新しい言語学

科学

    図解:ビジュアル

   有言の華さんへ   「感じ」について  

有言の華さんが再度私のサイトに言及されているのに気がついた。
そのサイトの中で有言の華さんは「言語の恣意性」への反論を試みておられるが、その勇気だけでなく思考の柔軟性に拍手を送りたい。また、言葉のもつ「感じ」の問題を正面から取り上げておられたので大変心強くうれしくも思った。
ただ、考え方の違いも散見されるので、今一度私の思うところを提示させていただきたい。
○ そもそも「感じ」は言語では表現しきれない。
言葉の意味にも「感じ」が付随しているが、これらの「感じ」は各自まちまちで同じとは言えない(同じということも、同じでないということも証明できない)。
○ 言葉で伝わるもの=意味+感じ
画像の説明
○ 「感じ」の問題には客観性に限界がある。従って、現在の自然科学では扱いきれない。
例えば、同じ一つのバラの花の赤さについても、見る人それぞれの感じる赤さは同じではない。少なくとも、各人の視覚網膜上の色を識別する3種の錐体細胞のそれぞれのピーク位置、並びに感度バランスが同じとは限らないからである。
○ そもそも言葉は主観であって、客観ではありえない。
交わされる言葉一つ一つには直接意味は付帯してはいない。音そのものだけである。
書き言葉は象形で記号、この記号そのものにも意味が実在しているわけではない(なお、話された言葉は単なる記号ではない)。
交わされた言葉によって、聞き手の脳の中でその言葉の意味が再現される(意味、そしてイメージと結びつけられる)。
この意味、及びイメージは聞き手それぞれ独自のものである。言葉を覚えるということは、音の体系、意味の体系、そしてイメージの体系を各自が自分の脳の中に独自に作り上げるということだからである。この主観の現象を客観的に捉えようとするのが科学なのである。(参照:場の言語学
画像の説明

○ 科学には自然科学と人文科学とがある。科学的とは自然科学的ということである。人文科学は真正の科学とはいえない。
いま、この自然科学だけではこの世界が説明しきれなくなり新しい科学の分野が拓かれつつある。その突破口の一つがハイゼンベルクの不確定性原理であり、新しい原野が複雑系の科学である(私は自己組織化の科学と呼んではどうかと思っている)。
従って、従来の自然科学を古典科学と呼ぶことにしたい。もちろん、新しい複雑系の科学はこの古典科学を包摂するものである。

以上のことから、有言の華さんが「「感じ」からの脱却が言語を科学的に捉える上で大切なのだ・・・」と弱音を吐いておられるが、私は道はあると思っている。
○ 感性を不確定性原理的考え方を援用して確率分布として捉えてはどうかと思う(「感じ」を波動(エネルギー)に擬し、言葉を粒子(位置)に擬して)。
「感じ」はそれぞれ人毎に異なる相対的なもので絶対的なものではない。しかし、各自てんでバラバラなのではなく、大数を集約すれば一定の範囲に収斂する。赤いバラは誰が見ても赤いのである。
人種間、あるいは異文化間の多少の差はあるかもしれないが、大数の法則により二項分布するのではないだろうか。
この二項分布を言語で表現するとすれば、この二項分布の中心的イメージ数個を選び出し、それらイメージの確率分布として表現すればいいのではないだろうか。光の色をRED,GREEN,BLUEのそれぞれの値によって、例えば、RGB(255.255.0)と表現するように、言葉の音‘ア’には、明るさ100、温かさ60、軽さ30、淡さ30 というように表現できるのではないだろうか。もちろん、‘ア’には、開けた感じ、前向きの感じなどもあるが、これは切り口の違いで、物理量を中心に切るか、語る人の気持ちを中心に切るかの違いで、共に間違っているわけではない(切り口は無限にある)。
「感じ」を確率分布として表現することによって、数学的数値処理が可能になる(コンピューターで扱うことが出来るということ)。一つの言葉は音の流れであるから一つの言葉を音のイメージの変化する流れと捉えることができる。流れる音全体として加算的に捉えることもできるし、アクセントなどストレスの置き方によって一部乗数効果を加味して捉えることもできる。
数値の厳密性の問題があるが、これは、一つの言葉の音の全体イメージは似顔絵のようなもので、肖像画ではないと考えることによって、解決するのではないか。すなわち、似顔絵の価値は、各寸法の正確性というよりは、全体イメージをよく伝えているかどうかで評価される、ということである。似顔絵は肖像画よりもその人物をよりリアルに伝えることができる。そして、面白い(必ずしも、正確ではないのに)。
ただ、似顔絵が科学の対象になりうるかであるが、今の古典科学では無理としても、新しい複雑系の科学では可能だと思う。今の科学で無理なのは、似顔絵が表現すべき人物像というものが余りにも多くの要因を持っているからである。やがてコンピューターで面白い似顔絵が描けるようになると思う。今でも描けるかもしれないが面白くはないだろう。似ていて面白い似顔絵をコンピューターに描かせるには膨大なデータ解析が必要だからである(肖像画は表面的な見えが中心であるが、似顔絵はその人の人物イメージという感じが表現の中心になっているから)。
一つの「感じ」の究極的似顔絵は俳句かもしれない。
○ 有言の華さんは「無論どうしてそうした結びついた「感じ」がするのかは確かに興味深いところであるが、言語の研究の領域とは考えない。」とおっしゃっているが、これではソシュールと同じ轍を踏むことになるのではないか。ソシュールは個人的で捉えることができないからといってパロールを捨て、ラングだけを研究の対象としたが、これでは本当のランガージュの研究にはならない。生きた人間を捨て死体だけを解剖して人間の研究をしたと言っているようなものである。生きた人間の動きにこそ人間の本質があり、生きたパロールにこそ言語の本質があるのだと思う。
私はパロールの中心部分に語感があると思う。特に日本語では日常言語活動の中心部分に語感が生きていると思う(生き残っているというべきかもしれない)。
○ 私が新しい言語学として語感言語学を提唱しているのは、従来の言語学が有言の華さんの「感じ」、私の言う語感を無視しているからである(逃げているからかも)。語感は生きた言語の根幹をなすもので、語感を考慮に入れない従来の言語学は死んだ言語の解体新書にすぎない。
ソシュールが複雑ゆえに扱いきれないとして除いたパロールも、当時はやむを得なかったとしても、脳科学をはじめとする自然科学のここまで進歩した現在では、言語の中心としてちゃんと取り上げるべきだと思う。まして日本語にはこの語感が十分に残っている。この利点を生かし、日本が新しい言語学、すなわち全体的な言語学(ラングだけではなく、ランガージュの)の道を切り開いていくべきだし、そのチャンスでもあると思う。
ところで、先日新聞の広告欄を見ていて「日本語は親しさを伝えられるか」という書名に出くわした。びっくり仰天して、早速、近所の書店の店頭でパラパラ、ページをめくってみたが、敬語などが引き合いに出ていて語用論的な本にみえた。馬鹿らしくなってこの本は買わなかったが、この本の著者は終助詞「ね」、「な」、「よ」などのもつニュアンスを全く感じないのだろうか。それとも、終助詞「ね」、「な」、「よ」は正式の日本語ではないと考えているのだろうか。これが我が国言語学界の現状だとすれば、悲しい。
○ 従来、私は言葉の音の響きの伝えるイメージを語感と説明してきたが、なかなかご理解が得られないので、説明を変えようと思う。
すなわち、言葉を発したときに感じる全体感覚が語感であると。
従来は聞く側に焦点を当てた説明であったが、今後は、発言側に焦点を当てた説明にしようと思っている(同じことではあるのだけれど)。

   語感の定義  

言葉の音を発した時の全体感覚、を語感という(純粋語感)。
全体感覚には、言葉を発する時の気持ち、と口腔体感がある。
発する時の気持ちとは、どんな気持ちでその音を出しているかであるが、おおらかな温かい気持ちでその音を出しているか、強い意思を表現しようとしているのか、控えめに躊躇しながら出しているか、などである(どんな音でもいいのではなく、その時の気持ち気持ちで適した音が決まってくる。例えば、明るい気持ちの時は母音‘A’系、意思をしっかり表明したい時は母音‘I’系、躊躇感を出したい時は母音‘E’系など)。
口腔体感とは、発声には7つの筋肉が絡んでいると言われているが、どこにどう力を入れるか、どう動かすか、どんな形にするか(唇、舌、口腔、喉など)、に伴う感覚、そしてその結果、皮膚感覚として直接間接に感じる全てのものを含めるが、直接的皮膚感覚としては、破裂、弾く、こする、付けるなど、そして、間接的皮膚感覚としては、流れる、抜ける、乾く、暖かい、冷たいなどがある。
この全体感覚は、言葉を覚える段階でイメージの体系として、音の体系、意味の体系と並んで脳内に構築される。それぞれの音の発声の仕方は小脳を中心に記憶され意識化出来なくなるが、これに伴うそれぞれの感覚は大脳に記憶されサブリミナル化される。
言葉の音を聞いたとき、言葉の文字を読んだとき、この音を脳内で一旦自分の音に変換する。この自分の音に脳内のイメージ体系のイメージが連動しているのである。
このように、言葉の音の聞こえのイメージの大元はその音の発音時の体感なのである。

以上、私の考え方を羅列的に提示してみたが、これで、果たして有言の華さんにご理解いただけるだろうか。
有言の華さんのいよいよのチャレンジをお祈り申し上げる。
      (平成25年5月31日)

   語感分析と感性工学  

先生
 先週は、お邪魔させていただき、お忙しい中、いろいろとご指導賜り有難うございました。
 その際、ご説明させていただきました‘語感分析’のアルゴリズムを図式化してみました。これで、細部もご理解いただけると思いますが、実際のPCでの演算過程もご覧いただければ、より分かりやすいと思います。また、一度、是非お越しください。
 先生にいただきました先生の論文「定量的な感性の評価で失われるものはどこで補うのか」を勉強させていただきました。
先生のおっしゃる質的なものを量的なものに変換する、その試みが我々のソフトです。従って、その正当性を明らかにするのが、当面の我々の課題なのです。そして、それに役立ってくれそうなのが感性工学なのです。
 感性工学こそ質的なものを量的なものに変換するためのサイエンスだと思います。感性工学は感性評価にのみ止まるべきではないと思います。調査、データの収集、分析だけではなく、ナゼの探求こそがサイエンスとしての感性工学のあり方だと思います。
 我々の‘語感分析’はナゼから出発しています。そして、その実用化には成功しました。しかし、その理論的裏付けが十分ではないのです。
 語感の問題こそ感性工学の一つの大きなテーマだと思います。
 語感は顕在意識よりもむしろ潜在意識の関わる問題です。それだけに最新科学の力が必要なのです。
 是非、先生のお力をお願いしたいと思います。
 ご指示いただければ、又いつでも先生の研究室へご説明に参ります。よろしくお願いいたします。
 遅くなりましたが、お礼傍々
                増田嗣郎
               平成24年4月23日

   科学としての語感分析  

語感分析の正当性
語感分析の正当性を問われた。それに答えるには、まず、語感分析とはどうゆうものかを定義しなければならない。そして、語感分析を定義するには、まず、語感とは何かを定義しなければならない。
辞書によれば、語感とは「ある語のもつ特別な感じ。ことばのひびき」。そして、参考として「ある語の本来の意味以外に人に与える感じをいう。」となっている。私も語感とは言葉の音のひびきの人に与えるイメージと説明したいが、定義としては一歩進めて、言葉の音を発した時の体性感覚としたいと思う。現象としては、語感は聞こえに伴うものであるが、その発生原因を考えると、そもそもはその言葉の音を発する際の気持ち、そして発音体感が、その音を聞いたときに脳内に生じ、そして、イメージとして再生されるからである。
そもそも、言葉の音そのものに異なる感じを伝え得る物理的な特性はない(高い低い、鋭い鈍い、はあるかもしれない。しかし、音の高いと‘もの’の高さは全く異なるもので、同じ高いと表現するのは一種の比喩で、共感覚も関係しているかもしれない。この比喩が抽象概念にも進展して、値段が高い、理想が高いなどとも使われるようになった。なお、英語でも同じような使われ方があるので、この高い・低いの比喩は人間の脳のクセの本質に根ざしたものなのだろう。)。
一方、人は、男も女も、大人も子供も、同じ言葉の音を出すためには同じような、舌、唇を含む口腔、鼻腔、咽頭の使い方をしなければならない。人種によって、/ア/ の発声方法が違うわけではない。口の使い方の多少の違いでも音の違いとなってしまう。
同じ方法で発声すれば、それに伴う体性感覚も同じようになる。絶対同じかというと、同じ赤いバラを見て、誰もが同じ赤と感じる程度には同じと思われる。
語感を聞こえと捉えるか、発音体感と捉えるかでは大変な違いがある。
聞こえと捉えると、音に何かがあると音を中心に考えることになる。
一方、発音体感と捉えることは、発音する人を主体と考えることである。人がある音を発するとき感じる発音体感をその音を受け取った人が自分が発音したときの経験に照らし合わせて同じように感じるので、そのそもそもの発音体感を考えればいいということになる(いわゆるミラーニューロンが関与しているのかもしれない)。
この際、音そのものは単なる仲介役にすぎない。聞いた人が経験としての発音体感を思い出すきっかけとなるだけである。だから、音は一種の記号である。しかし、約束事としての恣意的な記号ではない。発音したときの発音体感と結びついた必然的ともいえる記号である。
したがって、音そのものを分析するのではなく(今まで、いくら分析しても語感は明らかにはならなかった)、発音体感を分析することによって、その音を契機に相手の脳に再現される語感を明らかにすることが出来るのである。
語感の根源は音そのものにあるのではなく、発音する行為の中にあるということ、音の聞こえはそもそもは音を発する発音体感に由来しているというこの発想の一大転換によって、語感を科学として取り上げる道が開けた。そして、語感を突破口として言語学にサイエンスを導入する道が開かれたと思う(私は、この新しい言語学を語感言語学として深めたいと思っている)。
語感を聞こえではなく発音体感を中心とした体性感覚であると考えることによって、語感分析も音を分析するのではなく、それぞれの音を発するときの体性感覚を分析することと定義することになる。
そこで、体性感覚が分析の対象になりうるかということになる。感覚の問題は主観的なもので科学の対象とすることはむつかしいと考えられてきた。まして、感覚の評価としての主観的に生じる感性を数値化することは不可能とされてきた。しかし、私は可能だと思う。
そして、それを可能にするのは新しい感性工学ではないだろうか。感性工学は感性評価、あるいは、統計分析の学に止まってはならないと思う。
質的なものに量的な分析手法を導入する道を切り開かなければならない。
感性とは主観的ですぐれて質的なものである。この質的な感性を定量的に分析することが出来るのか。その一つの試みが語感に対する二重マトリックス変換法である。
そこで、まず問題になるのが、この数学的手順を適用することに正当性があるのかということである。
結論からいうと、私は妥当性はあると思う。
そもそも感性の問題に正当か否かは問えないと思う。
なぜなら、答えは一つに収斂するとは限らないからである。ある赤いバラを見て、私の感じる赤とあなたの感じる赤は同じではない。そもそも私の感じる赤とあなたの感じる赤を比較することすら出来ない。しかし、私の赤とあなたの赤は近似している。違うともいえない。ほぼ同じである。同じと見做すことに妥当性はある。
人間の感性の問題は脳内の現象である。感覚に伴う一つの神経インパルスはデジタルであるが、その感覚の評価として生まれる感性は多数の神経細胞からなる神経ネットワークのパターンから生じると思われる。したがって、感性はアナログな問題である。クオリアの場合と同じく、アナログなものをデジタル処理することは、そこに飛躍が生じ、真とは言い難くなる。しかし、妥当性は工夫することはできる。
そこで、二重マトリックス変換法が妥当かを検討する。
まず、体性感覚をいくつかの要素で切り取ることに妥当性があるか。
体性感覚は言葉以前のものである。いろいろなニュアンスの感覚の入り混じったものである。一種のクオリアの状態にある。これを言葉(ことのは)に表現するには、いろいろの切口で切って、その要素があるかないか、あれば強いか弱いかなどと表現するしかない。切口が少ないとそのクオリアの一面を表すに過ぎないが、多く切口を増やすほどより実態を表すことが出来るようになる。ただ、いくら切口を増やしても、そのクオリアのすべてを表現しきることは出来ない。クオリアは言葉では表現しきれないのである。ここから、問いうるのが、正しいか正しくないかではなく妥当か妥当でないかということになるのである。感性には本来正解というものはなく、あるのは妥当な解なのである。より実態を正しく表すことのできる、すなわち、妥当性のある切口を見つけ出すのは、これは技術的な問題である。
数値化は、その要素がアル・ナイを1と0とし、多いと思われれば2にし、少しと思われれば0.5とすることが出来る。そして、微妙な差を表現しようとするならそれらの中間点の値とすることが出来る。
語感分析は似顔絵のようなものである。肖像画は正確でなくてはならない。しかし、似顔絵は細かなところは省略し、一部を誇張・ディフォレメする。そして、より特徴を伝え得るものがよい似顔絵である。正確な似顔絵などありえない、似顔絵に問われるのは納得性である。なるほどと思われればよいのである。
語感分析に正確性を求めるのは適当ではない。数値化に問われるのは、結果の納得性である。出てきた結果がなるほどと思えるかどうかである。したがって、どのような値を選ぶかは技術的な問題である。ある似顔絵の眉の長さをどの程度にするかの判断と同じである。
次に分析する対象の言葉に適したイメージを選び出す。例えば、分析するのが自動車の名前であれば、スピード感、パワー、キレなどである。人の名前であれば、やさしさ、信頼感、包容力などがあるかもしれない。そして、それをレーダーチャートで表現するのであれば、イメージを12か16に絞り込めば見やすいグラフになる。形容詞句で表現したければ、形容詞句を100から200位用意し、その上位5、あるいは10を抽出するようにすればよいだろう。ただ、この時絞り込んだイメージには全体としてのバランスという妥当性が要求される。自動車のイメージを12に絞り込むのであれば、大方の人の自動車に求めるイメージを12のイメージでカバーしなければならない。走りだけにこだわっても見栄えだけに偏ってもよくない。
100のイメージ語を用意する場合も、バランスが重要である。人の性格を表現したい場合でも偏らないよう工夫する必要がある。私の場合は、人の性格の場合、らしさとして男と女、大人と子供とそれぞれ四分の一づつになるように工夫している。
このように選び出したイメージそれぞれを、先に発音体感を数値化した同じ切口で、それぞれ数値化する。

いろいろなイメージ一つ一つを数個の切口で説明するわけであるが、当然切口が多ければ多いほど、微妙な説明のし分けが可能になる。私は実際の分析では、43の物理特性を中心に76の切口で発音体感を切り出し、その同じ76の切口で4から180のイメージを表現し直している。もちろん、一つのイメージに対して76の切口一つ一つに数値を与えるわけであるが、その数値化の考え方は発音体感の数値化と同じである。
イメージ‘キレがある’と‘やさしい’を比べた場合、切口を‘固さ’とすれば、当然‘キレがある’には‘固さ’があるが、‘やさしい’には‘固さ’はない。切口に‘温かさ’を持って来れば、逆に‘キレがある’には‘温かさ’はなく、‘やさしさ’には‘温かさ’がある。ここでも、アル・ナイを1と0で表現することも出来るし、程度の違いを0.5、1.0、1.5、2.0という風に表現することも出来る。ここで議論になるのが、あるイメージの‘固さ’が、例えば1なのか1.5なのか、あるいは1.3なのかということである。
これは似顔絵を描くときの眉の太さのようなものである。本人の眉が太ければ、当然太く描くが、どの程度の太さにするかは、他とのバランスも考え、その人のイメージが一番よく出るかで決める。正しいかどうかで決めるのではなく、妥当かどうかで決めるのである。
切口の数値化は絶対的なものではなく、相対的なものである。ある一つのイメージの中での切口同士の比較、そして複数のイメージ間での同じ切口同士の比較の上で決めるが、最終的にはそれでバランスがいいかである。似顔絵でいえば、成程うまいと納得が得られるかである。ここでも問われるのは正確性ではなく妥当性である。唯一の正解ではなく、確率論的可能性である。
さらに、科学の立場から問題になるのは再現性の問題である。誰がやっても同じ結果になるかである。
一卵性双生児は全く同じ遺伝子を持って生まれる。しかし、二人の赤子の指の指紋は違う。似てはいるが同じではない。指紋には再現性はないのである。全く同じ指紋は存在しない。指紋に正しい正しくないは問えないのである。しかし、重要なことはすべての赤子に指紋があるということと、その文様も一定の範囲内にあるということである。したがって、指紋の文様を科学しようとする場合も問われるのは妥当性なのである。
人間が色を感じるのは、目の網膜上に3原色に対応する3種の錐体細胞があって、目に入った色をこの3種の錐体細胞がそれぞれに感じ、それを脳内で統合して色を識別しているからである。実はこの3種の錐体細胞の内、赤を主に感じる錐体細胞に波長564nmを中心に+−6nmをピークにもつ2種類があり、通常男性はこのうち一つしか持っていないが、女性の47%は両方を持っていると言われている。当然、男性には赤色の感度に違いのある2種類の人がいることになるが、女性の約半数は4原色でものを見ていることになり、見えている世界の違いはもっと大きなものになる。さらに、3種の細胞のバランスがすべての人で同じとは限らないので、全ての人が同じ色を同じように感じているとは限らない。しかし、これは程度の問題であって、赤いバラは誰が見ても赤いことには変わりがない。
語感分析の具体的手順としては、まず、分析対象となる言葉を音素に分解する。
日本語には母音として、a,i,u,e,o、の5ッ、そして、子音、K,S,T,N,H,M,Y,R,W,P,並びにその有声音、G,Z,D,B,そしてそれらの拗音があり、加えて特殊効果音として、撥音、促音、長音がある。
日本語としては、本来の日本語の音111(拍)に加えて外来語の音24を加えて135の音があると言われている。
私は、これらを母音と子音に分け、30の音素として分けることにした。
RとLを区別するかは議論のあるところではあるが、発音し分けられないが、語感としては聞き分けているかもしれないので、区別することにしている。HiはH音(声門音)ではないので別建てとしている。
以上の30の音素の一つ一つに76の切口の数値を与える。これが、語感マトリックスである。
一つの言葉の持っている音素一つ一つの76の切口の値を求め、それを切口毎に集計する。これがその言葉の語感(切口要素)の値(数列)である。
言葉は音素の流れとして聞き手の脳内で処理されイメージ群の流れとなる。したがって、時間的一定のスパンを考えると、すべての音素が順次的に処理されるので、語感要素も加算するのである。
このように算出された値(語感要素の数列)と用意したイメージのセット(4〜180)とを対比させる。そして、対象の言葉の持つ語感要素の数列に似た数列を持つイメージほど対象の言葉に近いイメージなのである。
2つの数列の近似度をどの様に算出するか。それは2つの数列の同じ項目を掛け合わせそれを合計すればいいのである。よく似た数値構成をもつものほど合計値が大きくなるのである。(これは、合計が同じ10であれば、2つの数の積は、同じ数5*5=25が最大となり、6*4=24、7*3=21、8*2=16 と2つの数が離れるほど積が小さくなることからも分る。)
以上を纏めると、
まず分析する言葉を音素に分解する。
次に、語感マトリックスを使って、その言葉の語感要素(切口)の数値の列を算出する。
その数値の列をイメージマトリックスの同じ要素(切口)に掛け合わせ、その積をイメージ毎に合計する。これが各イメージの値である。
この各イメージの値は相対値であるから、イメージを順序付けベスト3、ベスト10という風に抽出することが出来る。また、全体像を見るためには折れ線グラフ、レーダーチャートなどにするが、レーダーチャートは項目とするイメージの数を4からせいぜい20位にするのが見やすい。この場合も、相対値であるから、単位を変えることは勿論、それぞれをべき乗してグラフを見やすくしても、論理的正当性は損なわれない。
ここで妥当性について一つ問題になるのが、発音体感の切口と同じ切口でイメージを切っていいのかということである。
発音体感は、基本的には気持ちと口腔内体感であるが、口腔内体感は触覚を中心とした感覚である。物事の表現としての、ここでいうイメージとは、見たり聞いたり感じたりしての印象、あるいは感想である。印象とは、感覚に対する評価、すなわち脳内反応である。感覚には視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚があるが、視覚、聴覚のベースには触覚がある。ものの大きさ、輪郭は視覚の問題のように思えるが、赤ん坊は手で触って、なめて、ものの輪郭を認識できるようになるのである。見たり聞いたり感じたりの大元は触覚なのである。したがって、イメージも触覚を中心とした感覚に対する脳内の反応という意味で発音体感と同じ種類のものなのである。ただ、同じ感覚でも、対象が口腔内に限られるものと外界すべてを含むものとでは広がりが違う。その分、発音体感に比べイメージ一般としては切口を広げておく必要がある。基本的には発音体感とイメージを同じ切口で切ってもよいということである。
物事を大掴みするときには、白か黒か、正か邪か、陰か陽かなどの二分法がある。三分法としては、○×△、知情意などがある。これらは分りやすいが、やや乱暴である。
五感に基づく物理的特性、例えば、重い軽い、大きい小さい、固い柔かい、乾いた濡れた、滑らか粗い、明るい暗い、高い低い、温かい冷たい、などにやや複合的な動き、早い遅い、回転揺れ、拡散集中、などを加え、切口として43用意したが、これだけあれば感覚評価としてのイメージを表現し分けるには十分と思われる。ただ、実際の分析はこれらに、より複合的な切口、並びに文化的な要素、例えば、男性的か女性的か、前向きか引き気味か、外向きか内向きかなどを加え、76の切口で分析している。

そもそも言葉とは、声とは、ものごとを人の声の音で相手に伝えようとしたものである。自分の気持ちを中心に相手に何かが伝わり分かってもらうために作り出され(たまたまかもしれないが)、進化してきたものだろう。
したがって、声の音とは、気持を中心としたものごとの代替え品、あるいは象徴物である。代替え品、あるいは象徴物でありうるには、その伝えようとするものごとと共通のものをもっていなければならない。類似のものをもっていなければならない。何に共通性を見るか、類似性を見るか。そこには大きな飛躍がある。
人類進化の大きな流れの中で、動物の姿を岩壁に線描するという飛躍、抽象化をはたしたように、声でものごとを表すという飛躍、抽象化をはたしたのであるが、壁画は輪郭という抽象化による視覚上の3次元の2次元化であるが、声は主として視覚的なものの聴覚的なものへの一大変換である。
しかし、聴覚的なものも発音体感という体感的なものに還元できるので、伝えたい気持ちという体感的なものとは、むしろ基盤としては共通のものをもっていることになる。
一旦、気持を声に表すことを覚えれば、その気持の違いの表現し分けへと進化し、それが声の種類の増加、そして声の複合化、すなわち言葉へと進化していったのだろう。
声の連なりとしての言葉が生まれたことによって、表現の対象も気持だけではなく、もの、そして‘こと’へと広がっていったのだろう。
日本語の場合、相手にあるものに注意を向けさせるために、そのものを指さし、もっとも自然な‘あ’という声を出した。そこから‘あれ’という表現が生まれたのだろう。自分の胸に手を当てて‘あ’といった。ここから‘吾’が生まれた。相手に向かって‘あ’といった。ここから‘あなた’的表現も生まれたのだろう。また、ただ単に‘あ’と声を出したことから‘ある’という言葉も生まれたのだろう。これらすべての表現から、声として最も自然で最も原初的な‘あ’が存在そのものを表象していることが覗える。
‘あ’に存在そのものを感じさせる語感があるのである。もちろん、この語感は発音体感に由来するので、日本語だけではなく言語の如何に関わりなく存在する基本的なものであると思われる。
ある程度言葉が増えてくると、その使い方に集団としてのクセのようなものが出てくる。最初はたまたまある傾向が現れ、それが次への変化に影響し、集団それぞれ独自のクセへと成長していく。すなわち、言葉が自己組織化的に成長していくのである。
こうしていろいろな言語が生まれた。一つの言語がいくつかに分かれ、それぞれに変化し、また、それらの一部が統合され新しい言語になるというような変化も繰り返されたのだろう。したがって、今現在、存在する言語それぞれをみても、それなりにそれぞれのクセ、文法をもっているが、文法そのものが非常に複雑になっている。(文法そのものが後講釈のようなものだから作るのが大変むつかしい。当然、上手下手が出てくる。今の日本の学校文法は上手ではない。)
日本語は、日本列島が地理的に隔離されていることもあって、他の言語の影響を比較的受けていないようではあるが、それでも変則活用などがある。また、いくつかの系統の異なる言葉も混在しているようである。日本語の基調をなしている大和言葉にも、‘みず’という言葉と水を表していたであろう痕跡を残す‘し’という言葉があり、また、それを合体した‘しみず’という言葉もある。(痕跡:しみる、したたる、しぼむ、しおれる、しずむ、しなびる、死ぬ、霜、など水に関する言葉が多く残っている)
言語は、発音体感という人類共通の同じ基盤から出来たとしても、集団ごとの諸々の違いによって、それぞれ違った方向へ進化していって、今のような言語現象の多様性に至っているのである。
この言語の進化は自己組織化的現象で、言語は創発システムであるということもできる。
したがって、言語の問題は正しいか正しくないかというような単純な線形科学ではなく、確率論や多様性を包含できる非線形科学でアプローチする必要がある。そして、そこで求められるのは正確性ではなく、妥当性ではないだろうか。
語感分析で得られるのは、唯一の正解ではなく、確率論的解分布である。可能性の広がりである。
イメージ語ベスト10で、1位と2位との差は、それが最も強く感じられる可能性の差にすぎない。2位のイメージを1位のイメージより強く感じる人もありうるのである。ただ、1位と10位では、その差は大きく、10位の方を強く感じる可能性は非常に小さくなる。

   語感分析と複雑系の科学  

人間の科学 (再現性の問題)
人間についての科学は科学的ということが出来るか。
科学的というには再現性がなければならない(科学的とは、自然科学的ということ)。
人間の男と女がいて、子供を作った。
可愛い男の赤ちゃんが生まれた。
もう一人欲しいと思って、子供を作る努力をした。
また赤ちゃんが生まれた。しかし、この赤ちゃんは最初の赤ちゃんとは同じではなかった。女の子である上、容貌も気質も違っているようだ。
さて、ここで赤ちゃんの誕生に再現性があると言えるのかが問題となる。
男と女がいて、ある努力をして子供が生まれる。ここには再現性がみられる。メカニズムとしての再現性である。
しかし、生まれた子供は同じではない。二人として同じ子供は生まれない。ここには再現性はない。
では、ナゼ同じ子供が生まれないのか。それは、そもそも同じ精子、同じ卵子が存在しないからである。(本質的には、同じ精子、同じ卵子でも、そっくり同じ子供は生まれない。)
この世に同じ人間は二人と存在しない。
これが、人間、そして、生物の特質なのである。
人間を構成する元素一つ一つに還元すれば、誰の元素もみな同じである。しかし、それらが無数に集まって出来た人間は一人ひとり全く異なる。同じ材料を使っても、また同じメカニズムに従っても、二つと同じものには組み上がらない。
子供が生まれるという再現性はある。しかし、同じ顔、同じ気質の子供は生まれない。再現性はない。
子供というものは再現されるが、その子の個性という質的なものは再現できないのである。
子供が誕生するメカニズムは、メカニズムとしては再現性があるので自然科学の対象である。
個性という質的なものを生み出すメカニズムは非常に複雑で、その結果として再現性はない。
この複雑な系で働くメカニズムは自己組織化と呼ばれる。そして、この自己組織化の働いている系のあり方を創発システムと呼ぶこともある。
この複雑なものを扱う複雑系の科学では再現性は問わない。むしろ、多様性が前提となる。
以上の考え方を語感分析にあてはめると、発音体感の生じるメカニズムは原理の問題で、科学的ということが出来る。しかし、音素一つ一つの発音体感はクオリアで、質的なものであるから、従来の科学では対応しきれない。感性の中身については、多様性を容認する考え方、すなわち、複雑系の科学的な考え方が必要なのである。(複雑系の科学では、全体像の中での論理的展開の正しさが問われる。)
語感分析、そのものの手続きは科学的に正当といえるが、分析結果の言語的表現には多様性があり、問えるのは妥当性(確率論)である。すなわち、似顔絵のように、正しいか正しくないかは問えなく、問えるのは上手いか下手かである。納得性であり、妥当性である。(ちなみに、分析結果をグラフに表示する場合も、項目(切口)は言語表現であるから上手い下手がありうる。)
科学も今や旧来の線形のみを扱う数理科学オンリーの時代から非線形で不連続な離散系をも扱う複雑系科学の時代へ移り変わりつつあるのである。
天動説から地動説への転換時のように、未だ複雑系的発想の理解できない線形科学者が自然科学者の中でも大半を占めているのだという。
   (平成24年5月27日)

   語感言語学は科学か  

この語感言語学のサイトに触れた論評があったので、それに対するコメントを書いてみた。

有言の華さん

私の語感言語学のサイトをご覧いただき有難うございました。
また、長い間気がつきませず申し訳ありません。(普段あまりネットサーフィンをしないものですから)

私は、お分かりと思いますが、言語学者ではありません。大学では数理経済学を専攻した者です。たまたま語感の研究を始め、語感の存在への世間の気づきの余りのなさに驚き、何とか理解を広めたいと思いサイトを立ち上げました。(ですから、最初に興味本位のお名前分析、次に語感分析の実例、そして、この語感言語学のサイトを立ち上げました。)

先生のお書きになった文章を見ますと、やや誤解があるようですので、二三説明させてください。

○「メタ的な術語と対象となる「語」、あるいは語感の混同(破裂音だから破裂に関する、というような。)」
とありますが、破裂音というのは、口腔に貯めた息を唇を破裂させるようにして出す音ゆえに破裂音というのですが、当然、この時、身体感覚(口腔体感)として破裂の感覚が生じるのです。これが語感です。私は語感の大元は発音時の身体感覚だと思っています。

○「普遍の真理なるものを想定してしまっている・・・」
これは言語矛盾でしょう(あるいは二重表現)。普遍なるものを真理というのではないでしょうか。
先生は、また「・・・科学の方向性も、もしかしたらいつか潰えるかもしれない・・・」ともおっしゃっていますが、私は現代の科学が全否定されることはありえないと思います。
 ただ、現代の科学を包摂するより大きな考え方が出てくると思います。
(特殊相対性理論に対する一般相対性理論のように。また、天動説も地動説に覆されたように見えますが、今では全てが動いていて相対的な問題に過ぎなかったことが分かっています。)

○私は科学と科学的ということは峻別すべきだと思います。
今の言語学は科学でしょうか。
科学にはナゼが必要です。今の言語学はナゼから出発していますか。
ナゼ、人は言葉を発するようになったのか。そこに言語の本質があるのではないでしょうか。
言語とは何か、とはそうゆうことではないでしょうか。
科学と科学的とは違います。科学的とは方法論にすぎません。
人文科学(特に経済学)では科学的手法(例えば、数理統計分析)を用いることによって、あるいは、単に数字で表現することによって、科学と称する傾向があります。
しかし、これは間違いです。科学的手法を使っていることと、科学であることとは本質的に異なります。もちろん、科学は科学的手法を持ちいてなされねばなりませんが。
現象(例えば、言語現象)から帰納的に仮説を見出し、これから演繹し、帰納的に証明するのが科学ではないでしょうか。
(ただ、複雑系の科学となると再現性の問題もあって、次元を上げて考える必要があると思います。現代の論理をリニアー、あるいは平面の論理とすると、複雑系の科学の論理は立体の論理ということになるからです。ちなみに、人間の脳のネットワークは直線ではなく、ループもあって高次のネットワークと考えられます。)

○先生は「感じろ」とおっしゃっていますが、私も全くそうだと思います。私は言葉一つ一つに感じて欲しいと思っています。そして、言葉の中ではオノマトペが最も感じやすいと思います。言語学の研究対象としてオノマトペを除外することは、折角、日本語環境に生まれ育った日本人として、誠にもったいないことだと思います。

○ところで、先生は人工言語の研究をなさっているようですが、人工言語では微妙な気持ちはどのように表現するのですか。
子供が親に甘える時の表現「ネーネー、お母さん」などは、どのように取り扱うのですか。助詞のようなものがあるのですか。顔文字のようなものを使うのですか。
あるいは、感情のようなものは考慮しないのですか。ソシュールが考えたように、パロール的なものは除外して、ランガージュ的なもののみを扱うのですか。もしそうなら、人工言語は記号論の一種だということですね。
先生のおっしゃる「言語とは何か」と考えるとき、当然、美しいとか、難しいとかの感覚的な言語観に留まるのではなく、人間の気持ちにまで踏み込んで考える必要があると思います。
私は、気持ちの伝達こそ言語の本質だと思います。(ですから、文字言語は言語の本質からすれば二次的なものだと思います。)
その意味ではソシュールの言語学も特殊な言語学として出発したと思います。それに一般理論と名づけたのは誇大広告です。後世の人々を誤らせたと思います。感情を豊富に伝える日本語で育った日本人までがそれに踊らされているのは残念です。
ついでに言えば、チョムスキーの言語学も構造という形に注目した記号論でしょう。欧米語で帰納した表面的なパターン(文法)に日本語をはめ込もうとするのは少し無理があるのではないでしょうか。私は、むしろ、言語の底にある思考パターンに法則性があって、人それぞれにその国の言語を獲得できるのではないかと思っています。
ですから、言語とは何かを考える上でも、脳内の思考の機序の解明を一層進めていく必要があると思います(脳内論理)。
先生はいかがお考えですか。

いろいろと門外漢が生意気なことを書いてしまいました。日本語を愛するが故です。ご無礼をお許し下さい。先生のさらなるご指導をいただければと願っています。
      (平成24年10月25日)
    増田嗣郎

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