新しい言語学

言語

 コトバの本質  

 ソクラテスは 「クラテュロス」 の中で 「正しい名前とは何か」 という問いに、そのものの本性をよりよく表すものだとして、オノマは肖像画のようなものだと言っている。
 すなわち、コトバは声による対象の模造品のようなものだと言っている。
 また、声による身振りのようなものだとも言っている。大きなものを表わすため、身振りなら、両手両足をいっぱい拡げてみせるとか、両手で空に大きく描いてみせるとかする。
 ソクラテスは、紀元前400年頃、すでにここまで分かっていたのである。

 これを声で表現するには、まず、大きな声を出すかもしれない。しかし、小さな声でも、これをしなければならないとすると、声を落として、口を大きく開けて /a/ と発声するかもしれない。それが空の大きさ、海の広さではなく、物の大きさとなると、口の中を大きくして /o/ と発声するかもしれない。

 このように、コトバの最初は、ものの属性を声の音、すなわち、発声の仕方で模したものだったろう。

 コトバの始まりがグルーミングだとすると、自分の気持ちを声で表わそうとしたのだろう。相手に対し、他意のないこと、好意を持っていることを表わそうとすると、一番のびのびと自然で、やさしく、温かい /a/ 的な発声になったろう。少し主張的なものが加わると /i/ 的な発声になったかもしれない。 /u/ 的な発声になると、自分に関心を引きたいのかもしれない。 /e/ 的な発声はおねだりかもしれない。 /o/ 的な発声は、ちょっといばっているのかもしれない。

 コトバの始まりが威嚇であるとすると、鋭い子音を使うだろう。 /ki/ はもっとも鋭いがやや線が細い。もっと強くみせたいときは、 /ka/ と言ったかもしれない。 /ku/ になると内向してしまい、  /ke/ になれば引き下がり、 /ko/ になればパワーがあるが篭ってしまう。 /pa/では軽すぎるので、濁音にして /ba/ あたりは、脅すのにいいかもしれない。 /ga/ になるともっと固さが加わり荒々しさが出る。 /do/ になると重量感がでて存在感が強くなる。

 このように、そもそものコトバの本質は、ものごとを声の音で表わすこと、すなわち、見立てて見做すことである。
 ものごとという次元の違うものを、声で見立てて見做す。この見做しがコトバの本質である。

 声の音の何で見做すか。それは、声の音が持っている色々なイメージ、例えば、柔らかい、明るい、小さい、冷たいというような物性的イメージの一部を使って表わすのである。心理的表現も、そこに気の進まない感じがあれば、重さを感じさせる音、暗さを感じさせる音、粘りを感じさせる音などを使って表現することができる。  ‘トボトボ’ ‘ノロノロ’
 逆に、喜んでする表現には、前向きな意志を感じさせる音、軽やかな音、さわやかな音などを使い、 ‘イソイソ’ ‘ウキウキ’ などと表現することが出来る。

 このような聴覚と触覚などとの関係は共感覚といえるかもしれないが、語感は、そもそもは発声体感からきており、音韻を介しての体感の記憶である。したがって、脳の中の角回での各感覚野への回路の交接に伴うといわれる共感覚とは少し違うようにも思われる。

  声で真似をするとはどういうことか。  

 大きなものには大きな声で対応するのか。
 最初はそうしたかもしれないが、そのうち技術革新が起こったのだろう。小さな声でも大きなものを表わせるようになった。
 口の格好だけを大きくさせるのである。
 口を大きく開ければ、ひらけた大きさ。(/A/)
 口の中を大きくすれば、ものの大きさ。(/O/)
 口元にぐっと力を入れて発声すれば、強い意志・意欲を伝えることが出来る。(/I/)
 コトバを聞いて、口元を見て、何かを感じ取れるのはミラー・ニューロンの働きなのかもしれない。

  見做すとはどういうことか。  

 手を広げれば、どうして大きいのか。
 大きいと感じるのは、視覚か触覚か。
 見ること自体に、どこか見做し、計算が入っていないか。
 大きさは、視野角と距離感から計算できる。
 視覚野での計算である。色も視覚野での計算である。
 計算だけで大きいと実感できるのか。計算の前に実体感が必要ではないのか。
 手で触れれば、大きいものは手を大きく広げねば体感できない。
 手を広げて大きさを表わすのは触覚体感ゆえか。
 触覚体感があるから、視覚野の計算から実感できるのかもしれない。
 すべての基は触覚か。
 最も原初的な感覚は、触覚か臭覚か。
 臭覚が最も古いといわれている。臭覚は化学反応。
 触覚は、刺激(圧、ずれ、温度)、物理現象。口腔内体感の大半も物理現象。

 語感の大半は触覚に由来する。口腔内体感の大半は触覚だからである。  

 見做しは前頭連合野の働き。臭覚は古すぎるのかもしれない。
 見做しにもミラー・ニューロンが絡んでいるのかもしれない。
 意味理解ということ自体、見做しから派生したのかもしれない。
 意味理解に必要なブローカ野、人間のミラー・ニューロンはブローカ野にあるのだそうだ。

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