新しい言語学

英語

   イザヤ・ベンダサン (スル:ナル=考える:思う)  

欧米的ものの考え方と日本的ものの考え方の違いを確認するために、イザヤ・ベンダサン著、山本七平訳編と称する「日本教は日本を救えるか」を読んでいて面白い説明にぶつかった。言葉のやり取りにおけるユダヤ人の精神構造が「積極的能動態」であるのに対し、日本人のそれは「能動的受動態」だというのである。
これはまさに、ものの考え方としての「作る」、あるいは「スル」という姿勢と「ナル」という姿勢に符合している。根本的認識として、欧米では神が人を作ったのであり、日本では神も人もナッタのである。
ところで、この「ナル」に相当する英語がない。
「grow」にしろ「bear」にしろ、産み出す何者かがいなければならない。しかし、日本語の「ナル」は何ら原因、出所を想定していない。まさに、自然にナルのである。「appear」にしろ、「come out」にしろ、もともと何処かにあったものが出てくるわけであるが、「ナル」はそうではない。「become」が最も近いかもしれないが、「become」も何処かから「come(来て)」、「be(在る)」であるのだから、やはり少し違う。「ナル」はもともと何もなかったものが現れるのである。
「ナル」に相当する言葉がないということは、欧米には、原因もなく素もなく、ただ自然に「ナル」という考え方がないということである。ちなみに、日本語には「作る」という考え方も言葉もある。ただ、神が人を作ったという考え方はない。
このことに絡んで、日本語には「考える」という言葉と「思う」という言葉があるが、英語には「think」という言葉しかない。
日本語の「考える」は能動的動作であるが、「思う」は自動的なやや受動の状態である。
   「いろいろ考えてみたけれど、やっぱり僕はこう思う」
という表現があるが、この「考える」と「思う」を逆には出来ない。
「考える」は積極的努力で動作であるけれども、「思う」は結果的にこうなってしまったということで、自動的な状態に近い。
「やっぱり僕はこう思う」の「思う」は「スル」の「conclude」というニュアンスではなく、自然に結果としてそういう「idea」に「ナッタ」というニュアンスである。
他にも、「考えても、考えても」とか「考えが足りない」などの表現に対し、「ふと思った」、「思わず」というような表現もこの違いを表している。
したがって、日本語の「考える」に相当する英語は「think」であるが、日本語の「思う」に相当する英語はない。
「考える」は「作る」と同じ積極的能動態であるのに対し、「思う」が「ナル」と同じ能動的受動態であって、「ナル」の英語がないように「思う」の英語もないのである。そのような考え方が英語にはないのである。
ただ、日本人は「考える」という積極的能動態の表現を柔らかくして「思う」という受動態で表現することがよくあり、「思う」が「考える」を含んだ表現になってしまっており、それがために日本語を英語にするとき「思う」を「think」と言ってしまって、その根拠を問われあたふたするというようなことがよく起こってしまうのである。
日本語の「考える」と「思う」の違いは、大脳生理学的にいうと、意識の層、すなわち、大脳新皮質での思考が「考える」で、無意識の層、すなわち旧脳を中心に脳全体での思考が「思う」なのである。「思う」は無意識層での思考であるから、その思考過程は明確には出来ない。しかし、思考は行われているので、突然、思いだしたり、思いついたりするのである。英語では、無意識層での思考をないものとして無視しているように思われる。
欧米での思考は大脳新皮質、すなわち知に偏り過ぎているのではないかと思う。そして、何事も知でつじつまを合わせようとして、創造者としての神を持ってこざるをえなくなったのではないだろうか。
日本の思考は、全脳的で知情意のバランスがとれているのではないかと思う。その分、知のみでいえば、日本の思考はいい加減に見えることもあるが、知情意で見れば、良い加減なのである。
日本語の方が自然で、英語は不自然である。
なお、日本語には「思う」をもっと不確かにした「感じがする」、「気がする」という表現がある。ここまで来ると英語にも「feel」という表現があるが、「feel」は思考の一種とは考えられていない。
     (平成25年3月9日)

   言葉の中の文化の違い  

先日、たまたまTVを見ていたら、NHKの「ニッポンの謝罪」という番組の中で、アメリカ人でマルチタレントのデーブスペクターが「新幹線の車内放送で、遅れもせず定刻に発車するにもかかわらず、「お待たせしました」と謝るのはおかしい、表面的な謝罪・・・」と言っているのに出くわし、非常に驚いた。
この車内放送の「お待たせしました」は謝罪ではない。
成程、出発が何らかの原因で遅れた時も、「お待たせしました」とは言う。ただ、このような時は、大抵「関ヶ原付近で雪のため・・」とか理由を言って、「誠に申し訳ありません」などと言う。「申し訳ありません」が謝罪であって、「お待たせしました」は基本的には謝罪ではない。もっとも、「大変、お待たせしました」は謝罪のケースであるが、この時も、大抵「申し訳ありません」の言葉が続く。
「お待たせしました」の意味は、「列車の出発が遅れて、待たせた」というのではなく、列車の出発に合わせて乗り合った人達に、お待ちになったが、いよいよ出発ですよというお知らせの挨拶である。「ご苦労さま」というねぎらいの挨拶に近いと言ってもいいかもしれない。
「ご苦労さま」という挨拶も、相手が本当に苦労したかは関係がない。「お疲れさま」と同じで、互を労うねぎらいの挨拶である。
「お早う」という朝の挨拶も、朝早くとは限らない。表現は形式化しているが、親しみ、ねぎらいの心は伝わる。
なお、「お早う」の場合、原義も生きていて、お昼近くに、「お早う」と言うと皮肉に聞こえることもある(芸能界は別らしいが)。
「有難う」も言葉の原義を考えるとおかしい。折角、人に親切にしてもらって、それに対して、「有りえない」と言っているようなものであるからである。「有難う」は「有り難い」から出来た表現である。
今時の若い人が、友人にプレゼントをもらって、「ウソ!」と叫んでいるのには、われわれ旧世代人は眉をひそめるが、考えてみれば、「ウソ!」も「有りえない!」もほとんど同じ意味合いである。
「すみません」は、言葉の表面的意味からだけ考えると、もっとひどい言葉である。人に迷惑をかけながら、「物事が終わらない(済まない)」とは無責任極まりない言い草ではないだろうか。
このように日本語は、揚げ足を取ればいくらでもいちゃもんの付く、間接的な表現が多いが、その分奥が深く、言い方次第で、しみじみとした心を伝えることが出来る言語なのである。
有難う、すみません、は非常にいい言葉である。お待たせしました、も。
誰か、デーブスペクターさんに教えてあげてください。
ついでに、日本語の「もったいない」もいい言葉であるが、英語には成りきらない。これが文化の違いである。
   (平成25年2月12日)

   英語には、日本語の‘思う’にあたる言葉はない。  

英語には‘think’があるだけである。日本語では‘think’は‘考える’である。日本語の‘考える’と‘思う’は違う。同じように使うこともあるが、根拠が不確かであったり、あまり強く主張したくないときには、‘思う’という。
‘考える’は、文字通りいろいろと考えた結果であり、‘思う’は、あまり考えたわけではないと思った場合である。考えもせずに結論が出るのかということになるが、日本人は、何も論理的にあれこれ考えなくとも、ただ何となく考えて結論が出たと考えている(思っている)。
英語では、こんな非論理的なことはないと考えるから、‘think’しかない。あとは、‘feel’である。
日本語には、‘考える’と‘気がする’の間に‘感じがする’、そして‘思う’がある。
‘気がする’と‘感じがする’は‘feel’だろう。ただ、‘感じがする’には、もう少し確信のあるものもある。
‘思う’は、考えたとは言えなくとも、いい加減なものではない。そこそこ、確信もあるのである。

人間は意識上だけで考えるのではない。意識下(無意識、潜在意識)でも考えるのである。
意識下の思考は言葉に出来ない。
人類が言語を得る以前も、人々は考えていたと考えられる。しかし、それを意識出来ていたかは微妙である。人類が言葉を得てからもこの思考は残ったろう。この思考は、意識下で思考した結果だけが結論として意識に上ってくるのである。
これを、日本人は意識の程度によって、‘気がする’、‘感じがする’、そして、意識できるかできないかのスレスレのものを、‘思う’と表現し分けている。ただ、意識上の思考も、あまり緻密でないものは、‘思う’とも言う。
これらを、敢えて英語で理屈っぽく表現すると、‘思う’が‘liminal thinking’、‘感じがする’、‘気がする’が‘subliminal thinking’である。もちろん、‘考える’は‘spraliminal thinking’である。

なお、英語には‘feel’を、もう少し具体化した表現として‘guess’、‘suppose’がある。これを日本語で言えば、‘〜(となり)そうだ’とか‘〜(となる)だろう’である。この二つの日本語の違いも確信度の違いである。それぞれにもう少し言葉を足してみると、よく分かる。
   ‘雨が降りそうだ。そんな気がする’
   ‘彼は偉くなるだろう、と思う’
また、ヒラメキ(inspiration)は‘subliminal resolution’、直観(intuition)は ‘subliminal decision’あるいは、‘subliminal judgment’といえるのではないだろうか。

   ‘何となく、そんな気がする’は、欧米人には理解できない。  

脳内の情報処理、すなわち、演算の大半を人は意識することはない。
走れば、呼吸を早くする、脈拍を上げる。暑ければ、汗を出す。これらの生理反応もすべて脳からの指示によって、それぞれの器官において行われているのである。しかし、われわれはこの脳の判断、指示を意識することはできない。
自転車に乗ることを覚える過程では、ハンドルを右や左に、足を着くのは左足といろいろ意識しながら乗り方を覚えて行く。しかし、一旦、乗ることを覚えてしまうと、体重移動をどうする、ハンドルの微妙な操作をどうするなどと意識することはないし、また、意識することが出来なくなってしまう。
これは平衡感覚を始め、運動の細かな指示は小脳で行われており、小脳の働きは意識することが出来ないからである。
脳の活動のうち、人が意識することが出来るのは、大脳新皮質の働きの一部だけであって、旧脳である辺縁系、脳幹、そして、小脳の働きは一切意識化することは出来ない。

日本語では、この辺縁系以下での意識することの出来ない脳の働きを‘何となく’と表現する。
‘何となく、そんな気がする’の‘気がする’も、意識下での脳の働きの結果なのである。
英語で、この‘何となく’はどう表現するのだろう。多分、表現はないと思う。
‘何となく’を無理やり英語にすると、‘without any reason’とでもなるのだろうか。
しかし、何の理由もなく、そのように‘feel’すると言うと、知性のない人と馬鹿にされるのではないだろうか。論理的に考えるなどの大脳新皮質による‘知’の行為以外は価値がないと考えているからである。このように、欧米では、意識下の思考を無視してきたから、逆に、フロイト、ユングの深層心理学のようなものが出て来たのではないだろうか。
日本では、昔から‘病は気から’と‘気’の存在を知っていたのである。日本では、‘知’は頭、‘気’は心の働きと考えられてきた。そして、単なる頭よりも心の方が大切とも考えられてきた。日本語には‘気’を使う表現がたくさんある。
気がつく、気付く、気を配る、気配り、気を使う、気遣い、気にする、気働き、気に病む、気が晴れる、気が滅入る、気の毒、・・・
だから、日本語では、考えるだけではなく、感じがする、気がすると使い分けてきたのである。
‘気がする’は単なる‘feel’とは違う。‘think’にも通じるのである。
‘考える’だけの‘知’に偏重した欧米的考え方はバランスを欠いている。しかし、それ故に、新しい学問範囲を開拓したともいうことができる。
哲学、宗教にも、そのことは当てはまるかもしれない。

   ’気持ち’を英語で何というか  

ところで、欧米語には日本語の‘気持ち’に相当する言葉がない。
日本語では、話し手の気持ちは語感を介して聞き手に伝わる。この‘気持ち’に相当する英語がない。
英和辞書を引くと、‘feel’、‘mode’とある。私は、言葉の語感を介して伝わる‘気持ち’とは、意思に近く、‘mind’の表現が近いのではないかと思う。
しかし、英語の‘mind’に意識しないものが含まれるかどうか。意識しない、あるいは、意識出来ない‘mind’というのは言語矛盾のような気もする。

日本語で、友達と遊んでいて、‘帰るよ’と言うのと‘帰るね’と言うのではニュアンスが異なる。助詞の‘よ’と‘ね’によって伝わる‘気持ち’が違うのである。
‘帰るよ’は、親子のように一緒に帰ることが前提になっていれば、呼びかけだが、そうでない友達同士などの場合には、予告的宣告のニュアンスとなる。‘Yo’は、重さを柔らかさで包んだような語感があるからである。
一方、‘帰るね’には、相手に了解をとる念押し的ニュアンスがある。これは、‘Ne’に、語感として、粘り気と親近感があるからである。
これらの中間の表現としては、‘帰るからね’というのもある。理由があって仕方がないのだとニュアンスが加わる。

これらの表現を使い分ける話し手に、これらの‘気持ち’伝えようという明確な意思が、必ずしもあるわけではない。
無意識に、である。聞き手の方も、意識として、明確に聞き分けているわけではない。しかし、何となく分かるのである。意識下において、話し分け、聞き分けているのである。
そのような意味で、ここでの‘気持ち’は subliminal か liminal な状態である。
私は、欧米人にも、‘mind’が liminal あるいは、 subliminal な状態があると思う。ただ、欧米人は‘気持ち’も言葉として明確に表現しなければならないと思い込んでいるようである。したがって、言葉で明確に表現されていない‘気持ち’はないも同然だと思い込まされているようである。(単純といえば単純である)
    (平成23年8月24日)

   I love you は 変な言葉  

‘I love you’は、今でも若い人たちのあこがれの言葉だ。
しかし、よく考えてみると、これって、変な言葉ではないだろうか。
普通、この言葉は大勢の人がいる場所で言う言葉ではない。二人きりの空間、少なくともメンタルには二人きりの世界の中で発せられる言葉である。
では、二人きりの空間で、なぜ‘I’とか‘you’と言うのか。‘love’だけで充分ではないのか。
二人だけの空間で、私が‘愛してる’と言えば、‘私が’に決まっている。あなたに向かって‘愛してる’と言えば、‘あなたを’に決まっている。
こんな決まりきったことをわざわざ言うのは変ではないだろうか。
‘I love you’は変な言葉である。

‘I love you’を日本語に直訳すると、‘私はあなたを愛します’となるが、こんなことを実際に言う日本人はいない。(小説、ドラマなどの中ではあるかもしれない。しかし、これらはすべてフィクションである。)
日本人には、‘I love you’的な言葉は、余程のことがなければ言えないが、言ってもせいぜい‘好きだよ’‘愛してるよ’程度である。
日本人は分かりきったことを口にするのは不自然だと考えている。だから、‘愛してるよ’などと言われると、何かやましいことか、下心があるのではと考えてしまう。だから、‘愛してる’とも、まず言わない。まして、‘僕は’とか‘あなたを’などとは言わない。

では、なぜ英語では言うのか。言わなければならないのか。
これは、日本語と英語の本質的な違いで、日本語が現場現場の主観の言語であるのに対し、英語が客観の言語だからである。客観というのは外から眺めることで、現場を劇場の舞台のように眺めるということである。
だから、英語は舞台のセリフのように主語や目的語をはっきり言わなければならないのである。
そもそも、日本語は共感のための言語であり、英語は説得のための言語である。当然、説得のための言語は、常に権利関係を明確にしなければならないので、必ず主語が必要で、文法も厳格になってくるのである。
ところで、‘愛’は説得か、取引か。
欧米人は‘愛’を‘知’の行為と考えているのかもしれない。‘愛’は神の命令だから。
日本人は‘愛’は‘知’の行為というよりも‘情’の行為と考えている。
    平成23年6月24日

   英語 にはない 日本語の表現  

‘わび’、‘さび’などの高尚な言葉でなくとも、ごく日常的な言葉にも欧米語にはない日本語独特の表現がある。
‘行って来ます’   ‘行ってらっしゃい’
‘ただいま’      ‘おかえり’
‘いただきます’   ‘ごちそうさま’
などである。
‘もったいない’
‘なつかしい’
などもそうである。
厳密に言うと、
‘嫌い’、
‘思う’
も英語にはない。
‘人間’
という言葉も英語にはない。
一方、英語にあって日本語にない言葉が、
 ‘I’ と ‘You’
である。
このことのからみで、
 ‘有難う’
 ‘すみません’
の意味合いが、英語と日本語では大きく異なる。
これらのことは、サピァ・ウォーフの仮説のいうように、欧米文化と日本文化の違いを表わしている。
以上に挙げた言葉は、文明の本質的な違いを反映した言葉である。
 ‘もの’
 ‘こと’
という表現も英語では異なる。全体世界を区分けする考え方(自然観)の違いからくるもので、言語哲学の重要なテーマである。
 ‘ある’
 ‘ない’
 ‘なる’
言語哲学の面白いテーマである。また、‘なる’は日本文化の本質に関わる概念でもある。

個別語彙を離れて、システムとして日本語にあって欧米語にないものは、オノマトペと助詞である。
オノマトペは、多少、欧米語にもある。しかし、使用頻度からしてないに等しい。特に、擬態語、擬情語にあたるものはほとんど見当たらない。
英語で、
「そろそろ歩く」

「ゆっくり歩く」
をどう表現し分けるのだろう。
「ゆったり歩く」
はどうだろう。英語ではかなり細かな説明がいるだろう。日本人はこの微妙な違いを日常会話で使い分けている。
助詞も欧米語にはない。
助詞の役割は機能であるといわれている。接続、疑問、感嘆などを表わす働きがあるのである。
しかし、助詞の働きは機能だけではない。助詞は話し手のメンタル・ポジションを表わしうるのである。話し手と聞き手の心的な距離感すら表わすのである。
英語にはこのような微妙な表現の可能な言葉はない。
 「(学校へ)行くよ。」
 「(学校へ)行くね。」
では違う。英語ではどう表現し分けるのだろう。
‘よ’と‘ね’の違いであるが、‘ね’には相手も分かっているという前提があって‘念押し’的なニュアンスがある。
‘よ’にはそのような前提はなく‘言い放し’的なニュアンスがある。‘よ’には相手との間に少し距離がある。
状況によっては、
 「行くよ。」
は‘督促(呼びかけ)’の場合もある。これは相手も行くことが決まっている場合である。‘命令’に近い。
 「行くね。」
も場合によっては、自分ではなく相手が行くことの‘念押し’のこともある。
この‘よ’、‘ね’の使い分けは、ニュアンスの違いからであるが、この違いは‘語感’の違いからくるものである。
助詞は、一拍、あるいは、二拍から出来ている。極めてプリミティッブである。それだけに‘語感’をダイレクトに表出しているのである。
欧米語になく、日本語を特徴付ける助詞、オノマトペは、‘語感’を直接反映する言葉でもあるのである。
      平成23年3月8日

   「ただいま」 の 英語 がない  

英会話の辞書を引いてみたが、「ただいま」に当たる英語の表現がない。
「おかえり」に対しては、「Welcome home」というのがあった。‘Welcome’というのは、何か他人行儀でよそよそしい感じがする。
「ただいま」を直訳すると‘just now’である。これでは何のことか分からない。そこで少し補完してみると「Just now、 I came back」とでもなろうか。
しかし、鉄道員でもあるまいし、なぜ、‘just now’なのだろうか。

「ただいま」、「おかえり」には前段階があるのである。それは、「いってきます」、「いってらっしゃい」である。
「いってきます」の英訳は「I will go」ではない。「I will go and come back」なのである。
「いってきます」は‘行って’、そして‘来ます’なのである。「いってらっしゃい」は‘行って’、そして、帰って‘来なさい’なのである。‘来る’すなわち、‘帰ってくる’が前提の‘行く’なのである。
そして、これを受けての「‘Just now’、帰りました」、「よく‘お帰り’になりました」なのである。
これらから分かることは、日本人には家庭なら家庭というベースがあって、そこに帰ることが前提になっているのである。それは家庭だけに限らない。海外旅行に日本を出発するときも、友達が「いってらっしゃい」という。このときは、その友達とのコミュニティが、あるいは、日本がベースになっているのである。日本人は、家庭だけでなく、地域のいろいろなコミュニティ、町とか村とか、地域そのもの、そして、日本という国に、帰るべき場所、いつでも帰れる場所として、属しているという感覚があるのである。
英語には、このような前提に立つ言葉はない。もちろん、そのような考え方がないからである。
文化としての、‘個’と全体の関係が異なるからである。

日本語の間接表現
今一つ分かることは、「ただいま」というごく短い言葉に、これだけ多くの思いが込められているということである。
「帰ってきたよ」とか「無事帰ってこれて、お前に会えてうれしいよ」というような直接的表現ではなく、‘Jast now’というような間接的な表現によって、かえって、それ以上の気持ちを伝えることが出来るのである。
「有難う」も同じで、感謝という直接的な表現ではなく、間接的な表現を、間接的に申し述べることによって、かえって、感謝の深い思いを伝えることが出来るのである。
(これは、日本画の余白に通じるものがあるのかもしれない。見る者、聞く者の想像力を掻き立てることによって、より多くのことを伝えることが出来るのかもしれない。)

友達との別れ際の「じゃぁねー」という言い方もある。これも英語にはない。英会話の辞書には「See you」とある。しかし、「See you」は「また、お会いしましょう」で、「またねー」に近い。
「また、お会いしましょう」は「See you, again」だから、英語は‘again’を省き、日本語は‘see you’を省いたことになる。ここでも英語は直接的で、日本語は間接的である。
「じゃぁねー」はどういう意味か。‘じゃあ’は‘では’を崩したもの。‘ね’は、お願い、念押し、親しさ、あまえを表わす終助詞。
‘では’は‘それでは’が縮まったもので、場面の切り替えのときに使う言葉。
‘De’は‘Te’を濁音化して強調したもので、‘T’には、一旦止めて溜める‘語感’があり、‘e’には、繋がっていく‘語感’がる。したがって、‘では’には、これまでの状況を一旦終結して、次の場面に移ろうというニュアンスがある。
‘では’の‘は’は‘Wa’で、‘W’は‘uからaへの変化’で、中のものがオープンになるイメージがあり、主題の提示の際などに使われる。
‘ね’は親しい人への呼びかけにも使われるが、‘Ne’の‘N’は鼻音で、やわらかさ、粘り気が感じられ、うちうちの仲間感が感じられる。‘e’はやや身を引いた躊躇感とともに、繋がっている感じがあり、‘Ne’全体として、仲間内の感じが濃厚に出る。
したがって、「じゃぁねー」には、それではお別れしましょうという意味に加えて、友情の確認的な意味合いが含まれている。
この言葉も表面的な意味は間接的であっても、伝わる情意的意味合いは濃厚である。
         (平成22年11月22日)

   「Thank You」 と 「有難う」 とは違う  

日本人の好きな言葉の一つに「有難う」がある。
これに当たる英語は「Thank You」である。しかし、「有難う」と「Thank You」は違う。
「Thank You」には‘You’という語が入っていて「あなたに感謝する」という意味である。「有難う」はどうか。
「有難う」の元の形は「有難いことだ」である。‘You’に当たる言葉はどこにもない。
英語に直訳すると「impossible to be」である。
これが、どうして感謝の言葉になるのか。
「有難う」という言葉は、もともとは相手に対する言葉ではなかった。
今でも、何事かが無事終わったり、幸運に恵まれたりしたときに、誰に対するでもなく、「有難いことだ」とつぶやくことはよくある。
お遍路さんが無事八十八箇所を回り終えて、誰彼となく「有難う、有難う」と言い合っている光景もよく見られる。その人に特別お世話になったわけではなくとも「有難う」という。これも、本当は言葉を掛けた相手に言っているのではないのである。(しかし、お互いに喜び合っているのではある。)
われわれ日本人が「有難い」と言っているのは、神なり、天なり、運命なり、何か絶対的なものに対して「これは有難いことだ」と言っているのである。
この‘有難いこと’が起こったのだから、それはこの絶対的なものの力であって、それを言うことによって、感謝の気持ちを表現しているのである。
この感謝の気持ちを絶対的なものに対して言うことによって、間接的に相手に感謝の気持ちを伝えているのである。
私も、相手も、この絶対的なものと対立しているのではなく、同じ側にいるので、これで相手に感謝の気持ちが伝わるのである。
相手の人が何か私にしてくれたとき、その様にするように相手の人を仕向けたのは天の配剤なのだという考え方がその根底にある。また、相手の人も、話し手にその様に考えられることに違和感はないのである。自分もその天の下に共にあると考えているからである。

英語には「Thank God」という言い方もある。
神に感謝するのであるから「有難う」と同じか。
やはり、根本的な姿勢において違うのである。
神、あるいは、絶対的なものに対する感謝という意味では同じである。しかし、‘感謝’と‘有難い’ではスタンスが違うのである。
神に感謝するというのは、神に対する直接的な物言いである。しかし、‘有難い’というのは直接的な物言いではない。「有難いことが起こった。これは偏に神の思し召しだ。有難い、有難い」と言っているのであって、相手に対しては勿論、神に対しても間接的な物言いなのである。
神に対して対等に直接ものを言うのは畏れ多いという感覚がある一方、神、あるいは、絶対的なものは自分たちの外にあるのではなく、自分たちと同じ側にあるという共通感覚ももっているのである。
そして、日本人は、この神、天、あるいは、絶対的なものこそ、自然の中心をなすもの、あるいは、自然そのものと考えているのである。
欧米人は、この自然を自分と相対する外のものと考え、日本人は、自分もその自然の中にあると考えているのである。

最近の若い人の会話を聞いていると、さかんに「ウソ!」と言っている。感謝の気持ちを伝えるところでも、大声で「ウソ!」と叫んでいる。
字義通り解釈すると、有難いことをしてもらいながら、‘ウソ’とは何事だ、失礼な、ということになりそうであるが、言われた方もニコニコしている。
われわれ古い世代の人間には信じがたい光景である。
しかし、よく考えてみると、‘有難い’と‘ウソ’とはほとんど同じ意味合いである。
「有難い、有難い」と言っているのと「ウソみたい、ウソみたい」と言っているのは、ほぼ同じことである。「ウソ、ウソ!」と言っているのは相手に対してではなく、絶対的なもの、運命に対してなのである。
驚いたときにも、「ウッソー」などと言っている。若い人の大げさな表現の一種で、感嘆詞のようなものである。
このようにみると「ウソ」というのは「有難う」の進化型なのである。
ただ、この言葉が将来定着するかどうかは分からない。「ウソみた」なら納得性があるが「ウソ!」では、少し急進的で直截的すぎるような気もする。音もきつい。(‘語感’的に)
         (平成22年11月17日)

   英語 にない 表現 (思う)  

日本語の‘思う’は‘I think’ではない。
‘think’は‘考える’である。どうしてそう考えるかが説明できなければならない。
日本語で‘思う’と言ったとき、なぜそう思うかを言葉で説明できないことが多い。
言葉で説明できる場合は‘think’である。
なぜそう思うかを言葉で説明できないからといって、全く何も考えていないわけではない。
余り考えてもいないと思った場合は、日本語では‘そんな気がする’という。
人間の脳の働き、意識には潜在意識と顕在意識とがある。
人間は自分の脳の働き全てを意識できるわけではない。ごく一部が意識化できるだけである。
脳の中での演算(広い意味での思考)も全てが意識できるわけではない。
人間は意識のごく一部を言葉に表わすことによって顕在意識として意識化することができる。言葉にできる前の意識状態(前意識とも、潜在意識ともいう)は‘ただ何となく’とか、‘そんな気がする’という状態である。
人間は生きている限り、常に無意識に潜在意識で思考(演算)をしている。そして、その思考(演算)の結果が言葉として顕在意識に出てきたときに、‘そんな気がする’、‘と思う’と言うのである。
その思考結果に確信があるときには、‘思う’と言い、余り思考過程が分からないときには‘そんな気がする’と言うのである。
思考過程が分からなくとも確信があるときには、英語でも‘believe’と言う。ただ、‘信じる’は潜在意識での思考も必要ではない概念であるので、思考とは言えないかもしれない。
日本語では、‘考える’、‘思う’、‘気がする’、‘感じる’がそれぞれ多少重複しながら程度の差を表現し分けるが、英語では‘think’と‘feel’しかない。‘consider’、‘judge’は考える方法の表現で、程度の問題ではない。
ここでも英語は二分法である。
英語では、潜在意識での思考は考慮しないのである。言葉に出来ないものはないに等しいのである。
したがって、日本人は、‘思う’を‘I think’と言ってはいけない。
そうかといって、‘I feel’では意見にならない。英語にはその様な微妙な表現がないのである。単純なのである。
では、どうするか。‘I guess’で逃げてはどうか。あるいは、‘I omou’で押し切るか。
   平成23年2月23日

   英語 にない 表現 「好きでも嫌いでもない」  

「好きでも嫌いでもない」を英語に訳すことは出来ない。
そもそも英語には日本語の‘嫌い’にあたる言葉がない。
辞書を引くと‘嫌い’の訳語としては、‘dislike’、‘hate’、‘detest’が上がっている。‘hate’は憎む、憎悪するという意味、‘detest’は大嫌いという意味で、‘嫌い’はそこまでいっていない。
‘dislike’は‘like’の反対、あるいは、逆で、‘like でない’という意味である。これで「好きでも嫌いでもない」を翻訳すると「likeでも、‘likeでない’でもない」ということになり論理矛盾に陥ってしまう。
論理的には、「好きでも嫌いでもない」は‘like’と‘dislike’の間になければならない。‘dis’はそれを許さない。

欧米文化は二分法が好きなのである。白黒をつけたがるのである。(デジタル思考、ただし、論理思考にも繋がる)
欧米文化では、好きでもない、嫌いでもない、などという曖昧な状態はありえない。あるいは、むしろあってはいけないと考えているのである。(しかし、人間の感情としては実際にそういうことはよくあることである。)
単純といえば単純である。また、日本的にいえば、幼稚といえるかもしれない。(日本的アナログ思考は、非論理的なのではなく、単純論理ではないということである。)
「likeでも、hateするわけでもない」とすればどうか。
しかし、「好きでも嫌いでもない」はそのような大げさなものいいではない。‘hate’は対象に対し能動的な感情であるが、‘嫌い’は受身的な感情である。(‘嫌う’となれば能動的になる)

日本語は曖昧であるとの批判がある。しかし、それは日本語にはそれだけ表現の幅があるということではなかろうか。
もっとも、選択幅が広ければ、それを使いこなし、それを味わい分けるのに知性が必要ということで、それがしんどい人たちが増えてきたのだろうか。
    平成23年2月21日

   こ、そ、あ、ど の 英語  

言葉が違えば文化が違う。文化が違うということは、‘ものの考え方’が違うということである。
違う二つの言葉を並べると、それぞれの文化の‘ものの考え方’の違いが分かる。
また、他との違いが分かることによって、自らのことがより明らかになることもある。
‘これ’にあたる英語は何?
と聞くと、‘this’という。
‘それ’は何というと、‘that’という。
それでは、‘あれ’はと聞くと、‘that’という。
‘それ’と‘あれ’はいっしょかと聞くと、じゃあ、‘それ’は‘it’だという。
そこで、日本語‘こ、そ、あ、ど’と、それに対する英語を並べてみた。基本的には、‘それ’の列と‘あれ’の列は同じである。もともとの英語では区別がなかったのかもしれない。あえて、区別をすると次のようになる。

これそれあれどれ
thisitthatwhat
このそのあのどの
thisthethatwhat
ここそこあそこどこ
hereyour placetherewhere
thereover there
この人その人あの人どの人
hehehewho
this manthe manthat man
このようにそのようにあのようにどのように
this waythe waythat wayhow
so
my wayyour wayhis way
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‘こ、あ、ど’の列は、
‘this、that、what’、及び、
‘here、there、where’
で、統一がとれているが、‘そ’の列だけが違っている。
‘この’、‘あの’がペアーになっているのに対し、‘その’が‘it’であったり、‘the’であったり、‘your’であったりする。特に、‘it’と‘the’が同じ流れにあるのは興味深い。
ところで、定冠詞‘the’のペアーは不定冠詞‘a’である。‘a’には本来‘ある’という意味があるのではなかろうか。
‘it’のペアーは何か。‘there’かもしれない。
‘It is a pen。’
‘There is a pen。’
の違いはどうか。
日本語では、‘それはペンです。’と‘ペンがあります。’となる。
前の文では‘it’に焦点があり、後の文では‘ペン’に焦点がある。(‘There’の存在感がないということ)
やはり、‘it’と‘there’の関係は、‘the’と‘a’の関係に似ている。
  
私は英語には詳しくないが、‘this’、‘that’のペアーを眺めていると、
this=the+is、
that=the+at のような気がしてくる。
さらに、
there=the+ere(are) 
で、‘here’ は‘there’から‘the’が取れたものが、‘are’と区別するため、‘h’ だけを残したものにみえてくる。
全く英語知らずの無責任な推測だが、是非専門の方に研究していただきたい。
暴走ついでにもう一つ加えると、I−it−is、そしてドイツ語の‘ich’の間にも起源的なつながりが感じられる。
以上はスペルからのお遊びだが、もっと本源的な音からみると、存在を表す‘a’から‘ai(I)’,‘za(the)’,そして‘a:(are)’が出来てきたようにみえる。このあたりも是非専門の方に研究してほしいと思う。
‘a’がそもそも存在を表すとすると、‘a pen’、‘the pen’だけで十分話は通じると思う。‘It is’も‘There is’も不要である。つけると重複であり、冗長ですらある(日本語からみれば)。
スペルのキャラクター遊びを続けると、‘what、where’は‘that、there’と対応しているが、‘who,when,which,why’、そして、‘how’はどこから来たのだろうか。
‘when’の‘en’は‘end’と関係があるのだろうか。‘which’の‘ich’はドイツ語の‘ich’と関係があるのだろうか。‘who’は‘wh+you’なのだろうか。
発音的には(便意的に日本語の発音で分けると)、‘what,where,when,which,why’が‘ho’系であるが、‘who’は‘hu’系、‘how’は‘ha’系で他と違っている。
また、‘who’と‘how’のスペルが面白い。‘who’の‘w’を後ろに回せば‘how’になる。
ナゼ、こうなったのか面白そうだ。
   平成23年6月29日

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