新しい言語学

言語哲学

   言語哲学  

  言語哲学  

ある雑誌に長谷川三千子先生が書かれているものを読み、言語哲学という言葉を初めて知った。
先生は、言霊について書かれている中で、例えば、事 と 言 を コト として捉える捉え方を解明することから日本文明の本質を明らかにするのが言語哲学だとおっしゃっていた。
私は、従来、事 と 言、物 と 霊 を同じものと考える考え方を日本文明のおおらかさ程度に考えていたが、先生は、その奥の本質的なものを見ているのだと指摘しておられ、改め日本文明の奥深さに気づかされた。

私は、コト(事)と 言 を結び付けているのが語感だと思っている。

そして、言 を語感的に分析することによって、ナゼ ある事 が ある言 であるかを明らかにし、その奥にある コト を明らかにすることができると思っている。
(例えば、ビジネスでは、一つの商品のブランド名を語感分析することによって、そのブランド名が体現しようとしているその商品の本質(売り、アピール・ポイント)とそのブランド名がマッチしているかどうかを明らかにすることができる。)

語感という切り口から日本語の特徴がいろいろと見えてくる。これらを解明することによって日本文明の特徴もいろいろと見えてくると思う。
私の語感からの日本語へのアプローチが日本語言語哲学の一つの足がかりになればと思う。

語感という切り口から日本語を見ると次のような大きな特徴がみえてくる。すなはち、

 日本語の特徴  

 拍  子音+母音  拍方式
 母音  母音中心
 膠着性  コトバ & 文章
 オノマトペ( 擬音語・擬態語 )
である。
 これらのことから見えてくる日本文化の特徴。

 日本文化の特徴  

 拍、拍方式    システマティックな合理性、基本がシンプル、積上げ方式
          作語の自在性、外国語導入の自在性
          漢字仮名混じり文の発明
          情と知のバランス
 母音       自然との親和性、情表現の可能性、アナログな柔軟性
 膠着性      語順の自在性
 オノマトペ    表現の写実性、情感の表現力

 日本文明の特徴  

結果として、日本文明の本質的特徴として、以下を挙げることができる。
  自然     自然への信頼
  合理     自然の中に合理を見る
  自在性    流れ、適応、融通無碍
  情      心、見えないものも大切にする
これらの事柄も互いに関連しあっている。また、言語との関係も、日本語ゆえにこれらの特徴が生まれたのか、あるいは、これらの特徴ゆえに日本語が今のような形になったのか、分からない。
しかし、互いに影響しあいながら、日本文明も日本語も今の姿に成長してきたのだろう。

それ故、日本語の成り立ちを考えることは、日本文明の本質を明らかにするためにも、非常に重要だと思う。

   拍  

拍方式とは、ア、イ、ウ、エ、オ の単母音と、それに K,S,T,・・などの子音が
子音+母音 のセットになって、カ、サ、タ、・・などの拍をつくり、この拍を繋げていくことによってコトバを作っていく方式のことである。(組上げ方式、レゴ)

5つの母音、9つの子音の組合せから、5+5×9 を基本とし、無声子音の有声化(濁音)、拗音化、撥音など約112の拍の組合せによりコトバが作られている。
5×10 のマトリックスを基本とした極めてシンプル且つシステマティックな言語である。
拍では、母音で基本的なイメージ、すなはち、自分の立ち位置とか、伝えたいことの大まかな印象などを表現し、子音で、素材感などを表わし、母音を形容、あるいは、母音のイメージを絞り込んでいる。すなはち、

素材的なもの(特徴)+ 状況的なもの(ベース)

となり一つの物語となっている。

そして、拍に拍が繋がり、

〜的なものが + 〜的状況にある 

となり、また一つの物語となる。
この拍を繋いでいくことによって、より豊かな物語としてコトバは作られていった。そして、この延長線上に文が作られていった。
大和言葉は、単拍、あるいは、拍+拍の二拍が基本(これを語基と考える)で、これに語尾がつき、それが変化することによって、形容詞になり、あるいは、動詞になっていく。
語尾並びに語尾変化にも語感がきいている。

このように、日本語話し言葉では、単拍でも、一つの単語でも物語、すなはち、文章になりうる。
現在でも、東北では、
 「な?」(何?)
 「ど?」(何処?)
 「ゆ。」(湯へ)
という表現は可能である。
 「ネ!」(念押し)「ネエ」(お願い、催促)
 「ヤア」「ヨオ」「ハーイ」
 「イヤ」「イイヨ」「イイネ」
などと、我々も完結した表現として使う。
このように、拍、あるいは、一つのコトバで物語たりうるのは、勿論、母音、子音がそれぞれの語感をもっており、これらイメージの流れが物語となるからである。

従来の言語学では、この単語一つで文になりうるとの考え方が薄かったが、これは拍のもつ語感の流れを無視してきたからである。

このコトバが拍を繋ぎ合わせて作る組上げ式であることから、文章としての膠着性が出てくる。また、文章の中の品詞の順序の自在性も、このコトバの作り方の自在性に由来する。(格助詞の発明もこの自在性の獲得に大いに寄与している。)

日本語のこの拍方式にたいして欧米語はシラブル方式である。
シラブルとは、一つ以上の母音と子音のカタマリで、その繋がり方に確たる法則はない。その結果、シラブルは基本的なものだけで 3000余り にもなるといわれる。
このあり様から考えると、シラブルは組上げて作られたものではなく、まず、音のカタマリがあり、それを削ったり揃えたりすることによって今のような形になったと思われる。すなはち、拍の組上げ方式に対し、シラブルはブロックからの削り出し方式のようにみえる。あるいは、火焔土器に対する石器のようにみえる。
ただ、英語の基底にも組上げ式のものもみえるので、現在の欧米語は古い組上げ式の上に削り出し方式が覆いかぶさったようになっているのではないかと思われる。
この方式の違いは、文明を考える上で根本的な違いである。

この拍方式を採用したことによって、日本語が獲得した大きな特徴に、外国語導入の自在性がある。
現在の日本語には漢語由来の言葉はもちろん、朝鮮語、ポルトガル語、英語、フランス語、イタリア語由来の言葉などがある。これは、日本語のシステムが外国の言葉をそのまま取り入れることが可能な仕組みをもっているからである。
すなはち、拍方式でない外国語の音を拍方式で聞きなし、あるいは、拍方式に押し込み、ほぼ日本語として、そのまま取り入れることができるのである。
中国から来た言葉、金、銀 も中国では一字一音であるから、それぞれ1モーラで発音しており、キン、ギン のように二拍ではない。strike も1シラブル、あるいは、2モーラであるが、日本語では5拍である。したがって、ストライク は英語ではなく日本語である。このようにすべての国の言葉を日本語化できるのは、日本語が拍という合理的なシステムをもっているからである。

我々は、子音+母音 を拍と呼んできた。しかし、この拍の英訳はない。

英語に 子音+母音 を一単位とするという考え方がないのである。拍にあたる syllable は子音と母音の一カタマリで、子音+母音 のようなシステマティックなものではない。
したがって、子音+母音 の拍を英訳するときは、Japanese Syllable とするか Haku とするしかない。

該当する言葉がないということは、そのような考え方がないということでもある。

濁音という表現も日本語独特のものである。

   母 音  

日本語は母音が中心で、欧米語は子音が中心だといわれる。
劇団四季では、若手の発声練習として子音を発音せず母音だけを発音してセリフをしゃべる訓練をするそうである。母音をしっかり発音することによって舞台からのセリフが観客にしっかり届くのだそうである。
一方、欧米語のコトバには、母音を発声せず子音だけを発音しても伝わるコトバが多くあるという。アラビア語にいたっては、母音は3種類しかなく、しかも、表記には母音を書かないのだそうである。

語感からみると、母音と子音は本質的に異なる。

母音は、声門を出た震動音を咽喉、口腔、鼻腔で共鳴させてだす共鳴音で、自然音である。連続して発声することもできるし、他の母音に連続して変化させることもできる。極めて、アナログな音である。
一方、子音は、口腔内に喉、舌、唇などによって障害を作り、そこで破裂させたり、擦ったり、震わせたりして出す無理な音で、人工音である。その音を伸ばすこともできないし、他の子音に連続して変化させることもできない。まさに、デジタルな音である。
日本語の拍は、このデジタルな子音に必ずアナログ的な母音をくっつけることによって、アナログ的なものにし、コトバ全体がアナログ的なものとなっている。
この自然対人工、連続対不連続、アナログ対デジタルの違いは、文明としての、本質的違いをもたらす。
自然音はアナログでやさしく、発する人の感情を表わしやすい反面、曖昧さを残す。
一方、デジタルで人工的な音は、切れがあり、区切りを表わしやすい、また、鋭さがあり、警告、自己主張を表明しやすい。

したがって、母音は情の言葉、子音は知の言葉ということができる。

自然と対決しようとする欧米人と自然と共生しようとする日本人と、神は一つとして他の神の存在を許さない一神教の人々とすべてに神が宿ると感じる多神教の我々と、この違いは子音と母音の違いと根底で繋がっているかもしれない。

なお、日本語が母音中心になったのは、拍方式を採用したからか、あるいは、拍方式を採用したのは母音中心だったからかは、分からない。相互に影響し合いながら、今の方式に落着いたのかもしれない。

   単母音  

日本語には単母音のコトバが存在するが欧米語にはないという。
 吾、意、胃、井、鵜、卯、枝、絵、江、男、尾、緒 
などである。
一説によれば、日本人は単母音を言葉として認識できるが、欧米人は、脳内で言葉として認識されず雑音として処理されるのだそうである。
もしこれが事実であるとすると、日本人が時に言葉として聞く自然音、虫の声、風の音を、欧米人は言葉としては聞けないということもありうることになる。(すると、俳句は理解できない。)
角田忠信先生のこの発見は、検証方法に個人的熟練を要し、学界ではまだ認められていないが、最新の機器をもってすれば客観的検証も可能と思われる。)

   膠着語  

日本語は膠着語に分類される。日本語の文章としての膠着性は、拍方式を採用した当然の流れの結果である。
単音、単拍のものに他の拍を付け足すことによって新しいコトバを作っていく、コトバに違うコトバをくっ付けて更に新しいコトバを作る、そして、この流れで、コトバを並べていくことから、文章になっていったのであろう。
最初はコトバを二つ三つと並べるだけ、主語も述語も順不同。云いたいことからコトバにしていく、こんな感じであったのではないか。
ただ、形容詞は名詞の前。これは拍の作り方の影響で、主体であるものの前にそれを規定するものを付ける(子音+母音)方式である。

この日本語の語順の自在性は、格助詞を発明することによって、ますますその自由度を高めた。

その結果(あるいは、これが原因か)、日本語は発想のまましゃべればいい言葉となった。( 書く文章は違う。)

ある映画の中で、女性が男性に思いつめた表情で
 「一緒に行くわ!」
と言っている場面があったが、英語では
 「I‘m going with you!」
と言っていた。いっしょに行きたいという気持ちはどちらがよく伝わるか。文明の違いだけだろうか。

   オノマトペ  

日本語の大きな特長に日常会話でのオノマトペの多用がある。
日本語には2400余りの擬音語・擬態語があるといわれる。朝鮮語には 8000余りあるといわれるが、欧米語には極めて少ない。日本語の特長は、このオノマトペを日常極めてよく使うということである。
オノマトペは、欧米では幼稚な表現として避ける傾向があるが、日本語では、表現にリアリティを持たせるものとして多用される。

このオノマトペには、「音と意味との恣意性」を絶対とするソシュール派の人々ですら音象徴性を認めており、あえていえば、オノマトペは語感そのものである。
日本語は、語感を利用して、表現にリアルさを付加しているのである。身振り、手振りで表現するのと同じであり、むしろ、外人の大げさなゼスチャーよりも、文化的にはリファインされているとさえ思われる。

日本語オノマトペには2拍の繰り返しが多い。繰り返しは欧米語にもあるが、大半は幼児語である。日本語オノマトペでは繰り返すことによって、そのことの反復、継続など動き、あるいは、時の推移などをリアルに表現しようとしているのである。そのような意味でも、写実に近い擬音であり、擬態である。

ヒカリ がオノマトペ・ピカリ から出来たことは非常に分かりやすいが、コロコロ から転ぶ、転がすが出来たと言うと、逆であるとの反論もありうる。語感からいうと、コロコロ は語感にぴったりであり、転ぶよりも広い範囲のイメージを持っている。(小さい子犬にも コロコロ を使う。) シトシト と シ(水の古語)の何れが先かは、やはり、議論が分かれる。( シンミリ シクシク、シーン も関係がありそう。)
いずれにしても、日本語にこのような議論が起こること自体、日本語そのものが( オノマトペだけではなく)語感に添うものが多いということでもある。
したがって、日本語に語感に添うものが多いということも日本語の特長である。

現代の日本語の中でも、幕末、明治期に作られた漢字語などは、意味を中心に作られており、必ずしも、語感に合ってはいない。しかし、古く採り入れられた漢字語は、当時の日本人が漢音、呉音を日本語的に聞きなして採り入れており、語感に添うものも多い。
金・銀の違いなどはまさに語感通りである。ただ、磁器・陶器の語感は実物の逆である。

同じく幕末、明治期以降入ってきた欧米語で日常我々がよく使うコトバには語感に合うものが多い。
 クール、キュート、ホット、ドン、ボス・・・。
語感に合わないものは使われなくなるのだと思われる。ケーキの名前・モンブランは日本人が語感で名づけた日本語である。(このケーキは決して白くはない。)

「日本語オノマトペ語彙における形態的・音韻的体系性について」の中で、角岡賢一先生は、日本語オノマトペは 1652 あり、それらの基本をなしている語基は 422 としておられる。( ゾロゾロ、ソロソロ、ソロッ の語基は同じで SoRo )。
そして、1モーラ1音節のものが 46 あるとしておられるので、2拍のものが残りの376 あるということになる。3拍以上のものはない。( ジワリジワリ の語基は ZiWa。)

日本語オノマトペの基本は2拍である。

日本語そのものも基本は2拍である。単拍の語基は比較的古い言葉と思われる。

ここで問題となるのは、オノマトペと、いわゆる普通のコトバとの関係である。
コロコロ というオノマトペと 転ぶ というコトバは意味的にも関係がることは明白である。

問題はどちらが先に出来たかということである。
語感から考えると、語感をベースにオノマトペが出来て、そこからコトバが生まれたとするのが素直であろう。ただコトバが他のコトバから派生して出来、それからオノマトペが出来たということもありうる。しかし、これらは例外で、比較的新しく出来たオノマトペであろう。大半のオノマトペはコトバより先に出来たのではないか。

すなはち、オノマトペはコトバの赤ちゃんである。

オノマトペと同じく語基という考え方をコトバに適用すると日本語のコトバの語基は2拍が中心である。1拍の語基は比較的古いコトバだと思われる。中でも単母音はもっとも古いと思われる。
拍そのものの組み立ても、

子音・素材的なもの(特長)+ 母音・状況的なもの(ベース)

となっているが、2拍の組合せも、基本的には、

〜的なものが+〜の状態にある 

という物語になっている。この2拍に語尾変化としての1〜2拍がくっ付き、形容詞になったり、動詞になったりしている。この語尾にも語感が効いており、例えば、動きを表わす場合は、母音の中でも u が使われる。2拍の繰り返しの場合は、繰り返すことによって、動きを感じさせる。

   状況の言語(場の言語)、相対言語   主題の存在  

日本語が発想の通り言葉をだすということから、日本語の今一つの特異性が出てくる。すなはち、状況の言語、あるいは、場の言語という特長である。
英語では、聞かれ方に関わらず、事実に則し、yes は yes である。しかし、日本語では、質問の仕方によって、同じ事実についても、ハイ になったり、イイエ になったりする。日本語は、事実について、○ か × かを答えるのではなく、質問そのものにつき、その内容が ○ か × かを答えるのである。そういう意味で、欧米語は絶対言語であり、日本語は相対言語ということもできる。

 「ボクはうどん。」
という言い方がある。欧米的論理からはメチャクチャである。しかし、この会話の背景には、例えば、今日の昼食を何にするかという主題があるのである。この主題を前提に、ボクは と うどん が表明されているのである。

 「今日はうどん。」
という表現もある。これも、例えば、ボクが食べたいものという主題があって、今日に限れば、うどん だという表明になっている。
このように日本語は、その場、その状況によって、すなはち、主題に合わせて自在に変わる相対言語なのである。
それ故、日本語では、場によって、主題が共有されるので、時には、主語がいらない。
 「今日はうどん。」
では、主語は明示されていない。明示する必要がないのである。あるいは、主語がどうであってもいいのである。その場では、主題が共有されているからである。

 古代日本人が語感に敏感で美意識として雅(みやび)をよしとしたことから、大和言葉には次のような癖がある。  

○ 濁音を避ける。語頭にはもってこない。英語には濁音という表現はなく、有声子音というだけである。濁りを感じ、濁音と名づけたのは日本人の感性である。濁音は日本人の作った日本語である。濁りは雅ではないとして避けたのであろう。

○ 拗音を避ける。騒がしく、幼稚と感じたからであろう。

○ R 音を語頭にもってこない。R 音は子音の中でももっとも動きを感じさせ、騒がしく感じられ雅でないと思ったのであろう。そして、その印象の強さを生かして語尾変化に多用した。(のかもしれない。)

   自 然  

これらの日本語の特徴を吟味していくと、その底に流れる日本文明の特徴が見えてくる。
そこに見えるのは、自然 というキーワードである。

日本語の自然というコトバには、欧米の natural という意味の他に、ありのまま、流れのまま、無理な手は加えないという意味合いが含まれている。

手を加えないという意味は、何もしないということではなく、自然にあるものの姿を無理に変えようとはしないが、その自然を生かす目に見えぬ工夫・努力は惜しまないということである。例えば、一本の木があって、これを家の柱とするとき、欧米人は家に合わせて(大抵は白い)ペンキを塗ってしまうが、我々の祖先は木の味を生かすため磨き込んで銘木的なものにする。この自然に対する姿勢の違い、対決して征服しようとするか、調和して共生しようとするかである。(生成り の美意識)

   自然の中の合理  

自然に、流れのままに、というとき、日本人はその底に合理を感じている。合理に対する考え方は、日本人は欧米人の逆である。欧米人は合理は自然の外にあって、合理のためには自然と対決しなければならないと考えている。しかし、日本人は自然は本質的に合理であって、自然を生かすことが合理だと考えている。ここに、日本人の自然に対する根源的信頼が見える。

日本人の自然に対する信頼から、自然との一体感も生まれてくる。自分も自然の一部であり、自然も自分の仲間だという感覚である。
道端の草花に話しかける老婆もいる。多くの人達は虫の音を声として聞く。時には、風の音すら言葉として聞く、そして、更に進んで自分たちで作った工業製品であるロボットにすら名前を付けてチャン付けで呼ぶ。
究極の擬人化であり、その根底には仲間であるという意識がある。
日本人は自然の中に合理を見、その究極の合理を美と感じる。
したがって、日本人にとって、美は自然の写しであり、自然を究極リファインしたものである。

   日本人の美意識  

ここに日本人の美意識として二つの時には相矛盾するかと思われるものが現れる。
一つは左右非対称である。例えば、茶の器などに見られるひねりである。
ヨーロッパの庭園は幾何学的左右対称である。朝鮮の陶磁器も見事な左右対称である。
日本庭園、枯山水に左右対称なものはまずない。茶の器もわざとひねりを加えて対称を崩している。
これは、自然の写しとしようとしたからである。
実際の自然には完璧に左右対称なものは非常に少ない。太陽と月位のものである。しかも、月は満ち欠けを繰り返す。
そこで、完璧に左右対称なものは自然ではないと感じ、完璧に左右対称なものに、仲間と感じられない、一体となれない、そして、親しめない、落着かないと感じてしまうのであろう。

二つ目の美意識は、究極の精度を求めることである。
工業製品の部品についても、欧米の労働者が許される誤差の範囲内であればよしとする場合でも、日本人はミクロン単位まで精度を求め、多少のズレも気持ちが悪いと感じる。
列車ダイヤの正確性についても世界が驚嘆するところである。
この美意識は、日本人が自然の中に合理を見、合理を自然の本質と考え、その合理を実現しようとするからである。

このひねりなどのみられる対称性の破れと精度の追求は矛盾するかにみえるが、この対称性の破れは崩れではなく、あくまで計算されつくした破れで、バランスを失っているわけではない。
バランスを保ちつつ非対称とするのは高度な美意識であり、又、高度な技術を必要とする。

これらの美意識は一般庶民にもあり日本人の特質である。

この感覚はいたるところでみられ、我々は、精度のずれ、バランスの崩れを、落着かない、気持ちが悪いと表現する。

   自然と語感  

人間が声を発しはじめ、コトバらしきものを使い出した頃は、その声の言葉の音の語感には今以上に敏感であったろう。
言葉そのものの意味が確定していない段階で自分の気持ちを、あるいは、意思を相手に伝えようとすれば語感に頼るしかなかい。
言葉発生の段階では言葉は語感そのものであったに違いない。
我々日本人の祖先は、やがて声も自然と考えるようになった。
そして、自然を生かすことを美しいと感じていた。
自然を生かすことは語感に忠実であるということである。
そして言葉の素である音声の中にも合理を追求しリファインしていった。
そして、結果として、日本語は、子音+母音=拍 という合理的言葉の素子を発明し、アイウエオ五十音という極めてシステマティックな体系を作り上げた。

五十音表自体は平安時代に作られたと思われるが、その整理されるはるか以前からそれらの音が存在したことが重要である。五十音表が出来たからシステマティクになったのではなく、もともとシステマティックであったから五十音表になりえたのである。

日本語の基底には、この拍とアイウエオという極めて合理的なシステムが存在するのである。
また、拍は子音と母音によって知と情両方を表わすことができる。 すなはち、日本語は根底において、精度とバランスを実現しているのである。
(精度とは、語感に忠実ということ。語感と意味にズレのある言葉は廃れていく。語感に添うよう意味合いの変わっていった言葉もある。)

   生る(NaRu) という思想  

自然についての考え方に関して、日本人と欧米人とで大きな違いがある。

すなはち、生る という考え方と 造る という考え方である(自動詞と他動詞)

欧米人が、人間は神が創ったと考えるのに対し、日本人は、人間は自然に生ったと考える。青人草というコトバがある。これは、人間が草のようなもので、そこら中に生えてくるという感覚である。(漢語には蒼民という言葉がある。)
古事記では、イザナギが我々の祖先の天照大神を作ったということになっているが、その神々の祖先の神々は成った(生った)ということになっている。
欧米人は、言葉も神が作ったと考えている。聖書には「はじめに言葉ありき」となっている。最初から言葉はあった。すなはち、神が創ったということであろう。
ソクラテスも、個々の言葉は「命名者(あるいは、立法者)」が作ったという言い方をしている。
日本人は、言葉も生ったと考えている。

この 生る 対 造る の根本的対立は、先祖たちが置かれた自然環境などによるものとも思われる。水と植物に恵まれた温暖な環境と水も植物も乏しい砂漠とか北の寒さ厳しい草原の環境の違いの影響は否定できない。しかし、まさに、正反対の感覚である。

最新の複雑系の科学の自己組織化の考え方は、この 生る の考え方に近いのではないか。自然の中に合理を見るのも複雑系の科学と根底は同じではなかろうか。

   日本語はどのように生ったか。  

自然の流れのままに出来てきたら、こういう風になったであろうというシミュレーションをすると以下のようになるのではないか。(以下、大胆な冒険的仮説)

日本語は、夫婦、親子、仲間同士の気持ちを通わせるために発生し、母子コミュニケーションなどを通じて発達していった。

最初の頃の声は、母音、子音が入混じったような声であったろうが、やがて、単拍的なものになり、これらを宥め、癒し、愛情などの情の表現として、音を伸ばして使うようになり、母音的なものがはっきりしてきたのであろう。(母音しか伸ばして発声できない。)
そして、母音の中でも最も自然に出せる /a−/ あるいは、/a/ というコトバができ、これですべての存在を表わすようになったのであろう。
私も /a/、あなたも /a/、あの山も /a/、空も /a/である。
そして、これらを区別するため、母音の前に子音を冠ぶせたり、こうして出来た拍に他の拍をくっ付けたりしてコトバが増えていったのであろう。(膠着性の萌芽)
すなはち、
 吾(a)、吾(ua→Wa)、あれ(aRe)、天(aMa)
などである。

同時に、伝えたいニュアンスの変化によって母音も /a/ から変化させていったのであろう。
大きなもの、重いものを示すため、/o/ 的な発声も出てきたのであろう。
自分の意志を特に強調したいために、/i/ 的発声も出てきたろう。やがてそれは、イイ、イヤ などと分化、多様化していったのだろう。
口腔の奥の上の方で発声するため、内々の感じを出すとき、あるいは、上への動きの感じを出すときなどに u を使うようになったのだろう。
e は日本語母音の中では最も遅く使われるようになったが、これは、e が a と i の中間的な位置での発声のため中途半端であったからかもしれないが、中庸的な音、導入のための音として使われ始め、発声時に顎を少し下奥へ引くような感じが出るため、躊躇感、遠慮感を出すために使われるようになった。また、その発声体感から、連続して連なっているものに使われるようになった。

a は、発声時の体感から、
 明るい、開けた、暖かい 
などに分化、それらから 
 赤、朝、開く、空く、熱い 
などが出来、
 天(aMa)から 雨 
などと広がっていった。
o は、重さから、
 重い、落ちる、置く、
そして、口腔の最も奥で発声することから、
 奥、
口腔で最も大きな閉空間を作ることから、
 大きい 
などが出来た。
u は、
 内、浮く、上、そして、動く。
i は、
 生きる、息、そして、命。
意欲、意志の「意」は大陸由来の字ではあるが、意味と音とはピッタリである。
e は、
 遠慮
(遠慮は、元来、漢語であるが、その意味は深謀遠慮という意味で、我々が現在使う遠慮とは意味が違う。これは、日本人が、一寸引くような語感から、現在のような意味で使うようになったもので、その意味で遠慮は日本語である。)
長く繋がったものを表わし、
 枝、柄、江 
となった。

   アル と ナイ  

アル の a は存在そのものを表わす。
アル の反対概念は ナイ である。
しかし、何ものかが アル という概念は比較的明確であるが、何ものかが ナイ というイメージはかなり高度な概念である。ゼロの発見がかなり遅れたように、ナイ の概念もかなり遅れて出てきたのだろう。
現実にあるものが無くなる、このイメージは分かりやすい。したがって、ナイ というコトバよりも先に、ナクナル という意味のコトバが出来ただろう。
アル という状態に対して、そのような状態になることを ナル という。
a から Na への変化である。a に N が付いてナゼ動きを表わすようになるのか。
語感的には、大胆な仮説ではあるが、a に N が付いたのではなく、Nua が Na に転じたのであろう。
すなはち、Nu が現れる動きを表わし結果 a になっていることを Nua で表わし、それが Na に縮まったのではないか。
もちろん、Nu はオノマトペ・ヌー からきた音である。ヌー の語感的イメージは、柔らかく粘り気のあるもの(従って、草木の芽や動物の赤ちゃん)が、蠢き出てくる感じである。(当時、ヌー というオノマトペがあったかどうかということよりも、ヌー に突然現れ出るイメージが感じられるかどうかが重要である。)

ナル の反対概念が ナクナル である。ナク で ナル を打ち消すよりも、むしろ、ナル の反対方向を示そうとしているのである。
ナク の語基が Na(Nua)。この現れる動きが済んでしまったことを Ku で表わすことによって、現れる概念を否定、そして、消える概念を示そうとしたのではないか。お腹が空くの SuKu などと同じで、Su と行ってしまった後の状態を示しているのである。

ちなみに、Nu が現れることであれば、Su は流動体を口から入れる、すなはち、吸う(Suu)。そして、固いものを口から入れるのが 食う(Kuu)となる。オノマトペを考えると、吸うは ちゅうちゅう(CHuuCHuu)、食うは くちゃくちゃ(KuCHaKuCHa)であろうか。
いずれにしても語感から出来たコトバである。( 口は Kuu から出来たコトバだろう。KuCHa からかもしれない。)
吸う(Suu)は S 音と T 音がまだはっきりしていない時代の中間的な音だったのかもしれない。ちなみに、吸うの幼児語は CHuu である。)

現在我々の使う NuKu には二つの意味がある。
一つは、引き抜くの抜く。
もう一つは、追い抜くの抜くである。
我々はこの二つを同じように思って使っているが、現象的には全く違う。
大根抜き競争と8人ゴボウ抜きでは、抜きの意味が違う。前を走る人間を引き抜くのではない。しかし、引き抜いたと同じ状態にする、無い状態にする、これが追い抜いた状態なのである。このように日本語には、行為そのものを指すとともに行為の結果の状態にするをも指すことがあるのである。( 間抜けなどもこの使い方だろう。)

前述の SuKu の場合も、空いた状態を指すとともに、そのような状態にする行為、すなはち、髪の毛を梳く、田を鋤くなどにも使われるようになったと思われる。
いずれにしても、行為とその結果を同じものと受け止める感性であるが、語感的にはピッタリの表現である。

Nu については、他に 塗る(NuRu)、縫う(Nuu)などの表現がある。
NuRu は Nu にヌルヌル感があることから出来たコトバであろう。
Nuu は、縄を綯う と同じように、N のもつ密着感を使って出来たコトバであろう。このように日本語は一つの音のもついろいろなイメージの一部を使って、オノマトペを含むコトバを作っていったのである。なお、縄(NaWa)というコトバも Nau から出来たコトバであろう。
( ちなみに、ヌードというコトバも、脱ぐ(NuGu、これも結果の状態からきたコトバ)を連想させ、語感的にはピッタリである。また、最後の ド がドキドキ感を表わしているというと言い過ぎか。)

食う、吸うの K と S の違いは、Ki,Si、Ti にも現れている。
a のすべての存在に対して、i は具体的実在、しかも、大切なものを示すのに使われる傾向がある。
 Ki は固い木。
 Si は流れる水。
 Ti は充実した、溜まった乳、血である。
 Mi は盛り上がるイメージからきたのだろう。

   ナイ の発明  

なくなる(NaKu−NaRu)というコトバができると、NaKu が活用変化して、状態を表わす NaKi ができ、これが縮まって Nai になったのではないか。
そして、これが aRu の反対概念として、いろいろに使われるようになったのではないか。
アル に対する ナイ の発明である。(NaKi が、まず、NaSHi になったのかもしれない。そして、Nai へ。)

ちなみに、日本語のコトバ一つ一つの語源を探るのが私の目的ではない。私は、太古の人々がどのように言を事に結び付けていったかを語感という切り口から解明し、我々の祖先の考え方を明らかにしたいのである。
私の説明に対して、よく語呂合わせだと切り捨てる批判があるが、これは、ナゼそうなのかを聞こうともしない(勿論、考えようともしない)知的硬直シンドロームである。語呂が合っているのは、語感を合わせている結果で、日本語は本質的にそのような言葉なのである。

   アル、イル、オル の語感的違い  

有る(aRu)、居る(iRu)、居る(oRu)は意味的にはよく似たコトバである。
 a はすべての存在を示すことから、アル は絶対的存在。
 i は、意志、意欲を示しやすいことから、イル は意思的存在。
 o は、重さ、大きさを示すことから、オル は存在感を表現するコトバとなった。
したがって、a はすべての存在に使うが、i,o は人間の存在に使い、自分の意思が入っている場合は i を使う。o を使うとやや客観的になる。
(ただ、これら三つの中 イル は最も遅くできたコトバであろう。なぜなら、イル だけが変則活用ではないからである。規則的な活用ほど新しくできたコトバであろう。)

   アレ、コレ、ソレ、トレ(ドレ)、a,K,S,T の距離感  

 a はすべての存在、したがって、アレ は今ここにないもの、見えないものをも指し示すことができる。
 S は流れを感じさせる音で、ソレ は目には見えるけれども手の届かないもの。
 K は口腔の一番奥で調音するので、一番身近、手の届くものを示すことができる。
 T は、止まるイメージから、躊躇感をもち、迷いを表わすのに使われるようになったのだろう。
(ちなみに、o も一番奥で発声する。)
勿論、これらから、
 アノ、コノ、ソノ、ドノ、
 あちら、こちら、そちら、どちら ができ、
 ココ、ソコ、ドコ、アソコ などができたのだろう。(アソコ がちょっとイレギュラー、要研究。)

   顔 と 草花  

目と芽、耳と実、歯と葉、鼻と花、頬と穂、毛と木、腹と原、背と瀬
我々の周りの自然の名前と我々の顔のパーツの名前の組合せが面白い。
当然、どちらかが先に出来て、それを借用して付けられた名前だろう。

どちらが先か。自然が先だろう。
耳、頬は二つがセットなので、音を重ねたのだろう。耳が実より先はありえない。
目は元来 マ であったかもしれない。語感的にはこの方が近い。
マ は丸く、メ では横長になる。古代人は横長の切れ目だったのかもしれないが。
木も古くは Ke といっていた。苔(KoKe)などこの頃出来たコトバだろう。ケ というとどちらかというとブッシュのイメージである。すっくと立つ一本の木のイメージから キ になったのだろう。

周りの自然の呼び名を自分の顔,身体の呼び名とする、この感覚に、自然を身近なものと感じ、自然と一体となろうとする古代人の感じ方がみえる。自然を引き写そうとする日本庭園の造り方とも一脈通ずるものがある。
自然との親和性は、この頃すでにあり、日本人の本質である。

   シ (Si、SHi)  

シ からできたコトバには二つの大きな流れがある。一つは水としての シ 。今一つは 仕 である。

幼児への語りかけ、母子コミュニケーションが、コトバができる大きなきっかけであるとの説がある。
母親が幼子にオシッコをさせるときに「シーシー」「シー コイコイコイ」などという。古代からいっていたかどうか分からない。しかし、欧米語でも「Pi−Pi−」というよく似た幼児語がある。
シー から オシッコ ができたのは当然として、( コ は擬人化した愛称で、ネコ、ベコ、ヒヨコ などがある。)
シ(水)が先か シー が先か分からない。
シトシト が先かもしれない。
いずれにしても、これらのコトバは互いに関係がある。
他にオノマトペとしては、
シーン、シンミリ、シクシク、ジトジト、ジメジメ、ジンワリ 
など水と関係のあるものがあるが、これらは後からできたものであろう。

シ(水)からできたコトバとしては、水気が抜けた意味で 
死ぬ(SHi−Nu)、萎れる(SHi−HoReRu)、萎びる(SHi−NaBiRu)、萎む(SHi−BoMu)
などがあり、
萎れるから 塩 ができたと思われる。
霜、浸みる、湿気る、しばれる、お汁 
などもそうだろう。
沈む、下 などもそうかもしれない。
重い(oMoi)から 落ちる(oCHiRu) ができたように、
水は下へ下へと行くことから 下、
また、u が浮き上がる事から 上(u−へ) が出来たのかもしれない。
まるで冗談のように聞こえるかもしれない。しかし、これが古代の日本人の素直な発想と考えることもできる。

   仕  

今一つの系統の 仕 は、その後に大陸から入ってきたコトバだろう。他の漢字と熟語となって入ってきたのかもしれない。我国に入ってから出来た熟語もあるだろう。
 仕事、仕度、仕上げ、仕組み、仕切り、仕舞う、仕掛け、仕草、仕分け、仕向け、仕官
 奉仕
日本製もかなりあるのではないか。
これらのコトバの底に流れる 仕 というコトバに対する考え方は研究対象として面白そうである。

   幸 せ  

幸せ(SHi−aWaSe)というコトバがある。
この シ はどちら系か。
幸せ は大和言葉系のコトバと思われるので、水 ではあるまいか。
そうすると、幸せとは 水を合わせる、あるいは、水が合う ということではなかろうか。その土地の水が合えば幸せだろう、昔も今も。

   白(SiRo)  

Si を使う古い言葉の一つに 白(SiRo)がある。著(SiRui)から来たコトバであろうが、なぜ、Si が目立つことをイメージさせるのか分からない。水(Si)と関係がありそうであるが、今のところ、よく分からない。
ただ、SiRui から、験(SiRuSi)、印、代(SiRo)、城 などが出来たと思われる。

   大和言葉 の 多義性  

大和言葉を現代の言葉で規定すると多義的となる。
もの は 物 であり、者 でもある。そして、霊(もの)をも表わす。
こと も 事 だけでなく、それを表現する形の 言 をも表わす。

これは、現代的にいえば曖昧、多義的ということになるが、そもそもは、大和言葉が広い概念を包括して表現しようとする言葉だからである。あるいは、表面的な現象の底に本質的なものを表現しようとしているともいえる。

物と霊では現代的な概念区分では反対概念に近い。しかし、古代の日本人は もの で物質的 物・者 とそこに宿る 霊 を同時にみようとしたのである。
こと も ある物事 とそれを表わす 音声・言 も全体として掴もうとしているのである。したがって、例えば、人の名を呼ぶことは、その人の魂に直接触れることだと考えられていた。

原初の大和言葉で a はすべての存在そのものを表わした。
私も ア、あなたも ア、あの山も ア、そして、おそらく天も ア だったのだろう。そして、言葉が細分化され、吾、我、天、そして、アル、アノ などの表現へと広がっていったのだろう。

i も息だけではなく、生命活動の本質をも含んだ言葉であったろう。発声体感からも意思的なものが強く感じられ、意、命 などを含んだ概念であったのではないか。( 意 という文字そのものは漢字であるが、イ はそのような意味合いを含んでいたのではないか。)
この い から 意、息、生きる、命、そして、行く、イヤ、イイ などの表現が生まれてきたのだろう。( 行く は YuKu かもしれない。YuKu は、そもそもは iuKu であるから i からの変化である。言う もそうかもしれない。)
「イイ」という言葉も多面的である。
「じゃあ、そろそろお昼にしようか。」「うん、それはイイ」の イイ と
「今日のお昼、僕はイイ」の イイ では、結果的には反対の意味合いになる。ただ、イ という強い自分の意思表示という意味では同じである。
「イヤ」という言葉も強い意思表示に、ヤ という柔らかく揺れて曖昧な音をつけて、拒絶を表わしているのである。
「イナ」は ナ という粘って湿って柔らかい音をつけて否定を表現しているのである。ナ は語頭では疑問にも使われる。(ナゼ、ナニ)
欧米語でも、N は否定に使われている。(No,Never・・・)

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