新しい言語学

銀泉

   「銀泉」誌に投稿したものです。  

   →  「日本語と英語」を読んで

   カズオ・イシグロは日本人か  

今年のノーベル文学賞を授与されたカズオ・イシグロ。5歳の時に英国に渡り20台の後半に英国に帰化しているので国籍上は英国人である。日本人の両親のもと日本で生まれ5歳まで長崎で育ったのでDNAからいえば日本人である。
ただ、英国に渡ってからは英国の学校に通っているので、英語で教育を受けたことになる。今も両親とは日本語で話すようだが5歳の子供の日本語だそうである。だから、考えるのは英語で、だろう。もちろん、小説を書くのも英語である。サピア・ウォーフの仮説に‘言語は文化を規制する’とある。すると、彼のものの考え方は英国人か。
ノーベル賞をもらう前のインタビューでカズオ・イシグロは「それは、私が日本人だということに関係していると思います」、「私の一部は日本人・・・」というような言い方をしている。さらに「つねに、日本人である両親の目を通してイギリスという国をみたので、自分の周りの社会とも距離を置いて育ったことにも関係があります。友人のすべてが正邪として考えていたことを、私はイギリスのネイティブの変わった風習であるとみていました」と言っている。このことは重要で、西洋人と日本人のものの考え方の大きな違いの一つとして、西洋人は物事を○か×の択一的に考えるが、日本人は「どちらも有り得る」とか「その中間だ」というようなアナログ的考え方をする、ということがあるからである。これに従えば、カズオ・イシグロの考え方は日本人的ということになる。
すべてのことを正か邪に割り切って考える西欧的考え方を「変わった風習」と言ってしまうところはすばらしい。西欧的考え方の世界にどっぷりと浸かりながらも日本的感性を失っていないのである。多分ご本人は気付いていないかもしれませんが。
今回の受賞の理由は「the abyss beneath our illusory sense of connection with the world(我々の世界とのつながりの感覚が不確かなものでしかないという、底知れない奈落を明らかにした)」ことだという。つながりを気にするのはやはりアナログな日本人的感覚である。欧米人は、心の底を見ようともせず、自己の独自性を標榜する。ここを衝いているのがカズオ・イシグロなのかもしれない。
「忘れられた巨人」を読んだ。民族的な忘却がテーマの歴史ファンタジーである。ただ、現実世界では忘却ではなく、何事もなかったこと、あるいは、忘れたことにしているだけである。だから、何かの切っ掛けで暴発するのである。夫婦間の忘却も暗示しているが最期が尻切れトンボになった感が残る。この本を読んでいて百田尚樹の「カエルの楽園」を思い出した。また、話の運び方は「二千七百の 夏と冬」(荻原浩)によく似ていると思った。この本は縄文人と弥生人が出会った頃の話である。私にはこの本の方が面白かった。第5回山田風太郎賞受賞作である。
カズオ・イシグロのケースと対照的なのが、やはり小説家の片岡義男である。
片岡義男は、日本人の母、日系アメリカ人の父のもと日本で生まれ日本で育った。ただ、父親が英語で教育したため英語でものを考えるようになったと言う。5歳の頃に「原爆が落ちた」と聞き、因果関係が理解できず周りの大人にどういうことか聞きただしたと言う。また、「風呂に入る」、「だっこ」もおかしいと言う。風呂はtakeするもので、‘だっこ’はpick upであるとも言う。考え方が完全に英語人である。片岡義男は生まれも育ちも日本、そして日本語で小説などを書いているが、ものの考え方はアメリカ人のようである。片岡義男も英語で心の深層の葛藤を暴いておればノーベル賞を取れたかもしれない。
カズオ・イシグロも片岡義男もバイリンガルである。言語とものの考え方の関係を考える上でバイリンガルの人々は非常に面白い。
ちなみに、台湾の李登輝さんもバイリンガルである。台湾の言葉で育ったが教育は日本語で受けた。カズオ・イシグロのケースと似ている。ただ、李登輝さんは「考える時は日本語で考える」とおっしゃっているし、日本精神を非常に大切と考えておられる。この点、カズオ・イシグロと少し違うようだ。たぶん、台湾的ものの考え方が日本的ものの考え方に親和性があったからではないだろうか。
    (平成29年11月18日)

   驚くべき日本語 (1)  

「驚くべき日本語」という最近出た本を読んだ。著者ロジャー・パルバースは英語、ロシア語、ポーランド語、日本語の4か国語を自在に話すというハーバード大卒のアメリカ人。日本には50年近く住み、今はシドニーに住むという正に国際人。
表題につられて買ったのだが、いろいろ参考になる指摘もあったが、違和感を覚えるところも少なからずあった。面白いと思ったのは、英語には日本語に負けないくらいたくさんのオノマトペがあると言っているのである。びっくり仰天である。ここの検討は別途くわしくするとして、今回は違和感を覚えた点を一つ取り上げ、ご紹介してみたい。皆さまはどのように解釈なさるだろうか。
著者は与謝野晶子の短歌を一首取り上げ、次のように言っているのである。
歌は、
きけな神 恋はすみれの紫に ゆうべの春の讃嘆のこゑ
「おお、胸が震えるほど美しい! 愛への賛美歌のようです。」
「この詩の美しさの核は、「恋はすみれの紫」という暗喩にあります。恋は、紫のすみれのようだけでなく、目に映った春の夕べの紫の色のようでもあるということです(あるいは、春もまた、青春の暗喩として、若き日の恋をたとえているのかもしりません)。」

このように言っていますが、そうでしょうか。
著者は、恋がすみれ、あるいは紫の色のようであることに讃嘆の声を上げたと言っていますが、私は紫の色そのものに讃嘆の声を上げたと読みたいのです。
 この歌は二重構造になっていて、基本は、「聞け、紫に讃嘆のこゑ」、そして今一つが「恋はこゑ」になっていると思います。
「聞け――声」と「恋――声」がそれぞれ懸かりになっていて、「聞け――声」は論理的な懸り、すなわち「声を聞け」、そして、K音繋がりでもあります。
「恋――声」はKo音繋がりですが、私は日本語の恋と声は語源的にも同じ流れのものと思います。まず、‘Ko’という表現・言葉が出来(Kの発声時の調音点は口腔の奥、ノドで感覚的には自分の中心点)、これが‘KoKo(此処)’になり、‘こ、こ’と指さすことから‘KoI(来い)’という表現が出来、このことが、‘声(KoE)’で‘乞う(KoU)’ことであることから、それぞれ別々の言葉になっていったのではないかと考えています。
もちろん、‘恋(KoI)’も‘乞う’から出来た言葉です(愛は与えるものですが、恋は求めるものでしょう)。
なお、聞く(KiKu)と声(KoE)の語源的関係は分りません。見る(MiRu)と目(Me、あるいは Ma)の関係を考えると、聞くも声から派生した言葉かもしれません。

 「恋は讃嘆のこゑ」という言い方は、枕草子の「春はあけぼの」という言い方に似ています。この助詞‘は’は直接イコールの意味ではありません。「今日は雨」、「今日は本を読もう」などもよく似た使い方だと思います。イコールではありません。
 理屈っぽくすみれの紫を恋の暗喩と考えるのではなく、紫そのものに讃嘆の声を上げる、これこそ恋の故なのだと言っているのだと思います。
 したがって、この歌は愛の賛美歌のようなよそよそしいものではなく、生々しい恋のよろこびの嘆息に近いものだと思います。この歌をものごとを客観視したものと考えるか、主観を吐露したものと考えるかの違いで、これはまた、英語的ものの考え方と日本語的ものの考え方の本質的な違いでもあると思います(英語と日本語の本質的違いです)。

 ちなみに、私のこの歌の解釈は、
「神さま聞いて下さい。今はゆうべ、そして春、すみれの花の紫に讃嘆の声を上げてしまいました。これが恋(ゆえ)なんですね。」
 皆様はどうお読みになりますか。
    (平成26年9月15日)

   ネアンデルタール人の轍を踏むな  

70万年前われわれホモ・サピエンスの祖先から枝分かれしたホモ・ネアンデルタールは、2万5000年前この地球上から姿を消した。7万年前のインドネシア・スマトラ島ドバ火山大噴火の後の10年にも及ぶ地球寒冷期をからくも生き延び、5万年前ヨーロッパの地で再び出会ったわれわれの先祖クロマニョン人とこのネアンデルタール人は、その後2万5000年の間共存していたと思われるが、クロマニョン人は生き残り、ネアンデルタール人は絶滅した。
化石からの推測ではクロマニョン人の脳は1600グラム、これに対しネアンデルタール人の脳は1700グラム。ネアンデルタール人の方が大きい。背はクロマニョン人の方が高かったようだが、体はネアンデルタール人の方が大きくがっちりしていたようだ。
ネアンデルタール人は脳も大きいだけに、知能も発達していて、10万年前には死者を埋葬して花を手向けていた痕跡を残している。クロマニョン人はこの時にはまだここまで至ってはいない(後、ラスコーの洞窟の壁画を残すのだが)。
私は以前から、どうしてこのように心優しいネアンデルタール人が滅び、クロマニョン人が残ったのか、その原因に関心があった。
そして今までは、ネアンデルタール人は顎が頑丈すぎて、咽喉が十分降下せず、舌が自由に動かせず、母音を発音し分けられなかったため、音声言語を獲得できず、結果思考の進化が遅れたという説に納得していた。(例えば、ネアンデルタール人は、see, saw, sue を発音し分けられなかった。)

ところが最近、「人類進化700万年の物語」(チップ・ウォルター)を読んでいて面白い説に出会った。
アリゾナ大のスティヴン・クーンとメアリー・スクイナーによると、クロマニョン人の集団では役割の分担をしていて、男性は危険な大型動物の狩りに従事し、妊娠した女性、母親、子供たちはより安全な野菜、果物、ナッツの採取に従事していたが、ネアンデルタール人は男性も女性も平等に危険な狩りにも従事していたのだという。しかも、クロマニョン人はすでに投げ槍を発明していたが、ネアンデルタール人は直接槍で突くことしかやっていなかった。そのためネアンデルタール人の女性が傷つくことも多く、結果子供を作れず人口が増えなかったのだという。
人口が増えないため、遺伝子が進化(逆ではあるが)して大人への成熟が15歳へと早まったのだという。一方、クロマニョン人の成熟は19〜20歳で今のわれわれと変わらない。成熟期が短くなることによって、生産性は上がるが、先代のノウハウ、すなわち文化を受け継ぎ消化する期間が短くなる。そのため、例えば2万5000年も近接して暮らしながら槍を投げることを習得(真似)できなかったのかもしれない。(ちなみに、類人猿の成熟は10〜11歳)

ところで、今日本の人口は減少しつつある。
これは、男女の役割分担を無視しつつあるからではないだろうか。社会へ出るということは、古代人の狩りに出ることと同じなのではないだろうか。現代の社会には野獣も猛獣もいない。しかし、現代の社会にはストレスがあふれている。社会進出することによって子供が作れない。ネアンデルタール人と同じではないだろうか。
われわれは男女平等(悪平等)というデマゴーグに踊らされて、心優しいネアンデルタール人の轍を踏みつつあるのではないだろうか。
そもそも、ホモ・サピエンスとしての男と女は肉体的にも機能が違う。機能が違えば当然役割も違う。(役割が同じなのであれば、異なった機能を持つ必要がない。)
われわれはホモ・サピエンスであることを忘れているのではないのか。
忘れることを進歩と勘違いしているのではないか。
ホモ・サピエンスとしての退化を進歩と勘違いしているのではないのか。
われわれ心優しい日本人は、ホモ・サピエンスとして絶滅への道を歩み始めたのではないだろうか。
皆さんは、どうお考えですか。
    (平成26年5月25日)

   言語が違えば  

「言語が違えば世界が違って見えるわけ」を読んだ。海外の出版業界で多数の年間ベストブック賞を取った本である。著者はヘブライ語を母語とする言語学者のガイ・ドイッチャー。大変面白い本ではあったが、何か一つ大きなものが抜けているような気がした。
原題は、Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages
まず、疑問に思ったことは、違う言語では世界が違って見えるということだが、見ているのは同じ人なのだろうかということ。違う人だとすると、その違いを見ているのは誰だろう。また、どちらの言語で見ているのだろう、ということである。
また、世界が見えるとはどういうことか。具体的な世界というものがあるわけではないので、自分の周りのものを自分との関係においてどのように認識しているか、ということだろう。言語が違うということは、まず、ものの切り分け方が違うということがあるが、さらに表面的な切り分けだけではなく、もっと本質的なものごとの把握の仕方が違うだろうということである。そして、このものごとの本質的な把握の仕方の違いのベースには、ものの見方、ものの考え方の違いがあるということになるのではないだろうか。
同じ人間が違った言語で世界を見ると違って見えるだろうか。言語を変えることによって、ものの考え方は変えられるのだろうか。変えられるとすると二重人格ではないだろうか。ものの考え方は母語によって決まる。思考には言語が必要で、人間は最初に出会った言語によってその言語に沿った思考法を身につけていく。その後に得た言語によって思考の幅は広がるかもしれないが、基本的な思考の方式は変わらない。
バイリンガルに育った場合も、いずれかの思考法になる。
小説家の片岡義男さんは典型的なバイリンガルである。彼の書いたものによると、日本生まれの日本育ちながら、父親に英語一本で育てられ、ものの考え方の基本は英語になったそうである。母親は日本語、乳母も日本語であったため、もちろん日本語はペラペラで、彼の書く小説は日本語である。しかし、最終的に考えるときは英語で考えるそうである。
 そして、その彼が、日本語の「風呂に入る」という表現には違和感があると言っている。風呂はtakeするもので、入るに違和感があるのだそうである。また、日本語の「抱っこ」という言葉も使えないという。抱っこの持つ情感、pick up とは違う味わいに違和感があるのかもしれない。ちなみに彼の書く文章には僕という言葉が多い。
片岡義男さんは、もちろん日本的ものの考え方も理解できる。ただ、日本語で考えているときは、英語に監視されているような気がするのだそうである。日本語的ものの考え方に何かしらの不安感、不信感があるようなのである。
一人の人間の中に、二つの異なるものの考え方があれば、その人間の人格は分裂してしまうのではないだろうか。だから、人間の脳はそのようには出来ていない。いずれか一つのものの考え方しか受け付けないのである(その点、早期の英語幼児教育は、脳の正常な発達にとっては障害になるのではないだろうか。心配である)。
同じ一人の人が世界を見るのではないとすると、異なる人が違った言語でそれぞれ世界を見るとして、その見ている世界が違うかどうか、誰が見るのだろう。
今、AとBという言語があって、Aを母語とする人が言語Aを通して世界を見、Bを母語とする人が言語Bを通して世界を見た場合、Aの人はBの人の見ている世界が違うことは何となく分かっても何がどう違うかは分からないのではないだろうか。はたして、Aの人のものの考え方でBの人のものの考え方が理解できるのだろうか。
英語、フランス語、スペイン語、イタリア語、そして、ロシア語、ヘブライ語など、ほぼ同じ文化圏の人々の間では、ものの考え方は多少くい違っても、本質的には違わないから、互いに違いを議論することも可能だろう。しかし、それは同じ土俵の上でのことであって、土俵が変われば、違いを理解することすらむつかしくなってくるのではないだろうか。
同じ土俵の上では、概念の区切り方の違い程度は議論できるであろうけれど、土俵の違う、もっと深いレベルでの考え方の違いは認識することすらむつかしいのではないだろうか。
さて、ここに日本語という全く欧米の言語とは違う日本古来の言語がある。日本文化も、欧米文化とは歴史を異とする全く異なる文化である。日本語には、日本語的ものの考え方がある。この日本的ものの考え方を欧米では理解できるだろうか。少なくとも、今に至るまで本質的な理解をしようとはしてこなかったように思われる。
日本語は欧米語とは全く異なる言語である。日本語が全く異なる言語であることに欧米は今まで気づかなかったのだろうか。多分、本質的な違いが分からなかったのではないだろうか。
日本語と欧米語が本質的に違い、日本文化と欧米文化が大いに違うとすれば、ここに言語が違えば、文化が違う、すなわち、ものの考え方が違うという代表的な事例が存在するのではないだろうか。
欧米語同士の中だけではなく、あるいは文化的にはマイナーなホピ語などを持ってこなくとも、日本語と欧米語を比較すればよかったのではないだろうか。
なぜ、このことに気づかなかったのか。
一つは、日本が余りにもすんなりと近代化したからである。欧米人から見れば、遅れていた日本が素早く追いついてきたとしか見えないのではないだろうか。日本は近代化に成功した。すなわち、欧米化した。しかし、これは表面だけのことである。日本人のものの考え方が変わったわけではない。欧米的ものの考え方の成果だけを採り入れたのである。科学技術を取り入れ、開明思想、すなわち、民主主義、人権思想、自由、平等、男女同権思想などをそれぞれ一つの思想として採り入れた。しかし、根本のものの考え方は変わっていない(これは日本文化の特徴で、昔からこの方式を採って来た)。
欧米語と日本語の本質的な違いに気付かない、より根本的な原因は、欧米が欧米的ものの考え方でしか日本語を見ないからである。そして、日本語はあいまいだ、論理的でないなどと結論付け、それで終わってしまっていたからである。あいまいと言われるものの裏にある豊潤さを見ようともしない、論理的でないといっても、リニアーな論理ではないというだけで、むしろ複雑系の論理を先取りしているかもしれないのにである。
一つの言語のものの考え方、すなわち欧米的ものの考え方でしかものを見なければ、表面的な区分けの違い程度しか見えず、本質的な違いは見えないのではないだろうか。
日本語と欧米語の、そして、日本文化と欧米文化の本質的違いを見るためには、欧米的ものの考え方に加えて、日本的ものの考え方を理解しなければならない。
そのために、ここではまず、欧米語と日本語の違い、欧米的ものの考え方と日本的ものの考え方の違いを、日本的ものの考え方で考えてみることにしたい。
欧米語と日本語の違い(1)
I・you問題(あるいは、You・I 問題)
欧米語では、必ずI・youを言わなければならない。これによって、生まれたばかりの赤子に個としての認識が植え付けられ、人と人、さらには自然との繋がりが断ち切られる。
反対に日本語では、極力I、youを言うのを避ける。言わねばならない時も、互いの関係上の名称、例えば、お母さん、お兄ちゃん、先生などを使って呼び合う。結果、日本人は人間同士だけではなく、万物とも繋がりを感じながら育つ。そして、その結果、日本人は一人の人格神に縋る必要もなくなり、結果、日本における一神教の信者の数は圧倒的に少ない。
日本語では、動詞の活用変化の中にもlet usというweが含まれている(例、行こう)。
これなどは、連帯感(集団行動が常態化していること)の一つの表れである。
欧米語と日本語の違い(2)
語感問題(Vocal Sound with Subliminal Message)
日本語は、子音+母音の拍方式を採ることによって、言葉の音の持つ語感を残す道を選んだ。このことによって、日本語は表面的な意味だけではなく、心情的なメッセージをも伝え得る言語になった。特に、日常会話において、一拍、あるいは数拍の助詞によって微妙な心の綾を伝え得ることが出来るようになっている。また、数多くあるオノマトペを多用することによって、リアル感を感覚的に伝えることが出来るようになっている。
一方、欧米語は子音を中心にして、母音を捨てる方向にあるとみられ、情を捨てロゴス中心の論理記号化を志向しているやに見える。ソシュールの言語学の第一原理「音と意味との恣意性」は日本語には当てはまらない。
ちなみに、母音は自然音であるのに対して、子音は人工的な障害音である。
欧米語と日本語の違い(3)
定型言語と場の言語
日本語の会話は、その場その場を前提としている。それぞれの発語は、その前に発せられた言葉を前提として発せられる。そして、前提となったことは極力言葉に表現しない。例えば、二人で話をしていて、一人が出かけようとした場合、この人は出かけるのは自分であるから、「I will go.」のようにIをわざわざ言うことはない。日本語では、「行くよ」、あるいは「行くね」である。
また、相手に何か取って欲しい時も、相手に直接頼んでいるのだから、「Would you take・・?」のようにyouを使うこともない。日本語では、「取ってくれる」、あるいは「取って」である。その場で分かり切ったことは言わないのが原則である。したがって、会話の一部だけを取り出しても何が何だか分からないということは起こりうる。その点、欧米語はその都度Iと言い、youと言わなければならないので、一部を取り出しても大きく誤解されることは少ない。欧米語はその場の人でない第三者が見ても理解できる、言うなれば、定型化された舞台のセリフのような言葉である。
欧米的ものの考え方と日本的ものの考え方の違い(1)
自然感の違い
欧米はanti-nature、日本はpro-natureである。欧米では、人は神が作ったと考えられているが、日本では、人も神も生ったと考えられている。欧米は作る思想、日本は自然に生る(ナル)思想である。作るには自然に働き掛けねばならない、これは自然と対決する姿勢である。
日本では、自然に寄り添って、自然が何がしかのものを生み出すのを待つという姿勢である。したがって、生みだされたものは、基本的にはすべて自然の恵みだと考える(お陰さまでの思想)。
また、欧米では、庭園を造る時、左右対称の幾何学的造形にするが、日本では、その地形を活かしつつ自然を模した山水造りを良しとする。
欧米的ものの考え方と日本的ものの考え方の違い(2)
Refineと洗練
和英辞書で洗練を引くと、elegantと並んでrefineと出る。和英辞書でrefineを引くと、上品にするとともに洗練すると出る。一般的には、refineと洗練するとは同じだと思われている。しかし、両者は根本的に異なる。Refineは原義的には、clarify、purifyすることで、純度を高めることである。一方、洗練は、洗った上で練り上げることである。練り上げることは純度を上げるのではなく、すなわち、混じったものを排除するのではなく、そのまま混ぜ合わせ練りに練って互いを馴染ませることである。英語的に言えば、purifyするのではなく、blendしたものをmergeするのである。
Pureにしようとするのと、harmonizeしようとするのでは、考え方としては根本的に異なる。
欧米思想は、人間を、I、youと言い合うことによって、個に分断し、さらに、人の知情意も知のみに分解し、purifyしようとする。
日本語では、日常の会話で、I、youではなく、お父さん、お母さん、お兄ちゃんと呼び合うことによって、結果として、親子の繋がり、さらに人と人との繋がりを確認し合っている。また、日本語では、知・ロゴスのみに走ることを諌め、知情意のバランスをとることを最重要視してきた(頭でっかち、理屈っぽい、冷たい、心が通っていない、)。
欧米語が語感を捨て子音中心にしようとしてきたのも、日本語が母音を中心に情を伝える語感を残してきたのも、この流れの中でのことである。
日本語の文字表記は、漢字仮名交じり文といわれ、表意文字と表音文字を混合して使う独特なものである。これは大陸から漢字を導入した際、漢字そのものとその表す概念は導入したものの、当時の中国語そのものは入れず、さらに、その漢字を改変して音だけを表す文字を作り、日本語をそのまま書き表すことが出来るように工夫したものである。そして、この音を表す仮名も二種類作ることによって、その後の外来語もそのまま日本語の中に取り込むことが出来るようになったのである。その結果、日本語は他国の文化の生み出した概念をそのまま採り入れるのに非常に便利な言葉となったのである(漢字、ひらかな、カタカナ)。
これもblendしmergeする思想の結果である。
このように欧米語と日本語は根本的に違うのである。
そして、欧米人と日本人の見ている世界は違うのである。
世界で、もっと日本的ものの考え方を本質的に考える必要があると思う(「もったいない」という言葉だけを、しかも表面的に考えるだけではなく)。
    (平成25年2月11日)

   春夏秋冬  語感から見た言葉の成り立ち  

それぞれの表現がどの様に出来てきたか、語感から、考えてみた。(無責任語源試論)

「春(HaRu)」という言葉は「HaERu(生える)」という表現から出来たのだろう。「HaReRu(晴れる)」からとも考えられるが、冬晴れということも考えられるので、この可能性は低い。
「生える」の発音は古くは「PaERu」だから、春も「PaRu」であったと思われる。「Pa」は破裂音「P」に拡散するイメージの「a」が付いたもので、「パッ」は語感的にも、まさに大地から、あるいは、雪間から芽がいっせいに出てくるイメージにふさわしい。
「花(PaNa)」もこの「Pa」のイメージに、隠れていたもの「Na」のイメージから、隠れていたものがパッと現れ、開く、の表現なのだろう。
したがって、人間の顔の鼻は、この花になぞらえて名付けたものだろう(語感的には、鼻を「PaNa」と呼ぶことの直接的な理由付けがむつかしい)。

「秋(AKi)」という表現は、のびのびとオープンで明るい発音体感の「A」から出来た。明く、開ける、明るい、から発展した、朝、赤、天(AMa)などと同じ流れの中で出来たのだろう。
直接的には「赤(AKa)」からかもしれない。紅葉のイメージから「AKa・KiI」とも考えられるが、赤に比し黄色という表現が出来たのが新しいので、逆に、「AKi」から「Ki」色という表現が出来たのかもしれない。「AKa」の「Ka」より「Ki」の方が切れがあって冷たい。澄んで冷たい空気の秋にふさわしい。
ちなみに、「雨(AMe)」は「天(AMa)」から出来たと思われる。広がりのイメージの「a」に対し「e」には下に抑え込まれ繋がっているイメージがある(雨は天から降るから)。

「冬(HuYu)」は直感的には「冷ゆ(HiYu)」だが、古くは「PiYu」という表現があったかどうか。「Hi」音には冷たいイメージがあるが、「Pi」には冷たさは感じにくい。少し痛さが感じられるので、太古の人々はそこに冷たさを感じていたのかもしれないのだが。
したがって、「HuYu」は「HuBuKu」からかもしれない。「HuBu」は「Hu」が二重になって強調されたものである(「Bu」は「Hu」の濁音)。「吹く(HuKu)」は「PuKu」から出来たもの。「P」は破裂音で、今でも「プッと吹く」という。
あるいは、「HuYu」という表現が日本語に「H」音が入ってから出来たのかもしれない。さらにあるいは、「H」音の中でも「Hi」はやや特殊であるので、「H」音が入る以前から「Hi」だけが日本語の中で使われていたのかもしれない。というのも、「H」音は声門摩擦音で温かさを感じさせるが、「Hi」は硬口蓋摩擦音で冷たさを感じさせる(発音的には「シ」に近い)。
もっと単純に考えると、冬は風がピューピューと吹く。そこで、「PYu―」が「PuYu」となり、時代が下り「HuYu」になったというものである。案外、ありうるかもしれない。

「夏」。「暑い夏」を発音ベースで書くと「ATuい NATu」となる。音的には「NATu(夏)」は「ATu(暑)い」に「N」を付けたものなのである。「夏」と「暑い」は音を共有しているのである。
ここで、二通りのことが考えられる。
一つは、「夏(NaTu)」は「ATuい」の語幹「ATu」に「N」を付けたもの。
そして、今一つは、「ATuい」は元々は「NATuい」で、それから「N」がとれたものというものである。
語感的には、日本の夏のむしむしする暑さには「NATuい」がぴったりである(「N」には湿った粘り感があるから)。「ATuッ」は何か熱いものに触れて「アッ」と手を引っ込める感じである。「NATuい」だったとすれば、どうして「N」が取れたのか。「N」には、少し押し隠すというようなイメージがあるため、夏の日差しの圧倒的な暑さには合わなくなったのかもしれない。そして、代わりに「蒸し暑い」という表現が出来たのかもしれない。
    (平成24年9月11日)

   日本語と英語  

日本語と英語は違う、というと、当たり前だと思われるだろう。
そして、それが、どうした、と。
辞書があれば、日本語から英語へ、英語から日本語へ翻訳して、互いに理解できるから、それでいいではないかと思われるだろう。
しかし、言語が違えばものの考え方が違い、ものの考え方が違うと、文化も違ってくるのである。
日本語圏の文化と欧米語圏の文化は違う。
このように言うと、それぞれの国の文化が違うのは当然であって、何もそれは言語の違いだけに依るものではないと思われるかもしれない。確かに、一国の文化は、それぞれその民族の歴史的な変遷の上に出来上がってきたもので、言語だけで決まるものではない。むしろ、一国の言語が、民族の歴史的変遷の中で、文化と共に作り上げられたというべきかもしれない。
しかし、一国の文化の次世代への継承を考えるとき、その国の言語の影響は絶対的である。
私は、文化の継承に及ぼす言語の影響は致命的だとすら思っている。

人は、言語なしには効率的な思考はできない。人は、この世に生を受け、一つの文化の中に生まれてくる。そして、その文化の言葉を覚えながら、その言語による思考法を身につけていく。日本語圏に生まれれば、日本語による思考法を、英語圏に生まれれば、英語による思考法を身につけるのである。
日本語による思考法と英語による思考法は違う。本質的に異なる。
思考法の違いは、文化そのものの違いである。

日本語と英語の違いについては、発音にかかわる基本的なものの他に、主語がいらないとか、‘Yes,No’が反対になるとか、日本語は曖昧であるとか、いろいろ言われる。
発音の違いが文化の違いに繋がる‘語感’の問題は、今回は差し置くとして、それに次いで文化に与える影響の大きなものとして‘I,You’の問題がある。

すなわち、‘I’、‘You’は英語にあって、日本語にはないのである。
‘I’,‘You’は、英語においては欠くべからざる非常に重要なものであり、頻度も非常に多く使われている。
しかし、日本語には、英語の‘I’,‘You’に相当する言葉がないのである。正確には、日本語には‘I’,‘You’に相当する概念がないのである。更に言えば、日本語には‘I、You’的考え方がないのである。
‘I’は‘私’、‘You’は‘あなた’があるではないか、とおっしゃる方もいるだろう。
父親が自分の子供に、英語で
‘I’ll go to see movie。Do you go together with me?’
ということはあるだろう。これを日本語に訳すと
‘私は映画を観に行く積りだ。お前もいっしょに行くか’
となる。意味は通じるが、日本人が自分の子供にこんな言い方をするだろうか。絶対にしない。不自然である。自然なのは、
‘映画、観に行くけど、いっしょに行くか’だろう。
‘私’も‘お前’も言わない。言えばよそよそしくなる。
日本語では、父親は自分の子供に対しては、自分のことは、‘お父さん’、あるいは、‘パパ’と言う。そして、子供に対しては、普通は、その子の名前を言う。上の例でいえば、
‘パパ、映画行くけど、慎太郎、いっしょ行くか’となる。
この同じ父親が、自分の妹に対しては、‘お兄ちゃん’と言い、自分の友人に対しては、‘オレ’と言い、職場の上司に対しては、‘私’と言う。
この‘お父さん’、‘お兄ちゃん’、‘オレ’、‘私’が、‘I’といっしょといえるだろうか。
この‘お父さん’という意味は、‘お前のお父さん’という意味で、‘お前’が含意されている。(子がいて初めて父という概念が成り立つから。)
‘お兄ちゃん’にも‘お前のお兄ちゃん’という意味で‘お前’が含意されている。
反対に、子供も自分の父親のことを‘お父さん’、あるいは、‘パパ’と言う。妹も兄のことを‘お兄ちゃん’と言う。これらのことにも、‘私の’という意味が含まれている。
子供は自分の父親に対し、決して‘あなた’とか‘君’とか‘お前’とは言わない。
この‘お父さん’、‘お兄ちゃん’、‘あなた’、‘君’、‘お前’が‘You’と同じといえるだろうか。
英語の‘I’,‘You’は絶対である。自分に対しては、お母さんも、お父さんも、他所のおじさんも、‘You’である。
自分は誰に対しても、‘I’。自分のお母さんに対しても、自分のお父さんに対しても、自分は‘I’である。他所のおじさんに対しても、自分は‘I’である。
そして、自分はお母さんにとっては、‘You’にすぎない。お父さんにとっても、自分は‘You’である。また、お母さんは自分に対しては自分のことを‘I’と言う。お父さんも‘I’と言う。
‘I’,‘You’は相手との関係には関係のない絶対的な言い方なのである。(われわれ日本人には、ドライとも、冷たいとも感じられる。)
一方、日本語では、‘お父さん’、‘お母さん’、‘お兄ちゃん’、‘オレ’、‘私’、にそれぞれ相手との関係が包含されている。
子供は、周りの人たちに、常に‘お前の’、あるいは、‘あなたの’というメッセージを含んだ言葉で話しかけられ、自分も相手に対し、‘わたしの’というメッセージを含んだ言葉で話し掛ける。
常に、‘お父さん’、‘お母さん’などと言いながら、互いに互いの関係性を確認し合っているのである。
英語では、逆に、‘I’、‘You’と言う度に、自分と相手とは違うということを確認し合っているのである。
‘I’と‘You’と、互いに違うということを確認し合う言語環境で育てば、当然、‘個’という概念が早くから芽生え、強化され続ける。欧米語環境の中で、‘I’、‘You’と言い合って育てば、個人主義的考え方が強固になるのは当然である。
日本語環境のように、常に互いの関係性を確認し合いながら育てば、お母さんと繋がっている、お父さんと繋がっている、兄弟とも繋がっている、そして、濃淡の差こそあれ、地域の人と繋がっている、日本人として繋がっている、人間として繋がっている、さらに、根底的には、自然とも繋がっているという感覚が定着する。
この自然についての考え方も、‘個’を絶対と考える欧米文化では、自然も自分の外にあると考える。そして、自然は、人間が対決して、変えていくべきものと考えるようになる。
一方、自然とも繋がっていると考える日本文化では、自然との共生を当然のことと考え、対決するのではなく、如何に自然を活かすかを考える。
このように、日本的考え方と欧米的考え方は根本的に違うのである。そして、その結果、当然のこととして、日本文化と欧米文化は、本質的に違うのである。
欧米語の‘I’,‘You’が欧米の個人主義を助長し、次代へと継承せしめているのである。
‘You,I’(友愛)は、はたして世界を幸福にするのか。

   平成23年9月15日

‘I’,‘You’の日常会話での使用頻度比較などの研究は、私のサイトをご参照下さい。
   http://theory.gokanbunseki.com
ご意見、ご質問などは、下記にお願いいたします。お待ちしています。
   masuda@or2.fiberbit.net

   日本語と英語、そして、文化の違い  

前号で、日本語と英語の違いについて書かしていただいたところ、いろいろ感想をいただいた。それでというわけでもないが、言語と文化の違いについて、今少し書かしていただきました。

欧米にも、‘サピア・ウォーフの仮説’という研究があって、言語が違えば文化も異なるという、われわれ日本人から見ると当然の考え方があるが、欧米の学界では、否定的な見解が支配的である。
各言語、各文化、それぞれの特異性は、一種の変種にすぎず、言語、文化の底流には普遍的なものがあると考えられているのである。(あるのは表面的な違いにすぎず、本質的な違いはないと考えられている。)
しかし、われわれ日本人から見ると、日本語と英語は余りにも異なる。
‘お陰さまで’など、英語では表現できない。
‘何となく、そんな気がする’も英語にならない。
それに対しては、ものの考え方が違うからだいう。
ものの考え方が違うということは、文化が違うということになるのではないか。
日本文化と欧米文化は違うのである。

宗教も文化の一つである。主要な一つである。
日本人の大半は進化論に、さもありなんと抵抗感はない。しかし、アメリカ人の三分の二は、進化論は聖書に書いてあることとは違うから間違いだと、今でも、心から信じているという。
また、一人の人格神を信じる人は、アメリカでは国民の95%にも達するという。日本では、キリスト教徒は国民の1.5%に過ぎない。
このことだけを見ても、日本文化とアメリカ文化は根本的に異なる。

では、なぜ‘サピア・ウォーフの仮説’が欧米の学界で否定されているのか。
それは、異なる言語、異なる文化を欧米語でしか研究していないからである。欧米語という枠内でしか、ものごとを見ていないので、異言語、異文化の本質的なところが見えず、表面的な一部しか見えていないからである。
欧米語で育った人たちには、日本語の助詞、オノマトペを使いこなすことはむつかしい。欧米語と違って、日本語は、子音+母音 という‘拍’が単位となって、組み上がっている。この‘拍’、すなわち、アイウエオ50音の背景に、それぞれの音の持つイメージ、‘語感’というものが働いているのである。
‘僕、行くよ’というのと、‘僕、行くね’と言うのとでは、相手に伝わる気持が違う。意味的な使い分けだということになっているが、われわれ日本人が難なく使い分けられるのは、‘よ’と‘ね’の‘語感’の違いを無意識に感じ分け、使い分けているからである。

欧米人にも、オノマトペも意味を覚えれば使い分けられる。しかし、‘語感’が分からないと、微妙な使い分けがむつかしくなる。
日本語の著作で大佛次郎賞、伊藤整賞などを取り、万葉集の英訳もあるリービ英雄氏ですら、オノマトペに対する誤解がある。多分、‘語感’が分かっておられないか、‘語感’の存在そのものに気付いておられないからだろう。
リービ英雄先生は、松島を詠んだ芭蕉の句について、島々は火山噴火によって‘千々にくだかれて’と解釈しておられる。(‘くだける’は自動詞である。欧米人は、人は神によって作られたと考えるが、日本人は、神すら‘なった’と考えている。くだかれたのではなく、くだけたのである。)
そもそも、火山噴火云々は理屈であって、不要である。余計なことである。
しかも、火山噴火に‘千々に’はそぐわない。それは、‘CHi’という音の‘語感’に、小さく、輝くイメージがあるからである。火山噴火には、もっと重量感とパワーが必要である。
また、先生は、9・11の世界貿易センタービルの崩壊についても、‘千々に’の表現を使っている。
あの映像は、‘千々に’なんて上品で、きれいなものではない。もっとも、その映像を見て、自分の中のガラスの心が粉々になったというのなら、そんなに違和感のある表現ではない。
これほど、日本語は、日本語で育った人以外にはむつかしいのである。
なお、リービ英雄先生の「英語でよむ万葉集」(岩波新書)はすばらしい本である。英語の勉強にもなるし、万葉集の勉強にもなる。この本でのリービ英雄先生の万葉集理解はたいしたものである。

最近、日本語ペラペラの外国人をよく見かける。しかし、彼らは、英霊たちが帰ってくるという靖国神社が理解できるのだろうか。
日本人は、心の底では、一神教を信じる人を馬鹿じゃないかと思っている。本当に信じているのだろうかと半信半疑である。日本人にとって、絶対の神を信じるのは、かなり無理があるのである。
日本語ペラペラの外国人も、一神教を卒業出来たら、日本文化の真髄に一歩近づいたといえるかもしれない。
ちなみに、日本人のクリスチャンと自称する人達も、お墓参りをする以上は、本当のキリスト教徒とはいえないと思う。(どうでもいいことではあるが、)
     (平成24年2月3日)

もっと突っ込んだ議論については、私のウェッブ・サイトをご覧下さい。
‘リービ英雄先生への手紙’、‘サピア・ウォーフの仮説’などがあります。
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‘語感’分析の実際については、下記もご覧下さい。
   http://www.gokanbunseki.com
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