新しい言語学

言語の起源

言語の起源

   「ことばの起源と進化」  

「ことばの起源と進化」という本を読んだ。‘ことばの起源’に惹かれたのである。チョムスキー派の先生の書かれた本であった。
初心者向に分かりやすく丁寧に書かれていて、途中、やや生成文法派独特の理屈っぽさは感じたものの、気楽に読み進めることが出来た。

ところが、肝心の起源のところにきて、あまりの非常識な決め付けと、突飛な結論に唖然とさせられた。
言葉の起源は、従来言われていたようなコミュニケーションのためではなく、思考のためだというのである。
私も、言葉と思考は相互に影響しあいながら進化してきたとは思うが、言葉の起源にコミュニケーションが関与していないとは到底考えられない。
言葉の起源がコミュニケーションのためからでない根拠の一つとして、「ニュース、新聞記事はコミュニケーションに当たらない」、とか「井戸端会議・おしゃべりはコミュニケーションに当たらない」といっているが、井戸端会議・おしゃべりがコミュニケーションに当たらないなどとは天下の奇説ではなかろうか。
著者はコミュニケーションの定義にもよるか、とも逃げをうっているが、そこでの定義は、

  話し手と聞き手との間でことばによる情報や意思の伝達・交換が行われ、それによって相互理解・共通理解がなされる、あるいは、図られること。

となっており、井戸端会議・おしゃべりはまさにこれに該当するのではなかろうか。
井戸端会議やおしゃべりがコミュニケーションに当たらない理由として、著者は「井戸端会議もおしゃべりも、部分的に情報伝達はありますが、そもそもそれが意図ではなく、また、相互理解の一助にはなりますが、そもそもそれが主たる意図ではなく、おおむね何といっても時間つぶしです。」と言い切っている。
これに対し私は著者に訊きたい、「それでは井戸端会議・おしゃべりは時間つぶしを意図したものですか。」、「そもそも人間の行動にはすべてはっきりした意図があるのですか。」と。
井戸端会議やおしゃべりに集まる女性には確たる意図はないと思う。あえていえば、おしゃべりのために集まるのだろう。
亭主へのぐち、育児の悩み、上司の悪口などをしゃべることによって日ごろのストレスを発散させているのである。中には、ほとんどしゃべらない人もいるだろう。しかし、それでも仲間と一緒にいることによって人との繋がりを感じ安心感を得ているのである。
世の中を超越している一部の学者さん、一部の芸術家たちを除き、大半の人々は人との繋がりを求めている。人間は集団の生き物なのである。(人間を社会的生き物ともいう)
欧米の知至上主義の偏った観念的な考え方をそのままわが国に当てはめるのは間違っている。
おしゃべりはインフォメーションの交換だけではない。情報の交換なのである。
日本語の‘情報’という言葉には‘情’という字が入っている。おしゃべりは‘気持ち’の交換なのである。
私はコミュニケーションの大きな役割はこの‘気持ち’の交流にあると思っている。
著者は、バス停で偶然会った知人に「今日はいい天気ですねえ」などと言うのは、単に人間関係を円滑にするための発話で情報伝達を意図しないからコミュニケーションではないとも言っている。
私は人間関係の円滑化こそコミュニケーションの主たる役割で、情報から‘情’を抜いて考えるのは非常に偏った考え方である。
チョムスキー派の人々は論理展開を優先する余り、人間を機械のようにしか考えていないのではないか。
言葉の最大の、そして最初からの役割は人と人との‘気持ち’の交合であると思う。
言葉は人間を人間たらしめている最大のものの一つである。
人間は‘知’のみの存在ではない。知・情・意のバランスの上に存在するのである。
人間の学として言葉の学は、‘情’を落としては成り立ちえない。
(この点、ソシュールも個人的情的なものを parole として切り捨てて論を立てているが、これを言語全体、すなわち、langage のものと受け止めたのは、後世の人の勘違いである。言語学の第一原理‘意味と音との恣意性’は parole については言っていないのである。)

更に言えば、この著者は、ニュース・新聞記事はコミュニケーションに当たらないとしているが、TV・新聞をマスコミと呼ぶことは間違いということだろうか。
なるほど、ニュース・新聞記事は一方通行ではある。しかし、TV局にしろ、新聞社にしろ、視聴者・読者の声を聞き聞き記事作りをしているのではないか。したがって、TV・新聞をマス相手のコミュニケーションと呼ぶことに私は抵抗感はない。
その意味で、講義、講演、授業、創作もマスへの語りかけでコミュニケーションの一形態としてもよいと考える。
言葉の定義を恣意的に解釈して一つの結論に導くのは詭弁というのではなかろうか。

ちなみに、思考には、言葉を要するものと、言葉を必要としないものとがある。
言葉は潜在意識での思考を顕在意識化するのに必要ではあるが、潜在意識では言葉を使わない思考が行われているのではあるまいか。
日本人がよくいう「そんな気がする」は潜在意識での思考の結果ではないだろうか。
日本語の‘思う’には、二種類あって、顕在意識での、従って、言葉を使っての‘考える’と、言葉を使わない潜在意識でのものがあるようである。
「とにかく、そう思うんだよ」などと言うのは、潜在意識での思考過程が言葉に出来ないでその結論だけが言語化され意識化されるからである。
     

  思考とは  

思考という言葉も定義しなければならない。
日本語の思考には‘思う’と‘考える’が入っている。すると‘思考’は英語の‘think’とは違うのだろうか。そもそも英語には‘思う’という概念が存在しないから、‘think’にも‘思う’は入っていない。(名詞としては、thinking、thought、to think。‘thought’は‘思いつき’にも使うから‘思う’も一部は入っているようだ。)
辞書によると、‘考’は主として‘知’に対応していて、‘思’は‘情’、‘意’に対応しているとしている。‘感情’は必ずしも言葉に表わすことができない。だから、われわれは、知的なものを含めて言葉に表わすことの出来ないものを‘思う’と表現するのだろう。(今度は、知的の定義の問題がおこるが、一応、論理的と同じと考えて。)
‘知’を大脳新皮質での論理的展開とし、‘情・意’を大脳辺縁系、脳幹などの古いシステムでの情報処理と考えることもできる。言葉を取り扱えるのは新皮質だけである。

のどが渇いて、テーブルの上の冷たい飲み物を取ろうとしたとき、‘のどが渇いた’、‘冷たくておいしそうだ’は、意識することは出来る。
また、手を伸ばしてグラスを取ろうとするとき、グラスまでの距離を目で測り、グラスの質感、重さなどを予測して手で掴み、中のものをこぼさないように適度な速さで口元まで運ばなければならないが、これら全てに脳は働いている。ただ、距離を測るのは両眼に入る映像のズレから脳が計算するのであるが、これらの脳の働きは意識することは出来ないし、勿論、言葉に表わすこともできない。
このように、人間の動作に伴う脳の活動の詳細は意識に上げることは、まずないし、また、意識しようとしても難しい。
自転車を自由に乗りこなせる人も、自分がどのようにハンドルを微妙に動かし、それに連動して体重をどのように移動させているかを意識することは難しい。まして、それを言葉で説明することは不可能である。
  
思考するためには、脳の活動は不可欠である。しかし、脳の活動全てが思考ではない。どのような脳の活動を思考とするか、難しい問題である。
目でものを見て、その奥行き感を感じられるのは、対象それぞれの距離を脳が認識しているからであるが、脳が一つのものの距離を認識するのは、両目に入る映像のズレから計算するのである。かなり高度な作業ではあるが、これは思考とは言い難い。色もそうである。三原色を別々に感じてそれを合算して、ある一つの色と感じているのである。その他、視覚野では色々な操作演算をしている。しかし、ものを見ることを思考とは言い難い。
一方、将棋の羽生名人の究極の一手は、理詰めではなく、閃きだという。この場合を、思考ではないとも言いにくい。(欧米では、‘think’ではないと言うのかもしれない。)
ものを見たとき、それが何であるかを認識するのと、それまでの距離を計算するのとは、脳の中では別ルートとなっているのだそうである。(距離の計算は動作のためで、前者を‘What’経路といい、後者を‘How’経路というのだそうである。そして、動作のための‘How’経路は意識には上らないのだそうである。)

私は、言葉の発明によって思考が顕在意識化できるようになったのではないかと思う。すなわち、思考の‘考’の部分は言葉が生まれてはじめて可能になったのだと思う。
チョムスキーはこの‘考’の部分のみを言っているのかも知れない。そうすると、思考、すなわち、‘考’は言葉によって生まれたということになる。言葉が思考の起源なのである。チョムスキーの主張に従えば、いまだ存在しない思考のために言葉が生まれたということになる。論理的に矛盾がある。
コミュニケーションなど他の理由で、言葉が生まれ、これによって初めて思考が可能になったのである。
(この場合の思考は、‘考’のみの部分)
    平成23年3月1日

   言語の始り、意識の始り、論理の始り  

画像の説明
言葉の誕生はいろいろな偶然から起こったのであろうが、その切っ掛けはコミュニケーションの必要からではなかったろうか。
人類の祖先が森から草原に出て二足歩行を始めて、咽仏が降下、咽喉、口腔を大きく使っていろいろな音が出せる基盤が整いつつある状態に、コミュニケーションの必要から、たまたま声が出て、それが言葉へと進化した。そして、言葉が出来たことから意識の顕在化が起こり、それが言葉の存在と相俟って論理思考を可能とし、それらが互いに影響しあいながら、言葉から言語へと進化していったと思われる。
まず、二足歩行の副産物として、手が自由に使えるようになったことと、咽と声帯の間が広くなって、咽喉、口腔、鼻腔を使って今の人間の声に近いいろいろな音を出せる可能性が出てきた。
もちろん、今のような声が出せるようになるには、咽、舌、唇をはじめ口そのものを微妙にコントロールする筋肉の発達とそれらへの指示を出す神経群も発達しなければならないが、その物理的可能性が、人間が二足歩行を始め、頭を垂直に保ち、首が真っ直ぐ垂直になることによって生まれた。
人間はもともと集団で生活する動物であるから、コミュニケーションの必要はあったろう。では、どうして声がコミュニケーションと結びついたか。相手の注意を引きたいときには、猿でも犬でも声を出す。
しかし、人間においてのみ、この声が何かと結びついたのは、ナゼか。

  目線の気付き  

目線の気付きからではないかと思う。
犬は飼い主が目を動かしても、その目線の先を見ることはない。
人間が目線の動きから相手の関心を知ろうとするのはミラー・ニューロンの萌芽かもしれない。
そもそも目線とその先のものとを結びつけるのは論理の始まりである。また、目線とものという次元の異なるものを結びつけるのは高度な抽象化能力である。
目線の先=もの 、すなわち、A=B であり、AとBと次元が違うものを結びつけるのは一種の抽象化である。ここに、論理が始まったのかもしれない。(順序としては、まず、A→B、これが、B→A を経て、A=B に進化した。)
この A=B を理解するようになって、たまたま、グルーミングのときに出した声が、相手を癒す働きを持つようになったり、怒りの際に出した声が、怒りを表わす声と理解されるようになったのではないだろうか。

  指差し  

そして、指差しが、何かの折に、ものを指し示すことが理解されるようになった。
もともとは、手を伸ばしただけかもしれない。これが、目線と同じように、手の先を、そして、指の先を指し示すことを覚え、仲間に広がっていったのではないか。
手の動きはものを真似るのにも使われた。この手で真似ることは指差しから進化したのかもしれないが、これも、高度な抽象化である。
そして、手の形=もの であるから、A=B である。この真似されるものが、ものだけではなく、動きになり、そして、こと、すなわち、何かが何かをしたことを示すようになると、これは、A=B+C で、論理としてはより高度になったことになる。
そして、指差しの際にたまたま声が出た。そして、それが結び付けられて、指差されたものと声とが結びついたということもあったろう。
これがものに対する名付けの始りである。
そして、やがて、手の真似を声で真似るようになっていったのだろう。これは、最初は手と声をいっしょに使っていたのだろう。それが、やがては、声だけでもコミュニケーションが出来るようになっていったのだろう。
言葉が出来、A=B+C のような論理展開が出来るようになると顕在化した意識というものが出来てきたのではないか。無意識的であったものが、頭の中で言葉に結びつくことによって、はっきりとしたもの、すなわち、顕在意識化できるようになったのではないだろうか。(いわゆる、意識できるということ)
また、言葉が論理と結びつくことによって言語へと進化したのではないか。(B が B+C へ)
言語、意識、論理は三つ巴となって互いに依存しながら進化してきた。
意識は、それまでの潜在的な状態(サブリミナル)から、言葉が生まれたことによって、いわゆる、意識できるようになったのである(スプラリミナル)。
そして、この顕在意識における論理展開が‘考える’という働きである。
顕在化以前の脳の働きは‘思う’あるいは、‘気がする’の段階である。(なお、論理のほとんど関与しないもっと前の段階は‘感じる’だろう。)
言葉が言語へと進化するのと平行して、論理も A=B から A=B+C へと進化、この A=B+C の一形態として A=B’C すなわち、属性を表わす‘BのC’ が生まれ、やがて、ここから、 A=B’C’D すなわち、‘BのCのD’ が生まれた。これが、入れ子、すなわち、階層構造の発明である。
そして、これは A=B+(C+D)、あるいは、A=(B+C)+D へと進化し、さらには、A=B+{C+(D+E)} へと進化していった。
    平成23年3月31日
   図解:言葉・論理・意識

   図解:言語・論理・意識

   ラマチャンドランの言語起源説  

アメリカの脳神経学者ラマチャンドラン博士は「脳の中の幽霊 ふたたび」の中で言語の起源についての代表的な説を次のようにまとめている。

  ○ アルフェレッド・ラッセル・ウォレス  

 これほど複雑なメカニズムが自然淘汰で進化したとは考えられず、神の介入によるものに違いない。

  ○ ノーム・チョムスキー  

 言語のメカニズムはきわめて高度で精巧であるから、自然淘汰という偶然の作用で生まれたはずはなく、1000億の神経細胞が小さな空間につめこまれた結果として、なんらかの新しい物理法則が生まれたのではないか。

 ラマチャンドランは以上二つの説は検証不能だとしている。

  ○ スティーヴン・ピンカー  

 謎めいて見えるのは、中間の段階がどんなふうだったかを知らないからにすぎず、今日の私たちが目にしているのは進化の最終結果であり、言語の進化は大いなる謎などではない。
 そして、言語はコミュニケーションという単一の目的のために一歩づつ進化した特異的な適応である。

 これに対し、ラマチャンドランは自然淘汰が説得力のある唯一の説明だと、方向としては肯定的に捉えているが、中間の段階がどのようなものかが重要で、それらの段階を発見するための手がかりとして、‘共感覚的ブートストラッピング説’を提唱している。

  共感覚的ブートストラッピング説  

ラマチャンドランは、まず手のゼスチャーなどの非言語的コミュニケーションがあって、手に関与する領域と口に関与する領域が隣り合っており、動作から発声へ信号のもれがあるため、手のゼスチャーが口や唇や舌の動きへ翻訳されて情動的な喉頭音声を生み出した。これが原型言語であるとしている。
このことは、チャールズ・ダーウィンが言うように、人がはさみでものを切るとき、自然に口元が動くこと、また、‘little’、‘diminutive’、‘teeny weeny’を言うときの口の動きと‘large’、‘enormous’を言うときの口の動きが対照的(すなわち、小さいと大きい)であることからも分かるとしている。
そして、ラマチャンドランは、‘ブーバ・キキ効果’から分かるとして、視覚領野と聴覚皮質の間に共感覚的なクロスモーダルの抽象化が先に先行しており、それらは体系的にマッピングされているとしている。また、視覚領野と唇や舌や口の動きを司るブローカ野の間にも非恣意的クロス活性化があるのだとも言っている。

以上を私流に解釈すると、

○ 脳の中の手の動きをコントロールする領域と口の動きをコントロールする領域が近接しており、混信しやすい。ここから、手によるゼスチャーから口によるゼスチャーへと進化した。この口によるゼスチャーが原型言語である。

○ 見たものを処理するルートと聞いたものを処理するルートが交差する角回を含むTPOで、見たものの抽象化、聞いたものの抽象化が行われ、両者の半ば必然的な結びつきが、すでに体系として存在している。

○ 見たものを処理するルートと発音や構音のために口を動かす動作を指示するルートの間にも、そのような結びつきがある。

さらに、ラマチャンドランは、ピンカーの言うような「言語はコミュニケーションという単一の目的のために一歩ずつ進化した特異な適応」ではなく、他の目的のために進化したメカニズムの偶発的相乗的な組合せが、のちに転用されて、私たちが言語と呼んでいるメカニズムになったと言っている。
そして、言語の進化について、シンタックスの階層構造については、抽象化から進んだか、あるいは、道具の使用が貢献しているかもしれないとし、そもそもの抽象化は角回/TPOでのクロス活性化で、脳の地図に表象された遺伝的なものであるとしている。
ラマチャンドランは、下等哺乳類とサルと大型類人猿と人類の脳を比較すると、TPOと角回が爆発的と言えるほど拡大してきているとし、この角回が大きくなったのは、樹上生活で枝から枝へ飛び移る際、目からの枝の位置関係と手の動きのコントロールが正確にマッチングされねばならず、予め手のコントロールにかかる固有感覚の地図と枝の視覚的外形の脳内における地図のマッチングが行われており、これがクロスモーダルな抽象化の能力であり、この外適応としてメタファーほかその他タイプの抽象化能力が発達してきたとしている。
ちなみに、ラマチャンドランはチョムスキーと違って、言語の起源をコミュニケーションとしているが、しごく当然のことで、私も賛成である。
ラマチャンドランは脳神経学者として、いろいろな臨床の現場から立証しており、私も大筋において賛成ではあるが、一つの大きな見落としがあり、その結果、すべてを共感覚としてしまう大きな誤りを犯している。
共感覚とは、つまるところ遺伝ということであって、チョムスキーの生成文法と共通する考え方であるが、遺伝情報の‘情報の過少’ということもあって、遺伝はもっと狭い範囲に限るべきだと思う。
共感覚にしろ、生成文法にしろ、遺伝としてはもっと原理的なものがあって、それの一つの発現と考えるべきで、その原理的なものを明らかにすることこそが重要である。
ラマチャンドランは、色と数字の共感覚を生後間もなくの神経細胞の‘刈り込み’不足と考えているようであるが、全ての人にある感覚については失敗による抹消不足ではありえず、必然であり、やはり、これらを遺伝と考えているといわざるをえない。
ラマチャンドランは‘ブーバ・キキ効果’を共感覚として説明している。すなわち、図形に丸みや、鋭さを感じる視覚と音に丸みや鋭さを感じる聴覚との間の共感覚と考えているようである。
これは、違う。
丸いとか角ばっているとかの感覚は触覚である。手で触った感覚である。それを目で見て分かるのはそのような経験の記憶なのである。
音に丸みや鋭さを感じるのは、この場合、言葉の音にそう感じるのは、自分がその音を発音した時の感触、主に口腔内の感触で、これも記憶の一種である。口腔内の感触、体感であるから、これも触覚である。
丸みや鋭さについて言えば、視覚も聴覚も触覚と結びついたものであるから、触覚同士のマッチングであるから共感覚とする必要はない。
ラマチャンドランはここを見落としているのである。( 聞こえが発音体感であることにも気付いていない。)

なお、音については言葉の音以外にも高い音、鋭い音などがある。これらが発音体感であるはずはなく、振動数の多い音を高く感じたり、高くて混じりけのない音を鋭いと感じたりするのは共感覚と言えるのかもしれない。
空間的なものの高さと音の高さに同じ高さという概念を使うのは、その底に自然法則のようなものがあるような気がする。また、チョムスキーの生成文法についても、文法というよりは、もっと根源的な自然法則の一つの現れにすぎないのではないだろうか。
この世界、そして、人間を作っている基本的な法則、論理のようなものがあるのではないだろうか。
複雑系の論理とでもいうものがあって、われわれが今この世界で論理と称しているものは、その統一理論の一特殊理論なのではないだろうか。

ラマチャンドランは‘little’、‘large’ などの発音に際し、「唇はあなたが言っているものの視覚的外形を物理的にまねています。」と言っており、目で見てまねていると考えているようであるが、実際は発音体感としてまねているのである。(主体としての手まねから口まねへの進化。他人のまねではなく、自分の手真似を自分の口でまねている。)
ここで、ラマチャンドランはミラー・ニューロンを持ち出しているが、主体的で自己完結的な行為であるから、ここではミラー・ニューロンは必要ではない。
私は、ミラー・ニューロンの誕生が‘心の理論’の出現の基であり、これがものごとの客観化に繋がり、論理としての入れ子、すなわち、階層構造の発明へと繋がっていったのだと思っている。(他人の行為を自分の行為として体験し直すことは、自分の行為を他人の行為と同じように扱う、すなわち、自分を客観視することにつながる。)

ラマチャンドランは中国語のネイティブは、声を出さずに「rrrrr」または「lllll」といったとき、どちらを言ったかを「唇を読んで」あてることが出来ないのは、この特定の区別をするためのミラー・ニューロンが発達していないからだとしているが、これは発音し分ける習慣がないためで、同じく発音し分ける習慣のない日本人には、例え、実際に声を出してもらっても、聞き分けられない。
ここでは、ラマチャンドランはミラー・ニューロンの発達が遺伝というよりは後天的と考えている節がある。そうすると、ミラー・ニューロンの発達は経験、あるいは、学習ということになる。私も「rrrrr」と「lllll」の見分け聞き分けは経験・学習によるものと思っているが、その記憶がミラー・ニューロンのみに蓄積されているとは思わない。特に、このような長期記憶は神経細胞だけではなく、グリア細胞を含んだネットワーク形成ではないかと思っている。(小脳も大いに関係があるかもしれない。発音が関わるから)
生後間もなくの赤ちゃんが、母親が目の前で舌を出して見せると自分でも舌を出すことから、これは学習の結果ではなく、遺伝的なものと考えられる。ミラー・ニューロンに既にそのようにインプリントされていると考えざるをえない。
    平成23年3月25日

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