似した言葉として、まくる、めくる がある。Ta の手に対し、Ma,Me は何だろう。
Ma は「丸くなる」だと思う。Ma には満ち満ちて膨張するイメージがあり、結果として、丸くなる イメージがある。(満月のイメージかもしれない。語呂合わせではありません。)
Me は Ma の a を e に換えることによって、へばり付いたイメージを出したのだろう。

イ段の一拍語、Ki=木、気、Ti=乳、血、SHi=水、Mi=実 については、語感的にはよく分かる。しかし、Ni がよく分からなかった。「丹」か、とも思ったが、これは比較的新しい言葉だろうし、他に比べて基本的な言葉でもない。
ところが、先生によると、Ni は「土」だったのだという。
これならよく分かる。
N には、肌に接するイメージとともに、柔かさ、粘り気、少々の湿り気も感じられる。
K の固さ、幽かさ、T の溜まった感じ、S の流れる感じ、M の盛上がるイメージに対し、N には、粘りと湿り気のある接触感があり、大地の「土」に当てたのは納得できる。
そして、Ni が大地、土であることから、そこに横たわることが「寝る(NeRu)」となったのだろう。( e には下に広がり繋がるイメージがある。寝(ぬ)る よりも、寝(ね)る の方が語感的には合う。どちらかというと、寝(ぬ)るは寝ようとする行為、寝(ね)るは寝ている状態のイメージが強い。)
           (平成21年7月14日)

   来る の 語源(2)  

上記の推論には、結縄による暦が出来るまで、来る という言葉がなかったのかという疑問が出てくる。
すでにあったとすると、来る と 繰る は異なる来歴を持つことになる。
ココ(oKo)  ソコ(oKo)
コレ(oRE)  ソレ(oRe) 
にみられるように、子音 K と S には距離感の差がある。
K の調音点が口腔の一番奥、喉頭であるのに対し、S の調音点は前舌の辺りにあり、しかも、息が K は口腔に入るが、S は口腔から出るイメージのために、この距離感の差が出てきたと思われる。
(T は留まる感じがあるため、疑問文に使われるのだろう。何処(ToKo→DoKo))
そこで、K を使って ココ に来るのが 
来る(uRu)、
S を使って ソコ へ行くのが 
去る(aRu)
となったのかもしれない。
ちなみに、絶対的に存在することは、最も基本になる A を使って 
在る(Ru)、
自分の意思として居る事が 
居る(Ru)、となったのだろう。
居る(Ru)となると存在感が増す。
       (平成21年7月16日)

   清々しい ( SuGaSuGa しい )  

ある言葉の語感について、どうにも合点のいかないことがあった。
「清々しい」という言葉である。
何ともさわやかで、好きな言葉の一つであるが、この言葉の中に /Ga/ という音が入っている。
/Su/ はさわやかで分かるが、 /Ga/ は無骨で騒々しい。それがどうしてスッキリしてさわやかなイメージを惹起するのだろうか。
「清」という漢字の意味に引っ張られてかとも思ったが、全体としての語感そのものに違和感はない、むしろ、ピッタリである。
ナゼか悩んでいたが、木村紀子先生の「ヤマトコトバの考古学」を読んで合点がいった。
先生は、スサノヲを例に出して、「清々しい」とは荒れ狂った後のスッキリしたさわやかさなのだとおっしゃっている。ただのスッキリさ、さわやかさではなく、嵐の過ぎ去った後のスッキリさわやかさ なのだと。
これで納得した。
/Ga/ には、過ぐ(SuGu)の /Gu/ の動きに対し、拡散するイメージがあるのだ。すなわち、/SuGa/ には、拡散した、すなわち、済んでしまったというイメージがあるのだ。(意味ではありません。)
/Su/ のスッキリさわやかさ、/Ga/ の荒々しさ、そして、(拡散した)済んでしまったというようなイメージが一体となって、「清々しい」というイメージを作り出しているのだ。
(母音 /u/ には動きのイメージ、/a/ には拡散のイメージがある。)
               (平成21年7月13日)

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