新しい言語学

オノマトペ

   日本語の特殊性を言ってはいけないのか  

サイト「日本語よもやま話」への投稿
塚田さんの素直な書き込みに対し、どなたの反応もなく、放置するのも失礼かと思い、お返事します。本来ならこの種のコメントはメールでするのが適当なのでしょうが、アドレスが分りませんのでこの場を借りてお返事します。
塚田さんがおっしゃる「「日本語が美しい」というのは構わないのですが、「だけ」は余計だろう・・」は全くその通りだと思います。ただ、問題なのは「日本語が美しい」と言っただけで、「だけ」と解釈する方が多いということです。また、「日本語は違う」と言っただけで過敏に反応するのも問題だと思います。
オノマトペだけではなく、いろいろの点で日本語は他の言語と違います。その違いを明らかにすることは、他ならぬわれわれ日本人の役割です。日本語のことが一番よく分るのは、われわれ日本人だからです。
塚田さんも‘サピア・ウォーフの仮説’はよくご存じだと思いますが、言語の違いが人々のものの考え方、すなわち文化の違いに結びついているのです。ただ、この‘サピア・ウォーフの仮説’は、欧米では相対主義として、今なお批判的に受け止められています。
数年前に出た「言語が違えば世界が違って見えるわけ(Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages)」が欧米でもそこそこ読まれて少し考え方も変わってきたかとも思いますが、この本自体、日本人のものの考え方の違い、その元にある日本語の違いにまでは考えが及んでいません。そもそも著者ガイ・ドイッチャー自身、日本語的もの考え方を知らないのですから、已むをえないことなのかもしれません。
38年前に「日本人の脳」を出された角田忠信先生が新しく「日本語人の脳」を出されました。日本語人だけが‘虫の声’を言葉として聞くという主張は変わっていません。ただそれだけのことか、とおっしゃる方もいますが、‘虫の声’を言葉として聞くか、言葉としては聞けないかは、大変な違いなのです。‘虫の声’はもちろん辞書的な意味を持ってはいません。辞書的な意味を持っていないものを言葉として聞くということは、言葉が辞書的な意味以外にも何らかの情報を持っていることを分っているということです。欧米人は言葉に意味しか認めません。辞書的な意味を持たない‘虫の声’は欧米人にとっては言葉ではあり得ません。雑音でしかないのです。
言葉が意味以外のものを持っていると思うかどうか、思えるかどうか、これは大変な違いです。
意味以外のものと何か。日本語の場合は気持です。質感的なものも伝わります。英語にも質感的なものから作られたと思われる単語がたくさんあることを元九州大学教授の西原忠毅先生が「音声と意味(SOUND AND SENSE)」で紹介しておられます。ただ、現代の欧米人が言葉の音の質感の違いを感じながら使い分けているかどうかは疑問です。
言葉を意味としてだけで使っているのと、意味に加えて気持の伝達にも使っているのとでは大違いです。欧米語は情報の伝達に特化した言語、日本語は情報と気持を伝えようとする二重構造の言語です。その分、日本語は曖昧だと言われます。もちろん、欧米人も感情を伝えようとします。しかし、欧米人はそれをジェスチャーやしゃべり方、語気、音量などで表現します。言葉の音の違いによっては表現しません。表現出来ないのです。それに適した言葉、フレーズが用意されていないのです。そのような文化がないのです。言葉の違いは文化の違いなのです。
塚田さん、慶応大学名誉教授で言語学の大御所鈴木孝夫先生の「日本の感性が世界を救う」や、モントリオール大学で長年日本語を教えてこられた金谷武洋先生の「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」、読まれましたか。読んで抵抗がありましたか。反発を感じましたか。金谷先生にいたっては「日本人は英語が苦手なのは、日本語が素晴らしすぎるから!」とまで言っておられる。いろいろ細部については私とは考え方が違いますが、基本的には両先生のご意見に賛成です。日本語は欧米語とは違うのです。本質的に違うのです。両先生はそれがなぜなのかはくわしくは触れておられません。私は‘虫の声’の問題と本質的なところでは繋がっていると思います。日本語が気持を伝える言語だからです。
塚田さん、日本語が欧米語とは違うことをもっと世界に発信した方がいいのではないでしょうか。そして、日本語的ものの考え方を世界に広める。そのためには、われわれ日本人自身が日本語の特徴、良さを知っていることが大切だと思いますが、如何でしょうか。
なお、ご紹介した先生方のご本については私のサイト‘語感言語学’(http://theory.gokanbunseki.com)でそれぞれ論じさせていただいています。
   (平成28年6月24日)

   感じる言葉 オノマトペ  

このサイトをときどき覗いている者ですが、そろそろこのサイトの趣旨にそった議論に戻してみませんか。
小野正弘教授がまた新しい本を出されました。「感じる言葉 オノマトペ」。なかなか面白い本ですよ。一つの同じオノマトペが歴史的にどのような意味合いで使われてきたか、意味の歴史的変遷を追うという非常にユニークで画期的な取り組みです。大変いい本だと思います。
ただ、ざっと読んだ限りでは、前回の「オノマトペがあるから日本語は楽しい」と比べると、感覚的な突っ込みが甘くなったような気がします。より学者的な取り組みというか、文献の逍遥に重点が置かれ、オノマトペの音の持つイメージに迫れていないと思います(それはそれで楽しめるのですが)。
例えば、今回のご本でも古事記の国造りのところに出てくるオノマトペ‘こをろこをろ’を取り上げ、その現代訳として新編日本古典文学全集の頭注から‘からから’を紹介されていますが、‘こをろこをろ’は‘コーロコーロ’で今でもそのまま通用します。‘からから’は前著で先生も「意外に、軽く、明るい音」と言っておられましたが、濃い塩水を掻き混ぜるには、力を入れて掻き混ぜる必要があります。力を入れて丁寧になら ‘コーロコーロ’がぴったりです。‘からから’では軽すぎて空回りです。このあたりの語感の感じ方は古代人も現代人も同じです。同じ音の発音体感は同じだからです。時代によって、あるいは年代によって変わるのは、好みなどの価値観です。体感は変わり様がありません。頭注がおかしいのです。小野先生も変に妥協せず、ご自身の感性を通すべきです。
ただ、私は、‘こをろこをろ’は擬音語としてではなく擬態語として使われていると思います。「こをろこをろと」ではなく「こをろこをろに」となっています。‘KOWORO’は音的には‘KOKORO’(心)と繋がっていると思います。‘KARA’とは感性的に遠いと思います。母音/O/と/A/では、イメージとして対極です。
その他気になる点もありますが、もう少しよく読んで次回以降にしますが、小野教授の門下生たちはどう思っているのでしょうか。うちうちで議論はなさっているのでしょうが、是非その一部でもご披露いただけないでしょうか。
  平成27年9月30日

   甲南女子大学文学部教授 リ・ウナさんへのメール  

 突然、失礼します。
 私は日本語の語感を研究している者ですが、以下の文章を明治大学教授小野正弘さんの主催するサイト「日本語よもやま話」に投稿しましたので、おことわり旁々ご報告します。
 なお、14年前のことなのでその後お気づきになったとは思いますが、カラカラ、キリキリ、クルクル、コロコロは、母音の伝えるイメージの違いによる回転の態様の違いを表しており、母音交替の典型例です。これらのことは、私のサイトで詳しく説明しています。よろしければ、是非ご覧ください。
  理論面   http://theory.gokanbunseki.com
  具体例   http://www.gokanbunseki.com

韓国語のオノマトペ、日本語のオノマトペ

前の前の投稿で塚田浩太郎さんが韓国語のオノマトペについて触れておられたので、ネットで韓国語のオノマトペを検索してみた。面白い論文が二つ見つかった。
日本語のオノマトペと韓国語のオノマトペを対照する研究で、共に韓国からの留学生が書いたものであった。
一つはイ・ウナさんが14年前に名古屋大学大学院に提出した博士論文「日本語と韓国語のオノマトペに関する対照研究」で、さすがにしっかり研究されており大変参考になった。この中でイ・ウナさんは日本語と韓国語のオノマトペの数についても触れておられ、色々の説を紹介しておられ詳細は省くが、結論的には大雑把に言って、韓国語のオノマトペは約8000、日本語のオノマトペは約1500ということになるようである。約5倍である。
イ・ウナさんは日韓両語のオノマトペが多いのは、母音や子音の交替による交替形が数多く存在するからで、韓国語の方が多いのは韓国語の方が子音および母音の数が多く、また、音節構造が異なり、音節のタイプもはるかに多様であるため、とした上で、面白い具体例を挙げておられる。韓国語の笑いに関するオノマトペが、3個の語基から母音交替、子音交替、反復、語末子音の交替などの過程を経て176通りもの交替形になり得ることを具体的に示しておられる。ただ、「おそらく特定の個人が使い分けているのは可能な形の10分の1以下ではないかと思われる」、「母語話者の筆者自身・・・これらの可能な交替形のほとんどは意味的に明確に区別できない」とも言っておられ、「異なる語基の数という観点からすれば日本語の場合とほとんど大差はない」と結論づけられている。その上で「笑いに関するオノマトペは、オノマトペの語彙量に関する日韓の差の本質を的確に示している例であると言えよう。」と総括しておられ、妥当な結論ではないかと思う。
ただ、この論文は343頁中156頁しかネット上には公開されていなかったので、確かなことは分らないが、韓国の人が語感をどのように感じ分けているのかがよくは分らなかった。母音に陽母音と陰母音の区別があって、
陽母音が、小・少・狭・薄・明・密・美・善・固・鋭・軽・急・浅・清・親・剛・近・強 を表し、
陰母音が、大・多・広・厚・暗・粗・醜・悪・軟・鈍・重・緩・深・濁・疎・柔・遠・弱 を表すのだという。二分割は乱暴すぎるように思うし、語感に善悪があるとするのは、どうだろうか。文化の違いではあるが、韓国語の語感が何に基づいているのかが尚更に理解しずらくなってしまった。
もう一つの論文は、広島大学の留学生チェ・エリカ・ユンジョンさんの「日韓両語の対照研究―両語のオノマトペの聴覚的印象の異同の検討―」である。この中でユンジョンさんは非常に面白い調査をしておられる。日韓両国で読まれているマンガ「クレヨンしんちゃん」の場面を使い、オノマトペを使っている部分を白紙にし、韓国人には日本語の、日本人には韓国語のオノマトペ、それぞれ4っつを聞かせ、その中どれが一番適当か答えさせるというものである。ユンジョンさんの調査では、正解率が70%位であったそうであるが、母語に類似表現がある場合はそれに影響されるようだとも書いておられる。
この調査研究の方法は非常に面白いと思う。もっと大々的にやってはどうかと思う。さらに、この調査を日韓以外の人々、例えばフランス人、中国人、アメリカ人などにやってはどうだろう。フランス人に、日本語のオノマトペ3っつと韓国語のオノマトペ3っつをごじゃ混ぜにして聞かせたらどうだろう。韓国語のオノマトペを選ぶか、日本語のオノマトペを選ぶか、何か傾向が出れば面白い。例えば、フランス人の感性は日本人の方に近いが、アメリカ人の感性は韓国人の方に近いと出るかもしれない。はたまた、選び方のパターン分析から中国人とアメリカ人が似ていると出るかもしれない。
誰かやってみてくれませんか。「白雪姫」にだって、日本人や韓国人はオノマトペを使えると思う。
(平成27年5月29日)

ご質問などがありましたら個人のアドレスへお願いします。
    masuda@or2.fiberbit.net
      増田嗣郎
    平成27年6月2日

   オノマトペ、初心者への手紙  

補足
オノマトペとは、日本語では、擬音語、擬態語、擬情語の総称です。
擬音語とは、もの音、動物の鳴き声などを言葉の音で模したものです。言語によってどの言葉の音に聞き做すか、言語ごとに異なります。似顔絵が描く人によって違うのと同じです。ただ、鶏の鳴き声のように音韻/K/を中心に表現する言語が多いというようなことはあります。時計の音‘チクタク’と胸のときめき‘トキトキ’が共に音韻/T/と音韻/K/を使っていることも面白いと思います。(‘トキトキ’から時計の‘時’という言葉が出来たのではないでしょうか。)
擬態語は、もののあり様を言葉の音で模したものです。音でないものを音で模す、ここには大きな飛躍があります。しかし、日本語は、もともと発音時の体感を感じ分けながら使われていたので、その体感を使ってあり様を表現することは容易であったし、それを感じ取ることも容易であったと思われます。それが、日本語に擬態語が多く、他の言語に少ない理由だと思います。なお、上記の‘トキトキ(ドキドキ)’は正確には擬音ではなく擬態語でしょう。しかし、胸が高鳴るという表現からすると音として聞いていたのかもしれません。擬態語‘パカッ’(副詞だと言う人もいますが)など、 ‘弾けて’、‘開いて’、‘そのまま’というまさに実況放送のようです。
擬情語は、心のあり様を音で模したものですから、かなり高度な模写です。‘ハラハラ’は、花の散り様の擬態語としても使われますが、心のあり様としての擬情語としては、音韻/H/の持つ儚さ頼りなさが加わって、不安な気持ちがよく伝わります。
擬音語であり擬態語でもある‘トキトキ’は擬情語的なところもあります。それは‘トキトキ’から‘トキめき’という心の状態を表す言葉が派生して出来、またそれを‘トキトキ’が連想させるからです。なお、‘動悸’という言葉とオノマトペ‘ドキドキ’は関係がありそうに思えますが、当時の‘動悸’の中国音は何だったのでしょうか。要研究です。
 このように日本語の中にオノマトペが多いのは、日本人が日常会話の中で語感を感じ分けながら使い、聞き分けてきたからです。そして、語感のベースとなる母音を大切にしてきたからです(劇団四季では、入団後、最初に母音の発声を徹底して鍛えるのだそうです)。
      (平成27年5月6日)

   サイト「日本語よもやま話」への投稿  

「迷走するオノマトペ研究」、反応がないようなので、横からひと言いわせていただきます。
実際、日本のオノマトペ研究は迷走していると思います。ただそれは、塚田浩太郎さんが言うような、何がオノマトペで何が副詞だとする定義の問題などではありません。もっと本質的な問題で、言葉の音がそれぞれ固有のイメージを持っていることが分かっていない、あるいは、持っていることを認めようとしないことに根本的原因があります。
塚田さん、あなたは言葉の音一つ一つがクオリア、イメージのかたまりを持っていることにお気付きですか。
気付いていても認めたくないのですか。とすれば、それはソシュールの誤読です。‘言語学の第一原理(音と意味との恣意性)’は誤訳です。ソシュールはランガージュについては言っておりません。ラングについてのみ言っているのです。ソシュールはパロールは手に負えないとして捨てたのです。ラングはランガージュからパロールを奪った抜け殻です。
死体を解剖して人間のすべてが分かるわけがありません。人間の命の部分が分かりません。人間の本質が分からないのです。
言葉の音の持つイメージを無視することはパロールを捨てるようなものです。オノマトペはパロール的存在です。ラングとしてオノマトペを研究しようとするから迷走するしかないのです。
塚田さん、あなたは言葉の音に、意味以外に何も感じませんか。‘さっぱり’にすがすがしさを感じませんか。感じるとしたらそれは、言葉の意味からだけですか。‘さ’そのものにも何か感じませんか。あなたは、‘さらさら’、‘smooth’、‘silky’、‘sleek’という言葉を並べておられますが、これらの言葉すべてが音韻/s/で始まっていることにお気づきですか。不思議とは思われませんでしたか。音韻/s/は、息を舌、唇の上を流すように発声するので、体感として、空気、水などの流れの感覚を惹起するのです。そして、舌の上の水気を奪うので、少し涼しいさわやかな感じもするのです。
ソクラテスは「クラテュロス」(プラトン全集2)の中で「rの字は、あらゆる動きを表現するためのいわば道具である・・・。rの字の発音に際して舌が静止することの最も少なく、震動することの最も多いのを看て取ったからなのだよ。」と言っています。すでに発音体感に気付いていたのです。ただ、rという音素が意味を持っていると言っているように取られて後々論難されました。
わが国でも、江戸時代の儒学者、賀茂真淵、本居宣長が言葉の音について論じています。特に鈴木朖は「雅語音声考」を著し一音一音について詳しく解説しています。いわゆる音義説ですが、音を意味と結びつけるものとして無視されているようです。近代に入ってからも幸田露伴が「音幻論」を著しています。
オノマトペを使うことの少ない欧米でも、脳生理学者のラマ・チャンドランが、言葉の音に何らかのイメージを感じる現象を共感覚によるものとして、‘ブートストラッピング仮説’を唱えています。私は、この説は間違いだと思っています。言葉の音にイメージを感じるのは、私たち日本人にとっては、共感覚のような異常なことではなく、ごく当たり前のことだからです。オノマトペ研究の最前線の先生方がこの‘ブートストラッピング仮説’に安易に飛び付くなんてみっともないことだと思います(「オノマトペ研究の射程」)。
なお、ラマ・チャンドランが世界各地で行った言葉の音とものの形を結びつける実験、‘booba/kiki’は大変有意義だと思います。NHKでもやりましたが、その時は80%位の正解率でしたが、学問的に厳密に行われた調査では、98から99%の正解率になるようです。これは当然のことですが、むしろ私としては正解できなかった2〜1%の人の頭の中がどうなっているのか興味があります。
ラマ・チャンドランはなぜそのようなことが起こるのかの機序を間違えているのです。しかし、その様な現象があることを世界に示した功績は大きいと思います。Boobaとまるっぽい図形、kikiと尖がった図形が結びつくのは、すなわち、特定の聴覚と特定の視覚が結びつくのは、脳の中の混信ではなく、発声時の体感、主に口腔体感からなのです。この場合、聴覚も口腔体感という触覚、視覚も滑らかか尖っているかという経験としての触覚に還元され、脳の中で触覚同士が結びつくのです。ですから、体性感覚野での結びつきであって、神経回路の混信ではありません。
わが国でも、むしろ言語学界の外の人の方が、素直に言葉の音に気付いておられるようです。大阪大学の学長も務められた哲学者の鷲田清一さんが「「ぐずぐず」の理由」を書いておられますが、言葉の音の持つイメージの違いを微妙に感じ取っておられるようです。いやしくもオノマトペを研究しようという方はこれ位の感性は持って欲しいと思います。
海外で日本語を教える研究者の中にも、日本語の持つ感覚的なものに気付いておられる方が多くおられるように感じます。
ところで、塚田さん、「コロコロ転がる」、「コロコロ転がす」の‘コロコロ’と‘転がる’、‘転がす’は関係がありませんか。
多分、どちらかからどちらかが出来たのでしょう。‘コロコロ’と‘転がる’とどちらが先か。私は‘コロコロ’が先に出来たと思います。それは‘コロコロ’の表す状態が言葉の音のイメージによく添っているからです。‘もちもち’と‘餅’の関係も同じだと思います。重要なのは‘モチ’という音の並びに豊かな粘り気と小さな切れを感じられるかどうかということです。
塚田さん、私も言語学界の現状を憂いている一人です。どうぞ、ご勉学お励みください。
     平成27年4月29日

   「オノマトペ研究の射程」を読んで  

オノマトペ研究の射程」を読んだ。
随分高価な本で、買おうかどうしようか迷ったが、買ってよかった。
ソシュールの言語学の第一原理として、言葉の音と意味は恣意的とされてきたにも関わらず、音と意味の関係を考え直す、として音象徴とオノマトペを取り上げた画期的な論文集である。編者のチャレンジを大いに評価させていただきたい。
編者は、「言葉における音と意味は近く、・・・」、「今私たちが使っている言語にとって周辺的で特殊な音象徴やオノマトペにこそ言語の成り立ちの秘密があるやもしれず、・・・」とまで言い、「現代言語学において長く周辺的位置に置かれてきたやに見えるが、・・・、もはや周辺的で些末な研究という誹りを受けるべきものではなくなった。」と高らかに宣言している。(私は全くその通りだと思っている)
音象徴現象を独自に研究してきた者として、誠に頼もしい宣言であり、なによりもうれしい発言であった。
更に、「オノマトペの持つ音象徴的特性が言語習得に重要な役割を果している・・・」とした上で、「オノマトペが特に豊富な日本語の研究はとりわけ重要な役割を担うであろう。」と言っている。全くその通りで、全幅の賛意を表したい。ただ、これらのことは、オノマトペだけのことではなく、音象徴そのものの働きなので、音象徴を中心に日本語の、そしてひいては言語そのものの研究を推し進めていただきたい。

ただ、「音象徴研究とオノマトペ研究の間の崩し切れていない壁など重大な課題はなお存在する」が「ようやく次に目指すべき方向がはっきりしてきた・・・」として文を結んでいるが、私は、この論文集を読む限りでは、基本的な方向性を間違えていると思う。折角のご努力を今までと同じように無駄にはして欲しくなく、あえて以下の三つの点を提示したいと思う。私は、このことによって、言語というものの本質により迫ることが出来ると確信している。

 共感覚的音象徴、音象徴ブートストラップ仮説、モダリティ間写像、感覚間相互作用現象などの言葉が多く出てくるが、これらが何を意味するのか、この本を読む限りでは今一つよく分からないが、これらがラマチャンドランの「共感覚的ブートストラッピング説」をベースにしたものであるとすると、少なくともbooba/kiki効果に対する説明としての共感覚説は誤りである。
すなわち、音象徴は共感覚として起こるものではない。音象徴現象を共感覚として説明することは出来ないし、共感覚として説明してしまってはいけない。
生まれつき、あるいは混線として説明してしまって、それで分かったことにしてしまうと、真実に目を覆うことになってしまう。(チョムスキーの普遍文法説にもその危惧がある。)

 音象徴という言葉は誤解を招きやすく、私としては使いたくない。音象徴という言い方は、あたかも音そのものが何かを持っているやの印象を与えるが、音そのものが物理的に何らかのイメージ様のものを持っているわけではない。
誤解の典型は「周波数信号仮説」であるが、「大きさ」に、どうして第二フォルマントのみが関わって、より大きな第一フォルマントが関与しないのか、第三フォルマントはどうなのかの説明ができない。
更に言えば、小さな女の子の「おはよう」の /オ/ とお父さんの言う「おはよう」の /オ/ は音の高さが違う。母音 /オ/ と母音 /イ/ の違いは周波数の高さの違いではない。
 あえて言えば、複雑な周波数の組み合わせの比率の違いで、構造の違いとでも言えばいいのかもしれない。母音 /オ/ と母音 /イ/ の違いは発音の仕方の違いである。唇の形の違い、口腔の形の違い、舌の形の違い、息の出し方の違いによって、共鳴音としての母音の違いが出るのである。
音象徴は音声の物理的特性ではない。
音象徴の源は発音体感である。
これは、そもそもはソクラテスも言っているのである。ソクラテスは「クラテュロス」の中で「rの字の発音に際して舌が静止すること最も少なく、振動することの最も多い・・・(ので)、r(ロー)の字は、あらゆる動きを表現するためのいわば道具である・・・」などと言っている。ただ、ソクラテスは音それぞれが意味を表すと言ってしまったため、後世、音義説として論難されてしまったのである。
発音体感説はもちろん意味ではない。体感は感覚であって、クオリア的である。あえて言えば、イメージの塊である。
音象徴の原因を発音体感だとすれば、これは「話し手」側の問題である。では、何故その音を聞いたとき「聞き手」側はいわゆる音象徴を感じるのか。
小さな女の子の可愛い「おはよう」を聞いたとき、大人の男の野太い「おはよう」を聞いたとき、これを同じ「おはよう」と聞くのは、聞き手の脳の中で、それぞれ周波数も異なる「おはよう」を、自分の言葉の音「おはよう」に変換して言語野で処理するからである。もちろん、自分で「おはよう」と言ったときも、自分の脳内では自分の言葉の音「おはよう」と聞いている。発声したときも、聞いたときも「おはよう」は、脳内では同じ「おはよう」として処理されるのである。この脳の中の自分の言葉一つ一つにそれぞれの発音体感が付随している。一つの音の発音体感は、まずその音の発音を習得する過程で生じる。
日本語の場合は、まず、発音体感は‘拍(アイウエオカキ・・)’として、体感マップに記憶されるが、やがてそれが再整理されて、音韻別の体感マップへと成長していくものと思われる。これが音象徴マップである(拍のマップと音韻のマップの二重構造だろう)。
赤ちゃんは、言葉の音一つ一つの発音を覚えるために、試行錯誤の大変な努力をする。基本的には周りの人たちの真似をするわけであるが、目には見えない色々な筋肉を動かして発声を試みるが、それらの試み一つ一つにも体感が伴う。ただ、赤ちゃんにとって身体を動かすことは快感である(機能快)。同じように言葉の音を発することも快感なのである。生後間もない赤ちゃんがよく‘パブー’的な音を出している。破裂させる唇の音を体感と共に楽しんでいるのである。成長するに伴い、感覚も細分化され、力強さを感じたり、柔らかさを感じたりしながら、言葉とともに言葉の音を一つ一つ覚えていく。
一つ一つの音の発音には、いろいろな筋肉の共動が必要であるが、これらの発音のための動作手順は脳内に記憶され動作は自動化される。一度覚えてしまうと、自転車の運転と同じように発音のための動作も無意識化され、逆に意識しようとしても意識することが出来なくなってしまう。そして発音に際しての体感も発音動作に連動した形で脳内に記憶され、これらも無意識化される。無意識化されるということは無いということではない。意識の表面に浮かび上がらせるのが難しくなっているということである。言葉の音 /サ/ にさわやかさを感じるのは、言葉の意味の連想もあるが、/サ/ という音を発音したときの感覚が意識下に記憶されているからで、結果、人は「なんとなくそんな感じがする」と表現する。脳内に発音動作のための運動マップと、それに伴う発音時の体感による感覚のマップ(音象徴マップ)が作られているのである。
これらのマップそれ自体は、先天的にブートストラップされたものではなく、誕生後、記憶の体系として自身で作り上げたものである。したがって、言語そのものの問題とも関わるが、音象徴は人それぞれのもので、すべて同じとはいえない。絶対的なものが存在するわけではないのである。
色の周波数という絶対的なもののある赤いバラの赤ですら、それを見る人それぞれで赤さが同じではない。人が色を感じる目の網膜の3つの錐体細胞の感度のピークが違う上、3つの感度のバランスが人それぞれで違うからである。しかし、赤いバラは誰が見ても赤い。それぞれの人が感じる音象徴も、これと同じ程度には同じなのではないだろうか。感覚とは、そういうものなのである。

 音象徴を、大きい小さいというように要素還元的に議論するべきではない。まして、快・不快の尺度は論外である。発音体感は、原初的には快感である。赤ちゃんにとって、どんな音でも、言葉の音を発せられるのは喜びであり快感である。言葉の音に不快感を持ちうるのは文化による影響である。フランス人は日本人の頷きの表現‘ウン。ウン’を不快に感じる。日本人は‘ネチャネチャ’、‘ベチョベチョ’に下品さを感じる(‘ゲゲゲの鬼太郎’は上品ではないが不快とまではいかないだろう)。これらはそれぞれの言語において生理音を連想させるため、下品に感じられ不快にも感じられるのである。
きれい、汚いも評価に関わる問題で、声のきれい、汚いはあっても、音韻の属性としては考えられない。ただ、音韻には、澄んだ、濁った、の違いはあるので、きれい、汚いを澄んでいるか、濁っているかに決めつければ、きれい、汚いの評価は可能ではある。なお、美意識としては、濁りを愛でることもある。深みが感じられるからである。
音象徴は発音体感、すなわち感覚であってクオリア的なものである。いろいろなイメージの複合体である。大きさ小ささだけでは表現できないし、表現しても意味はない。
母音 /i/ 、/a/ 、/o/ の大きさを比較して、/i/ が最も小さいのは発音体感からいっても確かである。しかし、/a/ と /o/ とどちらが大きいか比べるには問題がある。大きさの有り様に違いがあるからである。発音体感からすると、/a/ は口を大きく開けて大らかに発音するので、広がりとしての大きさがイメージされる。一方、/o/ は口腔の中を大きくして、こもるように発音するので、ものの形としての大きさがイメージされる。すなはち、/a/ は‘空は広いな、大きいな’の大きさであり、/o/ は奈良の大仏様の大きさなのである(ちなみに、日本語では古来、大空、大海のことを天(アマ)と言い、大仏様を‘オオきい’と表現した)。
もちろん、/i/ 、/a/ 、/o/ が持っているイメージは、大きい、小さいだけではない(このことが重要なのだが)。/i/ は、発音的には口元に力を入れ強く息を出そうとするので、意志的なものが強く感じられる。加えて、前向きの直線的なイメージも感じられる。/a/ には、外に向かってのオープンな広がり感に加えて、明るさ、温かさ、淡さなども感じられる(語呂合わせで言っているのではない。大和言葉には音象徴から出来たと思われる言葉が多く存在するのである)。/o/ には形としてのまとまりの大きさに加え、こもる感じからくる、重さ、暗さなども感じられる。
日本人が思わず発する驚きの言葉は、あっけらかんとした驚きは‘アッと驚く為五郎’であり、感動に近い心の中からの驚きは‘オッ’、あるいは‘オオ’である。ちなみに、意外性の驚きは、‘エッ’であり、‘エエッ’ともなると疑念すら感じられる。/e/ は顎を少し下に引いたように発音するので、少し身を引く躊躇感、遠慮感に加えて、下に平に広がるつながり感がある(ちなみに、漢語としての‘遠慮’という言葉には、日本語で言う遠慮するという意味は全くない)。
発音体感の基本は、まず、どんな時にどのような音を出すかである。もっともリラックスして大らかに大きな声を出そうとすれば、/a/ 的な音だろう。それに子音 /M/ が加わって /Ma/ 的な音になれば、少し潤いのある膨張感が加わってボリューム感が出る。/Pa/ となれば、唇を破裂させることから、パッと開けた乾いた開放感、それが有声化して、/Ba/ となると、パワーが加わって脅かしの表現ともなる。舌の上を滑らかに息を流す /Sa/ となると、流れる息が舌の表面の水気を奪い、爽やかな感じが出て、滑るような水の流れ、空気の流れをイメージさせる。/Na/ は鼻腔に一部息を流し共鳴させるため、湿り気、粘り気を感じさせ、肉体的な親密さを感じさせる。ただ、/N/ 系の音は度が過ぎると生理を連想させ下品にもなる。/Ka/ は喉を固くして、それを破裂させて息を口腔に流し出す複雑な操作をするので、固い感じ、乾いた感じ、軽い感じに加えて、回転の感じもある(これも語呂合わせではありません)。
/K/ に回転のイメージがあるのは、オノマトペ
   カラカラ  KaRaKaRa
   キリキリ  KiRiKiRi
   クルクル  KuRuKuRu
   コロコロ  KoRoKoRo
全てに回転のイメージがあることからも分かる。そして、それぞれ回転の態様が異なるのは、当然母音の違いからである。
   カラカラ は乾いたあっけらかんとした回転
   キリキリ は細い一本の縦軸の回転
   クルクル は全体の動きとしての回転
   コロコロ はまとまりとして、それ自体の回転
である。

以上、いわゆる音象徴が共感覚のような生まれつきのものではないこと、そして、それは自らの発音体感の再体験であること、感覚的なものであるからクオリア的で、大きい小さいのような一つの尺度だけでは表現できず、いろいろなイメージの塊として表現しなければならないこと、を説明したが、以下に、一部をより詳しく論じたい。

○ ラマチャンドランは何を間違えたか
○ 発音体感説詳論
○ 言語場 マクロとミクロの言語場
○ 言語の違い
○ 聞こえか、発音か
○ 多義的音象徴の選択的利用と納得性
○ 日本語の特殊性。 助詞と音象徴、オノマトペ

○ ラマチャンドランは何を間違えたか。
ラマチャンドランはbooba/kiki効果を共感覚と考えているが、以下の理由でこれは間違いである。
視覚による丸み、ギザギザ感はものの輪郭についてのもので、本来は触覚であって、視覚はこの触覚による経験という学習によって得られたものである。生まれてすぐの赤ちゃんは、目で物を識別することは出来ない。赤ちゃんの目の網膜上の映像は二次元であって立体ではない(もちろん、我々大人も)。赤ちゃんはその物を触って、すなわち触覚で確認することによって、初めてその物を立体視し、物として識別できるようになるのである。だから、赤ちゃんは何でも触ろうとするし、舐めようとする。舌の感覚が最も鋭く、また根源的なのである(発音体感も舌の感覚が大きな役割を果している)。
聴覚による丸み、ギザギザ感は、発音体感が共起したものであるから中心部分は触覚(口腔内感覚)である。したがって、視覚のベースの触覚と聴覚のベースの触覚の触覚同士のマッチングであるから、共感覚ではなく、いたって正常な反応である。
ラマチャンドランも音象徴を何か神秘的なものと捉えてしまったのである。ラマチャンドランは脳神経生理学者で言語学者ではないのでやむを得ないことではある(言語学者がちゃんと正してあげるべきである)。
ちなみに、赤ちゃんの出生時は感覚が未分離であるが、成長とともに分離すると言われ、一部分離がうまくいかなかったのが共感覚患者で、この共感覚はあくまで異常である。
共感覚としては、数字に色がついて見える(視覚―視覚)、音に形が感じられる(聴覚―触覚)などがあるが、これらはやはり脳内神経の混線だろう(漏電(ショート)と言ったほうが正確かもしれない)。
なお、視覚的に高さを感じたり、音にも高さを感じるが、これは対象が異なるので共感覚とは言えない。大きさも、ものの大きさとして視覚(触覚)、音の大きさとして聴覚で感じるが、これも対象が異なる。重さも、触覚としてだけではなく、音にも聴覚として感じる。大きさ、高さ、重さなどは五感の底にベースとして共通の尺度があるのかもしれない。ただ、共感覚とは違うだろう。少なくとも、混線、漏電ではない。
高い音にも鋭さを感じるが、これは共感覚の名残かもしれない。匂いに甘さを感じるとすれば、これも嗅覚と味覚の共感覚かもしれない。ただ、物理的な音そのものの鋭さと言葉の音の音象徴としての鋭さは違う。聴覚としての鋭さと触覚(発音体感)としての鋭さであるが、一部入り混じるかもしれない。

Booba/kiki実験について、
日本語では、バーバ/キキの方がはっきりする。バーバには意味があるではないかとの危惧については、日本語ではキキにも意味があるので合子だろう。キキは「魔女の宅急便」の主人公である女の子の名前であるし、漢字‘危機’とも同じ音である。
マーマ/キキなら、もっとはっきり違いが出る。
音象徴の問題としては、どちらの音に丸み、ギザギザを感じるかを直接聞いても結果は出るだろう。大きい/小さい、固い/柔らかい、重い/軽い でも、そこそこの違いが出るのではないだろうか。

○ 発音体感説詳論
ソクラテスが「クラテュロス」の中で、いろいろの音にそれぞれ独自の意味があることを論じているが、我が国でも、僧仙覚はじめ、江戸時代の国学者賀茂真淵、本居宣長が論じ、そして鈴木朖が「雅語音声考」の中で日本語の音がそれぞれ意味を持っていることを論じている。現代では、幸田露伴が「音幻論」を著し、それぞれの音について詳しく論じている。ただ、これらは音義説として、世に認められては来なかった。
本論文集においても、調音時の口腔の開き、開口度、身体性、模倣、ジェスチャーなど、発音体感に迫る記述が随所にあるが徹底を欠いた感がある。特に、英国の言語療法士、Pagetは、「語の音の動機づけとして、調音器官の動きや構えがその語の指す概念や物の動きとパントマイム的に結びつく。・・聞き手もまた話者が発した際の身体の動きを無意識に頭の中で再生させ・・・」と言い、「たとえば、[i] を発音するには、・・最も口腔を狭める。これに対し、[o] や [a] を発音するときは、・・口腔が大きくなる。これが母音と「大きさ」とイメージの結びつきの基盤になっている。」としているが、これは殆ど発音体感説に近い。ただ、言語現象の本質のところが理解しきれていない。単なるパントマイム的な模倣ではなく、イメージによる表現であり、聞く側も発音体感を記憶していて(音韻イメージマップ)、それを再生(再体験)しているのである。
この点、ラマチャンドランも勘違いをしていて、「teenyweeny, un peu, diminutiveは口や唇や喉頭が、あたかも視覚的な小ささを反映もしくは模倣するかのように実際に小さくなり・・・。Enormous largeは口が物理的に大きくなる。」(「脳のなかの幽霊、ふたたび」)などと言っているが、これは順序が逆で、正しくは、大きさを感じさせる音、小ささを感じさせる音などを記憶していて、それを組み合わせて音の塊(言葉)にしたものが、皆に認知され流通するようになって言葉になったのであって、結果として模倣しているかに見えるのである。Pagetは「パントマイム的聞き手の無意識の再生」などと言い、ラマチャンドランは「視覚的な」と言っていて、自身の体感というよりも他者からの見えを意識しているようであるが、これはミラー細胞の存在を意識しすぎているのではないだろうか。
なお、ラマチャンドランの言語の始まり、思考の始まりにミラー細胞が絡んでいるのではないかという考察は非常に重要ではないかと思う(抽象化には客観化が必要で、客観化にはミラー細胞が必要だからである)。
素直に、物事(気持ちを含め)を音象徴で模倣したのが言葉の始まりである、と言ってしまっていいのではないだろうか(原言語)。

○ 言語場 マクロの言語場、ミクロの言語場
発音体感説をより理解してもらうためには、ミクロの言語場を理解してもらう必要がある。
従来の言語学は主としてマクロの現象について考えられてきた。しかし、言語の本質を考える上で、ミクロ(個人個人の脳内での現象)についての理解がより重要である。
このミクロの言語現象としてのミクロの言語場について、かって、まとめた文章があるので再度転用する。なお、この論考は平成23年1月に行ったもので、用語使用に相違があるので以下に読み替えていただきたい(厳密には違いがあるのだが)。
   語感 → 音象徴
   音韻秩序等の秩序 → マップ
また、この論考は私のウェッブ・サイト‘語感言語学’に掲載中のものである。
場の言語学’は‘語感’の言語学である。発音体感としての‘語感’の言語学である。(語感言語学)
‘語感’は単なる聞こえではない。主体的な発音体感である。
‘語感’は、言語にとってお飾り的なものではない。言語にとって本質的なものである。
日本語において、これは顕著に見えるが、すべての言語にとっても基本的・本質的なものであろう。
私は言語現象を‘場’として捉えたい。
二つの言語場を想定する。
一つはマクロの言語場。一つの言語の言語活動すべてを包摂するものである。言葉の飛び交う現場すべてである。
ただ、この‘場’は現象にすぎず実体はない。ただ、言葉が飛び交っているだけである。
従来の言語学は主としてこの‘場’を研究の対象としてきた。結果としての現象のみを研究してきたのである。
もう一つはミクロの言語場。一つの言語社会を構成する個人一人一人の中に存在する言語場である。
この言語場は人間、あるいは、脳という実体の中に存在する。したがって、このミクロの言語場は実体ということも出来る。
私は、言語現象の本質を解く鍵は、このミクロの各個人の中にある言語場にあると思う。
ミクロの言語場が集まって言語活動をするとき、その全体の表面に浮かび上がるのがマクロの言語場である。
マクロの言語場とミクロの言語場の関係は電磁場に例えることができる。
個々の小さな磁場が集まることによって誘電現象が起こり全体としての大きな磁界が発生する。この大きな磁界は小さな磁場のそれぞれの変化によって全体として変化する。そしてマクロの大きな磁界の変化は個々の小さな磁場に変化を及ぼす。
ここで重要なことは、大きな磁界は小さな磁場があってはじめて発生するのであって、原発的なものではないということである。すなわち、マクロは誘電されたもので、単なる現象に過ぎず実体ではないということである。
マクロの言語場に飛び交っているのは言葉(磁気)に過ぎず、言葉は音、すなわち、空気の振動に過ぎない。この空気の振動はミクロの言語場において実体化され、初めて意味をもつのである。
ミクロの言語場、すなわち、一つの言語社会を構成する個人一人一人の脳の中の言語システムが重要なのであって、従来の言語学は、この言語現象の実体に切り込むことをせず、現象面をなぞる事にのみ終始したのである。
  ‘個’の言語場の生成  
人類がどのようにして言語を獲得したのかを考えるとき、二つのアプローチが考えられる。
一つは、人類が初めて言語を獲得した場面である。
今一つは、‘個’としての赤ちゃんがいかにして言語を獲得していくかである。
我々の祖先がどのようにして言語を獲得していったかは、現在の言語間の違い、特に日本語の特異性を考えるときに、改め考察したい。
ここでは、すでに出来上がった言語環境、特に日本語の言語環境のもとで、その中に生まれた赤ちゃんの脳の中にどのように言語場が作り上げられていくかを考察したい。
重要なことは、赤ちゃんが生まれながらにして言葉がしゃべれるようになって生まれてくるのではないということである。
言語は本能ではない。しかし、しゃべるための器官とそのための脳のシステムは備わっている。また、言語の基礎となる人とコミュニケートしたいという欲望も備わっている。これは本能であろう。
赤ちゃんは母親の胎内で母親の声を聞きながら育つ。声としてはっきりとは聞こえないとしても、音の連なり、区切れ、リズムを全身で感じながら育っていく。
生まれ出た瞬間から、この世の音に晒される。遠くを走る車の音、掃除機を掛ける音、人の動く音、人の声、お母さんの声。そして、これらを聞き分けられるようになる。(分節の始まり)
五感はまだ充分分離しておらず、生まれて直ぐは共感覚状態だといわれている。
特に、視覚は、直ぐには焦点も合わず、遠くのものが見えるようになるには少し時間が掛かるようである。
遠近感も色もそれぞれ脳の中での演算計算の結果である。すはわち、ものの距離感は左右の目から入った情報の差によって分かるのだし、色も三原色の配合割合の計算から自分としての色が定まるのである。
感情も、最初は快不快だけであったものが、お腹がすいて不快、オムツが濡れて不快、お母さんがいなくて不安で不快といろいろと細分化していく。
赤ちゃんのコミュニケーションの始まりは泣き声と思われている。ただ、初期の泣き声は不快の表明であって、それへの反応を期待しているかどうかは疑わしいので、本当のコミュニケーションとはいえないかもしれない。
もう少し大きくなって、お母さんの姿が見えなくて泣いていたのが、お母さんが姿を現すと途端に泣き止むのは一種のコミュニケーションである。
しかし、赤ちゃんのコミュニケーションの始まりはもっと前に起こる。
母親からの授乳時である。
正高信男先生の研究によると、赤ちゃんはお乳をしばらく吸っては休む。そして、お母さんが赤ちゃんをゆすったり、背中をやさしくたたいたりすると、また吸い始めるのだそうである。そして、またしばらく吸うと休む。お母さんが反応するとまた吸い始める。
正高先生は、これが赤ちゃんのコミュニケーションの始まりだろうとおっしゃる。なぜなら、赤ちゃんがお乳を吸うのを休む理由がないからである。息は鼻から吸える。体力のある赤ちゃんも休む。そして、人間以外の赤ちゃんは休まないのだそうである。
すると、休むのはお母さんの反応を期待してのことだろうし、反応があるとまた吸い始めるのは、反応があったことに満足したということであろう。
お母さんがゆすったり、背中をたたいたりするのは無意識で、本能的なものだろう。
そして、興味深いのは、お母さんの反応の早い遅いが赤ちゃんのペースに影響を与えているらしいことである。せっかちなお母さんに育てられればせっかちな子になる。(遺伝的なものもあるだろうが、)
母子の授乳が、赤ちゃんのコミュニケーションの始まりであり、ここでのタイミングの取り方が、赤ちゃんの会話のタイミングの基礎を作るのではなかろうか。
音の渦、言葉の渦の中でお母さんの声を聞き分けられるようになった赤ちゃんは、お母さんの声を音の連なりとして捉えるようになり、だんだん、その中の音のカタマリに気付くようになる。
そして、一つ一つの言葉らしいものが分かるようになる。
ところで、我々は アイウエオ、カキクケコ の音の違いをどこで聞き分けているのだろうか。
アイウエオ の違いは音の高さではない。お母さんの発音する‘ア’とお父さんの発音する‘ア’では音の高さが違う。
アイウエオ の違いは、発音の仕方の違いである。
お母さんもお父さんも同じ口の使い方をしてはじめて同じ‘ア’なら‘ア’の音が出る。
いろいろな周波数、いろいろな波形の音が混じりあい、その相互作用の結果、いろいろの音になるのである。(母音と子音では、音として基本的に異なるが、)
自然界に、絶対的に‘ア’という音が存在するのではなく、人間がある特定の発音の仕方をして出る声の音が‘ア’なのである。同じ発音の仕方をすれば誰でも出るのが‘ア’なのである。したがって、人により音は微妙に違う。
(これは一種の見做しで、見做しにはある程度の許容範囲が必要であるが、この範囲は人によって多少異なる。風の音に言葉を聞く人もいる。)
全ての音についてそうである。その違いを何処まで許すかは言語それぞれによって異なる。例えば、‘R’の音と‘L’の音を区別するかどうか、濁音と半濁音を区別するかどうか、言語によって違う。
この音の区分けの全体が音韻秩序である。
言語ごとに異なる音韻秩序があるが、これは、その言語社会を構成している一人一人の脳の中の音韻秩序の総計的なものである。
一言語の音韻秩序には実体はなく現象に過ぎない。実体は個人の脳の中にある。
赤ちゃんは一言語の環境の中で生まれ育ち、自らの音韻秩序を自らの中に作り上げる。したがって、その言語に対応した音韻秩序が出来るが、これは、全体の音韻秩序をコピーしたものではなく、あくまで自ら作り上げたものである。この‘個’の音韻秩序は個人の‘脳’の中の言語野の一システムとして作り上げられる。これは言語野の音韻モジュールと呼ぶことも出来る。
日本語環境では、まず、拍の音韻秩序が出来るだろう。そして、これと平行しながらその下部組織として音韻の秩序が出来るだろう。英語の環境では、まず、シラブルの音韻秩序が出来、その下部組織として音韻の秩序が出来るだろう。このとき、日本語では拍と音韻との関係が整合的なのに対し、シラブルと音韻では余りシステマティックではない。また、英語では音韻の数も多い。
(鈴木孝夫先生によると、音素の数は、日、23。英、45。独、39.仏、36。だそうである。そして、英語には単音節語が3千近くあるという。)
一方、赤ちゃんは喃語だけであったものが、発声器官の完成もあって、いろいろの声を出そうとし始める。人の真似をしようとするのは人間の際立った本能のようである。
最初は曖昧な音であるが、やがて‘マ’とか‘バ’とか‘パ’というような声らしい音がだせるようになる。
赤ちゃんにとって、この一つの音を出すことは大変な努力を要する。(しかし、赤ちゃんは、いやいやこの努力をするわけではない。真似したいという本能によって、嬉々として努力しているのである。)
マニュアルのない赤ちゃんは見様見真似でやるしかない。見様といっても口の中は見えない。
試行錯誤でやるしかない。
この一つの音を出すということは、脳にとっても大変な作業である。
人間は筋肉の収縮によって動く。筋肉の収縮はすべて脳の指令によって起こる。
一つの音を出すには多くの筋肉を動かさなくてはならない。しかも、一連の作業としてタイミングよく連携して行われなくてはならない。
まず、息を出す。その出し加減。声帯を震わせるかどうか。ノドを一旦閉めて破裂させるか。息を鼻に抜くか。口腔全体の形をどうするか。舌の形はどうするか。平らにするか、尖らせるか。時には震わせるか。口蓋につけて弾くか。唇は閉めるのか開けるのか。破裂させるのか、大きく開けるのか。唇の形はどうするのか。
これら一連の作業をタイミングよく行わねばならない。これらの指示はすべて脳が行う。
一つの音を出すこれらの作業の一つ一つは、最初は意識して意思を持って行わなければならない。自然に出るようになるのではない。赤ちゃんには声という音を出したいという強い欲求がある。
一連の一つ一つの作業には、当然、感覚も伴う。ノドを固く締めれば固い感覚も起こる。舌を尖らせば鋭さや固さの感覚も出る。唇を破裂させれば破裂、拡散の感覚は勿論、パワーの感覚も出る。息を舌の上を通せば流れの感覚や息が気化熱を奪い少し冷たいさわやかな感覚も生まれる。
満ち足りて、大きく背伸びして、口を大きく開けて、のびのびと声を出せば、‘ア’的な音になる。
人間の随意筋の収縮にはかならず感覚が伴う。フィードバック・システムの一部でもあり、これによって人間の微妙な動きが可能になっているのである。ただ、通常この感覚は意識されることは少ない。
一つの音を出すための一連の作業に伴う一連の感覚は、やがて余り意識されないようになる。しかし、一連の作業と一連の感覚はセットとなって脳内に蓄積される。
一連の作業、すなわち、一つの音を出す筋肉の操作は小脳に記憶される。そして、一つ一つの筋肉の動きを意識しなくとも特定の一つの音が出せるようになる。むしろ、小脳に記憶された筋肉の動きは意識できない。(自分でどうやっているのか分からない。)
一連の作業に伴う一連の感覚は大脳に記憶される。この感覚は通常は意識されないが、意識しょうとすれば意識することも出来るようになる。(サブリミナル → リミナル)
一連の作業と一連の感覚はセットになっている。すなわち、一つの音の発音とそれに伴う一連の感覚がセットになっているのである。
この一連の感覚は、この段階では、分節以前のクオリア状態である。言葉以前の状態で、例えば、固いかといえば少し固く、重いかといえば大変軽く、湿り気が少々あり、・・・というようなことになる。
意識化するために分節して言葉にして初めて、固いとか明るいとかが言えるようになる。しかし、一連の感覚をすべて言葉で表現しつくすことは出来ない。
言語の現象場で、この感覚の一部を言語化したのが音象徴である。
言語の実体の場でいえば、この一連の感覚は‘発音体感’である。
ただ、一般的には、この一連の感覚を分節して言葉に表現したものを‘発音体感’といっている。
私は、本来の発音体感に意思的なものを加えたものを‘語感’と考えている。(現象面を含めてと考えて、音象徴をも含めて‘語感’ということもある。)
‘語感’には、繋がりという意味で、意味的なものも一部あるかもしれない。(語呂合わせとか、駄洒落に通じる)
‘語感’は、当然クオリアである。
クオリアを言語化するには、いろいろの切り口で切ってみるしかない。
これを図示すれば、下記の通りである。

赤ちゃんの脳の中に音韻秩序が形作られるのと平行して、すべての音の‘語感’の秩序も作られる。
この音韻秩序と語感秩序は、表と裏の関係のように、常に並存する。ただ、音韻秩序は音として、すなわち、現象として表に現れるが、‘語感’は現象面には現れず常に影のままである。
‘ア’なら‘ア’という声は、現象場であるマクロの言語場では、ただ単なる‘ア’という音であるが、実体であるミクロの言語場においては、音韻‘ア’とその‘語感’のセットなのである。
赤ちゃんの脳の中の音韻秩序は、まず音を聞き分けるためのものであったが、やがて音を発音し分けるためのものともなる。すなわち、人は言葉を聞いたときも言葉を発するときも、この音韻秩序が関係するのである。
(図・語感秩序)

お母さんの‘ア’、お父さんの‘ア’、いろいろの人の‘ア’を聞いたとき、この音韻秩序によって一つの‘ア’、すなわち、自分自身の‘ア’に変換するのである。そして、これは神経パルスの一定のパターンとなって脳内で処理されるのである。(脳内言語、自己言語)
当然、自らが‘ア’と発声するときも、この音韻秩序によって‘ア’という自分の声が作られる。
ここで、重要なことは、聞いたときも、話すときも、この音韻秩序を通すことであり、このことは、必ず表裏の関係にある語感秩序をも活性化することである。
すなわち、聞いたときは勿論、話すときも‘語感’は発生しているのである。(読んだときも、意味を理解するには自分の音に変換して、すなわち、音韻秩序を通して、処理しなければならないので、‘語感’は発生している。)(‘語感’は自作自演のようなものである。)
言葉の音を聞き分け、発音し分けられるようになりつつ、赤ちゃんは、一つの音の連なりを言葉として認識できるようになり、この言葉とこの言葉が指し示すところのこと、すなわち、意味と結び付けられるようになる。
もちろん、最初覚えた言葉が‘ママ’であったとしても、この‘ママ’が、必ずしもお母さんを意味しているとは限らない。赤ちゃんによっては欲しいもの、お乳のことであったり、赤ちゃんによってはお母さんのこともお父さんのこともお婆ちゃんのことも‘ママ’かもしれない。赤ちゃんによっては「来て」ということかもしれない。(名詞、動詞、形容詞の区別は、まだ、ないかもしれない。)
すべての言葉が、赤ちゃんそれぞれに曖昧な概念としてまず覚えられ、やがて、その言葉のもつ本来の意味へと収斂していく。
そして、少しずつ言葉の数も増え、脳の中に言葉と意味とを結びつける辞書が形作られていく。
このとき言葉は音の連なりであるから、一つ一つの音は裏で語感秩序と結びついており、結果、一つ一つの言葉も語感秩序と結びつく。これは、結果として、一つ一つ言葉がそれぞれの‘語感’を持つということである。
一つ一つ言葉がそれぞれの‘語感’を持つということは、赤ちゃんが言葉を覚えるときに手助けになる。
一つの言葉の‘語感’が、その言葉の意味と整合性があれば、その言葉は素直に覚えられる。(イベント記憶のように、何かと関連付けて覚えると覚えやすくなる。)
言葉、そのものがどのように出来、増えていくか。いろいろの出来方があり、派生にもその仕方がある。
それは言語によっても違うだろう。そもそも音韻秩序が異なれば、言葉の増え方も違うだろう。拍が基本の言語とシラブルが単位の言語では根本的に出来方が違うだろう。
拍方式では、拍と拍を繋ぐことによって新しい言葉を作ることが出来る。拍を三つ四つとすれば、ますます多くの言葉を作ることが出来る。そして、出来た言葉の一部を変えることによっても、また新しい言葉を作ることが出来る。この際も、音それぞれに‘語感’があって、拍の連なりになっても、この‘語感’も連なりとなって、その新しい言葉についてまわる。このとき、新しい言葉の意味がその‘語感’によっても決まるだろうし、また、別の理由から決まることもあるだろう。そして、言葉の意味と‘語感’の整合性が薄れていくことも考えられる。ただ、日本語の場合、‘語感’との整合性の無くなった言葉は、だんだん使われなくなってやがて消えてしまう。ときには、当初の意味から‘語感’に引っ張られて意味の変わってしまう言葉もある。
枕草子の‘すさまじい’は‘興ざめするもの’の意味で使われているが、今では我々は、‘恐ろしいほど激しい’のような意味に使っており、語感的にはこの方が納得がいく。
漢語由来の‘遠慮する’という表現も、本来の漢語の意味は‘深謀遠慮’というような意味で、現在我々が使うような意味ではなかった。しかし、‘ENRYo’という音には、身を引いて辞を低くするようなイメージがあるため現在のような使い方になったと思われる。(主に‘E’の‘語感’)
漢語には、このように日本語としては本来の意味とは異なる使われ方をするものが多くある。(辞書では、これらは、「日本語での特別の意味」となっている。)
言語によっては、地政学的な理由から、他言語との融合などから、言葉と意味が変わり、意味が‘語感’から離れてしまったものもある。
ソシュールが音と意味との恣意性を言ったのは、このような事情からかもしれない。しかし、そのソシュールオノマトペについては音象徴性を認めているようだ。ただ、オノマトペを正式の言葉とは認めてはいないようでもある。
○ 言語の違い
世界には6000以上の違った言語があるという。そして各言語間の違いもいろいろと研究されてきたが、従来はややもとすると、文法、語用論を中心の研究であったように思われる。
音象徴の存在を確認した今、言語学は言語の成り立ちの原点に帰って研究すべきであると思う。すなわち、音韻に立ち返って、言葉の音の作り方から言語の違いを探っていく必要があると思う。(太鼓の音まで言語として捉える研究もあるが、この際は音声言語に限って考えたい。)
例えば、日本語の拍と欧米語のシラブルの違いであるが、結果、母音と子音の重要度の違いが明白になりつつある。日本語はもちろん母音中心であるが、欧米語でも、イタリア語、スペイン語、フランス語、ドイツ語、英語となるに従って、母音が軽視され、子音中心になりつつあるように思われる。
母音と子音の音象徴、すなわち発音体感は本質的に異なる。母音と子音の発音方法が本質的に異なるからである。
母音は、舌、唇の形を変えることで口腔の形を変え、息をそこで共鳴させて出す。したがって、自然音で、伸ばして発声することも出来るし、他の母音へ連続して変化させることも出来るアナログな音である(虫の声なども母音に近い)。
一方、子音は、口の中に、喉、舌、唇などによって障害を作り、それを息で破裂させたり、擦ったり、鼻腔へ流したり、舌を震わせたり、舌を弾いたりして、無理に出す障害音で、伸ばして発声することは出来ない。すなわちデジタルな音である。
したがって、発声時に感じる体感は母音と子音で本質的に異なる。母音は自然音なので自分の気持ちを表現しやすい。一方、子音はそれぞれの音に癖があるので違いを鮮明にしやすい。コミュニケーションのための道具としては母音が有用であるし、記号としての言語には子音が有用であると思われる。母音を失いつつある欧米語は音象徴すら失いつつあるのかもしれない。
我々日本人から見れば当然とも思われる「サピア・ウォーフの仮説」も欧米学界においては否定的に見られているようである。最近出されて「サピア・ウォーフの仮説」に肯定的な「言語が違えば世界も違って見えるわけ」も本質を突いた議論になっていない。音象徴を感じにくくなった人々に音象徴の豊かに生きた言語とその文化を理解することがむつかしくなってしまっているのかもしれない。これこそ、「サピア・ウォーフの仮説」の言っていることなのだが、これについても私のサイト‘語感言語学’で詳しく論じている。

○ 聞こえか、発音か。
本論文集では、「知覚は調音に基づくか音響に基づくか」と言っているが、音象徴の発生原因を聞き手とするか、話し手とするかは本質的な違いである。
これは対象を客観として捉えるか、主観として捉えざるをえないかの違いで、研究へのアプローチが全く異なってくる。
感覚を客観として捉えようとすると、アンケート調査に頼らざるをえないが、主観として感覚を分析しようとすれば、自己精査の方法がある。ワイン、日本酒などの利き酒、あるいはミッシェランの星の数を決める覆面調査などがそうであるが、ただ学問となると主観的自己精査結果に対する客観的な吟味が必要になってくる。それには、日本語オノマトペによる検証が考えられるのではないだろうか。
日本語のオノマトペは2000以上ある。6000以上という説もあるが、語基を考えれば2000前後ではないだろうか。私は、日本語の場合、感嘆詞もオノマトペに入れてもいいのではと思っている。少なくとも、音象徴の検証には感嘆詞は使えると思うし、使うべきだと思う。大和言葉の一部にも語呂の合っているものがあるから、これらも使うことが出来るのではないだろうか。ただ、これにはご都合主義、我田引水との批判も予想されるが、それには、多義的音象徴の選択的利用と、その納得性をベースとした妥当性という考え方で答えられるのではないだろうか。

○ 音象徴の多義性とその選択的利用によるオノマトペを含む言葉作りとその妥当性。
音象徴の存在について、「イイ」、「イヤ」というような反対概念を待った言葉双方に同じ音が使われているではないかという批判がある。これは音義説的誤解で、音象徴は一つの意味しか持っていないと考えることから来ている。音象徴はあくまで意味ではなくクオリア的で、いろいろなイメージを持っている。日本語のオノマトペ、そして大和言葉の一部は、このいろいろなイメージの一部を選択的に使って、言葉の意味、あるいはオノマトペの伝えようとするイメージを表しているのである。聞き手もその選択を妥当と考えれば、その言葉、オノマトペは流通し、次代へと引き継がれていくのである。「イイ」と「イヤ」は全く反対の気持ちを表明する言葉である。ここで使われる‘イ’は自分の強い意思を表す表現で、‘ヤ’は /i/ から /a/ に変化する半母音で、揺れ、ブレを感じさせ、疑い、懸念等のイメージを感じさせる。‘イヤ’はそれを拒絶に使っているが、‘ヤーヤー’となれば、柔らかさ、軽さを使っての肯定的表現となっている。本来、‘イ’は自己の前向きの強い意思を表明するもので、基本的には肯定である。‘イヤ’は‘ヤ’で否定して、否定の強い意思を表明しえているのである。
オノマトペ‘コンコン’は音象徴の流れとしてもいろいろなイメージを持っていて、‘コンコン’はオノマトペとしても7種類以上の異なる使われ方をする。
  コンコン と戸を叩く
  コンコン と子狐がなく
  コンコン と小さく咳をする
  コンコン 雪が降る
  コンコン 水が湧き出る
  コンコン と解き聞かせる
  コンコン と眠り続ける
最初の3つは擬音語、次の2つは擬態語、使われているイメージが微妙に違う。最後の2つは擬情語的な擬態語、これには「根気よく、根を詰めて」、「懇切丁寧」、「根底」などの言葉のイメージが連想として入っているかもしれない。(しかし、‘コン’という音そのものにその様なイメージがあるからだろう。根性、根気の根は当て字。共に漢語ではない)
‘コ’には、小さくまとまった回転のイメージがある。また、硬さもあるがカワイさも感じられる。さらに、重さと奥の深さも感じさせる非常に多義的である。
多くの言葉(特に大和言葉の)、そしてオノマトペは音象徴の持つ多義的なイメージの一部を使って作られている。したがって、同じ音象徴が反対概念に近い言葉にも使われているが、その妥当性は使う人の支持である。
今も流行語を始めいろいろな言葉が作られ続けている。作られ方は音象徴的なものもあれば、意味のみで作られたものもある。‘アベノミクス’は後者の例、‘モフモフ’は前者の例だろう。しかし、大半の流行語はやがて消えていく。‘モボ、モガ’、‘アジャ、パー’まで遡らなくとも、‘グー’と言う人は今はもういないだろう。消えるにはいろいろな理由があるのだろうが、音象徴的に納得がいかなければ、人々の支持が得られず、言葉としては残らないのではないだろうか。TVタレントが今も盛んに‘マウイ’を連発しているが、それを真似ようとする人は余程のおっちょこちょいしかいないだろう。言葉は音象徴を使っての物語であるが、‘ウマイ’の物語の順序を変えると違う物語になってしまう。そのことによる効果もありうるが、‘ウマイ’を強めた表現としての‘マウイ’は上手くない、マズイ。
‘ウマイ’は感嘆詞的な側面もある。/ウ/ は内面的な音である。内なる湧き上がる感動が /ウッ/ である。/マ/ は外へ向かってのパワーある広がりのイメージである。内向の後にオープンな爆発があって初めて‘ウマイ!’なのである。
最初に爆発してしまって、それから内向するのでは反省に近くなってしまう。それ故か、‘マウイ’は平板に発音せざるを得なくなっている。‘マウイ’はやがて消えてしまうだろう。‘ウマッ’という方が余程気持ちがいい。納得性があるのである。日本人は意識下で音象徴を感じ分けているのである。
‘ウマイ’という表現と並んで‘アマイ(甘い)’という表現がある。原始の人々にとっては、‘アマイ’は‘ウマイ’とよく似た事態だったのだろう。どう違うか。/a/ と /u/ の違いである。‘アマイ’はオープンでおおっぴらな表現、これに対し‘ウマイ’は個人的、内向的な表現である。‘ア’は弾ける喜びであるが、‘ウ’はしみじみとした味わいである。
‘ウマイ’の反対は‘ウマクナイ’ではない。‘ウマクナイ’は‘ウマイ’の否定に過ぎない。反対は‘マズイ’である。
‘マズイ’という言葉はどのように出来たか。‘マズイ’と‘ウマイ’、なんとなく音としても似ている。関係があるのだろう。‘ウマ’の否定形を作るとすると‘ウマズ’が考えられる(産むの否定形は‘ウマズ’である)。‘ウマズ’から‘ウ’が落ちて‘マズ’。なぜ‘ウ’が落ちたか。‘マズイ’はしみじみとしたものではないので内向的な‘ウ’を落としたのかもしれない。
ところで、‘マズイ’の否定は、元に戻せば、‘マウイ’となるが、そうすると、‘マウイ’は‘マズクナイ’程度ということになってしまう(ちょっとややこしいが)。
欧米語の中でも母音が比較的よく残っている開音節語ともいわれるイタリア語では、人称によって動詞の語尾が変化をするのだそうである。ところが、この変化を英語を母語とする人々は余り聞き取れないのだそうである。日常の英語の中で母音が大きな働きをしなくなってきているからである。母音中心の日本人にはこの語尾の変化はよく分かる。
面白いことに、この語尾の変化が、一人称では /o/ 、二人称では、/i/ 、三人称では /a/ なのだという。それはなぜか。三人称の /a/ は分かる。日本語では‘アレ’の /a/ 的な感じ方なのだろう。/o/ には重さが感じられる。/i/ は鋭さがあるが、軽くもある。指示しているようなニュアンスもある。よく分からない。しかし、音象徴の研究対象としては面白いテーマだと思う。
インドヨーロッパ祖語にどの程度音象徴的な言葉があって、それがラテン語などを経て、英語へとどのように失われていったのかなども、面白いテーマだと思う。誰か是非研究して欲しいと思う。

○ 日本語の特徴  助詞と音象徴、オノマトペ
日本語の特殊性として、あまり注目されることがなかったが、非常に重要な働きをして、しかもユニークなのが助詞である。しかし、音象徴が、助詞にはオノマトペと並んで、いやオノマトペ以上に生かされていることは、今まであまり言われてこなかった。
助詞は格助詞、終助詞にしても基本的には単拍である。したがって、音象徴も直接的に出やすいのである。幼児も助詞の使い方をあまり間違えない。それは音象徴を頼りに使い分けているからである。
幼児がまず使う格助詞は‘も’だろう。「あたちも」、「ぼくも」、「シンチャンも」などと使う。‘も’には音象徴として、盛り上がり膨らむイメージとともに重さからくる存在感がある。このイメージを使って、自分にも、あるいは自分も加えてという自己を主張するのに、使いいいのだろう。英語の‘more’にも同じようなイメージがある。英語にも音象徴の残っている言葉があるということなのだろう。自己主張の度が過ぎて、それに対する反発として、「モー(いい加減にしなさい)」という言い方もある。これも音象徴の効いた表現である。
終助詞では、幼児は ‘ね’ をよく使う。特に女の子がよく使う。‘ね’ には念押し的なニュアンスに加えて、柔らかな粘り感があって非常に強い親密感を感じさせる。仲良しの子供同士が「またね」、「明日ね」、「行こうね」などと ‘ね’ を連発しているのは念押しだけではなく、仲良し感を表現したいがためである。
助詞ではないが、子供が両親に「ねーねー」とよく言うのは、おねだりでもあるが、甘えの表現でもある。ここにも音象徴はよく生かされているのである。男の子が少し大きくなると、この「ねーねー」が「なーなー」に変わってくる。‘ね’ではベタベタしすぎると感じるようになって、/e/ を少しオープンであっさりした /a/ に変えて、‘Na’となるのである。しかし、‘な’にも親密感は充分残っている。
‘Na’ という音は原始日本語では非常に重要な概念である。‘アル(存在)’ の元となったと思われる ‘a’ に対して、それが隠れている状態を ‘N’ として ‘Na’ という表現が現れたと考えられるからである。これは、/N/ に息が鼻に抜ける(隠れる)イメージがあるからかもしれず、英語その他でも「no, never, not, nicht, non」などの否定の表現に使われることと関係があるかもしれない。言語哲学の問題としても面白いテーマであると思う。
「・・・だ」の ‘だ’ は断定、「・・・よ」の ‘よ’ は呼びかけ、「・・・さ」は「さらり、さっぱり、私の勝手でしょ」。「行くか?」、「行こうか」の ‘か’ は可能性。このように言えば、それは語呂合わせではないかと言われる。語呂合わせが簡単なのが日本語の特徴で、語呂合わせの裏には音象徴が豊かにあるのである。
オノマトペそのものが事態に語呂を合わせて、音で説明しているとも言えるのである。
これに関して本論文集のP135のCV,並びにC1V1C2V2構造の説明は面白い。
私は、Cは素材感、Vは状態、特に気持ちを表すと言ってきた。そして、C1V1は第一印象を表し、C1V1的なものがC2V2的な状況にあるという物語のようになっていると考えている。
基本的に日本語では語頭の拍が重要で、音象徴も語頭の拍が一番良く効いていると思われる。
オノマトペ‘モクモク’と言葉‘クモ(雲)’とは関係があると思われる。いずれかがもう一つから出来たのだろう。いずれが先か。私はオノマトペからだと思う。オノマトペ‘モクモク’が入道雲の有り様を写実的に非常によく表しているからである。では、‘クモ’はどうして‘モク’を反対にしたのか。雲として出来上がった状態では、盛り上がる動きとしてのイメージよりも、‘Ku’なる尋常ならざる状態の方が目に付くからである。‘モク’ の‘ク’は動きとして捉えられ、‘クモ’ の‘ク’は状態として捉えられているのである。
少し異なるが、‘パクパク’ と ‘クウ’ も繋がりのある言葉である。‘パク’ も口を大きく開けて食べる状況を写したものであるが、‘クウ’ もやはり状況を写したものと思われる。‘クウ’ に対して、‘スウ’ という表現がある。固いものを食べるのが ‘KuU’ で、液体状のものを飲むのが ‘SuU’ である。/K/ と /S/ の違いである。音象徴として、/K/ には固いイメージがある。そして、/S/ には流れるイメージがある。ただ、‘スウ’ はオノマトペ ‘チュウチュウ’ からきたとも考えられる。幼児は ‘スウ’ を ‘チュウ’ と発音する。‘クウ’ もオノマトペ ‘クチャクチャ’ からかもしれない(クチャネ、クチャネという表現がある。食べては寝ること)。いずれもが影響し合っているのかもしれない。語源を一つに限定してしまう必要はない。またそれは危険である。何語にしろ、言語は一人で作ったものではないからである(人工言語、エスペラント、プログラミング言語は別として)。(複合語源説)
オノマトペは音象徴による物語である。実況中継のようなものでもある。実況を写すとしても、肖像画としてではなく、似顔絵としてである。似顔絵は、正しいか正しくないかではなく、似ているか似ていないか、上手いか下手かである。
似顔絵は、民族によって好みが違う。絵の雰囲気が違う。また、民族によって似顔絵を好むかどうかも違う。日本人は、似顔絵が好きである。「鳥獣戯画」をはじめ、絵物語、劇画、マンガが好きである。これらのことと、日本人がオノマトペを多用してきたこととは関連があるのだろう。また、日本人は散文詩ではなく、俳句、和歌などを愛でてきた。抽象化しつつも全体イメージを表現しようとする指向に共通なものがあるように思われる。

以上やや乱雑な説明になったが、編者の「普遍的な音象徴は存在するのか。するとすればどのような音・意味尺度においてか。それはなぜか。(P335)」という問の答えになっているのではないだろうか。
なお、さらなる問い「また逆に、音象徴の言語個別性はどのように生じるのか」は言語誕生の原因とも関わる問題で大変重要な問題である。音象徴は単にオノマトペだけに関するものではなく、言語そのものの本質に関わるもので、私としても、引き続いてこの方向で研究を進めていきたいと思っているが、是非、日本の言語学界としても、音象徴をまともに取り上げて、世界の研究をリードしていって欲しいと心から思う。
音象徴については、日本人が最も有利な立場にあるからである。
    (平成25年7月13日)

   ‘ワー’ か、‘オォ’ か、‘スゴイ’ か  

東京スカイツリーがオープンした。
エレベーターに乗って地上350mの展望台へ出たとき、最初に人はどんな言葉を発するか。
‘ワー’ というか、‘オォ’ と言うか、‘スゴイ’ と言うか。意見が分かれた。
大人か子供かによっても違うだろうし、男か女かによっても違うだろうという意見もあった。

それでは、‘ワー’と‘オォ’と‘スゴイ’はどこが違うか。
‘ワー’ と ‘オォ’ は感嘆詞である。言葉の初期段階のもの、いうなれば、言葉の赤ちゃんのようなものである。
感嘆詞は気持ち、すなわち、心の状態をそのまま素直に声に出したもので、言葉になりきっていないという見方もある。しかし、私はオノマトペの一種で立派な言葉だと思っている。なぜなら、‘ワー’ にしろ ‘オォ’ にしろ、悲鳴などと違って、人間の声になっているからである(悲鳴も ‘キャー’ と表記されれば、これはすでに言葉である)。
‘スゴイ’は形容詞で意味を持った言葉である。意味的言葉ではあるが語感に裏打ちされた言葉である。‘スゴイ’ の‘ス’ には、さわやかさと滑らかに動くイメージがあって、心が感動して動いた時の表現として、‘すばらしい’、‘すてき’、そして、‘スキ’などと使われる。
‘スゴイ’の感動の大きさ重さは‘ゴ’で表現される。‘スゲー’となると、意外感と圧迫感が強く出るが、やや下品になる。
このように‘スゴイ’は語感に素直で、感嘆詞・オノマトペに近い。

それでは、子供はどの表現を使うか。
やはり、子供は最も単純で素直な感嘆詞を発するだろう。
それは、‘ワー’ か‘オォ’ か。
‘ワ’は /u/ から /a/ への変化を一気に発音したもので半母音といわれる。/u/ には内的にちょっと詰まった感じがあり、/a/ には前面に大きく発散・解放されるイメージがあって、/u/ から /a/ への流れで、一旦溜めた気持ちを一気に吹き出し爆発させるようなイメージとなる。
‘オ’ は口腔の中で息を転がす感じから内的な感動を表現するのに使われるが、大きさと重さのイメージもあって、やや大物ぶった自意識の勝った表現となる。
従って、純真無垢な子供たちは‘ワー’ と言うだろうし、社会的地位を得た大人の男は‘オォ’と言うのではないだろうか。
一般に、大人は、感嘆詞では幼稚と思われかねないので、感嘆詞を発しても次に言葉を続ける。それが‘スゴイ’ だろう。
従って、最も典型的な表現が‘ワー スゴイ’で、大人の男なら‘オォ すごいね’ではないだろうか。
‘スゴイ’ の代わりに ‘すばらしい’ とか ‘いいねぇ’ と言うのはどうか。これは少し引いた客観視しようとした表現で、あまり素直とは言い難く、いわゆる大人の発言である。
それでは感嘆詞‘アッ’、‘ヘー’ はどうか。
‘アッ’と言うのは、感動というよりは素直に驚いた時である。
‘ヘー’は‘エェッ’という意外性の驚きを /h/ を付けて柔らかくしたもので少し引き気味の表現である。
‘ホー’も‘オー’を柔らかくしたもので上品ぶった表現である。
/h/ は一般的には子音といわれるが、声門音で口腔内では何ら細工をしない無声母音的な音で、柔らかで暖かなイメージを作り出す(ただし、‘Hi’ だけは声門音ではなく、冷たいイメージを持っている)。
素直に反射的に出る言葉は言葉の原型的な言葉である。いろいろと意識するほどひねった表現となる。日本人のくせに英語で反応するような人は相当意識しており、いわゆる、ブリッ子である。芸能人の職業的表現は別にしても、このキザなブリッ子的発言は大人の男にも結構見受けられる(ウケを狙っているのだろう。大人の男も意外とカワイイのである)。
     (平成24年5月21日)

   マルマル、モリモリ  

2011年流行語大賞の候補に‘マルマル、モリモリ’というのがある。テレビドラマ「マルモのおきて」の主題歌である。
ところで、‘マルマル’、‘モリモリ’はオノマトペか。
‘マルマル’は‘丸’、‘丸い’から出来た表現だという。そして、‘モリモリ’は‘盛り上がる’から出来た言葉だという。とすると、‘丸’、‘盛り上がる’は‘語感’から出来た言葉だということになる。なぜなら、‘マルマル’、‘モリモリ’が、いかにも‘語感’通りだからである。
‘語感’からいうと、‘M’には基本的に膨張のイメージがある。‘M’は両唇鼻音で一旦口腔に息を大きく溜め、唇、鼻から息を静かに出して発音するからである。
‘Ma’は文字通り口腔を丸く膨らませて、マイルドに息を広く出して発音する。‘Mo’は口腔の奥を丸く大きくして籠もるように発音する。
このように、‘Ma’は膨張の‘M’と広がりの‘A’がいっしょになって、まさに満々のイメージから‘丸’、そして‘丸い’のイメージとなる。
‘Mo’は膨張の‘M’と内に大きく纏まりパワーの感じられる‘O’が一緒になって、充ち充ちるイメージ、そして‘盛り上がる’イメージとなる。
同じマ行で、‘Mu’となると膨張の‘M’と内からの衝動的動きの‘U’が一緒になって、内側から押しあがるイメージとなる。ここからオノマトペ‘ムクムク’、ムカムカ‘が出来た。’ムズムズ‘ムンムン’もこの流れだろう。(ちなみに、‘むずかしい’という言葉も‘ムズムズ’と関係がありそうだが、どうだろう。)
‘Me’になると‘E’に下に平らに押さえ込まれるイメージと繋がりのイメージがあり、‘M’の膨張のイメージと衝突するため、その抵抗に打ち勝っての‘メキメキ’、‘メラメラ’のイメージになり、強引に引き裂くイメージの‘メリメリ’ともなる。
‘Mi’も‘i’の直線の細いイメージと‘M’の膨張のイメージが反するため、複雑であるが、‘i’のもつ大切なものとのイメージから、満ち満ちたもの、すなわち‘実’、あるいは‘身’などの言葉に繋がったのだろう。
オノマトペ‘ミルミル’にも‘M’の膨張のイメージ、‘i’の真っすぐのイメージが生きているが、‘みるみる’は‘見ている間に’の‘見る’から来たものとも考えられオノマトペではないかもしれない。ただ、‘見る’という言葉自体、目を意味する‘Ma’,‘Me’から出来たとも考えられ、‘Ma’は目が丸いことから出来た表現とも思われるので、結果的には、‘目’も‘見る’も‘みるみる’も‘語感’から出来た表現と思われる。
‘目’がかっては‘Ma’と発音されていたであろうことは‘まつげ、まひげ、まなこ’などの表現が残っていることから推測されるが、それがナゼ‘Me’になったかは分からない。一つ考えられるのは、古モンゴル系の縄文人は丸い目をしていたが、新しく入ってきた新モンゴル系の弥生系の人々は切れ長の目をしており、‘Ma’よりも‘Me’の方が相応しいと感じられたのかもしれない。また、‘e’は日本語の五つの母音の内もっとも新しく入ってきたもので、入ってきた当時は新しい音、すなわちハイカラな音だったのではないだろうか。なお、‘i’になると縦長の目ということになり、相応しくない。‘Mu’になると出目になってしまう。‘Mo’なら奥目か。

オノマトペ‘マルマル’が先に出来たか、言葉‘丸’、‘丸い’が先か、いずれにしても、‘丸’という言葉が‘語感’と繋がっているということである。すなわち、‘丸い’という言葉の意味と‘マル’という音は、必然ではないとしても、少なくとも無関係ではない。それを恣意的といっていいのだろうか。
以上のように、丸、丸い、盛る、盛り上がる、むかつく、むせる、目、芽、見る、身、実なども‘語感’から出来た言葉と思われる。そして、‘盛る’から‘森’も出来た。‘むせる’から‘むす’、そして‘息子、娘’も出来た。木の‘実’二つから‘耳’も出来た。
このように、日本語には‘語感’と繋がりのある言葉がたくさんある。そろそろ、日本語言語学もソシュールの言語学第一原理の呪縛から脱すべきではないだろうか。

M行のオノマトペでいえば、‘モクモク’と‘雲’、‘まざまざ’と‘様’との関係がおもしろい。いずれも意味的に繋がりがあるが、音が逆になっている。どちらが先に出来た表現かは分からないが、いずれも’語感’に非常によく添っている。‘雲’が‘モクモク’から出来たとすれば、読みは‘MoKu’になるはずである。しかし、‘雲’の印象は、‘Mo’的なものが‘Ku’的な状態にあるというよりは、‘Ku’的なものが‘Mo’的な状態にあるといった方がピッタリである。ここから、逆にしたのではないだろうか。同じように、‘様(SaMa)’を逆にして‘MaSa’、これを強調するため濁音化して‘MaZa’となり‘まざまざ’となったのだろう。(‘SaMa’からは‘さまさま’、‘さまざま’も出来た。‘まざまざ’と‘まさに’、‘まさか’は関係があるだろう。しかし、‘さま’と‘まざまざ’は意味的にも強い繋がりが感じられる。)
このように、逆にして効果を出す表現は、この他にも次のようなものがある。

 キズがズキズキ痛む
 ツブツブがブツブツ出てきたので、ブチブチとツブした。
 ブツブツとツブやいている。
 コセコセとセコいことをする。
 モゴモゴと口ゴモる。

オノマトペが先に出来、そのオノマトペからいろいろ言葉が派生してきたのか、一つの言葉がまず出来、その言葉からいろいろな言葉が派生し、その中にオノマトペも派生してきたのか、なかなかむつかしい。いろいろなケースがあったのだろう。しかし、いずれにしても日本語にオノマトペと繋がりのみられる言葉が多くあるのは、日本語には‘語感’から出来た言葉が多いということになるのではないだろうか。なぜなら、オノマトペの大半は’語感’に添っていると思われるからである。
     (平成23年11月26日)

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