言語の構造
言語の構造
ソシュールのいう言語の構造を図示すれば下図となる。
本来の言語の構造は、
である。ここで、
気持・情報 − 意味 = ニュアンス
音声 − 記号 = 語感
であるから、
本来の言語の構造は、
となる。そして、( 意味 / 記号 )の部分は、記号論、論理学への道、( ニュアンス / 語感 )の部分は、いわゆる、‘言(parole) の言語学’、すなわち、言語学の本道である。
ここでは、新しい parole は範囲が大きく狭まって純粋に個人的なもののみとなる。
同じ「あいちゃん」といっても、お父さんの /ア/ とお母さんの /ア/ では音の高さが違う。しかし、脳の中では拍秩序で照合して、同じ /ア/ の音として自分の /ア/ に変換して言語処理する。それ故、お父さんの /ア/ もお母さんの /ア/ も言語としては同じである。ただ、同じ /ア/ と聞いても、これはお父さんの声、これはお母さんの声と分かる。この部分は依然として個人性として parole の領域に残る。
そして、この領域は言語学の範疇ではない。
語感は個人によって異なるか。
語感の感じ方は人によって異なるのではないか、という意見がある。しかし、赤いバラの花を見て、誰もが赤と感じるように、語感は同じである。
視覚体験と聴覚体験(本当は体性感覚)の違いにすぎない。実際は、同じ赤いバラを見ても、人それぞれが感じる赤さは、人それぞれに異なるのである。特に、男性と女性では相当に異なる(はずである。自ら体験することは出来ないが、理論的には異なる。)。
女性は赤を感じる周波数のピークの異なる二種類の色覚細胞を持っているのに対し、男性はいずれか一種類しか持っていない。それ故に、男性の中にも赤の感じ方の異なる二つのグループが存在することになる。
しかし、誰にとっても、赤いバラは赤い。
語感は発声体感に由来するが、同じ音を出す際の体感は、誰しもほぼ同じである。
人により口の形が違う、舌の長さが違うという人がいるが、舌の長さが倍の人なんていない(比率的に)。同じ音を出すには、同じような口の形、舌の使い方、息の出し方をしなければならず、それに伴う体感はほぼ同じである。(バラの赤さ程度に。また、体感を意識しているかどうかは別として、サブリミナルには誰しもが体感している。)