新しい言語学

ソシュール

   ソシュールへの誤解  

ソシュールの言語学の第一原理「意味と音との恣意性」を確認してみようと、久しぶりに小林英夫訳の「一般言語学講義」を読み直してみた。
読み直し始めて、まず気付いたのは「意味と音との恣意性」なる文言が何処にも見当たらないことである。
あるのは「記号の恣意性」と「言語記号は恣意的である」の文言である。
そして、‘記号’は‘概念’と‘聴覚映像’の結合であるとしている。
さらに、‘概念’を所記(sigunifie)、‘聴覚映像’を能記(signifiant)とする、としているから「記号の恣意性」とは「概念と聴覚映像との恣意性」、あるいは、「signifieとsignifiantとの恣意性」ということになる。
これを一般用語に翻訳して「意味と音との恣意性」としたのだろう。
ソシュールは、この言語学の第一原理を宣言する前の段階で、言語活動(langage)を社会的‘langue’と個人的‘parole’に分け、‘langueの言語学’がほんらいの言語学だと言い、これに専念すると言っている。
つまり、ソシュールの言語学の第一原理は、言語活動(langage)から個人的‘parole’を除いた‘社会的‘langue’の言語学’の第一原理にすぎないのである。
このことは‘初版のはしがき’の中で、ソシュールの弟子で編者の Ch.Bally と Alb.Sechehaye が「‘paroleの言語学’の不在は、だれの眼にもつく・・」とし、このような欠陥が建築全体にひびを入れている感があるとも書いている。
そもそも、‘概念’と‘聴覚映像’の結合が単なる記号であるはずはなく、‘記号’と規定したそのことの中に必然的に恣意性は含意されてしまったのである。
‘記号の恣意性’などというのは当然のことを言っているだけで、‘記号’とは、そもそもそういうものなのである。
ソシュールは、‘langue’は一つの記号体系にほかならないとも言っているが、これは、‘langage’から‘parole’を排除してしまっているからである。

読み直していて、もう一つ気付いたことがある。
それは、ソシュールの‘langue’は、私が‘場の言語学’の中で言っている‘マクロの言語場’に収まり、‘parole’は‘ミクロの言語場’に収まるということである。
ソシュールは社会的という現象面のみを追いかけたことになる。
個人的で瞬間的で等質的ではないから総覧することは不可能としてあきらめた‘paroleの言語学’こそ、私の提唱する‘ミクロの言語場’の学なのである。
「意味と音との恣意性」を言語学の第一原理とするのは間違いである。
ソシュールは何もそんなことは言っていない。
ソシュールの言っているのは‘langue’についてのみである。それを‘langage’、すなわち、言語学全体の第一原理としたのは、後世の言語学者の不明と妄信の結果である。
特に、言葉に音象徴の影が色濃く残っている日本語で育った我国言語学者が、この第一原理に異を唱えないのは学問に対して不誠実であるとすら言えるのではなかろうか。
     平成23年2月28日

   ソシュールは ナゼ 間違えたのか  

 ソシュールが間違え、その後の研究者たちがそのまま信じ込んだのにはそれなりの理由がある。一つには、脳科学が今ほど進んでおらず、コトバの処理が脳内でどのように行われているか、ほとんど理解されていなかったからである。今でも一部の言語学者は、聞いたコトバが脳内でそのまま処理されているやに誤解している。赤いバラを見たとき、我々の脳そのものも赤いバラの映像を見ているかに錯覚しているのと同じである。
 赤いバラは、色や縦の線、横の線、奥行き感などに分解され、色も三原色の割合に分解され、電気のインパルス信号になり、それぞれ別々のルートを通って脳内で処理され、最後に統合されて赤いバラとして意識に上るのであるが、コトバも耳の鼓膜で震動として捉えられ、蝸牛でインパルス信号に変換され、そのインパルス信号のパターンが音韻秩序で照合され、自分のコトバの音(インパルス)に変換されて脳内で処理されるが、このとき音韻の持っているイメージも、音それぞれに付随して脳内で処理される。この音韻とイメージの結びつきは、発声を覚えたときからの発声体感の積み重ねからできたもので、音韻秩序に付随するもの、あるいは、音韻秩序の一部ということができる。

 音韻秩序は、お父さんの /ア/ もお母さんの /ア/ も同じ /ア/ に変換する働きをもつが、この表(おもて)の働きに加え裏(うら)の働きとして、この変換された自分の /ア/ に発声体感として蓄積されたイメージが添付されるのである。この音韻秩序のサブシステムともいえる音韻とイメージの結びつきを音韻イメージ対応(音韻イメージ・リスト)と呼ぶことにしたい。
 自分の音に変換された音韻の連なりは、コトバに分節され、そのコトバは脳内の言語辞書と照合され、自分なりの意味として理解されるが、このとき音韻のイメージもイメージの流れとしてコトバの裏に付随して脳内処理される。このイメージの流れ、ひとカタマリが語感といわれるもので、「ことばでは説明しにくいが、何となく・・・」の元凶である。

 コトバを音として聞いたときだけでなく、文字として読んだときも自分の音に変換され、音の連なりとして脳内処理される。また、自分の頭の中だけのコトバ(脳内コトバ)にも表の意味に裏のイメージが常に付随する。書かれた詩歌も、小説の中の会話もありありと味わうことができるのは、声のコトバも文字のコトバもコトバとしては脳内では同じだからである。

 言語現象(langage)を客観的にみると、二者の間をコトバが飛び交うが、このコトバは、例えば、「おはよう」は誰が言っても「おはよう」であるから、記号といっても間違いではなさそうである。やさしさがこもっているか、きびしさが感じられるかは全く個人間のことで parole として排除するのも尤もである。しかし、コトバの音は他の音と違い一つ一つが独自のイメージを持っている。しかも個々人がてんでばらばらのイメージを持っているのではなく、同じようなイメージを持っており個人的な出来事というわけにはいかない。

 コトバの音は二者の外部にあるかぎりは記号にみえるが、受け手の脳内に入ると表の意味と共に裏のイメージが再現される。もちろん、話し手がコトバを選ぶときも、自分の脳の中の言語辞書から選び出すのだが、このとき音韻イメージ・リストから反映されたイメージの流れ、すなわち語感を無意識ではあっても、考慮している。(ここからも、コトバの選択の上手い人、下手な人の違いがでてくる。)
 このイメージ惹起可能な記号がコトバの音であって単なる記号ではない。
 音韻イメージ、そして語感は約束事ではない。発声時の口腔内体感という物理現象に基づくもので、決して恣意的ではない。

   コトバの表と裏 (意味とイメージ)  

 コトバの表のいわゆる意味と裏のイメージの間にはどのような関係があるのか。
 そもそものコトバの始まりは、それがグルーミングからか、威嚇からかは別にして、いずれにしても自分の気持ちを声で表わそうとしたのであろうから、当然、表と裏は同じである。コトバは気持ちをその音のイメージで表現したものだからである。それが、物事の分節がすすみ、コトバが増えていくにつれ、人為的な約束事が加わり、語感を無視したものも出てきた。
 また、コトバの進化、すなわち、細分化は、もろもろのイメージを切り捨て、一つの概念に決め付けることであるから、当然、語感は考慮されない。しかし、このようなデジタル語はあくまで言語の一部の特殊な形態であって、日常会話の大半は本来のアナログ的言語である。すなわち、すべてがイメージから全く離れてしまうのではなく、コトバの大半はイメージの大枠の中に止まっている。
 表と裏は恣意的ではない。
 言語が抽象的概念を求めるとき、すなわち、イメージ的なものを排除しようとするとき、裏を全く考慮せず、表の意味のみで作られたコトバが現れる。これが、いわゆるデジタル語である。
 そして、この抽象的概念を、ソシュールたちは、知的ゆえにコトバのあるべき姿と考え、他の表裏のあるコトバも表だけと考えてしまうようになったのかもしれない。裏は、知的でない猥雑な parole として、捨ててしまったのかもしれない。これがソシュールたちの陥った罠なのかもしれない。

 しかし、コトバのある程度発達した現段階での実際の表と裏の関係はどうであろうか。
 幼児がコトバを覚えるとき、そのコトバの表の意味と裏のイメージが結びついている方が、そのコトバを理解するのも、覚えるのも容易である。 
 例えば、幼児が最初に覚えるコトバの代表であり、大人になってもよく使う「ママ」というコトバの表と裏はピッタリである。むしろ、「ママ」の表の意味を定義し、意味を絞り込むのはむつかしいが、どの様な状況で使いうるか、裏のイメージで考える方が容易い。「ママ」はアナログ語の代表でもある。( /マ/ の音のイメージは、豊かな、充分な、温かい、やさしい、などである。)
 話し手がコトバを選ぶとき、勿論、意味で選ぶが、イメージも無意識にではあるが考慮に入れている。このとき、意味とイメージに関連性がないと、意味にニュアンスを加味することが出来ない。まして、気持ちなどイメージ的なものを伝えたいときには、使えるコトバがなくなる。イメージに合ったコトバを選んでも、意味が全く違ったものであれば、そのコトバを使うことは出来ない。少なくとも、イメージを裏切らない意味でなければならない。
 同様に、コトバの受け手も、意味とイメージに関連性があれば、話し手の本当の気持ちが読みやすくなる。すなわち、表の意味と裏のイメージがマッチしてはじめて、心の通った会話ができるのである。したがって、日常会話によく使われるコトバには意味とイメージとの恣意性はない。
 そもそも、音声にイメージがあったから、この音声のイメージを使って物事を‘見なす’ことが出来たのである。すなわち、物事と音声を結びつけるコトバというものを作ることが出来たのである。そして、この物事と音声の結びつきがコトバの意味であるから、音声に裏があったから表が可能になったと言うことも出来る。

   言語の機能  

 もともと、癒しと自己主張のために誕生した言語であるが、出来ると同時に、人間にとって別の機能を生み出した。
 それは意識化機能と論理機能である。
 コトバが生まれて、はじめて意識を客観化できるようになった。もやもやした心的状態、すなわち、リミナルな状態に、それらを表現することの出来るコトバというものが生まれ、その心的状態をコトバで表わすことによって、その心的状態そのものを客観化することが出来るようになった。すなわち、リミナルなものをスプラリミナル化することが出来るようになった。これが意識の始まりである。
 この意識化は、経験を記憶し、それを整理、蓄積し、現状の分析、判断に活かすために生まれたのであろう。
 そして、いろいろな物事を分節し、客観化出来るようになり、それらの繋がり、因果関係を脳の中で整理できるようになり、論理展開が出来るようになった。コトバの生まれる以前の論理展開は意識化できないから、カン・ヒラメキのような形で現れるだけであったのだろう。
 勿論、コトバを得て、論理展開のできる現在でも、脳の働きとしてのカン・ヒラメキは存在する。
 しかし、カン・ヒラメキは意識として説明することができない。
 これが言語の意識化機能であり、論理機能である。

 これら言語誕生の副産物として人類が獲得した機能には、外部に表出するためのではない自己内部でのコトバ、自己言語(脳内コトバ)がある。この言語は言語本来のコミュニケーションに使われる言語が使われるが、外部への表出を目的としないので定義のあいまいな自己独自の脳内コトバも使われる。
 これらのコトバは、時に、独り言として外部に洩れる。また、「ドッコイショ」「ヨッシャー!」「サー」などの掛け声も相手に対するものではなく、自分への語りかけのコトバで自己言語である。

 言語は文字を発明することによってまた新たな機能を獲得した。まず、文字発明のそもそもの目的であった記録機能であるが、それに付随して二つの機能を獲得した。
 一つはパブリシティ機能、文字の発明によって遠隔地の多数の人々に情報を伝達することが出来るようになった。この延長線上にマスコミュニケーションがある。
 いま一つは論理展開蓄積の機能である。言語の獲得によって論理展開が可能になったが、文字の発明により論理の展開をビジュアル化し、蓄積することが可能になり、自らが論理の展開を深めることも、他人がさらなる論理の展開を進めることも出来るようになった。この機能が近代科学の進展におおいに寄与した。そして、この線上で、コトバをより抽象化・概念化することによって、論理学、数学、記号論への道が開かれていった。
 ただ、抽象化・概念化は、コトバの裏のイメージを切り捨てることであって、言語本来の在り方からは離れることである。この特殊な方向をソシュールは言語学の本道と勘違いしたのである。
 あくまでデジタル語は言語の特殊な形態にすぎず、豊かなイメージをもったアナログ語が言語本来の姿である。

 生きた人間の使うコトバは語感を持っているのである。

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