新しい言語学

言語と文化

   大坂なおみさんと日本のこころ。  

大坂なおみさん、全米オープン優勝おめでとうございます。
現在、彼女は日本と米国の国籍も持っているという。二重国籍である。日本人でもあり、アメリカ人でもある。22歳までに日本、アメリカ、いずれかの国籍を選択すればいいとのことである。しかし、ここで考えたいのはそんなことではない。
「サピアーウォーフの仮説」 に曰く、「言語は文化を規制する」 と。話す言葉によって、その人のものの考え方が異なるというのである。日本語人と英語人では、ものの考え方が違うというのである。かって、「カズオ・イシグロは日本人か」 を書いた。この時、念頭にあったのは、国籍でもなく、DNAでもない。ものの考え方が日本人か、を問うたのである。大坂なおみさんについても、彼女のものの考え方、あるいは感性が日本的かを考えてみたい。
 大坂なおみさんは、ハイチ出身の男性と北海道出身の日本人女性との間に生まれた。3歳まで大阪で育てられ、後、ニューヨークに移った。それ故か、英語は流暢ながら、日本語は幼い。今、日本語の勉強中だそうである。
 そこで問題になるのが、彼女のものの考え方が、アメリカ人的か日本人的か、である。3歳まで、日本人の母親の元、日本社会で育っている。それ以後はアメリカ社会で育っている。父親も非日本人である。カズオ・イシグロは5歳まで日本社会で育ち、後、イギリス社会で教育を受けた。ものの考え方には日本人的なものが残った。片岡義男はアメリカ人の父親に英語で育てられた。5歳の頃にはすでに日本人的ものの考え方に疑問を持っていた。大坂なおみの場合、カズオ・イシグロのケースに近い。ただ、カズオ・イシグロが5歳であったのに対し3歳である。日本語も拙い。そこで、はたして彼女のものの考え方はどうか。
 セレーナ・ウイリアムズとの優勝決定戦で、トラブルがあった。セレーナが試合中のコーチング違反でペナルティをとられ、執拗な抗議の上、ラケットをコートに叩きつけ壊してしまった。もちろん、さらなるペナルティを課された。これが尾を引き、優勝の表彰式でもブーイングがスタジアムに鳴り響いた。ブーイングは、もちろん主審に対してである。このブーイングの中での大坂なおみのスピーチがすばらしい。
 「みんながセレーナを応援していることを知っています。こんな終わり方になったことは残念です。でも、決勝でセレーナとプレイすることが夢でした。プレイしてくれて有難う。そして、試合を見てくれて、みなさん、有難う」
 これで、ブーイングもおさまり、賞賛の拍手になったという。このスピーチの根底には、謙虚さと相手を思いやる気持ちが感じられる。アメリカ人的というよりは、日本人らしいというべきだろう。ちなみに、日本の報道では、「こんな終わり方になったことは残念です」の部分が、「こんな終わり方になってごめんなさい」となっていて、これは誤訳との指摘もあるが、「 I’m sorry 」 には謝罪のニュアンスもあるから、私は、「ごめんなさい」 の方が、彼女らしくていいと思う。やはり、大坂なおみの感性は日本的である。3歳までの日本語、あるいは、日本文化の影響か、母親の影響か。もちろん、ご本人の性格を含め色々の要因が絡んでのことではあるが、「サピアーウォーフの仮説」 も間違ってはいないと思う。
(I’m sorry it had to end like this.)
       (平成30年9月25日)

   デジタルとアナログ 欧米文化と日本文化 欧米語と日本語  

日本文化と欧米文化、日本人のものの考え方と欧米人のものの考え方、日本語と欧米語。
これらにはそれぞれ大きな違いがある。対極にあると言えるほどの違いがある。
そして、これらの違いの根底には共通のものがあるように思う。
その共通のものを端的に表す表現としてアナログ・デジタルがある。
すなわち、日本文化がアナログ、日本人のものの考え方がアナログ、日本語がアナログであるのに対し、欧米文化がデジタル、欧米人のものの考え方がデジタル、欧米語がデジタルなのである。
もちろん、アナログ・デジタルは比較としての話である。そもそも言葉は‘コトの端’とも言われデジタルである。どちらかと言えばアナログ的、どちらかと言えばデジタル的という比較としての使い方である。
アナログはものごとを連続的に数える数え方、デジタルはものごとを跳び跳びの数値に丸めて数える数え方である。アナログを直線とすれば、その線上にプロットした点々がデジタルである。
端的に言えば連続と不連続である。数値、1・2・3はデジタルである。
元来、自然はアナログである。自然現象はすべて連続して変化する。
算数はデジタルである。論理もデジタル的である。従来の科学はデジタルをベースに発展してきた。文明はデジタルと共にやって来た。

近代科学はデジタル思考の成果である。論理はデジタルである。論理は曖昧を許さない。
科学を生み出したのは‘知’である。‘知’は論理であり、デジタルである。‘情’は曖昧であり、アナログである。
欧米近代文明は‘知’を愛し、論理を愛し、近代科学の花を咲かせた。すべてデジタルである。近代欧米文化の生み出した哲学も宗教もデジタルである。基本的に妥協を許さない。
今、この欧米近代文明が限界に来つつあるのではないか。妥協を許さない非寛容の限界に来つつあるのではないか。
一方、新しい科学が生まれつつある。量子物理学と複雑系の科学である。不確定性理論に見られるようにデジタルではない。自己組織化も必然ではない。カオスの縁も確率論の世界である。そして、新しい科学思想が生まれつつある。リジットな固い思想ではなく、やわらかな思想として。アナログ的である。
ちなみに、一般の人々について言うと、進化論がそうであったように、この新しい科学の考え方も日本社会では比較的素直に受け入れられると思う。一方欧米社会では、未だに米国人の半数近くが進化論を信じていないように、なかなか受け入れられないかもしれない。日本人はこの新しい考え方・進化論が入って来た時もすぐ理解し、受け入れたようだ。
哲学も宗教も、そして社会思想も変わるだろうし、変わるべきである。
哲学は新しい科学をベースにしたものでなければならない。
われわれは、そろそろデジタルな個人絶対主義を克服しなければならないのではないだろうか。
(このように個人主義の克服を言うと、すぐそれは全体主義だとか、国家主義だとか、共産主義だと非難する人が現れる。それこそ○か×か式のデジタル思考であって、やわらかい個人主義、やわらかい民主主義というものもありうるのである。)

自然は基本的に連続している。そもそも連続して変化するので、結果としてもすべて連続した違いである。
その自然に手を加え加工したものは、よりデジタル的になる。規格化が進めば進むほどよりデジタル的になる。工業製品はデジタルである。
自然の本質はアナログ。人工の本質がデジタルなのである。
そこで、私は全てのものについて、より自然なものをアナログ的、人工を加えたものをデジタル的と言うことにしている。アナログかデジタルかは、自然か人工かなのである。
人間というものを考えるとき、この自然か人工かは大きな問題である。
そもそも人間は自然の産物である。人間そのものは自然の一部である。
人工とはその自然に人間が手を加えることである。
したがって、人工は自然への反逆である。自然に手を加えることは人間にのみ可能な技であり、自然を改善しようとすることは、人間の人間たる故なのかもしれない。
このように、人間の存在は自然という意味では自己矛盾なのである。
自然か人工か。アナログかデジタルかは、人間存在の本質に関わる問題である。
文化は、そして文明は人間が自然に働きかけて作り上げてきたものである。したがって、文化、文明はアナログに対するデジタルのチャレンジと言うこともできる。しかし、人間そのものは自然であることをやめるわけにはいかない。文化、文明は時に人間の自己否定にもなりかねない。ここに、自然か人工かのバランスの問題、アナログかデジタルかのバランスの問題が重要になってくるのである。
文化、文明が進み、世の中すべてがデジタル化すればいいというわけではない。人間がアナログだからである。いかにアナログを残しながらデジタル化するか。これが重要なのである。
文化、文明はデジタルに突き進みがちである。それが文化、文明の本質だからである。

今この地球上で最も進んだと思われている欧米文明は個人主義を第一としている。それを当然としている。われわれはそれを当然のこととして受け入れている。しかし、本当にそうだろうか。人間の在り方として本当にそうだろうか。
個の人々は、人間というもの、あるいは人類という流れからすると単なる一片のもの、すなわちデジタルなものではないだろうか。
宇宙が生まれ、地球が生まれ、この地球上に自己増殖する有機体が生まれ、それが進化して単細胞になり、多細胞になり、両性生殖を始め、哺乳動物が生まれ、遂に現生人類にまで進化した。この生命という大きな流れから見ると、一つの種類の生物の一つ一つの個体にどれほどの意味があるのか。一つの種は個体の集まりではあるが、一つ一つの個体にどれほどの意味があるのか。一つ一つの個体が種全体よりも重要か。それはあり得ない。
人間についても同じで、個の人間の価値が人類そのものの価値を超えることはあり得ない。そもそも価値の水準が違う。地球全体から、あるいは歴史の流れを包含した自然全体から見れば、個の人間の価値うんぬんは自己満足、あるいは自己欺瞞にすぎない。
個という概念は、古代ギリシャにおいて人間が作り出したものだろう。そして、この個という分断はキリスト教によって強化されていったのではないだろうか。キリスト教では神は個人一人一人としか結びつかないからである。キリスト教の神は個人の神なのである。
人間は個では子孫を残せない。最低、男と女が必要である。一組の男女だけでも子孫は残せない。子孫に繋がってはじめて人間は人類である。人類にとって個とは一瞬の過渡的現象に過ぎない。また、人類全体にとって一個人は一部分に過ぎない。大河の流れの一滴に過ぎない。その一滴を絶対と考えるのは自己満足に過ぎない。
文明、文化によっても個の捉え方は違う。欧米文明において、個に絶対の価値を置くのに対し、日本文化においては、個は絶対ではなく、逆に人と人との繋がりをより重要と考えてきた。
欧米文化においては、‘I’と言い、‘you’と言うことによって、自己を主張し、相手を突き放すことを良しとしてきた。日本文化においては、極力自己を主張することを避け相手との繋がりを確認し合ってきた。他の文明においても個に対する感覚はそれぞれ異なっていると思う。欧米的個人主義が絶対なのではない。

個人主義に疑念を表明すると、それでは全体主義だ、あるいは共産主義・社会主義だとの非難の声が一斉に上がる。これこそデジタル思考である。○か×かの思考である。
アナログ思考では○と×の間もある。○と×が連続しているとすら考える。
個人主義にも極端な原理主義的個人主義だけではなく、マイルドな個人主義、柔らかな個人主義もある。
男女同権などは、生物としての役割の違い、それに伴う機能の違いを無視している。男には男としての権利がある。女には女としての権利がある。そして、男には男としての義務がある。女には女としての義務がある。権利と義務はセットである。義務のない権利などあり得ない。権利も義務も神が与えるのではない。人類として、人類が存続するために、人間相互間に発生するのである。人間相互間の取り決めでもある。相互間の取り決めだから、社会によって異なり得る。文明・文化によっても異なり得る。絶対的男女同権を他文化にも強要する欧米文化はデジタルである。デジタルは非寛容である。世界文明として、この非寛容はもう限界かもしれない。
欧米文化にアナログ思考をどのようにして受け入れさせるか、大きな課題である。

欧米文明はなぜ個人主義を第一とするようになったのか。その前段階として、人間と自然との関係についての考え方が文明によって異なっていたのではないか。少なくとも欧米と日本では今でも違う。欧米では自然は人間の対抗する対象であるのに対し、日本では人間は自然の一部であって、われわれ人間も自然と繋がっていると感じている。
古来、西欧では自然ではない神が人を作ったと信じられてきたが、日本では神もヒトも自然に成ったと考えられてきた。聖書に古事記に、そう書かれているからそうなったということではなくて、人びとがそう感じていたから、すなわち、そう考える素地があったから、聖書にそう書かれ、古事記にそう書かれたということではないだろうか。
自然ではない人格神がどうこうしたという考え方は人間中心の考え方である。自然に成ったという考え方は自然中心の考え方である。

日本語の「わたしはあなたが好きだ」を英語にすると、「I love you.」となる。しかし、この「I love you.」を逆に日本語に翻訳すると、「わたしはあなたを愛する」となり、微妙に違ってくる。
「好きだ」と「愛する」は同じか。心の状況として見ると違うのである。文法上の品詞としては‘愛する’が動詞であるのに対し‘好き’は形容動詞である。動詞は行為である。‘愛する’は行為である。‘好き’は心の状態である。行為ではない。作為がない。‘愛する’には作為があり、‘好き’には作為がない。‘愛する’は能動であるが、‘好き’にはむしろ受動のニュアンスがある。欧米文化が、神がヒトを‘作った’と考え、日本文化が、神もヒトも‘成った’と感じる、この違いと同じである。欧米文化と日本文化の根底にある考え方・感じ方の違いだろう。

日本語では、‘考える’、‘思う’、‘気がする’、‘感じる’とあるのに対し、英語には‘think’、と‘feel’しかない。英語には日本語の‘思う’にあたるコトバがない。‘考える’には人為的、能動的なニュアンスがあるが、‘思う’には受動的ニュアンスがあって、日本人はむしろそのような受動的表現が好きなのである。自然にそうなったという表現が好きなのである。‘好き’には「好きになっちゃった」という含みがあり、‘思う’には「何となくそう思う」というニュアンスがある。英語にはこのような感じ方はない。
‘考える’、‘愛する’は‘知’の行為である。‘感じる’、‘feel’は感覚である。‘知’と‘感覚’の間には‘情’がある。‘感覚’に繋がるものとして、‘知’の根底に‘情’がある。‘思う’、‘好き’は‘情’の範疇である。無意識(意識下)の行為である。
英語には‘情’に当たる言葉がない。‘sad’、‘glad’などがあるではないかと思われるかもしれない。しかし、‘sad’、‘glad’は‘I am sad.’、‘I am glad.’というように状態を表す表現であって、自分の心の状態、主観を主体として表す表現ではない。英語では無意識は‘ないこと’なのである。
日本語の‘悲しい’は自分の気持である。主観であり、‘情’である。英語の‘sad’は情報である。情報は‘知’の範疇である。英語では‘情’は扱わないのである。
人間の脳は大雑把にいって3層になっていると考えられる。中心に全身の感覚に繋がる脳幹があって、その上に情動を感情として表現する大脳辺縁系があって、それらの周りを‘知’を司る新皮質が覆っている。脳幹辺りを原始脳、大脳辺縁系周辺を旧脳、あるいは爬虫類脳と言い、新皮質を新しい脳と言っている。意識は新しい脳が出来て初めて発現した現象である。われわれ人間は、旧脳、並びに小脳の働きを意識することはできない。痛みは感じることが出来る。
英語は意識出来ること、感じること以外はないことにしているようである。割り切りであり、デジタルであり、論理的である。
日本語は、「そんな気がする」、「なんとなくそう思う」のように意識下の意識も感じようとする。「好きになっちゃった」、ならしょうがないとする日本人は‘情’を理解し認めているのである。英語人は‘情’を認知していない。むしろ、認めるべきではないと考えているのかもしれない。デジタル思考である。

‘能動’を英訳すると、‘active’、‘positive’などがある。‘受動’は‘passive’の他に‘negative’がある。やはり‘作る’文化の欧米には、能動にはポジッティブの、そして受動にはネガティッブのイメージがあるのである。一方、‘成る’文化の日本人には受動を自然と考え、より良いものと感じる感性がある。日本人には作為を不自然と感じ、より本来のものではないと感じる感性があるのである。
‘作る’が作ったものは人工物、すなわちデジタルである。自然に‘成る’、すなわち成ったものは自然、アナログである。
日本人はデジタルよりもアナログなものをより高級と感じる傾向がある。今時の若者たちはデジタル機器を愛好する。特に音響機器についてそうである。しかし、本当に音の分かるプロフェッショナルはアナログ音源をより評価するとも言われる。時計も最も高級なのはクオーツではなく、アナログな手巻き時計である。これは西欧に於いても同じだが。

このような欧米文化と日本文化に於けるものの考え方、ものの感じ方の違いはどこから生じてきたのだろうか。大雑把に言えば、欧米の人々と日本人の置かれてきた地政学的な違いからだろう。
欧米の人々は、余り自然に恵まれない砂漠、荒野、草原の中で、いろいろな民族が相争いながら生きてきた。一方、日本では四方を海で囲まれ、自然の幸にも恵まれ、他民族との抗争も余りなかった。このような環境の違いがものの考え方の違いを生み出したのだろう。
それでは、なぜ文明科学も発達し、人びとの交流も活発になり、物も豊かになった現在に於いても、欧米社会と日本社会に於いて、このようにものの考え方が根本的に異なるのだろうか。
それは宗教と言語の違いからだと思う。
宗教については、議論もあるので他に譲るとして、言えることは、欧米の宗教と日本の宗教とは本質的に違うということである。日本人は、お正月には初詣に神社に行くこともあればお寺に行くこともある。年により行くところを変える人もいる。七五三のお参りもすれば、クリスマスも祝う。結婚式は教会で挙げることもあれば、神前で挙げることもある。亡くなればお寺で、そしてお墓に埋葬する。お寺、お墓の宗派も余りこだわらない。欧米人から見れば目茶苦茶である。しかし、これが日本人の宗教である。街々にはお寺・神社があり、あちこちの街角にはお地蔵さんが並んでいて、花を手向ける人も絶えない。宗教心がないとは言えない。欧米と日本では、人びとと宗教との関わり方が根本的に違うのである。宗教が本質的に異なるのである。
欧米の宗教は人工物に対する信仰である。欧米の神は、人間が‘知’から作りだした人格神で創造物である。
日本人の神は感じる神である。各々の人が心でそれぞれに感じる神である。形としては、時には仏像になり、時には大木になり、岩になり、時には山そのものになったりする。空を流れる風に亡き人を感じたり、道端に咲く一輪の花に神を感じたりする。日本人は人が亡くなると仏になると言い、やがて月日が経つと神になったと言う。神も仏も同じなのである。木も岩も、山も風も、花すらも同じなのである。すべて根本のところで繋がっていると感じているのである。生きている自分自身も繋がっていると感じているのである。アナログ思考である。
欧米の宗教はデジタル宗教。日本人の宗教はアナログ宗教である。

ものの考え方、感じ方を世々代々伝えるのは言語である。人々の使う言葉によってものの考え方、感じ方が引き継がれていく。
例えば、英語と日本語は本質的に異なる。子音中心の現在の英語はデジタルを志向するが、母音中心の日本語はアナログであろうとする。
英語は情報を客観的に伝えようとする。実況放送のようになる。
日本語は自分の気持も併せて相手に伝えようとする。情報はデジタルであるが、気持はアナログである。したがって、主観を交えた感想文のようになる。
日本語は母音を中心とすることによって、気持を表現することの出来る言語となった。
母音と子音を比較すると、母音はアナログ的、子音はデジタル的と言うことが出来る
母音は声門を出た振動を口腔、鼻腔で共鳴させて出す自然音で、連続して出すことも出来るし、他の母音に連続して変化させることも出来る。アナログな音である。
子音は声門を出た息を、ノド、舌、唇、口腔、鼻腔などに障害を作り、そこを破裂させたり、そこを擦ったり、震わせたりして出す人工音で連続しては出せない。デジタルな音である。
母音は唇、舌、口腔の形、息の出し方を変えることによって、アイウエオなどの音を出し分けるのであるが、この唇、舌、口腔の使い方、息の出し方の違いによって、気持のあり様を表現することが出来る。

そもそも人類はどのようにして言語を獲得したのか。
言語の起源についてはいろいろな説がある。その一つに、社会が大きくなって猿時代からの人間(猿)関係を維持するための毛づくろいが出来なくなって、それに替わるものとして言葉が始まったというのがある。しかし、声を出すことと手によるタッチとでは全く違う事象である。意味のない音声がいかにして手によるタッチに代わりえたのか。
音声に意味があったとしたら、それはもうすでに言葉である。それでは、その言葉はどのように出来たのか。音と意味とがどのようにして結び付いたのか。さらなる説明が必要である。
原初の音声にも気持は表れていたと思う。ただ、音を出し分け、気持を表現し分けるまでには至っていなかったと思う。言葉の赤ちゃんの状態がせいぜいだろう。ただ、気持が表れていれば、弱いながらも手の毛づくろいの代わりにはなっただろう。しかし、気持を表し分けられるようになり、さらに意味を表せるようになってはじめて、手の毛づくろいに全面的に替わりえたのだと思う。
私はクーイングも言語の起源の大きな一つだと思う。赤ん坊の甘え声に対する母親のあやし声である。親愛の情を伝え合う声である。やがて、そこに母親の窘める声も加わってきただろう。宥める声、そそのかす声、褒める声なども加わってくる。これらの声は、最初は母音子音の混ざった曖昧な音だったろう。‘クークー’というような音だったかもしれない。やがて、それが発声する時の気持によって音が変わってきたのではないか。声のバリエーションが増えてきたのではないか。明るくおおらかな気持の時は、ア的な音になり、訴える気持の時は、ウ的な音になり、宥める時には、エかオ的な音になっていったのではないだろうか。
類人猿は、今の人間のようには母音を発声し分けられない。口腔の奥行きが不十分なのである。人類も直立歩行をするようになって、喉頭が奥に落ち込み、共鳴させる口腔が広くなったため、いろいろな母音を発声し分けられるようになったのである。また、火を使えるようになり、柔らかいものを食べるようになって、顎が退化し口腔の形を変えることが可能になったことも、これに寄与した。母音を発音し分けるためには、口腔の形を変えるだけではなく、特に舌の形を変えたり使い方を変えたりする。この動きはすべて脳の指示によるわけで、この複雑な動きをコントロールするにはより大きな脳も必要であった。したがって、最初からいきなり、今の母音、子音が発音出来たわけではなく、脳の進化発声器官の進化と共に、徐々に今の音を発声し分けることが出来ようになっていった。
日本語の基本母音は、ア、イ、ウ、オ である(エは後に加わった)。調音点が前・後、狭(上)・広(下)の4つの組合せに位置する。母音を代表するものと考えられる。
言葉の最初の音は曖昧な音だったろう。母音、子音の混じった音だったろう。言語の始まりが親子のクーイングなら、最初の音はウ的な音だったろう。うなり、うめきに繋がるウは、調音点が後・狭で鼻腔にも響き、私秘的な母音である。言語の始まりが対人的な宣言・広報であるなら、ア的な音であったろう。アは前・広で、口を最も大きく開け大きな声が出せる。自分の意思を強く出したい時はイ的な音だったろう。オは重々しく自らの存在を主張したい時に出しただろう。最初は曖昧だった音が、脳の発達、発声器官の発達によっていろいろの音を出し分けられるようになっていった。出し分けは、自分の気持がベースである。明るくおおらかな気持で声を出せば、ア的な音になる。強く自分を主張したい時はイ的な音になる。甘え訴えたい時はウ的な音になる。自分の存在を示したい時はオ的な音になる。言葉の音を聞いた方も、自分が発声した時の気持を覚えておれば(無意識裡に覚えている)、発声した人の気持が分かる。逆に、ミラー細胞によって相手の気持が分かれば、音と気持とが結びつく。このようにして、気持と音との結びつきが一つのパターンに収斂していく。幼児は母親の発声する音を真似ながら、自らも発音体感を経験して、音と気持の結びつきを覚え、その言葉の音の使い方を覚えていく。これが言葉の音の始まりだろう。

言葉の音は気持の表明として生まれた。その言葉の音が意味と結びつくことによって言葉へと成長していく。最初、言葉の音が意味とどのように結びついていったか。最初はたまたまかもしれない。また、いろいろな結びつき方があったであろう。たまたま相手の注意を引くために‘ア’と言った。相手は視線の先を見て何かを認めた(指さしたかもしれない)。最初は全てのものが‘ア’だったかもしれない。自分も‘ア’、相手、すなわち‘あなた’も‘ア’、‘あれ’も‘ア’だったかもしれない。やがて、言葉の音も区別されていき、指し示す対象も絞り込まれ、‘吾’になり、‘我’になっていった。‘あなた’、‘あれ’、‘あそこ’というような言葉も出来た。
一方、‘ア’は存在そのものを表すようになり、‘アル’を意味するようになった。この存在の‘ア(A)’を否定するために(N)を付けて‘な(Na)’が出来た。この場合、日本語では存在そのものの否定ではなく、目に見えないというニュアンスと思われる。それ故、これらの音を使って‘生る(NaRu)’、‘穴(ANa)’、‘中(NaKa)’、‘何(NaNi)’などの言葉が出来たと思われる。‘なる’とは‘ない’ものが‘ある’状態になることである。また、穴の中に入れば‘なくなる’のである。さらに、見えないものは‘何?’となるのである。この‘何’から‘なぜ’、‘なぞ’という表現も出来た。
また、ア的な音は新生児が最初に出す音でもある。乳幼児がお母さんのオッパイを飲みながら声を出そうとすればマ的な音になる。口に含み息を鼻に漏らせばマ的な音になる。赤ちゃんの最初の言葉は‘ウマウマ’的な音である。ここから‘ママ’が出来、日本語では食べ物をねだる‘マンマ’という言葉が出来た。
この様に本来言葉の音は意味以前に気持ちを反映している。そして、意味も気持から派生したものであった。しかし、ソシュールは言語学の第一原理として「音と意味との恣意性」を宣言した。この原理はランガージュの中のパロールを除くラングのみについてのものであるが、その後これがいかにも言語全体についてのもののごとく喧伝され、そのように信じられてきた。このことが示しているのは、欧米においてはこの時すでに、言葉の音とその意味との背後にある感覚的なものが感じられなくなってしまっていたということである。
英語にも、言葉の音の感覚的ニュアンス、すなわち語感から出来たと思われる単語はたくさん残っている。しかし、人々はその結びつきが感じられなくなってしまっている。九州大学名誉教授の西原忠毅先生は「音声と意味(SOUN and SENSE)」に於いて数多くの具体例を挙げておられる。
一方、日本語においては、今なお語感は生きている。人々は日常生活において語感をベースに気持ちのやり取りをしている。
なぜ、欧米語では語感が忘れ去られ、日本語においては今なお語感が生きているのか。表面的には、欧米語が子音中心で情報交換中心の言語になり、日本語が母音中心の気持を伝えることを大切とする言語であり続けたからである。
人類は言語の発明に加えて、その言語を記録しておける文字を考えだした。この文字の発明によって言語の持つ情報伝達の機能が大幅に強化された。文字によって時空を超えた情報伝達機能を獲得したのである。記録物を運ぶことによって空間的距離を克服するとともに、記録物を次世代に残すことによって時を超えることが出来るようになったのである。そして、情報の世代を超えた蓄積が文化を生み人類の文明を生み出したのである。人類の‘知’の側面は情報伝達機能としての言語に負うところが大きい。近代科学文明を主導した欧米に於いて、言語の情報伝達機能のみが重視されたのも故なしとしない。
「ことばの起源(Grooming, Gossip and the Evolution of Language)」(ロビン・ダンバー)では言語の起源を猿時代の毛づくろいに替わる噂話のおしゃべりだとしている。猿の群れは群れが大きくなるほどその成員の安全は増し、一方群れが大きくなるほどその構成員のストレスは増す。そこでそのストレスをなくすために互いに毛づくろいをするのだが、群れが大きくなりすぎると毛づくろいをし切れなくなる。そこでこの毛づくろいに替わるものとして登場したのが言語による噂話なのだと言うのである。類人猿・猿たちの群れの大きさと脳の新皮質の大きさが比例しているとか、言葉のしゃべれないチンパンジーなど類人猿にも初期の‘心の理論’が認められというような貴重な知見も得られるが、ゴシップを情報交換としてのみ捉えているように見えるのは残念なことである。成程、噂話は毛づくろいに相当するものかもしれない。しかし、その噂話は話の中味、すなわち情報に意味があるのではなく、一つの話題を取り上げ互いに共感し合えることに意味があるのである。中味は、すなわち情報はどうでもいいのである。互いに共感し合えるものであればいいのである。共感が主目的であって、噂話は‘情’の問題であって‘知’の問題ではない。欧米の学者は‘知’の側面のみを見て‘情’の側面を見ない傾向がある。コミュニケーションについても、これを情報交換としてのみ捉え、ヒューマンタッチとして捉えていない傾向がある。ヒューマンタッチこそ毛づくろいなのである。
日本語にはヒューマンタッチが残っている。言葉の音で互いの心に触れ合っているのである。

日本語に語感が顕著に表れるのは、感嘆詞、間投詞、オノマトペオノマトペ的副詞、そして助詞においてである。
日常会話においては、短い単語、助詞、特に終助詞に現れやすい。
語感とは何か。
言葉の持つ意味以外のニュアンスという言い方が多い。ただこれだと、ソシュールが心配したように私秘的なもの、例えば個人的な思い出の様なものすら入ってくる。少なくとも、音に絞って、言葉の音の持つイメージとしたい。もちろん、このイメージは意味に対してニュアンスとして効いてくる。
この言葉の音の持つイメージにしても二種類ある。
一つは、言葉の音一つ一つの発音時の体感に由来するイメージ、すなわち言音感である。
二つ目は、音の似た他の言葉の持つ意味、イメージからの連想からくるイメージである。言葉全体からの連想であるから語音感である。
言音感、語音感、あわせて語感という。
言音感は発音体感であるから基本的に言語による違いはなく、語感の根幹部分をなすものである。
語音感は他の言葉からの連想であるから言語によって異なる。言語習慣、広い意味での文化によっても異なるだろう。日本語では生理現象に伴なう音、‘ゲ’は‘ゲロ’、‘ゲップ’を連想させ、汚らしさのイメージがあり、下品(ゲ・ひん)な音と感じられる。フランス語では日本語の‘ウーン’は生理を連想させ嫌われるようだが、日本語では‘うなる’、‘うめく’のように内からなる表出として必ずしも否定的には受け止められてはいない(ウハウハ、ウキウキ、うれしい)。
言音感は発音体感であるから上品・下品、好感・嫌悪の区別はない。どの生理音を嫌うかは文化の違いである。
言音感と語音感の違いも必ずしも明快ではない。他の言葉からの連想の場合も、連想元の言葉が言音感から直接出来ている場合もあるからである。この場合は他の言葉の言音感が元の言葉の言音感に混じり込んでくるのである。
言音感と語音感を余り厳密に区別する必要はなく、語感と考えればよいと思う。ただ、二種類の出来方があることを認識していればよい。
ただ、学問の世界で連想にのみ気を取られて根本の言音感、すなわち発音体感に気付いていない研究者が多見されるのは残念なことである。

言音感も語音感もイメージであるから、クオリア状態である。多義的というよりは個別の言葉では表現しきれない重層的なニュアンスを持つのである。当然アナログである。
しかし、表現するには、デジタルな言の葉に切り出して並べるしかない。アナログをデジタルにするしかない。当然、多義的となる。言葉の意味としては、この多義の中から選択的に利用される。選択はたまたまかもしれない、しかしベースは納得性である。残りの多義はニュアンスとしてその言葉について回る。

日本語の‘ア’の発音は、口を大きく開け、舌を下に低く、息を外に広がるように出す。それに伴う気持・口腔体感は、オープン、明るい、おおらか、淡い、などであるが、ここから出来たと思われる日本語には、開けた、明るい、淡い、があり、これらから派生して出来たと思われる表現として、朝、赤、秋、天(アマ)、があり、さらに、天(AMa)から雨(AMe)が出来たと思われる。一方、最も自然に口に出る音であることから、物を指し示す音となり、吾、我、アレ、が出来、存在そのものを表す動詞‘アル’が出来た。ここから‘ア’には実在感が感じられるのである。
日本語の子音/K/の発声は、喉の奥を固くして締め、そこを軽く破裂させて息を口腔内に流し込む。流れる息は皮膚表面の水気を奪いながら回転する。ここから/K/には、固い、軽い、乾いた、回転、そして、薄い、あるいは、小ささのイメージが出る。母音/a/と一緒になって、固い、軽い、乾いた、という表現が出来、母音/i/と一緒になると、キレが感じられ、キレる、キラキラなどの表現が出来、母音/u/と一緒になると、喉を絞められたような苦しさが出てくる。母音/o/と一緒になると、小さな纏まり感が出てきて、カワイさも感じられる。‘カラカラ’、‘キリキリ’、‘クルクル’、‘コロコロ’となるとすべてに回転のイメージがある。/Ke/に回転のイメージが出ないのは、/e/に平らに引き延ばすイメージがあって回転と矛盾するからである。母音の違いによって回転の態様が異なっている。母音の持つイメージによるのである。ちなみに、英語の‘curve’、‘curl’などは、回転の曲がるイメージを反映した言葉ではないだろうか。

日本語は、表記に関しては、仮名漢字混じり文、すなわち表意文字と表音文字の入り混じり表記である。視覚文字、聴覚文字の入り混じりである。
言語としては、語感、すなわち触覚を含んでいるから、視覚、聴覚、触覚を要する言語である。また、言い方を変えれば、コト(情報)と気持、すなわち‘知’と‘情’を合わせ伝え得る言語である。このような意味で、日本語はスパー・ハイブリッド言語である。
日本語はデジタルではない。
デジタルな言語の典型は、数式とコンピュータ言語であろう。共に書き言葉であるから、表意文字だろう。
英語はデジタルを目指して変化してきたように思われる。このまま進むのだろうか。書き言葉としてはいいとしても、話し言葉としてはどうだろう。そろそろ限界ではないだろうか。デジタルな近代科学も限界に近づき、アナログな科学に脱皮しようとしている今、英語の一部日本語化が必要なのではないだろうか。Google mapとポケモンがコラボしたように。

言語がそう簡単に変えられるものかどうか。「ことばの起源」の中で、著者のロビン・ダンバーが面白いこと言っている。「(現在の世界の主要言語が)おそらく紀元前約一万三千年頃に発生したノストラチックと呼ばれる大語族からの派生語である・・・」とした上で、現在世界には6000余りの言語があるのだと言う。すでに、廃れてしまった言語もあるから、一万五千年程の間に六千以上の言語に分散したことになる。最近の事例としては、ヨーロッパの片隅のイングランド地方の一言語から、英米語はもちろん、スコット語、ニューギニアのピジン英語、アメリカ大都市の黒人英語、カリブ海のクレオール語、西アフリカのクリオ語などが方言として生まれたにもかかわらず、すでに相互で通じなくなりつつあると言う。このように意外に言語は変わりやすく、また、新しい言語が簡単に生まれるのである。

英語の日本語化のステップとしては、いろいろ考えられるが、日常会話において、
○ 日本語表現の一部導入、例えば‘ごめん’という言葉を法律的過失責任を認めた訳ではないという意味の言葉として流通させる。‘I’m sorry.’と言うと過失を認めたということで、後々裁判が起こされた時に不利になるから些細なことでも‘I’m sorry.’と言いにくいというところをカバーするためである。
‘いただきます’、‘ごちそうさま’、‘いってきます’、‘いってらっしゃい’、‘ただいま’、‘おかえり’、‘おせわになりました’、‘おかげさまで’、‘おつかれさま’、‘ごくろうさまでした’などもお薦めの表現である。これらは互いの繋がりを確認し合う言葉である。これこそまさに言葉による毛づくろいである。
○ 日常会話において、終助詞‘ね’、‘な’、‘よ’などを言葉の最後に付け加える。表現が柔らかくなるし、語感に対する感覚が蘇ってくるかもしれない。これらの単拍の言葉には、日本語としての語感が明白に感じられる。‘ね’には、おねだり、お願い、念押しのニュアンス。‘な’には、納得、あるいは、疑問(何?)。‘よ’には、呼掛けのニュアンスが感じられる。‘ね’、‘な’の子音/N/には粘り気、柔らかさが感じられ、親密感を感じさせる。‘よ’の子音/Y/は半母音で、/i/から/o/への変化を一音にしたもので、基本的には母音であるから柔らかい。また、変化を内包しているから柔かい動きも感じられる。
○ 非常にむつかしいことではあるが、本質的なこととして、日常会話において、‘I’、‘you’と言うのを止める。全然なしでは困るだろうから、当面は‘I’、‘you’の代わりにすべて‘we’を使う。‘I tell you.’と言うところを‘We tell us.’と言うのである。どうであろうか。

逆に、日本語を英語化することも考えられる。すでに日本語には英語がたくさん入ってきている。‘ポケモンGO’という言葉の元はすべて英語である。Pocket, monster, goすべて英語である。遊びとしては、見つけたポケモンにボールを投げてゲットするのであるが、ball, getともに英語である。パワーを上げるアイテムをポケストップで購入してジムで戦わせるのであるが、ポケストップは和製の言葉である。英語ではこのような言葉の作り方はしない。ストップはコンビニのミニストップからの連想かもしれない。
日本語は外来語を取り入れやすい稀有の言語である。古来中国から漢語を取り入れ、わがものとし、明治期には和製漢語を中国に逆輸出するまでになった。ポルトガル語、イスパニア語も輸入した。
日本語が外来語を取り入れやすいのは、日本語が拍を使っての組み立て方式を取っているからである。まず、子音+母音で拍を作り、その拍を繋いで語を作り、作られた語を適当に並べて文を作る。適当に並べてもいいのは、助詞を加えてそれぞれの語の働きを明示できるからである。
日本語はレゴ式の組み立て方式である。基本パーツの拍は、112・3個。すべての外来語の発音にこのレゴブロックのピース、すなわち拍を割り振って日本語化する。また、日本語には表記文字として、仮名・漢字に加えて片仮名がある。片仮名によってすべての外来語を表記できる。また、片仮名であることによって新しい外来語であることも分かる。
このように日本語は柔軟性の高い言語なのである。その分扱い方によっては曖昧な言語となる。高度な取り扱いを要する高級な言語なのである。

将来、英語の日本語化、日本語の英語化が進めば、話し言葉は日本語、論文、契約文書は英語という形はないだろうか。理想的と思うが難しいだろうか。
ちなみに、現在の日本国憲法を読んでもさほど感じないが、原文の英語文を読むと、論理的飛躍などその幼稚さがよく分かる。これが、英語の長所でもあり、また、反面日本語の短所でもあり長所でもあるのだろう。それぞれの長所をどう生かすか。われわれ日本人にとっても、世界の人々にとっても工夫の為所であると思う。

日本語人は虫の声を言語脳で聞くが非日本語人は言葉としては聞かないという研究がある。海外はもちろん国内の学界でも未だ認知されてはいないが、脳の働きの検査技術が進化して、いずれは証明されると思うが、私は十分ありうることだと思っている。日本語には、吾、意、鵜、柄、尾など単母音の言葉があり、日本語人は単母音を言語として聞くが、非日本語人は単母音は言語としては聞けないらしい。虫の声を始め自然の音は母音に近い。ともに共鳴音だからであろう(子音は共鳴音ではない)。日本人は風の音にも声を聞く。日本人は自然とも会話が出来るのである。日本の俳句は自然との会話なのかもしれない。道端の野花に話しかける人もいる。それを見かけた人も変な人とは思わずにほほえましいとすら思う。日本人と自然との近さである。

虫の声を言葉として聞くこと、すなわち、自然と会話することを世界に広めるのも一つの方策である。
母音を聞くようになれば、語感も分ってくるだろう。
オノマトペを広めるのも有効かもしれない。
オノマトペを医療診断に使う手もある。
頭が痛いという患者に「ピリピリと痛いですか、ジンジンですか、ズキズキですか、ガンガンですか?」と問えば、傷害の態様が分りやすいのではないか。ただ、そのためには患者、医者の双方に語感の分る感性が必要である。
いかにその感性を海外に広めるか。マンガとのコラボも効果があるかもしれない。
日本のマンガには独自の効果音がよく使われている。
マンガは感覚的である。当然アナログ的である。
オノマトペも感覚・感性的である。言語の中ではアナログ的である。
入り口が視覚と聴覚ではあるが、相性がいいのではないか。しかも、補完性が強いと思う。
世界に向かって、オノマトペの入門書、あるいは解説書をマンガで作ってはどうだろう。
誰かやってくれませんか。日本の文化を、日本語を、そして日本人を世界に理解してもらうために。そして、それが世界の人々のより争いの少ない共生へと繋がる一つの道だと思います。より自然を壊さず、人間性を破壊せず。
     (平成28年8月5日)

   言語 と 文化 と ものの考え方  

サピア・ウォーフの仮説として、「言語が文化を規定する」という考え方がある。
私は、「文化も言語を規定する」と思う。互いに互いを規定しあう、相互関係にあると思う。
どちらが先かは、ニワトリと卵の関係だと思う。
ただ、ある一つの言語のもとに生まれた子供は、その言葉を覚えることを通じて‘ものの考え方’を身につけるので、言語が先といえるかもしれない。
この我々日本人にとっては当たり前のサピア・ウォーフの仮説を、否定あるいは疑問視する学説が欧米にはある。言語、あるいは、文化の普遍性を固く信じているからであろう。あるいは、普遍的であるべきだと思っているからかもしれない。
なぜ、そうなるのか。
それは、彼ら欧米の学者は、欧米の言語でしか、ものを考えられないからである。
アメリカ先住民の言葉を取り上げようと、時には日本語を取り上げようと、欧米の考え方でしか考えられなければ、アメリカ先住民の文化の本当の姿、日本人の‘ものの考え方’の本当のところは分かるはずがない。
言語、例えば、日本語を、日本文化の本当の姿が分かっていない欧米的考え方で、見ようとするから、日本語の一部しか見えないし、それもゆがんでしか見えない。
日本語が論理的でないとか、主語が略されて曖昧であるとかの言説は、欧米的物差しで日本語を見ているからである。非論理的な言葉を使って、これほど活発に、しかも円滑に商取引が行われてきた訳がない。常に略して話が通じるのなら、それはもともと必要ではないということではないだろうか。
日本人の‘ものの考え方’には、必ずしも主語が必要ではない。(もちろん、日本語にも)
「いいお天気ですね」の主語はなにか。わざわざ、意味もない‘it’を入れなければならないシステムの方が非合理ではないだろうか。
 文化、言語を、無理に普遍的と考えてはいけない。少なくとも日本語と欧米語では本質的に異なる。
 欧米の文化、言語こそが本来のものと考えるのは一種の原理主義である。(‘ものの考え方’を含めて)

   言語 と ものの考え方  

文化は言葉によって作られた。言葉は文化によって作られた。
どちらが先かは分からない。言葉は文化である。
思考は言葉によって可能となった。言葉は思考から生まれた。
思考と言葉もどちらが先かは分からない。
言葉のない思考はありうるのか。チンパンジーは思考するのか。
思考という言葉の定義の問題でもある。
言葉の誕生によって、思考は新たな発展が可能となった。
言葉のない思考と言葉を得た思考は質的に違うのではないか。発展段階のステージが違うということではないだろうか。
チンパンジーは、感じはするだろう。思いもするだろう。しかし、思考するとは言いがたい。(これも定義の問題ではあるが、)

言語が違えば文化も異なる。文化が違えば言語も異なる。
日本語と欧米語は本質的に異なる。
日本文化と欧米文化は、随分と異なる。

文化の違いの根底には、‘ものの見方’の違いがある。一人の人間にとって、最も重要な‘ものの見方’は、自らの捉え方である。自分と自分の周りのものすべてとの関わり方についての考え方である。すなわち、自分と自然との関わり方についての感じ方である。これが最も重要な‘ものの考え方’である。
日本人は自分も自然の一部と感じている。そして、自然=ありのまま(自然に対して素直) を一番と考えている。だから、不自然を最も嫌う。不自然なものをいかがわしいとすら感じ、軽蔑する。
日本人は、自然に対する態度として、自然と共に生き、自然の恵みに感謝しつつ、いかに自然を生かせるかを常に考えている。
ちなみに、大方の日本人は、努力すること、働くことを自然なことと考えている。だから、働けることを幸せとすら感じている。(生物にとって、生きることは環境に働きかけることであって、働くことはごく当然で、自然なことなのである。また、ものを作ることは、自然に働きかけ、自然の力を引き出すことである。だから、日本人はもの作りにこだわり、それに喜びを感じるのである。)
欧米人は、自分は自然とは別の特別なものと考えている。人間は自然より上にあると考えている。
だから、人間にとって、自然は対決するもの、そして、征服するものと思っている。
したがって、自然のもの、ありのままを了とせず、必ず、人の手を加えようとする。(例えば、白木の木肌を愛でるのではなく、ペンキを塗ってしまおうとする。また、庭園は地形を生かすのではなく、左右対称・シメントリーの配置にしてしまう。)
この自然に対する姿勢は、日本人と欧米人とでは、対極にあるとすらみえる。
‘ものの考え方’が対極にあるとすれば、文化も対極にあるということにならないだろうか。

日本語は母音を残している。いや、むしろ、母音が中心である。
母音は口腔・鼻腔を共鳴させて出す、より自然な音である。
子音は口腔内外を無理やり動かして出す障害音で、それぞれ単発の音である。それぞれが特徴のある人工音である。(日本語的にいえば不自然な音)
母音は自然に出せる音であるから、気持ち・心情を表現しやすい。ただ、それぞれの母音が音として色々なイメージをもっており曖昧ともいえる。(情報が豊富ともいえる。)また、連続して変化させることも出来、アナログ的ともいえる。
子音は、それぞれ特徴があり物性感を出しやすい。(例えば、S は流れる感じ、N は濡れて柔かく粘る感じ、など。)
子音は連続して出すことが出来ず、単発音であり、デジジタル的といえる。
母音はアナログな自然音で、気持ち・‘情’を伝えやすい。
子音はデジタルな人工音で、‘知’を表現しやすい。
日本語はこの母音が中心で、気持ちを伝えやすい。そして、伝わる情報も豊かである。
英語は子音が中心で、ものごとを明確に指し示すことができる。論理の言語である。

日本語は、現場の言語であり、当事者の言語、主観の言語である。
また、言い換えれば、状況の言語である。状況の流れに従って主語的なものも変われば、文の構造も変わる。加えて、その場の情報は、その場の全員承知が前提であるので、会話の表面には現れてこない。

四・五人の集まりで、お昼を何にしようかということになって、
「僕は、カレー」
と一人が言えば、もう一人が、
「僕は、帰る」
と言った。一見、二つの文章はよく似ているが、構造としては、全く異なるのである。英語に直訳してみるとよく分かる。後の文は英語になるが、前の文は英語にはならない。英語に訳するとすると、「僕が食べたいのは、カレー」として訳すしかない。しかし、「僕は、カレー」は「が食べたいの」を省略したわけではない。「僕は、カレー」で立派な日本語なのである。(無理やりにでも省略形であるとするのは、欧米的考え方に囚われているからである。あえて省略形であると考えるとすれば、その元の文章は「今この場のテーマのお昼を何にするかということに関し、私については、それはカレー。」ということになるのではないだろうか。)

明日のゴルフを相談していて、
「雨なら、やめとこ」
ということになった。これを英語に訳すとどうなるか。
「If it rains tomorrow, we will stop to go to play golf.」
ということになるのであろうか。日本語には、‘it’も‘tomorrow’も‘we’も‘go to play golf’もない。それは、その場として自明のことだからである。特に、‘we’に当たる言葉を使うことはない。今、現に我々が話し合っているのであるから、当然のことで、わざわざ言葉として‘we’が入ってくることはない。入ればむしろ不自然となる。
ただ、同じようなグループが他にもあって、それぞれ明日のゴルフをやるかどうか決め兼ねている状況においては、
「雨なら、僕らはやめとこか」
という表現になり、‘we’が入っても不自然ではなくなる。
では、どうして英語では‘we’が必ず入るのか。‘it’も‘tomorrow’も‘go to play golf’も必要なのか。
それは、英語が状況から独立した客観的な言語だからである。現場の言語ではなく、したがって、状況を包含した言語ではないからである。だから、いちいち状況にも言及しなければならないのである。 また、主体も明示しなければならないのである。

英語は状況によって変化しない絶対論理の言語である。(直線論理)
日本語は状況によって自在に変化する相対論理の言語なのである。

英語は舞台で操り人形を操っている感じである。自分も人形として客観的に踊らせているので、いちいち‘I’とか‘you’とか‘it’と言わなければならないのである。
英語は舞台のセリフのようなものである。言葉の意味とレトリックによって聴衆を動かそうとする。
日本語は現場の言語である。主体である自分が中心である。だから、当事者同士で、‘I’とか‘You’とか、あえて言わないのである。言うとむしろ不自然になる。
日本語は説得の言語ではなく、共感を期待する言語なのである。英語は説得のための言語である。
日本語は分かり合う言語であるが、英語は分からせるための言語なのである。

では、なぜ、日本語は現場の言語となり、英語が舞台のセリフのようになったのか。
それは、日本語が仲間内の言語として発達し、英語が対外的説得の言語として発達したからではないだろうか。
言語には、民族の歴史も反映されている。
例えて言えば、日本語は一つの壷の中で醸成されて出来たのだろう。途中、幾度か他の言語もこの壷の中に放り込まれた。しかし、壷は大きくは壊れず、放り込まれた言語も互いに混じりあい、やがて、融合して一つになっていった。
一方、欧米語は、いろいろな壷がぶつかり合い、壷もゆがみ、中身もいろいろと混じりあい、未だ熟成しえていない状態なのではないだろうか。今、英語を話している人々の先祖が英語を話していたわけではない。そもそも、英語自体新しい言語ではないだろうか。片や日本では、1000年、いや2000年以上前からのヤマトコトバが今も日本語の中核をなしている。
(われわれ日本人の大半は、1000年以上前に作られた万葉集、古事記を読むことができるし、それを理解し共感することすらできる。)

言葉は、そもそもは仲間内のコミュニケーションのために誕生したのではないだろうか。日本語は、幸いにも外敵の侵入もなく、そのまま仲間内の言葉として成熟していったのではないだろうか。そして、共感のための言語となり、‘情’の深みを伝えうる言語へと成長していったのではないだろうか。結果、ツーとカーで話が通じ、阿吽の呼吸と、極限まで言葉を短くするのを理想とするまでになった。
一方、余りにも異なる言語同士が、あるいは、異なる考え方の者同士が激しくぶつかり混じり合う環境では、言語は‘情’的なものは捨て、説得のための言語として、レトリック中心の言語へと先鋭化していったのだろう。その結果、母音を捨て、子音を中心に直線論理を重視する言語へと進化していったのだろう。
異なる文化同士では、すべてを前提とすることは出来ず、いちいち、すべてを言葉にしなければならず、その結果、舞台のセリフのような言語になったのだろう。常に、権利関係を明確にするために、デジタルな子音を中心に言葉を作り、‘I’と‘You’を常に明示し、論理も単純平明な S・V・O 文法として、レトリックを重視した言語になっていったのだろう。
日本語は、母音を中心とした当事者の言語で、‘情’を伝えうる共感のための言語である。
英語は、子音を中心とした客観の言語で、‘知’に偏った、説得のための言語である。

英語と日本語をお酒に例えれば、英語はウイスキーで、日本語はワインである。
いうまでもなく、ウイスキーは蒸留酒、ワインは醸造酒である。蒸留酒は一旦醗酵させたものを蒸留しアルコール度を上げている。このアルコールが言語の‘記号性’に当たるものだろう。
一方、純度を上げるということは、その他のものを捨てることである。ワインにはウイスキーにはない深い味わいがある。この雑な部分が言語の‘情’の部分だろう。‘記号性’という観点から見れば、ウイスキーは純度が高い、しかし、味わいということになればワインの方が深みがあるといえるのではなかろうか。
ちなみに、日本酒は醸造酒、日本人の好きなビールも醸造酒である。

   日本人の宗教  

欧米文化では、日本人の宗教意識が理解できない。しかし、宗教は文化の主要な部分である。
欧米で日本人が何かの公的な書類を出さなければならないことがあるが、その書類に‘RELIGION’なる項目がある。日本人はつい‘No Religion’と書いてしまう。通常の日本人は何か特別の宗教を信じているわけではない。だから、‘No’と書いてしまうのだが、これを欧米の人々は野蛮だと思うようである。
大半の日本人は初詣に行く、お葬式もする、お墓参りにも行く。‘No’と書いた人々もそうである。
日本人にも宗教心はあるのである。特定の宗教、神道とか仏教とかの信者ではないだけである。

日本人に一神教の信者は少ない。むしろ、一神教の信者を狂信者的に感じている。一つの神を、それがイエスにしろ、仏陀にしろ、ヤハウェイにしろ、絶対的に信じるのをむしろ奇異にすら感じている。
日本人は同じ人間が、天照大神を拝み、仏様も拝む、時には、逆賊平将門をお祭りしている神社にも参拝したりする。
欧米人には、このような日本人はいい加減にみえる。一つの神をしっかり信じず不道徳にすらみえる。
(このあたりは、変幻自在の状況の言語と形に厳格な直線論理の言語の違いに似ている。)
しかし、日本人は公衆道徳を比較的よく守る。大災害時にも、秩序を保ち、互いに助け合いもする。
これを国民性とするが、これが文化である。(しかも、欧米的義務としてではなく、ごく自然な気持ちとして)
日本人は自然とも一体感を持っているが、周りの人々とも濃淡の差はあれ繋がりを感じている。それだけではなく、先祖とも繋がり、子孫とも繋がっていると感じている。(そもそも日本人は人間も自然の一部と感じている。)
日本人は、具体的な神ではなく、誰かがいつも見守っていてくれるという感覚を持っており、これが、恥の文化ともなり、陰徳の思想ともなっているのである。
この誰かは、亡くなった父であったり、ご先祖様であったり、鎮守の森の神様であったり、あるいは、すべての神様のその奥にある何か絶対的なものであったりする。
日本人は特にそれを何と特定しているわけではなく、何となくそのように感じているのである。これが日本人の宗教心である。そして、これを一人の人格神に絞り込むのは不自然と感じるのである。
しかし、この世の中には、よく分からないこともある。すべてが科学的に分かるわけではない。これもまた自然なことである。だから、日本人は分からないことがあるのも当然のことと考える(自然なことと)。そして、その分からないものも分からないまま受け入れる。(ありのまま)
日本人は具体的人格神はありえないと思っている。特定の絶対神Aがいて、別に絶対神Bがいるのはおかしいと感じている。神Aが奇跡を起こそうが、神Bが奇跡を起こそうが、それが事実であっても、神A,神Bを信じるのではなく、神A,神Bの奥にある何ものかを信じるのである。
そもそも、絶対神Aと絶対神Bが同時に存在するわけがないと考える。論理矛盾だからである。
日本人は具体的人格神を信じていないが、代わりに、かえって常に身近に何か絶対的なものの存在を感じている。そして、そのものと繋がっているとも感じている。
日本人の宗教を信じるという行為は、‘知’の行為ではなく、‘情’の行為なのである。
宗教観がこれほど違うということは、文化が本質的に異なるということである。
欧米の文化と日本の文化は本質的に異なるのである。(もちろん、共通の部分もたくさんあるだろうが)
日本人は分からないものは分からないと思う。しかし、分かる範囲は極力分かろうとする。そして、科学的にありえないものは不自然として信じない。日本人は科学をすら自然と考えている。科学とは合理的であるということであり、合理的とは自然だということである。(科学を自然と対立するものと考える考え方がある。しかし、それは科学技術の話であって、‘ものの考え方’としての科学と科学技術とを混同してはならない。)
日本人は無神論者ではない。
初詣もする、お墓参りもする。単なる習慣、形式としてではない。行かないと気持ちが悪いのである。
食事の前に「いただきます」という。ものごとがうまくいけば「お陰さまで」ともいう。ところで、「いただきます」とは誰にいっているのか。‘お陰’とは誰のお陰と考えているのか。
「いただきます」は食事を作ってくれた人にいっているのではない。手を合わせる。手を合わせるのは神様に対してである。
「いただきます」、「お陰さまで」というとき、日本人は、無意識にしろ、神(絶対的なもの、至高のもの)を想定している。
日本人は無神論者ではない。
では、多神教か。具体的な神々をそれぞれ信じているわけではない。
山川草木悉皆成仏  すべてに神が宿ると考えている。
では、アミニズムか。単純なアミニズムでもない。
なにごとが おわしますかは 知らねども かたじけなさに涙こぼるる
吉田兼好が伊勢神宮で詠んだという歌である。お坊さんが神宮で涙するという、欧米的に言えばめちゃくちゃな話である。(ここで注意すべきは、‘なにごと’と言っていることである。‘何者’とも‘何人’とも言っていない。人格神的なものを想定しているのではなく、それを超えたものをイメージしているのである。)
日本人の宗教心は、このように仏を越え、神を越えた、あるいは、それらを包摂したものに対するものなのである。
汎神論の一種かもしれない。少なくとも、非人格神論である。一神教を受け付けない。
今ひとつ、欧米的宗教と異なるのは、神が自分と対する者として外側にあるのではなく、自分が神の中にあるのである、あるいは、神の同じ側に自分があるのである。
欧米と日本における、自己と自然の関係と全く同じ関係にある。
    

   日本語は母音を残した。  

母音が残ったことで拍が可能となった。
拍とは、子音+母音 で、必ず母音がある。
あるいは、拍システムであったので、母音が残ったのかもしれない。
いずれにしても、母音と拍システムは密接な関係にある。
日本語が拍システムを採用することによって得た最大の恩恵は、‘語感’を残しえたことである。
もともと言葉は‘語感’から生まれたものだろう。
言語の始まりがクーイングであれ、威嚇であれ、相手に何らかの意図を伝えようとするものであれば、そして、それを声の音の使い分けでやろうとするのであれば、その音の選択は、その伝えたい意図を体現したものでなければならない。
何らかの伝えたい意図があって、それを伝えたいがためにある声の音を出して、そして、その意図が相手に伝わったとすれば、それが人類の最初の言葉だろう。
何らかの伝えたい意図があって声を出すとき、どんな音が出るか。
やさしい気持ちを伝えたいときと、怒りの気持ちを伝えたいときとでは、同じ音では有り得ない。
やさしい気持ちを伝えたいときは、母音だけなら‘ア’的な音になるだろう。怒りの気持ちを伝えたいなら‘イ’的な音になるだろう。
言葉を発し始めた当時の人類の脳の中のミラー細胞がどの程度発達していたのかは分からない。しかし、やさしい気持ちで発せられた音を聞き、その場の状況、相手の態度・表情を見て、あるいは、自分でもその音を出してみて、かって、自分がその音を発音したときの気持ちを思い出して、相手の気持ちが分かるようになったのではないだろうか。
これすなわち、発音体感であり、‘語感’である。
最初の言葉は‘語感’であった。そして、この音が仲間内でも使われ定着することによって、約束事、すなわち意味になっていったのだろう。すなわち、言葉の出来た最初の頃は、意味=‘語感’であった。
最初、言葉が気持ちを伝えるだけであったものが、言葉数も豊富になり、やがて、情報という抽象を伝え、ついには、抽象の極地、論理をも伝えるものになっていった。
気持ち、すなわち‘情’と、論理、すなわち‘知’は、対極にある。ある意味、二者択一的な面もある。
‘情’はアナログで曖昧である。‘知’はデジタルで曖昧を許さない。
母音はアナログで、気持ちを伝えやすい。子音はデジタルで、それぞれ特徴的で分別しやすく、ものごとを厳しく峻別する‘知’の作業には適している。
そして、欧米語は母音を捨てた。子音中心の言語へと変わっていった。
(一神教に変わっていったのも、同じような経緯があってのことかもしれない。)
母音を捨てたことは、気持ち・‘情’を捨てたことであり、結果、‘語感’から離れていったことになる。
‘語感’としては、母音は気持ちを伝えやすく、子音は物性的なものを表現しやすい。
欧米語は‘情’を捨て、‘知’の言語として特化していったのである。
日本語は母音を残した。そして、‘語感’も残しえた。
‘語感’を残したことによって、日本語は二重伝達言語となった。すなわち、意味によって表面の情報を、‘語感’によって気持・ニュアンスを、同時に伝えられるようになった。(もっとも、言葉は元来そうであったが、)
日本語は二次元言語ということができる。加えて、日本語は漢字に裏打ちされており、会話においても、必ず、無意識にではあるが、脳内で字を参照していることから、視覚を合わせると三次元言語ということもできる。(すなわち、3D言語)
もっとも、英語にも‘語感’は残っている。日本語と使い方のよく似た副詞、形容詞などに見られる。
  もっと:more すぐ:soon そう:so 〜で:then(ZEN) ヨオ:Yo
これらは‘語感’を反映している。
  clear clean cool hot smooth soft cut ・・・
これら日本語にそのまま採り入れられた言葉は‘語感’に添ったものが多い。

日本語は、母音を残すことによって、人と自然との一体感を残すことができた。
英語は母音を捨て子音中心にすることによって、人を自然から切り離した。(あるいは、人が自然から切り離されたから、母音を捨てた。)
そして、‘I’,‘You’と言い募ることによって、人と人とのつながりも切っていった。そして、‘個’は確立された。しかし、それは人間にとって幸せなことだったのだろうか。
欧米的考え方で見れば、‘個’の確立は当然のことなのである。
しかし、日本的考え方からいえば、‘個’というあり方は不自然であり、決して幸せなことではない。
欧米的考え方がすべてではない。
人類全体という考え方に立っても、欧米的‘個’の考え方は行き過ぎであり、まして、一神教的考え方には大きな問題があるのではないだろうか。
  
ちなみに、自然界には‘個’という考え方は通用しない。
自然界にあるのは確率の法則(大数の法則)のみである。
生物界に‘個’は存在しない。
一匹の魚は何万という卵を産む。しかし、その何万という卵のうち生き残れるのは数匹にすぎない。ほとんどの卵、あるいは稚魚は成魚になるまでに他の生き物に食べられてしまう。しかし、数匹でも生き残れれば充分なのである。確率の世界である。魚に‘個’の考え方は通用しない。
人間も自然界の一生物に過ぎない。(ここからが欧米的考え方と違ってくるのだろう。)
さすれば、人間にも本質的には‘個’の考え方は通用しないのかもしれない。
ただ、人間だけは違うという考え方もある。では、なぜ違うのか。
人間には心があると、魂があるという。
しかし、心は、生命現象から生まれた意識という現象が生み出した‘自己是認のための’幻想にすぎないのではないか。自我とは、本来自己のためにのみ存在するもので、対外的に主張するべきものではないのではないか。
しかし、人間の性として自己を主張したい。そうであれば、控えめにしろ、というのが日本人的考え方である。
意識(現象)は幻想にすぎない。
心は意識の作り出したものである。したがって、心も自己意識も幻想である。
(幻想だから価値がないといっているのではない。)
幻想の作り出した神は、妄想である。(ドーキンスもそう言っている。)
当然、彼岸、浄土、天国、神の国はフィクションである。
大方の日本人は、地獄も天国も本当にあるとは思っていない。(理性としては)
しかし、天国に行けますようにと拝んでいる。(天国で会いましょうね、とも)

この幻想に過ぎない自己の存在を何とか確認したいとして、西欧では哲学が発達した。‘知’による存在へのアプローチである。
日本では、‘知’による存在の確認ではなく、存在の実体感、あるいは、存在の実証の方向へと進んだ。
実体感の方は、悟りへの修行の道であり、実証は、技を極める道の追求であった。いずれも‘知’の作業としてではない。
悟りへの修業は宗教的行為ではある。しかし、特別の神を必要としているわけではない。本質的には自己との対決、自己内省である。
技を極めるということは、日本人の生活のあらゆる場面で現れる。(こだわり)
ものを作るということは、稲作にしろ、建築にしろ、自然に働きかけ自然の力を最大限引き出すことである。それが、自然を生かすことであり、自分を生かすことになるのである。
精度にこだわるのは、それが自然を最大限生かすことであり、それが自己実現になっているのである。

ちなみに、日本人は工業製品も自然の一部と考え、仲間と考えている。使い古した縫い針の供養をしたりする、工場の作業用ロボットに愛称をつけたりもする。日本刀にも魂を入れようとする。日本人のもの作りに対する態度は宗教的とすら思える。
これは、アミニズムゆえ、というよりは、自然との一体感ゆえ、である。
    平成23年6月24日

   言語 と 文化  

画像の説明

 文明の衝突  

日本の文明と欧米の文明は、今まさに衝突している。
いや、近代以降ずっと衝突し続けている。

衝突などしていないと思われてきたのは、ものごとを欧米の尺度で測ってきたからである。
日本人すらが、欧米の尺度を進んだものと考え、すべてを欧米の尺度で考えてきたからである。
しかし、日本の文明と欧米の文明とは本質的に異なる。素直に日本の文明で欧米の文明を見ると少なからず違和感を覚える。
われわれ日本人は、欧米文明を進んだものとして、すべてを欧米の視点で見るよう教えられてきた。
一方、当然、欧米人には日本の文明の本当の姿は見えていない。異なる文明の存在すら考えてもいない。時折、垣間見えるズレに日本の遅れとして指導しようとする姿勢すらみせる。
日本人には、このズレは昔から見えていた。ただ、われわれは、それを遅れと考え、欧米文明に追いつくべく努力を続けてきた。
しかし、科学技術ではある程度近づけても、本当の意味では同じになれないでいる。

これは、二つの文明が本質的に違うからである。
サピァ・ウォーフの仮説として「言語は文化を規制する」というのがある。これが正しいとすると、言語が違えば文化も違うということになる。
日本語と欧米語は本質的に異なる。欧米語はインド・ヨーロッパ祖語の流れにあるが、日本語は他の言語とは関係の遠い孤立した言語だといわれている。
屈折語とか膠着語とか、構造的な違いがいろいろ言われているが、ここでは、‘ものの考え方’という視点から現在の英語と日本語を見てみたい。
文明の根本的な違いは、‘ものの見方’の違いにあると思う。そして、中でも自分自身についての認識の仕方の違いにあると思う。

そのことに関して、欧米語と日本語の間に面白い違いが見られる。
日々の生活の中で交わされる英語にはあって、日本語にはないものがある。それは、‘I’と‘You’である。
そして、日本語にあって英語にない概念が‘人間’である。
まず、‘I’と‘You’。
‘I’に相当する日本語は‘僕、私、おれ、うち、・・’、そして、‘You’に相当する日本語は‘君、あなた、お前、あんた、・・’だということになっている。
しかし、家庭では父親は子供に対し‘お父さんは・・’といい、子供は父親に対し‘お父さんは・・’という言い方をする。
学校の教室では、先生は生徒に対し‘先生は・・’といい、生徒は先生に対し‘先生は・・’という言い方をする。
加えて、父親は自分の友人には‘僕は・・’といい、職場の上司には‘私は・・’といい、自分の妹には‘お兄ちゃんは・・’というような言い方をする。
一人の人間が、英語で‘I’というべきところで、‘僕、私、お父さん、お兄ちゃん’などと言い分けるのである。
英語の‘You’に相当する部分でも‘君、お前、先生、お父さん、お兄ちゃん’などと変化する。
このように、英語の‘I’,‘You’が絶対的な不変のものであるのに対し、それに対応する日本語は、その場その場で変わる相対的なものなのである。
そして、‘I’,‘You’が自分と相手と、そのものしか表わしていないのに対し、‘お父さん’は子供があってはじめて‘お父さん’であり、‘先生’は生徒がいてはじめて‘先生’であり、‘お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん’もすべて相手との関係性を内包した言い方なのである。
また、‘僕’も‘君(主)’の下僕というへりくだった言い方であり、‘私’も‘公’に対する言い方であり、これらも相手との関係の中での表現なのである。(‘私’よりも‘公’を上と考えている。‘自然’はまだその上である。)
すなわち、日本語には‘I’,‘You’に相当する絶対的な一人称、二人称はないということである。
加えて、日常会話において、英語では‘I’,‘You’を頻繁に使うのに対し、日本語ではそれに対応する言葉を極力使わないということがある。
この‘I’、‘You’の使用頻度の決定的な差も重大である。

次に、英語には日本語の‘人間’に相当する言葉がない。
日本語には、‘人’、‘人間’、‘者’という表現がある。
‘者’は物体的ニュアンスがあるから、‘everybody’の‘body’に相当するだろう。そして、‘人’は‘man’あるいは‘human’だろう。
日本語の‘人間’という言葉は‘人と間’から出来た言葉で、人と人との間柄、すなわち、関係が前提になった言葉である。(もともとの漢語‘人間’は日本語では‘ジンカン’と読み、間そのものを意味する言葉である。‘人間(ニンゲン)’は日本語である。)
‘man、human’が絶対的‘個’を指し示すのに対し、‘人間’は関係性の中での‘個’を指し示すのである。
‘I’、‘You’、そして、‘man’が絶対的な‘個’の概念であるのに対し、‘僕、私、・・’、‘君、あなた、・・’、そして、‘人間’は関係性の中での‘個’の概念なのである。
絶対的な‘個’の概念しかない文明と関係性の中での‘個’の概念しかない文明では、‘ものの考え方’が異なるのは当然である。

一つの文明のもと、幼少時より、‘You’と決め付けられ、‘I’と名乗ることを強要され続ければ、絶対的‘個’の概念が植えつけられるが、当然、‘ものの考え方’も自分中心にならざるを得なくなる。そして、すべて自分の外部は自分に対するものと考えるようになるだろう。自然、すなわち、外部世界すべてから自分は切り離されており、自分は絶対的なものであると同時に個別のものであるという観念が植え付けられる。
この絶対的‘個’という‘ものの考え方’は、自然に対しても依存することを許さず、自然は対決するもの、働きかけ、作り変えていくものと考えるようになる。この考え方が‘作る’という、欧米の根本的考え方に繋がる。また、社会的には‘自主’という考え方に繋がり、‘自由’と‘競争’を当然と考えるようになる。
一方、すべてを関係性の中に表現し、極力、‘I’とか‘You’とかを言わない言語環境で生まれ育てば、‘ものの考え方’もすべて関係性の中で考えるようになる。自己についても、個別のものではあるけれども、お母さんがあっての自分、お父さんがいての自分、お兄ちゃんの兄弟としての自分と考えるようになる。そして、この感覚は、家庭だけに留まらず、友達などの小集団、学校、地域社会へと薄くはなるけれども重層的に広がっていく。これは、いわゆる集団主義とは異なる。むしろ、拡張自我的な感じ方である。
この感じ方は自然に対してもあり、自然は対決するものではなく、自分もその一部であると感じるようになるのである。
‘I・You’文明のもとに育ち、‘I・You’文明的考え方しか知らない人々には、この感じ方、考え方は想像すら出来ないだろう。理解を超えた感じ方で、かって、日本にやってきた宣教師が日本語を‘悪魔の言語’だと言ったといわれるが、それは、この辺りの理解不可能なギャップ故ではなかろうか。

一方、‘I・You’文明とは根本的に異なる‘人間’文明に生まれ育ったわれわれ日本人は、根本的な‘ものの考え方’は‘I・You’文明のそれとは異なるが、教育を通じて科学技術をはじめ‘I・You’文明的‘ものの考え方’も身につけているので、‘I・You’文明的‘ものの考え方’も理解することは出来る。(そういう意味では、バイリンガルではないが、バイカルチュラルなのである。)
ただ、今の近代文明は‘I・You’文明が中心となって作り上げたものであるが故に、日本人も‘I・You’文明的考え方が進んだ考え方で、非‘I・You’文明的考え方は遅れているとして、理性として押し隠す姿勢をとり続けてきた。しかし、内心では違和感を持ち続けてきたのが実情ではないだろうか。

今、世界は一神教的な対立の混乱の中にある。行過ぎた個人主義を捨て、自然とも共生する世界へ戻るべき時が来たのではないだろうか。
そして、そろそろ日本文明の本質を世界へ発信し始めてもいいのではないだろうか。
対決から調和へ。日本文化は‘もったいない’だけではないのである。
世界が‘I’,‘You’と言うのをやめるか、それが無理なら、言葉に情感を取り戻すべく、まず手始めに、日本語の助詞とオノマトペを採り入れてはどうだろう。例えば、
  「We friends ね!」
  「so,so,so だよ。」
などはどうだろう。
西洋の格言に「外国語を習うことは、新しい魂を入れることだ。」というのがあるそうだ。
差し当たり世界に日本語も覚えてもらおう。
日本語はクールなのだから。
     (平成23年1月11日)

 日本語に アイ はいらない。  

あなたは、日常の会話で「私は・・」とか「君は・・」とか実際に口にしたことがありますか。
諸言語の中の日本語の特質を考える際、えてして忘れられがちながら、注意しなければならないことが一つある。
それは、日本語には、大きく分けて二種類あるということである。
話し言葉と書き言葉である。(口語と文語では、少し違う)

そして、ここで特に注意しなければならないのは、話し言葉といいながら文章に書き表すと既に書き言葉になってしまっていることである。例えば、小説などの会話の場面には、日常生活では決して言わないような言い回しがある。最も日常会話に近そうな映画・ドラマのセリフにもそれはある。
「僕は幸せだなあ」なんてセリフを現実世界で本当にその通りしゃべった人がいるだろうか。そもそも「僕は・・・」なんて言ったことのある人が一体何人いるだろうか。
ドラマの中などでは「私は・・」「僕は・・」あるいは「貴方は・・」「君は・・」などと言っている場面はよくある。しかし、現実の生活の中で我々は「私は・・」あるいは「貴女は・・」などと言っているだろうか。
誰かと二人きりのときに、「私は・・」などと言うのは余程あらたまったときだし、「君は・・」などと言うときは、クレームをつけるときか、叱るときぐらいである。
日本語は場の言語である。その会話の場面が前提になっているから、「幸せだなあ」と言えば「私は」であるし、「好きだ」と言えば「君」のことであることが自明であるので、「私は」も「君が」も必要ではない。
必要でないから、この必要でないわかり切ったことをことさら言うと、何か特別のことがあるような印象を与えてしまう。違う意味になってしまうのである。

ところで、日本語の言語学において、このことに関連して、非常に大きな問題が生じている。
日本語の本質を考えるとき、特に日本人の特異性に絡んで考えるとき、その研究の対象は話し言葉でなければならない。(実際に人々が日常使っている言葉でなければならない。)
しかるに、話し言葉と称しながら、小説などの会話を引用するのである。現実の会話ではまず使うことのない「私は・・」「君は・・」式の文を使うのである。
その理由の一つとして、日常会話は不完全だから完全な形に復元して分析する必要があると無意識に考えてしまっていることがある。ただ、ここで問題は何をもって完全と考えるかである。
文法的に正しい、文法的に不完全であるというとき、この文法自体正しいのかという問題がある。
文には主語が必要という考え方は、西洋文法直輸入の最たる弊害である。
日本語では、「私」「君」をあえて入れると意味が変わってしまうのである。

文語ではあるが(文語であるにもかかわらず)、次の有名な文章に主語はあるか、
 ‘春は あけぼの ・・・’
「春」は主語か。主語とすると、春=あけぼの となってしまい、非論理的な文章になってしまう。
(実際、この文章をもって、日本語の非論理性を云々した学者もいたやに聞くが、これは西洋の文法、論理を絶対と考える典型であろう。)
あえて、「あけぼの」の主語はというと、「をかしきもの」ということになるだろう。この言葉は随分離れたところにある。しかも主語の形ではない。ただ、文章全体の主題である。
このように、日本語は、A=B というような単純な論理ではない。
ここで重要なことは、われわれ日本人には清少納言の言いたいことがよく分かるということである。(ということは論理的ということである。論理に外れていれば誰にも通じるわけがない。)

昼下がりの一家団欒の最中、子供が「僕、行く」と言った。この‘僕’は主語か。
「僕、行く」は「僕は行く」と同じか。同じではない。
「僕は行く」には「僕は行くけど、皆さんはどうする?」のような「僕に限っては」という‘僕’を強調するニュアンスが強い。
したがって、通常の場合は、「僕、行く」「僕、行くよ」「行くよ」的な言い方をする。
そして、‘僕’は主語ではない。僕に焦点を合わせてくださいというようなニュアンスである。
自己を主張する‘僕’ではなく、全体の中での‘僕’、あるいは、客観的存在としての‘僕’と言っているのである。
「僕は行く」あるいは「僕が行く」には自己主張的ニュアンスが非常に強い。

生まれて間もなくの赤ちゃんに若いお父さんが顔を覗き込みながら「パパだよ」と言っている光景はよく見かける光景である。
この場合の「パパだよ」は、「私がパパだよ」あるいは「私はパパだよ」の省略形ではない。
あえていえば、「ここにいるのがパパだよ」あるいは「これがパパなんだよ」というニュアンスである。(したがって、小柳ルミ子の「今日は、赤ちゃん」はありえないフィクションである。)

職場で上司が花瓶が壊れていることに気付き
「コラ、誰が壊したんや」と言った。
このときのありうる返事は、
「スンマセン、僕です」や「アイツです」である。
‘僕’も‘アイツ’も主語ではない。実際の会話では返事として、
「僕が壊しました」とも「アイツが壊しました」とも言わない。

「コラ、誰が壊したんや。お前か」の場合の「お前か」も
「お前が壊したのか」ではなく「壊したのはお前か」である。
‘お前’を主語にしないのである。
このときの返事も
「スンマセン、僕です」か「いいえ、違います」である。まず、
「僕が壊しました」とか「僕は壊していません」のように主語で返事をすることはない。
基本的に日本語(話し言葉)には「私は・・」も「君は・・」も必要ではない。
(付けると別の意味合いになってしまう)

この「私は・・」「貴方は・・」式の日本語でない日本語を使って日本語を論じている学者をよく見る。当然、そこでの議論は空理空論である。                                     
実際に日常使われることのない言い回しは、死んだ言葉である。
死体を解剖しても人間の生き方は分からない。
生きた人間の日々を観察してはじめて人間の生き方が分かるのである。
日本語の本質を考えるには、実際の日常会話を対象としなければならない。(主語のない日本語を)

日本語には‘I’も‘You’もいらないのである。
英語では‘I’や‘You’がないと文が成立しない。
英語の会話では、常に‘I’とか‘You’と言いながら個の存在を確認し合っているのである。個人主義的考え方が定着するのは当然である。
常に個を確認し合っている言語と、‘I’とか‘You’とか、あえて個人を言わない言語のいずれが互いにやさしいか。
私は、場を前提として、あえて‘私’とか‘君’とか名指しで言わない日本語の方にやさしさがあると思う。(直接照明と間接照明、どちらがやさしいか。これも日本的感性か。)
日本語に‘I’はいらない。しかして、日本語には‘愛’がある。
    (平成22年8月9日)

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