新しい言語学

語感

   ‘言音感’と‘語音感’  

私は言葉の音の響きのもつイメージを語感と呼んできた。しかし、世間一般では、語感辞書と称するものでも、丁寧であるとか丁寧でないとかまで語感に入れており、その一方で、肝心の発音体感に根差すイメージに気付いていないケースが多々見られるので、呼び名を一新したいと思う。
すなわち、母音、子音のそれぞれのもつ発音体感を中心とした感性的イメージを‘言音感’と呼び、それら音素の並びである一つの言葉のもつ感性的イメージを‘語音感’と呼び、区別したいと思う。
日本語では、子音+母音で一つの拍を作るが、この拍の感性的イメージも‘言音感’とする。
日本語では、言葉は拍の連なりである。この言葉のもつ感性的イメージ・語音感は、拍の言音感の連なりとなり、言音感による物語のようになるが、その上に言葉の音の似た類似語の意味の持つイメージが重なって来る。これは、自動的に音連なりの連想が起こってしまうからである。結果、一般の人には、その言葉に感じるイメージが本来の言音感によるものか連想によるものかは分からなくなっている。
例えば、言葉‘ひかり’からは、‘光’、 ‘ヒカリ(新幹線)’の連想から明るい早さをまず感じるが、もともと‘ひかり’は‘ピカリ’から出来た言葉で、‘ピカリ’の/pi/には明るい固い弾けが感じられ、続く/ka/、/ri/には乾いた切れが感じられるので、全体として明るい早さが感じられる。この/pi/が/hi/に変わっても元の明るく早いイメージは連想と共に残った。ただ、/hi/ゆえに少し冷たくなるが柔らかくもなった。
‘言音感’は純粋に発音体感。
‘語音感’は‘言音感’に連想が加わったものである。
連想の素となる音連なりの類似語は言語によって異なるので、語音感は言語によって違ってくる。また、文化によって何に下品さを感じるかも違っており、どんな音を嫌うかも違ってくる。これらも語音感と考えることもできる。したがって、丁寧な言葉か雑な言葉かも語音感に入れて考えてもいいのかもしれない。語感辞書などの語感は私の語音感にあたる。
ただ、私は‘言音感’が重要と考えており、発音体感にこだわりたいと思う。
‘言音感’は音素論の問題で、言葉の本質に関わるものである。
‘語音感’は、言語ごとの慣用・慣行による部分も大きく、語用論が関わってくる。ただ、一つの言葉の語音感のどの部分が言音感によるもので、どの部分が語用論に関わるものかを判別するのはむつかしい。脳内に於いても、音素と言音感を結びつける音韻秩序と言葉と意味とを結び付けている意味秩序とが錯綜しているのではないだろうか。
いずれにしても、言葉が意味を持つ始まりは‘言音感’からであった。
    (平成26年11月21日)

   語感を英語では何というか  

われわれの言う語感という言葉を英語では何と表現するか。
音象徴はsound symbolism。
そして、音象(sound impression)という表現もある。

最も一般的な音象徴は、音と意味とを直接結びつけようとする傾向があり、今生き残っている言葉で音と意味とが結びつかないから存在しないのだと短絡的な評価を下され、否定される結果となっている。

われわれは、今分かっている言葉から帰納的に語感を探り出そうとしているのではなく、発声体感という物理・生理現象から語感を推定しようとしているので、音象徴とは一線を画したいと思っている(逆に、音と意味との結びつき度合いを測ることによって、その言語の退化度(進化度?)を測ることが出来るのではとも思っている)。

また、impressionというと、耳で聞いてそのような印象を持つという風に聞いたイメージのように取られる恐れがあり、発声体感という能動的なものを強調したいので、impressionという表現も避けたい。

発声する側と言うことを明示するために、messageという言葉を使ってはと思っている。ただ、伝言ではなく、気持的なものなので、sentiment message、あるいはsubliminal messageとしてはどうかとも思っている。

理屈的には、voice sound subliminal messageであるが、英語は名詞の羅列を許さない。しかし、voiceを形容詞にしてvocal soundとすると歌声になってしまう。
subliminalも少し迷うところだ。オノマトペ、助詞の使い分けは、日本人なら誰もが迷わずやっている。意識は全くしないが微妙な使い分けを自在に行っている。subliminalに判断しているのである。しかも、余りにも当然のこととしてである。やはり、subliminal messageでいいのかもしれない。
語感は気持を中心とした感覚的なものが中心だから、sentiment messageとしてもいいかもしれないが、形容詞としてsentimentalとすると感傷になってしまう。

日本風に、subliminal message soundでいいかもしれない。ただ、これだとsoundが中心なるが、subliminal sound messageとするとmessageが中心になってしまう。英語的にはvoice sound with subliminal messageなのかもしれないが、messageをわざわざ付けたsoundというようなニュアンスになってしまうかもしれない。

結局、和製英語Voice Sound Subliminal Message (VSSM) で押し通すのも一手かもしれない。
(ヴィッスムと読めるかな。日本語はヴィッスム度が高く、英語はヴィッスム度が低いとか、日本語はヴィッスム言語である、とか)
  (平成24年12月31日)

   語感とは  

‘語感’という言葉には広い意味と狭い意味とがある。

‘語感’を辞書で引くと「ある語のもつ特別な感じ。ことばのひびき。」、そして、(参考)として「その語の本来の意味以外に人に与える感じをいう。」となっている。
また、別の辞典には「語にはそれぞれ一定の中核的な意味があるが、その周辺にはいろいろな感じがまとわりついていて、それらをひっくるめて‘語感’と呼ぶことができる。」となっているという。
いずれも‘語感’とは、意味以外の‘感じ’だといっているようである。
最近、出版された中村明先生の「日本語 語感の辞典」の‘まえがき’をみると、感じ、雰囲気、調子、印象、ニュアンスなどの言葉が並び、「どんな感じのことばか」とか「ことばの感触としての語感」などの表現がある。

感じにしろ、感触にしろ、ニュアンスにしろ、意味するところの広い、そして曖昧な表現である。
そのため‘語感’という言葉はいろいろな意味に使われている。敬語、丁寧語、文章語、日常語、俗語などの違いを‘語感’の違いとして扱っている解説書すらある。
これらは、歴史的変遷を経ての用法上の違いであって、言葉そのものの特性ではない。
‘お前’という言葉は、かっては身分の高い人に対する丁寧な言葉であったが、今では気を許したぞんざいな表現に使われる言葉である。‘お前’という言葉そのものの意味は変わっていないが、使われる場面が変わったのである。すなわち、用法が変わったのである。この変わってきた用法を‘語感’といっている。いやむしろ、一般的にはこの用法の違いを‘語感’といっているようである。
「日本語 語感の辞典」には「この辞典は用語選択に役立つよう、感触や連想の違いを分析、意味、用法の微妙な差にまで言及して解説している。」とある。意味の違い、用法の違いにまで触れていることを誇っているのである。(実用上は確かに親切で便利である。特に外国人にとって)
このように、辞書などのいう‘感じ’は、もちろん広い意味である。そして、どちらかというと用法・使い分けを中心とした捉え方である。

   言葉の構造  

画像の説明

私は、‘語感’を厳密な意味で考えている。すなわち、狭い意味で捉えている。
私は、

言葉の音の響きの聞く人に与えるイメージ

を‘語感’と考えている。
したがって、慣習からくる用法上の丁寧だとか乱暴だとかは‘語感’とは考えていない。
‘お前’という言葉はやや乱暴ではあるが、‘おまえ’という音には乱暴さはない。したがって、‘お前’という言葉の‘語感’には乱暴さはないと考える。

言葉の音に言葉の意味以外の何がしかの感じがあることは古から言われ続けてきた。古くは、ソクラテスが言葉の音素一つ一つがもつ意味について論じているし、わが国でも、鎌倉時代の僧仙覚、江戸時代の国学者、賀茂真淵、本居宣長、鈴木朖、そして、昭和初期の幸田露伴が五十音それぞれが意味をもっているとして、それぞれについて論じている。(プラトン全集(クラテュロス)、雅語音声考、音幻論)
これらの音義説については、音が意味をもっているとしたところに問題もあるが、言葉の音一つ一つが何らかのそれぞれ異なる感じをもっていることに問題意識をもったことは大いに評価できると思う。(勿論、それに先行する悉曇学、さらに印度哲学にその萌芽があるが、)

言葉の音が、何かある特定のイメージを持っていることを確認するために、アメリカの生理学者ラマチャンドラン博士は、米国在住の人たちだけではなく、タミール語族の人たちなども対象に大規模な調査をおこなった。
その調査は、線描で曲線だけで描かれた丸っぽい形と直線だけで描かれたトゲトゲした形のものを見せ、‘KiKi’と‘BooBa’という声の音だけを聞かせ、これが二つの図形の名前で、どちらがどちらの名前かを当てさせるものである。名前として‘KiKi’と‘BooBa’を選んだのは、似た音の言葉があれば、その言葉の意味に引っ張られる恐れがあるため、極力似た音の言葉のないものを選んだのである。また、二つの名前を字で書かずに声で聞かせたのは、字の形のもつイメージに引っ張られるのを避けるためである。(アルファベットの‘K’は尖った感じがあるが、タミール語にはそのようなイメージはないそうである。)
調査の結果は、‘KiKi’を尖がった形のものの名前としたものが 95%〜98% であった。
多くの人が、‘KiKi’に尖ったものを感じ、‘BooBa’に丸いイメージを感じたということである。
ラマチャンドラン博士は、これを共感覚だと言っているが、私は、これこそ‘語感’であると思う。
ラマチャンドラン博士は、共感覚という脳の中の機能的なものと考えているようであるが、私は、そんな先天的なものではなく、生後習得していく後天的なものだと思っている。

‘聞こえ’ということは、聞く人がどう聞くかということである。
これは主観の問題である。
‘言葉の聞こえ’となると意味的なものも入ってくる。そして、意味にまつわる色々なものも入ってくるので、使い分け的なものも入ってくる。‘聞こえ’という主観的なものであるから、個人的な連想も入ってくる。その言葉にまつわる楽しい思い出、いやな思いなども入ってくる。
「その言葉の‘語感’がいやだ。」といったような物言いは、意味的な連想の結果であることが多い。
‘音の聞こえ’といった場合は、意味的なものは除いてということではあるが、聞き手としては何処までが意味的でどこからが意味を除いたものなのか判断しにくく、結果、意味的なものを含んだ感じとなってしまう。
このように、‘語感’は意味的なものを含んだ漠然とした感じになり勝ちであるが、これは‘語感’が‘聞こえ’という受身的な主観によるものであるからである。

われわれは、この‘聞こえ’という受身的で漠としたものの生じる根源を、発音体感という主観ではあるが主体的なものにある、と見定めた。
ちなみに、この発想は、そもそもは、ソクラテス、鈴木朖、幸田露伴にも見られるが、新たに理論として提示したのは黒川伊保子である。
‘聞こえ’という他律的なものの原因を自律的な発音体感である、と見定めたことは、発想の一大転換であり、これにより‘語感’を科学として解明する道がひらかれた。
‘聞こえ’のようにいろいろの要素のからんだものが他律的であれば、条件をそろえての実験が不可能である。しかし、要素がいろいろあろうとも自律的で主体的なものであれば、条件を絞り込みながら実験をすることができる。

   卑弥呼  

‘ひみこ’という言葉を聞いたとき、どのようなイメージを感じるか。
古代のロマンを感じるか。神秘的な女王のイメージをもつか。あるいは、呪術的な怪しさを感じるか。人それぞれであろう。
そして、それが歴史上の女王‘卑弥呼’を知っていての意味からくるイメージなのか、‘ひみこ’という音からくるイメージなのかは自分でも判別できない。ここに‘聞こえ’としての音のイメージの抽出のむつかしさがある。
しかし、‘ひ・み・こ’と自ら発音してみて、それぞれの音を発音したときの体感を抽出することはできる。具体的な言葉に表現することはむつかしくとも、それが温かい感じの音だとか、軽い感じの音だとかの感じは感じ分けることができる。これも、多少の訓練によって、温かさでも湿った温かさであるとか乾いた温かさであるとか、動きでも前向きの動きであるとか上向きの動きであるとか内部での回転の動きであるとかを感じ分けることが出来るようになる。
(本当は、誰でも感じ分けているのだけれども、その潜在的な感覚を意識化できないか、あるいは、ある程度意識化は出来ても言葉に表わすことが出来ないのである。そして、結局「なんとなく、そんな感じ」と表現することになってしまう。)
日本料理のお吸い物にしろ、フランス料理のソースにしろ、それがすばらしくおいしいことが分かっても、そしてそれが普通のものとは違うことが分かっても、その違いを言葉で表わすことはむつかしい。隠し味として、味醂が少々入っているとか、昆布出しに鰹が少々入っているとかを味わい分けることはかなりな経験者でなければむつかしい。しかし、大方の人は違うことは分かるのである。

日本語の五十音は子音を母音で響かせて発音する。
‘ひ’は子音‘H’を母音‘i’で響かせて発音する。ただ、‘ひ’だけは正確には‘H’音ではない。
‘H’は声門音といって声門から出た呼気を口腔では何もせずに出すが、‘ひ’だけは口腔で舌先で障害を作る硬口蓋摩擦音なのである。専門的には発音記号も違う。このため、普通の‘H’音はノドの奥から直接息が出てくるので口腔で温かく感じるが、‘Hi’音は舌先の熱が奪われ冷たい感じが加わる。結果、温かいものが冷たいものにふれる、すなわち、冷やされる感じがするのである。
本来、温かいはずのものに冷たいものが加わり最終的に冷たい感じで終わるので、‘Hi’には、怪しい、ふしぎな、そして、高貴な感じがあるのである。
‘ひみこ’と音の似ている‘ひみつ’、‘ひめごと’なども意味的連想をもたらしているかもしれない。しかし、‘ひみつ’、‘ひめごと’の‘Hi’も音からくる内面を覆い隠す神秘性をもっていて、‘ひみつ’、‘ひめごと’のイメージを形作っているのである。したがって、‘ひみこ’の音のもつ神秘性は、‘ひみつ’、‘ひめごと’などの言葉によってイメージが強化されているとも考えられる。

外から入ってくる音の聞こえが、ナゼ自己内部での発音体感に起因するのかということは、言葉の本質的な問題である。くわしくは、‘場の言語学’をご覧頂きたいが、そもそも、言葉を発し聞き取る能力は、人から知識として与えられるものではなく、自らが自らの脳の中に築き上げるシステムに基づくものなのである。特に、言葉の音は、自ら発音して発音方法を習得しなければならない。この習得にはマニュアルもなければノウハウもない。ただ真似ようといろいろ試行錯誤をするだけである。自らの努力がすべてである。そして、その努力、試行錯誤の過程で、発音に伴う体感と音そのものが結びつくのである。その結果、音と発音体感というイメージが結びついているので、その音を耳で聞いたときもそのイメージが脳の中で活性化されるのである。( /ア/ という音の発音を身につけるときに /ア/ を発音したときの体感が同時に脳に焼き付けられるのである。)

   「日本語 語感の辞典」     

「日本語 語感の辞典」に、‘ふくらむ’と‘ふくれる’の‘語感’の違いが詳しく説明されている。
‘ふくらむ’は自然に起こる全体的な膨張で正常な変化であるため好ましい連想が働き、‘ふくれる’はやや不自然で部分的な膨張で異常な変化なため悪い連想と結びつきやすいとして、‘予算がふくれる’などの例をあげている。
随分、突っ込んだ解説で大筋間違いではないが、惜しむらくは、ナゼ‘ふくらむ’が自然で‘ふくれる’が不自然なのか、ナゼ‘ふくらむ’が全体的で‘ふくれる’が部分的なのか、の説明がない。
‘ふくらむ’と‘ふくれる’の‘語感’を分析すると、‘ふくらむ’は自律的で‘ふくれる’は受身的なのである。この自律的を自然、受身的を不自然とこの辞典は捉えているようである。
‘HuKuRaMu’と‘HuKuReRu’の音の上での違いは、‘RaMu’と‘ReRu’である。もっと細かく見ると、‘a’と‘e’、‘M’と‘R’の違いである。
母音‘a’は発音体感として大きく前向きに広がるイメージであるのに対し、母音‘e’は顎を少し引き気味に発音するため、やや引いた躊躇感があり、これが受身的に感じられるのである。そして、それが被害者意識的にも感じられ、‘ふくれっつら’などの表現にも繋がるのだろう。また、‘e’には下に平らに広がるイメージもあり、これが‘a’の全体的というイメージに対し部分的と感じられるのである。
‘M’は口腔に溜めた息を一部鼻からも抜くように発音するため、自律的に溢れる膨張のイメージがあるのに対し、‘R’は舌をもっとも振るわせるので動きとしては震動のイメージがある。
文語ではあるが‘ふくるる’という言い方もある。これは‘HuKuReRu’の‘e’が‘u’に替わっただけであるが、やや息を引き取って鼻にかかったように発音する‘u’には内的なやや鬱積したイメージがあり、‘腹ふくるる思いなり’と立腹のイメージが出てくるのである。
このように‘語感’を用法の違いからのみ分析するのではなく、本当の‘語感’、すなわち、‘言葉の音の響きのもつイメージ’から分析すれば、それぞれの言葉の本当の姿がより鮮明になるのである。
大方の‘語感’の解説には、この本当の意味での‘語感’が抜け落ちているようにみえるのは誠に残念なことである。
        平成23年3月4日

   語感音痴  

  感性にも 「感性のバカの壁」 がある。  壁の外の人は、壁の内に豊かな世界があることに気づきもしない。

 語感とは、コトバの音の響きに何らかのイメージを感じることであるが、このコトバの音に何のイメージも湧かない、すなわち、感じないと言う人達がいる。

 この語感音痴な人達にも二種類ある。一種類は、全く何も感じない、イメージ的なものは感じないという人達。これは完全な語感音痴である。

 もう一種類の人達は、イメージらしきものは感じるが、それはあくまで意味で、そのように学習したからだと主張する人達である。語感なんか感じないという人達の大半は、このタイプで、意外に中高年の男性、特に高学歴の男性に多い。

 これらの人達は、‘ノロノロ’に粘り気を感じるというと、それはそのように習ったからだとか、‘のんびり’とか‘ノビノビ’、‘ノソノソ’、‘ノタノタ’などからの連想だという。
 そして、これらの人達に共通の傾向は、自分が感じるかどうかということを重要とは思っていないことである。
 むしろ、考えたり、覚えたりすることが知的行為で、感じるなどの情緒的ないい加減な行為よりも高級であると考える傾向がある。その結果、自分が感じるということよりも、自分は分かっていると考える方を重視する。

 従来の教育は、覚えることを重視した。そして、自分で考えると言うことは重視しなかった。
 まして、自分で感じるということは無視してきた。
 そして、このような教育環境の中を勝ち抜き、職に就き、法律の仕事、経理の仕事に就けば、決まった法律を適用し、経理基準に合わせるべく処理しと、約束事の枠内での判断のみに追われ、自分でどう感じるかなど考えるのは無駄だと封印、そして、感じること自体を忘れてしまった。

 そんな人達が、いわゆる成功者といわれる人々の中にも多数いるのではなかろうか。これらの人達にとって、語感は他所のお話、そして、自分にとっては関係のないこととなってしまっているのだ。
 しかし、人間は、別途述べるように、顕在意識だけではなくサブリミナルなものにも動かされている。いやむしろ、そのようなものにこそ動かされているので、そのような人達も語感を意味と思い込んでいるだけで、実際は、語感を感じ、語感に動かされているのである。

   ラマチャンドラン  

 米国の神経科学者、V・S・ラマチャンドランは、ギザギザの尖った線描と丸っぽい線描の二枚の絵を見せ、それぞれの名前として、どちらが適当か、‘booba’と‘kiki’という音声を聞かせたところ、米国だけでなく色々な国での調査で、95〜98%の正解率を得たという。
 わが国でもNHKが街頭で調査していたが約80%の正解率であった。(正解は勿論尖った方が‘kiki’)このことは、人が、ある一定の音に言語、人種を越えて同じ傾向のイメージを持つことを示している。ちなみに、日本語としては‘ブーバ’‘キキ’共に意味を持っていない。
(なお、80%という正解率は、街頭での調査で、かならずしも緻密な調査でなかったためにぶれたもので、厳密にやれば正解率は上がるものと思われる。)

 ラマチャンドラン達は、これを共感覚の調査としたが、厳密には二つの種類の共感覚の重なりの調査であって、共感覚自体の調査ではない。
 すなわち、ギザギザの線描を見て鋭さなどを感じる視覚と触覚の共感覚と、‘キ’という音を聞いて鋭さを感じる聴覚と触覚の共感覚、この二つの共感覚の重なりの調査である。この中‘キ’の音に鋭さを感じるのが語感である。(「脳の中の幽霊 ふたたび」 P111.)

   ソクラテス  

 ソクラテスも 「クラテュロス」 の中で、

「 n の音の内部性に気づいて、内なるもの、の中にあるもの、とに名づけたのだ。」 とか 
「 r の字の発音に際して舌が静止することが最も少なく、震動することの最も多い(粗い)・・、あらゆる動きを表現するための道具と看て取ったから・・」
 
などと言っており、語感、むしろ、発音体感に気づいていた。( n は鼻音で、内にこもる感じが最も強い。)

   ヘルマン・ヘッセ  

 ヘルマン・ヘッセも 「幸福論」 の中で
 
「Glück」 の語感を 「この語は、驚くほど重い、充実したもの、黄金を思わせるようなものを持っている、と私は思った。充実し、重みがたっぷりあるばかりではなく、この語にはまさしく光彩もそなわっていた。雲の中の電光のように、短いつづりの中に光彩が宿っていた。 ・・・ 溶けるようにほほえむように Gl と始まり、ü で笑いながら短く休止し、ck できっぱりと簡潔に終わった。」
 
と言っている。‘Gold’‘Glanz’などの意味にやや引っ張られた気味があるが、語感の感じ方は、我々日本人と大差はない。

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