新しい言語学

語感語源学

 →→   春夏秋冬の語源

   「甘い」と書いて何と読むか?  

もちろん、「あまい」と読む。しかし、辞書を引くと「うまい」とも読むとある。「あまい」と「うまい」はいっしょか。
もちろん、違う。しかし、対象に肯定的な意味では似ている。元々は一つの言葉だったのではなかろうか。一つからもう一つが生まれた。それでは、どちらが元の言葉か。
語感から言えば、「あまい(A・MaI)」だろう。
感覚がまだ未分化な時代、そして食品の加工技術もさほど進んでいない時代、あるいは必ずしも食料が豊富ではなかった時代には、カロリーの高い甘い食べ物は人々にとっては喜ばしいものであったろう。‘A’は素直な開放感、‘Ma’は充実感、甘いものを口にした人々は、「A・Ma」と叫んだのではないだろうか。当時は、甘いことが美味しいことと同じだったのではないだろうか。その後、食品の加工技術も進歩し、味わい分けの感覚も敏感になり、甘いだけではない旨み、あるいは、甘くはない味の深さを表現したくなって、おおらかでオープンな‘A’をやや絞り込んで個人的で内向的な‘U’に変えて、「U・Ma」という表現を作り出したのではないだろうか。「うまい」は内向的な深みのある充実感を表している。
ところで、「うまい」の反対は何か。
「うまくない」ではない。「うまくない」は「うまい」の否定にしか過ぎない。積極的反対は「まずい」である。
「まず」は「うま(U・Ma)」の否定形「U・MaZu」の‘U’が取れたものと思われるが、語感的には‘Zu’という抵抗感の強い音がよく効いて否定だけにとどまらず、積極的反対の表現になったものと思われる。そして、「まずい」は内向的な味わい深いものではなく、さりとてオープンな喜びではないので、‘U’が取れてしまったのだろう。
人々が「まず!」と言うときには、‘Ma’ではなく‘Zu’を強調するように発声する。無意識に語感を活かそうとしているのである。
「あまい」の反対は何か。
「あまくない」ではない。「苦い」か。
「酸っぱい」、「しょっぱい」、「辛い」もある。これらの言葉も語感から出来た言葉である。
「すっぱい」は分かりやすい。口の中に入れてスッとするものを「酢」と名付けたが、スッとするだけではなく、口の中で弾ける感じがするから ‘パッ’。スッとするものがパッと弾けるから「スッパ」。
「しょっぱい」の ‘パ’ も同じだろう。「しょっぱい」の ‘しょ’ は「塩」だろう。ではどうして「SiO」は「塩」か。これも語感から出来たと思われる。しかし、直接ではないので少々説明が必要になる。
昔、日本語では水のことを ‘Si’ と言った。血のことを ‘Ti’ と言い、乳のことを ‘TiTi’ と言った。木の実のことを ‘Mi’、木のことを ‘Ki’。そして、土のことを ‘Ni’ と言った。すべて、昔の人々にとって身近で大切なものである。‘S’は流れるもの。‘T’は中身の詰まったもの。‘M’は満ち上がるもの。‘K’はすっくと切れのいいもの。‘N’は粘り気があって肌を接するもの。これらに意を込めて絞り込む感覚で‘i’を付けて名づけたのがこれらの言葉である。
今も使われている言葉、しおれる、しぼむ、しなびる、したたる、しみる、しずむ、そして、しずく、しも、これら全て水と関係のある言葉である。これらの動詞は、水(Si)が抜けるとか、何らかの水の状態が及ぼした結果を表す表現である(死ぬ(SiNu)も水の抜けた状態を表しているのではないかとも思っている)。そして、青菜に塩をかけるとしおれるので、かけたそれを ‘しお’ と呼ぶようになったのではないだろうか(昔は、‘しほれる’だから、‘しほ’ だったのかもしれない)。
「にがい」は、これと言葉のでき方がちょっと似ている。‘に(Ni)’ は丹とも書くが、その昔は土のことを指した。丹の味はどんな味か知らないが、ともかく土の味は、やはり苦いと表現するしかないだろう。「にがっ!」の場合も ‘Ga’ が効いている。‘Ga’ には乱暴な迫りくる迫力を感じるが、やはり、「NiGa!」と叫ぶ場合は、‘Ni’ よりも ‘Ga’ にストレスを置く。
「からい」の場合は、‘KaRa’の乾いた感じから出来たのだろうが、やや語感の効きが弱い。ただ、辛さの後に来るスッキリ感が‘KaRa’にはある。総合的には、やはり語感の効いた言葉と言えるのだろう。
味の表現は人々の生活に密着した基本的なものである。それ故、語感がよく活きており、また、語感が活きてるから今も使われ続け、残ってきたのだろう。
日本語には「うまい」と同じ意味で「おいしい」という言葉もある。「美味しい」は今まで説明した日本語の基本的な言葉とは別系列の言葉ではないだろうか。少なくとも、語感では説明できない。
食う、吸う、飲む、は原日本語的な言葉で、語感で説明できるが、‘食べる’となると説明しにくい。やはり、別系列の言葉なのではないだろうか。
 その他、上(うえ)・下(した) に対する、上(かみ)・下(しも) も別系列だろう。うえ・した は語感から出来た言葉だ。
 語感から、原日本語を探っていくのも面白いかもしれない。
       (平成25年7月31日)

   アイ の 矛盾  

アルファベットの‘i’は‘アイ’と読む。ローマ字としての発音は‘イ’である。英単語の中の‘i’は‘アイ’と読むものもあれば、‘イ’と読むものもある。

‘i’を ‘イ’と発音したときの発音体感と ‘i’のもつ視覚イメージは非常にマッチしている。

‘i’は見た目にも、小さく、真っすぐで、カワイイ。余分なものがなく、鋭くも感じられる。湿り気や粘りは感じられず、温かさもない。‘イ’の発音体感からも、小ささ、真っすぐさ、カワイさが感じられるし、主体的な意志的なものも感じられる。
しかし、アルファベット‘i’の読みは‘アイ’である。‘イ’ではない。 ‘アイ’の語感と‘イ’の語感は同じではない。大きく異なる。‘ア’の発音体感は、明るく、おおらかに広がるイメージである。やわらかさもあるし、温かさも感じられる。

そして、‘i’の視覚イメージは‘イ’の発音イメージと同じであるから、‘i’の視覚イメージと、読み‘アイ’のイメージが大きく異なってしまうのである。

この矛盾、視覚イメージと、読みのイメージの違うことをうまく利用したのが‘i・Phone’のネーミングである。‘アイ’と読ませることで、明るくオープンな広がりのイメージを伝えながら、‘i’の視覚イメージで、スッキリしたシャープさ、カワイさを伝えることに成功しているのである。‘I’を、あえて小文字の‘i’にしたところにも卓越した革新的発想が感じられる。(もちろん、大文字よりも小文字の方が小さくカワイク見える)

ところで、アルファベットには母音、A,I,U,E,O が含まれている。この内の前舌母音 A、I、E の読みがローマ字の発音と違っている。発音‘a、i,e’に対して読みは‘ei、ai、ii’である。共通部分を除くと‘e、a、i’となる。これを発音と並べてみると、
   発音 a i e
   読み e a i
となり、一つづつずれていることが分かる。奇妙である。どうしてなのか、分からない。
もちろん、読み通りの単語もあるし、ローマ字の発音通りの単語もあるから、源流を異にする二つの言語が混じり合った結果かもしれない。
ただ、象形‘A、I、E’は‘ア、イ、エ’の語感にそれぞれ合っていると思うがどうだろう。‘A’は横にしてみる。すると、広がりを表しているようにもみえる。‘E’も下に押し広げられているようにみえるのではないだろうか。

 単語の中の‘i’を‘アイ’と発音するか、‘イ’と発音するか、どちらの語感がその単語の意味するところとマッチしているか、個々の単語ごとに精査してみなければ分からない。
 日本語の‘私’を意味する英語‘I’を‘アイ’と発音するのと‘イ’と発音するのとでは語感がかなり違う。‘アイ’と発音すれば、明るくおおらかでオープなイメージに加え自己の存在を宣言しているように聞こえる。一方、‘イ’と発音すると鋭く真っ直ぐに自己を主張しているように聞こえる。‘イッヒ’は‘アイ’よりも格段にきびしい(もっとも、独語は全体的に他の言語に比べ音的に迫力があるが)。
もともと、独語も英語も同じインドヨーロッパ祖語から別れたという。どのようにして英語が‘アイ’になったのか、面白そうだ。

日本語の自分を指し示す言葉には、‘わたし、わたくし、わし、わっち、わらわ、われ、わい’などがあるが、すべて‘ワ’からの展開である。紀元前後、大陸へ渡った和人が‘ワ、ワ、ワ・・’と盛んに言っていたので、倭人と名付けられたとも言う。一面の真実を伝えているのかもしれない。
単純なものから複雑になっていくという大和言葉の成り立ちから考えると、‘ワ(Wa)’ は‘ア(a)’からかもしれない。‘a’の発声が存在そのものを表し(実在)、それが分化して‘ワ・私’、‘吾・あなた’、そして、ものを示す‘あれ’になっていったのではないだろうか。
このように考えると、英語の‘アイ’は‘a’の後ろに‘i’を付けた。そして、日本語の‘ワ’は‘a’の前に‘w’を付けたとも考えられ、前と後ろの違いはあるが、本質的なところでの共通性が感じられる(結果論ではあるが)。
ちなみに、‘ wa’ の ‘ w ’ は ‘u’ から ‘a’ への変化を一気に発声したものである。したがって、‘w’ は ‘u’ と考えることもできる。‘ I(ai)’ は ‘i’ を後ろに、‘ わ(wa)’ は ‘u’ を前に付けたことになるが、語感からすると、‘i’ は前面に自己の意思を主張しており、‘u’ は内にこもり内面的ということで‘a’のイメージを和らげる効果がある。このあたりは、自己主張のはっきりした英米人とシャイな日本人の有り様とまさに相似である。

‘ オレ’ の語源は分からない。‘ おいら、おいどん、オラ、おのれ’ などがあるが、基は ‘ オ’ なのだろう。‘ 男 ’ と語源はいっしょかもしれない。‘o’ の語感には、重さ、大きさのイメージがあり、存在感を感じさせる。この存在感から ‘ 男(wo)’ 、‘ オレ’ などの言葉が出来てきたのだろう。
     (平成24年7月24日)

   語感言語学  

   純粋理論 語感語源学  

この理論的試みは語感と言葉との関係を明らかにするためである。
特に、初期の言葉が語感をベースに出来ていることを明らかにしたい。
そのために次のような理論的前提をたてる。
ここで敢えて、純粋理論といっているのは、言葉が生まれ現在の言語にまで進化した過程で、色々な変遷を経たであろうが、それらの紆余曲折をいっさい無視して、出発のある時点と今を、直線で結びつけて考えることである。(原因と結果を直接結び付けて、単純化して考えるということ。)
そして、有史2000年の言語の変遷を含めた日本語を、今の言葉 と考える。
出発は、我々の祖先が東中央アフリカか、中央アジアかにおいて、初めて言葉としての声を発した時期。
言葉としての声とは、うなり声でも叫び声でもなく、自分の意思を表明するため作為的に出した声。
言葉が生まれる過程で色々の試行錯誤があったであろうが、単音から出発して現在の拍方式(子音+母音)、五十音表方式(アイウエオ・・・)に直線的に進化したと考える。
したがって、出発のある時点も、経過の一時点を仮定したもので、その時点が実際にいつであったかは別問題である。
最初の言葉が単音であったか音のカタマリであったかは議論の分かれるところであるが、日本語に関する限り、現在の日本語に単母音、単拍の生きた言葉が多数あり、それらの言葉が日常の基本的な言葉であることより、単音を出発点と考えたい。

生後8ヶ月の幼児の泣き声を聞いていると、純粋ではないが アー に近い声である。
何かに驚いたときのギャーギャーという泣き声ではなく、母親の姿が見えなくなったときに泣き出し、ちょっと声が聞こえたりすると、声を張り上げて泣く、そして、母親が現れるとピタリと泣き止む。これは、いわゆる泣いているのではなく、自分の要求を表現しているのである。したがって、言葉の始まりに近い。感情で泣いているのではなく、欲求があり、自己主張として声を出しているのである。この声は アー に近い。まだ、喃語、バ とか プ とかは余り発しない。この子に関する限り、言葉の始まりは アー かもしれない。
ア はもっとも自然に、もっとも大きな声で、しかも、持続して出せる声である。人類の最初に発した言葉は ア であったと考えてもよいのではなかろうか。

   オノマトペ  

語感をストレートに表現しているのはオノマトペである。
感嘆詞も心情を擬態していると考えれば一種のオノマトペである。
普通の言葉の中にも直接、語感から出来たと思われる言葉もあるが、語感から考えると、まず、感嘆詞的なものが出来、次に少し複雑になってオノマトペ的なものが出来、そこから色々な言葉が派生し、また、それぞれが分岐していったのではなかろうか。
一方、言葉が先にあり、その言葉から出来たと思われるオノマトペもある。
したがって、まず感嘆詞が生まれ、それが言葉に成長し、その言葉からオノマトペが出来、そして、そのオノマトペから新しい言葉が出来ていったケースも考えられる。
(以下、感嘆詞は、オノマトペに加えて考える。)

オノマトペが先か、言葉が先かを考える際、P→F→H の歴史的音韻変化は非常に参考になる。
語感から直接出来たオノマトペは音が変化しにくいが(変化すると語感が変わってしまう)、言葉は P→H の歴史的変化はありうる。
したがって、言葉を P音 に戻し、その言葉と関係のある P音 のオノマトペがあれば、そのオノマトペが先にあったと考えられる。
例えば、ヒカリ は H音 を P音 に戻すと ピカリ となり、オノマトペ、ピカピカ、ピカッ、ピカリ などと繋がる。したがって、光 は ピカリ から転じたものということができる。
そして、ピカリ は ピカッ から派生したものであろう。なぜなら、ピカリ の リには語尾変化として文法的なものが感じられるからである。

コロコロ と 転がる、転がす、いずれが先か。これは コロコロ が先だと思われる。
なぜなら、コロコロ には明確に転がるイメージがある。そもそも K には回転のイメージがある。以下 コロコロ の母音だけを変えたセットすべてに回転のイメージがある。
   KaRaKaRa   乾いた、中が空のものの回転
   KiRiKiRi   垂直回転
   KuRuKuRu   自分自身、目が回る
   KoRoKoRo   地面について、縦の回転
e には、下に押し付け広がって繋がるイメージがあるため、回転のイメージを出しにくい。
o には、重さ、丸い、のイメージがあるため、Ko は転がりのイメージにピッタリである。そして、このセットの他のオノマトペも対応する言葉から出来たとは考えにくい。
   KaRaKaRa   カラ回り
   KiRiKiRi   きりきり舞い、錐
   KuRuKuRu   クルクル目が回る、クルクルパー
したがって、コロコロ だけが例外的に言葉から出来たと考える特別の理由もない。
なお、コロコロ から 転ぶ、転がる、転がす ができ、これらから 殺す も出来たのではあるまいか。(ここで、転ぶ とこの語感とは直接結びつくが、殺す とその語感とは直接は結びつかなくなる。)
また、目がクルクル回ることから、苦しい、狂う が出来た。車 も くるくる回る から出来た言葉だろう。

シラジラ は 白い から、シミジミ は 沁みる から出来たと思われるが、シズシズ と 静か はどちらが先か。私は、静か が先ではないかと思う。( シラジラ、シミジミ はオノマトペとはいえないかもしれない。しかし、情感はよく表れている。)
これは、シズ が 静か な状態と矛盾はしないが、語感的に直接結びつかないのと、静か という言葉が、シ・ズク から出来たのではないかと思うからである。
シー、シーン からかもしれないが、水を打った状態、あるいは、雨上がりのぬれた状態から出来た言葉ではないかと思う。
また、シーン でどうして静かさを表わすのか。なにも音のしない状態で耳を澄ますと聞こえる耳鳴りの音を擬音したとの説もあるが、私は、古代人が声の音の中でもっとも静かな音を シ と感じたからではないかと思う。( S音 は子音の中では最も小細工をしないで出す音で、流音ともいわれる。)

   シ = 水  

シ が 水 を表わすのに使われたということは、語感的には納得できる。S音 が流れを感じさせ、i音 が意思を感じさせ、流れる大切なものを シ としたのも成程と思う。
ちなみに、あるのだけれどはっきり見たり触ったり出来ないものが Ki(気)、内容の詰まった大切なものが Ti(血、乳)としたのも同じような考え方である。
また、シ については、水 = シ として出来たと思われる言葉が非常に多くあることから、水 が シ であったことに疑問の余地はない。
 萎れる、萎びる、萎む、浸みる、染み、雫、霜、飛沫、搾る、湿気、湿り気、しわがれる、しわぶき、
そして、多分 時化、しばれる、撓る、沈む、したたる
そして、ここから、下(シタ、シモ) もかも。(水は下へ下へと流れるし、下へ滴る。)

私は、シ のその元は シーシー ではないかと考えている(少し暴論気味ですが)。
幼児に小用を促すとき母親は シーシー という。そして、出てくるのが 水 である。
古代人に排泄物という概念はなかったであろう。幼児のお小水はきれいである。なお、もちろん、オシッコ は シーシー から出来た言葉である。

   いろいろ  

イロイロ と 色 とどちらが先か。イロイロ だと思う。
イロイロ の方が広い範囲で使われる上、語感的にも イロイロ は納得できるが、イロ の語感と 色 という概念とは直接結びつきにくい。しかし、イロイロ種類のあるものの典型として 色 に使ったとしても不自然ではない。

オノマトペと言葉で面白いケースは、オノマトペの音を逆にしたのではないかと思われるケースである。
モクモク も モク を逆にすると クモ(雲)になる。モクモクと雲はピッタリのペアーである。偶然とは考えにくい。(語感的には モクモク がピッタリ)
ズキズキ と キズ(傷)もこのケースである。
スカスカ と カス(粕)もそうかもしれない。そして 粕 から カスカス も出来た。カスカス と スカスカ とでは、カスカス の方が意味が先行しているように感じられる。
コセコセ と せこい もそうかもしれない。
モゴモゴ と 口ごもる は 口ごもる が先だろう。( モコモコ は盛上がるイメージで、モゴモゴ とは関係がなさそうである。)
ブツブツつぶやく という言い方がる。ツブヤク は ツブ(粒)からきた言葉だろう。そうすると、ツブヤク から ブツブツ という表現が出来たのだろうか。語感的には、ツブヤク も ブツブツ も感じがよく出ている。もし、粒 が ブツブツ より先であれば、雲 のケースの逆である。
オノマトペは二拍の繰り返しが多いが、二拍の言葉も拍そのものの作り方と同じで、
 〜的なもの が 〜的状況にある
という表現になっている。
 モク も ブツ も、クモ、ツブ よりも動きのイメージが強く出ている。これは、ク(Ku)、ツ(Tu) が モ(Mo),ブ(Bu) よりも動きのイメージが強いためである。動きの表現の二拍目の順序を変えて、ものの表現にしたのだろうか。

漢字語には、漢語をそのまま導入して同じ意味で使っているものと、一つ一つの漢字を組み合わせて新しい言葉として使っているものとがある。
もともとの漢字をそのまま使っている場合も発音は大きく変わっている。当時、漢音、呉音、唐音として導入したものの、日本的に拍化して導入したために結果的にもとの発音とはかなり違ったものになっている。この日本語的発音にしたときに語感が働いて非常に語感に合ったものも出てきた。また、日本語的発音になったためその語感からもともとはなかった意味合いの加わったものも出てきた。

   金 銀  

前の例では、金、銀 は音読みではあるが、変換の際に キンキンギラギラ 的な語感が影響してか キン、ギン になったもので、この キン、ギン の語感は実物にピッタリである。(当時の現地での発音はかなり違うと思われる、特に ギンの発音が違うと思われる。)

後の例は、遠慮。本来の意味は深謀遠慮の意味で、「ご遠慮します」というような意味はない。これは、e音 の語感(引き気味の躊躇感)からそのように使われるようになったものである。
綺麗 も「金払いがキレイ」というような使い方は、本来の意味に、語感から、切れ、清潔感 が加わったからである。

その他、辞書を引いて、「日本語での特別な意味」と書かれているところは、語感から加わった日本語的使い方ゆえのものである。

漢字を組み合わせて新しい言葉を作る場合、基本的にはそれぞれの漢字の意味から作るので、かならずしも語感が合っているとは限らない。ただ、一つ一つの漢字を語感に添うよう聞きなして日本語化しているため結構語感に合っているものが多い。
哲学 という言葉の語感は、固苦しいものを追求するイメージで、はずれてはいない。
政治、経済 などは余り語感とは関係がないかもしれない。
美人 に至っては語感が裏切っているのではなかろうか。

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