新しい言語学

言語論

   「日本語人の脳」  

今から38年前「日本人の脳」を書かれた東京医科歯科大学名誉教授角田忠信先生が新しく「日本語人の脳」(言叢社)を出された。
「日本人の脳」で、日本人だけが虫の声を左脳(言語脳)で聞くという画期的な実験結果を発表されたが、日本人特殊論であるとの反発をふくめ、一時、論壇をにぎわしたが、実験方法が打叩法(タッピング)という熟練を要する方法であったためか海外では検証が進まず、認められないまま、やや埋もれた状態で推移してきた。
その主張は、正確には、日本語、ポリネシア語を母語とする人は、虫の声、鳥の声、動物の鳴き声、そして人の感情音を、言語を処理する側の脳(大半は左脳)で処理をする、というものであるが、今回の「日本語人の脳」は、その後の最新機器による実験結果や研究成果をあらためて纏めたものとなっており、基本的な主張は変わっていない。
当時、友人たちに「日本人は虫の声をコトバとして聞くが、外国人は雑音としか聞かない。」と言うと、「ヘエー、成程」、「面白いね」とは言うものの、それで終わりだった。
しかし、虫の声をコトバとして聞くか、雑音としてしか聞けないかは、非常に重要なことである。虫の声は意味を持ってはいない。ただ、日本人はその虫の声に、秋を感じ、寂しさを感じ、あるいは、もののあわれをしみじみと感じるのである。
非日本語人にとってはコトバは意味を伝えるもの。しかし、日本語人はコトバに意味以上のものを託し、また話されたコトバに意味以上のものを読み取ろうとする。非日本語人にとっては言葉は情報でしかない。日本語人にとっては言葉のやり取りは、情報の交換であると同時に気持のやり取りでもある。ここから日本語人と非日本語人のものの考え方の違いが出てくる。ものの考え方の違いは文化の違いとして表れる。
日本人と欧米人のものの考え方の違いの根本にあるものは自然に対する考え方、感じ方である。日本人は自分も自然の一部であり自然とは繋がっていると感じているが、欧米人は自然は自分の外にあり、自然とは対決し、克服していくべきものと考えている。欧米人は人間は他の何ものとも異なる絶対のものであると考えている(人間中心主義)。もちろん、一神教という宗教のせいもある。しかし、そのような宗教を採用し、そのように作り上げたのは彼等自身である。
その考え方が自らの内部にも向かい、自らの内部の自然、すなわち情・感情を蔑視し、知・理性を至上のものと考えるようになった(主知主義)。この知至上主義と人間絶対主義とが相まって、自分が絶対という個人主義を生み出した。この個人絶対主義は必然的に自らの自由の宣言となり、一方、対外的には平等の要求ともなった。本来、自由と平等は矛盾した概念である。これは、個人絶対主義がそもそも自然とは相容れない概念だからである。
日本人は自分も自然の一部で自然とは繋がっていると感じているが、周りの人々とも繋がっていると感じている。日本語には身内という言い方がある。同じ一つの身の内にあるという感覚である。そして、この繋がりを断つこと、断たれることを非常に嫌がる。
日本語には英語の‘I’、‘you’に当たる言葉がない。敢えて言えば、そのような概念がない。英語の‘I’は、自己を主張する、あるいは自己を宣言する言葉として、幼児期から教え込まれる。‘you’は相手を自分から切り離す決め付けの言葉である。日本人はこのような表現を自分の子供や家族には絶対に使わない。
日本人は知・理性を至上のものとは思っていない。情・感情も大切と思っている。むしろ、情を知よりも信頼できるものと感じている。「頭でっかち」、「理屈っぽいやつだ」、「腑に落ちない」、「胸にストンと落ちた」などはその表現である。「なんとなく嫌な気がするから、やめとくわ。」などの表現は感覚をすら信頼しているのである。こんなことを言うと、欧米人はバカにするだろうが、日本人にはこれで通るのである。
日本語には、情を主観として直接表現する言葉がある。‘悲しい’、‘さびしい’、‘うれしい’などである。英語には感情を主観に表現する言葉がない。‘I am sad.’は主観の表明ではない。客観的描写である。
‘(あなたが)好きだ’は自分の心の状態(受動)の表明である。しかし、英語の‘I love you.’は‘私はあなたを愛する’という行為、すなわち能動の宣言である。
日本語の‘思う’に当たる英語はない。‘think’は‘考える’である。‘考える’は知の行為。‘思う’は情、すなわち意識下の行為が含まれている。日本語で‘なんとなく、そう思う’とは言えるが、英語で‘I think so without any reason.’と言えるのだろうか(‘guess’とも違う、‘guess’には能動のニュアンスがあり‘think’と同じく知の行為であるが、‘思う’には自然にという受動のニュアンスがあり情の行為である)。
知は論理である。したがって、欧米人はものごとを○か×かの二者択一に決めたがる。デジタル思考である。日本人は中間、中庸が好きである。○でも×でも極端と感じる。○と×の間に真理があると考える。○と×は繋がっているとも感じている。アナログ思考である。情も自然もアナログである。
では、なぜ日本語で育つと虫の声を言葉として言語脳で聞くようになるのだろうか。まだその機序は十分明らかにはなっていないが、角田先生は「日本語には単母音で意味をもつ言葉が多いからではないか」とおっしゃっている。吾、胃、意、鵜、絵、柄、尾、緒などがそうである。ただ、英語にも母音だけで出来た単語はある。‘I’、‘we’、‘are’などである。‘you’も半母音で出来ている。単母音としては冠詞の‘a’だけではあるが。
私は、日本語では母音が意味を伝えるための重要な働きをしているからではないかと思う。日本語は(子音+母音)の拍方式をとっており、モーラには必ず母音が含まれる。すなわち、日本語は母音が中心なのである。日本のある有名な劇団では、新入団員には舞台上で母音だけでの発声訓練をさせるそうである。母音をしっかり発声できなければ日本語としての言葉が通じにくいからである。
私はそのことと相まって、日本語では気持を伝え合っているからではないかと思っている。
日本語の母音は気持を伝えやすい。母音は、声帯の振動を口腔で共鳴させて出す自然音で、口の形、舌、唇の形、息の出し方を変えることによって、5つの母音を出し分ける。連続して出すこともできるし、他の母音に連読して変化させることもできるアナログな音である。気持によって口の形、舌、唇の形、息の出し方を変えればそれぞれ違った音が出る。そのそれぞれの音を聞けば、その音の出し手の気持が分かる。日本人は言葉を覚える段階から相手の気持を母音から読み取る訓練をしているのではないだろうか。母音から気持を読み取ることができるようになれば、やがて子音からもニュアンスの違いを読み取れるようになる。例えば、子音/K/には、固い感じ、乾いた感じ、/N/には、柔らかさ、粘り気というように、である。子音は口腔内に障害を作って、そこを破裂させたり、擦ったりして無理に出す人工音で、その発声の仕方に応じた感覚、感じが伝わる。日本語のオノマトペで、生き生きとした情景、そして微妙な情感を伝え得るのは、この母音・子音の効果を利用しているからである。
「サピア・ウォーフの仮説」というのがある。アメリカインデアンの言葉と文化の関係を調べたアメリカ人研究者が唱えた説で、「言語が文化を規定する」というものである。発表当時は脚光を浴びたが、やがて反論が相次ぎ否定された形となっていた。最近イギリスの言語学者が「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」を出し、年間ベストブックなど多数受賞しており、書中にも「文化的差異が深いところで言語に反映されているということ、母語がものの考え方や外界を知覚するやり方に影響しうる・・・」としているが、実際に言っていることは色の感じ方が違う、色の仕分け方が違うという程度で、ものの考え方の本質的違いにまでは気付いていない。そもそも欧米系の科学者は欧米系の言語でしかものを考えられないし、欧米系の言語でしかものを見ることもできない。欧米系の学者には虫の声を言語として聞くことが出来ないのである。そのようなことが考えも出来ない。だから、そのようなことを認めない。認めたくもないのである。
欧米では進化論を認めない人が今でも半数以上いるという。アメリカでは7割以上の人が進化論を認めないともいう。日本人で進化論を認めない人がいるだろうか。敬虔なクリスチャンでも、日本人なら、内心では進化論を否定はしていないと思う。明治の文明開化期、進化論が日本に入ってきたとき、日本人はなんの抵抗もなく素直にその考え方を受け入れた。自然との一体感のある日本人にとっては、猿から人間になるなんてありうることであったのだろう。むしろ、神が土で人間を造ったなどという方がインチキぽかったのではないだろうか。
反対に、欧米では日本人的ものの考え方は理解されない。虫の声を言語として聞くことが、日々の会話で‘I’と自己を主張し、‘you’と相手を突き放すこととは真逆であることには考えも及ばない。個人主義が絶対であると今も思っている。男と女は絶対的に平等でなければならないと信じている。科学的にありえないことであっても、である。
角田理論が世界で正当に評価されるようになるには、まだまだ時間がかかるだろう。
世界が自然との繋がりを取り戻す、すなわち日本的ものの考え方を理解してもらうには、日本語を世界に広めるのも一つの方法だろう。
一昨年、国内で相次いで出版された鈴木孝夫の「日本の感性が世界を変える」、金谷武洋の「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」などはそのような考えのもとに書かれている。
このような本が、日本国内だけではなく、海外で広く読まれるようになるといいのだが、と思う。
     (平成28年6月1日)

   「日本語の科学が世界を変える」を読んで  

「日本語の科学が世界を変える」(筑摩選書)を読んだ。すばらしい本であった。
しかし、ちょっと分りにくい書名である。
もう少し丁寧に言うと、「日本語で科学や技術を学び、日本語で考えた成果が、世界を変えてきたし、これからも変えるだろう」ということになる。
著者は松尾義之、日経サイエンス誌の副編集長、そして科学技術番組「シンクタンク」のキャスターを長年務め、内外の最新科学、そして技術に精通した科学ジャーナリストである。当然、科学・技術の英語にも堪能で、ノーベル賞受賞の裏表にも詳しい。

まず、著者が強調しているのは、日本語で科学することと英語で科学することとは違うということである。英語で科学の基本を学んだ人は、日本語での科学についての考え方が身についていないので、日本語での科学は出来ないのである。
当然、日本語と英語では言葉が違う、テクニカルタームが違う。ただこれは、翻訳すればすむことで、日本語にはほぼすべての訳語が用意されている。むしろ、日本語には英語に訳しきれない言葉、例えば‘生き物らしさ’や、日本語の方が本質をイメージしやすい言葉、例えば‘物性’などがあるとも言う。
これらの用語のことも重要ではあるが、これらの言葉の裏に隠れたものの考え方の違いこそ重要だと著者は言う。ちなみに、ものの考え方はその言語を母語として習得することによってのみ身に付くのである。
著者は、湯川秀樹の‘中間子論’、そして、国立遺伝学研究所木村資生博士の‘分子進化の中立説’などは日本人ならではの発想ではないかと言う。英語では基本的に、イエスかノウか、○か×か、二者択一的な考え方をする。曖昧を嫌うのである。一方、日本人には中間、中庸を大事にする考え方がある。だから、英語では中間、中立という発想は出にくかったのではないかと言うのである。
また、世界で最初に、そして数々のアルカリ微生物を発見した堀越弘毅博士のケースも、欧米科学界の常識に反しアルカリ世界にも微生物がいるかもしれない、という発想を持ちえたのは、日本人、あるいは東洋人ゆえではなかったかと言うのである。
さらに「日本語は技術や工学を進める上でとくに優れた言語なのかもしれない。」とも言う。そして実際、「日本の技術や工学の世界は、間違いなく世界のトップを走っている。」と言うのである。
それは、欧米の研究者には、結晶づくりのような地道な仕事を軽蔑しているところがあり、助手まかせにしたりするが、日本人にはそれを重要な仕事と見做し、精魂を傾けて取り組むところがあり、それが予想外の画期的な発見・発明に繋がるのだと言う。結局、泥臭いものづくりを評価する日本が勝つのだとも言う。
ノーベル賞こそまだ受賞していないが、ミスター半導体として、半導体レーザーをはじめ、光通信、光ファイバーなどの光技術に関わる数々の成果を世に送り出している東北大学名誉教授西沢潤一が、これだけの業績を残せたのは、量子力学の本質をつかんでいたからだと言う。実は、この量子論的考え方は、複雑系の考え方とともに今後の科学の考え方の中心をなすものであるが、○×式の考え方をする欧米人には受け入れにくく、正も邪も併せ飲もうとする日本人には、かえって理解しやすい考え方なのである。
日本人の好きなハムレットのセリフ「To be or not to be, (that is the question.)」は、量子論的には、問い(question)ではなく、これが答えなのである。
量子力学の創始者・ウエルナー・ハイゼンベルクは次のように言っている。
「たとえば、この前の大戦以来、日本からもたらされた理論物理学への大きな科学的貢献は、極東の伝統における哲学的思想と量子論の哲学的実体の間に、なんらかの関係があることを示しているのではあるまいか。・・・素朴な唯物的な思考法を通ってこなかった人たちの方が量子論的なリアリティーの概念に適応することが、かえって容易であるかもしれない。」
日本語は今後の科学・技術にとってはむしろ有利なのかもしれない。

結論として松尾さんは、「何も改めて小学校から英語教育をする必然性はない・・」、「最も英語を必要とするかにみえる科学や技術の分野において、すでに日本人は、世界のトップレベルの人材と成果を出しているのだから、現状の教育でいいという証明ではないか。」と言う。
さらに、「母国語が日本語の人で、きちんと日本語で文章表現できない人が、英語できちんと科学を表現できるはずがない。日本語で論理的に考えられない人は、英語でも論理的に考えられない。」、そして「逆に、日本語による素晴らしい発想や考え方や表現は、英語が持ちえない新しい世界観を開いていく可能性が高い。」とまでおっしゃっている。
 成程と思う。みなさんは、いかが思われますか。
    (平成28年6月5日)

   ソクラテスの失敗  

 ソクラテスは、紀元前400年頃、すでに語感的なものの存在とそれが発声体感によることに気づいていた。

ある人の名前が正しいか正しくないか、弟子との議論の中で、ものの名前は、そのものを表わす声による身振りのようなものとか、肖像画のようなものだといっている。

 ソクラテスは語感的なものの存在が分かっていたのである。だが、ここで大きな失敗を犯してしまう

それは、肖像画だといってしまったことと、正しいか正しくないかの議論にしてしまったことである。

 ソクラテスは、この時肖像画ではなく似顔絵というべきであった。(もっとも、当時ギリシャに似顔絵があったかどうか?)
 肖像画といってしまったために、後世、例えば、鼻の高さが違う、口の曲がり方が違うなどの難癖を付けられ、正確かどうか、正しいかどうかの議論にされてしまい、考え方自体が否定されてしまった。

 似顔絵の良し悪しは、正確かどうか、すなはち、正しいかどうかにあるのではなく、全体として似ていると感じられるかどうかにある。むしろ、デフォルメするため、極端に目や口を大きくしたりする。その意味では正しくない。ただ、似ていればいいのである。

コトバも似顔絵といっしょで、一つ一つの音がどうかということではなく、全体としてイメージを伝えていればいいのである。

 ソクラテスも肖像画といわずに似顔絵といっておればよかったのである。
( 音一つ一つが一義的に意味をもっていると考えるのが音義説で、ソクラテスもこの流れと考えられてしまった。その後、学界では音義説は誤りとして否定されている。)

    ソクラテスの誤り  

ソクラテスはもう一つ誤りを犯した。

 ソクラテスは、名前は声でそのものをまねたもので、R はもっとも舌を震動させるので動きを表わすものに使われ、O は口を丸くするので丸いものを表わすしるしとして使われる、といっている。
 ここまではほぼ正しい。

 そして、N について、その音の内部性に気づいて、”内に”あるものと”の中に”あるものとに名づけたといっている。
 これは身振りではない。N は鼻音で、鼻腔内にこもることからこのようにいっているわけで、これは発声体感である。
 すなはち、身振りという外観的なもの(客観的)ではなく、主観的なものである。
 もっとも、舌を振るわせる身振りといっても口の中でのことで、それを話し相手に見せようとしているわけではないので、結果的には、舌を振るわせるという自己意識・主観である。
 ソクラテスは声による身振りといっているが、結果的には、これは発声者の感触・主観(体感)である。
 ソクラテスは外観的身振りという言い方に止まり、内的感触にまで議論を進めなかった。この感触(体感)が語感なのである。

 ソクラテスが、名前の正しさの根拠が聞こえにあるのではなく、発声にあると見抜いたのはさすがである。しかも、口の中の動作にあると気づいていた。

 ソクラテスは聞こえについてはどのように考えていたのだろうか。
 名前の正しさはその名前を発声してみないと分からないと考えていたようだ。
 だから、今でいう語感という考えには至らなかった。

なお、発声体感が、音韻秩序といっしょに脳内に蓄積され、聞いたときも字を見たときも脳内に再現されということが分かったのは、脳の中のことが少しずつ分かってきたごく最近のことである。

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