新しい言語学

仮説の検証

   発見!  語感の分かる科学者  

新発見!!! 正統派の学者でありながら語感、音象徴のことが分かる研究者がいた。
西原忠毅、元九州大学教授、英語学、音声学の研究者である。
人の勧めで、ある日本語に関する本を読んでいたら、その中に気になる書名を見つけた。早速、取り寄せて読んでみた。素晴らしい研究書であった。
本の題名は、「音声と意味(SOUND AND SENSE)」。
併せて同じ著者の「日本語の音感−短歌を素材として−」を取り寄せたが、これも素晴らしい研究書であった。
「音声と意味(SOUND AND SENSE)」には副題として「−現代英語における語音感の研究−(A Study of the Expressiveness of Word-Sound in Modern English)」とある。
‘語音感’とある。語感をまともに取り上げた研究書である。英語が対象となっているが、日本語の母音についても言及している。なによりもこの本の素晴らしいのは、著者が語感を感じ分けていて、語感の存在を当然のこととして、語感の詳細を明らかにしようとしている点である。学者でありながら、若い頃から短歌を詠まれる感性を持っておられたからなのだろう。
「日本語の音感−短歌を素材として−」には日本語の子音の語感についての考察もある。
現代の日本のオノマトペ研究者においてすら、自分の脳内で感性と知性の分離が出来ず、本来の語感と意味的連想を混同している方が大半であるが、本書では、その辺りもハッキリ区別し、語感成立の機序にまで迫ろうとしている。音声学を研究しておられる故か研究態度は、文系の研究としては、極めて科学的である。(なお、現代日本の研究者としては、哲学者の鷲田清一先生が語感をよく感じ分けておられる(「「ぐずぐず」の理由」)。)
ただ、西原忠毅先生は1913年のお生まれ故に、最新脳科学の知見を得てはおられず、語感の根本的な成因を共感覚にしてしまわれたことは、残念なことであった。ただこれも、現在の最先端のオノマトペ研究グループですら同じ過ちを犯しているので、已む得ないことであったのかもしれない。折角、発声調音運動の重要性に気付いておられたのであるから、惜しいことではあった。
また、クオリア、あるいは複雑系の科学の考え方が知られていなかったこともあってか、アンケート調査、あるいは分析なども、clear―dull のようにリニアーなものになっていて、母音・子音の言音感を十分抽出し切れていない。ただこれも、現在のオノマトペ研究者においても同じことではある。‘明るい’といっても、/ア/のもつ明るさと/イ/のもつ明るさでは明るさが違う。/ア/のもつ明るさは開けた明るさで、/イ/のもつ明るさは鋭い輝きとしての明るさである。このように種類の違う明るさをどちらが明るいか尋ねても、あるいは研究してもあまり意味はない。‘大きい’についても同じで、/ア/のもつ大きさのイメージと/オ/のもつ大きさのイメージとでは違う。/ア/は広がりとしての大きさで、/オ/は塊としての大きさである。比べてみても意味はない。オノマトペ研究ではこのようなことを未だに行われているのが実状である。

この本の極めて優れている点は、英語を対象としながら極めて実例が豊富なことと、概念の規定が明確なことである。
私は従来から語感言語学を語るにあたり、提示する概念を英語では何と言うのだろうかと考えながらやってきた。日本語の概念を英語にすることによってその概念がより具体的、あるいは明確になるからである。その点、この本では主要な概念には英語での表現も併記されていて、理解に役立つと共に、英語についての造詣のあまり深くない私にとっては非常に参考になった。

この本の表題は「音声と意味」である。その英語表記は「SOUND AND SENSE」。
では、‘音声’は‘sound’か。‘意味’は‘sense’か。
‘音声’は‘voice’ではないのか。‘sound’と‘voice’は同じか。‘voice’は一種の‘sound’である。しかし、‘voice’は単なる‘sound’ではない。‘voice’は人間に固有のものである。‘sound’は一般概念である。
また、 ‘意味’は通常‘meaning’である。‘sense’と‘meaning’は同じか。‘meaning’は知性的なもの。‘sense’は感性的なもの。むしろ反対である。
ではなぜ、西原忠毅先生はこのようにされたのだろうか。
私の推測では、日本人はもともと言葉の音に感性的なもの、語感を感じる。一方、英語人は言葉を知的なものであるべきとして感性的なものを無視してきた。それ故、英語ではあえて感性的なものを提示していることを表現したかったのではないだろうか。(単に先頭子音のSとSを揃えたのかもしれないが)。

‘語音’を英語でなんと表現するか。私は‘sound of voice’としてきた。しかし、この本では‘word-sound’となっている。なるほどそうか。納得である。
‘語感’をどう表現するかもいろいろ迷ってきた。辞書による英訳は‘a feeling of a word’、‘a nuance of a word’、‘a sense of language’などである。それがこの本では‘shade of meaning’となっている。言いえて妙。ただ、やや‘意味’に拘束されている感もある。  
一方、先生は個人的な体験に基づく無拘束な連想も‘語感’のなかに入れておられる。なるほど、感性は個人個人の主観のものである。しかし、特殊な個人体験に基づくものは排除すべきだと思う。その言語を使う大多数が感じる、あるいは感じ得るものに限るべきだと思う。西原先生の‘語感’の意味するところは広すぎると思う(逆に、英語表現‘shade’では狭すぎる)。

西原忠毅先生は‘語音感’という概念を使っておられる。‘語音感’という言葉は私が初めて使ったと思っていたが既に使われていたのである。私は‘語感’を‘語音感’と‘言音感’に分けて考えてきたが、西原先生は‘語感’を‘語音感’と‘音感’とし、それに‘音感形態素’なる概念を加えて考えておられる。‘音感形態素’というのは、例えば単語‘slip’の‘sl-’のようなもので、単語の一部で独自の音感をもった構成要素である。日本語の拍はこれに近いかもしれない(単拍の語もあるが)。そこで、西原先生に習って、‘語感’を‘語音感’、‘言音感’、‘音感’にしたいと思う。すなわち、‘語音感’は語についてのもの、‘言音感’は拍についてのもの、‘音感’は音素についてのものとしたいのである。
この本のサブタイトルとして、‘語音感’を‘expressiveness of word-sound’としておられる。‘語感(shade of meaning)’とされなかったのはなぜか。‘shade of meaning’よりは‘expressiveness of word-sound’の方が明確だからであろう。一方、本文の中では、‘暗示性’を‘expressive’としておられる。私などは、‘nuance’としたいところであるが、‘expressiveness’と‘nuance’はどう違うか。‘expressive’には積極性が感じられるが、‘nuance’は消極的である。英語人と日本人の国民性の違いを読んでの使い分けかもしれない。(‘shade’も消極的)
先生は‘音感語’なる概念も使っておられる。音感によって出来た言葉である。オノマトペだけではなく一般語も含まれている。‘roll’、‘slip’などを挙げておられるが、‘roll’に至っては擬態語だとまで言っておられる。また、調音器官の動きから、/m/ が‘mouth’と、/n/ が‘nose’と関係があるとしておられるが、非常に面白い指摘だと思う。‘音感語’を今一冊のご著書「日本語の音感」では‘表出語’としておられる。

私の従来からの主張は、「‘語感’の生じる主な原因は発音時の体感である」というものである。発音時の体感には、発音の際の口腔、咽頭腔の運動感覚、その結果生じる皮膚感覚に加え、そもそもその音を発しようとする心的態度、すなわち気持ちも含まれる。そして、言葉を聞いてある語感を感じ得るのは、その言葉を自ら発したときの感覚を記憶しているからである、としてきた。
この本の素晴らしいのは、このあたりにまで議論が及んでいることである。
「Wundt以来、発音器官の運動を音感形成の一つの大きな原因とみなす説があって、それが共感覚の理論となっている。われわれはそれに賛同する立場であって、聴覚印象と同様に調音感覚を重視するものである。」さらに「語音は聴覚的存在であると同時に発声感覚上の存在でもある。(呼吸圧から喉頭を経て唇に至るまでの運動感覚が関与する。」とまで言っておられる。「西欧の言語学者には、調音器官の運動を通じて初めて対象の擬態性を感受する可能性が生じるもののような考え方をする学者が多い。もちろん対象の擬態性と聴覚印象と調音上の運動感覚の三者が完全にあるいは大凡一致すれば、対象の擬態性を把握する仕組みはなおよく説明がつくであろう。しかし、必ずしもそれを必要としない。言葉の場合は聴覚印象として擬態性が感じられさえすれば、対象の擬態性を知覚しうるというのが共感覚の理論である。」とおっしゃるのである。さらに「外部運動の模写には、解釈者の側にそれに対応する調音運動の縮図がなければならぬ、ということはない。」と念押しまでしておられる。
しかし、これは間違いである。なければならないのである。この点に関しては、多くの西欧の言語学者が正しいのである。
では、先生は何をどう間違えたのか。それは、共感覚を過大に評価してしまったからである。
では、そもそも共感覚とはなにか。
文字、数字に色が見えたり、音、母音、子音に色が着いて聞こえたり、形に味を感じたりする人たちがおり、このような感覚を共感覚というが、重要な点は、これらが異常ということである。全ての人が感じる共通感覚ではない。例えば、同じく数字に色を感じる共感覚者でも、人によって同じ数字に感じる色が同じではないということがあるのである。共通ではなく、バラバラなのである。
では、先生は共感覚をどの様に理解しておられたか。
「解釈者の外にある対象が五官に感受され、その印象が心の深層で、音素およびその一定の結合方式からなる網の目にかけて焼き直されて、聴覚的模像ができあがる。・・・聴覚以外の感覚器官で受容されたものも、心の奥の一つのるつぼで溶融・射出されることによって、視覚や触覚や運動感覚の所与が語音に組み立てられる機構を思えば、これまた十分首肯できる。」とおっしゃっており、何か一つの感覚を他の感覚に変換する機構が心の中に存在すると考えておられる様である。聴覚印象として擬態性を感じる機序を天与のブラックボックスとしてしまわれたのである。
私は、聴覚印象として擬態性を感じるのは、その同じ音を発した時に感じた発音体感のすべてを記憶(無意識に)していたからだと思う。
そもそも言葉の音は同じ音でも発音する人によって違う。年配者の発する/ア/と子供たちの発する/ア/では音の高さもかなり違う。言葉の音の違い、例えば母音/ア/と/イ/の違いは、単なる周波数の違いではない。もちろん、主たる周波数も違う。
ではなぜ、それが同じ音、/ア/なら/ア/に聞こえるのか。
一つの声の音はいろいろな周波数の波が重なり合わさって出来ている。この音の波の組み合わさり方によって、母音の違いが聞き分けられるのである。この組合せ方の違いを覚えることによって、年配者の/ア/も子供たちの/ア/も同じ言葉の音/ア/と認識できるのである。幼児が言葉を覚える過程で、脳の中に言葉の音の違いのリスト、いわゆる音韻秩序のようなものが出来るのである。人は他人の言葉を聞いた時、その音韻秩序に照らし合わせて、それが/ア/なのか/イ/なのか判断し分け、自分の脳の中では自分の音/ア/なら/ア/として、言葉として処理するのである。言葉を理解する上では、お父さんの/ア/もお母さんの/ア/も同じである。脳内では自分の/ア/として処理し理解するのである。
一方、自分の/ア/を、ある言葉の一部として発音する時、必ず発音の際の何らかの体感が生じる。無自覚かもしれないが、無意識裡にいろいろな感覚が生じている。そして、これらの感覚は先の音韻秩序のサブシステムとして、音韻と結び付けられて、脳内に蓄積される。これが音感秩序である。
音韻秩序と音感秩序は表裏一体の関係にある。お父さんの「おはよう」、お母さんの「おはよう」を聞いた時、「オハヨウ」の/オ/も/ハ/も/ヨー/も、脳内では音韻秩序によって一旦自分の/オ/、/ハ/、/ヨー/に変換されるが、同時に音感秩序によって、/オ/、/ハ/、/ヨー/などの音感、言音感が感じられるのである。
西原先生は、聴覚印象と調音感覚を別々のものと考えておられる様であるが、聴覚印象と調音感覚は同じものなのである。調音感覚の記憶が聴覚印象として再現されるのである。決して、共感覚ではない。
共感覚といえば、現代日本の最先端のオノマトペ研究者もラマチャンドランの「共感覚的ブートストラッピング仮説」を信奉しているようである。この説は、アメリカの脳生理学者ラマチャンドランが「ブーバ・キキ」実験の説明として唱えているものである。
「ブーバ・キキ」実験とは、‘とげとげした図形’と‘まるっぽい図形’を見せ、それぞれの名前として‘ブーバ’と‘キキ’という音を聞かせ、どちらがどちらの名前と思うかを答えさせるもので、‘とげとげした図形’の名前を‘キキ’とした者が95〜98%いるとしている。(「脳の中の幽霊 ふたたび」)
ラマチャンドランは、‘とげとげした図形’と‘キキ’という音を結びつけるのは、大脳前頭葉のブローカ野で視覚情報を伝える神経細胞と聴覚情報を伝える神経細胞がクロスに活性化するからだとしているが、これは間違いである。
‘とげとげの図形’を見るのは視覚である。しかし、それに鋭さなどを感じるのは幼児期の体験である。赤子は何でも触りまくる。そして、舐めたり口に入れたりする。そのようにして、角ばったものに鋭さを感じたりして、それを覚えていくのである。したがって、鋭さを感じるのは触覚なのである。一方、‘キキ’という音に鋭さを感じるのは、/ki/という音の発音時に鋭さを感じるからである。/k/の発音は、喉の奥を一旦締め、そこを小さく破裂させて息を口腔に流し込む、この時固い感じ、キレの感じ、小ささの感じなどが生じる。/i/の発音は口先に力を入れ、つめるように息を出すので、小さく、鋭く、真っすぐな感じがする。ここから/ki/には、固く、鋭く、小さく、真っすぐなイメージ、すなわちとげとげ感を暗示しうる発音体感が生じるのである。この発音体感のほとんどは皮膚感覚、すなわち触覚である。結局、視覚の基の触覚と聴覚の基の触覚、触覚同士のマッチングであるから共感覚というようなおおそれたものではない。
ラマチャンドランが間違えたのは、言語というものの本質がよく分からなかったからである。そして、聴覚印象が調音体感に根差すことに気付かなかったのである。しかし、言語の専門家であるオノマトペの研究者が、このような説を、もっともらしいからといって、信奉するのは軽率である(「オノマトペ研究の射程」)。
ただ、われわれが音の有り様に高い・低いという空間の位置概念を適用して何らの疑念も持たないのは、共感覚的なものが残っているからかもしれない。英語でも、空間・音双方について、high, lowという概念を共通に使う。また、音の周波数が多いのを高いと表現するのも、日本語、英語同じである。
この、高い音に鋭さ、低い音に重さを感じるのも共感覚なのだろうか。
人類の長い間の経験として、風鳴り、鳥の声などの高い音は上から聞こえる。そして、地鳴りなど低い音は下から聞こえる。このような人類の経験の蓄積がDNAに刻み込まれているのかもしれない。これも一種の共感覚なのだろうか(後天的ではあるが)。

なお、脳内には、音韻秩序のバリエイションとして、日本語では拍秩序、語彙秩序が作られ、同じく音感秩序の延長として、言音感秩序、語音感秩序的なものも作られる。そして、それらはそれぞれセットとして表裏一体となっている。
西原先生は「五官の分化発達は生物の進化に伴なったもので、未発達の段階では感覚は一つであった・・・」ということまでご存知であった。これは赤ん坊についても同じで、生まれてすぐは五感は十分分化しておらず、生後外部環境に曝されながら分化発達していくのであるが、その際一部の感覚が未分化のまま残ってしまったのが共感覚なのである。
西原先生は、音感を生得的なものと考えておられたようだが、これは、ノーム・チョムスキーの生成文法の発想とも似たところがある(共に間違いである)。
なお、絶対音感と共感覚は似たところがある。すべての人は絶対音感を持って生まれるが、言葉を獲得していく過程で大半の人は絶対音感を失ってしまう。しかし、ごく一部の人はその後も絶対音感を持ち続けるのである。

西原先生は、母音の音感を調べるため九州大学の学生299名を対象に書面によるアンケート調査(五母音がどのような共感覚をどの程度喚起するか測定するためとして)をしておられる。調査方法は、母音5つのそれぞれについて、例えば、高い低いを4段階に分け、該当すると思われる項目に丸を付けさせるものであるが、項目は、聴覚としての高い低いに始まり、位置としての高い低いもあり、かなり多岐に亘っている。その他、強い弱い、澄んだ濁った、明るい暗い、熱い冷たい、堅い柔かい、大きい小さい、太い細い、長い短い、広い狭い、軽い重い、鋭い鈍い、速い遅いなどがあるが、いかがかと思われるのは、陽気陰気、甘い辛い苦い、を問う質問まである。母音5つにそれに感じる色彩まで問うておられるが、先生は音に色を感じておられたのだろうか(私は音に色を結びつけることに失敗した)。

このようなアンケート方式による調査の問題点、すなわち限界を出発点として、以下、語感について考えてみたい。

○ 語感の大半は無意識層で感じられており、このような単純な○×的質問で意識の表面に呼び出すことが出来るのか。例えば、音の高さ低さを問う質問と位置としての高さ低さを問う質問があるが、大半の回答者は同じ答えを出したと思われる。しかし、実際は違うのである。日本語オノマトペに音の高さを表すものとして、鐘の音、キン・コン・カンがある。同じように野球の打球の飛び方を表現するオノマトペとして、カーン、キーン、コーンがある。それぞれの高さはどうか。
 音   キンキン>カンカン>コンコン
 位置  カーン>キーン>コーン
子音/k/、および促音/ン/は共通であるから省くと、
 音    i    >  a  > o
 位置   a   >  i  > o
となり、異なる。これは/i/の方が/a/よりも周波数が多いのであるが、空間的には/a/に広がりのイメージがあって、野球の球が空高く舞い上がるイメージとなるのである。ちなみに、キーンはライナー性の当たりだろう。
大きい小さいにハッキリとした答えが出なかったのは、/a/の広がりとしての大きさ、/o/の纏まりとしての大きさがいっしょくたになって判別しにくかったのではないだろうか。
重い軽いにハッキリした答えが出なかったのは不思議である。野球の球でコーンといえば、ゴロが連想されるのではないだろうか。
その点、ラマチャンドランの‘ブーバ・キキ’的設問の方が答えは出やすい。

○ 母音五つを一律に‘明るい暗い’、‘大きい小さい’のように較べるのは無理がある。母音それぞれに個性があって、明るいものもあれば、小さいものもある半面、どちらでもないものもある。結果、/e/は曖昧となってしまったのである。/e/の個性は極端な言い方をすれば、‘曖昧’であるが、細かくは、後ろに身を引く遠慮、躊躇、そして下に広がる繋がりのイメージなどである。/e/の発音には顎、舌を少し引くような感覚がある。
また、先に述べたように、明るさにも大きさにも、そして高さにもそれぞれ違いがある。
較べるのではなく、それぞれの個性を明確にする調査法が必要なのではないだろうか。
5つの母音の持つイメージの違いは、次の4つの回転を表すオノマトペで感じ分けられる(/e/は音感が回転にそぐわないので無いが)。それぞれ回転の仕方が違う。
  カラカラ     乾いて固い、空き缶のようなものが、音を立てて
  キリキリ     縦に、鋭く
  クルクル     周りを
  コロコロ     転がるように
驚きを表す感嘆詞、笑い声にも違いは明白である。
  アッ!    あっはっは
  イッ!    いっひっひ
  ウッ!    うっふっふ
  エッ!    えっへっへ
  オッ!    おっほっほ
あっけらかんとしてオープンな驚き、気に障る驚き、メンタルに詰った驚き(たじろぎ)、意外感のある驚き、感動の驚き、である。
また、おおらかな大笑い、隠微、陰険な笑い、ほくそ笑みの含み笑い、へつらいの笑い、乙に澄ましたお上品な笑い、である。

○ 以上からも分かる通り、母音の音感は多面的である。そもそもが発音体感であるからクオリア的で、切口によっていろいろな表現になってしまう。その点は西原先生も気付いておられ次のように言っておられる。
「ここでわれわれの母音に対する音感を表現するのに、clear : dullやlight : darknessという用語を使用することに関して少し考えてみたい。前者は聴覚的、後者は視覚的用語であるが、言葉の音についてのそうした感じは、実際は全一的体感の深淵に潜んでいて、情況によってそれが知覚の窓である五官のいずれかに射照されたり、情緒や抽象概念のフィルムに投影されるのである。従って、皮膚感覚の「冷温」(cold : warm)で表すこともできようし、味覚や痛覚の用語を用いてbitter, sour, piercingなどとdull, bluntなどを対置させることもできよう。また抽象的に「厳寛」(tense : slack)とも言えよう。また音が高くなるほど容積(volume)や形態(form)が小さくなる感じを引き起こすというが、/i/音を含んで「ちいささ」を内包する語の多いことからも、このような説は首肯できる。」さらに「第一の視点から見出される脈絡は澄から鈍への系列(clear-dull range)である。Otto Jespersonに従って‘light to darkness’(明から暗へ)と視覚的に呼んでも差し支えない。C.E.Osgoodはある実験で‘sharp-dull’(鋭―鈍)という両極対比を作っているが、これも体感的に同一のものの表現に他ならない。」と言っておられる。
ただ、欧米の学者を含め、クオリアとして多面的に見るのではなく、一つの物差しで一方向で見ているように見える。
しかし、一つの音の語感はもっと複雑であって、時には相矛盾するイメージを持っている。Clear : dull、あるいは‘明るい:暗い’のように単一の方向で見ては語感を見切ることはできない。

○ 西原先生は母音の違いを発音方法の違いとして、発音時の口の形で迫ろうとしておられる。
ただ、形だけに留まり、発音時の気持、意思を考慮に入れられなかったため、上記のようにリニアーなclear-dull分析のような単純な結果に終わってしまった。
母音の音のそれぞれはいろいろな周波数の音の波の重なりである。この波の重なりを周波数ごとに整理しグラフにするといくつかの周波数のピークが現れる。この周波数のピークを周波数の低いものから順番に、第1フォルマント、第2フォルマント、・・というが、第1フォルマントは、上顎と舌面の間隔・共鳴腔の高さに平行し、第2フォルマントは共鳴腔の前後の距離・奥行きを示すが、先生は第1フォルマントは音量を、第2フォルマントは明暗を表すとし、「各フォルマントの聴覚的な大きさ関係が介入することは確かである。さらにまた、舌面調音点より奥の方にできると思われる第2、あるいは第3の共鳴腔も音素個性の全体像形成に参与するものと想像される」とおっしゃっている。
しかし、音素個性はフォルマント構造のみによって決まるのではない。むしろ、フォルマント構造は結果に過ぎない。重要なのは、気持、すなわちどの様な気持、意思でその音を発しようとしたかである。

のびのびとした気持で大きく息を出せば/a/的な音になる。口は大きく開き調音点は前にくる。
心の中で詰ったような感覚で無理に声を出そうとすれば、/u/的な音になるが、息は少し鼻腔に漏れ、調音点は奥になる。
言いたいことがある、あるいは自分の意思をはっきり主張したいというような時には、気持が前乗りになって、口先にも力が入り強く息をだすので、/i/的な音になる。
重々しく厳かに発音しようとすると、調音点が奥、下になって/o/的な音になる。
曖昧な気持で下顎を引き気味に発音すると/e/的な音になる。ここから、/e/には、繋がった、下に押さえ付けられる感覚が生じる。

このように形だけが重要なのではなく、なぜそのような形になったのか、その形になるメンタルな要因が重要なのである。メンタルな動因があり、それによって息の出し方が決まり、口腔の形が決まり、結果いろいろな音素個性が出てくるのである。

○ アンケート調査は母音だけを調査しているが、子音にも音感はあり、特に日本語の場合、子音と母音で拍を作る際、それぞれの音感が影響し合って、相乗効果を発揮し独特の音感(私は言音感といっているが)を作りだしているので、母音と子音併せて調査するのが効果的である。この点でも、ラマチャンドランの‘ブーバ・キキ’調査は上手い方法だと思う。
西原先生は母音の音感的対照の一つの例として、複合知覚としての‘遠・近’を挙げておられる。英語では、
   This : that (these : those),  here : there,  near : far
独語では、
   Hier : dort
仏語では、
   Ceci : cela
Malay語では、
   Sini : sana
となり、/i/は近く、/a/は遠くを表す結果となっている。ところが、
日本語では、
   Koko :asoko,  kore : are
となり、困ってしまわれたようだ。日本語の距離感は、
   Koko : soko : asoko,  kore : sore : are,  kono: sono : ano
とk : s : a の対照となっているのである。子音を含めた距離感なのである。この順番に調音点が身体の中心から遠くなる。極めて直感的、かつ論理的である。
ちなみに、英語ではソコとアソコの違いは表せない。コレ、ソレ、アレの違いも、this, that しかない。

○ 子音だけの音感を調べる場合も拍として比較するとそれぞれの違いが分かりやすい。例えば、物の表面の状態を表すオノマトペとして、
  カラカラ
  サラサラ
  タラタラ
があるが、これらのイメージの違いを比較することによって、子音/k/、/s/、/t/の違いを感じ分けることが出来る。乾き具合、粘り具合の違いもよく分かる。
  パラパラ
  バラバラ
で、/p/とその有声音/b/の持つ散らばり感、
  カラカラ
  ガラガラ
で、/k/とその有声音/g/の中が空洞の感じ
  サラサラ
  ザラザラ
で、/z/の摩擦感、抵抗感がよく分かる。
/z/には、滑らかなイメージの/s/を有声音にすることによって逆のイメージが出てくるのである。/p/、/b/、および/k/、/g/では無声音のイメージが強化されているが、/s/、/z/だけ逆になるのは、/s/にはもともと清のイメージがあり、濁音化により濁のイメージがもろに出てくるためである。サラサラとは何もないというイメージではない。カラカラに乾いているわけでもなく、ツルツルと滑らかなわけでもない。適度に何かがあるのである。それが強調され適度でなくなったのがザラザラなのである。

面白いのは、古代、漢字を発明した中国人が子音に次元の違いを感じ取っていたらしいことである。漢字、点・線・面 である。今の日本での読みは、TeNN・SeNN・MeNNである。子音/t/・/s/・/m/の違いである。点→線→面と数学でいうところの次元が上がっていく。すなわち、/t/→/s/→/m/と次元が上がっていくのである。/t/は舌先を上口蓋にちょっと付けるので点、/s/は流れであるから線、/m/は膨張する膨らみであるから面、と昔の人が感じたとすれば合点がいく。もっとも、大陸で当初、点、線、面をどの様に発音していたのかは分からない。/TeNN/、/SeNN/、/MeNN/の読みが日本人の独創なのであれば、これは当時の日本人の感性ということになる。すなわち、/t/は0次元、/s/は1次元、/m/は2次元ということになる。圏の読み(KeNN)は/k/の切れから、縁、円の読み(ENN)は/e/の繋がり感からとも考えられる。
ちなみに、母音そのものの音感は3次元+動き=4次元ということになるのだろう。母音は3次元の口腔内での息の動きだからである。

○ 子音の音感についても解説がある。すなわち、破裂音、摩擦音、鼻音、流音、気音、半母音、並びに有声無声の違いである。
そして、音素、音感形態素ごとの説明もあるが、なぜそうなるのかの解説はなく、「感じである。」、「暗示する。」などの言い切りで終わっている。発音方法の細部にまでは立ち入っていない。

破裂音には、/k,g/と/t,d/と/p,b/があるが、破裂のさせ方がそれぞれ違う。従って、破裂のさせ方が異なればそれに伴う発音体感も異なる。無声音のみについて言えば、/k/は喉の奥を小さく破裂させる。/t/は舌を硬口蓋にちょっと着けて、そこを弾くように破裂させる。/p/は両唇に息を溜めて破裂させる。ここから、/k/には、破裂の感覚だけではなく、喉を固く締めて小さく破裂させて口腔に息を流すので、乾いた、固い、小さい感じがする。/t/には、舌の感覚を中心に、着ける、止まる、溜る感覚に加えて表面が固く中が詰まっている感覚がある。/p/には、弾ける、膨れる、満ちる、感覚に加えて、表面が薄く固い、そして、かわいいイメージがある。
これらが有声音化され濁音になると、無声音の特徴が強調されると共に濁りの感覚に伴うイメージが加わる(濁りによって消されるイメージもある)。濁音化することによって、一般的には重量感、力動感、勢いなどが増し、明るさ、速さなどが減じる。
このように破裂音と言っても一律に論じることは出来ない。
摩擦音としては/s,z/があるが、有声音/z/には摩擦感が強く感じられる。無声音/s/には、むしろ舌の上を息が流れる感覚が強く、さわやかな感じに加え、舌の表面の水分を奪い気化熱を奪うので、少し乾いて冷たい感じもする。もちろん、空気、水の流れも感じさせる。
鼻音には/m/と/n/があるが、息の止め方が異なり、イメージはかなり異なる。共に息を一部鼻腔に流すので湿り気のある親密感が感じられるが、/m/は唇を閉じて息を溜めるので、満ちる感じが強い。一方、/n/は口の中で舌で息を止めるので、粘り感が強く出て、少し暗くもなる。
/r/音は、流音、振音、舌反り音などとも言われ、舌を最も動かすように感じられることから、ソクラテスも/r/は動きを表すと言っているが、加えて振動、そしてその結果として、散らばりを感じさせる。
気(息)音/h/は、微妙な音で息を咽頭腔、口腔に流すだけの音であり、障害音ではなく母音的であることからも、私は母音の無声音、清音と考えてもいいのではと思っている(アッハッハの/h/など)。/h/は、儚さ、薄さ、に加えて、温かさも感じられるので、やさしさが感じられる。ただ、/hi/だけは発音法が違い、むしろ/shi/の発音に近いため、逆に冷たさが感じられる。ただ、抵抗のない気音ゆえの上品さが出ている。(西原先生は/hu/も違うとおっしゃっている)
半母音/y/は母音から母音への変化で、基本的には母音的である。/y/は/i/からの変化で次に来る母音それぞれによってそれぞれのイメージとなる。/ya/は/i/から/a/への変化、すなわち、固い、鋭い、冷たいものから、オープンな広がりへの極端な変化であるから、やわらぎに加えて妖しさも出てくる。/yu/は/i/から/u/への変化であるから、集中から外への動きで、揺らぎが感じられる。/yo/は/i/から/o/への変化で、最も極端な変化、明から暗、前から後、上から底、であるから、よろめき感になってしまう。ただ、日本語で掛け声に使われる場合は先頭の/i/が効いてきて明るいイメージになる。
半母音/w/は/u/からの変化。/wa/は/u/から/a/への変化で、纏まった束が上に向かって拡散するイメージで、湧きあがる、沸き立つイメージとなる。バラけるイメージもある。

○ 西原先生は、音感を、母音については、アンケート調査と、調音点が上か下か、前か後ろか、すなわち第一フォルマント、第二フォルマントの組合せ、によって、子音については、障害音の出し方、すなわち破裂か摩擦か振動かなどによって、説明しようとされているが、これでは音感の多様な違いを十分説明することは出来ない。先生は、発音の際の口腔内の喉、舌、唇などの微妙な使い方の違いにも、そして、その原動力と思われる心の状態、すなわち‘気持’にも立ち入っていない。この語感の研究に、‘気持’というものを取り上げることを敢えてお避けになったのかもしれない。私は、語感が発音体感に発するものである以上、発音時の‘気持(state of mind)’を避けて通ることは出来ないと思っている。
では、なぜ西原先生は‘気持’を避けたのか。
‘気持’が科学的方法に馴染まないと思われたからではないだろか。
‘気持’は主観的、個人的で、かつ曖昧なものである。自分で自分の気持ちを言葉にすることすらむつかしい。特に日本人にとってはむつかしい。欧米人のように割切ることに慣れていないからである。言語自体、欧米語は論理を指向する割切りの言語。日本語はニュアンスを大切にする情的言語である。
ソシュールも個人的パロールを言語ランガージュの研究から排除した。ただ、ソシュールの時代には、大脳生理学、心理学も十分には発達しておらず、特に複雑系の科学的なものの考え方が生まれていなかった。しかし、現在はコンピューター解析技術も格段の進歩をとげ、複雑系の世界である気象の変動すら解析出来るようになってきた。脳の中は地球上の気象現象に似て複雑系である。
言語現象も複雑系の世界である。したがって、個人の脳の中での語感形成も複雑系だろう。人の心の中の‘気持’の動き、そのものが複雑系の世界である。
したがって、語感の研究、そして言語そのものの研究にも、複雑系の科学の考え方を取り入れなければならない。そして‘気持’も研究の対象に入れなければならない。
本格的な高度なコンピューター技術の活用は今後のこととして、まずは、明―暗、大―小のようなリニアーな考え方はやめ、複合的な考え方、すなわち、明るくて固くて小さい、淡く広く拡散していくような明るさ、と物事を多面的に捉えるのである。純粋に単一のものにrefineするのではなく、二つ三つのものの練り合わせ、洗練したものとして捉えるのである。語感も多面的なクオリアと捉えるのである。そして、クオリアをクオリアとして、研究の対象とするのである。
その第一歩として、各音素の音感、そして言葉の語音感の属性を箇条書きにするのではなく、あるいは箇条書きに加えて、説明的にするのである。例えば、/k/の属性を、乾いた、固い、軽い、冷たい、薄い、小さい、キレ、と箇条書きにするだけではなく、口腔へ息を破裂させるため、口腔の形への意識があって、かぶり付く、カバーする感覚が生じ、中空感、中がカラの感覚が生じるなどと説明するのである。また、口腔の中の空間に息を流し込むので、息の流れから回転のイメージも生じるとも説明する必要がある。もちろん、乾いた感じがするのは、この時口腔内の皮膚の表面の湿り気を奪うからである。長々の説明はやむを得ない。クオリアが複雑だからである。心が、そしてそもそも感覚が複雑だからである。従来のリニアーな科学が苦手とするのもそれ故かもしれない。
一つの解決策、便法として、2点表示、3点表示にしてはどうかとも思う。/a/を、単に‘明るい’と言うのではなく、「開けて明るい」と説明するのである。だから、「/ア/から、‘開ける’、‘朝’、‘秋’などの表現が出来た」と説明することもできる。/i/も「力を集中するので小さくて鋭い」などと説明するのである。
説明では、言い訳じみて学問的ではないと心配する向きもあるが、それこそ従来のリニアーな科学の考え方で、複雑系の科学では、切り捨てるのではなく、ものごとを包括的に、そして確率論的に考えるのである。可能性として色々なものが残る。語感でもニュアンスとして残るのである。
語感から言葉が生まれる。また、出来た言葉が語感から意味合いが変わってくる。語感を生かしてオノマトペ的表現も出来る。この時、出来た言葉、あるいはオノマトペはそれらの含む音感の属性の全てを利用しているわけではない。一部を選択的に利用するのである。その他はニュアンスとして残るか、場合によっては無視される。同じオノマトペが異なる場面で使いうるのもこのためである。オノマトペ‘キリキリ’も「胃がキリキリと痛む」、「キリキリ舞の忙しさ」のように使われる。片や‘鋭いキレ’、片や‘回転’という属性を主に使っているのである。勿論、胃が痛む場合もねじ込まれるような回転のイメージも残っている。ただ、忙しさにキレはないだろう。
西原先生は、音感語の多義性についてもよく分っておられ、「共時的に複数の意味を持っている。」、「音感語の語意は多元的な傾向を持つ、特に短音節において、時にそれらの複数の語意の間に矛盾・疎隔を産むことがある。自然間投詞において甚しい」などとおっしゃり、例として、‘ah!’が‘sorrowとpleasure’と‘regretとcontent’の意味を持っているとされているが、自然間投詞の場合は意味というよりも気持(state of mind)を表していると考えた方がいいと思う。/a/の場合は最も自然な率直な心情の吐露。悲しみもあれば喜びもある。他方、‘oh!’になれば、心の中の感動を表すのである。この場合も、喜びの場合も悲しみの場合もありうる。
語感が持っているのは意味ではない。‘meaning’ではなく‘sense’的なものである。
言葉は意味を持っている。言葉は語感も持っている。言葉によってその意味と語感が直接結びついているものと、繋がりの弱いものとがある。繋がりの強い言葉を音感語と(先生は)言っている。
ただ、自然間投詞は原始的な言葉で語感が直接出ており、意味にまで絞り込めないのではないだろうか。オノマトペにもこの傾向は残っており、その意味を言おうとすると多言を要し、結局説明的にならざるを得ない。やはり、オノマトペは言葉の原型、すなわち言葉の赤ちゃんなのである。

○ 西原先生は「日本語の音感−短歌を素材として−」で、日本語の子音の音感を音素だけではなく拍についても述べておられる。
「パ行子音/p/もバ行子音/b/も、両唇破裂音は調音のし方のみでなく、聴覚的にも破裂の趣を呈する。同じ破裂音でも、調音点が口腔の奥に移るほど破裂の感じは鈍る。タ行音・ダ行音になると、叩くまたは突き当たるような感じの音になる。一番奥の破裂音をもつカ行音・ガ行音は堅くあるいは物にひっかかるような感じを与えるようにさえ聞こえる。」
と言っておられるが、まことに正確、その通りであるが、その様になるのは調音点の移動にのみよるのではない。主に、破裂のさせ方の違いによるのである。両唇を外に向かって破裂させるのか、舌を上口蓋にちょっと付けてそこを破裂させるのか、喉の奥を締めてそこを破裂させて息を口腔に流し込むのか、による違いなのである。
「パ行音は軽い破裂・はずみの感じ。あるいは「ぱん」のような高鳴る音の暗示に適する。また「ひく」を「ひっぱる」、「いぢはり」を「いぢっぱり」といえば、語調に張りが生じ、俗語的な響きを帯びる。ピには細くて高い声や音、瞬間的で元気の良い動作を、ペには平ぺったさ、プには膨れや軽さを、ポには吹く音や短小・脆弱・空疎・放心を思い浮かべる。」
ともおっしゃっているが、「の感じ」、「暗示に適する」、「思い浮かべる」の根拠の説明はない。これらの音を使った言葉からの連想なのか、先生の感性からなのか分らない。ただ、別のところでは「帰納した音感」ともおっしゃっているので両方なのだろう。

「音声と意味」に、‘い’の説明として次のような文章がある。
「まず一番前方で、調音点が最も高い位置において発せられるいについて見ると、この音が音感性最強であることは動かない事実である。それは各調査項目に亘って回答者数が最も多いことからしても分る。聴覚的には「高い」、「澄んだ」音で、「極めて明るく」、色彩でいえば「黄色」の与える感じがこれに近く、「堅い」・「冷い」あるいは「刺す」のような音と形容できる。また速度からいうと「速い」感じ、空間的には「高く」・「近い」、形態の上では「尖った」・「細い」あるいは「小さい」ものを連想させ、抽象的には「厳しい」・「鋭い」ものを思わせる。一口で言えば、「きわだった」感じとでも言おうか。この結論は英語の/i/音について私が各種の材料から帰納した音感とほとんど一致するものである」。
ここからも明らかなように先生は、発音時の口腔内の調音の位置をベースとして、アンケートの結果と言葉の使われ方の実例から先生の感性で帰納して母音の音感を説明しようとしておられるように見える。先生は自らの感性を共感覚と思っておられるようだ。(色彩については、私も/Ki/が黄色かなと思っている(連想かもしれないが)。しかし、/Pi/は黄色とは思えない。/Pi/はあざやかな赤系の色だろう。)聴覚的に「高い」はいいのだが、「極めて明るい」はどうだろう。/Ka/、/Pa/、の方が/Ki/よりも「明るい」のではないだろうか。「近い」についても日本人の感じ方は違う。「厳しさ」についても、「ギンギンに凍らせる(Gi)」と「ガンガンやっつける(Ga)」では、共に厳しいが、厳しさが違う。どちらがとは言い難い。やはり、日本語では拍で考えるべきだと思う。母音はもう少し包括的な、あるいは基本的な感じを持っているのだと思う。/i/音の際立った、そして基本的な音感は、小ささである。この小ささが子音との組み合わせにより鋭さ、かわいさ、のイメージともなるのである。ちなみに、/i/は自分の意思を表明しやすく、「いい!」、「いや!」などの正反対の表現にも使われる。つまり、/i/は「いい悪い」の意味を持っているのではなく、自分の強い気持・意思の表明なのである。

ここで帰納について述べると、そもそも科学的説明とは、仮説を立て、その仮説から演繹的に結果をえて、その結果の正当性を実例をもって帰納的に証明するというものだと思う。語感の発生を発音時の口腔等調音器官の形のみで説明するのは無理で、調音器官の形だけではなく、どのように調音するかの、各調音器官の使い方、そしてそのような使い方をする動因となっている気持(state of mind)にまで遡って解析する必要がある。そして、このように演繹的に得られた音感を、アンケート調査や実際の言葉の使用例から帰納して、その正当性を証明してはじめて科学的と言えるのではないだろうか。
特に母音には気持の有り様が現れやすい。

自然でのびのびした気持で大きな声を出せば/ア/的な音になる。
強く自分の意思を主張したいときは、口先に力が入って/イ/的な音になる。
心に鬱積したものがあり、無理に声を出そうとすれば、/ウ/的な音になる。
気持に躊躇の気持があって、引き気味に声を出せば/エ/的な音になる。
自分の存在感を意識しつつ重々しく声を出せば/オ/的な音になる。

「音声と意味」における先生の‘い’以外の日本語母音の音感の説明は次の通りである。
「えは前母音で半開、いくらか後方に調音点を有する。いくぶんいに近い性質が伺われないことはないが、この統計では各項目に亘り、母音中回答者が最も少なく、しかも散票であるところから、音感的に特色づけることが甚だ難しい。音感語としては掛け声とか、発語の始め、または言葉の切れ目に用いる繋ぎとしてのえーぐらいである。面白いことは、短歌のような調音を重視するものでは、えが不協和音の働きをしているようで、・・・、え音の頻度が普通の散文や会話文に比して著しく少ない。韻文でも俳句や民謡になるとえ音の使用率は高くなる。」。
回答者が少なかったのは設問の仕方に問題があったからで、曖昧さというのも特色である。また、不協和音というよりは、粘り感、切れの悪さを短歌が嫌ってのことではないだろうか。民謡では繋がり感、俳句では余韻を残すのに使われるのではないだろうか。えには躊躇感もある。
「あはこの統計の結果から見れば、い・えと共に前母音の性格を有する。いと違った意味で「明るく」、色彩では「赤」、ついで「橙」と結びつく。開音という点でおに近く、「柔い」・「太く・円い」・「ゆるい」音と特徴づけられている。・・・あは叫びを現わす感嘆詞に含まれるほか、他音との対比現象においてもその音感性を発揮する。」
‘あ’と‘い’の明るさの違いに気がついておられる。しかし、その違いの解明は無い。「太く円い」という表現に広がりが感じられているようで、設問が悪いのだろう。
「おは音感的には、たいていの項目に亘っていと反対側の最右翼にある。うよりも強い感じの音で、「暗く」、色彩は「黒」と結びつける者が多い。速度では「のろく」、空間的には「低く」、形態上では「太く」・「大きい」ものを連想せしめる。・・・、感嘆詞にも適するがあほどに絶叫的ではない。音量ではあと共に最大である。」。
こののろさは重さから来る。調音点が口腔の奥、下に感じられるので、暗く、重く、低く感じられるのである。暗く重ければ色彩的にはやはり黒だろう。黒はなぜ重いか。共感覚か経験か(絵画でも色を塗り重ねると黒くなる。当然重ねると重くもなる)。あは外への叫び、おは心の中での叫びである。
「うは以上の統計によれば、「低い」音で、「濁って」いて、「薄暗く」、色彩的にはやや複雑で「灰色がかり」、「柔く」・「のろく」また「鈍い」感じがするということになる。・・・澄・濁系列ではうがおよりも端にくる・・・」。
音の高さからいえば低いかもしれない。しかし、うの発音には息が少し鼻に抜ける感じがあるため、外への動きと共に上へというイメージもある。また、子音と結合したう列の音は動詞の活用変化の語尾に多用されるが、これら全てに動きが感じられる。澄・濁については、おが纏まった感じに対し、うは内的鬱積の感じがあってこれがうにより深みを感じさせるため、およりも端にくる感じになるのだろう。
うになぜ動きが感ぜられるのか。発音時にうが口腔内で息が最も動くからではないか。これに対しあは拡散、いは集中、えは停止、および引き、おは籠り、まとまりの感じがある。

子音は障害を作って無理に出す音なので、当然気持も現れるが、破裂とか、キレとか、衝突とか、流れとか、粘りとか、素材感を伴っての物理的特性が現れやすい。従って、内的気持よりも外的事実の表現に適している。すなわち、情よりも知の表現に適している。
日本語の場合、子音は必ず母音を伴って拍を作るので、母音の影響を免れえず、言語全体が母音的、すなわち情的になって、気持の表現がしやすい。そして、その結果逆に論理的な表現がむつかしくなるのである。
欧米語は母音を捨て子音中心の言語に移行しつつあるように思われる。西欧はギリシャ哲学以来、知を至上とする文明を指向してきた。人間は知と情の両面を持っているが、知を優れたもの、進んだもの、情を劣ったもの、遅れたものとするドグマを西欧文明は信奉してきた。成程、近代の驚くべき科学技術文明の進歩はこの知の進展ゆえではある。一方、気付いてか気づかずにか、宗教は知の理屈ゆえに一神教という偏った特殊な信仰に嵌まってしまった。知至上主義ゆえの自縛である。(日本人で進化論を否定する人は人口の3%もいないだろう。ところが、文明国アメリカでは進化論を信ぜず神が人を造ったと今でも信じている人が少なくとも5割近くいるのである。)
ちなみに、「神々の捏造」(ニナ・バリー東京書籍)には、古代言語学者ハイム・コーエンの言葉として「我々は子音の表記しかない古代ヘブライ語聖書に親しんできた。母音はあとから生まれたものだ。」とある。事実とすればこれほど古くから子音偏重は進んでいたのである。なお、「母音は後から生まれた」はあり得ない。そもそも子音だけでは言語になり得ない。子音だけでは共鳴もしなければ連続もしないからである。母音があってはじめて響かせることも出来るし、続けて発声することも出来るのである。類人猿が言語を獲得することが出来ず、人類のみが言語を獲得することが出来たのは、直立二足歩行、火の利用、肉食などによる顎の退化により、喉が奥に落ち込み、口腔、咽頭腔が広がり、母音を発音し分けることが出来るようになったからである(もちろん、脳の発達も必要であったが)。ハイム・コーエンの子音・母音についての発言は文字についての発言だったのかもしれない。それにしても子音重視である。
母音は口腔、鼻腔で共鳴させる自然音であるが、子音は唇、舌、歯茎、口蓋、喉などで障害を作って、そこを破裂させたり、擦ったり、震わせたりして無理に出す人口音である。そのため、母音は連続して、また連続的に変化させて出すことのできるアナログな音であるが、子音は単発でしか出せないデジタルな音である。一方、子音はそれ故に素材感、すなわち無機を表現しやすい。デジタルで無機、これが論理を重視する知の表現に適しているのである。アナログで連続的な母音は有機的で豊富なイメージを持ちうるが、それゆえ、曖昧となってしまい、論理的表現には適さない。このため、欧米の言語は母音を軽視し子音中心の言語に移行してきたものと思われる。西原先生が「音声と意味」で多くの例を挙げておられる通り、英語にも音感を持った表出語(音感語)がたくさん残っている。このことはかって英語を育んできた人々は音感を感じ分けていたということで、もともと欧米人に言葉の音に対する音感がなかったということではない。欧米の人々は知を重視するあまり音感を捨て、音感を感じることを棄てたのである。知の世界では、言葉に表裏があってはいけないのである。論理に裏表の二面があってはならないのである。
しかし、人間には二面性がある。知と情の二面がある。知だけの人はいない。ただ、西欧文明を担ってきた人々は知的であろうとし、情をないものとしてきた。知・論理はデジタルである。デジタル思考はrefine(純化)指向でもある。一方、日本人は情を大切にし、母音を残してきた。母音を残したから情が残ったのか、情を大切に思うから母音を残したのか、分からない。両方なのだろう。ニワトリと卵の関係である。日本人は知も情も大切と思う。ものごとには裏も表もあることを当然と思っている。Refine指向ではなく洗練(煉り合せ)指向である。そして、そのバランスを大切と思っている。(ちなみに、人々のものの考え方の根本はその人々の使っている言語によって次代へと引き継がれていくのである。)なお、英語 ‘refine’ の日本語訳は ‘洗練’ 、日本語 ‘洗練’ の英語訳は ‘refine’ である。しかし、 ‘refine’ と ‘洗練’ の本来意味するところは本質的に違うのである。純化と練り合わせである。方向が全く違う。逆である。
日本語がいつ頃から子音+母音という拍の形をとるようになったのかは分からない。拍の形とは必ず母音が付く形である。したがって、日本語は母音中心の言語である。母音は曖昧である。しかし、いろいろなイメージを同時に伝えることができる。母音は情の伝達に適している。情は曖昧で同時に微妙であるからである。西欧文明が情を捨て、母音を捨てようとしていることは、語感を捨て、語感を感じることを捨てようとしてきたことになるのかもしれない。
日本語は母音を中心とした唯一の先進文明国の言語である。日本語は知と情、情報と気持を同時に伝えうる唯一の世界語たりうる言語である。
日本語は、拍形式を取り続けるかぎりこの二面性を保持し続けることができる。
われわれは、この日本語の稀有の特質に気付き、日本語をもっと大切にしなければならない。自分自身のために、そして出来れば世界のために。これらについては、鈴木孝夫「日本の感性が世界を変える」、金谷武洋「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」が詳細に論じている(多少、私と意見が違いますが)。

「日本語の音感」でのパ行音以外の日本語の子音の説明は次の通りである。
「バ行音の子音は両唇破裂有声音/b/であって、強い破裂や衝撃や騒音の感じを持つ。また「ばか」とか「びり」とか「ぶす」とかいう侮辱の語にこの行の音が含まれているのは英語などと同じである。バは大きな音や強調、ビは震え・こまかさ・厳しさ、ブははずみ・羽音、ベは粘着性、それとは反対のような円滑さ、ボは「ぼう」や「ぼさぼさ」や「ぼやく」いえば茫漠さ、「ぼっ」や「くぼみ」は円形を、「ぼん」は爆発音を暗示する・・・」。
日本語の場合、有声音・濁音は無声音・清音に対しその属性を強調する意味合いを基本的には持つが、濁ったイメージも加わる。清音パの軽く明るい破裂に対し、その濁音バは強い破裂のイメージを持つと共に、濁り、この場合は濡れ・粘りのイメージが加わる。そのためバ行音は生理音を連想させ、下品感が出てくる。それ故、侮辱の語に使われやすいのである。また、濡れ、すなわちその水気感から水を連想させやすく、水面に衝突した様子の描写に使われる。水面に水を一滴落とす、「ポとっ」なら水滴の一粒が纏まりとして感じられるが、「ボとっ」となると重さが感じられ水面に食い込む感じとなる。もちろん、水滴だから円形である。バ行音には、強さの一面としてボリューム感があり(口腔を膨らませるから)、「ベラベラ」の‘べ’は円滑さというよりは量的多さである。水気・粘り気ゆえに唾を飛ばしての熱弁の様子である。「ペラペラ」には軽さ、薄さが感じられ、共に、決して上品ではない。
 パ行音について追記すると、パは今まさに開けた明るさ、小さく、あるいは薄く、乾いている。ピは小さく、明るい弾け、活力が感じられ、かわいい。プは小さな吹き出し。吹き出した結果がポ、ともにかわいい。/p/音にかわいさが出るのは、唇を小さく破裂させるからである。

「第二の破裂音であるタ行音/t/とダ行音/d/の調音点は共に上顎の前歯茎にある。舌先を上げて前歯茎につけ、全面的に閉鎖しておいて、その閉鎖を急激に解き、口の中に圧縮されていた空気を逸出させることで得られる破裂音である。・・・しかしタ行音の子音は皆一様ではない。即ちチとツは破裂音ではなく歯擦音である。」
「タ行音の三音、タとテとトの頭の子音/t/はやや緊張した、金属的な響きをもっている。タは「たたく」に象徴されるような平板な衝撃を、次に母音やヤ行音・ワ行音・ラ行音のいずれかを伴えば、緩やかな動揺を感じさせる。チは短小さ・先鋭な刺激、音でいえば高く澄んだ感じ、ラ行音が接すれば、「ちらちら、ちりぢり、ちる、ちろちろ」のように、散乱を暗示するに適する。ツは不意を衝くようなタッチ、テは軽い発動感、トは叩く音・軽い衝撃を感じさせる・・・」。
金属的なのは、むしろ子音/k/だろう。/t/は堅い木材ではないだろうか。/k/が無機であるのに対し、/t/は有機の感じがする。これは舌そのものの質感から来ると思われる。「ちらちら、ちりぢり、ちる、ちろちろ」が散乱を暗示するのは/r/の働きであって/t/ではない。ここでの/t/の働きは小ささである。テはむしろ受けだろう、止まって繋がる感じとでも言おうか。
手は昔はタとも言った(手繰る、手折る、袂、保つ、助ける)。タ(手)はタタクから、タタクはタンタンと叩く音からと思われる。テ(手)と言いだしたのは、/e/の受けて、/t/の止めるイメージから一旦受け止めるイメージとなり、すなわち掌のイメージからだろう。そして、このテには/t/で一旦止まるが、/e/に次に繋がるイメージがある。/ti/は/t/、/i/共に小ささのイメージがあるから、小ささ感は強い。この/ti/が拗音化し少し柔らかくなった/chi/にもこの小ささ感は引き継がれる。そして、柔らかくなった分かわいさが出てくる。/tu/は舌先の働きそのままでつつく感じ。/to/は/o/に纏まり感があって止まる感じ。ただ、舌先がその後離れるので次への展開の感じも残る。/ta/は舌全体のイメージがあって量的にタップリ溜るイメージがあるが、/a/に拡散のイメージがあるので終わってしまった完了のイメージもある。
「ダ行音の子音/d/は鈍重な、力のこもった、踏み付けるような、あるいは湿っぽい感じをもっている。ダには重い衝撃感がある。「だだだだ」は機関銃の音、ダに鼻音が接すると「だまる、だんまり、もだす」のように口をつぐむ感じ、ラ行音が続くと「だらだら、だらしない、だれる、だるい」のような弛緩を意味する表出語が生まれる。ヅはズに較べると重圧感がある。デは叩く感じ、ドは力強く突き当たる感じ。この音で始まる鈍重さを意味する表出語が多数ある。」。
/d/に重量感があるのは、もともと清音/t/に質感があるからである。濁音化することによって濡れた質感に力感が加わり重量感になるのである。ちなみに、日本語の拍のうち、/do/が最も重い。「だまる。だんまり。もだす」に口をつぐむ感じがあるのは/m/音の発音に口をつぐむ感じがあるからで、ダはむしろそれを際立たせる働きをしている。/t/にもともと中味の湿り感があるが、濁音化によってそれが強調され/d/にくずれた感じが出てくるのである。

ダ行音、ガ行音、バ行音ともに衝突を表すが、それぞれに感じが違う。これは衝突の態様が違うからである。ガ行音は中が空で表面の堅い大きなものがぶつかる、咬み込んでくる感じであるが、ダ行音では中の充実した重いものがもろにぶつかってくる感じとなり、バ行音になると表面が必ずしも堅くはないボリューム感のあるものがぶつかってくる感じとなる。ガ行音に響きを最も感じるのは中が空洞になっているゆえである。ダ行音には重量感を最も感じ、バ行音には自体の弾け感が強く出る。もちろん、これらはすべて発音体感の違いである。

「チャ行音の子音は無声の破裂音/tʃ/である。これは破裂音の/t/に始まって次第に/ʃ/に移行して終わる。チャ行のイ列音はタ行に取られており、チェは外来語や俗語にしか用いられないので、チャ行といえば通常チャ・チュ・チョの三音である。音感としては、半ば拗音の性格に似ていて、よじれた感じがある。」
「チュウ」は「吸う」の幼児語。大人の「チュウする」も吸うことである。発生的には吸う音‘チュウ’から吸うという言葉が出来たのかもしれない。チョにはチと同じく小ささのイメージがある。
「ヂャ行の子音/dʒ/は破裂音/d/に始まって、摩擦音の/ʒ/に移行する有声破裂音である。ヂャ行音にはヂャ・ヂュ・ヂョの三音がある。」
われわれ現代の日本人は、チャ・チュ・チョとシャ・シュ・ショの区別は出来るが、ヂャ・ヂュ・ヂョとジャ・ジュ・ジョの区別はしないのではないだろうか。ジュウジュウといえば分厚いステーキの肉汁が焼ける音、ヂュウヂュウといえば「重々承っております」の重々である。成程、/d/は/z/よりも重い。チャは固く、薄く、軽やか。先生の言う金属としても、真鍮など少し柔らかめの金属の薄い片の感じがする。

「第三の破裂音であるカ行子音の/k/とガ行子音の/g/は上顎の後部にあたる軟口蓋と後舌とで気息を塞き止めておいて、その閉鎖部を急速に開放することで得られる音である。/k/の破裂の仕方が/g/のそれよりもいくぶん強いという違いはある。しかし音感としてはガ行音の方が荒っぽい。」
「カ行子音の/k/は堅く、角立っていて、高い響きの感じを与える。カは高い声や音、次に摩擦音がくれば掠るような、あるいは微かな感じに繋がり、「から」となると空疎感を覚える。キは刺激的な尖った感じ。クは屈曲、あるいは詰る感じ、ラ行音が続けば「くるくる」のように回転運動の暗示に適する。ケには蹴るような激しさがある。コは小さく纏まった音や形状を暗示するのに相応しい。」
カ行音、ガ行音には、ク、ゴだけではなく、ケ、ゲを除いて全てに回転のイメージがある。すなわち、/k/、/g/に回転のイメージがあるのである。ケ、ゲに回転のイメージが出ないのは、母音/e/のもつイメージが回転にそぐわないからである。ケ、ゲの発音では、/k/、/g/で喉から口腔内へ出ようとする息を/e/が引き止めようとするイメージがあって、結果ケ、ゲに抵抗をはねのけての強引な激しさが感じられるのである。また、特にゲには生理音の連想もあり下品さが感じられる。/k/、/g/には調音点・喉への意識があり、特に、ク、グでは喉を締められるようなイメージとなり、「くるしい」、「グーの音も出ない」などの表現となったのだろう。
なお、/ti/と/ki/を較べると共に金属的な感じがするが、/ki/が、カンカン、キンキンに固い金属であるのに対し、/ti/はチンチン、チーンで少し柔らかめの金属・真鍮などの感じである。
「ガ行音の/g/は力強く、がさつで、嫌悪または苦悩の感じを起こさせ、あるいは喉または喉音を暗示することがある。ガは喧騒、力強さ、その他口を大きくあけて食ったり飲んだりする動作を暗示する。ギにはひどい角立ち・摩擦などが感じられる。グは力強さ・暗欝さ・愚鈍さを暗示する。ゲはあまりにも激しい雑音の響きをもち、漢語や俗語によく見られるが、短歌ではあまり好まれない。ゴはこもった鐘の音・堅さ・混雑などを、またラ行音が接すれば転ぶ感じを表すに適する。」
ガには、発音時の口腔の形からして、大きく口を開けてかぶりつくイメージがある。そもそも、ガの清音カに「空の殻が被さる」イメージがあり、英語のcover(カバー)もここから出来た表現ではないかと思う。/k/に回転のイメージがあるが、当然その濁音の/g/にも回転のイメージがある。コロコロの回転のイメージがゴロゴロとなると重いものが転がるイメージとなる。ちなみに、コロコロには纏まった小ささのイメージもあって、可愛らしさがでてくる。英単語compact はこの音感を使っているのかもしれない(加えて/m/には満ちる感じがある)。

「サ行音とザ行音の子音はともに歯音である。この音を出す時は、舌縁が下歯の内側に軽く付いている。狭い上下の歯の隙間から出る呼気が歯と舌縁との間で造る噪音がこの摩擦音である。サ行音の中でシの子音は他の子音と異なり、前舌の上面と上歯茎から上顎前部の広い範囲で造音される摩擦音である。つまりシャ行の子音/ʃ/である。これと同様にジも無声音の/ʃ/に対応する有声音の/ʒ/となる。」
「サ行音の子音/s/または/ʃ/いずれも呼気が狭い調音部をかすれ通るので、隙間風や液体の暗示に適している。」
「サ行音はまた指示の代名詞や形容詞などに現れる。これは他の言語にも見られる事象である。「さよう、されば、さはさりながら、しかり、そなた、そこ、それ、そんなに、そう」など/s/が舌先音であって、手や顎を突き出すと同じように舌が指し示すジェスチャーをしているのではないかと思われる。」
これは誤解である。日本語には近景、中景、遠景に対する指示代名詞がある。すなわち、
「こなた、ここ、これ、こんなに、こう」、
「そなた、そこ、それ、そんなに、そう」、
「あなた、あそこ、あれ、あんなに、ああ」。
これは/k/、/s/、/a/の距離感の違いを使っての表現である。調音点から来るイメージの違いである。/k/は喉の奥、自分の中心点。/s/は口腔から外へ向かって。/a/は外への広がりである。従って、舌先のジェスチャーではない。これらに対する疑問の表現が
「どなた、どこ、どれ、どんなに、どう」
である。これは戸惑いの/t/を現在は/d/と濁音化して使っているのである。ちなみに、これらから日常会話に多用される「どうも、どうも」、「どうぞ」などの便利な表現が生まれた。なお、「さよう」は「そのよう」、「されば」は「さあれば」、そして「さあれば」は「そのようであるなら」の変化で元は共に/so/である。
「サは軽く擦れる感じ、シは湿っぽさや強調を暗示する。スは口を窄める所作、そのようにして出る音、風が吹き抜けるような感じとでも言おうか。セの表出語は漢語が多く、和語ではせっつくような意味のものがかなりある。ソには騒音・空疎などを意味する表出語が少なくない。」
/s/はその発音法から気体・流体をイメージさせるが、シは、かって風を意味したこともあったが、水、あるいは水気の意味で使われたと思われる。その名残として次のような表現がある。「しづく、しめる、しみる、しほれる、しぼむ、しなびる、しわる、しづむ、したたる」。そして、これらから派生して次のような表現も生まれた。「しみ、しわ、塩、下(した、しも)、しみじみ」。また、シという音が音がないことにも使われるのはこの水のイメージと関係がある様な気がする。「シー」と制し「シーンと静か」になる。水のある世界は静かである。‘situku’→‘sizuku’→‘sizuka’かもしれない。ソが「そっと」のように使われるのは、この音のなさ、抵抗感のなさのイメージからではないだろうか。セは/e/に押さえつけられて平にというイメージがあるため、もともとは流れの浅いところを意味したが、浅いところは流れも速く、同じ流れの速い流れの狭まったところも意味するようになり、狭まる、狭い、迫るなどの表現が出来てきたのではないだろうか。
「ザ行音はサ行音に比して、低く、図太く、引っ掛かる感じを与える。ザは粗雑、ジは湿潤・捩れ、ズはごり押し・摩擦・停頓などの感じ、ゼの表出語は漢語に多く、「絶」に象徴される。ゾは強調あるいは不快の感を帯びると言えないだろうか。」
/z/の代表的属性は抵抗感である。清音/s/には抵抗感の無さが際立つ。粘り気もない。この/s/の濁音/z/は、粘り気は無いまま、抵抗感の無さを絶対否定した形になっている。粘り気の無い抵抗感、「ザラザラ」である。混じり気のある雑な感じである。ジには清音シの影響か湿り気感が強い。ズは抵抗感のあるままの動きであるから強引さが感じられる。ゾになると抵抗感が内面的な違和感として迫ってくる。
「サ行のシは音声学的にはシャ行に属する。シャ行というのは普通はシャ・シュ・ショの三音のことである。音感としては湿潤さ・鋭さ・歪みなどを表す語に感じられる。」
シに音感として歪みがあるだろうか。鋭さも「白・著し」のハッキリさ程度ではないだろうか。シをシャ行音とするのは少し無理があるのではないだろうか(syiではなくshiではないだろうか)。なお、シャナリシャナリにクネリ感を感じるのは、/n/の粘り感からである。
「ジャ行音は、清音であるシャ行音に対する濁音である。濁音の方が強調された感じになる。」
ジャは水音を連想させる。拗音ゆえに湧出・噴出のイメージも出る。

「ハ行音の子音/h/は摩擦音の一種であって、気(息)音と命名されている。一般の摩擦音の調音部が造る隙間はきわめて狭いが、気音の調音部は多くは声帯にあって、隙間はそれほど狭くはなく、気息が両方から接近した声帯の間をくぐることによって、声帯の粘膜が無声の振動噪音を起こす程度なのである。」
「ところで、日本語ではヒの子音の場合の調音部は上顎前部(硬口蓋)への舌面の接近で造られる。またフの子音の調音部は両唇である。いづれの場合も他の摩擦音ほど狭隘な間隔ではなく、噪音を起こす程度においてわりと広い。要するに、ハ行には三つの調音を異にする子音があるが、日本語ではそれらを統括的にハ行音の子音と見做すことができる。「フン、そうか」などと言うときは、フン全体が鼻音になっていて、フの音はマ行音の無声化したものである。・・・以上こまかく説明したハ行音はどれも無声音であって、これに対応する有声音は日本語にはない。」
先生はフをマ行音の無声化したものとおっしゃっているが、私は/h/音そのものが母音の無声化音ではないかと思っている。従って、フはウの無声化したものとなる。「フン、そうか」と言ったときの「フン」、「ウン、そうだ」と言ったときの「ウン」、これらはそれぞれ実際に「フン」、「ウン」と発音しているか。実際はウともフともンともつかない鼻に掛った声だろう。ウを無声化し鼻で響かせた音ではないだろうか。
「ハ行音は気息音であるから第一に呼吸によって発する音に関係が深い。ハは「はあ・はっ・はく・はくしょう」など吐息に関し、「はたはた」となると「はためく・はたく」と同じく薄いものが揺らぐさまを暗示する。ヒは小さく、甲高く、冷たい感じ。フには吹き膨れるような、柔かさがある。ヘは扁平の感、ホは軽く、ふくれる、あるいは空疎な感じを催す。」
ハ行音は鼻に掛るので、湿り気、粘り感が出て甘える感じになる。ここから親密感が強く出る。直接肺からの息が届くので温かさも感じられる。ただ、ヒは先生もおっしゃるように/shi/に近い発音のため逆に冷たく感じられる。ただ、無抵抗の/h/ゆえ淡さも感じられ上品さが出てくる。なお、ハ行音の一部はパ行音から歴史的に変化してきたと言われている。例えば、ピカリ→ヒカリ(光)、パタパタ→ハタハタ→ハタく、旗、プー→フー→フく(吹く)などである。それ故にか、ハ行音になってもパ行音の持っていたイメージを引きずっているものが多い。

「マ行子音/m/は両唇を閉じ、軟口蓋を下げて、声帯音を口腔と鼻腔の両方に共鳴させることによって得られる鼻音である。子音から次の母音に移行するときには、バ行子音/b/の破裂に近い響きが際立つのが日本語の特徴である。/m/の口腔の容積は/n/のそれよりも大きく、従って音の反響もそれだけ大きい。/m/が後母音に冠せられたムとモにおいても、「もぐもぐ」や「黙」にみられるように、口を噤んだ感じで、暗鬱な湿っぽい響きをもつ。マには「まろやかさ」を表す語が多い。ミは角がなくほっそりした感じ。メは騒々しく目立つ。」
さすがに先生は/m/と/b/の近似に気付いておられる。/m/と/b/、/p/は発音時の口の形が同じなのである。ただ、/b/、/p/は息を唇の外に出す。/m/は唇は開くだけで息は一部鼻に抜くのである。ここから/b/、/p/には破裂感が出るが、/m/には充満感が出るのである。それだけに湿っぽさは/b/、/p/よりも強くなる。赤ちゃんが乳首をくわえたまま何か声を出そうとすると息が鼻に抜けマ的な音になる。それを乳首を離して意識的に音を出そうとするとバ的な音になる。共に赤ちゃんが最初に覚える言葉の音である。
/m/行音は口を噤んで一旦息を口腔に満たすので、基本的に何かが満ちるイメージがある。もちろん、口腔内だから湿っぽい。

「ナ行の子音/n/はマ行子音の/m/と共に鼻音に属する。これを発するには、舌先を上歯茎につけて呼気を完全に遮り、他方軟口蓋を下げて、鼻腔からのみ気流が流れるようにする。」
「この/n/は/m/ほどに籠った響きはないが「なめらか、にぶい、ぬるぬる、うねる、のっぺり」などの語に伺われるように、柔かく、滑らかで、ときに愚鈍の感を与え、鼻や音響に関する語において造語上表出性を発揮する。この点でナ行音とマ行音、つまり鼻音同志の協働現象も見られる。」
/n/に愚鈍の感が出るのは粘り感が強いからである。粘り感が強く感じられるのは、/m/の破裂が唇、すなわち外と接しての破裂であるのに対し、/n/の破裂が口腔内での破裂だからである。口腔内はつばもあって、湿りも粘りもするのである。
「また/n/が否定の語に含まれる傾向のあることは、多くの言語に共通の事象で、日本語もその例に漏れない。「な・ない・なくす・なみす・いな・ぬ」などがある。ナには「なめらか・なめる・なよなよ・しなう」などの語があり、柔軟さを示す。ニには「にがし・にくし」といった鼻しわむ表情から「にこにこ・はにかむ」など口元をよこにひっぱった表情まであるとみれば、共通性を掴むことができよう。ヌは否定のほか中途半端な生温さ、または粘滑の感じ。ネには捩れや粘着の意味の表出語があり、ノには緩慢というか間延びした感じの他、「のむ・のど」といった嚥下を暗示するものがある。」

なぜ、/n/が否定の語に使われるのか。非常に面白い問題である。
先生は/n/を否定の語とおっしゃっているが、私は少なくとも日本語では単なる否定ではないと思っている。口の中で籠ったように発音する/n/には、隠された、隠れたというような感じがある。原始日本語では存在(有)を表すアに隠れた状態を表す/n/をつけてナという言葉が出来た。存在が隠れているのだからナ(何=ナニ)である。(このナにソレを意味するソをつけてナソ(何そ=ソレはナニ)。このナソが濁音化してナゾ(謎)という言葉が出来、そこから派生してナゼが出来たとも思われる。)存在が隠れていることを確定する意味で/i/をつけるとナイ(無い)。従って、日本語の無いは無(ム)ではなく隠れているのである。これは、ナ(何)に動きを表すルをつけるとナルとなることで分る。ナルとは、無存在ではなく、見えなかったもの、隠れていたものが現れることで、生る、成る、そして鳴るである。昔の日本人は何も無いものがいきなり出て来るとは思っていなかった。どこかに隠れていたものが、あるいは姿を変えていたものが目の前に見えるように、あるいは聞こえるようになるのが生るであり、成るであり、鳴るのである。(鳴るから鳴く、そして泣くと派生していった。)存在を動きと捉えて、ア(有)に動きのルをつけてアル(在る)。そして、ナイが活用変化してナク、ナシとなったのだろう。ナクナルという表現はナク+ナルで二重語のようである。ナクナルとは目に見えない状態、あるいは違った形のものにナルことなのである。ちなみに、日本では神も人間もナッタのであり、人が死ぬとナクナル(亡)のである。消えるのではない、お隠れになるのである。デジタル思考の欧米ではアルかナイかの二択である。しかし、アナログ思考の日本では、アルとナイの間もあるのである。アルとナイが繋がっているのである。(これも日本のもの考え方・日本文明と西欧のものの考え方・西欧文明の本質的違いである。日本語=母音=アナログ:欧米語=子音=デジタル、また、アナログ=情:デジタル=知 の違いでもある。)

「ラ行音の子音/r/は舌先の反転音である。一部の人(主として日本の西部に住む人)は側音の/l/に近い反転音を発する。他方に関東地方のいわゆるべらんめえ調のラ行音もある。」
「この音は調音がもっとも躍動的で、ラ行音が日本語の動詞の活用部分によく用いられるところ成程と頷かれる。」「ラ行音には躍動感がある。ラの表出語には動揺や荒っぽさ、時には空疎を意味するものが多い。リはひきしまった姿や小さい動きを、ルは回転運動やなめらかさを、レは壊れ、切れ・撚れる運動を「レイ」となれば冷たく、あるいははっきりした状況を示唆しやすい。ロは回転や、場合によって緩慢な動きを暗示するに適しているようである。」
ソクラテスは「クラテュロス」の中で、/r/は舌を最も動かすので動きを表すと言っている。動きといっても震わせるので、バラケ、散ばりを感じやすい。ロになると/o/の動きの遅さと消し合って、崩れるイメージが出て来る。先生がロに回転のイメージを感じておられるのは英語のせいかもしれない。Roll, rotation これらの発音には巻き舌を使うので回転のイメージが出るのだろう。/r/音は舌を震わせて出すので、舌の表面が乾き、乾いた、表面の堅い、キレのある、冷たいイメージも感じられるのである。

「ヤ行の子音/j/は、母音のイまたは母音の枠からわずかに外れた子音的なイが次の結合した母音に向かって移行する音と考えて差し支えない。」「ヤ行音はいずれも柔らかい感じのする音である。ヤは呼び掛けの感嘆詞によく含まれる。また、柔らかい優しい意味の語に見られる。ユはゆったりした動きの動詞や修飾語によく含まれている。ヨは文末に添える「よ」のようにやさしく、弱く、緩慢な動きを暗示しやすい。」
ヤは、/i→a/、すなわち集中→拡散で、柔らかくも感じられるが、舞上る感じもあって、妖しさも出て来る。ユは、/i→u/、すなわち集中→動きで、緩み、揺れが感じられる。ヨは、/i→o/、すなわち明→暗、小→大、軽→重への真反対の動きでまとまらなくなって、惑いのよろめき感が出て来る。

「ワ行音の子音/w/は母音のウが移行音化したものと考えればよい。調音については、まず両唇を窄め、後舌を軟口蓋に向けて高めて、この位置から直ちに次に来る母音に口の形を移して行く有声音である。」「ワは喚声・笑い声・犬の鳴声などの他、「わななく」にみられるように震えや振れや、「たわむ」とか「わだ」などのイメージに内在する弧線を暗示しうるのではないだろうか。外国語の例からもそのように推察される。」
ワは、/u→a/、すなわち中から外へ、そして動きから拡散への変化であるから、束がバラけて、湧き出る、湧き上がる感じと共に広がる感じがする。したがって、賑やかな感じもある。

「拗音は漢語の移入に伴って日本語の中に加わり、その後多少の変遷を経た。・・子音と母音の間に、半母音であるヤ行子音の/j/または同じく半母音のワ行子音/w/が移行音としてはいり込んだものが拗音の音節である。拗音とは拗ねた音という意味であろう。」「拗音の音感は直音に比して撚れ捻じれた複雑な独自の感覚がある。」
拗音にはヤの舞上る感じが加わる。また、まだ言葉が十分発音できない赤ちゃんの片言にこの音がよく現れることから、幼さ、かわいらしさなどが感じられる。

「促音は〔母音+子音〕構造の中間にはいる声門閉鎖である。母音の末尾が急停止し、一定時間無音状態が続いた後に次の子音が発声状態にはいる。母音の後の急停止とその後の一定時間の無音状態が一音節を形成する促音と認識されるのである。」「促音は一種の緊張を感じしめる。促すような、切迫したような、強化するような、あるいは急激に動くとか、驚いた感じである。また一方たんなる意味分別の役を果たしていることもある。」
促音は、心理的には、この言葉を強調するために使われ始めたと思われる。その言葉の中の促音の直前の拍を強調するのか、直後の音を強調するのか意見が分かれるが、私はその言葉そのものを強調していると考えている。また、一部の撥音、言葉の中の拍と拍との間に挟み込まれる撥音も同じような働きをいていると思う。

「撥音は単独で一音節となるいわゆる成節子音である。硬口蓋を舌面で塞いでも、軟口蓋を塞いでも鼻音としてこの音は得られる。後に接続する音しだいでは、マ行音/m/でも、ナ行子音/n/でも差し支えなく、口蓋垂音のこともある。」
「ンの音感は第一に、鼻音として鼻腔の反響音が際立ち、音響の暗示に適している。特に破裂音を子音とする音節(母音部分が長音となれば強調を意味する)に接続してンで終わる語に音響に関する語が多い。ンは余韻といった感じがする。第二に、ナ行音のところでも解説したように、ンは否定の音といってもよい。口を噤んでこの鼻音を発しながら冠をふるジェスチャーと関連がありそうに思われる。」
言葉の最後にくるンは鼻音ゆえに粘り気が感じられ余韻となって残る。
次に、ここでもンを否定の音とおっしゃっているが、首を縦に振りながらでは肯定になるし、語尾を上げ気味にすれば疑問になる。ンは心から直接出て来る声の音である。意味以前の音で、発声法によっていろいろと味付けされる。「ウン、ウン」と強く発音すれば自己確認にもなる。

以上、西原先生の説明をたたき台として私の考え方を述べてきたが、基本的に西原先生は語感をよく感じ取っておられると思う。特に、英語の語感については、英語人も気付いていない指摘がいろいろとあるように思う。
最後に、英語に疎い私が面白いと思った例を挙げると、‘ghost’につて「始めは善霊で、後悪霊に転じたのは、のどの奥を暗示するような語音の気味悪さによる」、‘moody’について「/u:/の暗示によって‘ill humour’の意味が加わった。moodには今日でも憂鬱の意味はない」、‘mini-’について「という接辞は/i/が2個あることによって「小さいもの」の暗示性に富む」などの説明がある。成程と思う。英語人は分かっているのだろうか。
このような例は日本語にもある。漢語‘遠慮’は、本来は遠望深慮という意味であったが、‘遠慮(En-Ryo)’の最初の母音/e/の身を引くイメージが効いて、日本語では「ご遠慮申し上げる」のような使われ方をするようになったのである。
英語の音感語についても非常に多くの例を挙げて説明されているが、その中でも語呂合わせではないかとまで思わせる例を挙げておられるのでご紹介すると、
 Cocks cry cock-a-doodle-doo.
 Cats cry miaow.
 Cows cry moo.
 Crows cry caw-caw.
こうなると、英語人の動物の鳴き声の捉え方もわれわれ日本人と余り変わらないということではないだろうか。(なお、cry cockから動詞crowが出来たとも言っておられる。)

ところで、西原先生の「音声と意味」は英語に翻訳、出版されているのだろうか。海外の人々にも読んでもらう値打ちはあると思う。どなたか海外で出版してあげて下さい。
ちなみに、この本の「まえがき」にA List of Expressive Words with Examples in Modern English,2 volsを松柏社から仮出版したとあるが、これは英文なのだろうか。外国人向けの英文の説明が付いているのだろうか。
また、「・・・出版にまで漕ぎつけたAn Experimental Study of Intonation in Human Speech(material)(松柏社)が、さらに材料を加えて結論を導き出すに至れば、これまた本書の縁戚となるであろう。音調の大半は発話における音象徴とも言うべきものだからである。」とあるが、Intonationまでが音象徴なのだろうか。西原先生の音象徴は広すぎると思う。あるいは、Modern Englishにおいて人々はSoundに音象徴を感ぜず、もっぱらIntonationに感じているらしいことを勘案して、Intonationという表現を使ったのだろうか(この本を読んでいないので分かりませんが)。
西原忠毅先生 有難うございました。
   (平成27年12月10日)

   「音声と意味(SOUND AND SENSE)」(西原忠毅著)  

サイト閲覧者へのメール

 前回お返事を差し上げてから、一部お返事をしないまま、随分時間がたってしまいました。
お勧めの「あいうえお の起源」取り寄せ読みました。面白かったので同じ著者の「あいうえお の考古学」も取り寄せ読んでみました。
 大変面白いでした。ただ、お遊びとしてはいいのですが、発想法としては私とは余りにも違いますので、研究としては一線を画したいと思っています。
 ただ、一つ、大きな収穫がありました。「あいうえお の起源」の中で、英語の音感について「象徴感情」を研究しているとして西原忠毅氏の名前が挙がっていたので、ネットで西原忠毅を調べると九州大学の英語学、音声学の名誉教授だということが分りました。それで早速、西原教授の著書を取り寄せました。「音声と意味」、昭和54年発刊の少し古い本ですが、357ページの本格的な研究書です。副題に英語で「SOUND AND SENSE – A Study of the Expressiveness of Word-Sound in Modern English」とあるように英語に見られる音象徴現象を研究したものです。すばらしい本です。ついでに先生のご本をもう一冊取り寄せました。書名は「日本語の音感」。そのものずばりです。副題は「短歌を素材として」でした。少し軽めの本です。
 我が国にも音象徴(語感)をまともに取り上げた学者がいたのです。語感のことが十分分った上で研究の対象を英語にまで及ぼしておられるのです。こんな素晴らしい研究者がいたのは全くの驚きです。大変心強く思いました。しかし、なぜ、彼、及び彼の研究が世に知られていないのか不思議な気がします。
 私は、私が考えている概念を極力英語にしようと試みています。そうすることによって、概念が客観化されるからです。この本では、日本語の概念に対する英語も書かれていますので、本当は英語で何というのか分り、非常に助かります。(例えば、私はSound of Voice of Wordsとしていましたが、西原先生はWord-Soundとしていました。これで十分ですね。)これからじっくりこの本を研究するつもりです。ただ、多少私と音に対する感じ方が違うようです。
ざっと読んだ限りでは、二つほど問題点が見つかりました。
一つは、音象徴の原因を共感覚としているところです。これは30年以上前のことであり、著者が理系の方ではないので仕方がないことではありますが、現在のオノマトペの研究者たちと同じ誤りを犯していることになります。
二つ目は、やはり現在のオノマトペ研究者と同じように、それぞれの音素の持つ音象徴を同じ一つの基準で比較しようとしていることです。
母音で5つ、子音で20前後の音素を、同じ一つの基準、例えば、軽いとか、明るいとかで、全てを一律にランク付けしようとするのには無理があります。それぞれの音素がそれぞれ色々なイメージを持っているのであって、ある一つのイメージを全ての音素が持っているわけでもないからです。例えば、母音/O/は大きいというイメージを持っています。母音/A/も大きいというイメージを持っています。しかし、この二つの大きいは大きさが違います。/A/の大きさは広がりとしての大きさです。「空は広いな、大きいな」の大きさです。一方、/O/の大きさは物としての大きさです。「大仏さんが大きい」の大きさです。二つの大きいは比較できません。母音/E/には粘り、つながりのイメージがありますが、大きさとは余り関係がありません。従って、母音/O/と母音/A/を、そして母音/E/を同じ一つの尺度で比べることは出来ないのです。全ての母音を同じ一つの基準で比べることは出来ないのです。 子音についても同じです。
いずれにしても、非常に確りした本です。
お礼旁々、ご報告します。
     平成27年10月4日
            増田嗣郎

   音義説は科学か  

音義説とは、言葉の音一つ一つに意味があるという考え方である。
音義説は、はたして、科学か
科学とは反証可能であることという定義がある。
その為には原理の提示がなければならない。
すなわち、なぜそうなるのかの説明がなければならない。
そして、その上で仮説の検証が行われなければならない。
音義説には、ナゼがない。現象の言挙げだけである。加えて、反証がある。
例えば、‘キレイ’と‘キタナイ’の相反する概念を表す言葉の中心に同じ‘キ’という音が使われていることの説明ができない。
音義説は科学とは言いがたい。
しかし、一方、言葉の音がそれぞれのイメージ、すなわち、音象徴を持っていることは広く知られ、また、いろいろの機会に言われている。(学問的には控え目にではあるが。)

私は、この問題を‘語感説’として新たに提示したいと思う。
まず、問題を二つに分けて考えたいと思う。
言葉の音と音象徴の関係。そして、音象徴と言葉の意味の関係である。

(音義説)      音    ⇔    意味
              ↓ ↓ ↓
(語感説)      音 ⇔ 音象徴 ⇔ 意味

   言葉の音と音象徴  

我々は、言葉の音一つ一つがそれぞれの音象徴を持っている原因が発音体感にあると見定めた。(発音体感仮説)
音象徴は聞こえの問題ではあるが、そもそも、そのように聞こえるのは、そのような発音体感を経験しているからだと考えるのである。
言葉の音は物理的には空気の振動である。この単なる空気の振動がいろいろなイメージを持っているとは考えられない。
空気の振動が頭の中にイメージが浮かんでくる切掛けとなるにすぎない。しかし、切掛けさえあれば浮かんでくるのであれば、それはすでに頭の中になければならない。
いつ、そのイメージが頭の中に蓄えられたのか。
それは、その音を自分で発音した時である。
生まれて直ぐの赤ちゃんは言葉の音を発音することは出来ない。やがて、見様見まねで一つ一つの音が発音できるようになる。
一つの音を発音するためには、ノドは勿論、舌、唇、口腔、鼻腔、そしてそれらを動かすそれぞれの筋肉を微妙に使い分けなければならない。
そして、この時、各筋肉は勿論、舌、唇、口腔、鼻腔それぞれにいろいろな感覚が生じる。(この時は言葉以前の感覚)
一つの音の発音の仕方が定着するに従い、それに伴う感覚のカタマリも脳に定着し、やがて意識には上らなくなる。(潜在意識化しているということ)
このように脳に蓄えられたイメージが、それぞれの音を聞いたときに潜在的に頭に浮かぶのである。(意識に上るかどうかは別問題)
ある音を聞いたときも、同じ音を発音するときも、脳の中の同じ場所が活性化する。
脳の中では同じ扱いとなるのである。
お母さんのいう「おはよう」も、お父さんのいう「おはよう」も、脳の中では同じ「おはよう」に変換され処理されるのである。
お母さんのいう「おはよう」とお父さんのいう「おはよう」では音の高さが違い、異なる音である。
しかし、脳の中では同じ神経パルスパターンに変換され、すなわち、自分の「おはよう」に変換されて初めてその後の処理ができるのである。
もちろん、自分が「おはよう」というとき使われる神経パルスパターンもこの同じ神経パルスパターンである。
一つの同じ言葉は、聞いたときも、しゃべるときも、読んだときも、脳の中では同じなのである。
そして、この神経パルスパターンと発音時のいろいろなイメージのカタマリがセットになって結びついているため、その音を聞いたときもこのイメージのカタマリが脳の中に浮かび上がってくるのである。

この発音体感仮説の検証オノマトペを使うと分かりやすい。
オノマトペには音象徴がよく残っているといわれている。
オノマトペ
「カラカラ」、「キリキリ」、「クルクル」、「コロコロ」、
すべてに回転のイメージがある。
なぜこの四つのオノマトペに回転のイメージがあるのか。たまたまか。偶然にしては規則性がありすぎる。すなわち、すべてに‘K’が含まれているのである。しかも、語頭音に、である。
‘K’に回転のイメージがあるのである。このことを発音体感で説明すると、‘K’の発音は、最初にノドの奥を固く絞め、そこを破裂させて息を口腔に流し込む、丸くした口腔に息が激しく流れ込むので渦をなし、回転のイメージが湧くのである。
(回転のイメージのあるオノマトペは、その他に「プルンプルン」、「ブルンブルン」があるが、いずれも震動を伴った緩い回転のイメージである。)
ちなみに、英語には‘K’音を使って、曲線、円などを表す単語がある。
curve、curl、corona、crown ・・

野球で打った球の表現に
「カーン」、「キーン」、「コーン」
がある。
音の高さからいえば、「キーン」がもっとも高い。
しかし、空高く上がった打球の表現としては「カーン」が最も相応しい。
これは、音素‘i’に直線的な鋭さが感じられるのに対し、音素‘a’に開けた大きさが感じられるためである。
これらは発音体感である。
‘a’は口を大きく開けてノビノビと声を前に出すようにして発音する。
一方、‘i’は口元を狭くして息を強く出すようにして発音する。この発音時の気持ち、感覚が発音体感として生きているのである。
(‘o’は最も重いから、「コーン」はゴロだろう。)

「サッ」、「スッ」、「サラサラ」、「スラスラ」、「スルスル」、
‘S’音には滑らかに流れるイメージがある。
これは、息を舌の上を滑らかに流すように発音するからである。息が舌の上の水分を少し奪い、少しクールな、少し乾いた、さわやかなイメージがある。
ちなみに、英語でも‘S’音は、
stream、street、smooth、through、storm 
など流れに関する単語に使われている。
音象徴の発音体感仮説は、このように、ナゼに答えるものであるから、一応、科学的ということができると思う。

   音象徴と言葉の意味  

次に、音象徴と言葉との関係であるが、これは‘見做し’であると思う。
言葉とは、もの、こと を音の連なりで指し示すものである。しかし、もの、こと と音とでは同じ種類のものではない。それぞれ全く異なる次元のものである。
同じでないもの同士に何らかの共通点を見つけて、見做したものが言葉である。
(この結び付けをソシュールは恣意的といった。しかし、言葉が最初からそうであったわけではない。神が言葉を作ったのではない限り、それぞれの言葉にはそうなった理由がある。それぞれの言葉がいろいろの変化を受けた結果、ソシュールには見えなくなってしまっていただけである。)
似顔絵も見做しである。
顔という立体(三次元)を線という一次元のもので二次元の紙の上に写したものである。
まず、対象になる顔に輪郭を見定め、その輪郭をいろいろ可能性のある線から一部を選び、紙の上に配置する。
顔の輪郭のもついろいろな属性と紙の上の線のもついろいろな可能性の中から共通性を選び出し、それを紙の上に明らかにするのである。
似顔絵にもいろいろある。
上手いものもあれば、下手なのもある。上手いということは、紙の上の線に対象とした顔の特徴がよりよく表わされているということだろう。このときの顔の特徴とは、単なる物理的特性ではなく、その顔を見た人が感じた印象としての特徴である。
顔の中に何を印象として見出すか、線に表わしうる印象として何を選び出すか。
多くの属性の中から一部を選択するのである。
そして、その似顔絵が上手か下手かは、印象としての特徴がより多く表現されているかどうかで、それは、結局、見る人が納得するかどうかである。
より多くの人が納得する似顔絵が上手い似顔絵なのである。

   ‘見做し’とは、‘多義からの納得による選択’なのである。  

言葉の始まりは、もの、こと を音で見做すことであるが、これは、もの、こと のもつ特徴を音のもついろいろなイメージの中の一部を使って表わそうとしたものであったろう。
それぞれの もの、こと のもつ多くの属性の中から特徴として何を選び出すか。そして、それを表わすためにどの音を選び出すか。
それぞれの音がいろいろなイメージをもっており、そのごく一部を使って見做そうとするわけであるから、重要なのは納得性である。
日本語でも、長い歴史の中でいろいろな言葉が生まれ、その中で人々が納得する言葉は残り、納得しにくい言葉は次々と消えていったのだろう。
音象徴と言葉との関係は、見做しであり、その本質は多義からの納得による選択である。
したがって、この音象徴と言葉との関係は、間に納得性の問題があり、現在の科学では証明しきれない。
似顔絵の上手下手を科学で決められないのと同じである。(人間の脳のクセをもっと解明する必要がある。)
ただ、複雑系の科学の理解が進み、コンピュターによる自己組織化的シミュレーション技法が進めば科学の対象になるだろう。

なお、音象徴を、言葉の音一つ一つがもついろいろなイメージのカタマリと表現したが、音象徴の源は発音体感であり、発音体感は、勿論、複合的な体感であるからクオリア的なものである。
そして、拍は 子音+母音、言葉はこの拍の連なりであるから、言葉はクオリアの連なり、すなわち、クオリアの流れをもっているということになる。
クオリアの流れは言葉では表現しきれない。そのクオリアをいろいろな切り口で言葉にしたのが音象徴なのである。

例えば、固さという切り口で見れば、‘K’は固いが‘N’は固くない。
明るさという切り口で見れば、‘A’は明るいが‘O’は明るくはない。
このようにいろいろな切り口で見ることは出来るが、クオリアであるから切りつくせない。言葉にし切れないのである。
日本語には、この言葉にし切れないクオリア的なものをクオリアをもって表わそうという工夫がある。
これがオノマトペである。(他言語においてもオノマトペは使われるが、日常非常によく使われるのは日本語の大きな特徴である。)
もの・こと のような絞り込まれた意味を示すのではなく、全体像、すなわち、様子を伝えようとすればいろいろな説明が必要である。そこで、いろいろのイメージをもっている音をいろいろ組み合わせて、もの・こと の様子と同じ特徴を極力持たせようとしたのがオノマトペなのである。
オノマトペは、もの・こと の様子を説明するもので意味はもたない。(意味の前段階)
オノマトペは、音象徴を直接生かした言葉なのである。
私は、言葉の始まりはオノマトペ的なものであったと思う。
日本語にはオノマトペから生まれたと思われる言葉が多くある。中には言葉から生まれたオノマトペもあり、どちらが先か、にわかには判じがたいケースもある。
どちらが先かは別にして、オノマトペと関連のありそうな言葉はたくさんある。
そうすると、オノマトペが音象徴から出来ているのだから、関連のそれらの言葉も音象徴と繋がりがあることになる。
日本語の場合、一つの言葉に語尾を付けたり一部の音韻を変えたりして、次々と新しい言葉が作られていったが、これらの新しい言葉も元になった言葉の音象徴を引きずっているということも考えられる。
実際、現在、われわれが使っている言葉にも音象徴的に納得できるものが多い。
オノマトペ「コロコロ」には回転というイメージがある。‘コロコロ’と‘転がる’‘転がす’などという言葉は、どちらが先かは議論があるとしても、直接繋がっている。
したがって、‘転がる’という言葉自体、回転のイメージをもち、音象徴を反映しているということができる。
‘転がす’から出来たかもしれない‘殺す’という言葉になると音象徴との関連が薄くなるが、「コロッと死ぬ」などという表現があることからみると、音象徴的にも納得性があるのかもしれない。
「タンタン」と「たたく」の関係も同じである。「タ・タ・タ」が元のオノマトペかもしれない。
「トントン」、「ツンツン」、「テンテン」
と‘T’には‘途切れた’イメージがあり、これが叩くイメージに繋がるのだろう。(離散性)
「たたかい」も「たたきあい」から出来た言葉であろうが、昔の‘戦い’には‘T’のイメージが充分あった。
(‘T’の発音体感は、ソクラテスも言っているように、舌先をチョット硬口蓋に付けて、弾く感じで発音するため、止まる、溜まるなどのイメージがある。)
日本語の中でも原初的な言葉、
「開いた」、「開ける」、「明るい」
などの一連の言葉は、母音‘ア’の音象徴から出来た言葉だろう。そして、これらの言葉から派生した「朝」、「あま(天・海)」、「赤」、「秋」
などの言葉も音象徴と直接繋がっている。
もちろん、‘ア’は、口を大きく開けて、ノビノビと発声するから、‘開いた’‘明るい’‘大きい’‘広い’など前向きのイメージがある。
日本語に関する限り、音象徴的に納得できる言葉は非常に多い。

このように、言葉の音一つ一つが意味をもっているという考え方は誤りであるが、言葉の音一つ一つが音象徴(いろいろなイメージのカタマリ:クオリア)をもっており、この音象徴と言葉の意味に関連があるのである。
言葉の出来方にはいろいろあり、意味繋がりで出来たり、外国語を導入・加工して出来たものもあるから、すべての言葉が音象徴と直接繋がっているわけではない。
しかし、これらの言葉も語感的にずれているものは使われなくなってしまう。なかには、その言葉の意味そのものが‘語感’に引っ張られて変化してしまうことすらある。(遠慮―本来の意味としては「遠慮する」のような意味合いはない。)
このように、音象徴の問題は科学の対象であり、この音象徴と言葉の意味との関係は、間に納得性の問題があり、今現在は科学としての取り扱いはむつかしい。(統計的取り扱いが限度か)
しかして、‘語感説’は科学をベースとしていると言うことができると思う。
少なくとも、発音体感説は科学である。
     (平成22年8月23日)
音義説は、本居宣長、鈴木朖 などの国学系の人々の考え方ではあるが、ソクラテスの「クラテュロス」、幸田露伴の「音幻論」も音義説と考えてもいいと思う。
ただ、ソクラテスは、ものの名前はそのものを口で模倣したものといい、幸田露伴は、口などの動かし方から直接結論を出しており、発音体感までには思いが至っていなかったと思われる。当時は、まだ、大脳生理学も発達しておらず、脳の中が分からなかったので、やむを得なかったことかもしれない。
      (平成22年11月11日)

   ‘多様性からの納得的選択’  

そもそも一つの言葉の‘語感’とその言葉の意味するところのものが常に直線的に結びついているのではない。
一つの音の‘語感’すらいろいろなイメージを併せ持っている。
その音と音の組合せからなる言葉もさらに豊富なイメージを持っている。
言葉の意味は、この豊富なイメージの一部、特に印象的なイメージを使って、定義付けられている。
ただ、その言葉の主要なイメージとその言葉の意味するところのものが大きくずれるようであれば、その言葉はやがて使われなくなる。イメージと意味との間に納得性がなければならない。
言葉の意味と‘語感’との関係は、
‘多様性からの納得的選択’
なのである。
それゆえ、一つの言葉が異なるイメージの意味で使われることもある。
その最も極端な例の一つにオノマトペ‘コンコン’がある。もともとオノマトペは‘語感’から作られた言葉である。
  「コンコンと戸をたたく」
  「狐がコンコンと鳴いている」
  「咳がコンコン、出る」
この‘コンコン’は擬音語である。
  「雪がコンコンと降っている」
  「泉の水がコンコンと湧き出ている」
の‘コンコン’は擬態語である。
  「コンコンと言い聞かせる」
となると擬情語的である。
固いものをたたく音と雪や水のイメージはかけ離れている。雪は下へ、水は上へ、これも方向が逆である。
しかし、これだけ意味的にばらけていても、それぞれにイメージ的な違和感はない。
ただ、「言い聞かせる」には「根をつめて」、「懇切丁寧」とか「懇請する」「懇談する」などの‘コン’のイメージが連想されているのかもしれない。
しかし、それゆえ、これは意味的な使い方だと速断することは出来ない。
水の絶え間なく湧き上がるイメージなどが、繰り返し、丁寧に説得するイメージとも重なる。むしろ、「根をつめる」「懇切丁寧」などの表現の方が、絶え間なく湧き出る水、絶え間なく降り積もる雪のイメージから出てきたのではないだろうか。
     平成23年5月19日

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