新しい言語学

ソシュールの誤り

  新しい言語学を  

   ソシュール言語学 批判  

 私は、ソシュールを批判しようとしているのではない。ソシュールが言ったということを弟子たちがまとめ、それを言語学のとるべき道として推し進め、その方向性をいまだ墨守している現在の言語学を、問題だとしているのである。

   「音と意味との恣意性」 は正しいか  

 いわゆるソシュール言語学の第一原理に 「音と意味との恣意性」 というものがある。コトバの音と意味とは無関係とまで言っている。これは全くの間違いである。普通の我々日本人は、コトバの音の聞こえとコトバの意味の間になにがしか繋がりがあると感じている。少なくとも、我々が日常よく使うオノマトペ、すなわち、擬音語・擬態語には、ありありとしたイメージを感じる。しかし、日本の言語学も 「音と意味との恣意性」 から出発する。欧米の言語学を絶対とする拝欧米思想ゆえのことと思われるが、悲しいことである。

 いわゆるソシュールの言語学は言語学の一部にすぎない。それを、ソシュールの弟子たち(Ch.Bally,Alb.Sechehaye)も認めている。ソシュールの弟子たちがソシュールが語ったとしてまとめた 「一般言語学講義」 の初版のはしがきの中で 「langueの言語学」 だけでなく 「paroleの言語学」 も必要であるが、そこまで自分たちの力が及ばないと断っている(P4)。私は、 「paroleの言語学」 こそ言語学の中心だと考えている。 「langueの言語学」 は記号論、情報理論へと繋がっていく重要なものではあるが、言語学の本道ではない。

 ソシュールは langurge(言語活動) を langue(言語) と parole(言・その他の人間的要素) に分け、 parole を個人的・瞬間的として、言語学の対象から排除してしまい、 langue のみを対象としている。そして、その論理的必然として、 langue を記号体系と決め付けている。記号体系としての langue であれば、 「音と意味との恣意性」 をいえなくもない。

   言語 は単なる 記号 か  

 ここで、我々は原点に帰り、言語が単なる記号なのかを考えなければならない。コトバの音・音声は記号なのか。音声を書き記した文字言語は記号ということが出来る。しかし、人々の日常の話しことば・音声言語は、記号では表わしえないもっと豊かなものを伝え合っているのではないか。
 我々は、文字言語と音声言語を、別のものとして分けて考えなければならない。ソシュールの言語学は、結果として文字言語についてのみのものである。(ソシュールは音韻についても詳しく分析しているが、これらはすべて現象面の考察である。)

 ソシュールは、 langurge を langue と parole に分け、 parole を捨てた。これを人間に例えると、人間を肉体と精神(心)に分け、心の部分を捨てたようなものである。肉体の研究も人間を知るには重要である。しかし、肉体の研究だけでは人間を研究したことにはならない。むしろ、人間の人間たるゆえんは「心」にある。それを排除しては人間の研究にならない。そして、さらに通時性を排し、共時言語学を中心とした。これは時間を止めることで、肉体であれば息を止めることで、死んだ肉体を研究することになる。しかして、現在の言語学は死んだ肉体の言語学になってしまっているのである。

 言語学は生きた言語の言語学でなければならない。それは、ソシュールが捨てた 「Paroleの言語学」 の方向である。生きた言語学は人々の日常会話を捨ててはならない。人々が常日頃よく使っているオノマトペを無視してはならない。言語を単なる記号と考えてはならない。

   コトバ が伝えるのは 意味 だけか  

 そこで、再び原点に帰り、コトバが運んでいるものを、改め見直してみる必要がある。
 ソシュールは言語を単なる記号とし、コトバが伝えるものを意味とした。はたして、コトバが伝えるのは意味だけか。
 ソシュールは意味を概念とし、心的な働きとした。ここで心的とは、別に精神的を立てているから、スピリチュアルを除く脳の活動を指していると思われるが、概念としたことから、サブコンシャス的なものは含まれていないと思われる。
 人間の脳の活動のうち意識にかかわるものは、スプラリミナル、リミナル、サブリミナルに分けることが出来る。このうち、スプラリミナルは明確に意識されているもの・顕在意識、サブリミナルは潜在意識とか意識下・無意識とかいわれるもので、通常意識に上らないか、意識することが出来ないものを指し、これらの中間、意識されたりされなかったり、あえて意識しようとすれば出来るが、通常意識されない脳活動をリミナル・前意識というが、ソシュールが考えているのはスプラリミナル・顕在意識だけである。

 ソシュールはコトバを signe とし、 symbole とすることをあえて却下した。
 symbole には、コトバの音との関係性がやや感じられ、コトバの音と意味との恣意性が言い切れないためと思われるが、 symbole は signe より多くのニュアンス・イメージを含んでいる。このニュアンスを含んでいないものを意味としたが、はたして、コトバの伝えるものにニュアンス的なものが含まれていないか。特に言語の原点である日常会話にニュアンス的なものが含まれていないか。日常会話は、はたして、記号だけの交換なのか。

   言語 の 始まり  

 言語がどのように生まれてきたか、そのきっかけについて二つの有力な説がある。
 一つはグルーミング説。集団内で、相手の立場を認めたり、仲良くしょうとしたり、相手のことを気遣っている気持ちを表現するための毛繕い、それを音声でやり始めたというもの。
 今一つは、威嚇説。自分の縄張りの主張、自分の獲物の主張、自分の権利を主張するために発した声から始まったとするものである。
 現在の我々の言語には、この二つの要素が共に含まれている。したがって、どちらが先かは別にして、共に言語の起源と考えていいのではなかろうか。

 威嚇説では、自分の権利の主張、すなわち、明確な意思の表示であるから、概念の伝達、意味の伝達といってもいいのかもしれない。
 しかし、グルーミング説によれば、概念の伝達・意味の伝達と言って、はたして、十分であろうか。むしろ、意味の伝達というよりは気持ちの伝達ではなかろうか。

 朝の挨拶 「おはよう」、お昼の挨拶 「こんにちは」、別れの挨拶 「さよなら」。
 この 「おはよう」、「こんにちは」、「さよなら」 の意味は何か。
 「おはよう」 といっても、朝早いですねということを伝えようとしているのではない。昼近くても 「おはよう」 という。
 「こんにちは」 といっても、今日がどうこうという積りはない。
 「さよなら」 といっても、何かを了解したという意味ではない。
 あえていえば、「おはよう」、「こんにちは」、「さよなら」 に意味はない。
 これらは挨拶であって、気持ちを伝えているにすぎない。意味の伝達ではなく、気持ちの伝達である。あなたに会ってうれしい、私はあなたに敵意は無い、今日もいっしょにがんばろうね、今日は楽しかったよ、有難う、また会いたいね、などの気持ちの伝達である。
 また、どれかの意味に限定しなければならないわけではない。

   「気持ち」 とは何か  

 「気持ち」とは何か。
 英訳辞書によると、a feeling、feelings とあり、あえて説明すると、spiritual、emotional、mental situation ということになるが、これでも、 「これはほんの私の気持ちです」 「あなたのお気持ちもよくわかりますが、・・・」 などの 「気持」 は表わしきれない。
 言語による切り口の違いもあるが、気持ちというコトバは色々のニュアンスを含んだコトバである。このコトバ自体、意味だけの伝達ではない。
 気持ちとは、自分の心の中のありようすべて、良いも悪いもすべてを含むものであるが、それはスプラリミナルなものだけではなく、リミナルなものを含み、時にはサブリミナルなものを含んでいる。リミナル、サブリミナルなものもニュアンスの中に含まれるのである。

 コトバがどうしてスプラリミナルなもの以外に、ニュアンスとしてリミナル、サブリミナルなものを伝えることができるのか。
 それは、コトバの要素となっている音が、それぞれ独自のイメージのカタマリを持っているからである。イメージはニュアンス的でリミナル、サブリミナルなものも含みうる。
 日本語のコトバは拍の連なりであるが、拍は、子音と母音からなり、それぞれの音韻の持つイメージのカタマリの連なりを持つ。そして、コトバは拍の連なりであり、結果、イメージの連なりの連なりとなっている。このイメージのカタマリの連なりはクオリア的である。

 言語の起源として、大きくはグルーミング説と威嚇(自己主張)説があるが、コトバにはこの二つの起源に則した二種類のコトバがある。すなわち、グルーミングを目的としたコトバと、自己主張を目的としたコトバである。
 グルーミングの目的は自分の気持ちを相手に伝えることであり、自己主張とは自己の権利を明確に伝えること、すなわち、論理の展開である。
 気持ちは情の部分を含み、諸々のニュアンスを持った漠としたものであり、論理の展開は、ものごとを割り切り、概念化することである。
 したがって、この二種類のコトバに要求されるものは大きく異なる。気持ちの伝達ではより微妙なニュアンスを伝えようとするし、概念化はあいまいを許さず、より厳格な規定化を要する。
この二つの方向は全く反対である。一つのコトバが同時にこの二つの要求を満たすことはできない。
 ソシュールは言語の本来のあり方を後者、すなわち、論理の展開、概念化とし、前者、すなわち、気持ちの伝達を parole として排除してしまったのである。これでは言語の一面のみを見るにすぎないことになってしまう。

   アナログ語 ・ デジタル語  

 一つの言語体系の中に、この異なる二つの方向をそれぞれ指向する二種類のコトバがあることになる。すなわち、一つは色々なニュアンスを持つ気持ちを伝えるためのコトバ、そして、今一つはより厳格に概念を伝えるコトバである。
 具体的には、前者には、挨拶の言葉、感嘆詞、オノマトペ、そして大方の大和言葉があり、後者には、固有名詞、普通名詞、そして、学術用語、法律用語などがある。もちろん、その中間に位置するものもある。

 この二つの性格の違いに擬えて、前者をアナログ語、後者をデジタル語と呼ぶことにしたい。

 アナログ語の典型は、「よろしく」 などの挨拶語とオノマトペ。 そして、数字は究極のデジタル語である。
 ソシュールはデジタル語のみを言語としたのである。

 英語にもアナログ語的なものはある。
 「Good Morning」 は意味ではない。嵐の朝でも使われるだろう。
 「YES WE CAN!」 も何が出来るかはいわず、気持ちを表わしたものである。
 「CHANGE」 は概念を表わすからデジタル語ではあるが、日本語の変革、変化、交代などを含み幅をもっているので、日本語の変革よりもアナログ的である。

 我々はソシュールの捨てた 「paroleの言語学」 を改め作り上げねばならない。そのためにアナログ語を本来の言語として取り上げねばならない。

 アナログ語の特長は何か。それは、意味以上のものを持っていることである。意味のほかに色々なニュアンスを持っているのである。
 意味は、コトバの記号としての約束事として運ばれるとしても、諸々のニュアンスは何によって運ばれるのか。それは、コトバの音そのものによって運ばれるのである。
 コトバの音は、それぞれ色々なイメージを持っている。このイメージのカタマリはクオリア的で、切り方によって、固いイメージがいかほど、重いイメージがいかほど、温かいイメージがいかほど、・・・というように表現することが出来る。これらの音のいくつかの連なりがコトバであるが、それぞれの音のイメージのカタマリが連なることによって、そのコトバの語感が生まれる。
 語感とはコトバの音の響きのもつイメージであるが、このイメージはイメージのカタマリであってクオリア的である。

   語感 はナゼ起こるのか  

 語感は、一般的には、コトバの音の聞こえと考えられているが、従来それがナゼそのように聞こえるのかは解明されてはいなかった。

  これを我々は 発声体感 に由来すると見定めた。(仮説)

 もともとはソクラテスがそれらしきことをいい、わが国でも、賀茂真淵、平田篤胤、橘守部、堀秀成をはじめ、近代では幸田露伴が発声方法と意味との関係にふれている。幸田露伴は「音幻論」で、音の質といい、母音の発声法と意(意味)の関係を論じている。しかし、いずれも発声の仕方と意味とを直接結び付けようとしたため矛盾が生じ世に取り上げられないまま今日に至った。(音義説)
 我々は、個々の音韻の発声時の口腔内物理現象に伴う体感に加えて発声時の心的状況などを詳細に観察、それぞれの音韻が意味ではなく色々なイメージのカタマリ、すなわち、クオリアを持っていることを見極めた。
 そして、音の連なりであるコトバとして、クオリアの連なりとなり、その連なりが意味を生み出す母体であると見定めた。(言語語感説、音象徴説、音象群説)

 幼児は早ければ生後10ヶ月頃からコトバらしきものをしゃべり始めるが、その前の段階で、まず外部から聞こえる音から人の声を聞き分け、それを一つ一つのコトバに分節し、次にコトバの構成要素である拍、そして音素に分節し聞き分けられるようにならなければならない。(脳の中で)
 この際、お父さんの言う /オ/ もお母さんの言う /オ/ も同じ /オ/ と聞き分けなければならない。お父さんの /オ/ とお母さんの /オ/ では音の高さが違う。お姉さんの /オ/ となればもっと高くなる。これらの周波数の違う色々な /オ/ を同じ /オ/ と聞くべく脳の中で仕分けをして音の体系を作る。
 この脳の中に作られた音の体系を音韻秩序という。日本語の場合は拍秩序が先に作られるのかもしれない。
 拍秩序が出来上がると、お父さんの /オ/ もお母さんの /オ/ も脳の中の拍秩序で変換され同じ自分の /オ/ となり、さらに脳内の上位の処理に回される。

   語感 の 三位一体説  

 この拍秩序、音韻秩序の形成と同時並行的に、幼児はコトバを発しようとする。
 最初は色々な試行錯誤から /マ/ 的な音が出たり、/パ/ 的な音が出たりする。その際、唇を破裂させてみたり、舌で弾いてみたり、ノドの奥を締めてみたり色々な努力の末、だんだんと人間の声らしきものになっていく。そして、/マ/ はこうすれは発声できる、/カ/ はこうすれば発声できるということを身体で覚えていく。
 この身体で覚えるということは、これらの発声の手順を脳の指図として小脳に覚えこむことである。この際、自分の声を必ず自分でも聞いている。だから音の修正をすることができるのだが、結果、発声は聞こえと必然的にセットになっている。(自己モニター)
 一方、人の行いにはかならず感情が伴う。ノドの奥をきつく締めて強く息を出すときは、そのような意識、並びに、感覚があってはじめてそのような音が出る。この一つの音の発声に伴う意識的なもの、並びに、感覚的なものは、小脳に覚えこまれる発声のための運動機序と対になって脳内に記憶される。そして、発声と聞こえが対になっているから、結果的に感覚的なものと発声と聞こえがセットになる。(発声、聞こえ、語感の三位一体説)

   これが語感の基である。

 故に、すべての声の音に語感がある。また、人の体の構造は人間誰でも大差は無いので、それぞれの人が同じ音を発するときの本人の感じる語感に大差は無い。
 世界中の人が、口を大きく開けて /イ/ 的音を出すことは出来ないし、舌を上顎に接せずに /t/ の音を出すことも出来ない。 それぞれの音の違いは口の開け方などの物理的な違いであって、同じ音であれば、口の形、舌の使い方、口腔の作り方、息の出し方などは、どの人でもほぼ同じである。従って、同じ音を出す際の体感は誰でもほぼ同じである。すなわち、語感も同じである。

 そして、この語感は、再びその音を発声するときは勿論、その音を聞いたときも脳内に再現される。すなわち、人の声を聞いたとき、脳の中の音韻秩序に照合して、その音を自分の音に変換するが、このとき、対になっている体感が語感として立ち上がるのである。
 声を発し、声を聞く行為を繰り返しているうちに、発声手順を意識しなくなるのと同じように、語感も意識しなくなる。
 当初は、リミナルであっても、人により意識に上げることも出来なくなる。すなわち、サブリミナルになってしまうのである。大人では、発声手順自体サブリミナルになっているが、意識することによって、少しずつ口腔内体感も意識できるようになる。そして、それにつれサブリミナル化していた語感も徐々に意識に上らせることが出来るようになる。

 ここで重要なことは、意識できない、サブリミナル化しているといっても無くなっているわけではなく、脳内にきっちり残っていて、その人の行動に少なからず影響を与えていることである。
よく言われる、ナゼかそうしてしまう、知らず知らずにそうしてしまった、というようなことは、このサブリミナルの為せる技である。

(ちなみに、人のクセというもの、あるいは、人の性格すら、このサブリミナルなもの、価値観を含めたサブリミナルなものの全体によって形作られているといっても過言ではない。それ故、クセはなかなか直せないのである。)

   発 声 体 感  

 コトバの音の発声体感には、発声動作そのものによる、すなわち、舌をどうする、唇をどうする、口の中をどうする、息の吐き方をどうする、鼻に抜くのかなどの身体感覚、そして、その結果、息が口の中を速く抜け、口の中の水気や温度を奪う、温かい湿った息がゆっくり流れるなどの物理現象に伴う感覚、すなわち、温かい、冷たい、乾いている、流れる、篭るなどの感覚に加え、主体的な気持ち、前向きとか、やさしいとか、引き気味とかが含まれる。
 これらの感覚が渾然一体となった一種のクオリア状態であり、一つの音の発声体感は色々なイメージのカタマリであって、切り口によって、固さがある、温かい、重いなどと表現することが出来る。この音を聞いたときも、この色々なイメージのカタマリが、通常はサブリミナルに脳内に再現される。
 これが語感である。

   ’カラカラ’ の 語感  

 オノマトペ‘カラカラ’は拍としては‘カ’と‘ラ’から出来ている。音韻としては、/k/ と /a/ と /r/ から出来ている。音韻 /k/ は、ノドの奥をちょっと締め、そこを破裂させて息を速く口腔内を通過させる(この時、口腔内を息が回転する感触も感じられる)。そのため、固い、乾いた、軽い、小さな、回転するイメージなどがある。/a/ は、口を最も大きく開けて、おおらかに息を共鳴させながら出すので、明るく、オープン、広く、やわらか、拡散するイメージなどがある。/r/ は、舌の端を震動させて発声するので、にぎやかな、動きのイメージなどがある。’カラカラ’は、これらのイメージのカタマリの連なりであるから、時には、乾燥した不毛の大地、時には、軽やかに回るブリキの風車などの形容に使われる。
 ここで重要なのは、コトバとしては、その音のもつイメージすべてを使うのではなく、時に応じ、そのイメージの一部を使うことである。それ故、‘カラカラ’が乾燥した状態にも、軽やかに回転する状態にも使われうるのである。(ここで、いわゆる音義説は、一義的に意味と結び付けようとしたため、矛盾も出、否定されてしまったのだと思われる。)
 ‘コロコロ’は‘カラカラ’の /a/ が /o/ に代わるだけである。音韻 /o/ は、口の中を丸くして、口腔の奥の下で、息を共鳴させるので、重い、大きい、丸い、まとまったイメージなどがある。そこで、‘コロコロ’は、小さい、固いものの軽やかな回転、そして、そのようなもの自体の形容に使われる。カワイさが感じられるのは、/k/ に、小ささ、軽さ、固さがあり、ベテベタしていないことと、/o/ に丸さ、まとまりが感じられるからである。

 日本語のオノマトペはすべて語感に添っている。大半の大和言葉も語感に添っている。
 大陸から輸入した漢字語も古いものほど語感に添っている。日本語が漢字を受け入れたとき、当然、呉音、漢音、唐音もいっしょに入ってきたが、当時の日本人は日本語的に聞きなして拍として受け入れた。‘馬’は /バ/ と聞きなした。これが音読みである。(訓読み /ウマ/ も、最も古く入った輸入語だろう。これも /ウマ/ と聞きなし、日本語にしたのだろう。)従って、これら音読みは大陸の発音ではない。あくまで日本式の発音である。(この方式は、現在、欧米語を導入する際にもよく使われる。1シラブル・1モーラの‘strike’も日本語では‘ストライク’と5拍・5モーラとなる。)漢字‘金’、‘銀’を‘キン’、‘ギン’と発音することにしたのも語感を合わせたものと思われる。
結果、日本語の大半は、語感に合っている。少なくとも、反対のイメージを持つコトバは非常に少ないと思われる。(例外、美人の語感は美しくないし、陶器、磁器の語感は反対である。)

   欧米語 の 語感  

 欧米語がどの程度語感に合っているかは、まだ未検討である。ただ、語感に合うコトバもたくさんあることも確かである。
   クール、クリアー、キュート、カット、キル、ドン、ボス、スムーズ、 ・・・
 また、子音とその子音が先頭子音として使われている単語の意味との相関を調べた、英国の研究者 Margaret Magnus は 「Gods of The Word」 の中で、例えば、‘B’は破裂に関わるコトバに使われていると言っているが、‘B’はまさに破裂音である。独の詩人ヘルマン・ヘッセも 「幸福論」 の中で‘Gluck’の語感について書いているが、我々の語感と大差はない。
 欧米語の恣意性について、今一ついえることは、次のコトバの対の逆は語感的にありえないということである。
   in:out、on:off、clean:darty、dog:cat、・・・
 ママ:パパ、マミー:ダディ の対も、お母さんらしさ、お父さんらしさがよく出ている。勿論、逆はありえない。

 個々の音韻の語感の詳細については後に譲るが、母音、子音では大きく異なる。
 母音は自然音で、口の中に何ら障害を設けず、咽頭、口腔、鼻腔を共鳴させて出す音なので、基本的には癒し系、すなわち、毛繕い系の音である。そして、連続して出せ、他の母音へも連続して変化させることができる。すなわち、アナログ的な音である。それ故、色々な気持ちのニュアンスも乗せやすい。
 一方、子音は、口の中に障害を作って無理をして強制的に出す音で、意志が表わしやすく、威嚇に適している。連続して発声することはできない。したがって、絞り込まれた概念を表わすのに適している。母音に比し、きわめてデジタル的である。

   日本語 は 拍方式  

 日本語は拍方式をとっているため、一つのコトバの中に母音の占める割合は50%以上であり、しかも発声の際に母音をしっかり発音するから、言語としてもアナログ的といえる。
 一方、欧米語は1シラブルの中に母音が一つとか二つとかで、子音の数が多く、子音中心と考えられ、よりデジタル的である。日本語は情緒的で、欧米語は論理的といわれるのも、このあたりに一因があるのかもしれない。
 しかし、欧米語も詳細に見ると、日常の基本単語の発声には母音が多用されている。
 ‘I’ の発音は母音のみ。‘YOU’ の発音も半母音と母音、‘WE’ も母音のみ、‘are、were’ も母音、半母音である。やはり、日常会話は気持ちの伝達的要素が強いのである。
 ‘Yes,We Can!’ の発音でも、子音は /s/ の音が小さく、/k/ が拗音化してでるだけで、きわめてアナログ的なフレーズである。それ故、情に訴える力も強いのだろう。子音 /k/ に半母音 /y/ がくっ付く拗音はアナログ的となる。促音 /nn/は子音ではあるが、鼻に抜く鼻音でアナログ的である。

 同じアナログな母音の中でも、よりアナログ的なものと、少しデジタル的なものとがある。同じデジタルな子音の中でも、よりデジタルなものと、少しアナログなものとがある。
 柔らかく、おおらかな /a/ よりも、鋭く、直線的な /i/ はよりデジタル的である。同じデジタルな子音のなかでも、もっともデジタルな /k/ に対し半母音 /y、w/、偽母音 /h/、鼻音 /n,m/ はよりアナログ的である。

 コトバの音一つ一つに語感があり、コトバには、これらの語感の連なりとしての語感の流れがある。この流れ自体も語感ということができる。コトバが必ず語感を伴うことは、幼児期のコトバの獲得に大変有利である。
 胎児の段階では、五感はまだ未分離で、一つの刺激に脳のすべての分野が反応する超共感覚状態であるが、やがて、聴覚野、視覚野、体性感覚野と分離が進み、感覚も細分化される。この五感の自己文節化・成長に平行して発声体感も形成されていくため、一つ一つの音の語感は五感の全体体系の中にしっかり結びついたものとして形成されていく。その結果、一つ一つの音は、それぞれのイメージの標識の付いた、例えば、色の着いた状態で覚え込まれる。従って、一つのコトバは色の縞々のリボンのようなものになり、単なる音の連なりではなく、一種の意味の連なりとなり、非常に覚えやすくなる。また、同じイメージには同じ色が対応しており、よく似たイメージにはよく似た色が対応しているため、新たなコトバを覚えるのもより容易になる。勿論、覚えたコトバ群から適当なイメージのコトバを選び出す際にも、この色が目印になって選び出しやすくなる。(勿論、色は比喩で、実際に音に色が着いている訳ではない。イメージの違いを色の違いとして説明したものである。ちなみに、実際に文字に色を感じたり、数字に色が着いて見える共感覚を持っている人々は存在する。)

   拍 と シラブル  

 日本語のコトバの構成単位は拍である。
 欧米語はシラブルである。日本語のコトバは135余りの拍を組み立てることによって出来ている。一方、欧米語はシラブルが3000余りあり、個別注文的に作られたようにみえる。結果的に見ると、拍は子音と母音の組合せであるから、組み立て・積み上げ方式、欧米語は音のカタマリから削り出した切り出し方式に見える。しかし、欧米語も詳細に見ると、日常会話の基本単語には、組み立て式のもの、すなわち、音の一部を取り替えることによって、新たなコトバを作る方式のものも散見され、基底には組み立て方式があったのではないかと思われる。(この際、スペルは関係ありません。音だけを見てください。)
   I → We
   He → She
   a → the
   You → your
   are → were
   at → that
   the → that、this、there、・・・
   what → why、when、where、・・・
 
 組み立て方式は語感的にも有利である。そのまま語感の流れとして物語になる。それだけコトバも作りやすく覚えやすい。欧米語も基本は組み立て式で、それにブロック的なものが覆いかぶさって組み立て式なものが見えなくなり、同時に語感が見えにくくなっているのではなかろうか。

 ソシュールが、あれ程音韻的なものを研究しながら語感に気づかなかったのはナゼか。
 彼は語感には気づきながらも、雑多な各種の言語の真っ只中にあって、そこに法則性を見つけ出すことが出来ず、parole として、あきらめ捨ててしまったのだろうか。あるいは、西欧啓蒙思想の中にあって、情的なものは劣ったもの、後れたものとして排除したのだろうか。
 いずれにしろ、我々の日本語は拍方式を残し、語感を素直に反映している。

従って、言語の本当の姿・語感を採り上げ、言語学を本道に戻すのは、我々日本人の使命ではなかろうか。(語感言語学の提唱)  

私は今までソシュールの言語学の第一定理「音と意味との恣意性」に対し異を唱えてきたが、根拠はすべて日本語をベースにしたものであり、欧米語では事情が異なるのではとの懸念を多少もっていた。
ところが、最近渡部昇一先生の「語源力」を読み、二つの指摘で、安心もし、また、意を強くすることができた。

   「語源力」 渡部昇一著  

渡部先生は「現代英語はヨーロッパ諸語の中でもその語源的感覚が最も分かりにくくなっている。」「英語は言語変化が激しくなり、語源を直感的に感じることが難しくなって今日に至っている。」と書かれており、英語での実例提示のむつかしさの理由がわかり少し安心した。
また、渡部先生は「擬声から言葉が生まれるのは、洋の東西を問わない。人間の発声器官が同じであれば、ある意味では当然のこと。」とおっしゃっており、まったく我が意を得た思いである。

先生は実例として、
呼気の擬音 プシュー から プシケー(魂)
ドンドン       から ドムス(館)
ゾッ、ゲッ、ギョッ  から ガイスト、ゴースト
などを揚げておられる。
私は、オノマトペは言葉の赤ちゃんだといってきたので、印欧祖語のオノマトペ的表現がもっと見つかればと思っている。

日本語では、現在使われているオノマトペですら、現在使われている言葉と容易に繋がるものがたくさんある。それは、日本語が、民族の大移動とか他民族の侵略などを受けず、イレギュラーな言語変化をしなかったためであろう。
その意味でも、日本語は、言語誕生および進化を研究する上で大変有利な研究対象であると思う。

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