新しい言語学

起源

   新しい言語学の方向性  

言語学とは、言語とは何かを問う学問である。
言語とは何か、と問う時、二通りのアプローチがある。

一つは、言語そのものを考察の対象とする従来からの方法、すなわち従来の言語学である。
ソシュールの構造主義、チョムスキーの生成文法、認知言語学、機能主義言語学、音声言語学・・・
日本語学、英語学、・・・
音韻論、形態論、語用論、統語論・・・
言葉・語意、文法・シンタックス、音声、表記・文字、・・・
学校文法、古文解読、言語比較、祖語・語族、・・・。

いま一つは、言語を言語現象としてみる方法である。人間の言語行為を客観的に現象として分析する方法である。従来このアプローチはあまり取られてこなかった。
私は、「場の言語学」として、このアプローチを提唱してきた。言語現象を「場(FIELD)」として捉える「言語場」の考え方である。全体を「マクロの言語場」、そして個別を「ミクロの言語場」として考察した。ただ、日本語の際立つ特徴を「場の言語」とも表現したが、この場合の「場」はSCENEであって、FIELDではない。ややこしい言い方で誤解を招いたが、この際、訂正してお詫び申し上げたい。正確には、日本語は「場(SCENE)の言語」である。
「マクロの言語場(FIELD OF LANGEGE)」を電場・電界、あるいは磁場・磁界と考え、個人の脳の中を「ミクロの言語場」と考えた。言語現象を比喩的に電磁場として考えた。ある電気の流れが誘電現象を起こし新たな電気の流れを起こす、あるいは、一つのアンテナから発せられた電波が他のアンテナで捉えられ同じ電気の流れが誘発される、これらの比喩である。

話し手がいて、聞き手がいて場は成立する。言語場である。
話し手は気持、意味(情報)を音に託して言葉を発する。
聞き手は、その音、すなわち言葉を聞いて、意味(情報)を理解し、気持を感じ取る。
言葉を聞き取るとはどういうことか。
同じ言葉でも、話し手によって音としては異なる。物理的にも異なっている。この異なる音を同じ言葉として聞き取れるのは、学習の結果である。
幼い女の子の「おはよう」とお爺さんの「おはよう」では、音の高さからして違う。
赤ん坊は、これらの声、すなわち音を聞き続け、同じ「おはよう」と聞き取れるようになる。
この時、赤ん坊の脳の中はどのようになっているのか。
幼い女の子の「おはよう」、あるいはお爺さんの「おはよう」を聞いた時、赤ん坊の脳の中では、自分自身の音の「おはよう」として聞き取るのである。そして、この自分の音の「おはよう」が、脳内で処理され、意味と結びつけられるのである。
この赤ん坊が言葉を発することが出来るようになったとき発する「おはよう」は、この「おはよう」である。結局、話す時の「おはよう」と聞いた時の「おはよう」は、同一人の脳の中では同じ「おはよう」である。
話し手の音を聞きながら、聞き手の脳の中に再生されるのは、聞き手自身の音である。
同じことが意味についても言える。
話し手は、自分の意味するところの言葉を選んで、音を発する。
その音を聞いた聞き手は、その音を自分の言葉に変換し、その言葉の意味を意味として理解する。同じ言葉に対して、話し手の理解している意味と聞き手の理解している意味は同じである。同じという約束事である。しかし、実際は必ずしも同じではない。通常、多少のずれはありうる。それは個体差であり、個の経験の違いででもある。多少は、ずれた意味の全体が場での意味である。全体としての意味が、いわゆるこの言葉の意味である。一つの言葉の意味そのものは実存するわけではない。個々人の理解する意味の全体として存在するのである。そして、その場が「マクロの言語場」である。したがって、「マクロの言語場」そのものも実在はしない。場を構成する人々の言語活動があって初めて、言語場として理解されるのである。場を構成する個々人の脳の中にはそれぞれ、言葉と意味の結びつき、シンタックスと意味合いの結びつき、といういわゆる個人データの蓄積がある。この蓄積された個人データがすべて同じとは限らない。ただ、このデータの全体が「マクロの言語場」を構成しているのである。「ミクロの言語場」の総体が「マクロの言語場」なのである。
個人の言葉の意味理解、そしてシンタックスによる意味合いの理解は常に変化する。多少ではあっても常に変動する。経験の積み重ねによって日々変わるのである。個人の創意工夫によっても新たな言葉の使い方が生まれる。時には、誤解、誤用によっても言葉は変わる。「ミクロの言語場」は変わるのである。それにしたがって、「マクロの言語場」における全体としての言葉の意味、そして意味合いも、常に変化する。ゆらいでいるのである。言語は常にゆらいでおり、言語は日々変わるのである。「マクロの言語場」はゆらいでいるのである。「言葉は生きている」という言い方も、この言語の一面を言っているのである。言語も生きているのである。

例えて言うならば、「ミクロの言語場」での電磁場の総体が「マクロの言語場」での電磁場であるから、個々の「ミクロの言語場」での電磁場の変化は「マクロの言語場」での電磁場に影響を与え、また、「マクロの言語場」での電磁場のゆらぎは個々の「ミクロの言語場」での電磁場に影響を与える。ミクロの電磁場とマクロの電磁場は相互に作用し合っているのである。この現象は単純な電磁場現象というよりは、同期現象と見た方がいいのかもしれない。複雑なミクロ同士の相互関係から生じるマクロのゆらぎの在り方はシンクロと表現した方がいいのかもしれない。
「マクロの言語場」はシンクロ現象なのである。今後の言語場における言語現象の研究には複雑系の科学の考え方が不可欠となるだろう。マット・リドレーは「進化は万能である(THE EVOLUTION OF EVERYTHING)」の中で「言語は、自然発生的に組織化される最たるものだ。」と言っている。組織化とは複雑系の科学の概念である。そして、「自ら進化して単語の持つ意味が見る間に変わる・・・」、さらに、「教えるというより学ぶものでもある。」と言っている。後半は「ミクロの言語場」についての言及である。この「学ぶ」は「まねぶ」であって努力の行為ではなく自主的な自然な行為である。マット・リドレーも言語場での現象を生命体であるかのように捉えているのである。言語は生きているのである。
なお、進化という言葉は誤解を招きやすい。進化が常に最終的なベストを選択しえている訳ではない。欧米語と日本語は異なった進化の道を歩んでいるのかもしれない。

「ミクロの言語場」の基本は、話し手と聞き手の一対一の場である。もちろん、話し手と聞き手は常に交替しうる。
聞き手は、話し手の発した音を、一旦、自分の発した音に変換して受け取る。人は他人の言葉の音を聞いた時は、常に自分の言葉の音に変換して聞くのである。反射的にこの反応は起こる。鏡のように。全く同じ像を映す鏡のように。この現象を「ミラー現象」と呼ぼう。光を媒介とした鏡に対し音を媒介とした現象である。光も音もいずれも波動である。この「ミラー現象」が「ミクロの言語場」の場としての最も重要なポイントである。
この「ミラー現象」には、従来、見落とされてきた言語現象としての大きな側面がある。
言葉の音を聞いた時、一旦、自分の音に変換するわけであるから、この時、それらの音に付随する発音体感が再現されるのである。これが言葉の意味だけではなく、気持やニュアンスが伝わる機序なのである。意味は約束事であるから、脳内のデータを検索して探し出すが、発音体感は自分自身の体感であるから、その都度、直接的に感じ得るのである。意識しなくとも伝わるのである。このことが返って、その存在に気付きにくくしている。反射的で、無意識、まさにこの反応は、いわゆるミラー・ニューロンと同様のメカニズムが働いているのではないだろうか。
発音体感は、もともとは話し手が言葉の音を発する時、口腔をはじめ身体で感じる感覚であるが、このようにミラー効果によって、聞き手も、その言葉の音を聞いた時に自らの体感として、同じように感じるのである。日本語なら母音5種類、子音24〜5種類、長音、撥音、促音、それぞれ発音方法が異なる。それに伴なって、発音時に口腔に感じる感覚は異なる。このそれぞれ異なる感覚を、話し手も聞き手も、同じように発音体感として感じるのである。このメカニズムによって、話し手の気持が聞き手に伝わるのである。気持は意味ではない。情報として伝わるのでもない。気持として直接伝わるのである。共振であり、同期であり、シンクロである。これが「ミラー現象」であり、この場が「ミクロの言語場」なのである。
意味は直接には伝わらない。受け取った言葉を、自分の脳内辞書を検索することによってはじめて意味として理解出来るのである。脳内辞書とは経験の積み重ねによって自ら作り上げたデータ・ベースである。ただし、実際の辞書、あるいはデータ・ベースの形を取っているとは思えない。神経ネットワークのあり方としてあるのだと思う。記憶としてのこの神経ネットワークのあり様も、今後の脳科学の大きな研究テーマだと思う(多元多次ネットワーク論)。(神経ネットワークだけではなく、グリア細胞も絡んでいるかもしれない。)
発音体感は色々な感覚の複合体、すなわちクオリの状態である。ミラー効果によって共有した発音体感によってもたらされた感覚の複合体は、イメージの塊として感受される。
この発音体感によって感受されるイメージの塊を、われわれは語感と呼んでいる。いわゆる音象徴である。
言葉の音が何がしかのイメージを感じさせることには、古人も気が付いていた。古代ギリシャの哲学者ソクラテスが「クラテュロス」(プラトン全集)の中で、鎌倉時代の僧仙覚、江戸の国学者賀茂真淵、本居宣長、鈴木朖、そして昭和の文人幸田露伴(「音幻論」)が音義説として論じてきた。しかし、言葉の音が意味を持っているとしたために論難され、現在に至るも、正当な言語学として認められているとは言い難い。音が意味を持っているわけではない。意味は約束事である。音は何も持っていない。言葉のそれぞれの音には違いがあるだけである。その違いは発音方法によってのみ生じる。この発音時の体感の違いが、ミラー効果によって聞き手に体感の違いとして直接伝わるのである。したがって、音は媒介ではあるが、音そのものが何らかのものを象徴しているわけではない。音象徴という言い方は誤解を招く。

では改めて、発音体感とは何か。
まず、発音時の心的姿勢がある。発語の前提としての体内感覚である。前向きか内向きか、融和的か攻撃的か、上からか下からか、などである。例えば、おおらかに大きな声を出そうとすれば、/ア/的な声になる。力を示したければ/オ/的な声になる。甘えたければ/N/行か/M/行の音になるだろう。Cooingはひ弱さと甘えの表現である。
そして、基本となるのが、口腔体感である。口腔、鼻腔での体感である。唇、舌、喉、声帯、鼻腔、口腔、細かくは、歯茎、上蓋、顎、それぞれでの破裂、破擦、接触、流れ感、収縮感、振動感などである。これらの感覚は入り混じって起こる。クオリア状態である。正確に言葉に切り分けて表現しにくい。また、直接的な一次体感に付随して二次的な感覚も生じる。例えば、口を大きく開けて大きな声を出せば、明るくオープンな感覚も生じる。顎を引いて発音すれば、引き気味な感覚も生じる。口腔の奥で共鳴させると、纏まりとしての大きさ、重さ、暗さ、そして動きの遅さすら感じられる。
言葉、すなわち音の連なりとなると、これらのイメージが入り混じり、相乗効果などもあって新たなイメージを生み出す。イメージの組合せが複雑になってくると、単純な感覚的なものから複雑な情的なものも生まれてくる。楽しい、さびしい、悲しい、・・・。荘厳な、怠惰な、あるいは、上品な、下品な、もあり得るが、これらには評価も入ってくるので、文化の違い、民族性などによっても違いが出てくる。
どの感覚的イメージの組合せによって、どの情感的イメージが出るかは、単なる加算ではなく、相乗効果なども考慮した高度なアルゴリズムが必要になる。

意味は約束事である。「マクロの言語場」における全体としての約束事である。だから、「音と意味との恣意性」をソシュールは言ったのである。しかし、語感、いわゆる音象徴は約束事ではない。発音体感であるから必然である。そして、日本語には語感から出来たと思われる言葉が多く残っている。特に日本人が日常よく使う言葉、感嘆詞、オノマトペオノマトペ的副詞、そして助詞には、語感がありありと感じられる。日本人は、無意識のうちに、語感を生かしてこれらの言葉を使うのである。
少年野球教室での長嶋の指導、「球がこうスッとくるだろ!」、「そこをグゥーと構えて腰をガッとするんだ!」、「あとはバァッといってガーンと打つんだ」。これで通じるのである。むしろ少年たちにはこの方が感覚的によく分かるのである。
英語にも語感の感じられる言葉が多く残っていると元九州大学教授の西原忠毅(音声学、英語学)は「音声と意味(SOUND AND SENSE)」の中で例証を挙げ説明している。

言語の起源を考える時、この語感の存在は重要である。意味以前に存在するからである。言葉に意味を結び付ける以前に、発音体感は存在するからである。発音時に自動的に感じられているからである。
マイケル・トマセロの「コミュニケーションの起源を探る(Origins of Human Communication)」を読むと、コミュニケーションを「協力に基づくコミュニケーション」と捉え、指さし・物まねをその起源と考え、それが言語に繋がっていくとしている。指さし・物まねとは情報である。この本をはじめ欧米では、言語の始まりをコミュニケーション、そしてコミュニケーションを情報の伝達とのみ考えているようである。
言語の始まりを思考のためとする説もあるが、これは論外である。思考は個人の脳の中の問題で、個の脳の中の進化だけでは広がりようがない。相互作用があって初めて拡散もするのである。確かに、思考は言語によって進化した。そしてまた、言語も思考の進化に伴なって進化した。したがって、思考は言語誕生の副産物であって、思考のために言語が生まれたのではない。
協力を目的論的に考えると情報の交換、すなわち指さし・物まねということになるが、協力のための協力、すなわち存続のための協力ということもあり得る。猿たちのグルーミングや身体を寄せ合う行為などがこれに当たる。私はグルーミングもコミュニケーションの始まりと思う。情報の交換以前に気持の伝達・共有があるのである。
欧米科学では気持というものを無視する傾向にある。英語には、日本語の‘気持’に該当する言葉がない。そのような概念がないのかもしれない。また、日本語の‘悲しい’、‘うれしい’、‘さびしい’などを自身の気持として直接表現する言葉がない(状態として客観的に表現する言葉はある。Sad, glad, lonely,・・)。
私はコミュニケーションの始まりを気持の伝達・共有と考えている。したがって、言語の起源もここにあると思う。言葉の始まりは、クーイングかナーシングではないだろうか。求愛、警告、威嚇などもあり得る。ただ、これらの表現は声としては随伴的に生まれてきたのだろう。ところで、威嚇のための叫び声が類人猿の威嚇音とどこまで違うのか。甘え声、睦声が子ザルのクーイングとどこまで違うのか。どこから声、そして言語かはむつかしいところである。叫び、唸りと声との境はどこか。一つは、人類が母音を発音し分けられるようになったことではないかと思う。類人猿は母音を発音し分けられない。

人間の言葉として最初の音はどんな音だったのだろうか。クーイング・ナーシングなら、鼻に掛った/N/系/M/系、そして、/u/ だろう。威嚇なら、固い/K/か、パワーの感じられる濁音系の音であろう。もちろん、これらの音を響かせるには母音が必要である。類人猿は人間の様には母音を発音し分けられない。直立二足歩行を続けた人類は、喉が奥に落ち込み、口腔が広くなり、柔らかいものを食べるようになって顎が小さくなり、舌も自由に動かせるようになって、母音が発音し分けられるようになったのである。この過程で前言語的なものが生まれていたのではないだろうか。脳の容量の増加もあって、或る閾値を越えたところで、同時多発的に言語らしきものが誕生したのではないだろうか。今世界に6000以上の言語が存在するという。これらの言語がすべて一つの言語から分かれたと考える必要はないと思う。もちろん、神が言語を造ったのではない。なお、cooingもnursingも語感の効いた言葉である。日本語で、‘クークー’は子犬の甘え声、‘ナーナー’はなだめる声である(語感は国境を越える)。

母音の発音体感と子音の発音体感は違う。本質的に違う。母音と子音が物理的にも異なるからである。母音は口腔内で共鳴させて出す自然音。伸ばして発声することも出来るし、他の音と連続して発声することも出来る。子音は、唇、歯、舌、上口蓋、喉などを、破裂させたり、擦ったり、震わせたり、弾いたりして出す障害音で、音そのものを伸ばして発声することは出来ない。母音はアナログ的で、子音はデジタル的である。そして、気持はアナログ的で、情報はデジタル的である。それゆえに、母音には発音体感として、やさしさ、温かさなど自然な感覚・気持を感じやすく、子音には発音体感として、鋭さ、激しさなど作為的なものを感じやすい。このことは、母音が受け手の発音体感として、相手の気持を感じ取り易く、子音が情報的なものを感じ分けやすいことに繋がる。
気持の分かち合いを重要視する日本文化で、日本語が言葉の柱として母音を残し、コミュニケーションを情報の伝達とのみ考える欧米文化の欧米語が子音中心へと移行しつつあるやに見えるのも、このことと関係があるのかもしれない。そして、欧米社会では語感の存在が忘れ去られようとしている。ただ、booba/kiki実験、mal/milテストでは正常な成績をおさめているので、語感をまったく感じられなくなったわけではないと思われるが、サブリミナルなので気付かないのであろう。欧米文化は、気持などサブリミナルなものを無視する傾向にある。
日本の学界においての知に走り情を蔑視する傾向が、欧米社会全体にあるのかもしれない。いやむしろ、日本の学界の知偏重は欧米社会への盲目的追従なのかもしれない。

結局、人類の言葉の始まりは母音的な声からだろう。そして、それは気持の表明、そして気持の共有のためだったろう。発音体感ゆえにお互いに感じ取れたのだろう。やがて、ある声が群れに広がり、声のバリエイションも増え、指さしに声が伴なうこともあったのだろう。そして、その声が指さしに代わった。これが情報の伝達の始まりだろう。この最初の声が何だったか。この様なことが色々な群れであっただろう。そして、色々な声があっただろう。「ア」という声もあっただろう。一番発音しやすい自然な母音である。日本語では、やがて「アレ」という言葉が出来た。指さしそのものである。指さして、相手のことを「ア」と言った。自分のことも「ア」と言った。これは「ワ(Wa)」に変わり現在の「ワタシ」に繋がる。ちなみに、「アレ(ARe)」から「ソレ(SoRe)」、「コレ(KoRe)」という言葉が派生した。自分からの距離の差である。これは口腔での調音点の違いである。/K/は喉、/S/は舌の上、/A/は口から外へ発声する。/O/は口腔の奥下で共鳴させるので、重さ、動かなさが感じられ、存在を感じさせる。これらはすべて発音体感である。言葉の始まりは基本的に発音体感からである。

今後の言語学は、言語そのものを対象とする従来のオーソドックスな言語学を含めて、ミラー現象の‘表’だけではなく、‘裏’をも含めた研究であるべきだと思う。‘表’の「意味」の研究に於いても、脳内での処理がどの様に行われるかにもっと関心を向けるべきだと思う。すなわち、脳内で言語がどのように、言葉に、そして音節、音韻に分解され、それらがどの様に意味などと関係づけられ、どのように記憶されるのか。抽象化、概念化、そして連想、比喩などがどのようにして脳内で行われるのか、研究の分野はまだまだ広いが、ミラー現象の‘裏’、すなわち語感、いわゆる音象徴も研究対象として非常に重要である。‘表’の現象だけを見るのはものごとの一面だけを見るに過ぎず、‘裏・表’合わせて見ることによって初めて、ものごとの真実により近づけるのだと思う。母音を捨て、子音中心を指向しているやに見える欧米諸語に比し、日本語は母音を中心として残し、いまだ語感の感じやすい言語である。日本の言語学者はこの優位性を生かし、語感を含めた新しい言語学を構築して欲しいと思う。

では、従来なぜ語感は正式の学問の対象として考えられてこなかったのか。
一つには、音義説の様に、言葉の音が何か意味の様なものを持っていると考えると、矛盾する事例が多く、収集がつかなくなったというようなことにあるが、最も基本的には、感性、感情というようなものへの蔑視である。知こそ学問の対象であって、情、まして感覚というようないい加減なものは、学問の対象とすべきでないという偏見である。人間、すべてに秀でるということは少なく、知的学問は得意ながら感性は鈍いというような学者も多かったのではないだろうか。現代でも、哲学者の鷲田清一先生、元九州帝国大学教授の西原忠毅など例外もいらっしゃるが、大方はそうではないだろうか。加えて、語感は基本的にはサブリミナルである。あると言えばアル、ないと言えばナイ。学者としては取り上げたくないのである。ましてご自身の不得意の分野である。さわらぬ神にたたりなし、といったところではないだろうか。しかし、時代は変わった。時代は進んだ。今まで科学が手の出せなかった複雑系の世界もコンピュターの進化により科学の対象になってきた。脳科学も格段の進歩を遂げた。言語学も今まさに新しい段階に入ろうとしているのである。言語のみを対象とした旧来の言語学は、言語現象全体を見る言語学に脱皮しなければならない。特にソシュールが捨てたパロールを含めた、いやむしろ中心とした言語学へと飛躍しなければならない。
当面、旧来の学者諸兄に、どうすれば語感というものの存在を認めてもらえるか。今まさに、緊急の課題である。若い人たちに期待するしかないのだろうか。

Mal/mil実験、booba/kiki実験において、世界の98〜99%の人が同じ答えをするという事実が語感の存在の証明にならないだろうか。このような例題を数多く作り世界でテストしてはどうだろう。楽しい、上品、などの感情的なものは文化による違いもあるだろうが、大きい、軽い、明るい、などの感覚的なものは文化によっても大きくは変わらないと思う。(なお、booba/kiki効果に対する説明としてのラマチャンドランの「共感覚的ブートストラッピング仮説」は誤解を招く、kikiという音に角ばりを感じるのは共感覚のような異常感覚ではなく、全ての人が持っている正常な普通の感覚である。booba/kiki効果は触覚同士の近似として説明できる。)
驚きの声、アッ、イッ、ウッ、エッ、オッ、の区別が世界で通用しないだろうか。
笑い声、アッハッハ、イッヒッヒ、ウッフッフ、エッヘッヘ、オッホッホ、の違いはどうだろう。(英語でも、このように驚き、笑えるのかな?!)

「マガーク効果」は、「ミクロの言語場」における「ミラー現象」存在の証拠になっているのではないだろうか。客観的には/B/と聞こえるはずのものを、/G/と発音する口元を見て、自分の発音として調音点が中間にある/D/と聞いているのである。/D/の音は実際には存在しない。辻褄を合せて自分で作っているのである。「ミラー現象」あっての、の結果である。

言語現象として、日本人にとって当然とも思える「サピア・ウォーフの仮説」なども本格的に検証する必要がある。欧米には、「言語が違えば、世界も違って見えるわけ(Through the Language Glass : Why the World Looks Different in Other Languages)」(ガイ・ドイッチャー)などの研究もあるが、表面的で文化の本当の違いにまでは踏み込めていない。やはり、欧米文化と日本文化のような大きな文化の本質的違いにまで踏み込む必要がある。母音の重要度、語感の存在は、言語的現象としての、この二つの言語の大きな違いである。もちろん、欧米文化と日本文化も大きく違う。本質的に違う。この違いの相互関係を明らかにする必要がある。この際、重要なことは、従来のように欧米のGlassのみから日本文化を見てはいけないということである。欧米、日本双方のGlassで見る工夫が必要なのである。それではじめて、「サピア・ウォーフの仮説」、すなわち「言語・文化の相互依存説」の本当の姿が明らかになるのである。

欧米文化と日本文化の根本的違いの一つとして、われわれ人間の自然そのものに対する態度・スタンスの違いがある。欧米では、自然を克服すべき対象と考えている。未開の自然を人間の知で切り開いていくべきと考えている。人間の情の部分も、遅れた未開の部分として、進んだ知によって克服すべきとすら考えている。日本では、人間を自然の一部と考えている。人間も自然によって生かされていると考えている。この様に、欧米文化と日本文化は、自然に対する態度が真反対である。欧米人と日本人の間で、ものの考え方が根本のところで違っている可能性がある。欧米では、神が人を造ったと考える。日本では、神も人も生ったと考える。欧米では、労働を罰・苦役と考える。日本では、(従来は)働けることを喜びと考えてきた。ジェンダー、人権につても考え方が違う。日本人で唯一神を信じる人は3%もいないと言われている。遅れているとか進んでいるとかの話ではない。根本のところで考え方が違うのである。
ちなみに、自然に反する考え方、自然に敵対する考え方を、日本人は不自然と考えてきた。英語にはこの‘不自然’にあたる正確な表現はない。日本人にとっては‘不自然’とはまったくあってはならない状態のことなのである。欧米人にとっては、神の意志に反することのようなものかもしれない。日本人にとっては自然のままが一番なのである。やむを得ず自然に手を加える場合も自然を生かすことに注力する。
例えば、欧米的ジェンダーの問題は、日本人にとっては、まったく不自然である。男と女は、生物学的にはまったく違う。個人差ではない。生理的にも機能的にも違う。違うものを同じように扱うのは不自然である。社会的に平等であるべきなどとは乱暴であり、野蛮ですらある。男にとって、女はなくてはならない存在である。女にとって、男はなくてはならない存在である。どちらが上という議論がおかしい。同じでないものを比較のしようがない。社会も、男と女が協力して子孫を残すため、作ってきたものだ。その社会その社会で、男の役割、女の役割が違うだろう。役割を全く同じとする社会の作り方もある。このような社会は子孫を残すためには不自然で、非効率的ではないだろうか。現在の日本の出生率が低いのは、欧米化にかぶれて、不自然な社会制度を無理やり取り入れようとしているからではないだろうか。そもそも日本の家庭では、欧米社会と違って、女性が主導権を握ってきた。そして、男が家庭外で力を発揮してきたのである。役割分担があったのである。そもそも女が社会に進出することが、よりよいことだと考える考え方がおかしいのではないか。不自然なのではないか。少なくとも日本社会では不自然である。出生率の低下がそれを証明しているのではないのか。その社会その社会で、男と女の在り方は違う。日本社会の全てを変えてしまおうということは、日本文化を失くしてしまうということである。当然、日本語も捨てるということである。それでいいのか。これは日本人自身の問題である。

言語として、欧米文化と日本文化の違いはどこに現われているのか。日本語はモーラ・拍で組み立てられており、拍は(子音+母音)の形を取っており、結果として母音が中心である。欧米語は、シラブルで組み立てられており、子音を強調した言葉のようにみえる。しかも、母音から離れていく傾向にすらみえる。ちなみに、発声的には、母音は共鳴音でアナログな自然音であるのに対し、子音は障害音でデジタルな単音である。東京医科歯科大学名誉教授角田忠信の「日本人の脳」によると、日本語人は虫の声を言語脳で聞くが、非日本語人は虫の声は雑音として音楽脳で聞くのだそうだ。虫の声は母音的である。角田博士の実験では、単母音を日本語人は言語脳で聞くが非日本語人は音楽脳で聞くのだそうである。ただ、この実験が個人技を要するため、広く認められには至っていない。脳の中の観察にも新しい色々な機器、技術が開発されてきた。いずれ皆の納得できる検査法が生み出されることを期待したい。

また、欧米語と日本語の大きな違いとして、主語が必要かどうかがあるが、それとも一部関連して、I・youの問題がある。英語の会話では、Iだyouだと盛んに使うが、日本語の日常会話では、Iやyouに当たる言葉を使うことを極力避ける。「I will go.」と言うところを「行きます。」、あるいは「行くよ。」ですませる。Iは言わない。「I give you this candy.」と言うところを「これあげる。」、あるいは「このお菓子、あげる。」と言う。Youは決して言わない。「おまえに」と言ってしまうと、上下関係が出てしまう。「君に」と言っても、対等な関係の宣言に聞こえてしまう。時には親しさ感が消えてしまう。日本人は周りの人々とそれなりに繋がっていると感じている(自然と繋がっているのと同じように)。I、youとあえて言うことは、これらの関係を切ることのように感じるのである。日本人は、欧米人がIと言って自己を主張し、youと言っては相手を突き放し、自立を進めているように感じるのである。欧米語でのI・youの多用は、根本的なものの考え方に由来するし、また、その考え方を強化していることにもなっている。これこそが「サピア・ウォーフの仮説」の本質なのである(御両人がここまで考えていたかは疑問だが)。
ちなみに、Iもyouも音としては母音と半母音である。Iと言っては自己を主張する、一方、母音は繋がりの音である。I(アイ)とは自己愛の音なのか。You(ユー)とは /i/ から /u/ への変化である。意思が相手の内面へと刺さる、これこそ友愛(ユー・アイ)か(きつい音ではある)。二カ国語にまたがる駄洒落は、これこそ語感のなせる業である。

「サピア・ウォーフの仮説」の検証に「ミクロの言語場」である個人から迫るのも一つの面白いアプローチである。個々のバイリンガルな人々を調べるのである。バイリンガルとは2ヶ国語が流ちょうにしゃべれる人のことである。ただ、しゃべれるだけではなく、自由自在にしゃべれる人である。人は通常一つの言語のもとに生まれ育つ。その言語環境の中で、言葉を覚え、ものの考え方も身につける。一度身についたものの考え方は一生変わらないともいわれる。それは何歳頃までのことなのか。
5歳まで日本語の環境で育ち、その後、英語の環境に移り学校教育も英語で受け、英語で考えるようになった。カズオ・イシグロのケースである。ただ、ご本人の記述によると、周りの人たちが、ものごとを正か非か、二者択一的に判断することには違和感を覚えたと言う。英語で考えるが、ものの考え方は日本人的、すなわちデジタルではなくアナログだったのである。この逆のケースが片岡義男である。日本語の環境にありながら父親に英語で育てられ英語で考えるようになった日本人。やはり5歳の頃、周りの人が「原爆が落ちた」と言っているのを聞き、どういうことか聞き質したと言う。因果関係が不明だからである。「風呂に入る」という表現にも違和感があるという。風呂は‘take’するもので‘入る’ものではないからである。この理屈っぽさは英語人の特徴である。日本語人の感性ではない。このご両人は書くことを生業とし、自身のことも色々書いているので分かりやすい。お二人の場合、育てられた言語の影響があるとしても、親の教育方針も影響しただろう。ただ、その親はそれぞれの言語の影響下にあった。どこまでが言語で、どこまでが教育で、どこまでが文化の影響か。相互に絡み合っていて、言いきることはむつかしい。しかし、言語が影響しないとは言えないと思う。
バイリンガルといっても、同じ系統のよく似た言語、そして隣国同士の場合は、文化も交流し合っているので言語そのものの影響は判別しにくい。欧米文化の中だけで議論していてもよく見えないのだろう。欧米語と日本語は系統がまったく異なる。欧米文化と日本文化も、互いに異質である。したがって、互いに理解はしにくいが、違いも分かりやすい。今後、欧米社会に於いても、日本語の理解、日本文化の本質的な理解が進むことを期待したい。アニメ、コミック、顔文字、絵文字、オノマトペなどが突破口になるのではないだろうか。

「日本語とハングル」(野間秀樹)を読み直していて面白い実験の紹介が目に止まった。東京での日本語による自由対話とソウルでの韓国語による自由対話を各々40組ずつ録画録音し、比較分析しているものである。色々なことが分かったようであるが、中でも面白いと思ったのは、同じ時間内に日本語グループでは、9070文、韓国語グループでは、7103文しゃべったというのである。日本語グループの方が3割近く多くしゃべっているのである。意外であったが、著者は、これは、日本語グループでは相手がしゃべり終わる前にしゃべり始め、発言が重なることが多いからだと説明している。そして、日本語の会話スタイルは共存型で、韓国語の会話スタイルは独立型だと結論付けている。なぜそうなるのか、両国の文化の違いを考える上で非常に面白いテーマだと思う(私は、日本語は、むしろ共感型ではないかと思っている)。欧米語ではどうだろう。英語とフランス語、ドイツ語とイタリア語、それぞれ大きな違いがあるのではないだろうか。この研究の革新性は生きた会話を対象としていることである。パロールを対象としていることである。この様な研究が広がることを期待したい。
この事例から思い付いたのが、各国語の母音度(母音の割合)の解析である。母音と子音の違いは録音した音波の波形の違いで分かる。会話を録音した波形の解析から母音の比率が算出できるのではないだろうか。日本語は一番多いだろう。各国語はどうか。非常に興味のあるところである。
また、韓国語にもオノマトペが多くあるのだという。しかし、韓国語のオノマトペと日本語のオノマトペは随分違うようでもある。韓国語のオノマトペが語感から出来ているとすると、韓国人の感性と日本人の感性がそれほど違うのだろうか。日本にも、韓国語にも日本語にも堪能な方が多くいると思う。ぜひ、研究して欲しいと思う。面白い研究テーマである。

今後の言語学のあり方としては、言語現象を人類進化の一画期と捉え、
そこへ至る人間自身の進化、
場としての言語場の形成・進化、
言語場における文化との相互作用、
などのさらなる解明が待たれるが、同時に、
人間を‘知’のみの存在とせず、
‘情(気持)’をも併せ持った全体的な存在と考え、
言語もラングだけではなくパロールも重視し、
もちろん、語感の存在も軽視せず、
全体的な立ち位置を取ることが重要である。
なお、いわゆる心脳問題として、物質的神経ネットワークの発火現象から、なぜ意識の様なものが生まれるのか、との大問題が存在するが、実在としての個人の言語活動、すなわち「ミクロの言語場」の集合全体から、実在ではない「マクロの言語場」が立ち上がり進化する態様が、それと何か似ているように思えるが、どうだろう。
心脳問題(意識は、どのように生まれるのか)も自己組織化として、そして創発として、解明できるのではないだろうか。
      平成30年2月28日
(追記) 
上記の文中、英語には‘不自然’に当たる表現がないと書いたが、先にも紹介したマット・リドレーの「進化は万能である」を読み直していて、さらに下記の記述があることに気が付いた。
 私たちの言語と思考は、世の中の事物を、人間がデザインして生み出したものと、秩序も目的もない自然現象の二種類に分類する。経済学者のラス・ロバーツは、私たちには後者のような現象を網羅する言葉がないことを指摘している。
この「後者のような現象」に対して、私は赤ペンで次のようなコメントを入れていた。
 日本語には、ある。すなわち、
 自然に、とか、自然な成り行きで、とか、あるいは、自ずから、なんとなく(そうなった)。
英語には、‘自然に’に当たる言葉もなかったのである。人間中心というよりも、‘唯一人間だけが’という考え方なのである。また、目的のないものあり方も考えられないようだ。唯一神の考え方と通じるところがあるのかもしれない(存在には、その目的、理由のないものはあり得ないとする‘知’中心のものの考え方)。
また、マット・リドレーは「言語と思考は」と言っているが、これは「サピア・ウォーフの仮説」を当然のこととしている、ということではないだろうか。
なお、「進化は万能である」は非常にいい本である。生物だけではなく、政治経済などの制度まで進化すると捉えているが、まさに炯眼である。また、神は人間が作ったと明確に言っており、欧米人にしては珍しく一神教の呪縛から脱しているようである。
ただ、宗教の進化については、多神教から一神教へとだけ論じられており、一神教に縛られない日本社会のあり方にまでは考えが至っていないようである。これだけの碩学にして、こうであるということは、欧米人にとって、いかに日本文化を真に理解することが難しいか、ということではないだろうか(これも「サピア・ウォーフの仮説」の正しさの証拠の一つになるのではないだろうか)。
   (平成30年3月3日)

   「日本語学を斬る」を読んで  

国広哲弥先生の最新著「日本語学を斬る」を読んだ。国語学者からの日本の日本語学に対する批判の書である。
国広哲弥先生は御歳88歳、この本は3年前出版されており、84歳での著作である。略歴によると、旧制中学時代から非常によく勉強されたのが分かる。国語だけではなく、寺田寅彦にも興味を持ち、さらに英語を徹底的に勉強しておられる。一国の言語を研究するに当たり他言語を知っていることは、視野の広がりにもなり、非常に有用であったと思う。理系にも理解力があることが、ラマチャンドランの大脳生理学の知見を言語学の研究に採り入れようとしたことに繋がっていると思う。したがって、論難は厳しく鋭い切れ味である。まさにカミソリの切れ味である。
その「日本語学を斬る」を無謀にも斬ってみたいと思う。なお、私は言語学を勉強したわけではない。多少関連の書物を逍遥した程度である。そもそも私は学者ではない。ではなぜ、このような無謀なことをするのか。社会人の経験から、より高い視野から、問題を眺められると思ったからである。一段、あるいは更に高い視野から、日本語を考えて見たいと思ったからである。学者には学者の限界がある。素人には素人の素直な常識、そして蛮勇がある。緻密な学者の学説に対し粗雑ではあるが、真正面からの大ナタを振るってみたい。

まず、冒頭「言語とは何か」と問い、近代言語学の祖といわれるソシュールに対する批判に始まる。ソシュールは言語活動を社会共通の体系と個人的に使う言語とに分け、社会共通のものを「ラング」と呼び、個人的なものを「パロール」とし、私的であるがゆえに「パロール」を言語研究の対象から外した、が、これを国広先生は「言語というものが、人間が現実世界に生きていくための道具であることを忘れている」として非難している。この点は、私もまったく同感である。ただ、このことはソシュールの「一般言語学講義」を編集した弟子たちも分かっており、それを遺憾としている。ところが、言語学界が、この「一般言語学講義」で述べられている「音と意味との恣意性」を「言語学の第一原理」としてしまったのである。これが間違いの元なのである。そしてまた、それを鵜呑みにしているのが日本の言語学界なのである。ソシュールは「ラング」についてのみ言ったのであって、言語活動全体「ランガージュ」について言ったのではない。
次に、国広先生は「ソシュールの言語記号の発生をめぐる説明は私にはまことに不可解・・」と言っているが、ソシュールが言語記号の発生について何か言っていただろうか。「音と意味との恣意性」のことだろうか。よく分からない。
さらに先生は「言語以前に意味というか、概念が脳中に生じる」ともおっしゃっているが、この概念は当然言語以前のものであろう。分節化もされていない漠たる概念にすぎない。そして、「睡眠中に似た記憶は整理された上で、まとまった概念的な状態で記憶脳に回されます。その概念は必要に応じて音声と結び付けられ、語となる・・」とあるが、言語の発生については、概念と音声がどのように結び付けられるかが問題なのであって、その説明がない。大脳生理学的説明としてラマチャンドランの「視覚路の解剖学的な組織体制」の図の引用があるが、ここから分かるのは視覚情報が視覚野を経て、‘WHAT’経路と‘HOW’経路に別れ‘WHAT’経路が側頭葉に至り対象の認知に関与するということだけで、音声といかに繋がるかの説明にはなっていない。(なお、10ページのこの図の説明文の重要なところでミスプリがある。「もう一つは頭頂葉の「何」経路で、」とあるのは「もう一つは側頭葉の「何」経路で、」でなければならない。)
「言語は人間の無意識の世界で脳によって作られる・・・」とおっしゃっているので、無意識層で概念と音との結び付けが行われているとの示唆なのかもしれないが、それがどのように行われるのかが問題なのである。
また、先生は「無意識ですから、自分に都合のいいように曲げるということは考えられないわけです」とも書いておられるが、これは大脳生理に対する無邪気な誤解である。むしろ、「無意識層に於いては自分に都合のいいように辻褄合わせをする」のが実態である。したがって、先生のおっしゃる「直感がすべて正しい」ということにはならない。熟考に熟考を重ねた末のヒラメキ、直感にはすばらしいものもあるが、ただ、それは意識層での思考が質、量の面でいかに行われたかにもよるので、安易な直感は危ないことも多い。直観だから正しいということではない。
次に「言語の自然発生」として、集められた聾啞児の間に手話が自然に発生したケースの紹介があるが、これは既に言語の体系の出来あがった社会の中での現象で、言語の全くない状態での言語の発生の説明にはならない。
ソシュールは言語なしには何も認識できないと主張しましたが」とあるが、ソシュールがそんなことを言ったのだろうか。チョムスキーが「言語は思考のために生まれた」というようなことは言ったようだが。認識という言葉の定義が問題なのかもしれない。高度な概念構築には言語が必要なのではないだろうか。
気になって、ラマチャンドランの3部作を読み返してみた。もちろん、上記の図もあり、誤りであることも確認できた。そして、読み進むうちにラマチャンドランが言語の起源の説とする「共感覚的ブートストラッピング説」に再会した。この説は、そもそもは、ブーバ/キキ効果がどうして起こるかの説明として、ラマチャンドランが考え出したもので、言語の起源、そして進化にも適応できるとしたものである。共感覚とは、異なる感覚がその神経経路上で混線し、数字に色が付いて見えたりする異常感覚であるが、ラマチャンドランはブーバとキキの図形としての見えのマルっぽさとギザギザの視覚が、聞こえとしてのマルっぽさとギザギザ感の聴覚と、配線経路上で結びついているとしたが、私は別稿でそれが誤りであることを説明した。したがって、それを言語の起源とすることにも反対である。
なぜ、ラマチャンドランは間違えたのか。それは彼が、言語の専門家ではないゆえに、語感の存在を知らなかったからである。そして、語感が発音体感に由来することを知らなかったからである。一部日本の言語学者に、この「共感覚的ブートストラッピング説」に便乗するやに見える方々がおられるが、むしろ言語学者としては誤りを指摘すべきである。
なだらかさ、ギザギザなどの見えは幼児期に手で触って覚えたもので、基本的には触覚である。また、なだらかさ、ギザギザ感などの聞こえは語感として発音体感として身に付いているもので、発音体感は主に口腔体感で、これも基本的には触覚である。したがって、共に触覚であるから容易に結びつくのである。共感覚のような異常を持ち出す必要はない。ブーバ/キキ現象は誰にもあることであり、発音体感、すなわち語感もすべての人が感じていることである。ただ、語感が無意識層で感じられているため存在を否定する向きもあるが、オノマトペを使い間違える人がまずいないことからもすべての人が感じ分けていると思われる。オノマトペをあまり使わない英語においても、九州大学名誉教授の西原忠毅の「音声と意味(SOUND AND SENSE)」によれば、英語の単語にも語感の生きたものがたくさん残っているそうである。Booba/Kiki、やMal/Milのテストの正解率は欧米においても98から99%だそうである。
そもそも国広先生は言語の発生を、個人における言語の獲得と人類としての言語の獲得とを峻別しておられるのだろうか。今問題となっているのは、チンパンジーと分かれ人類として初めて言葉らしい声を出し、それがどのようにして現在の言語へと進化していったのかである。森を出て直立二本足歩行を始め、脳が大きくなり、喉が沈下して口腔が広くなり、舌を自由に動かせるようになり、ここで初めて母音らしい音を出せるようになった。これが声の始まりであろうが、問題は、この声と、モノ、あるいはモノゴトと、どのように結びついていったかである。
国広先生は「聴覚的に「異なる」と感じられる音をとりあえず結びつけておいて、あとで調整するという形で言語を作っていたであろうという推定に基づいて説明しています。原初は、グループごとに手当たり次第に音声を材料にしたので、現に見られるように、言語により、実にさまざまな音声が材料に使われているのだと考えられます」と書いておられるが、とりあえずとか、手当たり次第にとか、そんな安易でいい加減なものだったのだろうか。原初、言葉の出来る段階はもっと真剣なものだったのではないだろうか。そもそも音声も今のような音が揃っていたわけではない。当初は一音、あるいは一語の状態が長く続いたのではないだろうか。まだ今のように母音を発音し分けられない時代から言語が始まったかもしれない。喉が下がり、口腔が広がり、舌をいろいろ動かせるようになりながら発音し分けられる音がふえていったのでる。モノ、あるいはコトに新しい音を当てる。そこには何か切っ掛けがあっただろう。そしてそれを皆が認め真似るには、それだけの納得性があっただろう。その納得性を生み出したのが語感、すなわち発音体感だったのではないだろうか。そのモノ・コト、と一部共通のイメージを持っておればこそ、多くの人の納得が得られ、言葉として広がり得たのではないだろうか。
具体的には、例えば‘ア’、‘ア’と声を出してモノを指さしているうちに皆がそのモノを‘ア’と言うようになった、というようなことではないだろうか。最初はすべてのモノが‘ア’だったかもしれない。あるいは、唸り声、うめき声、さらにクーイングに繋がる‘U’系の声だったかもしれない。子音の区別も最初は曖昧なものだったろう。音節も単音だったか、連続音的なものであったか。いろいろだったのだろう。結果として試行錯誤の末、今のような言語に進化してきたのだと思う。ポイントはいろいろな音を発音し分けられるようになること、そして音と、モノ、あるいはモノゴトとを、結びつけることを見つけ出したことであろう。世界の言語は今6000以上あると言われている。また、一つの言語が枝分かれして世界に広がっていったとも言われる。私は、人間の脳が発達しある一定の閾値に達した時、同時多発的に言語的なものが発生したのだと思う。ジャレト・ダイアモンドの「昨日までの世界」を読むと、ニューギニアの奥地の狭い地域に今も言語のそれぞれ違う人たちが住んでいるのだという。それも、方言とかではなく、まったく種類の違う言語もあるのだという。一つから分かれて、このような分化の仕方をするのは無理ではないか。英語と日本語ですら、同じものから変化してきたとは考えにくい。文法も違えば、そもそも音節も違う。生まれが違うのではないだろうか。ある時間的なずれはあるとしても、かって地球上の各地で多発的に原言語が発生したのではないか。問題はこの時、声の音とモノがどの様に結びついたか、何を足がかりに結び付いたかである。
私は大方は、音の広い意味での発音体感によって結び付いたのではないかと思う。まず、気持があって、その気持で何らかの声の音を出せば、それらの声の間に何らかの傾向が出てくるのではないか。明るい気持ちでおおらかに声を出せば‘ア’的な音になるのではないか。甘える気持で私秘的に声を出せば、鼻に掛ったN行かM行の音になるのではないか。
そして次に、口腔体感である。人間何らかの動きをすれば必ず感覚が伴なう。普段感じようとしないだけである。走れば、躍動感に加えて足裏の大地を蹴る感覚、頬、耳をきる風の感覚などいろいろな感覚が生じている。野に出れば若草を踏む感覚、微かに流れてくる梅の香。昔の人はもっといろいろ感じていたのではないだろうか。言葉の音を発すれば、唇、舌、喉、そして口腔、鼻腔にいろいろな感覚が生じる。母音‘ア’であれば、大きく外に広がる感じ、そしてそこから明るい、軽い感じも生まれる。母音‘オ’であれば、内に大きく纏まる感じから重さ、暗さ、動きの無さなどが感じられる。子音なら、摩擦音は摩擦に絡む感じ、破裂音なら破裂に絡む感じ、流音なら流れる感じなどが感じられる。言葉の音を発し始めた頃の人々は、これらの感覚をいきいきと感じていたのではないだろうか。赤ん坊も言葉の覚え始め、‘パッ’、‘ブー’と言いながら感覚を楽しんでいるのではないだろうか。われわれは赤ん坊の時、口腔の体感をいろいろ感じていた。しかし、大人になった今ではそれを忘れてしまっている。しかししかし、潜在意識ではしっかり記憶されているのである。むしろ、今も発音のたび、いろいろの感覚を感じているが、それがいちいち意識に上らなくなっているのである。意識には上らないが、言葉の選択には無意識裡に働いている。友達と別れるとき、‘じゃあ’と言ってあっさり分かれるか、‘じゃあね’と言って親しさ感を加えるか、さらに、‘じゃあねー’と伸ばして名残惜しさを加えるか。無意識に行っている。しかもそれが相手にも伝わっている。無意識にではあるが。これがパロールである。生きた言葉である。言語学の対象は生きた言葉でなければならない。ミイラを解剖しても本当の人間が分かるわけではない。ソシュールの言語学はミイラの言語学である。今の日本の言語学もミイラの言語学である。なぜミイラの言語学なのか。パロールを見ていないからである。生きた言語を見ていないからである。生きた言語の脈動を感じようともしないからである。すなわち、言葉の持つ語感を感じようともしないからである。
そもそも言語学界は語感の存在が分かっていないのではないか。語感というものの存在が分かっていない。あるいは、感性というものは正式の学問の対象ではないと思っているのではないか。感性のようないい加減なものは学問の対象ではないと思っているのではないだろうか。
国広先生はどのように思っておられるのか。この本「日本語学を斬る」を読む限りでは、語感にはご関心がないようである。語感を感じておられる様子はない。その点、同年代の言語学者、大野晋と丸谷才一の対談集「日本語で一番大事なもの」を読むとお二方とも随所で言葉の感じについて語っておられる。ただ、お二人ともそれが語感から来るものだということには気が付いておられないようではある。例えば、丸谷才一が「この歌をいろいろ口ずさんでみますと、どうも「かも」のほうが暗くて、内向的な感じがあって、「かな」ですと開かれて明るい感じがしますね」と言えば大野晋が「だいたいが「な」という間投詞には、「も」がもっている不確かさとかいうものがない。不安とか暗さとかのイメージが「な」にはないんです」と返している。さらに大野晋は「・・「も」はもっと粘着的で、・・」とも言っている。この議論はまさに語感の議論である。ただお二人はそれを語感からとは気付いておられない。「も」と「な」の違いは、この場合は母音‘O’と‘A’の違いである。子音‘M’‘N’はともに鼻音的で粘着性が感じられるが、母音‘O’の方が‘A’よりも粘着性が強い、というか‘A’はあっさり感が強く粘着性は感じられない。この対談集では、この他いろいろと言葉の音の感じについて議論をしておられる。
国広先生にはこのような議論はない。先生は助詞「ハ」と「ガ」の違い、そして「ル」、「タ」、「テイル」の違いについて従来説を論難、自説を展開しておられるが、私は、それらこそ語感で説明し分けられると思っている。助詞は日本語独特のもので、この助詞ゆえに日本語作文の自由度が非常に増していると、アメリカ人弁護士で著作家のケント・ギルバートは言っている。彼は同じ文章を日本語と英語で書くのだそうだが、資料等が日本語の場合はまず日本語で書きそれを英語に翻訳し、資料等が英語の場合はまず英語で書き日本語に翻訳するのだそうだが、英語の文章を日本語に翻訳するよりは、日本語を英語に翻訳する方が難しいのだそうである。というのも、日本語は助詞の使い分けによって言葉の順序をいかようにも変えられるが、英語は順序がほぼ固まっていて自由度がないからだそうである。日本語人はこの助詞を自由に使い分けているが、この助詞の使い分けは微妙である。この微妙な使い分けを日本語人が日常間違えることがないのは、助詞の背景に語感があるからである。日本語人はその語感ゆえに微妙な助詞の使い分けを間違えずに日常やっているのである。
助詞‘ハ’と‘ガ’の使い分けについて、従来からいろいろな学説が唱えられてきた。そして、国広先生もそれに対して新たな説を提示しておられるのであるが、従来、すべての説が語感を無視しているため実に隔靴掻庠の感がある。‘ハ’の発音は‘Wa’。‘Wa’は半母音で、‘U’から‘A’への変化を一音で発音するもので、基本的に内からのものが外に広がるイメージ。この場合は、場にオープンに曝す、俎上に載せる、舞台に上げるなどのイメージである。‘ガ’は‘Ga’で、‘K’、そしてそれを強調した‘G’には、区切るイメージがあり、‘Ga’には区切り出すイメージがある。例えば、赤鉛筆で囲むとか、スポットライトを当てるイメージである。したがって、‘ハ’、‘ガ’の違いは、取り出してオープンに曝すか、数ある中からスポットライトを当てて赤鉛筆で囲って見せるか、というような違いである。文法学者としては、いろいろ理屈を付ける必要があるのだろが、カナダの大学で日本語教師として活躍している金谷武洋も言うように、外国語の文法を持ってきてそのまま日本語に当てはめようとした学校文法は、根本的に見直す必要があると、私も思う。
‘ル’、‘タ’、‘テイル’については、語感的には、‘Ru’の‘R’にはソクラテスも言っていたように動きのイメージがあり、‘U’にも内からの動きのイメージがあって、‘ル’には基本的に動きのイメージがある。‘Ta’の‘T’は破裂音ではあるが舌先を上口蓋にチョンと付けて発音するのでちょっと止めるイメージがある。そのために、‘タ’にはちょっと止まった、すなわち完了のイメージが出るのである。‘テイル’は‘テ・イル’だと思うが、‘Te’にはちょっと止まって受けるイメージがある。‘E’には繋がる、連続するイメージに加えて、引きさがる受けのイメージもあるからである。
‘ココ’、‘ソコ’、‘アソコ’の違いも、‘K’、‘S’、‘A’の発音体感上の距離感の違いである。‘K’の調音点は喉の奥で自分自身にもっとも近い。‘S’は舌の上を息を流して発音するので中から外への感覚。そして‘A’は口を大きく開けて息を外に広がるように出すので距離感はもっとも遠くなる。ちなみに、「天(AMa)」はもっとも遠い大きな広がりである。古代の日本人はそのように感じたのであろう。
もちろん、‘アノ’と‘ソノ’の違いも‘S’と‘A’の距離感の違いである。
少し冗談めくが、英語のTHISとTHATの距離感の違いも、音としての‘イ’と‘ア’の違いからかもしれない。‘イ’は口元で発音するので、外へ広がる‘ア’よりも近い。HEREとTHEREの違いも、‘イァ’と‘エァ’の違いからかもしれない。‘エ’は下に繋がり広がるイメージがあり、まさに「そこ、ここ」のイメージである。
なお、国広先生は距離感について「心的視点」ともおっしゃっているが、語感、すなわち発音体感は心的なものである。
また、英会話における視点の移動をおっしゃっているが、これは主語に応じて視点を変えているもので、英語が客観視の言語であることの所以でもあり、その結果でもある。

結論的に言えば、言語現象の本質は音声による心的共鳴だと思う。語感を媒介にした脳内の共振であり、共鳴だと思う。少なくとも、言語の始まりに於いては、大半の言葉が語感をベースに生まれてきたのだと思う。
語感を無視した言語学はまさに空理空論である。言葉の音そのものが意味を持つと考えるような考え方はまさに天動説である。言葉の音そのものは何も持たない。言葉の音そのものが意味を持っている訳ではない。一見そのように思えるのは、自身が発音体感を覚えているからである。言葉の音を聞いた時に、その同じ音を発音した時の口腔体感を思い出すからである。ただ、音の認識と同時に無意識裡に脳内に再現されるので、あたかも音が意味様のものを持っているかに錯覚してしまうのである。これが天動説に惑わされる所以である。
言語学は地動説に帰らなければならない。そもそも語感があり、その語感は自分自身の発音体感だという地動説に気付かなければならない。
なぜこのような不自然なことになってしまったのか。これまで文明をリードしてきた欧米文化が自然を敵視し、欧米の言語が母音を捨て、論理を中心に語感から離れて来たからである。原言語は語感から生まれたと思う。欧米文明は情を捨て、論理を唯一のものとして重視してきた。そろそろ、この自然に対する軽視、あるいは敵視は限界ではないだろうか。
日本文化は、知に偏ることなく情も大切にして来た。自然も敵ではなく仲間として考えてきた。むしろ、母とすら考えてきた。
言語も母音を大切にして来た。したがって、日本語には今も語感がいきいきと生きている。
このような恵まれた環境の中で、なぜ日本の言語学者は語感を無視し続けるのだろうか。日本人こそ、本居宣長、賀茂真淵、鈴木朖、僧仙覚たち先学に倣って語感に挑戦して欲しいと思う。
今こそ、従来の欧米の天動説を脱し、本来の素直な地動説に戻るときだと思う。言語学のガリレオ・ガリレイの出現が待たれる。

この「日本語学を斬る」で、国広先生は面白いことを更に二つおっしゃっている。一つは英語のI・Youについて、今一つは主観的表現形についてである。
まず、主観的表現形について、先生は関西弁の「シンドイ」や「えら!」とその標準語に当たる「くたびれた・疲れた」は違うと言う。「シンドイ」や「えら!」は話者の主観を直接表す主観的表現形だけれども、「くたびれた・疲れた」は違うとおっしゃる。鋭い指摘だと思う。若い頃地方から出てきて、東京で「ツカレタ」と聞けばつい誰がと思ったという。客観表現だからである。地方弁の方が共通語よりは深い言葉だということだろうか。
私は、これと同じようなことが日本語と英語の間にもあると言ってきた。日本語にはここでいう主観的表現形があるが英語には少ないと。日本語の「悲しい」、「うれしい」、「さびしい」に当たる表現が英語では客観表現の「I am sad.」、「I am glad.」、「I am sorry.」になってしまう。日本語の「思う」、「うまい!」、「痛い」もないだろう。英語の「ouch!」は「痛!」である。「うまい!」は主観的体感としての表現であって、「It’s sweet!」のような客観描写ではない。「Good!」も客観描写だろう。「好きやねん」と「I love you.」は本質的に違う。これを英語では表せない。日本語の方が生きた言葉なのである。方言の方が標準語よりも生なましいのである。
英語のI・Youについて、先生は「英語では代名詞はIとYouだけで身分の上下を全然気にする必要がありません。・・・。アメリカで民主主義が発達したのは代名詞がIとYouだけであることが大きかったのではないかと考えています。」と言っている。そのような面も確かにある。しかし、I・Youの弊害も大きかったと私は思っている。Youと決めつけ、Iと自立を強制され、結果、自然とも対決せざるを得なくなってしまい、孤独の挙句、一神教の神に助けを求めざるを得なくなってしまった、のではないだろうか。ちなみに、アメリカで神の存在を信じる人は8割にも上るという。日本では一神教の神を信じるのはせいぜい3%そこそこではないだろうか。日本人は多神教というよりは汎神教である。一人の神に身を委ねてしまうことは究極の反自立ではないだろうか。自立を目指して隷属に陥ってしまったのではないだろうか。
また、先生は、日本語で話をしていた時は物腰の柔らかい、優しい人の印象の人が、英語を話している時は、発言は威勢よく、態度は傲慢不遜という印象をもったとして、「同じような例にはもう一人出会っています。」、「こういう言語と人柄の関連性を知るためにも口頭英語教育は必要です。」とおっしゃっている。ただ、なぜそうなるのかは何もおっしゃっていない。この人格の変容については、金谷武洋も「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」で言っている。慶応大学名誉教授で国語学者の鈴木孝夫も「日本の感性が世界を変える」の中で同じようなことを言っている。ただ、お二方とも、I・You問題についての言及はない。語感についても触れておられない。
「言語と人柄の関連性」については「言語が文化を規制する」という「サピアー・ウォーフの仮説」として別稿でいろいろ論じさせていただいたが、I・You問題、主観・客観の表現の違い、自然に対する立ち位置の違いなどについては、日本語と英語の違いとしていろいろ論じさせていただいている。
     (平成30年1月12日)

   「46年目の光(視力を取り戻した男の奇跡の人生)」を読んで  

Robert Kurson著「46年目の光」(Crashing Through. The extraordinary true story of the man who dared to see)を読み直してみた。ラマチャンドランの「共感覚的ブートストラッピング説」の誤りを指摘してきたが、それを確認したかったからである。

「共感覚的ブートストラッピング説」とは、booba/kiki実験で、なぜboobaの音声が丸っぽい図形に結び付けられ、kikiの音声が角ばった図形に結び付けられるのかの説明として、ラマチャンドランが唱えたものである。
共感覚とは、数字それぞれにそれぞれの色がついて見えたり、音に色がついて聞こえたりする異常感覚で、数字を処理する脳の中の領域と色を処理する領域が近くに存在するため、その領域同士の混線、あるいはクロス活性化によって起こると考えられている。
ラマチャンドランは、ギザギザの角ばった図形やでこぼこの丸っぽい図形を処理する視覚の領域と‘ブーバ’と‘キキ’という音声を処理する聴覚の領域の間でクロスに活性化することが起こり、特定の図形と特定の音声が結びつけられる、とした。さらにこの結び付けが聴覚に関わる側頭葉と視覚に関わる後頭葉の隣接した間にある角回で行われるとした。ちなみに、この角回には触覚に関わる頭頂葉も隣接している。このクロスの活性化が共感覚現象に似ているので「共感覚的ブートストラッピング説」と名付けたようである。

「46年目の光」を読み直してみた。「46年目の光」に書かれているのは、3歳の時に薬品の爆発事故のため視力を失った男性が、それから46年目に生体幹細胞と角膜の移植手術を受け、再び視力を取り戻したという実際にあった話である。移植手術は見事に成功し、目の機能はほぼ回復した。目眩めく色の世界、そして動きの世界がその男性の前に広がったが、慣れるに従い焦燥感と疲労感が出てきたのである。それは、男性には色と動きはよく見えるのが、顔の表情、ものの形、奥行きなどがよく分からないのである。見分けようとすると大変な努力が都度必要なのである。では、なぜそのようなことが起こるのか。そもそも網膜上の画像は二次元である。この二次元画像を奥行きのある三次元画像として読み取るには視覚的学習が必要だったのである。赤ん坊は、口に入れ、手で触り、二次元画像から、ものの形、奥行き感を感じ取り三次元画像として見ることが出来るようになる。同時に質感なども学習する。だから、見ただけで、冷たそうだとか、固そうだとかが分かるのである。これらすべてが学習の結果である。われわれが、見た瞬間、人の表情、ものの形、素材感などが、無意識に分かるのは、膨大な学習結果の蓄積のお陰なのである。
男性は生後3年間、普通の赤ん坊と同じように、この学習をした。しかし、その後の46年間、目からの入力は途絶えた。入力が途絶えると、脳の神経細胞は消滅するという。あるいは、他に転用されるという。男性はこのような状態だったのである。
このことから分かることは、われわれが何気なく見ている行為の裏に、手で触ることによって得た膨大な知識の蓄積があるということである。見ることのベースに、手で触ること、すなわち触覚があるのである。見ることには、常に触覚が協働しているとも言えるだろう。
この触覚で確認された視覚が、視覚の領域で記憶されているのか、触覚の領域で記憶されているのか分からない。多分、私は、触覚の領域に記憶され、その都度、視覚はそれを確認しているのだと思う。視覚は触覚と常に協働しているのであろう。男性は、今もモノを見るたび、手で触りたくなるのだという。見ることの本質がここにあるのではないだろうか。なお、ラマチャンドランは視覚の領域と聴覚の領域のクロスの活性化を言っているが、この正常人での視覚領域と触覚の領域とのクロスの活性化は、たまたまではなく、本質的で必然である。
その後、男性は努力の結果、ある程度、ものの形、人の顔も見分けられるようにはなったが、その都度、外国語をしゃべるような大変な努力がいったそうである。
ブーバ/キキ実験での、見た目のギザギザ感、丸っぽさなどは、手で触って覚えたことなのである。視覚と触覚のコラボであり、大元は触覚なのである。
一方、人間が言葉を発したとき、発音体感が伴う。語感である。普段は意識には上らないが、無意識裡に感じている。発音体感の大半は口腔体感である。舌、唇、口腔、鼻腔、喉などを動かす感覚、そして、息を流したときの感覚などである。子音Kの発声は、喉の奥を固くして締め、そこを小さく破裂させて発声するため、乾いた固さが感じられ、母音Iは口先を固くし少し強く息を出すように発声するので、鋭さ、小ささ、真直ぐさ、などが感じられ、その結果、‘キ’は鋭さ、固さを感じさせ、ギザギザ感につながる。子音Bは、口腔に満たした息を唇で破裂させて発声するので、‘バ’は前に広がる感じ、‘ブ’は前に進む感じとなり、‘ブーバ’は、丸っぽさに違和感はない。舌、唇、口腔、鼻腔、喉などの感覚は大半は触覚である。
このように、視覚のベースに触覚があり、聞こえのベースに発音体感、すなわち触覚があるのである。したがって、ブーバ/キキ実験は触覚と触覚との対比であるから、容易に類似性が確認できる。共感覚的な他領域間のクロスの活性化を無理やり想定する必要はない。なお、共感覚は基本的に異常である。数字に色が付いて見える人も、人によって見える色が違う。異常なのである。また、ブーバ/キキの実験で間違える人は1〜2%だという。私はこの1〜2%も検査ミスだと思う。どの集団にも素直になれない人間がいるものである。ブーバ/キキ実験の説明としてのラマチャンドランの「共感覚的ブートストラッピング説」は誤りである。

V.S.Ramachandranの「脳のなかの天使(The Tell-Tale Brain)」を読み返していて、この「共感覚的ブートストラッピング説」を言語の発生、進化にも適用しようとしていることが気になった。このことを少し考えてみたい。
ラマチャンドランは「最初の語彙は、いったいどのようにして構築されたのだろうか?」と問い、「その答えはブーバ/キキ実験からみちびかれる」として、「対象物の視覚的形状と、そのパートナーとなる可能性のある音とのあいだに、もともと備わった非任意の対応関係がある・・」、「ブーバの視覚的な輪郭が、起伏のある音の輪郭と、抽象的なレベルで似ている」とし、「ひょっとすると、生まれつき組み込まれているのではないだろうか」と言っている。すなわち、最初の語彙、すなわち言葉が視覚と聴覚領域のクロス活性化から生まれたとしているのである。さらに、言語発生のメカニズムとして、視覚、聴覚領域とブローカ野の運動領域とのクロス活性化、運動領域と他の運動領域間のクロス活性化の可能性を挙げている。そして、「この考えは、言語の起源を擬音語に求めた、現在は否定されている説と似ているように聞こえるかもしれないが、そうではない」とも付け加えている。
「「teeny weeny」、「un peu」、「diminutive」などの語では、口や唇や喉頭が、あたかも視覚的に小ささを反映もしくは模倣するかのように実際に小さくなり、「enormous」、「large」などの語では、口が物理的に大きくなる・・」として、「視覚および聴覚のマップと、ブローカ野の運動マップっとのあいだにもどうようの対応関係があるかもしれない」と言っている。
さらに、「fudge」、「trudge」、「sludge」、「smudge」を挙げ、「舌を口蓋に長く押し付けてから突然開放する動きは、あたかも靴がぬかるみにつかまって、それからぽんと解放される動きを模倣しているかのよう」、「ここにもまた、視覚や聴覚の輪郭を筋肉の収縮によって規定される声の音調曲線に翻訳する、組み込み式の抽象化の装置である」としている。
また、運動マップのあいだのクロス活性化については、それを「共運動(synkinesia)」というとして、唇や舌の動きと手ぶりとの結びつきを、口に関与する領域と手に関与する領域が隣りあっているからとして、「シンキネジアは、手を使った身ぶり言語から音声言語への移行に重要な役割をはたした可能性がある」と言っている。音声言語に先だって身振り言語があったとしているが、どうだろう。そして、「霊長類の情動的なうなり声や金切り声は、おもに右半球、とくに辺縁系の前部帯状回と呼ばれる部位から生じることがわかっている。もし、ある手ぶりをなぞる口腔顔面運動が生じているとき、同時に、その個体が情動的な声を出したら、その最終結果は私たちが言葉と呼んでいるものになるだろう」と言っている。
言葉の起源を、視覚、聴覚、あるいは運動野のクロス活性化としたのである。なお、ラマチャンドランはシンキネジアの例として「come!」を挙げ、この発音での舌の動きが手招きを模倣しているとしているが、これは無理すぎるだろう。
ラマチャンドランが挙げた言葉の例、「teeny weeny」、「un peu」、「diminutive」「enormous」、「large」「fudge」、「trudge」、「sludge」、「smudge」、これらすべて日本語的には擬態語ではないだろうか。「口や唇や喉頭が・・実際に小さくなり、・・口が物理的に大きくなる・・」というのは、自身でそう感じてということではないだろうか。ということは、これは体感するということである。続いては「ぽんと解放される動きを舌で模倣して出る音声」と言っているのだろうから、これはまさに擬態語である。そして、これは体感としての模倣だろう。ラマチャンドランは、世界には単純な擬音語に加え擬態語、さらに日本語には擬情語まであることを知らないのだろう。
ラマチャンドランの挙げている例はすべて発音体感で説明できる。結局、触覚領域内での近似であるから、選びやすいし、同意もしやすいのである。
なお、シンキネジア、すなわち手ぶりをなぞる口腔顔面運動説は限定的なものではないだろうか。なるほど、手を大きく開けば口も大きく開く、手をすぼめれば口もすぼまる。では、指さしはどうなるか。口元がすぼまるのか。口元がすぼまれば小ささと同じにならないか。指さして注意を引くために、‘ア’と言った。皆が真似するようになって、そのとき指さしたものが‘ア’になった、という様な事の方が有り得るのではないだろうか。この場合、‘ア’という音と、たまたまその時、指さされたものの間には何ら関係はない。‘ア’という音には、皆の注意を引きたいという気持ちが入っているに過ぎない。当初は全てのものが‘ア’だったかもしれない。やがて、区別するための音が加わっていったのだろう。区別する気持ちが発音体感としての音を選んだのではないだろうか。そのものが固そうであれば、固いイメージの音を、重そうであれば、重いイメージの音が選ばれたのではないだろうか。言葉が増えていく段階で、語感、すなわち発音体感が大きく働いたと思う。私は、オノマトペは言葉の赤ちゃんだと思っている。(もちろん、その後の言葉の誕生には、いろいろなケースがあったと思う)
ラマチャンドランの多領域クロス活性化説は、言葉の発生説としては賛成しかねるが、言葉の進化、すなわち抽象化、メタファー出現のメカニズムとしては、ミラー細胞の働きと併せ、非常に参考になるのではないだろうか。
私は、ミラーニューロンの誕生から、客観視が可能になり、それが抽象概念の誕生、客観的論理展開へと繋がったと思う。
     (平成30年1月19日)

   言語の始まりは思考のためか(2)  

チョムスキーは言語の始まりを思考のためと言った。
私は、言語は仲間とのコミュニケーションのために生まれ、発達してきたと思っている。もちろん、言語によって思考も可能になったのではあるが、これは、あくまで副産物である(だから価値が低いと思っているわけではない)。
最近の研究で、人が色を識別できるように進化してきたのは、森の中で熟した果物を見つけたり、食べられる若葉を見つけたりするためと、過っては、考えられてきたが、そうではなく、肌の色、すなわち人の顔色の変化に気づきやすくするためであることが分かってきた。
これは、人間の目の中にある色を感じる3つの錐体細胞のそれぞれの感度の波長ピークが人の肌の微妙な変化を感知するのに最適であることが分かってきたからである。
そうだとすると、この人間の色覚の進化も、人間にとってコミュニケーションがいかに重要であったかということを示しているように思われる。
日本語には、昔から顔の肌の色の変化についての表現が豊富にある。
顔色を伺う、顔色を変える、顔色が冴えない、顔色が悪い、顔色がいい、顏色なし、顔色を失くす、顔面蒼白、青ざめる、青くなる、赤くなる、頬を染める、
   (平成25年2月2日)

   チョムスキーの偏見  

チョウムスキー派の先生方の本をいろいろ読んでいて、いつも感じるのが論理的な美しさである。論理展開の歯切れのよさと言ってもいいかもしれない。
これは、若い頃、マルクスの「資本論」をかじった時に感じた感覚とよく似ている。
しかし、その後、‘資本論’、‘共産主義’についていろいろ知るにつれ、その理論的美しさの陰に隠れた危うさ、浅薄さを感じるようになったが、今、チョムスキー派の本を読むにつれ、同じような違和感を持つようになった。

それがナゼなのかと考えていたが、最近一つのことに気付いた。それは、チョムスキーが言葉の起源をコミュニケーションではなく、思考だと言っていることである。
これは単に起源云々という議論上の問題ではなく、人間に対する考え方の問題であると思うからである。
チョムスキーは「ただその場だけの友好的な関係を保つためだけに交わされるくだけた会話はコミュニケーションには当たらない。」と言う。
また、情報を伝えたり、聞き手の信念や態度を変えようとしたりする意図を持たない場合もコミュニケーションには当たらないと言う。
この考え方を妄信している日本のある学者は、井戸端会議やおしゃべりもコミュニケーションではないと言う。おしゃべりは情報交換を意図したものではなく、単なる時間つぶしにすぎないからだとも言っている。
ここに、チョムスキーの知至上主義、すなわち、人の気持ち、感情などを軽視した極端な考え方が現れていると思う。

おしゃべりは気持ちの交流であり、友好な関係を保とうとすることこそコミュニケーションの原点で、おしゃべりをコミュニケーションでないとするのは、そもそもコミュニケーションそのものの本質を切り捨てるようなものである。
人間は、知・情・意のバランスの上にある。そもそもは、情・意の上に知が加わり人間として進化してきたのである。知ゆえに人間となったのではあるが、それはあくまで情・意の基盤の上にであって、情・意を否定すれば、それは生身の人間ではなく、人造人間・ロボットになってしまう。
ソシュールも人間的部分‘parole’を捨てたが、それは、当時の学問的技術的限界故であったが、チョムスキーは確信的に人間の気持ちの部分を無視している。
チョムスキーは、‘聴衆が自分の言うことを理解しようとせぬばかりか考えようともしないことを十分承知していながら、単なる誠実感から自らの考えを率直に語る場合’もコミュニケーションに当たらないと言う。それでは、聴衆は何のためにあなたの講演・講義に集まったというのだろうか。あなたの講演・講義を十分理解しえたかどうかは別にして、大半の聴衆は知りたいがために集まったのではないのか。
ここに知至上主義の考え方の傲慢さ故の危うさと浅薄さを感じる。

私は、‘paroleの言語学’、‘気持ちの言語学’を提唱している。それが‘ミクロの言語場’の考え方である。
これからの言語学は‘langue’と‘parole’を統合した‘langage’の言語学、すなわち、‘マクロの言語場’と‘ミクロの言語場’を統合した‘場の言語学’でなければならない。
  平成23年2月28日

  チョムスキーの生成文法  

チョムスキーは生成文法という考え方を提唱している。この考え方は、人は言語というシステムを受け入れる何らかの枠組みを生まれながらに持っているというもので、個人の脳の中を問題にしており、私の言う‘ミクロの言語場’の範疇である。
しかし、チョムスキーは‘個’に注目しながらも、‘個’の‘知’の部分のみを考えており、‘個’の‘情・意’の部分が欠落している。また、コミュニケーションについても、‘知’の部分のみを考えており、‘情・意’、特に‘情’を無視したため、コミュニケーションそのものを否定するような結果になってしまっている。
チョムスキーは、折角、‘ミクロの言語場’に目を向けながら、‘parole’的なものを受け入れなかったため、偏った言語学になってしまった。
チョムスキーは‘思考’を言葉の起源と言っているが、そもそも言葉とは、話し手と聞き手がいての上でのことで、‘個’の内部のみで完結するものではない。
(言語そのものの実体は‘ミクロの言語場’にあるということも出来るが、現象面である‘マクロの言語場’における相互作用があってはじめて言語現象、あるいは、言語行為は成立するのである。)
一方、‘思考’は本質的には、‘個’の内部での問題である。
人類が最初の言葉を発するには、‘思考’の力も必要であったろう。特に、音と、ものごとを結び付けるには、‘思考’の力が必要であった。
しかし、‘思考’の力が向上してきたから、突然、言葉が口から出てきたとは考え難い。まして、‘思考’の力を向上させるために言葉を発明したと考えるのも、飛躍が大きすぎるように思う。(言葉の‘思考’への貢献は結果論にすぎない。)

偶然、たまたま、言葉らしいものが出てきたとしても、なぜそのようなものが、たまたま、出てきたかが説明されなければならない。
人の注意を引こうとして、あるいは、誰かをなだめようとして、声が出ることは十分ありうる。そして、その声が言葉の端くれになることもありうる。
しかし、内的作業の‘思考’と概念としての言葉との間にはそのような偶然の契機は考えられない。まして、単なる発声は‘思考’とはどうにも結びつかない。

言葉が生まれ、進化していくためには、‘思考’は必要であったろう。また、‘思考’も言葉が発明されることによって大きく進化することが出来た。
しかし、このことと、‘思考’が契機となって言葉が出来たとすることとは違う。
やはり、言葉は、グルーミングとか縄張りの主張とかのコミュニケーションの必要から生まれてきたのだろう。そして、‘思考’の進化を助ける手段としての言葉の役割は、その副産物と考えるのが妥当だと思う。
    平成23年3月1日

 →→→ チョムスキー学派の「ことばの起源と進化」を読んで  

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