新しい言語学

言語学を超えて

   言語学を超えて(2) カミを仮定してみた  

カミを仮定してみた。
カミという概念を仮定してみた。
西洋の神ではない。GODではない。
アラブの神ではない。アッラーではない。
インドの神、佛ではない。
八百万の神ではない。天照大神でもない。
そんなカミを想定してみた。
人間の作った神ではないカミを想定してみた。
自然の摂理と言ってもいいかもしれない。
天と言ってもいいかもしれない。
しかし、天然自然ではない。モノ、コトではない。
古代中華思想の天ではない。天国の天でもない。

この世の根源をカミと言ってみたらどうかと思うのである。
私はなぜこの世に生を受けたのか。
私は何のために生きているのか。私の人生の使命は、目的はなにか。
宇宙はなぜ存在するのか。何のために作られたのか。誰が作ったのか。
この世は何のため作られ、何のため存在し、いつ終わるのか。
この世に終わりはあるのか。終わればその後はどうなるのか。
これらに答えはない。あるわけがない。
ただ、在るから在ると言うしかない。
いつ終わるかも分からない。終わらないかもしれない。
それはそれでいいではないか。
なぜの答えを、目的をひねり出そうとするから、神が必要になるのである。
それは誤魔化しに過ぎない。人間が安心したいがための作り物に過ぎない。
答への有り得ないものはそのまま受け入れるしかない。
在るから在る、でいいではないか。
だから、ここで唯一言えることは、在るからには在ることが大切だ、ということだけである。
今ここに在るからには、在って、在り続けることだけが大切なのではないだろうか。
この世についてもそう。
この宇宙についてもそう。
私についてもそう。
私についても、在ること、そして在り続けることが大切なのである。
ただ、私は在り続けることはできない。いずれはこの世から居なくなる。
私がこの世からいずれ居なくなるのは自然の摂理である。
この私がこの世に居るのも自然の摂理である。
宇宙があり、この世があるのも自然の摂理である。
この自然の摂理をカミと呼んでみたらどうだろう。
宇宙が在るのも、この世が在るのも、私が今ここに居るのも、すべてカミのせいなのである。そして、やがて私がこの世から居なくなるのも。
だから、このカミは有神論の神ではない。無神論のカミなのである。

私がこの世に在り続けることができないのはなぜか。
それは私が全体の極一部でしかないからである。
生き物という流れの一部の人間という流れの、また極一部が私なのである。
人間という長い流れの、今の極一部を果しているのが私なのである。
私という現象は、人類というDNAの流れの中で、偶偶の組み合わせから突然現れ、このDNAの一部を次世代に受け渡して消えていくのである。
これが自然の摂理、カミの定めなのである。
私という意識、私の心、私の魂、私の精神、これら全ては、私というDNA組み合わせの上に成立した肉体があって始めて現れた現象に過ぎない。私というDNA組み合わせが崩壊すれば、必然的に私という意識現象は消失する。私はなくなる。
私というDNA組み合わせが消滅しても、DNAそのものは残る。他の組み合わせとして残る。それが子孫である。
私というDNA組み合わせは、先祖のいろいろなDNAの偶偶の組み合わせから現れた一時のもので、やがて次世代のDNA組み合わせの中に溶け込んでしまうのである。
カミの目から見れば、私というDNA組み合わせは消滅するが、私のDNAは人類という流れの中に拡散しつつ残り続けるのである。
カミにとって大切なのは人類であって、私ではない。個々の人間ではなく、人類という大きな流れである。
私が、個の人間が、重要なのは人類という大きな流れの今という一時の極一部を担っているからである。ただ、それだけである。
カミは私にこの世に一時生きることを許した。そして、それは人類という流れの一時の一部として、である。

では、私はカミに対し何をなすべきか。
生きて、そして子孫を残すことである。
カミは私たち一人ひとりに生きることを許した。
そして、それは人類という流れの一時を担わせんがためである。
人類というDNAを先代から受け継ぎ次代へ引き渡していくためである。
カミは私たちに一時この世に生きる権利を与えた。
ゆえに、私たちはカミに子孫を残す義務を負っているのである。
これが基本的人権であり、基本的義務である。
権利には必ず義務が伴う。義務を伴わない権利など有り得ない。
権利だけを、基本的人権だけを唱えるのはエゴである。甘えである。
カミは子孫を残すために私たちに生を与えた。
カミは私たちがいつまでも生きることを許したのではない。これが人間の寿命である。
私たちが子育てを終え、なお余生を生きているのは余禄である。カミのお目こぼしに過ぎない。
しかし、人間がカミに逆らっても、カミは個々人を罰しない。
ただ、その流れが、人類としてのその流れの一部が先細りになるだけである。
個々人のカミへの裏切りは、その人のDNAに刻まれて、その人のDNAを弱いものにしていくだけである。
毀損され弱くなったDNAが累積し、それを受け継いだ集団は人間として弱体化していくだろう。そして、人類のDNAの流れとしてのその部分は消え細っていく。
これがカミの罰である。
人類の一部集団が罰を受けるとすれば、それは少子化として現れる。
逆に、一部集団に少子化現象が現れたとしたら、それはその集団がカミに逆らっているからである。
その集団がカミの怒りに触れたのである。
カミは個を見ない。全体しか見ないのである。
カミは個を罰しない。全体を罰するのである。

現代の文明社会は、個に走り過ぎてはいないか。
個の人権、自由と平等を求め過ぎてはいないか。
現代文明は知に走り過ぎてはいないか。
知情意のバランスを崩しているのではないか。
カミは知のみの進化を望んではいない。
カミはバランスを愛する。
知のみへの過信は人間の驕りである。
カミは驕れる人々は全体として罰する。
知のみでは子供を産まない。子供が生まれない。
知のみで育つ子供は健やかか。人間としてのDNAが毀損されてはいないか。

傷ついたDNAが累積してきていないか。
現代文明はカミに逆らい、DNAを傷つけ続けている。
現代文明はカミの裁きを受けるだろう。
カミの裁きの結果は少子化として現れる。
DNAの毀損の累積は、アレルギー、アトピー、そして先天性異常として個々に現れる。
もちろん、確率的異状もあるだろう。しかし、その異常を人為的に無理に育てるのは、カミへの反逆である。
カミはそれを罰しない。しかし、カミはその集団を見放す。
現代文明社会は個人の基本的人権を最も大切なものとして、ヒューマニズムを高唱してきた。
人の命は地球より重いと。
カミはそう思ってはいない。
この世の個々の人々が、いかに右往左往していようがカミは見ていない。
カミはDNAの流れしか見ていない。
DNAの流れが滞れば、その先の流れを細くするだけである。
個々の人々が、DNAの流れとは関係なく、自らの生存のみを主張するのは、我欲、我執であり、エゴである。
エゴはDNAの流れを阻害する。社会的コストとしてその集団のDNAの流れを阻害する。
健全なDNAの後世に残す可能性のない子育てはエゴである。
子育てを終わっても、この世の生を享楽することをカミは許すが、これも我執でありエゴである。これらは社会的コストである。
DNAを後世へ残すことを忌避、あるいはDNAを健全な状態で残す努力を怠ることもエゴである。
これらは究極のエゴ、カミへの反逆である。
カミは人々に社会の作り方を指示したりはしない。
カミは政治体制の作り方も指示しはしない。
社会制度、政治体制の作り方は人々の勝手である。
ただ、カミはDNAの劣化は許さない。
カミはDNAの劣化に対しては人々に少子化をもって報いる。
そして、少子化はその集団の滅びに繋がる。
カミは民を選びはしない。
カミは人種を選ぶわけでもない。
そもそも、カミは人類のみを選んだわけではない。
ただ、カミはDNAの永続のみを望まれる。
地球を含め環境が変わる以上、DNAの変化は必要だろう。だから、カミもDNAの進化は認める。
しかし、カミは進化のための進化はお嫌いだろう。
知のみに偏った進化は認めないだろう。
知のみに偏った急進的な進化は滅びへの道である。
   (平成25年5月15日)

   言語学を超えて   今を考える  

世の中がおかしい。
この世の中が何かおかしい。
社会がおかしい。
日本の社会が何かおかしい。
政治の話をしようとしているのではない。
経済の話をしようとしているのでもない。
いじめもおかしい。オレオレ詐欺もおかしい。
しかし、もっと本質的なところで何かおかしい。
日本もおかしいが世界もおかしい。
特に文明社会がおかしい。
先進国といわれる文明社会がおかしい。
文明社会の人々がおかしい。
人間がおかしい。人間としておかしい。
人間は本質的には生物である。生き物である。
人間であることが先にあって、生物であるのではない。
生物であることをやめると、人間は人間ではなくなる。
今、人間が生物としておかしい。生き物としておかしい。

それは、少子化である。出生率の低下である。
社会の少子化がおかしい。文明社会の少子化がおかしい。
生き物の本質は生きることである。生き続けることである。
世代を越えて生き続けることである。
命を繋ぐことである。命の繋がりである。
今を生き、次代を残すことである。
次代を残すために、今を生きるのである。
その逆ではない。逆ではありえない。
まず個があって、全体があるのではない。
個は全体の流れの中の一滴にすぎない。
親から子へ、子からその子へ、命を受け渡すのである。
命を繋ぐのである。人間としての生命を繋ぐのである。
親と子の、そしてその子の命は同じではない。
繋ぐ命は人間としての命である。
人間の命をDNAのセットとして捉えることもできる。
親のDNAと子のDNAは全てが同じではない。
DNAの二分の一が父と、二分の一が母と同じにすぎない。
自分の子にも自分のDNAは半分しか伝わらない。
自分のDNAのセットは一時(いっとき)のものにしかすぎない。
だから、個としての自分も一時のものなのだ。
それ故に大切だというのは、文学か宗教の世界である。
哲学は、個ではなく人類として、人間を考えなければならない。
しかし、哲学するのは個である。個の知的作業である。
故に、哲学が個にとどまっているのもやむを得ないのかもしれない。
しかし、今、少子化である。文明社会であるほど少子化である。
何かが間違っているのではないか。
文明社会の何かが間違っているのではないのか。
今の文明そのものに問題があるのではないか。
少子化は生物としては退化である。
人間が進化の果てに文明を得たとすれば、どこかでその道を外れたのではないだろうか。
人類は、進化の過程で言葉を得、知を得て、文明を発展させてきた。
挙句が少子化である。退化である。
人類は文明によって、より多くの食物を得ることが出来るようになった。より安全で快適な環境も得ることが出来るようになった。
人口も増えた。寿命も伸びた。
しかし、今、文明の最先端で少子化である。
この文明が行き過ぎたのではないか。
文明が急進しすぎたのではないか。
人間がついて行けなくなったのではないか。
人間の何かがついて行けなくなったのではないか。

私は、文明社会の少子化現象は、人間としてのバランスが崩れたためと思う。
近代西洋文明の急激な進展に人間の本質的な何かがついて行けなくなったからだと思う。
少子化は人間の生物としてのバランスが崩れたことの現証だと思う。
個々人はついて行っていると思っていても、文明社会の少子化は人間が生き物としての道を外した警告だと思う。
個々人が近代的な文化生活を謳歌していても、自由に生きて自己実現していると思っていても、社会として子孫が減っていけば、それは生物としては劣化であり、退化である。
自分さえよければいいと思う、もうこのこと自体が近代西洋文明の大きな欠陥であると思う。

私は、10年前たまたま日本語の言葉の音の響きの持つイメージ、すなわち語感というものの研究に出会った。
当時も今も、この語感の存在そのものが学問の世界では認められていない。
学問の世界を、言語学の第一原理として「言葉の音と意味との恣意性」という考え方が支配しているからである。
この説を最初に唱えたソシュールはヨーロッパの人で、日本語のことはよく知らない。
日本語の中に語感がイキイキと生きていることを知りようがなかったのである。
しかし、日本語の中に語感が生きていることを薄々は感じている日本の学者も誰一人としてこの日本語には当てはまらない言語学の第一原理に異議を唱えはこなかった。
日本語のオノマトペは例外で、オノマトペは言語の周辺のものに過ぎないなどと、つぶやく程度である。
日本語のオノマトペは2000以上もあり、特に日常会話においては非常によく使われる。
日本語のオノマトペは周辺のものではなく、むしろ言葉を生み出す母体のようなもので、日本語の中心にある。
このような日本語言語学界に一石を投ずべく語感の研究を進めていくうちに「サピア・ウォーフの仮説」に出会った。
「サピア・ウォーフの仮説」とは、アメリカの文化人類学者で言語学者のエドワード・サピアとその弟子ベンジャミン・ウォーフが北米原住民の言語の研究から得た仮説で、
「言語は文化を規制する」
、というものである。
私は全くその通りと納得したが、その後この仮説が欧米では否定され、インチキとまで言われていることを知り驚愕した。
サピアとウォーフの失敗は、マイナーな北米原住民の言葉で研究したことに加え、欧米的ものの考え方のみで、他の言語、他の文化を見ようとしたことにあるのではないだろうか。
欧米的ものの考え方では見えない部分こそ、他の文化の欧米とは異なるところなのに、である。
欧米的ものの考え方で他の文化も、他の文化のものの考え方も理解できるとするのは欧米文化の驕りである。
欧米的ものの考え方で日本的ものの考え方は理解できない。
欧米人には日本語の「だっこ」という言葉は使えないだろう。「おかげさまで」も本当には使えないだろう。多分、「もったいない」も使えないだろう。オノマトペも使いこなすのは無理だろう(なお、外人タレントがTVなどで活躍しているが、外人として日本語を流ちょうにしゃべっていることと、本当の意味で日本語を使いこなしていることとは違う)。
欧米的ものの考え方で日本的ものの考え方が理解できないとすると、日本的ものの考え方で欧米的ものの考え方が理解できるのだろうか。
私は、出来ると思う。完璧にとは言えないとしてもかなり迫れるのではないだろうか。
なぜなら、日本人は日本社会の中で日本語で育てられる。だから当然のこととして、日本的ものの考え方は身につく。加えて一方、日本は明治の開国以来、西洋文明を進んだものとして積極的に取り入れてきた。進んだ工業製品、学校教育制度、立憲議会政治などあらゆる制度、そしてものの考え方も文学、哲学を通して果敢に取り入れてきた。だから西洋的ものの考え方も一応理解できないことはない。もちろん誤った取り入れ方、不消化もあり、日本的ものの考え方との衝突もあった。
したがって、今の日本社会では、高学歴者ほど、いわゆる知識人ほど西欧的ものの考え方を身につけている。言い換えれば、西欧的ものの考え方に毒されている(その点、若い頃ガリ勉でなかった私は、しっかり日本的ものの考え方を身に付け、程ほどに西洋的ものの考え方も理解できるようになった)。
それ故、日本人が日本的ものの考え方で欧米的ものの考え方を分析する方が、欧米人が欧米的ものの考え方で日本的ものの考え方を分析するよりは、可能性が高いと思う。
むしろ、私は、日本人ではあるが私自身欧米的ものの考え方で日本的ものの考え方を分析できるのではないかと思っている。
私が言葉の音の響きの伝えるイメージ、語感を研究するようになって、最初に突き当たった壁がソシュールの言語学の第一原理「言葉の音と意味との恣意性」であった。
(必然性がなく約束事だと言っているが、それではその約束事を決める何らかの根拠があるのか。根拠もなく決まるものだろうか。決める根拠が何かあるとすれば、それはもう恣意とは言えない。私は根拠はあると思っている。もともとの日本語の大半は直接ではないにしても音と結びついていると思う。)
恣意とは勝手ということで、音と意味とは関係がないということだろう。
私は、語感を聞き分ける、言葉の音の響きの持つイメージを聞き分ける、正確には、言葉の音の発音体感を感じ分ける作業を続けていくうちに、日本語の言葉の意味と語感とに繋がりがあるように思われだしたのである。
母音‘ア’の発音体感は‘暖かく、明るく、淡い’、子音‘カ’の発音体感は‘乾いて、固く、少し軽い’と言えば、まるで語呂合わせである。
そう、語呂合わせなのである。これが日本語の本質なのではないだろうか。
私は、日本語は語感をベースに出来ているのではないかと思った。
そこに立ちはだかったのがソシュールの言語学の第一原理なのである。音と意味とは関係がないと。
これは欧米語の特殊事情かとも思ったが、日本語の言語学の教科書にも最初にこの第一原理が掲げられている。
そこでソシュールの「一般言語学講義」(岩波書店)を取り寄せ読んでみた。そこで分かったことは、ソシュールは言語・ランガージュを社会的・制度化された言語・ラングと個人的・私的な会話・パロールとに分け、制度化された言語・ラングのみについて言っているということである。パロール・生きた日常会話については言っていないのである。
ソシュールの言語学の第一原理は、死んだ書き言葉についてのみ言っているのであって、言語全体について言っているのではなかったのである。
これを言語学の第一原理と言いだしたのは誰か。羊頭狗肉の詐欺に近い。
欧米では言語を記号論的に捉える傾向が強く、日常会話を馬鹿にして学問の対象にしないようである(だから、もちろんオノマトペも無視する)。
日本の言語学界にもこの傾向はあって、現実としてはありもしない「私は貴方が好きです」などという言葉を例に挙げて日本語の会話を分析している学者もいる。しかし、ドラマ、小説以外の会話でこんなことを言うヤツは日本人にはいない(実際は、「好きや」、せいぜい「オレ、お前が好きやねん」程度だろう。格助詞「は」、「が」がないこと、終助詞が付くことなどに注意)。
学問の世界ではオノマトペも不当な扱いを受けている。オノマトペは言葉の周辺のものとして正当な言葉として認知されていないのである。欧米語では数も少ないのでやむを得ない面もあるが、日本語には2000以上もあって、日常会話では非常によく使われている。
「しっかり」、「はっきり」、「たっぷり」などの言葉もオノマトペに近い言葉で、これらの言葉なしには日本語の日常会話は成立しない。
「エエ」、「イヤ」、「アラ」などの言葉も広い意味ではオノマトペである。これらの言葉にはアリアリと語感が生きている。
私は、欧米言語学界で、ソシュールの「言葉の音と意味との恣意性」がナゼ言語学の第一原理としてまかり通ったのか、非常に不思議に思った。
そこで、日本語と欧米語、特に英語との違いを探ってみることにした。いろいろ違いを吟味するにつれ、その背後にものの考え方の違いが大きく存在することに気づいた。

最も基本的な違いは、日本的ものの考え方から見て欧米的ものの考え方が不自然ということである。
日本人は自然であることを理想と考える。しかし、欧米人は、そのことを不作為、あるいは怠惰と考えるようである。
日本人はありのままを最善と考え、それを何とか活かそうとする。欧米人はそれを根本から作り直そうとする。
日本語の「洗練」という言葉を英語に直すと「refine」である。英語の「refine」を和訳辞書で引いても「洗練」である。しかし、「洗練」と「refine」は違う。本質的に違う。
英語の「refine」とは純粋にすることである。一方、「洗練」は練り上げることである。純化することではない。異物も一緒に練り上げハーモナイズさせることなのである。本質的に排除と包摂という方向性の違いがあるのである。
日本人は異物を全て排除して純化することは不自然だと感じる。ありのままを受け入れ異物も極力包摂し、それを練り上げ調和させることが最善だと感じている。それでこそ味も深まる。そして、そのコクを愛でるのである。
日本語の言葉の基本はアイウエオ50音である。アイウエオ50音はそれぞれ拍である。拍とは子音+母音である。したがって、アイウエオ50音それぞれには必ず母音が付く。日本語の音は母音を中心に出来ているのである。母音と子音では発音方法が全く異なる。子音は口の中に唇、歯茎、舌、喉などによって障害を作り、そこを破裂させたり、弾いたり、振動させたりして出す障害音で、連続させて出すことのできない音である。これに対し、母音は、唇、舌などによって口腔の形を変え、そこで共鳴させて出す自然音で、伸ばして出すことも出来るし、母音から他の母音へ連続して変化させることも出来る。子音は人工的でデジタル、母音はアナログで自然ということもできる。
日本語はこの自然な母音を中心にしているが、英語は母音を排除し子音中心の言語を指向しているように思われる。ここにも英語の「refine」志向が見られるのである。
語感から見ると、デジタルでシャープな子音は物質感を伝えやすいが、アナログで自然な母音は暖かく気持ちを伝えやすい。
欧米語は語感を軽視する故に母音を排除する方向に向かっているのか、母音を失くしつつあるために語感も感じにくくなっているのか、いずれか分からない。
欧米語は情報伝達のための記号化へ進み、日本語は気持ちを伝える言語本来のあり方にとどまろうとしているのである。

この日本的ものの考え方と欧米的ものの考え方の違いをフランス生活の長い哲学者の森有正は本居宣長の「もののあわれ」とパスカルの「esprit de finesse」を対比させて説明している。
森有正は「もののあわれ」という考え方の中には「人間と自然とが、あるいは人間と人間とが、お互いに浸透し合って生きていくということ・・・」という考え方があり、「esprit de finesse」に代表されるヨーロッパ人の自然観は、「自然になりきることでもなく、またこの自然の中に埋没することでもなく、むしろ自然を、人間的に支配するために、自然の中に入っていく・・・」という考え方なのだと言っている。
日本的ものの考え方からみて欧米的ものの考え方がどうしてこの様に不自然になってしまったのか。先祖代々の生存環境の違い、民族の交流、せめぎ合いなどいろいろな要因があってのことなのだろう。しかし、この文明が少子化にしか行きつかなかったとしたら、そこには何か大きな問題点があるのではないだろうか。
やはり、不自然ということが問題なのではないだろうか。
近代西洋哲学の祖デカルトの言葉に、
  我思う、故に我あり
  Cogito, ergo sum
  Je pense, donc je suis
  I think, therefore I am.
というのがある。ここに大きな問題点が二つある。

一つはcogito、このラテン語は感覚的なものを含んでいるので、まあいいとして、フランス語のpense、英語のthinkは、日本語の‘思う’とは違う。日本語としては‘考える’である。知情意の知のみに対応するもので、ここに問題がある。
そもそもは「汝自身を知れ(gnothi sauton)」を掲げたソクラテスに始まる愛知主義(philosophia)、そして、それに連なるプラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲルの主知主義(intellectualism)が問題なのである。
人間は知のみで成り立っているのではない。日本流にいえば、知情意、あるいは心身、英語的にいえば、理性と感情で成り立っているのである。
欧米的に人間が理性と感情で成り立っているとしても、理性のみの人間はいない。理性のみを強調するのは間違いである。知のみを重視して、情を無視する結果、人間が生物ではなくなりつつあるのではないだろうか。
高橋昌一郎の「理性の限界」を読んでいて、ルソーが「考える人間は堕落した動物」と言っていることを知った。なぜそう言ったのか今の私には分からないが、結論としては全くその通りである。正確には「考えるのみの人間は堕落した動物」であると言いたい(高橋昌一郎の「理性の限界」と「知性の限界」を読み比べているのは、理性と知性の違いを整理しておきたかったからである)。

二つ目の問題点は、ergo、すなわちJe、Iである。
西洋哲学はIの哲学である。Iでしか始まらない。
もともと思索は個人的なものである。Iで始まるのも致し方がないのかもしれない。しかし、人間は一人では生きられない。まして、個は大きな流れの一筋、あるいは一滴にしかすぎない。Iから始まっても、やがてWeに、そして人類そのものに思いが至らなければならない。それが真の人間の哲学ではないだろうか。
文明社会の少子化は、この個人主義、個人絶対主義の害毒故ではないだろうか。個人主義が考え方として行き過ぎているのである。
この個の自立を絶対のものと考えるのはドグマではないだろうか。
英語では必ずIと言いyouと言わなければならない。父親はわが子に対しyouと言い、自分のことはIと言う。そして、子供には父親のことをyouと言い、自分自身のことをIと言うようにしつける。言語、言葉によって、父子の繋がりを断ち切って、Iとyouというバラバラの個と個の関係にしてしまうのである。
日本語では、父親は自分の子供に対して決してyouとは言わない。大抵その子の名前で言う。そして、自分のことを決してIとは言わない。お父さんとかパパと言う。そして、子供にも父親のことをお父さんとかパパとか言うように育てる。母子の関係も同じである。子供にとって、母親はIとしてのyouではなく、あくまでお母さんであり、ママなのである。父親と母親が一緒にいる場合、父親は母親に対し、やはりyouと言うのではなく、子供の目線に立って、お母さんとかママと言う。すべてが子供中心にその関係性で呼び合うのである。
この場合、英語的にいえば、お父さん、パパ、そしてお母さん、ママは三人称でなく、二人称であり一人称なのである。日本語の会話では、このようにお互いの関係を確認しながら行われるのである。英語のように個に分断するのとは対照的である。
ナゼ個に分断するのか。ナゼ個の自己が絶対なのか。人間を生き物として、人類という流れとして見た場合、根拠が見当たらない。エゴイズムとしか言いようがない。近代西洋文明の陥ったドグマではないだろうか。宗教がもたらした策略ではないだろうか。
近世の西洋哲学を見ると必ず神の存在が前提となっている。歴史的にやむを得ないのかもしれないが、神の存在を前提としない哲学を作らなければならないのではないだろうか。
 欧米的ものの考え方では神の存在を無視してはものが考えられなくなっているのではないだろうか。

人類は猿から分かれ人間になるに際して、言葉を得て意識を顕在化させることが出来るようになった。これが人間が考えることの始まりであり、知の始まりである。人間はこの知を発展させ現代の文明を築き上げたのである。この知があってはじめてこの人類の文明も築き上げることが出来た。しかし、この知の素、顕在意識は意識の一部であるにすぎない。人間は意識の一部しか顕在化することができない。まして、人間の脳内活動全体から見れば、意識化され顕在化されうるのは、その極一部であるにすぎない。加えて、意識そのものには実物的な実体はなく、物理的状況に伴う現象にしかすぎない。幻なのである。物理的実体が無くなれば、意識も無くなる。この幻であり、現象にしか過ぎない意識が自己拡大し自我にまで肥大化してしまったのではないだろうか。個の意識、すなわち自我は意識の、あるいは知の暴走なのではないだろうか。
知的活動の成果として、近年人間についての科学、特に脳科学が大きく進展した。そして、人間の知的活動そのものにも科学のメスが入るようになった。その結果、いろいろなことが分かってきたが、知のベース、意識そのもののメカニズムについてもかなりなことが分かってきた。自分の頭の中に小さな自分(ホモンクルス)がいるのではなく、意識は自分の脳の中の神経活動のパターンによって生じる現象にしか過ぎないということ、言って見れば、意識は物理的実体ではなく、単なる幻想にしか過ぎないことが分かってきたのである。
自己認識、自己意識、自我も意識の一形態であるから、自己認識も自己意識も自我も幻想であることになる。もちろん、個の肉体は物理的実在である。しかし、一人の人間の一生も人類という命の流れの一時の一滴にしか過ぎず、人間としてのDNAの受け渡しの一過程にしか過ぎない。それも一瞬の一過程である。
心も精神も霊魂も意識の一形態である。したがって、心も精神も霊魂も幻覚である。
霊魂の実在を、そして永遠を言うのは宗教である。科学ではない。
個の尊厳、個の魂の尊厳を主張するのは、自我の意識としての自己主張にしか過ぎないのではないか。意識そのものに自己の存在を正当化する働きがあるのである。
したがって、自我は幻想であって、意識の自己満足にしか過ぎない。

しかし、それはそれで、いいではないか。これが日本的ものの考え方である。

欧米的ものの考え方では、これは受け入れられないだろう。そこで、どうするか。神をもってくるのではないだろうか。過去に於いても、神をもってきた。つじつまを合わせた。
日本人は人も神も生った、で納得した。
しかし、欧米人は人も言葉も神が作ったと決めつけた。そして、知を尽くして、つじつまを合わせた。これも知の暴走である。挙句の果て、個をバラバラに分断しなければならなくなった。そうしなければ、つじつまが合わないのである。
そろそろ一神教を卒業してもいいのではないだろうか。
欧米社会では、知の偏重と個の絶対化と人格神が強固に結びついて強力なドグマとなっている。
哲学(philosophy)は、philosophia(愛知)にとどまらない、心を持った人間の学であらねばならない。
   Cogito ergo sum は間違いであった。少なくとも、
   Je pense, donc je suis は間違いである。
   我思う、故に我あり なら、
日本人は「まあ、そんなものか。それにしてもそんなに我、我と言うこともなかろうに」程度に思っている。
人間も自然のものとして、自然の中で考えなければならない。
     (平成25年5月1日)

   日本の特殊事情  

近代西洋文明の基本にある知への偏重と個の絶対化に問題があり、これが文明社会に人類にとっては致命的な少子化をもたらしていると論じたが、それでは、ナゼ近代文明とは異なる日本的ものの考え方の色濃く残る日本社会において少子化が進行しているのか、である。
日本は明治の開国以来、近代西洋文明を積極的に取り入れた。特に、科学技術を取り入れた。そして、先の大戦、大東亜戦争の敗戦により進駐軍と共に欧米思想が大量に入ってきた。すなわち、ものの考え方の結果としての思想がバラバラに入ってきたのである。
明治期には日本的ものの考え方の上に欧米的ものの考え方の成果としての科学、技術が主に入ってきたが、先の大戦後は、ものの考え方そのものが大量に入ってきたのである。日本的ものの考え方の上に欧米的ものの考え方が覆いかぶさってきたのである。当然、矛盾が起こる。日本的ものの考え方と欧米的ものの考え方の衝突が起こったのである。
日本的ものの考え方は自然であることをよしとし、調和を第一として全てに対し包摂的でマイルドであるが曖昧でもある。これに対し、欧米的ものの考え方は人為的で分析的、純化を追求しシャープで純粋、そして排他的である。マイルドなものの上にシャープなものが被さってくれば、シャープが際立つ。人生経験の少ない純情な若者は曖昧なものよりもシャープなものに惹かれる。単純な方が理解しやすい。
戦後、にわか作りの民主主義教育を受けて育った純情な若者たちは、欧米的ものの考え方の成果である思想だけを、そのシャープさ故に、進んだものとして受け入れてしまった。純粋な人ほどまともに受け入れてしまった。受け入れた思想は、人権思想であり、平等思想である。特に、基本的人権と男女平等である。これらの純情青年が進歩的文化人となり日本の戦後の教育界、言論界を牛耳ってきた。今も支配している。純情なまま、単純なまま。
これらの人々は根底には日本的ものの考え方を持ちながら、理念として人権、平等が絶対と信じている。なぜそうなのかは考えてもいないのだろう。信仰に近い。しかし、ここには矛盾がある。日本的ものの考え方と人権思想、平等思想は矛盾する。この自己矛盾故に尚更に過激な人権、平等思想を主張する。時にヒステリックに主張するのだろう。

人権、平等が本当に大切なのか、ではそれはなぜか、日本的ものの考え方で考えてみたい。
まず、人権である。基本的人権とは人間に基本的に与えられた権利である。では、この権利は誰から与えられたのか。欧米人にとっては神からである。しかし、日本人にはそんな神はいない。それでは誰からか。天か。天から与えられたということは自然が与えてくれたということと同じだろう。権利には必ず義務が伴う。権利を与えてくれたものに対して義務を負う。これがバランス感覚である。
欧米人は神に対して義務を負っている。これは明白である。日本人には義務を負うべき神はいない。やはり、天に、言い換えれば自然に対して義務を負っているのだろう。
それでは、人間の自然に対して負う義務とはどんな義務か。
生きる義務である。生きて子孫を残す義務である。自然は人間に生きる権利を与えた。そして、人間は自然に対し生きて子孫を残す義務を負っているのである。
人権のみを声高に主張する。義務については一切言わない。考えてもいないのかもしれない。浅はかである。そして、本質的には卑怯である。
平等思想も奇妙である。自然界には平等は存在しない。人間は生まれながらにして、人それぞれ、何一つ同じではない。平等という考え方は人間が考え出した虚構である。したがって、同じく虚構である神なら平等を保証することもできるかもしれない。しかし、このような神のいない日本では、自然は平等を保証しない。平等を人権と結びつけて考える考え方もあるが、神を介在させれば考えうるが、自然を介在させても平等はありえない。絶対平等などありえない。そもそも平等は不自然なのである。
平等は絶対的なものではなく、その社会その社会が必要とする約束事で妥協の産物である。したがって、結果の平等などありえない。社会の活性化のために機会の平等が望ましいといえる程度である。
最も問題なのが男女平等である。男も女も平等、ごく常識的な受け止め方としては当然のことである。しかし、わが国では、これが男と女は全て同じでなければならないという極めて先鋭的な主張になってしまうのである。
そもそも、生物としての男と女は違う。全く異なる。女は子供を産むことのできる性である。男はそれに協力する性である。そして、どちらが欠けても子孫を残すことができない。
男と女、どちらが重要かということはできない。したがって、どちらが上位ということもできない。しかし、男と女の役割は違う。役割に応じて機能も違う。身体的機能の異なるものが全て同じでなければならないというのは不自然である。不合理でもある。
そもそも、我が国では、欧米諸国と違って、古から女性は軽視されてはこなかった。最高神であり皇祖でもある天照大神、そして実在と思われる古代の女王卑弥呼は女性であった。我が国最古の文学作品、源氏物語、そして枕草子を残したのも女性である。万葉集にも、女性の作品が多く収録されている。庶民の生活でも、「かかぁ天下」という言葉が今も生きているように、家庭では女性が実質的権力を握っているのは今も昔も変わらないのである。
もちろん、男の生き方と女の生き方は、どの時代においても違う。それは、男と女の身体的機能、そして社会における役割が違うからである。
近年、男は男らしく、女は女らしく、と言うことを忌避する傾向がある。しかし、これは不自然である。生物としての人間も、男は男らしく、女は女らしくあらねばならない。何が男らしく、何が女らしいかは、その社会が決めることで、そこにその社会の成熟度が現れる。男が男らしくなくなった社会は衰退する。日本の少子化もその兆しなのかもしれない。
戦後、男女平等の掛け声の下、女性の大学進学率も上がり、社会進出も進んだ。しかし、それで女性は幸せになったか。何が幸せかという哲学談義もあるが、未婚の女性が増え、高齢出産が増え、少子化となって、それで女性が幸せになったと言えるのか。子供もない独りぼっちの老後が幸せか。
少なくとも、生物としては劣化であり、退化である。社会が悪いという言い方がある。しかし、社会を作っているのは我々自身である。女性を不幸にし、男性を不幸にしているとすれば、我々の考え方やり方が何か間違っているのではないだろうか。
私は、欧米思想の導入の仕方が間違っているのだと思う。人権思想は、人間を個にバラバラにした欧米思想ゆえのものだ。過剰なまでのプライバシー保護も個人主義ゆえの要求なのだ(我々日本人は、昔から温泉が大好きだ。そして大浴場でも水着も何も着けない。江戸時代までは混浴だったともいう。これが庶民のプライバシー感覚かも)。
人権も平等も程ほどにすべきだと思う。それが自然である。
人間は生まれながらにして同じではない。自然は不平等である。走るのが早い子もいれば、物覚えのいい子もいる。どちらが優れているかということではない。学校の勉強が出来ることだけが人間の値打ちではない。勉強が嫌いで不得手な子もいる。そんな子まで無理やり大学まで行かせることはない。早く腕なり身体なりに技を付けさせればいい。
このように言うと差別だと騒ぐいわゆる進歩的文化人がいる。これこそ学歴を鼻にかけた教条主義者で、当人の本当の幸せを考えてもいない。浅はかで、無責任な人々である。
今の日本に大学と称するものは多すぎる。大卒の就職率が下がるのは当然のことである。勉強が嫌いで不得意な子が大学にまで行っても幸せにはなれないだろう。
少子化の原因の一つとして不妊がある。子供が欲しくても出来ないのである。高齢ということであればそれは当然である。妊娠、出産にも適齢期がある。高齢出産ともなれば異常児の出産の危険性も高くなる。早く作ればいいだけのことである。問題は若くても出来ない夫婦が増えていることである。不妊治療に高額の医療費を払い続けている人もいるのだという。
最近ものの本で読んだところでは、不妊の原因に過食があるのだという。食べ過ぎ、栄養の取り過ぎである。
野生動物は飢餓状態になると生殖能力が亢進するのだそうである。もちろん子孫を残すためである。人間も本質は動物である。実際、断食道場で不妊が治った人たちも多くいるのだそうである。現代人の過食も知の暴走の一つかもしれない。身体の声を聞きながら食すれば過食にはならない。我々日本人ももう少し自然に帰った方がいいのかもしれない。
     (平成25年5月1日)

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