新しい言語学

サピア

   ただいま と I’m back  

作家の片岡義男さんが日経の夕刊に毎週土曜日、コラムを書いておられる。私は毎週読ませていただいているが、先週のコラムにちょっと面白いことが書いてあった。
片岡義男さんは日本語英語のパーフェクトなバイリンガル。正真正銘の日本人だが、言語学的には、私は、英語人だと思っている。

このコラムは、日本人が自宅に帰ったときの挨拶「ただいま」に絡むものであった。
片岡義男は、まず「ただいま」は「いま帰りました」という意味だと言っているが、これは正確には「ただいま、帰りました」だろう。
片岡義男は「ただいま」を英語で言うと「Right now」だと冗談として言っている。私の言うド・直訳である。しかし、私には少し違和感がある。私なら「Just now」とする。英語が充分わかってはいないので間違っているかもしれないが、「Right now」は「ただいまお持ちします」の「ただいま」ではないか。「ただいま完了しました」の「ただいま」は「Just now」ではないだろうか。
片岡義男は「いま帰りました」の「帰りました」の部分を英語にして「I’m back」とアメリカ人が言うのは何度も聞いたと言う。しかし、「I’m back」は日本語の「ただいま」とは違う。日本語にすれば「帰ったよ」である。日本語の「ただいま」と「帰ったよ」とは違う。日常生活で、迎える人が目の前にいるとき、「ただいま」と言うことがあっても「帰ったよ」と言うことはない。「帰ったよ」というのは相手が気付いていないときの呼び掛けの言葉なのである。
そもそも、「ただいま」は「お帰り」とセットの言葉である。そして、「ただいま」、「お帰り」は「いってらっしゃい」、「いってきます」とセットの言葉でもあるのである。
「いってらっしゃい」とは「行って、帰って来なさい」という意味である。「帰って来なさい」には、待っていますよという意味合いが含まれており、これを受けての「ただいま帰って来ました」なのである。だから、「ただいま」だけで充分なのである。「いま帰りました」というお知らせではない。気持ち、心のやり取りでもあるのである。
日本語は場の言語だといわれる。日本語の会話が、その場その場の状況を前提として行われるからである。「ただいま」、「おかえり」も「いってらっしゃい」、「いってきます」を前提とした言葉である。場が時を跨いでいるといえるのかもしれない。

TVコマーシャルに小料理割烹の美人女将が「おかえりやす」と言うシーンがある。これはお店を一時の家庭に擬した表現である。ただ、お客がこのお店を出るとき、女将が「いってらっしゃい」と言うかどうか。もし現実世界で言ったとしたら、これはまた別の大人の世界の大問題である。「ほんで?」
朝の出勤途上に喫茶店でモーニングサービスを取ってお店を出るとき、馴染み客にはお店のマスターが「いってらっしゃい」と言うことはある。これはこのお店を家庭の延長と捉えそこから職場へ送り出すという気持ちからなのである。だから、お店のマスターはいくら親しいお客でも、朝には「おかえり」と言って迎えることはない。夜には言うことがあるかもしれない。夜なら言ってもおかしくはない。

このように、日本語は「おかえり」一つにも深い意味合いがあり、われわれ日本人はこれらの言葉をその場その場で使い分け、人との関係を感じ取っているのである。日本人にとって、日常会話は情報の交換だけではなく、気持ちの交換でもあるのである。
そのことを煩わしいと思うか、心地よいと感じるかは国民性の違いである。そして、この国民性はその言語によって鍛えられた結果とも考えられる。サピア・ウォーフの仮説は正しい。
   (平成25年5月10日)

   日本語と英語、どちらが強いか。 「言葉を生きる」を読んで。  

日本語と英語で討論をして、どちらが勝つかということではない。
人は生まれ育った環境で、その環境の言葉を覚え、ものの考え方を身につける。
日本語が話されている環境で生まれ育てば日本語を覚え、日本的考え方を身につける。英語の話されている環境で生まれ育てば、英語を覚え、英語的考え方を身につける。
日本的考え方と欧米的考え方は、本質的に異なる。これは、日本文化と欧米文化が本質的に違うことからも明らかである。(これは、別途「言語、ものの考え方、文化」として論じている)
そこで、私が気になっていたのが、一人の人間が日本語の環境と英語の環境の下に生まれ育ったら、どちらの言葉を覚え、どちらのものの考え方になるかということであった。
通常、このような環境は考えにくい。しかし、このような環境に近い事例があったのである。

最近、岩波書店から出た「言葉を生きる」を読んだ。
著者の片岡義男は、英語を母語とする日系の男性と日本語(関西弁)を母語とするインテリ女性との間に生まれ、日本で育ったのだそうだ。そして、父親は彼が生まれてすぐから常に英語で彼に話しかけてきたのだという。その後も父親は彼に英語で話しかけ続けた。当然、母親、そしてその他の周りの人は日本語を話していたのだろう。
まさに、日本語と英語の二重環境である。
そして、そのような二重言語の環境で育った彼はどうなったか。
六歳のとき、英字新聞の駄洒落が分かったというから、いわゆる英語はペラペラである。また、生まれて四歳まで付いてくれた乳母が東京弁であったため東京弁もしゃべれるようになっていたという。まさに典型的なバイリンガルである。
そこで、まず私が知りたかったのは、ものの考え方がどうなったかということである。
従来言われてきたのは、日本語で喋るときは日本語で考え、英語で喋っているときは英語で考えているということであった。彼もまたそのように言っている。
私が気になるのは、それでは、日本語で考えるときと英語で考えるときとで、ものの考え方が切り替わるのかということである。
一人の人間の中に異なら二つのものの考え方が存在しうるのかということである。二つの異なる考え方ができるということは二重人格ということではないか。ジギルとハイド的になってしまわないのか。

  そこで、「言葉を生きる」を分析的に読んでみた。  

そして、私の得た結論は、片岡義男は英語的ものの考え方の人だということである。
彼は日本語も母語だと言っている。しかし、母語は獲得していくものではない、自然に身についていくものである。(私は、むしろ二重人格にならなくてよかったと思っている。また、人間とはそうゆう風に出来ているのかもしれない。)

私がなぜ片岡義男を英語人と思ったかを、「言葉を生きる」をベースに、やや羅列的ではあるが、説明すると、
彼の記憶としてではあるが、彼は生まれる前後からすでに自分と他者(母親、父親)を識別していた。
「このふたりを、僕はいちばん最初から識別していた、という記憶がある。」
「赤子の僕が父親を識別したのは、自宅に連れていかれて一週間後あたり・・・」
この識別のきっかけとなったのが、多分、
「もっとも際立って異なっていたのはふたりの喋る言葉だった。母親の言葉は日本語、そして父親のは英語だった。」
さらに、父親は彼に対し「ユーアンダイ」を連発したのだろう。もちろん、事あるごとに‘you’と言い‘I’と言ったのだろう。
日本語では、赤子に向かって父親や母親が‘私’とか‘僕’とか‘オレ’と言うことはまずない。言っても、‘お父さん’とか‘パパ’とか‘お母さん’とか‘ママ’である。赤子に対しても、‘お前’、‘あんた’と言うことはあまりないだろう。呼んでもその子の名前である。
‘しんちゃん、いい子だね’。
日本語では、むしろ識別を避ける。父親が自分のことを‘お父さん’と言うのはお前のお父さんという意味で、父子の繋がりを確認する言い方である。子供の前で父親が母親を‘お母さん’と呼ぶのも子供の立場に立って、お前のお母さんという意味からである。この言い方は三者の繋がりを前提としている。
一歳になる前のこととして、こんな記述もある、
「この人は(父親の故郷であるラハイナという言葉を)僕に言わせようとしている。」
一歳にして父親を‘この人’と識別している。まさに、‘ユーアンダイの効果’である。

私の主張している‘You・I効果’である。

六歳の夏の記憶として、父親が「キミに分かるかい」と言う記述がある。英語だから‘you’だったのだろうが、日本語に表現すると父親の言葉としてはいかにも冷たい。
この視点から見ると、この本全体を通して、‘僕’という表現が非常に多い。この本が言葉を中心とした自分の履歴であるから当然という面もあるが、内省的な私小説ではなく事実の記載に近いので、やはり‘僕’は多すぎるように思う。これも英語的表現に近くなっているのではないだろうか。(論理的ともいえるが)
五歳の頃の鮮明な記憶として、「広島に原子爆弾が落ちたと道ばたに立っていた大人たちは言っていた。落ちた、という動作の因果関係が理解できなかった僕は、落ちたとはどういうことか、と大人たちのひとりに訊いた。」とある。
まさに英語的発想である。「原子爆弾が落ちた」には主語がない。日本人は自然現象的受け止め方に慣れているので、「原子爆弾が落ちた」と聞いても、その表現にあまり違和感をもたない。むしろ、その結果に対し、「それは大変だ!」、「そこの人たちはどうなったのだろうか」などと反応するのではないだろうか。
英語には主語が必要なのである。そして、英語的考え方にも主語が必要なのである。

「「だっこ?」を英語で言うなら pick up でしかない。そして、この僕もだっこで育ってはいるけれど、おそらくそれよりもはるかに強く pick up で育ってしまった。」と告白している。
われわれ日本人には pickup は違和感がある。敢えて英語で言うのなら、embrace か hug ではないだろうか。私なら hold と言いたくなる。
片岡義男は「歩きたくなくてぐずる自分の幼児に・・・」とも言っているので、疲れたからだっこという風にしか考えていないのではないだろうか。
私の孫娘は、元気ピンピンでも、だっこと言う。抱き上げてもすぐ降りてしまうので、一種のスキンシップのようなものである。一体感の確認にだっこと言っているのではないだろうか。ちなみに、このような場面での‘甘え’という言葉も英語にはないのではないだろうか。
「「拾った」という日本語のひと言を僕は使うことが出来ない。」とも言っているが、彼が使うことの出来ない英語はあるのだろうか。多分、それはないのだと思う。

「ん」に関して、
「イエスとノーのどちらかに割り切ることの出来る世界が世界のすべてではない。いまにわかにはそのどちらとも言えない中間の世界こそ世界そのものなんだ」という意見に対して、「僕としては、そんな世界があるのかなあ」と思うと言い、
「肯定でも否定でもない世界とは、いったいなになのか」と言っているが、このあたりが日本語のものの考え方と英語のものの考え方の本質的に違うところではないだろうか。
私は、肯定か否定かどちらかに決めつけるのは、むしろ、不自然で大変乱暴な気がする。
私には、好きでも嫌いでもない人はたくさんいるし、世の中には、正しいか正しくないかにわかには決め難いこともいろいろあると思う。
「その場ではけっして肯定も否定もしない。したがって、どこまでいっても留保でしかない「ん」をアメリカの友人はほぼ極限まで嫌った」と言う。
しかし、片岡義男は、この音は好きだという。そして、だから「「ん」に関しては僕は日本人だ。」と言っている。
一方、「意味するところにおいても、不定型で柔らかいとまでは思っていない。」とも告白しているから、カッコつきの日本人ということになるのではないだろうか。

片岡義男ご本人の自覚として、
「子供の僕の核心により深く届いていたほうがドミナントだったと考えるなら、それは英語のほうだ。」
「考えるときに使った言葉が圧倒的な優位を保って英語だった。」
そして、英語について、
「具体的な事実関係に即して、そのことだけについて述べる言葉・・・。ここに根源的といっていいほどの共感を覚えた。」とか、
「したがって、抽象性をおびたことや、間接性のあることなどについて驚くべき語りやすさがある。」と言っている。
さらに、書き言葉としての日本語について、
「日本語のすぐかたわらに英語が常にある状態が・・・」
「その日本語を、すぐかたわらという至近距離から監視する役割を英語が果たす・・・」
と述べ、
英語の機能として、「日本語によって僕が漂流しないよう明確につなぎとめておく機能」とか、「言葉の論理の道筋を僕がはずれないよう導く道標のような機能」と言っている。
これはまさに告白として、自分のものの考え方が英語のそれだと言っていることになるのではないだろうか。
以上のことから、片岡義男がバイリンガルながら、ものの考え方の根底には英語的なものがあることが分かった。バイリンガルながら、二重人格ではなかったのである。

それではなぜ片岡義男が英語的ものの考え方の人になってしまったのか。
日本社会の中に生まれ育ち、父親を除き、母親、乳母をはじめ周りの人すべてが日本語を喋っていたのに、どうして英語的ものの考え方になったのか。もちろん、父親の熱心な努力はあった。しかし、なぜ多勢に無勢の英語が日本語に勝ったのか。
それは、英語と日本語の質の違いにあるのではないか。
それについて、片岡義男は、
英語は「子供の僕の核心に、より深く届いた・・・」、そして実用的だったと言っている。また、「英語という言葉はアクションに則して・・・」。
「具体的な事実関係に則して、そのことだけについて述べる言葉・・・」。
「事実関係だけを述べるのだから、相手は単なる相手でしかなくなる。」。
「言葉の汎用性がきわめて高い。」。
「したがって、抽象性をおびたことや、間接性のあることなどについて、驚くべき語りやすさがある。」などと言っている。
そして、これに対して日本語は、
「日本語には言葉が人それぞれの個人的体験と結びつくことによる直接性が常にあり、言葉の汎用性がこの直接性によって、ことあるごとに邪魔される。」
そして、「その結果として、世界は言葉ごとに限定を受け、見とおしは悪くなる。」と言っている。
赤子の片岡義男にとって、まず、イエスでもノーでもない状態よりも、イエスかノーで割り切る考え方の方が分かりやすかったのであろう。それと並行して‘you’であり‘I’であるという識別の意識が父親から強力に教え込まれ、割り切るというデジタル的なものの考え方の基本が作り込まれたのだろう。
一旦、このような考え方のベースが出来上がると、場の状況によってコロコロ表現の変わる日本語は不安定でいい加減に見える。また、「さまざまな意味の重なり合いが、(例えば、)だっこというひと言の中に凝縮されてもいる」日本語は、思考の道具としては大変使いにくいものであったのだろう。
このようにして、片岡義男は、日本語は思考のためのものではなく、単なる表現のための道具として使うようになっていったのではないだろうか。
赤子の状態で、白黒のはっきりしたデジタルな思考法と状況によって変化し境目のはっきりしないアナログな思考法を与えられたら、デジタルな思考法に流れるのは当然といえば当然かもしれない。一旦、デジタルな思考法を身につけるとアナログな思考法はしんどい。
ちなみに、アナログな思考法からデジタルな思考法をみると、明快ですっきりする面もあるが、単純で幼稚にすらみえる。‘世の中、そんなもんじゃない!’と。

「言葉を生きる」をあらためて読むと、次のような特徴もみられた。
まず、前にふれたが、‘僕’という字が非常に多い。‘自分’という表現も多いかもしれない。
そして、彼の最初の翻訳でも指摘されたようだが、漢字が多い。概念化という意味で、やまとことばより漢字語の方が英語に近いからだろうか。
一方、少ないと感じたのは、自然の描写。テーマが違うからかもしれないが、景色などの自然の描写がほとんど出てこない。
私は、日本的ものの考え方の基底には自然への一体感、そして親近感があると思う。

私がもう一つ確認したいことがあった。それは、片岡義男が語感を感じ分けていたかということである。
日本語、特にやまとことばの底流には語感がある。赤子は語感も一つの頼りとして言葉を覚えていくと考えられる。
そこで、バイリンガルである片岡義男は言葉を覚える一つの頼りとして語感を感じ分けていたかである。この点については、この本の中に記述はない。英語を覚えるには語感は関係がないのかもしれない。
この本の中で片岡義男は、典型的なオノマトペとしては、‘ごつごつ、ニャンニャン、しみじみ、つくづく’位しか使っていない。少ないといえば少ない。ただ、オノマトペ的副詞‘ほんのり、ふっくら、ふと、やや’など結構使っている。この使い分けに語感を使っていないのだろうか。一度聞いてみたいものだ。

片岡義男の場合、英語が日本語に勝った。
しかし、一般論として、英語の方が覚えやすいから、英語の方が優れているとは言えない。
結果としてのものの考え方が全く違ってしまうので、英語と日本語、どちらが優れているか一概には言えない。(この点については、小論「言語、ものの考え方、文化」でいろいろ論じています)
‘シンプル イズ ビューティフル’という言葉がある。しかし、これは人工物について言っていることで、自然や人の心については言うことはできない。自然や人の心は複雑で単純に割り切ることは危険である。(シンプルとリファインとは違うかもしれない。日本語では単純馬鹿という表現もある。)
左右対称の西洋庭園は壮観である。しかし、やがて飽きが来る。自然を模した山水造りの日本庭園には心やすらぐ、そして、飽きも来ない。
このように感じるのは日本人故かもしれない。しかし、自然と対立するものの考え方と自然と一体と感じるものの考え方とでは、どちらが人類の未来にとって有利か、これはよく考えておく必要があると思う。
ちなみに、英語の論理と日本語の論理の違いは、線形科学と複雑系の科学の違いに対応するのではないだろうか。(そういう意味で、今後、日本的ものの考え方への理解が進むかもしれない。)

  ‘だっこ’を語感言語学の立場から考えてみた。  

まず、‘だっこ’は‘おしっこ’、‘鬼ごっこ’、‘かけっこ’などと同じ流れの言葉で、幼児用の表現である。語尾の‘っこ’が遊び感覚と小さく纏まったかわいさを感じさせる。東北弁の‘どじょっこ’、‘ふなっこ’もそうである。‘べこ’、‘ひよこ’、‘ねこ’もそうかもしれない。
ところで、「言葉を生きる」の中で、山口謠司の「ん〜日本語最後の謎に挑む」からの引用として、「最初の日本語には濁音はなかった。そうかもしれないなあ・・・」とある。‘だっこ’には濁音がある。しかも先頭音が濁音である。ということは、‘だっこ’は新しい言葉ということになる。‘だっこ’は‘だく’から出来た言葉だろうが、‘だく’にも濁音がある。‘だく’は‘いだく’からの言葉かもしれないが、‘いだく’にしても濁音がある。最初はどんな言葉だったのだろう。‘いたく’かな。

  ぢぢ、ばば:父、母グループ  

濁音といえば、‘ぢぢ、ばば’という言葉がある。濁音だらけである。祖父、祖母という概念は古くからあったであろう。そうすると、‘ぢぢ、ばば’は、最初は何と言っていたのだろう。‘おきな、おうな’に祖父、祖母という意味があったのだろうか。
ちなみに、‘DiDi、BaBa’は‘TiTi,HaHa’を濁音化したものである。年老いて濁ってくる。まことに論理的な作り方である。濁音には、濁り以外にも、重さ、大きさ、力感などもあるので、英語の‘grand’とも考え方として通ずるものがある。
語感からみると、‘TiTi,HaHa’も論理的である。
‘TiTi’の他の表現としては、代表的な‘To−さん’、そして、‘ToTo’、‘TeTe’、幼児言葉として‘Ta−たん’がある。
‘HaHa’の他の表現としては、代表的な‘Ka−さん’、そして‘KaKa’、‘MaMa’がある。‘HaHa’は昔は‘FaFa’、さらに昔は‘PaPa’であったという。
以上を全体的にみると、‘父’は子音‘T’を中心とした母音変化。‘母’は母音‘a’を中心にした子音変化であることが分かる。
母音は‘情’を表すのに対し、子音は‘知・意’を表す。‘母’を情の人、‘父’を知あるいは意の人と感じるのは、今も昔も変わらないのだろう(役割としても)。
‘TiTi’、‘TeTe’、‘ToTo’、‘TaTa’の違いはどうか。
語感として、あくまでしっかりしたもののイメージを持つ子音‘T’をベースに、‘i’は意志的なあり方、‘e’は受け身のやさしさ、‘o’は重さ、大きさ、そして落着き、‘a’はオープンな明るさのニュアンスが加わる。(地方の言葉として‘おどう’があるが、これは‘To’の‘T’が濁音化して‘D’になったもので、重さが増すが、やや暗くもなる。)
‘HaHa’、‘PaPa’、‘KaKa’、‘MaMa’はどうか。
オープンで明るく、そして柔らかいイメージの母音‘a’をベースに、‘H’は温かさ、‘P’はかわいさ、‘K’はカラッとした切れを感じさせる。一方、外来語である‘MaMa’の‘M’は満ち足りた充実感を感じさせ、赤子にとっては食べ物と結びついていたかもしれない。(‘MaMa’には甘いイメージもある。)
ちなみに、‘BaBa’は‘PaPa’の濁音である。‘B’も‘P’も両唇破裂音であるが、‘H’は声門音で破裂音ではない。また、‘KaKa’の‘K’も破裂音である。では、なぜ、‘P’から‘K’へ変化したかであるが、‘P’の小さくかわいいイメージに対し、‘K’が開かれた明るいイメージを持っていて、母のイメージの時代の変化に即応してのものではないだろうか。(ガミガミうるさい教育ママは、将来、‘K’の濁音‘GaGa’になるかもしれない。レディ・ガガ?!)

片岡義男はオノマトペにつても、次のようなことを言っている。「清音を何重にも取り囲んでいるさまざまな濁音は、時代の進展とともに日本語の外から入ってきて、清音がしかたなくそのなかに取り込んだものだ。取り込むことが留保されているものがいろいろある。片仮名書きの擬音語や擬態語、そして外国語などだ。」
これは、先の山口謠司の「ん〜日本語最後の謎に挑む」を受けてのもので、「ん〜日本語最後の謎に挑む」の中で山口謠司は、
「さらに、宣長が言うように、擬音語や擬態語には濁音が多いが、こうした言葉が新たな日本語を生みだしたのである。」、
「日本語として認知された〈ひらがな〉で書かれた世界が核として存在し、それを取り囲むように日本語になるか否かが保留された状態の〈カタカナ〉で書かれる擬音語や擬態語、外来語があり、一番外側に決して日本語にならない外国語が存在するという図式として考えることができそうである。」と言っている。

これについて、私は二つの点で異論を持っている。

  清音と濁音、どちらが先か  

まず、一つ目は、最初の日本語は清音で後から濁音が入ってきたと言っている点である。
最初の日本語とはどの時点を言っているのか不明ではあるが、言葉の出来始めは清音であったというのには疑問がある。
山口謠司は書き言葉のみについて言っているのかもしれない。日本語の歴史のある時点で宮廷貴族たちが雅を愛し濁音を排除しようとした時代があったかもしれないが、庶民たちは日常会話で濁音を使っていたのではないだろうか。もちろん、オノマトペもじゃんじゃん使っていたのではないだろうか。
赤子が生まれたとき、最初に発する言葉らしい音は、‘Ma’とか‘Pa’とか‘Ba’だといわれる。
このうち‘P’は無声音、すなわち清音である。‘M’は有声音で鼻濁音ともいわれる。そして、‘B’は有声音、すなわち、濁音である。発声の際の‘マ’、‘パ’、‘バ’の口の形はほぼ同じである。‘B’と‘P’の違いは発声の際に喉を震わせるかどうか、すなわち、有声音か無声音かである。‘M’と‘B’は共に有声音で、違いは‘M’が息を鼻に逃す点である。有声音であるから本質的には濁音である。ちなみに、母音はすべて有声音である。
これらのことを考えると、言語の初期にあえて有声子音の一部(G,Z,D,B)のみを排除していたとは考えにくい。むしろ、言葉としての最初の発声は有声音で、その一部がリファインされて無声化し清音が生まれてきたのではないだろうか。最初は‘マ’も‘パ’も‘バ’もいっしょくたになったような発音で、それが無声化したり、鼻に抜けたりして、音としてそれぞれ分離し、多様化していったのではないだろうか。(ちなみに、子音 N,M、R,Y,W も有声音である。)
それゆえ、私は濁音的なものから清音が生まれたと思っている。(清酒も濁り酒から生まれた。)

  二つ目は、オノマトペについてである。  

山口謠司は「擬音語や擬態語が新しい日本語を生み出した。」と書いているが、新しいというよりはもともとの日本語にオノマトペから出来たと思われるものが多いのではないだろうか。(私の言うオノマトペは感嘆詞、オノマトペ的副詞を含む)
感嘆詞を含めオノマトペ的表現がまず生まれ、それから約束事としての言葉へと進化していったのではないだろうか。もちろん、出来あがった言葉から新しいオノマトペ的表現も生まれるということもあったろう。そして、そのオノマトペからまた新たな言葉が生まれるということあったろう。したがって、普通の言葉とオノマトペの間にさほどの大きな差はない。むしろ、オノマトペは言葉の生まれる母体、あるいは言葉の赤ちゃんのようなものなのではないだろうか。
したがって、オノマトペを「日本語になるか否かが保留された状態・・・」と表現し、外国語と同じく日本語の外側にあるとするのには違和感がある。むしろ、オノマトペは日本語の内側にあって、日本語の原型のようなものなのではないだろうか。

オノマトペ‘コロコロ’と‘転がる’という言葉とどちらが先に出来たか。(この二つの言葉には、音的にも意味的にも直接的な繋がりが感じられる。)
回転という意味繋がりで、‘コロコロ’には‘カラカラ’、‘キリキリ’、‘クルクル’という規則性のある仲間があるので、‘転がる’は‘コロコロ’から生まれたと考えられる。
‘錐’という言葉も‘キリキリ’から出来たのだろう。
‘カラカラ’と‘乾いた’、‘軽い’はどちらが先か分からない。(‘乾いた’、‘軽い’は‘K’の持つ語感から直接出来たと思われる。)
しかし、‘からっぽ’は‘カラカラ’からだろう。‘かたい’は‘カタカタ’からだろう。
‘モクモク’と‘雲’とどちらが先か。‘モクモク’が先だろう。‘モク’の語感がまさに入道雲の描写だからである。そして、‘クモ’は‘モク’を逆にして出来たのだろう。‘MoKu’には語感として動きが感じられるが、‘KuMo’には動きではなく、あり様が感じられる。
オノマトペ‘ウー’から‘唸る’、‘呻く’が出来、感嘆詞‘ん?’から‘疑う’、‘覗う’、そして‘ん!’から‘頷く’も生まれた。‘頷く’から‘うなじ’、‘うなだれる’などの言葉も生まれてきたのだろう。
これらはいかにも語呂合わせのようにみえる。まさに語呂が合っているのである。
そして、これこそ、言葉が語感をベースに生まれてきた証拠ではないだろうか。

  「ん」は母音?  

ちなみに、山口謠司は‘ん’を、本居宣長が‘濁’と言ったのに対し、‘濁’と‘清’の間にあるような言い方をしている。清音とか濁音とかは子音のことであるが、私は‘ん’は母音の一種ではないかと思っている。
なぜなら、‘ん’は共鳴音で連続して発声することが出来る。子音は共鳴音ではなく、原則として連続して発声することは出来ない。‘ん’は主に鼻腔で共鳴させ連続して発声することが出来る。ただ、鼻腔で共鳴させるため、他の母音のように子音と繋がって拍を作ることは出来ない。
語感的にいえば、鼻腔で共鳴させることは、口腔で共鳴させるよりも、より身体の内側、頭の中の近くで響かせるイメージがあって、より内的なニュアンスを生じやすい。(母音の中では、同じ理由で‘u’がもっとも内的である。)
このことから、私は、‘ん’は‘心と繋がる音’、そして、‘んー’となると、‘心にたずねる音’だと考えている。
  (平成24年6月20日)

   友愛が世界を不幸にする。  

これは、ジョークである。(本当に冗談であって欲しい。)
本当に私が言いたいのは、
‘You’と‘I’が世界を不幸にする、
ということである。

英語を代表とする欧米語では、必ず、文章に主語が必要で、日常会話においても‘I’や‘You’を省略することはできない。欧米人は、常に‘I’と言い、‘You’と言い合って生活しているのである。
当然、‘I’と言う度に‘個’としての自己意識は強まるだろうし、‘You’と言う度に自分とは別の‘個’という存在を意識するし、‘You’と言われた方も、私とは違う‘You’と突き放された感覚を持つ。(勿論、欧米人はそれを当然と思っているだろうが、それが問題なのである。)
このように、英語で育ち、英語で暮らしていれば、‘個’としての意識が植えつけられ強化し続けられる。

‘個’の尊厳をもっとも大切と考える近代西欧思想は、本当に人々を幸せにしているのだろうか。
すべてと切り離された‘個’とは究極の不幸なのではあるまいか。

すべてと切り離された‘個’・‘自己’という考え方は科学的にも誤りである。
DNA の連鎖を考えれば、人々は皆繋がっている。動物とすら我々は多くの遺伝子を共有している。
私の遺伝子は、私の父・母とそれぞれ半分は全く同じである。半分は、父からもらい、残り半分は母から直接もらったものである。
自分という意識、すなわち、心も、多分私の脳が作り出した幻想だろう。(幻想だからといって価値がないと言っているわけではない。生命の神秘の作り出したすばらしい贈り物である。)
この幻想は進化上の有利性から生まれたものだろう。そして、この幻想は人間の進化にとって非常に大きな貢献をした。この幻想が原動力となって西洋近代文明が花開いた。結果、今や‘個’絶対の時代である。
しかし、行過ぎたのではないだろうか。
言語が文化を作り、文化が言語を作る。‘I’,‘You’という言葉が‘個’の増殖を推し進め、今や臨界に達しつつあるのではないか。
人間は、‘知・情・意’のバランスの上に存在している。‘個’、あるいは、‘自己’絶対の考え方は、‘知’に偏った考え方である。‘情’を軽視した考え方である。
今や、大衆は‘個’の孤独に耐え切れず自らを一つの権威に投じてしまおうとしているのではないだろうか。
イスラム教にしろ、キリスト教にしろ、一神教は一種のファッシズムである。ファッシズムは本来個人主義の対極にある。行過ぎた個人主義はバランスを求めて対極に向かうのかもしれない。
そもそも、絶対的な‘個’という考え方は不自然なのである。
幻想の上に立つ‘知’のおごりである。

日本語には、英語の‘I’と‘You’に相当する言葉はない。考え方もない。
‘私’、‘あなた’という言葉があるではないかとの意見もある。
しかし、‘私’と‘I’,‘あなた’と‘You’は違う。本質的に異なる。
‘I’はいかなる時でも‘I’である。
‘You’はいかなる相手でも、いかなる時にも‘You’である。‘I’,‘You’は不変で絶対的である。
日本語では、日常生活で、まず、‘私’とか‘あなた’と言うことはない。(小説、ドラマは別にして。小説、ドラマでの会話はフィクションの特別な会話である。日常会話の分析の対象にしてはいけない。)
どうしても‘私’と言わなければならない時にも、場に応じて‘私’は変わる。子供に対しては、‘お父さんは’とか‘パパは’と言う。生徒に対して先生は‘先生は’と言う。妹に対しては‘お兄ちゃんは’と言う。
‘あなた’も変わる。父親に対して‘あなた’と言うことはない。先生に対して、‘あなた’と言うこともない。‘お父さん’、‘先生’である。
‘あなた’の変形として‘お前’という言い方もある。しかし、父親は自分の子供に対して‘お前’と言うことはまずない。(もちろん、‘あなた’ということもない。)
余程特別なとき、例えば、叱るときくらいである。
「お前は、何でそんなことも分からんのや。」
普通は、父親は子供をその子の名前で呼ぶ。
「慎太郎、勉強しなさい!」
子供は父親に‘お前’と言われると、何か切り離されたようで、さびしく感じる。
このように‘私’、‘あなた’は変化する。相手によって変化する。絶対的ではなく、相対的なのである。
相手によって変化するので、人称代名詞というよりは、関係詞とでも言えるものである。
日本語の‘I’に相当する言葉は常に相手を包摂した概念である。日本語の‘You’に相当する言葉も常に‘私’を前提にした表現である。日本語の‘You’は‘I’を含んでいるのである。日本語の‘I’は‘You’を含んでいるのである。
教室で先生は生徒に対し‘あなたがた’、‘君たち’、‘お前ら’という。これらは、切り離された‘個’としての‘You’とは違う。‘個’としての‘You’というのを避けているのである。生徒一人に話しかけるときは、必ずその生徒の名前で呼ぶ。
「小野君、この問題の答えを黒板に書きなさい。」
「佐藤さん、宿題してきましたか?」。

英語で、
「I will go to school.」
を日本語に訳すると、
「私は学校へ行きます。」
となる。しかし、実際の日常生活で 
「私は学校へ行きます。」
と言うことはない。
「学校へ行くよ」
あるいは、
「学校、行くよ」
ではないだろうか。‘私’は使わない。
使っても精々、
「僕、学校、行くよ」
である。
ところで、この‘僕’は主語だろうか。
格助詞‘は’も‘が’もついていない。この‘僕’は主語ではなく、その場の話題のテーマのようなものである。格助詞‘は’、‘が’をつけて、‘僕は’とか‘僕が’とすると‘僕’が強調されるイメージとなるので、それを避けて主語としないのである。(特に‘僕は’と言う場合は、「お兄ちゃんは行かないけど、僕はいくよ。」というようなニュアンスになる。‘僕が’になると意味が変わってしまう。)
したがって、この‘僕’は‘I’ではない。
学校へ行こうとする子供に
「慎太郎!お弁当持った?」
という言い方がある。
この‘慎太郎’は主語だろうか。呼びかけの言葉だから主語ではないだろう。
「慎太郎、あなた、お弁当持った?」
という言い方もある。この‘あなた’はどうだろう。格助詞が付いていない。‘あなたが’でもないし、‘あなたは’でもない。
あなたのことを言っているんだと注意を喚起するような働きである。主語とは言い難いのではないか。
「Hey,You!」
の‘You’の使い方に近い。この‘You’は主語なのだろうか。

このように日本語の‘私’は、‘僕’、‘おれ’、‘わし’、‘お父さん’、‘お兄ちゃん’、‘おじいちゃん’、‘先生’と相手によって変化する。そして、何よりも、これらの言葉を使わないようにする。少なくとも主語的に使わないようにする。これが、英語の‘I’との本質的違いである。
必ず使わなければならない‘I’。極力使わないようにする‘私’。相手が誰であろうと変化しない‘I’。場によって、相手によって使い分ける‘私’、‘わたくし’、‘僕’、‘うち’、・・・‘お母さん’、‘おねえちゃん’、・・・‘先生’・・・。
‘私’と‘I’は本質的に違うのである。
‘You’についても全く同じである。日本語では、場によって、相手によって変化する。原則として、‘あなた’とも‘お前’とも言わない。言うときも、極力、格助詞を付けない。すなわち、主語的には使わないのである。
日本語には、‘I’,‘You’に相当する言葉はない。そのような考え方がないのである。

   英語の‘I’,‘You’は活性酸素かもしれない。  

人の体内でガン細胞を増殖させるという活性酸素かもしれない。
欧米語が、あるいは、欧米的考え方が、近代合理主義を推し進め、結果、近代の科学技術を急速に発展せしめたことは認めざるをえない。
しかし、一方、英語を筆頭として欧米語のもつデジタル思考が過度に個人主義を推し進め、社会に於ける‘個’の肥大化を招いた事実も否定することはできない。否、ますます‘個’を肥大化させ、その已むことのないのが現下の惨状ではないだろうか。
ここで、問題になるのが、英語で考えている限り、この不幸が見えないということである。英語そのものの害毒だからである。英語的考え方の害毒であるからである。
英語以外の言語で、欧米語以外の言語で、すなわち、欧米的考え方以外の考え方で、今の欧米文明を見直さなければならない。
少なくとも、日本語は欧米語とは本質的に異なる。日本的な考え方も欧米的な考え方と本質的に異なる。(なお、多くの日本人は欧米的考え方も出来る。バイリンガルではなくとも、バイカルチュラルなのである。ただ、欧米的考え方が正しいと教え込まれ、そう信じ込んでいる人々が多い。特に学者を筆頭に知識人といわれる人々の大半はそうである。)
   
今や日本語の出番である。日本的考え方の出番である。
そのためには、まず、欧米的考え方が自らの言語によりもたらされたドグマであることを、そして、そのドグマに犯されていない文化があることを、欧米人に、そして、世界の人々に知ってもらう努力をする必要がある。

その上で、差し当たり、英語でも‘I’や‘You’を使わない運動をお勧めしてはどうだろう。
S.V.O.が壊れる、曖昧になるという批判があるだろう。これに対しては、むしろ曖昧でいいではないかと、言ってあげればいい。そろそろ英語を話す人々の民度も上がって、場の状況に応じて言葉を解釈できるようになったのでは、とも。
‘Go(行く)’と言えば、言っているのは私だから、私が行くのに決まっている。
‘Go?(行く?)’と語尾を上げて聞けば、あなたに言っているのだから、あなたが行くのかを聞いているのは自明である。(はず。)
どうしてもはっきりしたいのなら(この思想自体がいけないのだけれど)、‘I’,‘You’を初めにもってくるのではなく、最後に小さく‘I’,‘You’を言えばいい。(あるいは、‘me’と)
そして、加えて、助詞を使うようにすればいい。気持ちが伝わりやすくなる。(オーバーなジェスチャーをしなくともよくなる。特に、メールでは、身体的ジェスチャーが使えないのだから。)
‘thank you ね!’、‘fine だ!’、‘OK よ’、‘sorry な’
‘Just So!’に、断定の‘だ’を付けると日本語と同じになってしまう。
‘ジャスト、そうだ!’

   言語における絶対性と相対性  

欧米語に対し、特に英語に対し、日本語が劣っていると考えている日本人は多い。はっきりは意識していなくとも何となく劣っていると心の中で感じている人はもっと多い。
これが幼児早期英語教育へ駆り立てる基なのだろう。文明開化の明治時代の森有礼、敗戦時の志賀直哉など文化人といわれる人に特に多い。
はたして、日本語は英語に比べて劣った言語なのだろうか。
一つの言語のある一つの長所が、見方によっては逆に短所になることもある。
日本語は‘情’を伝えやすい言語であるが、これが逆に曖昧だとの批判を受けることもある。
場・状況によっても変化しない言語は明解ということになるが、複雑なことは表現できない単純ということにもなる。
二つの言語の優劣は単純にはいえない。それぞれに長所、短所があるといえるにすぎない。

その一つに、言語における絶対と相対という問題がある。
方向を示すのに東西南北という概念はどの民族にもあるという。しかし、左右という言葉のない言語があるのだそうだ。
東西は何処へ行っても変わらないが、左右はその人がどちらを向いているかによって変わる。
東西という概念、すなわち、言葉は絶対的であるが、左右という概念、言葉は変動的、すなわち、相対的である。
東西という概念はプリミティブで、左右という概念はより高度ということができる。
絶対的なものは状況の変化によっても変わらない。だから絶対的なのであるが、相対的なものは状況の変化によっても変化する。流動的ともいえるし、多様ともいえる。

地球上の生物の進化の方向は多様化である。単純なものからより複雑なものへ向かう。環境は常に変化する。そして、生物はその変化に対応するために多様化の道を選択してきた。
生物については、複雑なものほど高度である。多様性を持ったものほど高度ということができる。
ところで、英語の‘I’,‘You’は絶対的である。それに対し、日本語のそれに当たる言葉は相対的で多様である。そして、‘I’,‘You’という言葉は、その言語の最も根幹をなす概念である。
生物学的にいえば、日本語はより高度な言語なのである。

(‘I’,‘You’問題の他にも、日本語には‘場の言語’、‘状況の言語’という特徴があり、より相対性の高い言語ということができる。)
     平成23年5月24日

   サピア・ウォーフ の 仮説  

   英語での自己意識  

I&You0001_convert_20110304143118.jpg

  日米、‘I・You’ 格差  

サピア・ウォーフの仮説として「言語は文化を規定する」という考え方がある。
私は、更に、文化も言語を規定すると考えている。文化と言語は共に影響しあいながら進化してきたのだと思う。
ただ、個の人間についてみると「言語は文化を規定する」といえると思う。
なぜなら、赤ちゃんは本能以外に何らかの文化を身に付けてこの世に生まれ出てくるわけではないからである。赤ちゃんは白紙の状態でこの世に生を受け、ある一つの言語環境での中で育てられ、その言語を習得することによって、ものごとを区分けし、関連付けることが出来るようになるのである。
人は生まれ育った環境の言葉によって考えるのである。
日本語で育てられれば日本語で考えるようになる。英語で育てば英語で考えるようになる。
日本語と英語では、ものの区切り方、論理の運び方が違う。当然、ものの考え方が違う。
したがって、個の人間についていえば、「言語は文化を規定する」のである。
サピア・ウォーフの仮説は、アメリカ・インディアンの言語、文化を英語で分析したものである。いってみれば、メジャーな言語、文化の枠組みで、マイナーの言語、文化を分析したものである。
私は、古い文化をもつ日本語で英語を分析しようと思う。すなわち、メジャーでメジャーを分析するのである。(この段階になると、文化というよりは文明といったほうがいいかもしれないが、)
日本の文化と欧米の文化の違いとして、欧米の個人主義に対し日本の集団主義がよくいわれる。
私はこの二つの文明の違いはもっと本質的なものだと思うが、現象的には確かにそのようにみえる面もある。

そこで、ここでは、その原因の一つとしての‘I’と‘You’の使い方について考えてみたい。
英語では、一人称は‘I’、そして、二人称は‘You’である。
一人称では、主格のみが‘I’、二人称では、単数も複数も‘You’、そして、目的格も‘You’である。
この英語‘I’‘You’に対応する日本語はあるのか。
一般的には、‘I’は日本語では、
  私、僕、おれ、うち、おいら、わし、あたい、あたし、あっし、
そして、‘You’は
  あなた、君、あんた、おまえ、貴君、貴様、
など、だということになっている。
日本語で、同じ一人の人間が、自分のことを友達には‘僕’といい、職場では上司には‘私’という。そして、家に帰れば、子供たちには‘お父さん’といい、妹が訪ねてくれば、妹には‘お兄ちゃん’という。しかも、彼が子供の頃は、自分のことを‘しんちゃん’といっていた。(慎太郎という名前であったから)
この‘僕’‘私’‘お父さん’‘お兄ちゃん’‘しんちゃん’が‘I’と同じものだろうか。
‘僕’‘私’は人称代名詞、‘お父さん’‘お兄ちゃん’は関係代名詞であるが、‘しんちゃん’にいたっては固有名詞である。
‘You’についても事情はほぼ同じで、友達に対しては‘君’あるいは‘お前’といい、上司に対しては‘部長’あるいは‘あなた’といい、自分の子供、妹にはその子の名前をいう。
‘I’が何時でも何処でも‘I’であるのに対し、‘僕’‘私’は相手との関係によって変わる相対的なものである。
‘I’‘You’は絶対的な概念であるが、‘僕’‘私’‘あなた’‘君’などは相対的なものである。
加えて、「僕は学校へ行く」という教科書的な言い方では‘僕’は確かに主語であるが、通常の会話で使う「僕、学校へ行くよ」の‘僕’は主語かどうか怪しい。「僕、学校へ行くよ」は「僕は学校へ行くよ」とも「僕が学校へ行くよ」とも違う。‘は’‘が’が省略されたものではない。したがって、‘僕’は主語ではなく、主題の提示をしているに過ぎない。(そもそも日本語では主語という概念は必要ではない。欧米流の文法を無理やり当てはめてみればということに過ぎない。)
自己主張という観点から見ると、絶対的な‘I’‘You’に比し、相対的な‘僕’‘わたし’‘君’‘あなた’などは、自己を主張しているようにはみえない。むしろ、相手に合わせているのである。滅私である。

この質的な自己主張の強さの違いに加えて、圧倒的なのは日常生活における使用頻度の違いである。
日常どのように会話が交わされているかをみるため、英語で書かれたアニメと映画シナリオ、そして、日本語で書かれたマンガ2編を取り上げ、それどれの対訳と比較してみた。
英語については‘I’‘You’の数を、‘I’m’なども含めてカウントした。‘me’‘my’‘your’はカウントしていない。
日本語については、人称代名詞、すなわち、‘僕’‘私’‘君’‘あなた’‘お前’などをカウントした。この際、日本語の一人称は目的格、所有格が主格と同形であるため、まず、主格と目的格、そして、所有格を含んだものをカウントした。二人称についても、所有格を含んだものを別途カウントした。二人称複数については‘君’と‘君たち’では明確に‘個’というイメージが異なるのでカウントから除いた。
関係代名詞、固有名詞は入れなかった。これらは個別の自己を主張する人称代名詞とは性格を異にするものであるからである。
その結果、英語では‘I’を日本語のそれに対して6倍以上も使っていることが分かった。‘You’についても(英→日)で10倍、(日→英)で6倍使っていた。
ここから英語圏においては、日常会話で‘I’‘You’を日本語圏の6倍以上の頻度で使っていると推測される。
ちなみに、日本語で作られた日常英会話の辞書でカウントすると、日常生活場面での表現では、‘I’が何と日本語の約25倍、‘You’が約43倍使われていることが分かった。(‘LifeSkills Database5000’ TheJapanTimes)
例えば、日常会話でよく使う英語の‘Thank You’には‘You’、‘I’m sorry’には‘I’があるが、それに相当する日本語の‘有難う’‘すみません’には‘I’も‘You’もない。もちろん、省略されているわけでもない。
このように、日常会話の基本用語において、‘I’と‘You’は日本語の25倍、43倍多く使われているのである。言い換えれば、日本語の日常会話では‘I’‘You’に相当する言葉はほとんど使われていないということでもある。
この数の格差は圧倒的である。
欧米の赤ちゃんは、日本の赤ちゃんに比べて、少なく見積もっても6倍の頻度で‘I’とか‘You’とかを聞かされ続けているのである。当然、自己としての‘I’の概念、個としての‘You’の概念が柔かい頭に叩き込まれる。
一方、日本の赤ちゃんの場合は、頻度において格段に少ないのに加えて、聞かされる一人称、二人称の質が異なる。‘I’‘You’のように絶対的なものではなく、‘僕’‘お父さん’‘お兄ちゃん’などのように場に応じて変わる相対的なもので、自我、あるいは、個というイメージとは遠い。
加えて、日本では赤ちゃんを呼ぶとき、人称代名詞で呼ぶのではなく、普通、その子の名前に‘ちゃん’をつけて呼ぶ。例えば、名前が‘慎太郎’であれば、‘しんちゃん’あるいは‘しんたろーちゃん’と呼ぶ。叱るときでも呼び捨て‘しんたろー’である。そして、父親も自分のことを‘お父さん’と呼ぶ。当然、赤ちゃんは言葉が使えるようになってくると‘おとうさん’と呼ぼうとする。そして、‘おとーたん’などと言い始める。
この赤ちゃんへの‘お父さんはね、・・’などの語り掛けは、‘お父さん’という言葉にお前のという意味が含まれていて、赤ちゃんとの一体感が前提になっている。
赤ちゃんを‘You’ではなく、その子の名前で語りかけることは、存在としてのその子を認めていることでもあり、自尊の気持ちを植えつける効果もある。
「しんちゃん、お父さんはね・・・」と話しかけることは、赤ちゃんに父親との一体感と同時に自分がみとめられているという自尊心と安心感を与えるのである。
この‘I’‘You’の量的、質的格差によって幼児に植え付けられる自己の存在イメージの違いを図示すれば下記のようになる。
これが、方や個人主義、方や集団主義にみえる原因の一つである。
ちなみに、ここでいう集団主義は、集団行動などで見られる集団主義ではなく、もっと本質的な集団主義である。集団が最初にあるのではなく、自分があって、それが他の人とも結びついているという一体感のようなものである。まず、お母さんとの一体感、そして、お父さんとの一体感、兄弟との一体感、祖母、祖父との一体感、友達との一体感、・・というような重層的な一体感である。
この一体感からくる集団行動が、いわゆる日本的集団主義にみえるのである。

以上は日本語から、すなわち、日本文化からみた欧米文化であるが、欧米文化から日本文化をみると、どのようにみえるのだろうか。
‘I’‘You’のない文化、絶対的な‘個’という概念のない世界は、理解できないかもしれない。自分の身に置き換えると、確たる自分の存在しない、常に他との関係性の中にある自分は、不確かで、不安定で、身の置き所のない状態に感じるかもしれない。そんな世界はミゼラブル以外の何者でもない。これが、従来からの日本人に対する欧米人の大方の感じ方であろう。
人と人との繋がりの中にいる安心感、居心地の良さは、実際に体験しなければ分からない。しかし、‘I’‘You’の言語下で育ってしまえば、実際には体験することは出来ない。(これが、本当の意味での異文化理解の難しさである。)
逆に、日本語環境から欧米文化の‘I’‘You’の側面をみると、自立というその厳しさ、凛々しさは分かるものの、その寂しさ、孤独感もひしひしと感じることができる。人生の上り坂ではいざしらず、人生の下り坂、そして、死を意識する段階では、‘You’と突き放され、‘I’という孤独を噛みしめなければならなくなれば、やはり何か絶対的なものに縋り付きたくなる気持ちも分かるような気がする。
さらに、見方を変えると、‘I’と‘You’ですべてを押し通すやり方は明解ではあるが単純にもみえる。‘I’‘You’にあたる言葉をその場その場で使い分ける日本語は、整数しか扱わない算数に対して、変数を扱う代数のようなものである。習得するには労力を要するが、習得してしまえば、より高度のタスクをこなす事が出来るようになる。(外国語として学ぼうとすると大変ではあるが、日本人は誰でも自然に覚えてしまう。)
日本語環境では、連立多元方程式の解、すなわち、複雑な人間関係の中での自分の立位置を、常に意識できるようになるのである。

   日本語での自己意識  

shinncyann_convert_20110304143643.jpg

   日本人の自我構造  

sekai_convert_20110308135000.jpg

   データ集計  

Youあなた
ローマの休日3193805034
6.411.2
ふしぎの国のアリス3002184522
6.79.9
英→日6195989556
6.510.7
サザエさん(12)1071242219
4.96.5
オチビサン3巻9752109
9.75.8
日→英2041763228
6.46.3
日常会話日常生活621342258
(日→英)24.842.8
その他場面編8474612512
33.938.4
機能編3242643417
9.515.5
小 計179210678437
21.328.8
****************

   ‘自分’は ‘I’ か  

日本語に‘自分’という言葉がある。この言葉は英語の対訳では、‘I’ のところにも使われているし、 ‘You’ のところにも使われている。
 「自分で自分がいやになった。」(‘I’)
 「自分のことは自分でしなさい。」(‘You’)
‘自分’は一人称なのか、二人称なのか。
こんな言い方もある。
母はいった、
「春子は、自分のことがよく分かっていないようね。」
この場合の‘自分’は、母のことか春子のことか、これだけでは分からない。
「春子は、自分で自分のことがよく分かっていないようね。」
であれば、‘自分’は春子のことである。
すると、この‘自分’は三人称である。(間接話法ではないから)
こうなると、この言葉は人称とは関係のない言葉ということになるのではないだろうか。
英語でいえば、さしずめ ‘self’ という表現にあたる。
‘自分’は人称を超えた抽象概念を表わす言葉なのである。
したがって、‘自分’は ‘I’ ‘You’ のカウントからは外した。

ところで、この‘自分’という言葉は、私的自己を表わす言葉で二人称三人称を表わす場合は視点的用法で意味的拡張に過ぎないと主張している学者がいる。そして、英語にはない私的自己を表わす‘自分’という言葉が日本語にはあるがゆえに、日本語から見ると日本人は欧米人よりも主体性を持っていると主張している。
主体性の定義にもよるだろうが、大方の見方とは正反対の解釈である。
しかし、 ‘I’ ‘You’ 格差で見たように、日本語から見ても、日本人の個の主張、自己主張は欧米人よりも控えめである。
‘I’ とか ‘You’ と言い募る頻度が極めて低く、また、数少ない ‘I’ ‘You’ に相当する言葉も、場によって、‘僕→私、’‘お前→あなた’などと変わる相対的一人称、相対的二人称であったり、関係性が前提の‘お父さん’‘先生’などであるからである。
その学者は、‘自分’という表現ゆえに、「日本語は、より本質的な部分では、私的自己を中心とした言語」とまでおっしゃっている。
しかし、‘自分’は私的・主観的自己ではなく、抽象的・客観的自己を表わす概念ではあるまいか。
また、‘自分’という言葉は古くからある言葉ではなく、比較的新しく作られた言葉ではないだろうか。
そうであれば、日本語の本質が、ひいては、日本人の本質が、歴史的には、つい最近変わったということになってしまう。
      (平成22年12月20日)

   言語が文化を規定する  サピア・ウォーフの仮設  

kotaisekai_convert_20110304143202.jpg

サピア・ウォーフの仮説として「言語が文化を規定する」という考え方がある。
詳しくは「人間の言語の構造は、人間が現実を理解する仕方と人間のそれに対する振舞い方に影響する。」というものであるが、ここに、既に、欧米的考え方と日本的考え方の違いが出ている。
すなわち、言語の違いによる文化の違いである。(あるいは、文化の違いによる言語の違いかもしれない。)
まず、言語の構造といっているが、これは、構文(文法)中心的な考え方で、日本語の場合は言語の組み上がり方といった方がその特徴を捉えやすい。(構文よりも前の段階の問題で、言葉の組みあがり方の違い。)
そして、人間の現実を理解する仕方といっているが、日本語では、このような場合、‘ものの見方’、あるいは、‘ものの考え方’と表現する。
まず、欧米語では‘人間’が出てくる。主体としての人間が明確に意識されているのである。
日本語では、‘人間’とわざわざ言わない。この‘人間’に当たるものが日本語では、‘われわれ’であろう。しかし、‘われわれ’とは、敢えて言わない。‘人間’と‘われわれ’、やはり欧米では、自分たち人間を特別なものと考え、しかも客観視して見ているのだろう。(外から見ている。‘われわれ’は内側から見ている。)
欧米の‘現実’にあたるものが日本の‘ものごと’だろう。‘ものごと’とは‘もの’と‘こと’のことである。‘もの’の方が‘現実’より広い概念である。‘もの思い’、‘もののけ’などの表現をみれば、‘もの’に‘現実’以上のものが含まれていることが分かる。
欧米の‘理解’、‘振舞い’に対応するのが、日本の‘見方’、‘考え方’である。‘理解’といえば対象に踏み込むことである。踏み入って、分析し、突き詰めようとする態度である。‘振舞い’は、当然具体的行動である。一方、日本の‘見方’、‘考え方’には具体的行動は含まれていない。ただ、見、考えるだけであるから、対象には踏み込まない。実は、踏み込む必要がないのである。(内側にいるから。)
欧米人と日本人の‘生き方’の違いを云々するとき、日本人は‘自然’に対する考え方の相違という言い方をする。この場合の‘自然’は先の‘ものごと’とほぼ同じものだろう。欧米には、この意味での‘自然’、‘もの’、‘ものごと’に該当する言葉はない。‘nature’が具体的な‘現実’であるのに対し、‘自然’は単なる‘nature’だけではなく、自分の周りのすべて、ときには、運命までをも含んだ感覚である。(自然にそうなる・・と言う風に)

日本人的に表現すれば、以上のことにも、欧米人と日本人の‘ものの考え方’の根本的な違いが現れている。
欧米では‘自然’を自分の外側にあると考えている。まず、自分の存在が絶対であって、それに対立する形で‘自然’が外側にあると考えている。したがって、‘自然’は分析し、理解しつくさねばならない。すなわち、‘自然’は征服しなければならないと考えている。
一方、日本人は、自分(といっても、余り主体的意識は強くはないが)は‘自然’の中にあると感じている。対立するものではなく、自分もその一部と思っている。
(欧米人は考え、日本人は思い、感じるのである。これも、根本的な違いである。対決と順応の違いである。)
(日本人に、死ぬことを、自己の消滅と考えるよりも、大自然に帰ると思う人は多い。)
従って、日本人にとっては‘自然’は対立するものではなく、順応するものである。むしろ、‘自然’とは共生するものと思ってきた。
日本人は「オレはオレの力で生きていくのだ。」というよりは「自分たちは自然の恵みに生かされているのだ。」という考え方の方が強い。(オレ個人ではなく、自分たちとなる。この自分たちも‘自分も’というニュアンスがある。)
この‘自然’に対する外と内、対決と順応の考え方の違いは、‘ものの考え方’をも決定的に異なるものにする。
対決の文化は、働きかけ‘スル’を中心に考える。‘ものごと’はすべて分析されねばならない。また、既にあるものは‘サレタ’ものであって、誰かが作ったものと考える。世界も誰かが作った。人間も誰かが作った。言葉も誰かが作った。
そして、誰かとは誰か、ということになり、神が必要になったのだろう。この神は、自己矛盾ではあるが、人間を中心に考える文化では、人格神、そして、ただ一人の神ということになるのだろう。
順応の文化では、すべて‘あるがまま’を認め、‘アル’を前提に考える。従って、人間も言葉も誰かに作られたものではなく、‘ナッタ’と考えるのである。‘ナル’とは‘ニアル’が詰まったもので‘アル’という考え方である。神様まで‘成った’と考えている。しかも、この神様は絶対神ではなく、われわれの祖先であって、われわれと繋がっていると思っている。(神様は‘カビ’のように成り、人間は草のように生ると感じていた。ウマシアシカビヒコジ、青草人)
この‘あるがまま’の思想は、日本語が場・状況の言語(変化する場面場面に対応する言語)であること、母音を中心とする‘語感’を残していることと深く結びついていると思われる。

   欧米人は考え、日本人は思い、感じる。  

‘考える’のは知性の問題であり、‘思う’、‘感じる’のは感性の問題であると、一般的には考えられている。
それでは、日本人は考えないのか。
‘思う’、‘感じる’とは、突然ひらめくのではなく、意識下、潜在意識で考えているのである。意識の表層で思考するのではなく、意識の奥底で思考しているのである。潜在意識であるから意識にのぼらないだけである。
日本人は潜在意識で考えることに慣れている。それは、日本語が潜在意識を、とりわけ使うからである。日本語は‘語感’と常に結びついている。‘語感’は、通常、意識にはのぼらず、潜在意識で働いているのである。
(人間は、意識の4倍も5倍もの潜在意識が働いているといわれている。)
日本人は、‘考える’の他にも、‘思う’、‘感じる’という。また、‘気がする’ともいう。
 考える
 思う
 感じる
 気がする
このうち、‘考える’と‘思う’を英語では、‘THINK’と訳してしまう。しかし、日本語の‘思う’は、‘THINK’ではない。
‘考える’は‘THINK’と同じく、新皮質での作業で意識段階でのものであるが、‘思う’以下は旧皮質、すなわち、潜在意識の段階での作業の結果である。‘思う’、‘感じる’、‘気がする’、に相当する英語はない。(潜在意識が必ずしも旧脳にあるわけではないが、比喩的に表現すると)
「私は〜と感じる。」は「I feel 〜」ではない。
日本語の‘気がする’ですら、潜在意識での思考の結果なのである。
‘思う’、‘感じる’、‘気がする’の違いは、結果についての確信度の違いである。‘思う’は‘考える’に近い(時には、それ以上の)確信があるのである。しかし、‘考える’と違って論理的に説明するのが難しいのである。
したがって、日本人は「私は、こう思う。」を「I think・・」と言ってはいけない。
何と言うか。今のところ言葉がない。(「My subconscious says ・・」かな?)
(もともと、議論は知の領域だけの話であるから、‘思う’段階のものをいれてはいけないのだろう。)
(日本人は、潜在意識での働きを感性の働きと思っている。)

‘考える’、‘思う’に対応して、‘分かる’にも二種類がある。
「お前の言うことは、よう、分からんが、分かった。お前の好きなようにやれ。」
などと言うことがある。英語的にみれば論理矛盾もはなはだしい。
しかし、前の‘分からん’と後の‘分かった’の‘分かる’は種類が違うのである。
前の‘分かる’は‘understand’に当たる‘理解した’という意味であるが、後の‘分かった’は‘納得した’、そして ‘了解した’という意味である。分析的には、細部は理解できないが、全体的には了解した、納得したということで、これに対応する英語もない。(説明するしかない)
 理解する
 了解する
 納得する − 腑に落ちる、腹に収まる
「お前の理屈は分かるが、わしには今一つ腑に落ちん。」
という言い方もある。先の例の全く逆である。
理屈は理解できるが、全体として納得できないということである。
これは、先の‘考える’と‘思う’に対応していて、‘考える’の結果が‘理解する’で、‘思う’の結果が‘納得する’なのである。すなわち、‘理解’は新皮質の仕事で、‘納得’は旧皮質、従って、潜在意識の仕事なのである。
新皮質の仕事は分析的、論理的であるが、潜在意識での仕事は結果しか分からず総括的である。
‘思う’‘感じる’‘気がする’は、過程が隠れていて、結果だけが表面に出てくるのである。
これは、直感に近い。しかし、直感というのは、何もせずにいきなり出てくるのではない。いろいろな情報が(人生の経験を含めて)潜在意識に蓄えられて、その蓄積の中から出てくるものなのである。
‘納得する’ことを、日本人は、‘腑に落ちる’とか‘腹に収まる’と表現する。
‘理解する’のは頭で、‘納得する’のは腹だと思っている。
‘気がする’は胸だから、日本人は、潜在意識的なものは、頭以外の胸とか腹にあると思っているようだ。
胸は情に関わるものに、腹は決断(意思)に関わるものに使われるが、頭以外の胸や腹をあわせて心とも表現する。
日本人は、頭で分かるよりも、心で分かることを重視する。
知には限界があると感じている。理屈に走る人を軽蔑する傾向もある。
いわゆる論理は、知の領域の事柄であるから、すなわち、表層の事柄であるから、最重要とは考えない。
この辺りから、言挙げせずという美風(今や国際的には弱点)が生まれてきたのだろう。
ちなみに、情、意を表わしやすいのが、母音で、知を表わしやすいのが、子音である。
また、情は胸、意は腹であるから、母音は心の中を子音は頭の中を表出するものともいえる。
日本人は、自然の全てが、あるいは、ものごとの全ての詳細が分かるとは考えていない。しかし、自然への信頼があるから、ものごとは大筋で分かればいいと思っている。
欧米の人々は、自然は分析しつくせると思っている。そして、分析し尽くさねばとも考えている。そして、自然との一体感も薄いから、全ての事柄は細部から理解して、論理的に積み上げなければ安心出来ないのであろう。

ここにも、文化と言語の関係が現れている。すなわち、‘ものの考え方’と言語のあり方の違いが現われている。(母音中心の言語:子音中心の言語、そして、母音文化:子音文化、あるいは、心の文化:頭の文化)

欧米の哲学は、存在の意味を問い、‘ザイン’を追求しているが、それは、自己を‘自然’の外に考えているからで、自己の存在の‘Whay’が究極の問いとなるのである。一般の人々は、全てから切り離された孤独感から、救いを求め、父なる人格神を求めるのであろう。
日本人には、いわゆる欧米の哲学は必要ではない。自らが全体の中にあるからである。人々の関心は、‘How’、すなわち、いかに生きるかに向けられる。(ノウハウ的行き方ではなく、いかに自分を生きるかということ。)
そして、一部の人々は修行の道に入り、悟りを目指す。一般の人々は、生活の中に求道、すなわち、道を究めることを求めるのである。職人には職人道。商人には商人道。そして、武道、華道、茶道、それぞれに自らを高めることに生きがいを求める。
欧米人は存在の意味を問い、日本人は存在のあり方を問う。
日本人にとって存在はもともと‘ある’のである。日本人は存在を‘ありのまま’に受け入れるのである。そして、あるからには、いかにあるべきかを問うのである。
欧米と日本では、哲学が違う。文化によって、人生の根本問題が違うのである。
(欧米人は救い、安息を求め、日本人は生きがいを求める。−ちょっと、類型化のしすぎかな。)
日本では、一部の人々を除き、宗教とは救いを求めるためのものではなく、自然との一体感の確認の役割をはたしているのではないだろうか。大方の日本人は、お寺で法要もし、お墓にも参り、神社にも参拝するのである。(出鱈目なのではない、宗教心がないわけでもない。ただ、一神教ではないだけである。)

以上は言葉を中心にみた、言語の違いと文化の違いであるが、言語そのものの違いはもっと深い所にあり、これが‘ものの考え方’に大きく影響を与えていると思われる。

欧米言語は、‘I・You’を中心として、必ず、主語を要求する直線論理の言語である。(線形論理)
幼児が、白紙の状態から言葉を覚え、思考法を身につけ、人格を形成する過程で、常に、‘I’とか‘You’とか言われ続ければ、脳の中に‘個’としての‘I’,‘個’としての‘You’という観念が強固に形作られるだろう。そして、この‘個’以外のものを自分とは切り離されたものとの認識が刷り込まれるだろう。(幼児体験としての‘I・You効果’)
この‘I・You効果’は幼児の人格形成に致命的影響を与える。(日本人から見れば、)
主体としての‘個’の認識は、個人主義になるだけではなく、自然と自分とは別のものと感覚を生み、自然と対決する考え方につながる。
また、このように自然を相対視する文化では、自然を絶対とは考えない。
しかし、自然と共生しようとする文化では、自然を絶対のものと考えるのに抵抗はない。そして、自然を恐れ敬う。この文化では、一神教には馴染みにくい。さりとて、多神教ではなく、敢えて言えば、汎神教だろうか。(山川草木悉皆成仏)
主語を絶対必要とする言語は、主体という考え方を強固にする。
主語を最初にもってくる言語は、語順を必要とし、主体の論理、直線の論理となる。
また、逆に、‘I・You’の重視は、主語の重視に繋がり、主語が、まず、最初になることにも繋がる。

   状況の言語  

一方、日本語は、論理運びの特徴として、‘あるがまま’をそのまま受け入れる結果としての場の言語、状況の言語という面をもっている。(scene、occasion)
欧米語の主語を中心とした直線的な論理運びに対し、日本語では、その場その場で状況に応じた表現を要求する。論理も相対的で、直線的ではなく、多次元的なものとなる。
局面により、主題も変わるので主語も流動的で、必ずしも、主語は必要ではなく、述部中心の表現法になる。
主語的なものは状況の中で明らかであって、あえて、主語を立てると異なる意味になってしまう場合がある。
仲間数人と遊んでいて、
「ボク、帰る」
と言ったときの‘ボク’が主語かどうか、怪しい。
「ボクは帰る」
の‘ボク’は主語であるが、この言い方では、「他の人は別にして」というニュアンスが含まれている。
「ボクが帰る」
となると、誰か一人が帰らねばならず、それをボクがやるという意味合いになる。
敢えて主語を入れると意味が変わってしまうのである。
この場合、もっともありうる言い方は、
「じゃあ、帰るね」
だろう。極力、‘ボク’も言わない。(一人称を使うと、幼稚と思われる恐れがあるからだろう。)
助詞の使い方として、この他にも
「ボクも帰る」、「ボクと帰ろう」
などがあるが、この助詞‘は、が、も、と’の使い分けは、‘語感’に負うところが大きい。
「ボクは帰る」
は、帰るに重点があり、
「ボクが帰る」
は、ボクに重点がある。
このように、助詞には意味的ニュアンスの違いがある。この違いは、元来は‘語感’から来たものであろうが、今では約束事になっている。(文法になったということ)。しかし、今でも‘語感’に裏打ちされている。

「山が見える」
と言った場合、主語は不明である。敢えて主語を求めようとすると無理がでる。主語は不要なのである。
主語的なものが必要なときは、助詞‘は’、‘が’、‘も’などを付け、目的語などには、‘を’、‘に’、‘で’、‘と’などを付け、強調したい順に言えばいいのである。
日本語の日常会話には、原則として、語順は必要ではない。結論的ニュアンスとして、語句、文の終わりに助詞、助動詞をつければいいのである。
断定の‘だ’、疑問の‘か’、呼びかけの‘よ’、念押し、お願いの‘ね’などである。
日本語では、語順は重要ではないが、助詞、助動詞は非常に重要である。(格助詞を使わないことにも意味がある。使うか使わないかにも重要な意味があるのである。)

このように、‘ボク’や‘私’の一人称、‘キミ’や‘貴女’の二人称をほとんど使わず、状況に応じて変化する表現の中で言語を獲得していった日本人には、主体としての‘個’という意識は育ちにくい。孤立した自分というよりも場の中の自分という感覚が育ち、‘お前’という意識よりも‘オレたち’、‘われわれ’という意識の方が強くなる。
また、周りの環境についても、対立するものというよりも、自分もその一員という感覚が育つ。
‘I’とか‘You’とかに当たる言葉を使わない日本語では、‘I・You効果’が逆の方向に働くのである。すなわち、‘個’の主張をおさえる効果があるのである。
幼児も、言葉を覚えていく過程で、自分という意識に目覚めるときがくる。そして、自分を主張したり、自分に関心を持たせようとする。このとき、自分を表現するために自分の名前をよく使う。例えば、慎太郎であれば、「シンチャン」という。自分が常日頃、そう呼びかけられているからである。
「ねえ、ねえ、お母さん、シンチャンね・・」
しかし、それも一時的である。やがて、余り言わなくなる。そして、幼稚園に入ると、‘おれ達’などの表現を盛んに使いだす。新しい言葉の‘語感’が新鮮なのと仲間意識のようなものが芽生えてくるからだろう。その流れで‘オレ’という言葉も使うが、これらはやがて使われなくなる。周りの大人たちが‘オレ’は勿論‘ボク’とも、‘私’とも言わないからである。子供も子供なりに、いつまでも‘オレ、オレ’と言っているのが幼稚だと感じるようになるからである。(これが文化)
学校で先生が生徒を前に自分のことを‘私’はとか‘僕’はということは、余り、ない。大抵、‘先生’はという。父親が自分の子供に語りかけるとき、まず、‘私’はとか‘オレ’はとはいわない。‘お父さん’はという。
この‘先生’、‘お父さん’という表現には、生徒、あるいは、子供の存在が前提となっている。‘先生’、‘お父さん’は‘個’としての一人称ではなく、生徒、子供を内包した自分なのである。
先生が‘私’はといえば生徒たちは先生との間に距離を感じてしまう。

また、幼児期、子供が親に‘お前’と言われることは、まず、ない。
呼びかけは、大抵、その子の名前である。‘お前’と言われるのは、余程悪いことをして叱られるときである。
その子の名前ではなく、二人称で呼ぶことは、何か突き放した冷たさを感じさせる。
この主語がないこと、一人称、二人称をほとんど使わないという分かりにくさから、かって、日本語は欧米では‘悪魔のことば’と呼ばれたこともあった。(日本人にはよく分かるのに。)
これほどに、言葉としては、互いに異質なのだろう。

以上、日本語の特徴を論じてきたが、実は、これらは、なお、表面的な特徴であって、これらの原因ともなる、もっと本質的な違いがある。
それは、日本語が母音を残したことである。
拍システムという 子音+母音 を言葉の単位とすることによって、母音を残すことに成功した。
そして、母音を残すことによって、‘語感’を残すことにも成功した。

子音の‘語感’が物性的で無機質なものであるのに対し、母音の‘語感’は、情意的で、人に気持ちを伝えることが出来る。
‘語感’を残すことによって、助詞が生まれ、オノマトペが発達した。助詞は、‘語感’を活かした拍というシステムがあって初めて生まれ得たものである。それぞれの助詞の使い分けに‘語感’が非常に活かされている。
オノマトペも、‘ものごと’の‘ありよう’を‘語感’によって模写したものである。われわれは、オノマトペによって、‘ものごと’の‘ありよう’を写実的にありありと描写することに成功した。
この助詞、オノマトペによって、日本語で育つ幼児は、日本語の獲得過程で、‘語感’を獲得するのである。言い換えれば、われわれは、‘語感’のシステムを脳内に構築することによって、日本語を効率的に獲得しうるようになるのである。(もちろん、助詞、オノマトペ以外の言葉にも‘語感’は活きている。)

欧米語にも母音はある。日本語の5つに対し、欧米語には8から13の母音があるという。
しかし、語句における母音の役割は低く、シラブルの子音の音を響かせる役割が主である感がある。
母音が語尾に必ず来るわけでもない。(この辺りは、欧米の各言語によっても多少の違いがあり、イタリア語などは比較的語尾の母音が効いているようである。)
欧米語にも‘語感’はあるのであろうが、子音の物性感が主で、母音の情緒性は活かされていない。
これが、言葉の意味と音とが離れてしまった原因であろう。
ただ、欧米語の‘I’、‘You’は音的には母音である。‘I’は /AI/ で、すべて母音、‘You’は /I→U/ への変化で、半母音である。
‘I’と発音するとき、全体が一点に集中する‘語感’があり、切れもあり、意思も感じられる。
‘You’は一直線に内に突き抜けているようなイメージがある。
欧米人は、これらを感じているのだろうか。
多分、感じていて、このイメージが、‘I’という‘個’の確立感に繋がっているのだろう。また、‘You’というときも、相手に真正面からぶつかり、踏み込んでいくイメージをもつのだろう。これは、まさに対決のイメージである。
欧米語にも、最も根本のところでは‘語感’は残っていたが、全体としては、母音を捨て情意的な‘語感’は捨ててしまったのだろう。
ただ、皮肉にも、‘I・You’は‘語感’とともに幼い欧米人の心に焼きつき、彼らの‘ものの考え方’を一生支配するのだろう。
欧米語にも物性的‘語感’は残っている。
cool、clear、smooth、Don,Boss,MaMa,fair、gargle、
off、up、in、punch、bomb、cut、・・・・(その他、多数)
ただ、これらの‘語感’は‘語感’としては意識されてはいないのではなかろうか。

そもそも、言語は声による‘もの’‘こと’の模倣であろうから、最初の言葉は発音体感から作られたのであろう。むしろ、発音体感そのものであったかもしれない。その後の言語の高度化に伴い、欧米語においては、音と意味との恣意性が言われるまでに‘語感’から離れてしまった。欧米語が‘語感’から離れていったのは、母音を捨てたためである。言い換えれば、子音を重視したためである。
母音と子音は本質的に異なる音である。
母音は、口腔、あるいは、鼻腔で共鳴させて出す音で、自然音である。連続して出すことも出来るし、他の母音へと連続して変化させることも出来る。
これに対し子音は、口腔内に障害を作って無理に出す音で、連続して出すことは出来ない。しかし、発音方法によって、摩擦音、破裂音、破擦音、流音、震音、鼻音などがあり、それぞれ特徴のある音を出すことが出来る。
こと点、子音と比較すると、母音には確たる境目がなく、幅の広い曖昧な音ということが出来る。
ただ、母音は自然音であることにより、発音体感としての気持ちを表現しやすい。
明るく、伸びやかな気持ちで発声した音は‘ア’的な音になり、しっかりとした、意思的な気持ちで出せば‘イ’的な音になり、重々しい、落着いた気持ちで出せば‘オ’的な音になる。
この点、子音は障害音であるだけに、物性的な特徴を表現しやすい。
‘K’は、切れや、乾いた感じ、固い感じを出しやすく、
‘S’は、流れる感じから、風や水の流れの感じが出しやすく、
‘T’は、舌の特徴的な使い方から、止ったり、溜まったり、小さくつついたり、尖ったりの感じが出しやすい。表面が固く、内が満ちているイメージもある。したがって、固さも‘K’の固さと‘T’の固さではニュアンスが異なる。
‘N’は鼻音で、鼻腔にこもらせる感じがあることから、粘り気と内々の感じが強く、身近さ、親密感が感じられる。
‘M’も鼻音であって、柔かさ、温かさが感じられるが、唇を閉じて発声することから、中から満ち溢れるイメージがある。
物性的で、特徴のはっきりした子音は、ものごとの区別を要求する知的表現に適し、気持ちを曖昧に表現する母音は情意を表現するのに適している。
自然を対決するものとして、分析的に相対しようとする人々が子音を重視し、共に自然の中にあるとして仲間との気持ちの交流を重視する人々が母音を残したのは当然といえるかもしれない。

言語の文化への影響を考えるとき、言語は日常会話の言語を考えなければならない。
言語には、話し言葉の言語の他に書き言葉の言語がある。この話し言葉の言語の中にも、現実の話し言葉と、偽装の話し言葉とがある。日本語では、小説、ドラマなどの中で交わされる会話は、状況が充分説明しきれていないこともあって、誤解を防ぐため、一人称、二人称などの代名詞、助詞などが付け加えられている。
「私は貴方を愛しています」
的な会話である。こんな言い方は現実にはありえない。言ったとしても、
「好きだよ」
程度である。私や貴女とは絶対に言わない。
「ボク、キミ、好きだよ」
はあるかもしれない。この場合の‘ボク’は主語だろうか。
小説などの偽りの文章を持ち出して、主語を云々している論文も見受けられるが、偽りの日本語を分析しても、日本語の、そして、日本文化の本当の姿は見えてこない。

言語が文化を規定する。一方、文化も言語を規定する。
言語と文化は一方通行ではなく、互いに影響しあいながら変化していくのだろう。
しかし、‘個’の人間にとっては、言語が文化を規定する。なぜなら、‘個’の人間は白紙の状態で一つの言語の下に生まれ、その言語を習得することを通じて人間としての自己を形成していくからである。
日本語環境で生まれ育てば、日本人になり、欧米語環境で生まれ育てば、欧米人になる。
‘I・You効果’は致命的ですらある。
         (平成22年11月1日)

powered by Quick Homepage Maker 3.61
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional