新しい言語学

コトバの出来方

   新しい哲学  

鷲田清一先生の「哲学の使い方」を読んだ。
実は、よく分からなかった。
哲学の素養のない私には、禅問答のようで、よくは分からなかった。
ただ、幾つかの論点は理解も出来(私なりの理解なのかもしれないが)、参考になった。
その幾つかを挙げると、

「真理は、あるいは普遍は、〈意味の零度〉への遡源の過程で発見されるものではなく、むしろ他者(たち)の経験との接触のなかで「側面的」に、しかもつねに未完のかたちで出会われるものである。」として「真理の最終審判は存在しえない・・・」と言っている。
これって、真理などはナイと言っているのと同じではないのか。そして、未完の真理という言い方は、真理を追い求めることに意義があるという意味じゃないだろうか。
成程と思う。真理などというものはない。しかし、それを追い求めることそのことが重要なのだと。

「哲学が「知の知」という自己規定をより強くみずからに与える・・・」は今の哲学を言っているのだろうが、他方で「微候に感応する知」とか「野性的ともいえる知」と言っているので、「知の知」の限界を感じておられるのだろう。野性は知ではない。感応は知の役割ではない。

そして、一方で、
「自然との関係、人びとの共有、そして「生きがい」やアイデンティティといった個人の存在根拠をめぐって、わたしたちはそのもっとも基盤的な次元で、解決の道筋がすぐには見えないような難問を突きつけられている・・」として、「環境問題、生命操作、先進国における人口減少、介護・年金問題、食品の安全、グローバル経済、民族紛争、教育崩壊、家族像とコミュニティの空洞化、性差別、マイノリティの権利、民族対立、宗教的狂信、公共性の再構築、・・」を挙げている。現在の哲学が何らその役割を果たしていないということだろう。ここにも哲学が「知の知」に留まっていることの限界が見えている。

その上で、
「トランスサイエンス」とか「哲学を技術の問題として考える・・」とか「視点の多様化」とか言っているのは今の哲学に対する反省ではないだろうか。

そこで、西洋哲学について考えてみた。私が知っているのは、
「汝自身を知れ」と
「我思う、ゆえに我あり」である。
これが「知の知」の「知の知」たる所以である。
そして、哲学は基本的に‘個’の問題なのである。
鷲田先生もそれを当然のこととしておられるようだ。
しかし、哲学は‘個’に止まっていいのか。
今、人類そのものが致命的な大問題に直面しているのである。

現在の欧米哲学を知りたくてジョン・R・サールの「ディスカバー・マインド!」を読み返してみた。副題が「哲学の挑戦」となっていた。
やはり、よく分からなかった。
そもそも、表題の‘マインド’と副題の‘哲学’は矛盾していないか。
‘マインド’は心だろう。心は知の問題か。
日本語では、心と頭を対比させて考える。
すなわち、思いと思考、心情と理屈、情と知、あるいは、道徳と哲学の対比である。
読み始めると、この本のテーマが‘心の哲学’であるとしてある。
心の本質を論じようとするもので、それを哲学といっているのだ。
さらに、「意識を心的な現象の中でも中心的なものである」、あるいは、「心の研究は意識の研究である」として、意識について論じているのである。

ちなみに、英国に生まれ、オックスフォード大学を卒業後フィナンシャル・タイムズの記者として来日、以降日本に住むこと50年に及ぶヘンリー・S・ストーク氏によると、‘心’を英語に一語ではとうてい訳せない、という。あえて、同じような意味に使われる表現を探すと、‘マインド’と‘ハート’だという。そして、‘マインド’は思考に近く、‘ハート’は心臓のことだ、と言っている。

ここでは‘マインド’と言っているので、思考に近い概念として使っているのだろう。
それなら分かる。そして、意識も思考に近い概念として使っているのだ。
結局、‘心の哲学’とは‘意識とは何か’という挑戦なのだ。

その後の議論展開は複雑すぎてよく分からなかった。
ただ、気になる点が二三あった。
私自身よく分っていないのではあるが、志向性に関する議論と無意識に関する議論である。
サールは志向性を心、すなわち意識の本質に関わるものとして重要視していて、「意識と志向性とは本質的に結びついていて、・・」とか「意識と志向性の両方とも、生物学的プロセス、」、「志向性は・・意識の内的で主観的な質的状態」と言い、その具体例として、「信ずること」、「欲望をいだくこと」、「意図すること」、「知覚すること」を挙げているが、何を志向するかの議論は一切ない。したがって、「志向性を自然化する」こと、すなわち「志向性を心的でない物理現象によって完全に説明する」ことはその道筋さえ提示されていない。加えて、「わたしが、痛みを意識した場合、痛みは志向的ではない。というのも、自らを超えたものを表象していないからである。」とまで言っている。自らを超えたものとは、何か神的なものを想定しているのだろうか。私は、心、意識に関わる志向性は、自らの内的なもの、すなわち生命力のようなものと考えている。痛みはまさに生命にとっては本質的なものである。考え方が真逆である。やはり、欧米人は無意識裡に神の存在を前提にして考えてしまうのだろうか。ちなみに、欧米の無神論者の大方は、神の存在の否定論者で、日本人のように、神はいるのかいないのか、そもそもそのことを問題としない無神論者とは本質的に違うのである。

「犬、猫、猿、そして幼い子供も意識をもっていることに、実際は何の疑問ももたないし、・・」と言いながら一方で、「例えば、バッタやノミだ。彼らが本来的志向性を有するかどうかに関しては何と言ったらよいかわからない。」と言っているが、志向性こそ生命現象の本質であることに気付いていないのであろうか。
「脳は、特別な形態での志向性を因果的に惹き起す。脳の中では、本来、神経生理学的プロセスがあり、ときにそれらが意識を因果的に惹き起すのである。」と言っているが、後半はその通りであるが、脳が志向性を惹き起すというのはおかしい。志向性ゆえに脳が生まれ、脳がそのように働くのである。志向性は生命にとってもっと本質的なものである。
われわれ人間を含めた生物の持つ本質的な志向性こそは、なぜこの世に生命が誕生したのか、そしてそれが進化し人間にまで至ったのか、そして人間は感覚に加え感情を得、意識をもつまでに進化しえたのか、などの問いの答えそのものであろう。
生命の誕生、そして進化のなぞを、今、新しい科学が解き明かそうとしている。
複雑系の科学である。

私は、自己組織化と創発の原理によって、生命現象のなぞ、進化のメカニズムのなぞ、などは解明されるのではないかと思っている。
「「心的」現象と「物理的」現象との間の因果関係はどのようになっているのか。そして、こういった因果的関係の特性を付帯現象論に陥ることなく説明することはできるのであろうか。」と言っているが、付帯現象の意味がよくわからないが、脳の神経ネットワークが活性化することによって、随伴的に、意識が主観的に発生する、ということでいいのではないか、と私は思う。物理現象に応じて意識現象が創発されるのである。

無意識については、「多くの心的状態の中にはけっして意識化されないものがあることもたしかだ。そして、いろいろな理由によって意識化されないような心的状態が多くあるのも疑いえない。」と無意識の存在を認めた上で、「無意識の心的状態という考えは、意識へのアクセス可能性を意味内容に含んである。わたしは、〈潜在的に意識可能である〉という以外は無意識という概念はない。」とか「意識的な志向状態をもちうる存在のみが、そもそも志向状態をもちうるのであり、かつすべての無意識の志向状態はすくなくとも潜在的に意識を有しているのだ。」としている。また、「抑圧している心的状態を「無意識的」と呼ぶよう提案する。」とも言っている。
これらから推測すると、サールは意識を無意識よりも上位にあるものと考えているようだ。
進化的には、感覚が発達し、感情が発生し、最後に知性が生まれた。構造的には、脳幹などの古脳の上に辺縁系などの旧脳が出来、最後に大脳新皮質が加わったもので、生物の本質とすれば、もっとも重要なのは、本能、そして感覚、感情、最後に知性である。そして、意識は最後の知性によって顕在化されて意識となったもので、顕在化されない無意識は感覚、感情にもあるのではないかと思われる。もしそうなら(私はそうだと思うが)、意識よりも無意識の方が、生物としてはより先に生まれた、より本質的なものと言えるのではないだろうか。
生物学的には、まず無意識があって、その一部が顕在化されて意識となり、顕在化されないものが無意識として存在するのではないかと思う。
したがって、生物としては、無意識が主で、意識は従である。
しかるに、西欧思想は、知に重きを置くあまり意識を中心に考えてしまうのである。
サールは意識が無意識にアクセスするかのような書き方をしているが、無意識から意識が浮かび上がるのである。あえていえば、無意識が考えるのである。日本語では、無意識層での思考を‘気がする’と言い、意識層での思考を‘考える’と言い、その両方にまたがっているあたりの思考を‘思う’と言い分けている。意識しか重要視しない欧米では、思考は‘think’しかない。
生物である人間も、まず無意識に動かされ、意識がそれを合理化するのである。抑圧されたものだけが無意識ではない。サールもフロイトにたぶらかされているようだ。
意識を主と考えてしまう。知を主と考えてしまう。西欧文化の悪癖である。
人間を生物とは考えたくない。感情を劣ったものと考える。知至上主義の極みである。
自然についても、人間を自然の一部と考えるのではなく、自然を人間に対立するものと考える、偏狭な人間中心主義である。
サールもこの西欧文化に毒されているようだ。
ただ、サールは思想家でありながら、自然科学にも通じていて、理論物理学の最新の知見もその論考に入れておられる。
それゆえに、この本の最後に書かれている今後の哲学の在り方についての二つの指摘は正鵠を射て重要であると思う。
すなわち、「現在の状況に対するダーウィン革命の重要性を私たちは完全には理解してこなかった。」
そして、「最後のガイドラインは、心の社会的性格を再発見する必要があるということである。」という、この二つの指摘である。
一つ目の指摘は、サールも生命誕生と進化の重要性に気付いているということで、
哲学の出発点、すなわち西洋的には、
汝自身を知れ。
我思う、ゆえに我あり。
日本的には、
なぜ、オレはオレなのか。
何のために自分はこの世に生まれてきたのか。
人生とは何なのか。
人間はどうして死ぬのか。
死ねばどうなるのか。
などの答えは、生命誕生と進化という事実の中にあるということで、私もそう思う。
これらの答えは生命誕生と進化の根底にある志向性の中にあると思う。
すなわち、
なぜ、そしてどのように、生命が始まったのか。
なぜ、生命は進化し、多様化し続けるのか。
これらの問いの中に、人間存在の意味が隠されていると思う。

二つ目の指摘、すなわち‘心の社会的性格を再発見’には、二つの意味が含まれている。一つは、心には社会的性格があること、そして今一つは、それを再び発見する、すなわち、もともとは知っていたが忘れられていたものを再び見つけ出す、ということである。
人間の心には社会的性格があるが、そのことを人々は忘れてしまっているという、欧米文化の反省でもある。‘I’で区切り、‘you’と決めつける、このことの結果ではあるが、この因果関係にはサールも気づいていない。
さらに、西欧思想の反省すべきは、‘個’の絶対主義、すなわち行き過ぎた個人主義である。そして、結果としての行き過ぎた平等、自由思想である。
進化論を素直に受け入れることによって、少なくとも哲学は、‘個’がDNAの流れの一滴に過ぎないことに気付くべきである。そこから、新しい哲学を始めるべきである。
進化を考えれば、意識現象も脳神経ネットワークの活性化の変化に伴う主観的現象に過ぎないことがわかる。脳神経細胞という物理的実在がなくては意識現象は起こりえない。
旧脳の上に新しい脳が加わることによって、自分である新脳が同じく自分である旧脳を監視することが出来るようになって、すなわち自分を自分が見ること、自分を客観視することが出来るようになって、自分という意識が生まれた。そして、それが自我にまで肥大してしまった。
そもそもは、旧脳が主体である。
新脳はその監視装置に過ぎない。
その監視装置が主体であるがごとき錯覚をしたのが、知至上主義、人間中心主義の西欧文化である。
この知至上主義の西欧文化が近代科学をもたらした。そして、その行き過ぎ故に、個人主義が浸透し、そして、さらにその副作用としての一神教をもたらし、これがますます‘個’の分離を強化した。
個人絶対主義が、自由と平等を強力に主張した。
生物としても、人間の‘個’に平等はありえない。そもそも男と女は違う。生物としての役割も違う。
社会的にも、全ての人間が平等ではあり得ない。
ただ、格差があり過ぎては社会的に不安定になる。
不平等が絶対的な悪なのではなく、格差が問題なのである。差があり過ぎることだけが問題なのである。程度の問題である。
絶対的な平等を言い募る教条主義的な個人主義が、むしろ問題である。
男女平等などは理論的にも不可能である。過度の女権擁護主張は欧米社会の女性蔑視の裏返しである。
もともと女性を大事にする日本社会に於いての女権主張は、女性の女性らしさの否定にもなりかねない。
世界と比較しても女性の恵まれている日本社会に於いての少子化は、ここにも原因があるのかもしれない。少子化はその社会が衰退に向かっている明白な証査である。
画一的な男女平等は生物的な男らしさ、女らしさも否定してしまう。生物的な男らしさ、女らしさを失った男女は子供を生まないし、子供を育てない。これは生物としての人間の退化であり、自己否定である。
薄っぺらな欧米文化の表面的な模倣が日本人を薄っぺらにしている。これらの薄っぺらな日本人が声高にしゃしゃり出て日本社会を危うくしている。
イズムに踊らされ易い純粋な若者を扇動する薄っぺらな人々。進歩的文化人と称するこれらの薄っぺらな人々が日本社会を衰退へと導いているのである。
欧米文明に目のくらんだ日本人は日本人のものの考え方、すなわち日本人の哲学を見失ってしまった。
そもそも、西洋哲学は知に囚われ、個に拘り、生物としての人間の進むべき道を踏み外しかけている。

今、人間としての哲学を再構築しなければならない。
新しい哲学は、人間の哲学でなければならない。
人間とは何か、しっかりと踏まえた哲学でなければならない。
なぜ、人間はこの世に現れたのか。
この世とは何か。
人間は生物である。原始的な生物が進化して人間になった。
生物とは何か。
なぜ、生物がこの世に現れたのか。
なぜ、生物は進化するのか。進化とはなにか。
これらの理解の上で哲学を考えねばならない。
45億6千7百年前にこの地球が出来て、
34億5千年前にこの地球上に生命が現れ、
単細胞生物が多細胞生物となり、微生物となり、植物が現れ、海洋生物が現れ、爬虫類が現れ、哺乳動物が現れ、猿が現れ、類人猿が現れ、原人が現れ、ついにホモサピエンスが現れた。
すべて単細胞からの進化の結果である。
これらの事実の上に哲学を考えなければならない。

従来の哲学の過ちは、知のみを人間の本質と考えたこと、そして、人間を‘個’としてのみ考えたことである。
人間が生き物であることに目をつぶり、進化の事実を無視し、人間を切り離された‘個’としてのみ考えたことである。
まず、生物としての人間は、親がいなければ存在しえない。子がいなければ人間として続かない。
また、男と女がいなければ子供は出来ない。一人では子供は作れない。
男と女は本質的に違う。子供を自分で産める女と自らは産めない男は本質的に違う。
生物学的に人間を‘個’としてのみ考えるのは間違いである。
また、人間は知のベースに情を持っている。
知のみの人間はいない。知のみの人間は人間ではない。
知のみで考え、知のみを考える哲学は偏っている。
情を含めた知を考えなければならない。
哲学も、感じ、考え、腑に落ちるものでなければならない。

科学は、今新たに複雑系の科学という新しい考え方の方向性を得た。
複雑系の科学の自己組織化、および創発という考え方が、生命の誕生、進化の謎を解く糸口を与えてくれそうだ。
いろいろな分子を集めてある濃度になると、分子同士が繋がり始めるという現象が見られる。そして、条件が整えれば、繋がった分子同士がさらに繋がりより大きな分子の繋がりを作る。また、繋がった分子がその分子の一部を入れ替えるような現象も見られるようである。すべて、自動的に、である。
これが自己組織化であり、創発である。
生命の誕生が、当然の自然現象である可能性がある。
進化も、当然の自然現象である可能性が高い。
神の力を借りなくとも、生物が誕生し、人間にまで進化したということになる。
そして、人間の誕生も、たまたまであり、結果としての必然にすぎない。

これらの知見の上に新しい哲学を作らねばならない。
科学に神を持ちこんではいけない。
この世は、宇宙は、137億年前にビッグバンによって出来たという。
このビッグバンの前は‘無’しかなかったと言われている。
しかし、‘無’があったとは、どういうことか。よく分らない。
この宇宙は今も膨張し続けているという。
しかし、この宇宙の果ての外がどうなっているのかも分からない。
この宇宙は物質とエネルギーから成っている。
地球は45億6千7百年前に生まれた。
物質は、分子から、分子は原子から、原子は素粒子から、素粒子は一種のエネルギーからなっていると思われるが、その先は分からない。
生物は34億5千年前に分子の繋がりとして現れた。自然に、である。自然現象である。
その分子の繋がりが細胞膜を得て、単細胞となり、多細胞となり、自己代謝を始め、自己増殖を始め、核を持ってより複雑な生物へと進化していった。
この進化の結果、現生人類・ホモサピエンスが生まれ、そのホモ・サピエンスは感覚、感情に加え、知性を持つにいたった。
これら全ては、自然現象の結果である。
この地球上に生物誕生以来、いろいろな生物、種が現れた。しかし、その99.9%は絶滅してしまったという。一つの生物の種が現れるのもたまたまなら、それが生き残るのもたまたまなのかもしれない。
進化は偶然が自然淘汰によって選択され、結果、必然になったものである。
人類が今あるのも、たまたまの結果なのだろう。

だから、今あるものは、素直にあると、あるがままにあると認めよう。
今分からないものは分からないと認めよう。
神などを持ってきて、知的なつじつま合わせをしようなどとは考えずに、そのまま分からないと認めよう。
人間を特別なものとは考えずに、生物の一種に過ぎないことを認めよう。
だから、人間も自然の一部であることを認めよう。
生物の種をDNAの流れと捉え、人類もDNAの流れと捉えよう。
人間の‘個’は親から子孫へとDNAを伝える一過程であることを認めよう。
‘個’は人類という流れの一滴に過ぎないことを認めよう。
また、人間の意識は、脳の中の神経ネットワークの活性化に伴なって起こる主観的現象に過ぎないことを認めよう。
したがって、自意識も意識現象の副産物に過ぎないことを認めよう。
自分という意識は幻想に過ぎない。一時の幻想にしか過ぎない。
幻想ゆえに物質的主体が消えると消滅する。
生物学的には、この幻想は自己満足のための自己欺瞞だろう。
ただ、有用な自己欺瞞ではある。
従来の哲学は、幻想による自己欺瞞の自己満足に過ぎない。

新しい哲学は、これらの最新の科学に基づく素直な理解の上から出発しなければならない。

日本的ものの考え方は、個を切り離すことを嫌った。
日本的ものの考え方は、自分も自然の中にあると考えてきた。
日本的ものの考え方は、知による考えよりも心からの思うに信を置いてきた。
これらの日本的ものの考え方は、新しい哲学の方向性とマッチしていると思う。
われわれ日本人の根底には、まだ、この日本的ものの考え方は、根強く生きていると思う。
今こそ、日本人が新しい哲学を作りだし、世界に提示すべきだと思う。
それが人類のためであり、人類が生き残るためである。
声高に言い募るのは日本的ではない。
しかし、人類のために、日本流を、あえて欧米的に、喧伝せざるをえないと思う。

西洋かぶれに、平等だ自由だと騒ぐのは止めよう。
人には適不適がある。得手不得手もある。違いを認めよう。
男女平等を声高に言うのも止めよう。
男と女は根本的に違う。
違うものを一律の扱おうというのは不自然であり、互いに無理がある。
自然に帰ろう。
あるがまま、自然であることを再評価しよう。
長生きがすべてではない。
一日でも長く生きることが幸せとはかぎらない。
無理な延命は不幸である。
不自然な延命は不幸である。
自然であることをもっと大切にしよう。
自然に逆らい続ければ、いつか自然の仕返しを受けるかもしれない。
人類とて、絶滅するかもしれない。99.9%の種と同じように。
しかし、今のわれわれは、そうならないように最善を尽くさねばならない。
地球温暖化にもその兆しがある。
原発技術を高める必要がある。核のコントロール技術を高める必要がある。
原発廃止は敗北主義である。
核兵器が現に存在し、今なおその開発が進められている現状において、原発の、それも一国のみの廃絶は、単なる自己満足に過ぎない。すなわち、自滅への道かもしれない。
人口増も将来の脅威である。
民族の大移動が起こるかもしれない。それが自然かもしれない。
現在の移民問題もその走りかもしれない。
富の格差はやむを得ない。しかし、富の一局集中が問題である。
資本主義が行き過ぎているのかもしれない。
資本主義と個人の自由の組合せに限度があるのかもしれない。
金融先物市場の暴走も問題である。
人知がコンピューターを制御し切れていない。
個人の欲望にも限度というものがある。やはり、個人の自由の行き過ぎである。
個人の自由絶対主義は、そろそろ限界である。
神をもってしても制御できない自由主義は、哲学が制御しなければならない。
新しい哲学は、個のあり方、自由の限度、についても述べるべきである。
新しい哲学は、幸せ、についても指針を示すべきである。
新しい哲学は、富について、財貨についての考え方を示すべきである。

新しい哲学は、これらの全人類のかかえる問題を考えるための基本的な考え方を提示できるものであって欲しい。
      (平成28年4月15日)

   コトバの起源についての試論               (コトバ、言語、文化、 そして新しい哲学へ)  

言語が出来る前にコトバが出来た。
統語法、すなわち文法の出来る前にコトバが出来た。
当然である。
言語の起源の前にコトバの起源がある。
言語の起源はコトバの起源でもある。
では、コトバはどの様に出来たか。
二つの出来方があったと思う。

私は意識が顕在化したのは言語によってだと思っている。
言語の出来る以前の意識は当然表現することは出来なかった。
意識そのものを複雑に操作、演算することは出来なかった。
表情、ジェスチャーで表現出来るのは、せいぜい気持である。
意識の前段階、すなわち前意識、precosciousの段階である。
言語を獲得したことによって初めて前意識が顕在化出来、顕在意識(conscious)、すなわち意識が出来たということを明らかにしたいと思った。
そこで意識に関する手元にある本を読み直してみた。
「フューチャー・オブ・マインド」、「意識はいつ生まれるのか」、「意識は傍観者である」、「隠れた脳」
しかし、意識と言語との関係には迫れてはいなかった。
そこで、言語の無い世界にいる人間がどのように考えるかを知るため、「ヘレン・ケラー自伝」を取り寄せ読んでみた。
同時に、以前、読んだことのあるマリーナ・チャップマンの「名前」を読み直してみた。

ヘレン・ケラーは1歳7カ月のとき熱病により突然目が見えなくなり、耳も聞こえなくなった。その彼女が7歳のときサリバン先生に出会い、先生が掌に書いた‘w・a・t・e・r’という文字によってものには名前があることに気付き、それが切っ掛けで言葉を覚え、ハーバートを出るまでになった。
突然、無音の暗闇に陥れられた彼女がいら立ちの中で‘light! Give me light!’と乞い求めたことが‘the desire to express myself’、そしてそれを実現するために求めたものが‘some means of communication’であった。もちろん、この時彼女はコトバを知らないのであるから‘light! Give me light!’は‘wordless cry’である。
なお、その時の彼女は‘a wordless sensation’を‘a thought’とも言っている。コトバのない感情を‘考え’と言っているのだ。
そして、それを現実化する突破口が‘everything had a name.’の気付きであり、いろいろの‘name’を覚えていくにつれ、‘each name gave birth to a new thought.’に繋がっていったのである。
ものごとを概念化することを理解したのである。知への大きな飛躍である。
彼女の場合、ものには名前があることが分かったことが論理思考へと繋がったのである。
そして、論理思考、すなわち論理展開は、コトバから言語への進化であり、知としての意識の始まりでもある。
ヘレン・ケラーの場合、最初のコトバは、‘w・a・t・e・r’、という‘a name’、すなわち名詞である。そして、これが彼女にとっての概念化の第一歩であった。

マリーナ・チャップマンは、5歳の頃人攫いに攫われ一人密林に取り残され、10歳の頃人間社会に復帰した女性であるが、その間ナキガオオマキザルの群れと行動を共にし、仲間のサルたちと会話を楽しむまでになったという。人間のコトバはすべて忘れてしまい自分の名前すら思い出せなくなってしまったという。
彼女によると、サルたちは非常におしゃべりで、おしゃべりを楽しんでいるという。そして、彼らの間ではサル語も存在するのだという。
ナキガオオマキザルが言語を持っていたのである。
彼女が悪い食べ物を食べて苦しんでいた時、仲間の年老いた一匹のサルが、彼女を滝壺の処へ連れて行き、無理やり泥水を飲ませて、胃の中のものを吐き出させて、命を救ってくれたという。しかし、この間この老サルはコトバを発してはいない。すべて行動である。
この老サルには知識もある、意図もある。他人の苦しみの分かる‘心の理論’もあるのかもしれない。少なくとも意識はあるのである。しかし、ものごとを指し示すことは出来なかった。コトバはなかったのである。
彼女の言うサル語は、ものごとを指し示すことは出来ないが、気持を表現できるコトバなのだろう。
言語の前段階、コトバの始まりの一つではないだろうか。
人間のコトバにもクーイングがある。母子の間で交わされる。甘えたり、じゃれあったりした時に自然に出てくる。
恋人同士の間にもあるだろう。
日本人の日常会話には、ときに意味不明の単音、あるいは単語が出てくる。しかし、意図は通じている。意味ではなく、音のニュアンスで気持が通じるのである。
‘あ’、‘あぁ’、‘う’、‘ね’、‘な’、‘じゃあ’、‘まぁ’。
阿吽の呼吸、すなわち‘ア’と言えば‘ウン’と受ける、これもこの一種だろう。

日本語の‘悲しい’は、英語では何と言うか。
‘I am sad.’だろう。
‘さびしい’なら、何と言うか。
‘I am lonely.’、あるいは‘I feel lonesome.’だろう。
では、英語にはどうして‘am’や‘feel’が要るのか。
文法の違いと言ってしまえばそれまでだが、ではなぜ、文法が違うのか。
日本語と英語ではものの考え方が違うのである。
日本語の‘悲しい’と英語の‘sad’は違う。
日本語の‘悲しい’は自分自身が直接悲しいと言っているのである。主観の表明である。
英語の‘I am sad.’は自分が悲しい状態にあると言っているのである。客観的な説明である。
日本語の‘さびしい’も、自分自身がさびしいとの主観の吐露なのである。さびしい状態にあるとか、さびしさを感じているというような間接的な客観的な表現ではない。
もちろん、日本語でも‘私は悲しい’とすれば、‘は’が必要になる。しかし、日本語では‘私は悲しい’などとは言わない。文学などのフィクション以外では言わない。
日本語では、‘悲しいなぁ’とか‘さびしいね’などとしか言わない。
そもそも、日本語には‘I’はいらない。自分が言っているのだから‘I’も‘We’も、さらに、あなたに向かって言っているのだから‘you’もいらないのである。
日本語の‘悲しい’、‘さびしい’は感情の直接表明なのである。
英語には感情の直接表明などはない。自分のことでも客観的に説明するのである。
英語では言葉が自分の外にある。しかし、日本語では言葉が自分の中にあるのである。
感情の直接表明には論理はいらない。名詞もいらない。
間接的説明には、名詞もいるし、論理も必要である。

日本語は感情の表明から生まれた言語で、サル語の流れを汲むものなのかもしれない。
英語は名詞を必要とする論理的な言語で、ヘレン・ケラー的な言語なのだろう。
もちろん、英語にも直接感情を表現するコトバはある。‘ouch!’などそうだろう。しかし、その数は少ない。そして、それらも‘Damn it!’、‘Hell!’のように理屈っぽい。そして、これらも直接表現ではない。
日本語も今ではものごとを客観的に説明できるようになった。漢字が入り抽象的な概念を表現できるようになり、近代西洋文明に流入により、論理思考も出来るようになった。しかし、日本語の本質は今でも主観の、そして感情の直接的表明である。
オノマトペが日常多用されるのも、ものごとを自分が感じたまま表現しようとするからだろう。

日本語の‘なんとなくそう思う’を英語で表現するのはむつかしい。
直訳すると‘I think so without any reason.’だろう。しかし、こんなことを英語人は言わない。論理矛盾だからである。
そもそも日本語の‘思う’は英語の‘think’ではない。
英語の‘think’と‘feel’に対して、日本語には‘考える’、‘思う’、‘気がする’、‘感じる’がある。
人間の脳は、発生順に脳幹、大脳辺縁系、新皮質の3層からなるという言い方がある。そして、それらが大まかに言って、感覚、感情、知性に対応するとも考えられる。
英語の‘think’は知性、‘feel’は感情と感覚の両方に関わるのだろう。
日本語では‘考える’は知性、そして、‘思う’は知性と感情の両方に使われるのである。
ちなみに、‘気がする’は感情と感覚、‘感じる’は感覚に主に使われる。
英語では知性以外での思考はありえない。一方、感情を出発点とする日本語では知性以前の思考もあるのである。むしろ、頭で考えることよりも腹で考え胸で考えることに信を置くのである。先にふれたヘレン・ケラーの‘wordless sensation’は日本語なら‘thought’ではなく‘思い’と表現できる。

英語はものの名前、すなわち物事を概念化することから始まった論理的な言葉である。大脳新皮質、知の言語である。
日本語はクーイングから始まった感情を表現するための言葉、旧脳、情の言語である。
英語人は論理、知に絶対の信頼を置くが、日本人は知を表面のこととして情に本質を求める傾向がある。

ところで、進化上すでに脳があるにも拘らずその上に新しい脳がなぜ生まれたのか。
大脳辺縁系、脳幹、すなわち旧脳、古脳で内部情報、外部の情報を得て生物は生きていける。ただ、よりうまく生きていくために過去の情報を蓄積し将来の計画を立てるべく新しい脳が加わってきたのである。旧脳に代わって出来てきたのではない。旧脳に協力する形で出来てきたのである。したがって、生物としては旧脳が主なのである。しかるに、新しい脳が意識を生み出し知を生み出し知の言語を得たことにより、新しい脳が全てのように見えてきたのである。まして新しい脳が生み出した知で自らを考えたとき知が全てのように見えてしまったのである。これが現在の英語人の考え方の基本である。
日本語人は情の言語を得て、情の言語を守り続けてきた。文明化により知も得たが、情が基本であることを今も感じている。
日本語人が情の言語を守り通せたのには日本語の特殊な構造がある。
日本語が母音を中心に出来ているのである。日本語の言葉は拍からなるが、拍は母音がベースでその修飾として子音が付く形となっている。したがって、日本語は母音のみを発音しても意味が通ずるともいわれるし、母音をはっきりと発音することによってより明瞭な日本語となる。
このこともあって、日本語には今も語感が生きていて、日本語では言葉の意味に加えて語感によって情のニュアンスを伝え合えるのである。

日本語の‘好きだよ’を英語で何と言うか。‘I love you.’。
‘好きになっちゃった’を何と言うか。‘I fall in love.’。
何かおかしい。
‘好き’は‘love’ではない。‘I love you.’は‘愛している’である。
‘好き’と‘愛している’は違う。
‘愛している’は能動的な行為、知の行為である。
‘好き’はやや受動的な状態、好きになっちゃったのである。感情のなせるわざである。
この‘好き’も‘悲しい’や‘さびしい’、‘うれしい’、‘楽しい’、‘ひもじい’と同じように感情を直接表すコトバなのである。
英語にはこのようなコトバはない。‘ouch!’がそうかもしれないが、‘ouch’から派生した言葉は見当たらない。(‘ache’は関係があるかもしれない)

日本語で‘寒い’、‘暑い’と言う。英語では‘It is cold.’、‘It is hot.’と言うのだろう。
しかし、寒いのは自分である。‘it’とは他人ごとではないか。これが日本語人的感じ方である(論理的に考えるのではなく、直感的にそう感じるということ)。
あくまで主観的、感覚的なのである。
もちろん、暑い寒いは物理的な環境の問題である。しかし、‘あまり寒くはなかったけど、だんだん寒くなってきた。’と言った場合、その場所の温度は同じでも時間と共に寒く感じることもあるのである。このように、暑い寒いは自分にとってどうかという極めて主観的なことでもあるのである。
‘feel’では間接的である。熱いものを食べて暑くなってきたときは英語ではどう言うのだろう。やはり‘外部世界を‘hot’と‘feel’する‘と表現するのだろうか。暑くなったのは自分である。自分の内である。

日本語は感情の直接表現だから‘I’もいらない、‘you’もいらない。私があなたに向かってしゃべっているのだから、当然いらない。
英語は客観的な説明だから、いちいち‘I’や‘you’がいる。

現在の英語、日本語を見ると、英語は知をベースにし、日本語は情をベースにする言語に見えるが、歴史的にはどうだろう。
いろいろな言語がそれぞれいろいろな起源を持ちながら生まれてきたのではないだろうか。
しかもいろいろな言語がまじりあい、分岐して今の言語の形になったのであろう。
日本語にも起源的にはものの名前として生まれたものも当然ある。そして理屈で作られ論理展開的に派生していった言葉も多くある。ただ、結果として、全体として情を表現しやすい言語となったのである。
英語にも語感から出来たと思われる単語はたくさんある。しかし、今の英語人がそれらを感じ分けながら使っているとは思えない。

サピア・ウォーフの仮説に「言語は文化を規制する」とある。欧米では未だに認められていないようであるが、それは欧米の知識人が本当の日本語を知らないからである。
ガイ・ドイッチャーの「言語が違えば、世界が違って見えるわけ」が欧米でヒットしたようだが、英語人と日本語人のものの考え方の違いは、こんな程度の表層的なものではない。色の見え方の表現の違いなどは表層的なものである。
欧米人と日本人のものの考え方は基本的なところで違う。
英語と日本語も本質的なところで違う。
言語が違うからものの考え方が違うのか、人々のものの考え方が違うから言語が違うのか。
私は、人々のものの考え方が言語を作り、その言語が次世代へとものの考え方を伝えていく、と考えている。また、異なったものの考え方は言葉と共に外部からも入ってきて、ものの考え方、言語に変化をあたえる。言語が混じり合えば言語も混じり合う。ただ、言語が本質的に変わらなければものの考え方も本質的には変わらない。
文化が言語を作り、言語が文化を伝える。
サピア・ウォーフの仮説が間違っているわけではない。不十分なのである。
英語と日本語は本質的に違う。
欧米文化と日本文化も本質的なところで違う。
欧米文化と日本文化の本質的な違いは、人々の自然に対する態度だろう。
欧米文化は自然と対決し、自然を征服しようとする。
日本文化は自然と融合し、自然と一体化しようとする。
まさに、真逆の考え方である。

なぜそうなったか。
自然環境、風土の違いだろう。
荒涼たる大平原、水や食べ物を求めてせめぎ合う人々。
四面を海に囲まれた緑豊かな島国、四季の変化が激しく、時に地震、津波と厳しいながら豊かな島々。
狩猟、牧畜を中心とした肉食の人々。
漁労、採取を中心とした魚食、菜食の人々。
攻め、攻められ、虐げ、虐げられ、常に民族間の緊張の中にあった人々。
荒れる海に守られ、異民族の一挙の襲来もなく、渡来の人々を徐々に吸収し同化していけた風土。
これらの違いによって、それぞれの土地の人々の気質、ものの考え方が作られていったのだろう。

その結果、欧米文化はスルを中心とした文化になり、
日本文化はナルを中心とした文化となった。
欧米文化では、神が人を作った。
日本文化では、神も人も生った。
スルとナルの違いである。
‘love’と‘好きになる’の違いでもある。
知と情の違いである。
‘think’と‘思う’の違いでもある。
欧米では公園を左右対称・幾何学的に造る。自然ではない。人工的である。
日本では自然を生かし、あるいは自然を模して造る。
英語は子音が中心、日本語は母音が中心。
子音は口腔に障害を作って無理に出す人工的な音。
母音は口腔を共鳴させて出す自然な音。
子音は連続して出すことの出来ないデジタルな音。
母音は連続して出せるし、他の母音へも連続して変化させることのできるアナログな音。
したがって、子音はキレがあって、ものごとを区別しての表現がしやすく、母音はあいまいな気持を表現しやすい。
子音は知の表現に適し、母音は情の表現に適しているともいえる。
英語は知を追求するのに適した形に進化してきた。
日本語は情を表現する形を温存している。

知は旧脳をスパーヴァイズするために追加された新皮質によって生まれた。
旧脳を見る新皮質。己を己が見る。
新しい脳・新皮質が己を客観視することを可能にした。
そして、ヒトは己を個として発見した。
むしろ、孤立した個というものを発明した。
そして、作り上げた概念が‘I’であり、‘you’である。
欧米文明は個を絶対のものとして崇め始めた。
今や、欧米では個人主義は絶対のものである。
しかし、情は人と人との繋がりを求める。
ヘレン・ケラーも密林に一人残されたマリーンも、人との繋がりを渇望した。衣食住で満たされていても、人との気持の繋がりがなければヒトは生きていけない。
マリーンはサルたちとの気持の交流によって何とか耐えた。しかし、人恋しさに耐えかねて、危険を冒して異なる人たちに身を委ねたのである。
シャンカール・ヴェダンタムの「隠れた脳」には、理性では考えられない行動をした人々のケースがいろいろと紹介されている。9・11事件の際、サウス・タワーの88階にいた大半の人々が退避して助かり、89階にいた同じ会社の大半の人々が時間があったにも拘らずそこにそのまま留まり続け亡くなったケース。教養もあり理性もある若者が自ら過激派グループに加わり自爆テロに身を投ずるケースなどが紹介されているが、いずれのケースでも、理性ではない隠れた脳が、89階の人々をそこに留まり続けさせ、ジハードと称するものに自ら志願して身を投じさせたのだと言う。この隠れた脳の根底には、一種の仲間意識があるのだと言う。その場の人とは違う行動はとりたくないという心理が強く働くのだと言う。これはもう一種の本能に近い。
教養もあり理性もある若者が過激派グループに入るのは自分の居場所を求めてだとも言う。
かくもヒトには人と繋がっていたいという衝動があるのである。
知によって、個としてヒトをばらばらに分断した報いかもしれない。

そもそも一神教も、知によってバラバラにされた個の唯一の救いの場として、知によって考えだされたものだろう。
しかしながら、一神教は個への分断を決定的にしてしまった。ヒトは個としてしか神と結びつけないのである。一神教の強力な軛である。
そういう意味では、一神教は知の産物であり申し子である。さらに言えば、知の篤な副作用なのかもしれない。
日本語は情を残した。
日本語はヒトを個に分断することを忌避した。
日本語には‘I’、‘you’に当たる概念も、言葉もない。
日本にも中世以降、西欧から多くの宣教師たちが布教にやって来た。しかし、未だに一神教を信じる人は人口の3%にも満たないという。

欧米人は自然とも対決しようとする。自然を変えようとする。
日本人は自然と一体になろうとする。日本人は自然の中でやすらぎを感じる。
英語の‘refine’を日本語に訳すると‘洗練’である。日本語の‘洗練’を英訳すると‘refine’である。
しかし、‘refine’と‘洗練’は違う。本質が違う。
論理を指向する知は‘refine’を至高とする。すなわち、純粋化することを。
調和を指向する情は‘洗練’をよしとする。すなわち、練り合わせることを。
‘refine’は、ヒトか自然か、選択を迫る。
‘洗練’は、ヒトと自然の融合を図る。
‘refine’は宗教も一神教に収斂させる。
‘洗練’は神仏をも習合させる。さらに、‘山川草木悉皆成仏’、すなわち全てに神は宿るとまでする。
一神教は知の宗教、理屈の宗教である。
多神教を宗教と言えるかどうか。‘religion’という言葉の定義の問題である。
多神教は情の宗教、心の宗教である。
日本人の多神教はプリミティッブなアミニズムではない。
神道をベースに道教も仏教も儒教も、さらにキリスト教も、さらに近代科学を知っての上での多神教である。ハイブリッドである。汎神教と言ってもいいのかもしれない。
日本人の多くは進化論に疑いをもたない。当然のことと思っている。

そもそも、個という考え方は不自然である。知の理屈ゆえに陥った妄想だろう。
人は母がいて父がいて人になった、そして、子を残し孫を残してこの世を去る。
人が死ねば個も無くなる。個は一時のことである。しかし、ヒトは残る。
DNAは残る。子供、孫へと引き継がれて残る。
しかし、自分のDNAと子供や孫のDNAは同じではない。それぞれ一部は同じである。
自分のDNAは消え去る。ヒトのDNAの一部に痕跡を残して。
自分とはその程度のものである。個とはその程度のものである。
それが自然である。しかし、知はそれを認めたくない。
情の日本人は分かっている。まあそんなものだろうと思っている。
だから、大半の日本人は邪教にまで縋りつかない。
ただ、昨今の日本人は個人主義に毒され、知に溺れ、己を見失っている人も多い。
昔の日本人は潔かった。
どちらが幸せか。
幸せかどうかは知の問題ではない。情の問題である。
昨今の知識人は知のみで幸せを追おうとする。むなしいことである。

最近の大脳生理学の成果として面白い記事が載っていた。
事故、病変などにより左脳の機能が失われると人は多幸感に包まれるのだという。
臨死体験者の報告でも死の間際には多幸感を感じるとも言う。
ロボトミー手術などで左脳と右脳を切り離すと左脳右脳双方に別々の意識が宿るのだという。二重人格である。
通常は脳梁によって繋がっているので、一つの意識に統一されている。
私は、言語、論理、すなわち知を司る左脳に対し、芸術・音楽脳と言われる右脳は情、すなわち旧脳の入り口になっているのではないかと思っている。
そして、本来旧脳は多幸感に包まれているのではないかとも思う。
生きることそのことが幸せなのである。
だから、生物は生きているのである。生きようとするのである。
生きることそのことが幸せなのである。今が幸せなのである。
新しい脳、新皮質が旧脳の多幸感を抑えているのではないか。
あるいは、新皮質は多幸感を感じられないのではないか。
少なくとも、ヒトは知を得ることの代償として多幸感を失ったのではないのか。
幸せは知のマターではない。
幸せを感じ得る情を回復しなければならない。
知で求める幸せは、我欲に陥ってしまう。
一神教に救いを求めても、ますます個に分断されるだけである。

情を回復するしかない。自然に帰るしかない。
知を否定するのではない。
知と情のバランスを取り戻すのである。
行き過ぎた個人主義はもうやめよう。
‘refine’はやめて、‘調和’を目指そう。

行き過ぎた個人主義は少子化を招く。そして、少子化はその民の滅亡を招く。
近代科学は知の著しい成果である。
しかし、この近代科学では少子化は防げない。民の心は救えない。
近代科学の最新成果である延命治療は愚行である。個の我欲の極みである。幸せとは関係がない。
近代文明は知だけでものごとを考えようとする。
幸せすらも知だけで考えようとする。
幸せは知のマターではない。
今、新しい哲学が求められる。
個をベースとする哲学ではなく、ヒトをベースとする哲学である。
もちろん、全体主義でもなく、共産主義でもなく、社会主義でもない。
個人主義を抑えたマイルドな民主主義かもしれない。
資本主義も危うい。個人の我欲をあおり過ぎる。
金融取引は世界経済の発展に役立っているのか。
コンピューターを使っての金融取引など邪道である。
ものごとには程というものがある。
我欲を野放しにするのは自滅への道ではないのか。
コンピューターが、近代科学が、人類を滅ぼすかもしれない。
コンピューターが反乱をおこすからではない。
人類がコンピューターを使って、近代科学の成果を使って、人類を滅ぼすかもしれない。
一種の知の暴走である。情を否定する知の暴走である。
新しい哲学が求められる。

今、科学は新しい段階に入ろうとしている。
従来のリニアーな論理の科学から複雑系の科学の時代に入ろうとしている。
不確実性をも前提とした複雑系の科学は日本人には馴染みやすい。
むしろ日本人的考え方が先行しているのかもしれない。
近代科学の考え方は○か×の二者択一、すなわちデジタル思考である。
日本人は○と×の間も考える。可能性として考える。アナログである。
確率論的可能性の思考は複雑系の科学の考え方でもある。
また、複雑系の科学はものごとを全体として見る科学である。
従来の科学は、ものごとを分解、分析して見る科学であった。
部分の集合が全体ではない。
全体として新しいものが創発する。
意識の発生もその一つかもしれない。
コネクトーム、膨大な量のニューロンの膨大な数のシナプス接続によって出来た超複雑な回路ネットの活性化によって、意識現象が創発する。意識が生まれる。

従来、日本人は知の細部に余りこだわらないできた。
むしろ、全体的なカンを大切にして来た。
カンとは潜在意識層における総合判断である。
潜在意識は旧脳とも繋がっている。
日本人は旧脳も重要視してきた。
新しい脳と旧脳のバランス、知と情のバランスを大切にして来た。
純粋に‘refine’するのではなく、異物も練り合わせる・洗練のものの考え方である。
やっと科学が日本人に追いついてきた。
新しい哲学を作ろう。
人類のために、われわれ日本人が新しい哲学を作り、世界に提案しよう。
人類を自滅から救うために。
      平成28年3月25日

   コトバ の 出来方    自己組織化  

「語感が人類誰でも同じであれば、そして、言葉が語感をベースに作られたのであれば、世界中の言葉が同じでなければおかしい。」というご意見をいただいた。

このご意見には二つの大きな間違いがある。

まず、一つはプリミティッブな勘違いで、それは、語感について、言葉の音一つ一つがそれぞれの意味を持っているとの誤解である。(結構この種の誤解は多い)
これではキレイとその反対のキタナイが共にキを中心に出来ており矛盾してしまう。
かつて、音義説はこのようないちゃもんを付けられ葬り去られた。
言葉の音一つ一つが意味を持っているのではなく、それぞれが色々なイメージを持っているのである。
K はキレイ、キタナイに関する意味を持っているのではなく、切れ、固さ、乾いた などのイメージを持っているのである。

今一つの間違いは言葉の出来方についてである。
私は、言葉は誰かが作ったとは考えていない。人々の間で自然に出来てきたものだと思っている。
また、言葉が語感だけから生まれてきたとも思わない。いろいろな要素が絡み合って生まれてきたと思っている。
しかし、初期の言葉は語感がベースになって出来たと思っている。ソクラテスのいう口による身振り説に賛成である。
そして、ソクラテスは声による肖像画のようなものともいっている。

私は似顔絵のようなものだと思っている。

似顔絵は描く人によって随分と違う。上手下手を別にしても一様ではない。同じものを見て描いても描く人によって人それぞれの絵となる。たとえ語感だけから言葉を作ったとしても同じ一つにはなりえない。

私は、言葉は人々の間から自然に生ったと考えている。

古代といえども人間社会という色々な要因を含んだ複雑系の中で 自己組織化的 に生まれてきたと思う。
最も基本的な音 a にしても、まず全ての存在として a を使うようになったとしても、それを 吾 に使うようになった人々もいれば、 I(ai) として使うようになった人々もいる。古代インドでは a― は息を表わすのだそうだし、サンスクリット語では、 a は宇宙の全てを生じる「種」を象徴するのだそうである。
複雑系の世界では、一卵性双生児のように全く同じ遺伝子をもって生まれても指紋が同じにはならないように、同じ語感をベースに生まれてきても同じ言葉になるとはかぎらない。
まして、音の組み立て方も違いうるので言葉の出来上がった姿は随分違ったものとなっても不思議ではない。

私は、言語の根底にあるといはれる生成文法も、この 自己組織化 の過程の法則の一つだと思う。

マルコフ連鎖のような一種の合理性のクセのようなものではないかと思っている。

それでは、複雑系の中で 自己組織化 されて生まれ育ってきた言葉が音と全く関係がないかというとそうではなく、音のもつイメージの一部を使いながら生まれてくるのである。
双子の指紋が全くの同じではないとしても、当然似ているのは遺伝子が同じだからである。
ちなみに、遺伝子には指紋の設計図が書いてあるのではなく、指紋の作り方が書いてあるのである。同じ書き方をしても、その時々の環境の微妙な差によって出来上がった指紋が同じではないからといって、遺伝子と指紋には恣意性 があるというのは明らかな誤りである。

   言語の生成 自己組織化  

言葉は、神が創ったものではない。
誰か特定の人が作ったものでもない。
人々の間で自然に生ったものである。
人間社会という複雑系の中で自己組織化的に生まれてきたものである。
一つの系で生まれ、系の分裂とともに、それぞれ独自に自己組織化されていった。
人間社会そのものの生成は、複雑で、成長しながら分裂を繰り返すが、その一部同士が統合することもある。
また、統合に際し優劣関係があったり、個別社会同士が干渉しあったりする。
したがって、言語の自己組織化も非常に複雑な過程を経る。
今、全世界に 6千余り の言語が存在するという。
それは、このような非常に複雑なそれぞれの自己組織化の結果であろう。
言語の自己組織化は一本道ではない。
一つの波を後の波が飲み込むように、現象としては、後ずさりすることもあったであろう。
今ある一つ一つの言語は、いろいろな自己組織化の波の複雑な干渉の結果である。

自己組織化においては、出発点が同じでも場が違えばその後の展開は大いに異なる。
例えば、同じ出自であっても、
砂漠で育てば砂漠の言語になる。
サバンナで育てばサバンナの言語になる。
まして、海で育てば随分違ったものになるだろう。
自己組織化のどこかの段階で、
吸着音を残すか、捨てるかの選択もあったろう。
子音に重点を置くか、母音に重点を置くかの選択もあったろう。
シラブル方式をとるか、拍方式をとるかの選択もあったろう。
人々の選択は場の選択である。
人々が選択するということは、場が選択するということである。

日本語の素が、いつ何処で、生まれたかは分からない。
東アフリカ かもしれない。
中央アジア に移ってからかもしれない。
複雑な干渉の中での自己組織化のどこかの過程で、拍方式を選択したときが、日本語への分岐の出発点であろう。
拍方式を選択したことで、母音を残すことが出来た。
そして、語感との繋がりを守ることが出来た。
ここから、言葉としての、そして更に文章の膠着性も生まれてきた。
結果、語呂合わせも、駄洒落も可能になった。

言語はそれぞれ独自のクセを持っている。
言語が自己組織化的に成長するように、クセも自己組織化的に形作られていく。
クセの自己組織化は言語という全体の自己組織化の中で行われる。
言語の自己組織化はいろいろな自己組織化の包括体としての自己組織化である。

拍も日本語のクセである。
拍方式も自己組織化の結果、今の形に収斂した。
まず、単母音が生まれ、ア から イ、そして、ウ と増えていき、やがて子音が生まれ、サ が生まれ・・・というような単純な経緯を辿ったわけではないだろう。
拍の前段階で母音、子音ごちゃ混ぜの段階もあったろう。
叫びに近い音のカタマリであったかもしれない。
シラブル的な段階を経たかもしれない。
しかし、結果的には、単母音から単拍への整合的な流れとして整理できる。
これは、クセの底に、本質的には自己組織化の底に、何らかの合理性が存在するからであろう。
いわゆる文法も各言語のクセである。
これらのクセ、文法の基底には合理性が存在する。
これがチョムスキーの生成文法だろう。
文法以前にも各言語に基本的なクセが存在する。
そして、そこにも合理性が存在する。
生成文法以前の生成文法的なものである。
それがどのようなものであるか、今後の研究課題ではあるが、語感が関わっていると思う。
言語の本質を解明するためには、語感の理解を欠くことはできない。

拍方式は非常に合理的なシステムである。
5×10 のマトリックス・50音表に整理できる合理性。
50音表をベースに 約111 の拍で言葉としてのすべての音を表現でき、すべての他言語の単語をそのまま日本語体系の中に取り込むことが出来るようになった。
漢語は、呉音・漢音として拍に聞きなして取り入れた。
欧米語もカタカナ語として取り入れつつある。
拍方式ゆえに、日本語の自由度は非常に高い。

拍一つ一つが独立していることから、組み立てて、新しい言葉を作ることが出来るようになった。
単拍でも、理論的には、100 の言葉を作ることが出来る。
二拍になると、100×108=約1万 の単語を作ることが出来る。
これを語基として、同じく一拍ないし二拍の語尾を付け、これを変化させると、
(10800+100)×(10800+10)=約1億
の動詞、形容詞などを作ることが出来る。
造語パーツとしての語尾も、語感をベースに合理的に作ることが出来る。
例えば、動きを表わす動詞は、すべて ウ段 で終わる。
名詞などで、切れを表現したいときは、 /リ/ で終わる。

言葉が組み立て式であることから、心に感じることを次々と口に出していける。
自然な物語性が生まれる。
拍を次々繋いでいける膠着性と物語性は、そのまま文章としての膠着性、物語性へと発展していく。
この自然な流れに従う日本語のクセは、やがて日本語を相対化させる。
日本語は、場の言語であり、相対言語である。
場の状況により、返事は ハイ にも イイエ にもなる。
「僕 は うどん。」などという表現もありうる。(I am UDONN.はありえない。)
その場における主題が前提になっているのである。
場の主題によって表現の変わる日本語は相対言語である。
そして、場の主題を前提とする相対言語は、会話のための言語としては、効率的で合理的である。
               (平成21年7月8日)

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