新しい言語学

エッセイ

   「日本語を翻訳するということ」を読んで  

著者は、米国で長年、日本語、言語学、日本文化を教えてきたプリンストン大学名誉教授・牧野成一。サブタイトルが「失われるもの、残るもの」となっている。海外で、日本語を教えてきた経験から、日本語を日本語らしくしているものは何か探ろうとした本である。
牧野先生が、日本語を英語に翻訳することによって、こぼれ落ちるものとして、最初に挙げたのが、響きである。当然と言えば当然である。日本語の音から英語の音に変わるのだから、音も変わる。日本語と英語、それぞれの音の体系が違うので、音としては大方のものが落ちてしまう。ただ、先生が落ちると言っているものは響きそのものよりも、響きの伝える何ものかである。先生は、それを象徴性と言っている。「音には象徴性があります」と。先生は‘語感’の存在に気付いておられるのである。ではなぜ、象徴性が生まれるのか。薄々は感じておられるようではあるが、メカニズムにまでは、ふれておられない。                          
「セーター、編めた{ので/から}送ります。素敵なピンクでしょ。車椅子でも颯爽としていてね。」との「日本一短い「母」への手紙」の文章で、「ので」だと母に寄り添った気持が表現できるが、「から」だと距離を置いた心理が出てしまうと言っている。それは、「ので」には鼻音の共鳴効果があるが、「から」は口蓋音の冷たい音だからだとも言っている。全くその通りで、鼻音 /m/、/n/、/N/ は、息を鼻腔に流し共鳴させるので、粘り気、湿り気があって、親しさを感じさせるが、口蓋音 /k/、/g/ は喉の奥を固くして、そこを破裂させて息を口腔に流し込むので、固くキレがあり、乾いて冷たい感じがして、距離を感じさせてしまうのである。その他、{に/から}、{のに/けど}、{のに/が}の例をそれぞれ挙げて、助詞の語頭の子音が鼻音であるか、口蓋音であるかの違いを、受ける感じの「感覚性」「主観性」 対 「冷たさ」「客観性」の違いとして説明している。言葉の音の象徴性の違いとして、非常に分かりやすい。接続の助詞の選択だけでも、その音のもつ象徴性の違いによって、文全体の伝えるニュアンスが大きく変わってくるのである。当然、英語への翻訳に際して、直訳ではこの象徴性が消えてしまう。こぼれ落ちてしまう。ここが翻訳の本当の難しさなのだろう。ここでの、牧野先生の、接続助詞の語頭の音素の象徴性が、意味に加えて気持ちを伝えているという指摘は重要である。私は、接続助詞だけではなく、言葉一つ一つの語頭の音素、あるいは拍が、気持ちを伝えていると思う。もちろん、その言葉を構成するその他の音素、そして拍も気持を伝えているが、その効果に違いがある。主役と脇役の差である。ただ、日本語の場合、言葉の最後の音が準主役的働きをしている場合も多い。
松尾芭蕉37歳の作、「枯枝に からす乃とまりたるや 秋の暮」 と、その12年後、死の一年前に作り直した、「かれえだに からすのとまりけり 秋のくれ」 を比較して、芭蕉がなぜそうしたかを考察している。平仮名書きが多くなったことについては、「ウチなる孤独の気持ちはウチ的な平仮名で表現したのではないでしょうか」と言っている。ここで、「ウチ」と言っているのは、内面性、情緒のことであろう。漢字が論理的、客観的なのに対し、女手ともいわれた平仮名は情緒的で主観的である。その通りである。そして、「たる」を「けり」に変えたことについて、「たり」は「てあり」の縮約形で〈状態の継続〉を表しているが、「けり」にすることによって、「そういう状態なんだと気がついた」ということを表現しているのだ、と言っている。やはり、象徴性の違いに気付いておられるのだ。‘語感’からいっても納得できる。先生は、「けり」には「印象を新たにした」、すなわち「新しい気づき」が感じられるとしているが、/e/ の「繋がり」に /k/ の「切り」が乗っかり、/ri/ の「言い切り」で、「けり」には、切れがあって、さらに諦念さえも感じられる。ちなみに、芭蕉のこの句には、「枯れ」、「からす」、「けり」、「暮れ」と、語頭に /k/ 音が使われている。たまたま、というよりも、芭蕉のこのときの心風景がこれらの音を選ばせたと思う。口蓋破裂音 /k/ について、先生は、「対象と距離を置いて客観的な事実を表現する際には口蓋破裂音を含む語が選ばれ、・・」とおしゃっているが、この /k/ には、切れのある固さ、冷たさ、そして、回転、カーブなどの曲的な動き、さらに、薄さ、淡さ、なども感じられる。しかし、距離的には、‘あそこ’‘そこ’に対して‘ここ(KoKo)’は身近である。芭蕉は、冷たい客観の中に諦念としての主観を投影させているのであろう。
先生は、これらの象徴性の根源をアメリカの神経生物学者・マーク・チャンギージーの自然模倣説に求めておられるようだが、私は、それは違うと思う。マーク・チャンギージーは、著書「〈脳と文明〉の暗号」(Harnessed How Language and Music Mimicked Nature and Transformed Ape to Man)のなかで、自然界の「ぶつかる」(hit)という物理的な出来事が出す音から、破裂音 [p]/[b]、[t]/[d]、[k]/[g] ができ、「滑る」(slide)から、摩擦音 [s]/[z]、[f]/[v]、[sh]/[th] ができ、「鳴る」(ring)から、共鳴音 [r]、[l]、[y]、[w]、[m]、[n]、ができたとしているが、これは乱暴で、無理があると思う。言語音の根源を自然界の物事の声帯模写としているのだが、それでは、母音はどうなのだろう。言語成立の順序として、まず母音が発声できるようになり、そこで、初めて言語音になったのではないだろうか。そもそも、「ぶつかる」と破裂では物理現象としても異なる。また、「鳴る」から共鳴音ができたとしているが、母音も共鳴音である。母音も「鳴る」からできたのか。[r]、[l]、[y]、[w]、[m]、[n]、を共鳴音として一律に扱うのにも違和感がある。 [n]、は鼻音で、確かに鼻腔で共鳴し響くが、何が鳴っているのを模倣しているのだろうか。模倣以前に、うめき声、唸り声、そして、甘え声だったのではないだろうか。 [y]、[w]、は半母音といって発声法としては母音である。[r]、[l]、は舌音ともいい、舌を震わせて発声する。ソクラテスは、舌を最も動かすので、動きを表すのにふさわしいと言っている。なお、日本語で鳴る音としては、[r] の「リーン」、そして、[m] の「モーモー」、「メーメー」、「ミシミシ」、「メリメリ」、ぐらいだろう。むしろ、日本語には鳴る音の代表として、「キン・コン・カン」「チン・トン・シャン」があり、これらはすべて共鳴音ではなく破裂音である(もっとも、共鳴音である母音は入っているが)。
私は、マーク・チャンギージーの発想は逆で、実際は、いろいろな音が出せるようになって、それらの音を使って、物理的な出来事を擬えるようになったのではないか、と思っている。そして、その擬えは、音としての模写もあるが、主に発声時の口腔内の発音体感からだと思う。
先生は、日本語の象徴性については、上記のように、口蓋音として [k]/[g] と、鼻音としての [n] を対照として、詳しく論じられているが、英語についても、オノマトペの機能を持った子音が続くことがあるとして、語頭の2子音の象徴性を紹介しておられる。
すなわち、
[sk-] − こつこつ
[sp-] − ぎらっと
[fl-] −  動く光
[gl-] −  動かない光
[sl-] −  湿っていて滑るもの
[kr-] −  やかましい音
である。
先生が、英単語からこのように抽出されたのは、象徴性があると思われたからであろう。しかし、なぜそのような象徴性がそれぞれ感じられるのかまでの究明はない。実は、このような英単語のもつ音象徴性については先行研究がある。音声学、英語学の研究者で九州大学名誉教授の西原忠毅が、「音声と意味」(SOUND AND SENSE)のなかで、上記の例を含めて、非常に詳しく論考している。
上記の例については、
[sk-] − ひからびた・かさかさした、表面を擦るような感じ。嘲笑、叱言の語にも関係がある。
[sp-] − 吹き出す(spurt)ような勢いが感じられ、細長いものをいみする語群を含んでいる。
[fl-] −  ひらひら・へらへらする軽く薄っぺらな(flippant)運動・形状、あるいは流動性(fluidity)を暗示する。
[gl-] −  この子音総は、/g/ のもつ本来の音感よりも /l/ の流動性が優位にあるような現象が見られる。従って音感的に /gr/ よりも /sl/、/fl/ の方に近い。次に光(light)に関する語群と、他の視線(look)などの流動性をもつものをまとめて示すことにする。光に関するものでは、次に前狭母音がくれば明るく、後狭母音がくれば暗く感じられ、語意と一致する。
[sl-] −  するするした滑らかさ(slipperness)を暗示する。平滑に関しては軟泥や細い平いものを意味する語が多く、また弛緩(slackness)・怠惰(laziness)の語群も含まれている。
[kr-] −  角立ち・屈曲・撃砕・粗雑等の暗示に適する。
このように言っている。
なお、ドイツの詩人ヘルマン・ヘッセも「幸福論」のなかで、Glűckの語感を「この語は、驚くほど重い、充実したもの、黄金を思わせるようなものを持っている、と私は思った。充実し、重みがたっぷりあるばかりではなく、この語にはまさしく光彩もそなわっていた。雲の中の電光のように、短いつづりの中に光彩が宿っていた。・・・溶けるようにほほえむように Gl と始まり、űで笑いながら短く休止し、ck できっぱりと簡潔に終わった。」と書いている。なお、このように、ヘルマン・ヘッセも言葉の語頭だけではなく、その言葉を構成するすべての音素に象徴性を感じている。
西原教授は、これらのことが起こる機序を大脳生理学者ラマチャンドランの唱えている「ブート・ストラピング仮説」に求めているが、私は、この「ブート・ストラッピング仮説」はラマチャンドラン博士の早とちりで間違いだと思っている。ラマチャンドラン博士は、(booba/kiki実験で、)形と言葉の音の結び付きを、脳内の視覚を処理する回路と聴覚を処理する回路が近接しており、そこでの混信だとしている。私は、視覚もベースとして触覚による確認を要するし、聴覚的印象も口腔内の発音体感であるから触覚であって、(booba/kiki効果は)触覚同士の類似性の気付きに過ぎないと思っている。(視覚で、ものの輪郭、そして、熱いか冷たいか、固いか柔かいかなどの材質感が分るのは、幼児期に手で触れ、舌で舐めて確認しているからである。都度その触覚による記憶は意識下で照会されているのである)。
 
 この本では、英語を日本語に、あるいは、日本語を英語に翻訳することによって顕わになった英語の特徴、日本語の特徴、さらに、欧米人、日本人のものの考え方の特徴的な違いの指摘などがあり、非常に参考になる。
 まず、欧米人と日本人のものの考え方の違いとして、「する」と「なる」があると言う。欧米の「する」は、人為であり、能動である。日本の「なる」は、自然・自発であり、受動であると。英語圏では受動態のような間接表現を嫌う傾向がかなり強く、英語には、事実を客観的に伝える能動文が多く、日本語には、主観的な感情の声を表す受動文が多い、と言っている。これは、哲学者の小浜逸郎が、著書「日本語は哲学する言語である」のなかで、「する」と「ある」の対立と言っていることに正に符合する。小浜逸郎は、「する」は人間が能動的になすことを指し、「ある」は人為では抗い得ずにそうあってしまう事態を指している、と言っている。そうあってしまうというのであるから、日本語では、「なる」と同じである。日本語の「なる」は「自然にそうなる」だからである。私は、欧米文化と日本文化の本質的違いを、「つくる」と「なる」の違いだと言ってきた。すなわち、欧米人は「神が人を創った」と考え、日本人は「神も人も生った」と考えてきたからである。この言い方、「つくる」対「なる」は、「する」対「なる」、あるいは、「する」対「ある」という考え方の一具体例ということも出来るだろう。結局、三者とも同じことを言っているのである。
 牧野成一は、この「人為」対「自発」に当たるものに、「考える」対「思う」があると言う。そして、「考える」は客観的な理性的な考えを表す他動詞で、「思う」は主観的な感情を表す自動詞だと言っている。「考える」と「思う」は違うのである。しかし、英語では、共に「think」と訳されてしまう。私は「思う」に当たる英語単語はないと言ってきた。牧野成一は、自発性の意味のすでに入っているような動詞を「自発自動詞」と定義し、日本語にはあるが、英語にはないと言っている。日本語の自発自動詞の例としては、「開く、閉まる、現れる、変わる、育つ、治る、見える、気が付く」などがあり、受身文では使えないとしている。ただ、「思う」にはその受身文「思われる」があるので、「思う」は少し違うのだろうか。「思い思われ、振り振られ、・・」の「思う」は自動詞ではない。「考える」は確かに人為である。そして、「思う」は自発である。「思う」には他動詞としての用法と、自動詞としての側面があるということなのだろうか。
 この「人為」対「自発・自然」の対立、すなわち、「する」対「なる」の対立の理由を、牧野成一は「日本人は自然との共存意識が強い」からだ、としている。そして、それを「共感」という言葉を使って説明しているが、私は、それを仲間意識として考えていて、共感では少し客観的過ぎる感じがしている。共感とは、個々に独立したものの、共に感じ合うイメージだが、私には、個々ではなく、繋がっている感覚が強い。デジタルではなくアナログなのである。‘個’の存在すら、物理的にはデジタルだが、メンタル的にはアナログなのである。少なくとも、日本人は、アナログを志向しているのである。
 小浜逸郎は、この「する」対「ある」の対立を、「人為」対「諦念」としている。「ある」を「人為では抗い得ずにそうあってしまう」としているが、それでは、人為が前提となっていて、西洋思想に引っ張られている。「あるものはある」で、私はそれでいいと思う。自然にそうなのだから、自然でいいと思う。そうすると、「人為」対「自然」であるから、牧野成一と同じだということになる。そして、小浜逸郎は、この違いの原因を、欧米人に見られる「悪しき西欧的言語観」であるとし、「論理的陳述の問題に偏り、情緒の問題をないがしろにしている」と言っている。そして、それは「神を唯一絶対的に超越した神と考えるユダヤ=キリスト教的な考え方」とか、理性中心主義とか、「周辺世界をすべて設計されたものと見なすような世界観」とかによるとして、それらは欧米型個人主義とあわせ、そうならざるを得ない歴史的必然性があった、としている。一方、日本人については、日本語は状況依存型の言語で、「孤立しやすい地理的条件下にある地域が、共通して言語構造の古形を保存している可能性が高い」としている。そして、「日本語が、欧米語のように「○○は○○である」という事実の陳述に重きを置く言語であるよりも、その時々の相手との関係を重んじる言語である」としている。共感という言葉こそ使っていないが、日本語について、二先生とも同じようなことを言っておられるようだ。また、日本語が古形を保存している可能性については、日本語が未だ母音中心であることも、その一つの証かもしれない。
 日本語の「〜できる」という言い方にも二先生は良く似たことをおっしゃっている。牧野成一は、「「できる」は何かをする能力が「自然に出て来る」という意味です。そこが決定的に英語と日本語が違うところです」と言い、小浜逸郎は、「「出来る」というのはもともと自分とは別の何かが「いでくる」からきています」と言っている。小浜逸郎の言い方はややオカルト的だが、古代人の感覚はこうだったのかもしれない。お二人は、ほぼ同じことを言っておられる。
 牧野成一は、英語人は日本語人のように人間以外の植物を含む生き物の擬人化を嫌う傾向が強い、とも言っている。人間と植物との心理的距離感の違いである。日本人は一輪の野の花にも、仲間として、語り掛けたりもする。欧米人は、基本的に自然界のものを仲間と考えたりはしない。日本人にとって、自然はこちら側にあり、欧米人にとっては、自然はあちら側にあるのである。
 また、牧野成一は、英語ではオノマトペを使うと子供っぽいという印象が強く、あまり使われないとしているが、これは、欧米人が子供っぽいことを未熟として避ける傾向にある故であるが、日本人は、むしろ、純粋で本来のものに近いとして、大切にする傾向にある。欧米人と日本人の、自然であることに対する感覚の相違である。
 在日36年のアメリカ人英語教師・マーク・ピーターセン明治大学名誉教授は、著書「英語のこころ」のなかで、日本では、老人に必然的に起きうる老化現象を肯定的に捉えようとするが、英語圏では、年配であることは基本的に恥ずかしい気分を起こさせるので、率直に言うと悪いことであるという暗黙の前提がある、と言っている。また、日本では身内でもない老人のことを「おばあちゃん」「おじいちゃん」と呼ぶことがあるが、これは英語ではなかなか真似できない。「子ども扱い」する呼び方はやめるべきと非難されるかもしれない、とも言っている。老人であることは恥ずかしく、子供であることは未熟ゆえに軽視されるのである。同時通訳の松本道弘は、著書「難訳・和英「語感」辞典」のなかで、日本語の「無理するな」が、英語では「Don’t fight it.」になるとして、アメリカはfighting cultureだ、自然さがfightと結びつく発想についていけない、と言っている。老人も子供もfightできないから、一人前ではないのである。Fight、すなわち、「する」である。「する」文化では、老人、子供は評価されないのである。「ある」文化の日本では、それなりに老人は尊敬され、それなりに子供は愛しまれる。日本人は「ある」をあるがままに受け入れるのである。やはり、ここにも「人為」対「自然」の対立が見られる。

 結局、欧米人のものの考え方と日本人のものの考え方の違い、すなわち、欧米文化と日本文化の違いについて、先生方は同じようなことを言っておられることになる。欧米人のもの考え方が「人為」をベースとしているのに対し、日本人のものの考え方は「自然」、あるいは、「自発」をベースとしているということである。この欧米人のもの考え方と日本人のものの考え方の違いの根底には、欧米人と日本人の、人間の自然との関わり方についての考え方の違いがある。すなわち、欧米人は、人間が第一で自然は人間が対抗し、征服すべきものと考えているが、日本人は、人間も自然の一部であって、共存共栄すべきものと考えている。そして、日本人のこころには、自然、そして周りのものすべてに対する感謝の気持ちが根底にある。欧米人のこの考え方は、唯一絶対の神が人間も自然も創ったというレトリックの結果でもあり、また、その原因でもある。他文化から客観的に見れば、唯一絶対の神も人間が創作したものにすぎず、結局、人間が唯一絶対の存在だと言っているにすぎない。この人間第一絶対主義は、唯一絶対の神を口実にした自己欺瞞にすぎない。ただ、この欧米文化、そして、そのものの考え方が現在の近代科学文明を作り上げたのも事実である。この物質文明もそろそろ限界かもしれない。いやすでに行き過ぎたかもしれない。出生率が低下し始めている。進化の神は地球人類の人種構成を変えねばと考え始めたのかもしれない(神なんていないけれど)。
生物学的には、人間は‘知’と‘情’の両面をもつが、古代ギリシャ哲学で始まった‘知’を優れたもの、‘情’を劣ったものとする知第一主義(理性中心主義)と唯一絶対神を前提とする人間第一主義が、やがて、どこかで結びついてしまった。これは、基本的に、人為である一神教は理屈の宗教であり、一神教は‘知’とは相性がよいからである。しかして、現在の人間第一主義は知第一主義・理性中心主義でもある。ちなみに、名古屋大学名誉教授で物理学者の三田一郎は、著書「科学者はなぜ神を信じるのか」のなかで、「国連のある調査では、過去300年間に大きな業績をあげた世界中の科学者300人のうち、8割ないし9割が神を信じていたそうです」と言っている。ちなみに、ここでの神は一神教の神である。
一方、日本人の考え方は、人間も自然の中に生まれ、自然に生かされて育つ、周りの生き物たちも、また同じ、というごく自然な考え方である(この考え方は、日本人にとっては、というだけかもしれないが、理論的には、最も客観的な見方である)。その結果、日本人は、人間同士はもちろん、自然とも動植物とも繋がっていると感じている(これは、今も日本語に母音が、そして‘語感’が残っているからかもしれない。母音が自然音でアナログ(連続音)だからである。子音は人工音(人為)でデジタルだから、繋がっていない)。
 この欧米人のものの考え方と日本人のものの考え方の違いは、欧米語と日本語の違いとしては、典型的には、「する」と「なる」、あるいは、「する」と「ある」の違いとして現れている。私の表現では、「神が人を創った」と「人も神もなった」の違いである。
 その他、欧米語は、主体としての能動文が多く、日本語は受動文が多い。ただ、受動文といっても、単なる受身ということではなく、自ずからそうなる、あるいは、自ずからそうあるという自発である。‘知’を第一とする欧米語では、客観的に事実を情報として伝えることを旨として、主語のはっきりした説明文のようになる。‘知’に偏ることを嫌う日本語では、主観的に情緒・感情を交えて感想文のようになる。日常会話の現場では、欧米語が主語を立て客観的表現を堅持するのに対し、日本語では、主語は必要ではなく、その場その場で、相手により呼称まで変え、リアルなオノマトペ、そして、感情の伝えやすい助詞を多用する。欧米語では、オノマトペ、擬人化は子供っぽいとして、避けられる。なお、牧野成一がこの本で、欧米語にオノマトペが余り使われない理由に関して、日本語が聴覚―視覚型であるのに対し、英語が視覚型だと言っているのがよく分からない。英語を話すスタンスが客観的なので視覚型と言っているのかもしれないが、言語である以上、聴覚が主であろう。一方、日本語には同音異義語が多くあり、聞いた時も話す時も、脳の中で必ず漢字と照合しており、すなわち、視覚野を使っており、視覚―聴覚型と言える。さらに、日本語では、subliminal impression としての‘語感’を感じ分けているため、触覚も使っており、視覚―触覚―聴覚型とも言える(‘語感’は発音時の口腔内体感、すなわち触覚だから)。日本語は多脳言語(multi-sensory language)なのである。この意味でも、日本語はanalogな言語なのである。

 以上、欧米語と日本語の違いを纏めてみたが、私は、この違いを、digitalとanalogの違いと表現してきた。こころは、analogは繋がり、digitalはばらばらなのである。基本的に、人と自然との関係性の違いである。(なお、欧米語と日本語の違いとして、本質的なものとしての‘語感’の効き方の違いがあるが、今回はそれにはほとんど触れていない)。
    (平成30年9月20日)

   追補 主観と客観、そして、意識の誕生 (日本語とは何か)  

日本語は主観の言語である。
英語は客観の言語である。
ところで、主観とは、客観とは何か。なにが違うのか。
日本語の「悲しい」は、自分の気持ちそのままの表明である。主体である私の感情のそのままの表明である。いってみれば、主感の告白である。ただ、言葉、例えば‘悲しい’という言葉は概念である。事態を抽象化し、言の一葉に託したものである。感情という事態を ‘悲しい’という言葉に見做したのである。そういう意味で「悲しい」という表現は主観である(観るという見做しが入っている)。
言葉が発明されたことによって、主感が主観として表明することができるようになったのである。
英語の「I am sad.」を日本語に直訳すれば、「私は悲しい状態にある」となり事態の説明である。これは、第三者の立場に立って自分の状況を観察し、これを描写しているのである。
これが客観である。
日本語の「悲しい」により近い英語訳は「I feel sad.」である。‘feel’は主感である。ただ、どう‘feel’するかという意味で‘sad’を加えなければならないので、やはり説明的となってしまう。英語には、例えば「I sad.」、あるいは「I sady.」という表現はありえないのである。

人間が、自分を離れ第三者の立場から自分を眺められるようになったのは何時か。
私は、大脳に新皮質が誕生してからだと思う。
近年、ミラーニューロンの存在が話題になった。ミラーニューロンとは脳の中で、他人の行動を見ただけで、あたかも自分もその行動をしたかのように活性化する細胞群である。そして、それが相手の気持がわかり、共感できる理由ではないかと考えられている。
私は、新皮質の神経細胞そのものがそのような特性をもっているのではないかと思う。
新皮質は旧脳、脳幹の活性化をシミュレートし、評価するために生まれてきたのではないだろうか(これが、大脳が二重構造になっている理由)。そして、その進化がある段階に達して意識という現象が起こるようになったのではないだろうか。
シミュレートするということは第三者になれるということである。旧脳にとって、その活動をシミュレートし、評価する存在の新皮質は第三者である。自分という一つの主体の中に、新しく新皮質を獲得したことによって、第三者も併せ抱え込むことができるようになったのである。このことが客観を可能にし、主観も可能にしたのである。
この新皮質の活性化を、言語を得ることによって、意識できるようになったのではないだろうか。言語をまだ獲得していなかったネアンデルタール人は、思いはあっても意識まではなかったのだろう(多少、definitionの問題でもあるが)。そして、生存競争に敗れた。
少なくとも、言語を獲得したことによって、人間の思考は飛躍的に進化したと思われる)。
言葉は音声を使っての符号である。しかし、同時に音声は音象徴(語感)を持っているのである(dual structure)。そして、日本語はその音象徴(語感)を活かして作られている。
日本語では、自分の気持、主感を言葉という媒介を使って主観として対外的に公表する。その言葉を聞いた人は、その言葉の意味するところを理解するだけではなく、音象徴(語感)を自分の脳の中に再現することによって、発信者の気持を共有する。
意味を客観的に理解するだけではなく、気持を共有し客感するのである。
日本語の日常会話は、表面的な語彙の意味だけで交わされるのではない。語感を共有し、主感を客感し合っているのである。
日本語はdual channelを持ったdouble task言語なのである。
    (平成26年5月5日)

   日本語とは何か ( 日本語と英語は本質的に違う )  

世界には、本質的に異なる言語が、二種類ある。
少なくとも、日本語は英語とは本質的に異なる。多分、欧米の他の言語とも本質的に異なるだろう。
日本語と英語のそれぞれの語彙、文法、そして発音が違うのは勿論であるが、日本語と英語の基本的なスタンスが全く違う。
結論から言うと、日本語は‘気持’を伝えるための言語であり、英語は物事、すなわち‘モノ・コト’を伝えるための言語である。
日本語は自分の気持を相手に伝えようとするのだから、当然、‘主観’の表明である。
英語はモノ・コトを伝えようとするから、‘客観’的説明となる。
そして、その結果、日本語は自分の主観的気持を述べる‘感想文’とでもいうようなものになってしまう。これに対し、英語は客観的にモノ・コトを伝える‘説明文’である。
気持と事実(モノ・コト)、主観と客観とはまさに正反対のものである。主観的気持を主観的に伝えようとする日本語と客観的事実を客観的に説明しようとする英語は本質的に異なる言語である。

具体的にどのように違うか。いくつか例を挙げてみよう。
机に指を挟んで思わず出る言葉は、日本語では‘イタ!’であり、英語では‘ouch!’であろう。この日本語の‘イタ!’と英語の‘ouch!’は共に自分の気持、すなわち主観を表明した言葉である。
日本語のこの‘イタ’と「指が痛い」の‘痛い’は同じ言葉である。‘イタ’、‘痛い’、‘痛み’、‘痛む’、そして‘痛々しい’なども全て同じ言葉から派生したものである。
ところで、英語で「指が痛い」は何というか。
I feel a pain at my finger.
又、「頭が痛い」なら、
I’ve got a headache.
「胃が痛い」なら、
My stomach hurts.
であろう。どこにも主観を表明する言葉‘ouch’はない。
これらの英語表現は、それぞれ主語があって、事態の客観的説明である。
一方、日本語の、
「指が痛い」
「頭が痛い」
「胃が痛い」
には主語がない。‘指’、‘頭’、‘胃’は主語ではない。‘痛い’と感じるのは本人、すなわち私であって、‘指’も‘頭’も‘胃’も感じる主体ではありえない。‘痛い’は、主観的気持の表明である‘イタ!’と同じ言葉である。‘痛い’は主体としての私が前提となっているのである。言い換えれば、私が含まれているのである。
日本語「うれしい!」を英語では何と言うか。
I am glade.
I am happy.
I am pleasant.
などであろう。いずれも事態の説明である。逆に、日本語に直訳すると「私は嬉しい状態にある」となる。
「私は嬉しい」と「私は嬉しい状態にある」とでは違う。「私は嬉しい」は主観の表明、「私は嬉しい状態にある」は客観的説明である。日本語‘うれしい’は主観の言葉であって客観ではありえない。逆に英語‘happy’は事態、すなわち客観の表現であって、主観、すなわち実感を表現はしていない。
日本語の主観的体験である‘悲しい’、‘さびしい’も英語では、
I am sad. I am unhappy. I feel lonely.
となり、客観的説明となってしまう。
英語には主観的体験を主観として表現する言葉がないのではないだろうか。英語の‘ouch!’は数少ない主観を表現する言葉ではあるが、感嘆詞の扱いであって、この言葉と直接つながる形容詞、動詞、名詞は見当たらない(‘ache’がどこか遠い昔でつながっているのかもしれない)。(なお、‘feel’は主観の言葉ではあるが、具体性に欠け、‘何を’が必要で、やはり説明的な言葉になっている)。
日本語の‘おいしい’の英語は、
It is delicious. This tastes good.
で、主語は‘It’、および‘This’であるが、日本語には主語はない。「このおすし、おいしいね」とも言えるが、おいしいと感じているのは自分たちである。‘おいしい’はあくまで主観的実感の表明であって、事実の説明ではない。親が幼子に何か食べ物を与えて、「おいしい?」と聞く、その食べ物が美味であることは分っているので、これは子供の主観を聞いているのである。子供にそのおいしさが分るかどうか試しているのである。
「体調が悪いので、今日はおいしくない」という言い方にも‘おいしい’が主観を表す表現であることが表れている。
「好きやねん」、英語で何と言うか。
I love you.
だろう。しかし、「好きや」と「I love you.」は違う。日本語の‘好き’には自然にそうなったというニュアンスがあるが、英語の‘love’には意思、作為が感じられる。‘好き’は‘情’の言葉だが、‘love’は‘知’の感じが強い。したがって、あえて言えば、‘好き’は‘love’よりも‘like’に近い(このように私が感じるのは、私が‘love’に‘logos’を感じ、‘like’に‘life(命)’、‘live’を感じるからだろうか、連想として)。
I like you.
と言われると、英語人はどのように感じるのだろうか(あんたはオモチャ、それとも食べ物?)
ちなみに、「好きやねん」の‘ねん’には念押しのニュアンスと共に諦念のニュアンスがある(音象徴として、粘りとその終了のイメージがある)。理屈抜きで好きだからしょうがないという、諦めの果てのやや開き直りの表現なのである。このような表現が英語で出来るだろうか(そもそもそのような考え方が英語人にあるだろうか)。

我思う、故に我あり 
cogito, ergo sum
デカルトの有名な言葉である。フランス語では、
Je pense, donc je suis.
この英語訳が、
I think, therefor I am.
である。
ところで、英語の「I think, therefor I am.」と日本語の「我思う、故に我あり」は同じか。違う。違うのである。
「I think, therefor I am」を日本語に直訳すると、「我考う、故に我あり」となる。
‘思う’と‘考える’は違う。‘think’は‘思う’よりは‘考える’に近い。この関係は、‘好き’が‘love’よりも‘like’に近いのに似ている。
英語に‘思う’に当たる言葉はない。日本語には‘感じる’、‘気がする’、‘思う’、‘考える’の四段階があるが、英語には‘feel’と‘think’しかない。
英語の‘think’は‘知’の行為、いわゆる大脳新皮質での作業である。日本語の‘思う’は旧脳での作業、いわゆる無意識層での行為が含まれる。知的作業である‘考える’に対して、思考過程が必ずしも意識上に上げることの出来ない行為が‘思う’なのである。もっと思考過程が不確かになると、日本語では「気がする」とか「感じがする」となる。
人間の脳の中では、意識に上らない計算、すなわち判断、予測などが常に行われている。意識上の行為、判断、予測などの作業のバックグランドでも意識に上らない意識下での作業が行われている。クイズなどで正解が突然ひらめくのも、意識下でのアシストがあるからである。脳内での作業は意識に上がらないものが大半であって、意識出来るものはごく一部に過ぎない。日本語では、この意識上での作業を‘考える’とし、意識に上げることの出来ない行為を含んだものを‘思う’と表現するのである。
英語の‘think’は意識上の作業のみを指すようである。理屈、すなわち論理のない脳内活動は‘think’とは見做さないようだ。そして、英語人は、知的なこと、すなわち‘think’のみに価値を置くようである。知への極端な偏向である。逆に日本語人は、‘考える’のみを軽薄なこととし、‘思う’をより重要と考える傾向がある(例えば、薄っぺらな考え、深い思いというような表現)。
日本語の‘思う’は主観的な言葉である。‘知’よりも‘情’に近い言葉である。‘think’は客観を指向する行為である。もちろん‘知’の行為である。英語には客観としての言葉‘think’しかない。日本語では、もともとは主観としての言葉‘思う’しかなかったのだろう。そこに新しい概念として‘考える’という言葉が考え出されたのだろう。

cogito, ergo sum
を英語の「I think, therefor I am」と解するか、日本語の「我思う、故に我あり」と解するかには大きな違いがある。
「I think, therefor I am」は、自分が知的行為として行うということであるから、人為、作業、あるいは努力のニュアンスがある。これは‘知’を至上のものとする主知主義(intellectualism)、そのものの宣言である。
一方、「我思う、故に我あり」は主観を全面的に肯定するもので、自分の全てのあり方をそのまま肯定、受け入れるものである。主知主義に対し、ありのまま主義というか、自然のままが一番という自然第一主義である。
この‘think’と‘思う’の違いは、欧米文化と日本文化の根本的違いを表しており、哲学の違いにも表れている。すなわち、‘知’を第一とする欧米哲学は、人間の存在そのものを問うことから始まる。一方、人間の存在そのものはあるがままに受け入れる日本の哲学は、存在を前提として、その上でいかにあるべきかから出発する。したがって、日本の哲学は哲学というよりは倫理に近くなってしまう。そして、このことは、宗教面でも、一神教対汎神教という違いとなって表れている(言葉の違いから見える文化の違いを言っているのであるが、これは文化によって言語が違ってきて、その言語によって文化が次代へと引き継がれていくのである)。
なお、一神教を宗教だとしても、汎神教、多神教、自然教が宗教かという議論もあるが、人間には信仰心というものがあって、ただ文化によってその表れ方が大きく異なるということであって、definitionの問題に過ぎない。日本人には哲学もなく、信仰心もないという言われ方をすることもあるが、これは文化が根本的に違うからに過ぎない。

日本語の、‘もったいない’、‘ごちそうさま’、‘いってらっしゃい’、‘ただいま’、そして‘わび’、‘さび’などの言葉が英語にはないが、これらはそれぞれの文化がある程度進んだ段階で出てきた言葉で習慣の違い、ひいては文化の違いで、それぞれの文化の多様性を表しているに過ぎないのかもしれな。
しかし、‘好き’、‘うれしい’、‘悲しい’、‘さびしい’、‘おいしい’、‘思う’など主観を直接表現する言葉が英語にないのは、言語の本質的違いを表している。
主観と客観という言語の本質的違いによって、逆に、英語にあって日本語にない言葉もある。より基本的な、そして本質的なものとしては、
‘it’、‘I’、‘you’がある。すなわち、日本語には、‘it’、‘I’、‘you’に当たる言葉がない。
「It rains.」は、日本語では、「雨が降る」である。
「It is a book.」は「それは本である」であり、日本語の‘それ’は英語の‘that’に当たり‘it’ではない。
「Do it yourself.」は「自分でやれ」で、‘it’はない。「自分でそれをやれ」という意味としても、この‘それ’は‘that’であって、‘it’ではない。
「It is difficult to do.」は「むつかしい」、あるいは「やるのは困難だ」で、‘it’に当たる言葉はない。客観表現をしない日本語には抽象概念としての‘it’は必要ではないのである。
「I am happy.」を日本語にすると「幸せだ」、あるいは「幸せです」、せいぜい「幸せだなあ」で、どこにも‘I’はない。どうしても自分と言わなければならない局面でも、日本語では‘I’というような抽象的な表現はしない。年長者に対しては‘私’、妻に対しては‘僕’、幼馴染の友人には‘オレ’、わが子に対しては‘お父さん’と言う。
‘you’についてはなおさらで、余程のことがない限り、相手に対して‘お前’と言うことはない。あえて言わなければならない時は、年長者に対しては‘あなた’、妻に対しては、大抵は‘お母さん’か‘ママ’、幼馴染に対しては、(敢えて、対等という気持ちを出すために)‘お前’、自分の子供に対しては直接その子の名前で呼ぶ。
日本語においては、お父さんも、お母さんも、そしてわが子も‘you’と呼ぶような抽象的な‘you’は、存在しないのである。
日本語には、客観的な‘you’など存在せず、存在するのは自分にとっての、すなわち主観としての私の父であり、私の母であり、わが子なのである。主観としてみれば、それらのものは‘you’として一つに括られるようなものではない。しかし、客観として、横から眺めると、‘I’に対する‘you’として、ありえるのであろう。
自分の気持を伝えようとする主観の言語、日本語は、その結果、当然感想文のようになってしまう。事実を客観的に伝えようとする英語は、当然説明文のようになってしまう。
日本語では、感想を私があなたに述べているので、一人称も二人称もいらない。したがって、日本語には‘I’も‘you’もないのである。感想は情的なものである。説明は論理的、すなわち知的なものでなければならない。したがって、‘it’のような抽象概念が英語にはあって、日本語には必要がないのである。
There is a pen on the table.
の‘there’も日本語では必要ではない。‘そこ’という意味での‘there’は日本語にもある。上の英文に対する日本語は、「机の上にペンがある」であって、「机の上、そこにペンがある」は過剰である。ここでの‘there’は‘そこ’という意味よりも‘it’と同じような役割なのではないだろうか。そのようなものは日本語にはいらない。

言語の起源については色々な説がある。
また、一つの言語から現在の色々な言語へと分れ、それぞれに変化していったという考えもあるし、多発的に一部別個に生まれたとする説もある。
今ある自然言語は、すべて音声言語として誕生した。言語の本質は音声言語にある。文字は、言語の誕生からは随分遅れて発明された。しかし、文字の発明によって言語は大きく進化した。そして、それと並行して人間そのものも進化した。特に‘知’の面で目覚ましい進化をとげつつある。ただ、だからといって、言語の本質が音声言語ではなくなったわけではない。言語の本質は音声言語にあるのである。
然るに、従来の欧米言語学は書かれた文章を研究対象の中心としてきたやに見える。人々の日常会話を軽視してきた。このことは、欧米言語そのものが客観を目指し、‘知’を至上のものとする傾向と符合する。しかし、人間は‘知’と‘情’の存在である。‘知’のみに偏ってしまっては人間の片面のみを見ることになってしまう。
言語現象は、人間を人間たらしめている極めて本質的なものである。したがって、言語の‘知’の面だけではなく、‘情’の面も併せて見なければならない。私はむしろ‘情’の面を中心に見るべきだと考えている。なぜなら、人間は生き物として‘知’の前に、あるいは前提として、‘情’の存在であるからである。‘情’の面を無視してしまえば、人間は人間ではなくなってしまう。
人間は‘think’するだけではない。人間は‘思う’のである。人間を‘知’と‘情’を合わせ持つ存在、‘思う’人間として捉えることが必要である。ものの考え方として、人間の人間本来のあり方、すなわち‘人間らしさ’というものを改めて考え直す必要があると思う。
言語についても、‘知’の面のみから見るのではなく、‘情’の面も併せ見るため、音声言語、すなわち日常の会話を主に研究の対象にすべきだと思う。

音声言語の起源にも色々な説がある。
私は、英語と日本語では起源が違うのではないかと思っている。
結論的にいうと、物事を客観的に説明しようとする英語は、「コミュニケーションの起源を探る」でマイケル・トマセロが言っているように、指さし、身振りから並行的に生まれてきたのだろう。
 一方、気持を主観的に述べようとする日本語はクーイングからではないだろうか。すなわち、赤ちゃんの甘え声、喃語、そしてお母さんのあやし声から言語化し、多様化していったのではないだろうか。「失われた名前」(マリーナ・チャップマン)のナキガオオマキザルのサル語はこの流れの中にあるのではないだろうか。ただ、サルは現生人類のように喉頭が直角に落ち込み、顎の退化により舌が自由に動くようには、まだ進化してはいないので、母音を明確に発音し分けることが出来ない。そのため、このサル語の言語への進化は当分無理だろう。
もちろん、指さし、身振りとの音声マッチング、そしてクーイングの言語化は同時に起こり併存していたかもしれない。そして、英語は身振り起源の言語が中心に、日本語はクーイング起源の言語が中心になって、それぞれ進化し現在に至っているのではないだろうか。
指さしは、物事を指し示し、他のものから切り分けることであるから抽象化の始まりである。身振りと音声を結びつけるのであるから、ここには必然性はあまりない。むしろ恣意的である。ソシュールが言語・ランガージュのうち個人的、すなわち主観に多く関わるパロールを捨て、社会的、すなわち客観的モノ・コトに関わるラングのみを研究の対象として取り上げ、あげく‘音と意味との恣意性’を言ってしまったのはやむを得ないことであったのかもしれない。(ただ、脳の中で、手の指を動かす神経のマップと口周りを動かす神経のマッピングが近接しているという事実はある)。
日本語は基本的に自分の気持を音声に置き換えるものであるから、気持と音声は直接結びついている。
どのように結びついているのか。
その結びつきは必然的ではないが、恣意的でもない。自然に、楽しい気持で何らかの声を出せば、楽しそうな声に聞こえる。寂しい気持で声を出せば寂しそうに聞こえる。ただ、同じ声の音でも、楽しげにも出せるし、悲しげにも出せる。しかし、言葉の音一つ一つには表現しやすい傾向というものがある。それは、それぞれの音の発声時の発音体感に違いがあるからである。
母音ア、イ、ウ、エ、オを発声するとき、それぞれ発音の仕方が違う。すなわち、唇、舌を動かして口腔をどのような形にするか、そして、そこへどのように息を流してどのように共鳴させるか。それぞれに違う。
体感は、まず唇を、舌を、ノドをどうするかによって生じる。そして、息をそこに流す結果としても生じる。
これらの体感の全体が発音体感である。一つの音の発音体感はイメージの複合体である。
自然に、‘ア’と発声するとき、口を大きく開けて、ノビノビと息を出す。この時体感としては、開かれたオープンで明るい気持がする。また、逆にオープンでノビノビ明るい気持のとき声を出すと、自然と‘アー’というような音になる。言い換えれば、‘ア’と発声するのが一番自然である。したがって、母音‘ア’の発音体感の基本には、開かれた明るさがある。
人間がもっとも自然に発声できる単音が‘ア’なのである。それ故、日本語の最初の音の一つが ‘ア’だったのではないかと思われる。何かを指さして(あるいは、何かを取ろうと手を伸ばして)、‘ア’という声を出した。そのようなことが度重なり、指さしなしで、‘ア’という音だけで、ものを指し示すことが出来るようになったのではないだろうか(偶然に、そして偶然が度重なって)。すべてのものを指し示す原初の言葉‘ア’の誕生である。最初は自分(吾)も‘ア’、アナタも‘ア’、アイツも‘ア’、アレも‘ア’だったのではないだろうか。ここから日本語としての‘ア’に実在感が感じられるようになったのではないだろうか。
実在を示す言葉として日本語には、‘アル’という言葉がある。「日本語の深層」を書かれた熊倉千之は、‘ル’が存在を意味するとおっしゃっているが、私は‘ア’が存在を表し、‘ル’は動きとしての事態を表しているのだと思う(古代人は在ること自体を動きとして捉えていたのではないかと思う)。
母音の中でもっとも口元に力を入れて発声するのが‘イ’である。自分の意思をもっとも強く出そうとした時の音が‘イ’である。また、‘イ’と発声するとき、口元を狭くし、意識が口先に行く、ここから絞り込まれた直線、あるいは鋭い点のイメージが体感として感じられる。同時に、これらのことから、固く、純粋で、知的なイメージも生まれる。
母音‘ウ’は、口腔の中の上の方、鼻腔の方へ息を抜くようにして発声する(極端にすると‘ン’になる)。ここから、‘ウ’の発音体感としては、動きと内面的なものが感じられる。心の中の声、ウナリは‘ウ’音である(‘ウー’だから唸ると言うようになった。呻きもそうだろう)。
母音‘エ’は、‘ア’と‘イ’の中間の音で、下顎を少し下後ろに引き気味に発声する。ここから躊躇感、そして少し引いた遠慮感が出てくる。
ちなみに、「‘エ’には‘遠慮感’がある」と言うと、それは単なる語呂合わせだという批判が出る。しかし、これは語呂合わせではなく、逆に‘エ’の音に遠慮感があるために、本来は漢語‘遠慮’が持っていない意味での‘遠慮’が、日本製の日本語として使われるようになったのである。漢語‘遠慮’は遠慮深謀という意味で、日本語の‘遠慮する’というような意味合いは一切ない。
‘エ’には引く(引いている)イメージがあることから、繋がっているというイメージも出てくる。そして、全体として受身的なイメージがある。
母音‘オ’は、口腔の中を丸く大きくして、籠るように発声するので、纏まって、大きく、重い体感があり、ここから暗く、動きの少ないイメージも出てくる。‘オ’には大きさ、重さが感じられるので、存在感が感じられる。
母音‘イ’に小ささのイメージがあるのに対し、母音‘オ’、‘ア’には大きさのイメージがあるが、‘オ’の大きさはものの大きさ、‘ア’の大きさは広がりとしての大きさである(発音体感から)。
これらの母音は口腔を共鳴させて出す自然音で、連続して出すことも出来るし、一つの母音から他の母音へ連続して変化させることも出来る。

これらの五つの母音が現在の日本語の言葉の音の骨格をなしている。
これらの母音にそれを修飾する形で子音がついて拍が出来ており、日本語の言葉はこの拍の組み合わせによって作られている。
母音が主観的な気持を表現しやすいのに対し、子音は素材感、材質感などを表現しやすい。材料、すなわちモノに対するものなので客観でありうる。これは、母音と違って、子音は唇、舌、ノド、口腔、鼻腔を操作して、技巧的にやや無理をして出す障害音だからである。子音は、母音のような自然共鳴音ではないので、基本的には単発の音であり、母音と一緒になることによって初めて声として響かせることが出来る。

子音には、唇、舌、ノドを破裂(一度貯めた息を一気に出す)させて出す破裂音、狭くした唇、歯、歯茎、舌などの間を無理をして息を通す摩擦音、唇、舌によって口腔の中に一旦貯め、その一部を鼻腔に漏らす鼻音、舌を震わせる弾音(舌音)などがある。これらは母音に比し、より技巧的、人工的で物理現象に近く、気持=情=主観 を表しやすい母音に対して、モノ・コト=知=客観 を表しやすい。このことが、気持・主観の日本語が母音を中心とし、客観の英語が子音中心になりつつある原因なのかもしれない(あるいは、結果かもしれない)。
それぞれの子音で表しやすい素材感、材質感を大雑把に説明すると、
/K/ は口腔の奥のノドを硬くさせてから、小さく破裂させて息を勢いよく口腔に流し込み、流し込まれた息が口腔内で回転し、舌などの表面の水気を奪い気化熱が奪われるため、素材感として、固さ、集中した小ささ、切れ、乾き、冷たさに加えて、回転のイメージが感じられる(「そんな細かなこと感じられん」とおっしゃる方が多くいらっしゃる。そんな方も、一度古代人になったつもりで、初めて言葉の音が出せるようになった時のつもりで、口中の色々の感触をじっくり味わってみて欲しい)。
/S/ は息が舌の上を流れて外へ出るので、流体の素材感がある。空気の流れだけではなく、水の流れも連想させる。日本の自然の中の空気の流れ、水の流れであるから、さわやか、さらさら、すっきり感などがある。
/T/ は舌先をとがらせて、上口蓋にちょっと付け、そこを破裂させて出す音なので、付く感じ、突く感じ、止まる感じ、そして舌自体の感じとして、鋭い、貯まる感じに加え、上向きの感じがある。
/N/ は舌で口腔に貯めた息を破裂ではなく、舌を上口蓋に暫くくっつけ、それから離して、息を一部鼻腔に流すため、濡れた粘り感が強く出るため、日本的な親密感も感じられる。
日本語のH音は古代にはP音であったといわれている。したがって、日本語の古くからの言葉‘ヒカリ’は‘ピカリ’であったと言われている。
/P/ は唇を小さく破裂させて出す。その感じは乾いて、固く、明るい。小ささも感じられるのでカワイサも感じられる。
P音は半濁音ともいわれるが、有声音ではない。濁音Bに対する無声音である。すなわち、清音である。H音はP・B音とは種類の違う音である。P・B音は破裂音であるが、H音は口腔で何ら操作をしない音声である。したがって、子音というよりは母音に近い。私はすべての母音が無声化したものではないかと思っている。日本語の笑い声、
「アッハッハ」、「イッヒッヒ」、「ウッフッフ」、「エッヘッヘ」、「オッホッホ」
などすべての母音の息継ぎの働きを /H/ がしている。
/M/ は口腔に満たした息を破裂ではなくその一部を鼻腔から漏らす。そこから充満感、充実感が感じられる。柔らかさ、潤いも感じられる。
/Y/ は半母音といい、/i/ から /a/、/u/、/o/ への変化を、それぞれ一音で発声したものである。それぞれ元の母音のもつ感じに加え、変化することから生じる、怪しさ、揺らぎなども感じられる。
/W/ も同じく半母音であるが、/W/ は /u/から/a/、/o/ への変化を一音で発声するもので、同じく母音の感じを持ちつつ、変化することから来る、湧き上がる感じ、分散する感じ、そして小さくまとまる感じがある。
/R/ は日本語では特殊な扱いをしている。弾音、あるいは舌音といい、舌を震わせて出す。子音の中でももっとも作為的、言い換えればわざとらしい音で、それ故か、日本語では語頭には使わない。また、それ故に反対に、語尾変化には多用される。
古のギリシャの哲学者ソクラテスは「クラテュロス」(岩波プラトン全集2)の中で、Rは舌をもっとも動かすので動きを意味すると言っているが、われわれ日本人は自然な動きに加えて、振動からその結果を連想してか散らばりを感じる。われわれの祖先は、理屈っぽい音と感じて、語頭に使うことを嫌い、逆に語尾変化に活用したのだろう。古代から日本では、理屈っぽいことははしたない、軽率なこととして厭われてきたのである。
このように、色々な素材感を表すそれぞれの子音がそれぞれの気持ちを表す母音と結びついて、拍を作り、そのそれぞれの拍は子音の素材感、母音の気持の掛け合わせによって、色々なイメージを感じさせることが出来るようになっている。

日本語は気持を伝えようとする言語であるから、自分の発音体感が相手にそのまま伝われば、それで言語になる。
そして、それは伝わるのである。
自分の発音体感が、その音を聞くことによって、相手にそのまま惹起するのである。同じ発音体感が相手の脳の中に誘発されるのである。共振現象、あるいは誘電現象のようなものである(発音体感共有説、あるいは、語感共有説)。
そのメカニズムは次の通りである。
ある一つの言葉の音を発するには、誰もが同じような唇、舌、ノド、そして口腔の使い方をし、息の出し方をしなければならない。言葉の音の違いは、単なる周波数の違いのようなものではなく、声の出し方の違いなのである(正確には、色々な周波数の組み合わせ比率、すなわち多くの周波数の波が形造る構造の違いである)。
同じ声の出し方、すなわち唇、舌、ノド、口腔を同じように操作し、息を同じように出せば、同じ言葉の音になるし、同時に同じような体感、口腔体感を感じることが出来る。ただし、これらの体感は、物理量で確定できるような数値の組み合わせではない。(すべての人の顔つきが違う程度には違う組み合わせである。しかし、鼻が高かろうが、少々低かろうが、男の顔は男として、一応認識できる。男の顔と女の顔は、見れば大抵分るが、その違いを物理的数値の違いとして認識するのは大変面倒である。)
さらに感じ方について言えば、赤いバラの花は誰が見ても赤い。しかし、厳密に言えば、各人の感じる赤さ加減は同じとは言えない。
赤い色の周波数は物理的には一定である。その色をまず感じ分けるのは脳の中の視覚野につながる色覚細胞である。色覚細胞は基本的には3種類あって、その3種類の色覚細胞の感じ方の組み合わせの違いによって色を識別しているのである。ところが、それぞれの色覚細胞が最も強く感じる周波数ピークが人によって多少違うのに加えて、3種の色覚細胞の感度のバランスも人それぞれに、手足のバランスが異なるように、違うのである。その結果、各人の感じる色が、元は物理的に同じでも、物理量的に同じと感じているとは言えないのである。しかし、赤いバラは誰が見ても赤い、のである。
お母さんの発する言葉の‘ア’とお父さんの発する‘ア’は違う。音の高さが違う。この物理的に異なる‘ア’を同じ言葉の‘ア’として認識できるのはなぜか。自分の脳の中で、お母さんの‘ア’、お父さんの‘ア’を一旦自分の言葉の音‘ア’に変換しているからである。そもそも、言葉を覚える段階でそのように覚え、脳の中にそのような体系を作ってあるからである。言葉を覚えるとはそのようなことなのである。聞いた音を、すべて自分の音に変換して、脳の中で意味処理などをするのである。
この自分の音として処理するということは、自分の発音体感と結びついているということである。
人間はこの世に生れ出て、言葉を覚えていく段階で、まず仲間の言葉の音をそれぞれ識別することを覚える。お母さんの‘ア’、お父さんの‘ア’を同じ音‘ア’として認識することを覚える。次にそれらの音を発声することを覚える。当然同じ音を出すには同じ発音方法を取らなければ同じ音が出せないので、同じ発音方法を見つけ出し、覚える。この時、同じ発音方法であるから同じ発音の体感が生じる。この体感が、その音、そしてその音を出す方法などと結びついて脳内に蓄積されていくのである。それぞれの音の発音の細かな手順は小脳に記憶され、発音時には意識に上ることはない。しかし、意識に上ることがなくとも、発音に際しては、常に言語野を発し運動野から細かな指示が唇、舌、ノドなどへ出されているのである。
一つの言葉の音を聞いた時、脳の中で自分の音に翻訳され、同じ音の発声時に生じる体感が呼び起されるのである。これが聞いた時にも同じ体感が生じるメカニズムである。
そして、その体感は、発声する時もそうであるが、常に意識に上るわけではない。むしろ、普通の人では意識にまでは上がらない。詩人、商品企画に携わるクリエーターなどは、常に意識に上げているのかもしれない。ただ、日本語では、意識に上げる、上げないに拘わらず、言葉の選択、そしてその理解にこの発音体感が常に参照されている(潜在意識として)。
例えば、友人を旅行などに誘う時、「行こうよ」と呼びかけ的に誘うか、「行こうね」と念押し的に誘うか、「行こうな」となだめるように誘うかは言葉の語尾につける終助詞 ‘よ’、 ‘ね’、‘な’などの使い方によって使い分けることが出来る。聞く方も、この誘い方のニュアンスの違いを聞き分ける。これらのことは通常はほとんど無意識(意識下で)に行われている。
友人同士の別れ際の「ジャーネー」など、意味的にはほとんど無意味である。しかし、体感により伝わる情報は十分にある。‘ネー’の /N/ の粘りと親密感、 /e/ を伸ばすことによって受身的なつながり感が強調されて、名残惜しさに加えて再会への念押し感まで感じさせる。

日本語は気持を表そうとする言語である。気持は言葉の音によって表すことが出来る。すると、日本語では思うが儘を言葉の音にすればいいということになる。言い換えれば、気持のまま声を出せば言語になるはずということになる。多分、ナキガオオマキザルのサル語はこの状態なのだろう。マリーナによると彼女はサル語から、寂しいのか、孤独なのか、そして抱きしめて欲しいのか、それとも挑発しているのか、干渉したいのかまで聞き分け、発し分けていたという。
ただ、われわれの人間社会では、サルの世界と違って、同じ気持を伝えるとしても、もっと細かく具体的に伝えることが必要である。また、同じ一つの言葉の音の伝えうる気持、すなわち一つの音の発音体感は多様で、色々なイメージを同時に持っている。そこで、我々人間の祖先は言葉の音を連ねることによって違いを出そうとした。

音を連ねて言葉を作る。これにも二通りの方法があったと思われる。一つは、いくつかの音の一塊を色々と作っていく方式、すなわちシラブル方式で、英語はこの方法が主流だったと思われる。今一つは、子音一つに母音一つをくっつけて拍を作り、この拍を一つ、あるいは二つ、あるいは三つと連ねることによって、言葉を増やしていく方式。これが日本語の方式である。日本語ではこの組み立て方式が文章全体の作り方にまで広がっている(膠着言語)。
発音体感として気持を中心に色々な感じを持っている母音に、より具体的な素材感を持つ子音を修飾する形で前につけて拍を作る。したがって、一つの拍は○○なものが△△な状態にあるというような感じ・イメージの複合体となる。○○も色々な感じを持っており、△△も色々な感じを持っているので、○○+△△のイメージ複合体からは、やはりより複雑な色々なイメージを感じ取ることが出来る。
この音素、すなわち子音、母音一つ一つから感じ取ることの出来るイメージを音象徴という(私は語感といっているが)。もちろん、感じることが出来るのは、自身が発音するときに体感していたからで、端的に言うと、音象徴は発声時の口腔体感を中心とした発音体感なのである。
(したがって、音象徴に当たる英語、Sound Symbolismは適当ではない。私はVoice Sound with Subliminal Messageとしてはどうかと思っている。日本語に訳した音象徴という表現そのものもおかしい。)

ちなみに、世界的脳生理学者・ラマチャンドランは「ブーバ・キキ現象」を「共感覚的ブートストラッピング仮説」で説明しているが、これは間違いで、この現象はブーバの持つ音象徴とキキの持つ音象徴を人々が感じ分けているということに過ぎない。
(‘ブーバ・キキの実験’とは、boobaとkikiという音声を聞かせ、紙の上に描いたトゲトゲっぽい図形とマルマルっぽい図形を見せ、どちらがどちらの名前にふさわしいか答えさせるもので、kikiの方がトゲトゲっぽい図形の名前にふさわしいと答えた者が約98%いたというものである。)
ちなみに、‘ブ’の発音体感には、力強く、膨れ上がるイメージがあり、‘キ’の発音体感には、固く、鋭く、その結果切れを感じさせるイメージがある。誰もが経験として、膨れ上がるものに丸さを感じ、固く鋭いものにトゲトゲを感じるのである。
ラマチャンドランは、視覚野に通じる神経と聴覚野に通じる神経の交叉時におけるストラッピング、すなわち漏電のようなものとしているが、音象徴現象は単に幼児期の言語習得時に並行的に習得されたものに過ぎない。音象徴現象は、共感覚のような異常なものではなく、日本語人には誰にでもあるごく正常なものである。主観的に自分の気持を表明しようとする日本語では、日常の言葉一つ一つに音象徴が生きているが、客観的にモノ・コトを説明しようとする英語などでは、ソシュールが指摘したように、言葉と音象徴が離れてしまっているようである。(しかし、英語の単語には音象徴的にピッタリなものも多くあり、日本人は日本語的に発音してそのまま日本語として使っている。例えば、
スムース、スリム、ストリーム、ストリート、ストーリー、カット、カール、カーブ、・・
破裂の /B/ につては、bomb, burst, breakなど音象徴そのものである。)
なお、‘ブーバ・キキの実験’についてもう少し詳しく説明すると、音声を聞いて、丸み、トンガリを感じ分けるのは発音体感であるから、口腔の中の感覚、すなわち唇、舌、ノドなどでの触覚であり、線描の画を見て、丸み、トンガリを感じるのは、幼児期の舌、手などで物に触れて学習した記憶によるもので、これも元をいえば触覚であり、触覚と触覚のすり合わせであるから、他の領域の神経がクロスした共感覚とまで考える必要はないのである。
私はこの「ブーバ・キキ現象」こそ音象徴の存在の証明だと思う。
不思議なことに、日本人の学者の中にも、この音象徴をいまだ正統ではないものとして軽視する人が多くいるが、‘情’や感性を軽視するインテリ学者の旧態依然の偏見に加え、ソシュールを盲信する舶来事大主義がはびこっている故ではないかと残念に思っている。
また、日本のオノマトペ研究の専門家の中には、音象徴現象を先の「共感覚的ブートストラッピング仮説」で説明しえたとしている人々がいるが、外国の権威者の仮説を盲目的に受け売りしているだけのもので、専門が違うからといって、自分の頭で考えるということをしようとはしないのだろうか。残念なことである。

音象徴は色々なイメージの複合体である。この音象徴を日本語では言葉に使う時、一部だけを使う。一部を使い、他を無視するのである。例えば、/K/ には、固さ、乾いた、軽いなどのイメージがあるが、‘カたい’には固さだけ、‘カわいた’には乾いただけ、‘カるい’には軽さだけを使っている。‘カ’の後につける拍の違いによって、 /K/ の持つイメージを使い分けているのである。ここに見られる原則は納得性である。
多様なイメージの選択的利用とその納得性である。
ただ、直接利用されないイメージもニュアンスとしてその言葉について回る。軽くて固い場合は‘カリカリ’でいいが、それが重くなると、‘カリカリ’のままでは内部矛盾が起こるので、‘カ’を濁音化して‘ガ’とする。すると、軽さが消える。‘カリカリ’と言うと、軽やかさも感じられるが、‘ガリガリ’となると力強さが加わり、軽やかさが消える。
‘カ’の後につながる拍、‘かたさ’と‘かるさ’の‘タ’と‘ル’の違いは何か。/T/ には、貯まる、止まるイメージがあり、/R/、/u/ ともに動きのイメージがあるが、軽さに動きを感じるのはごく自然で、このあたりの使い分けも納得性である。なお、/T/ の口腔体感には表面の固さ、そして舌に力を入れる固さも感じられる。
なお、 この‘タ’、‘ル’、‘ワ’などの選択には厳格な統一理論などはなく、多分に偶発的に作られたと思われるが、それらが皆が使う言葉として残っていくには納得性の有無が大きく作用したと思われる。

自然な母音‘ア’が指示詞として色々の言葉を生み出したが、それとは別個に、発音体感からくる日本語を生み出した。‘ア’の基本的な発音体感は、自然でノビノビとした開放感であるが、ここから、‘開いた’、‘開く’などの言葉が生み出された。‘開く’、‘開いた’は関係のある言葉で、動きとその結果を示しているが、どちらが先に生まれたかはわからない。日本語では動詞が先だという説もあるが、最初は品詞の区別はなく、‘開く’も‘開いた’も共に‘ア’ と言っていたかもしれない。これらの言葉から‘開ける’も出来たが、その結果としての‘明るい’も生まれ、それらからまた派生して、‘赤’、‘空く’、‘朝’、そして、‘秋’、‘天(AMa)’まで生まれたと思われる。そして、‘天’からは‘雨’という言葉まで生まれたが、‘雨’ともなると‘ア’本来の音象徴がなくなってしまう。ただ、‘雨’の音声には‘AMa’の連想もあり、‘AMe’の‘Me’にはボリュームのあるつながり感もあるので、今でも、‘雨’が‘アメ’であることに違和感はない。
‘アキ’には、日本の秋の秋晴れのすがすがしい開放感にキレも感じられ、‘秋’という名づけは音象徴的にもピッタリのネーミングになっている。ちなみに、
‘春’は、もともとは‘パル’で、野山に‘パッ’と色々なものが萌え出てくるイメージに違和感はない。
‘夏’ も湿度の高い日本の暑さの、あるいは汗の粘り着く感じに違和感はない。
‘冬’は‘ヒユ’ からかもしれない。‘Hi’はH音とは発声法が違い、音象徴としては冷たさが感じられる。
‘赤’ には鮮明なイメージがあり、日本の‘朝’にはさわやかさが感じられるので、それぞれに、‘Ka’、‘Sa’をつけたことにも納得感はある。
重要なことは、必然性はなくとも納得感はあるということである。

日本語の大きな特徴の一つにオノマトペがある。
ものの音を言葉の音で模した擬音語、態様を音で擬した擬態語に加え、心の状態を表現しようとする擬情語まである。日本語の文章には余り多くはないかもしれないが、日常の生きた会話には非常に多く使われる。
我々日本人がオノマトペにありありとした臨場感を感じるのはオノマトペが音象徴を生かして作られているからである。擬音語は音を模してはいるが、ものまね声帯模写ではない。音を言葉の音に見做し変えているのである。したがって、そこには、言語ごとのクセのようなものがある。そして、それは約束事となっているが、やはりそこにはそれぞれ納得性がある。猫の鳴き声を、‘ミャウミャウ’と聞き做すか、‘ネーネー’と聞き做すか、‘ニャオ’と聞き做すか色々とあるが、それぞれそれらしく納得性がある。なお、犬の鳴き声を、‘バウバウ’と聞くか、‘ワンワン’と聞くかは、犬の大きさの違いにも関係があるようである。
擬態語となると、モノ・コトの有り様を言葉の音で表現するわけであるから、見做し、聞き做しという一段の飛躍が必要である。この見做しの手掛かりは多様な音象徴の一部を使うことである。この選択にも言語間のクセの違いというようなものがあり、一種の約束事のようになっている。
例えば、日本語では水に関わる音に‘B・P’音が使われやすい。
バチャバチャ、ドボン、ボチャン、バシャッ、ビショ濡れ、ビチャビチャ、ビチョビチョ、ピチャピチャ、パチャパチャ、ポトポト、ポタポタ、ベトベト
日本語のオノマトペには2拍の繰り返しの形が多いが、これは繰り返すことによって、リアル感を強めたり、ものごとの進行・継続などを感じる効果を狙ったものである。2拍は拍と拍をつなぐことによって、○○的なものが××的な状態にあるというような実況放送の様になっている。
また、例えば、粘りを表現するオノマトペに、
ネバネバ、ネトネト、ネチャネチャ 
があるが、‘ネ’に粘り気を感じさせる音象徴があり、‘バ’、‘ト’、‘チャ’によって態様の違いを表現し分けている。‘バ’には力感、ボリューム感があり、‘ト’には纏まり感と止まる感じがある。‘チャ’には小さく散らばり広がる感じがある。これが‘ネチネチ’となると、‘Ti’の‘i’の持つ意志的なものが効いてモノの表現ではなく、コトの心理的な表現になってくる。
先程の、水に関わる表現‘ポチャン’は‘ポ’が何かが水の表面に当たる衝突を表し、‘チャ’がこれによって四方に飛び散る水の様子を表し、‘ン’ですべてがそれで終わったことを表しており、まさに実況中継放送のようである。
同じものがぶつかる表現でも、‘ドン’と‘ドスン’では違う。‘ドン’は何か大きなものが何かにぶつかった衝撃だけだが、それに‘ス’が入って‘ドスン’となると、物の動きが感じられ、何かが何かにぶつかってそこにそのまま在るイメージとなる。
オノマトペは音象徴を使っての、実況中継、物語なのである。だから、リアル感があるのである。

日本語において、このオノマトペと名詞、動詞、形容詞などの実詞とどちらが先に出来たかは分からない。
‘ピカリピカリ’と‘光’では‘ピカリ’だろう。
‘ネバネバ’と‘粘り’ではどうだろう。
‘ドキドキ’と‘時’では‘トキトキ’が先だろう。そして、‘トキトキ’から‘ときめく’、‘ドキドキ’から‘動悸’という言葉も生まれたのだろう。一説には、‘ドキドキ’ は‘動悸動悸’からだとしているが、それだと、‘ドキッ’も‘動悸ッ’からなのだろうか。それにしては‘ドキッ’にリアル感があり過ぎるように思われるし、‘ときめき’の由来も分からなくなる。
‘モクモク’と‘雲’ではどうだろう。‘モクモク’のような気がする。‘モクモク’が如何にもそれらしく感じられるからである。
‘ズキズキ’と‘傷’も、‘ズキズキ’の方が先のような気がする。
‘モク’を‘クモ’ 、‘ズキ’を ‘キズ’と拍の並びを逆にしているのは、その方が音象徴的にリアル感が増すからだと思われる。
‘ブツブツ’と‘粒’はどうだろう。‘粒’から生まれた‘粒粒’はオノマトペではない。
(言葉遊びをしているわけではありません)。
オノマトペから生まれた日本語は非常に多いのではないだろうか。私はオノマトペが言葉の赤ちゃんなのではないかと思う。
‘手(Te)’という言葉がある。古代には‘手(Ta)’とも言ったという。この‘手’ と‘たたく’は関係がないだろうか。そして、‘たたく’とオノマトペ‘タンタン’、あるいは‘テンテン’はどちらが先だろう。
‘転ぶ’、‘転がる’、‘転がす’、‘転び’とオノマトペ‘コロコロ’もどちらが先だろうか。同時並行的に出来たのかもしれない。そして、‘転ぶ’、‘転がす’から‘殺す’という言葉も出来た(のかもしれない)。

ここで、私は語源の探求をしようとしているのではない。現在の日本語の姿から、音象徴的に論理的推論として、言葉の繋がりのありうる可能性を言っているのである。重要なことは、音象徴を理解することによって日本語の成り立ちがよりはっきりと見えてくるということである。
主観的気持を伝えようとする日本語には、現在も音象徴が生きている。特にオノマトペ、助詞は音象徴そのものといえるほどである。その他の一般の言葉もオノマトペとつながりのある語彙も多く、それらは音象徴に色濃く裏鎚されている。日常会話、特に街角の立ち話などのおしゃべりでは、オノマトペ、あるいはオノマトペ的表現が飛び交う。これらのおしゃべりは、モノ・コトの情報の交換というよりは、それに事寄せての気持の交流が真の目的だからである(そう意識しているかどうかは別として)。
オノマトペが実況中継的でアリアリとした実感が伝わるのは、それぞれの音の持つ発音体感(話し手)が、そのまま聞き手の脳の中で自分(聞き手)の発音体感として再現されるからである。
音象徴には客観的な情報の伝達ではなく、体感(気持)を共有させる働きがあるのである。
音象徴はコトを伝えるのではなく、‘情’を共有させる働きがあるのである。ここに、音象徴に裏付けられた日本語と音象徴を失いつつある英語には非常に大きな、かつ致命的な違いが出てくる。
音象徴をその骨格に多分に残す日本語は、音象徴を使って気持を相手と共有しようとする。気持を単に伝達するのではなく、同じ気持を相手の中に再現しようとするのである(逆に、聞き手側が話し手の気持を自らの中で再現し、共有しようとしていると言うことも出来る)。

日本語は主観の言語ではあるが、その主観を互いに共有(シェアー)しようとする言語なのである。
対照的に、音象徴を失った英語は、情報を客観的に相手に伝える、いわば一方向の言語である。英語での会話は、情報を互いに一方向に出し合うことによって成立している。場に出された情報に互いに反応することで討議が成立する。
そもそも気持を共有しようとする日本語では、議論はしにくい。事態を感覚的に共有してしまうので議論ではなく、自己内省のようになってしまう。
「それはそれで、よーわかる。そやけどなー」
もちろん、日本語が‘情’の言語で、モノ・コトを客観的に説明する言語ではないので、論理をベースとした議論には向いていない。したがって、日本語における数理的表現法とでもいうようなものを考え出す必要があるのかもしれない。書く文章のように話せばいいのだが、それはそれで演説か講義のようになってしまう。(いずれ自然に出てくるだろうけど・・期待)
もちろん、現代の日本語でも、モノ・コトを客観的に表現することはできる。しかし、それを話し言葉にして語ろうとすると、主観の表現になってしまう。
1+1=2 は典型的な客観的事実である。これを日本語の話し言葉にすると、
「1たす1は2です」      
「1たす1は2だよ」      
「1たす1は2じゃない」    
となってしまう。,論萓犬悗諒崚。これは一応客観的表現であるが、少しむずかしい質問の答えになると、先生への返答でも、「STAP細胞はあると思います」というように主観的表現になってしまう。△詫達に教えてあげるケース。断定ではなく‘よ’で表現を柔らかくしている。は提案の形をとって、相手より上にならないようにした表現である。日本語では、まず客観的言い切りの形にはしない。これを英語に翻訳するときには、なまじ「I think」など付けなければいいのである。

英語は一方向の対立の言語。
日本語は共有・共感の言語である。
日本語の共有性を可能にしているのが音象徴(語感)である。
したがって、日本語の最大の特徴は音象徴(語感)である。
欧米言語学界においては、音象徴現象は特異な現象と見做され、言語学の主要なテーマとは見做されていない。まして、日本語が音象徴に大きく依存しているなど考えてもいない。日本の言語学界においてすら音象徴は正当な扱いを受けていない。
欧米の言語学界において、日本語の特殊性(少なくとも英語とは本質的に違うこと)が認知されていないのは、正に‘サピア・ウォーフの仮説’の正当性を証明しているようなものである。
‘サピア・ウォーフの仮説’とは、‘言語が文化を規制する’というものであるが、私は、文化が言語を作り、言語が文化を作り、文化が言語を規制し、言語が文化を規制する、と考えている。特に、言語が文化を次代へと受け渡していく働きは重要である。要するに、言語と思考は表裏一体のもので、文化は思考の社会的表現なのである。
しかるに、欧米言語学界においてすら、この‘サピア・ウォーフの仮説’は異端の説とされ、やっと最近「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」(ガイ・ドイッチャー)にあるように多少見直されつつあるようではある。しかし、「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」に紹介されている事例は、色の認識の違いとか、方向の認識の仕方の違いとか、やや末梢的なもので、ガイ・ドイッチャーもより本質的な違いがありうることにまでは気づいていない。
日本語が相手の気持の共有を当然のこととするのに対し、英語が一方的に情報を伝えようとする言語であることに気付かず、日本語には日常会話のバックグランドとして音象徴が今も生き続けていることに気付いていないのは、欧米的ものの見方のメガネで、日本語を見ているからである。音象徴を失ってしまった言語で考える文化で、日本語の音象徴(語感)を見ようとしても見えないのである。ないものであるものは見えない。これが‘サピア・ウォーフの仮説’の本当の意味なのである。
一つの文化でその文化のものの考え方・見方で、他の文化を見ても、自分の文化にないものは見えないのである。

なお、日本文化の特異性につては、山本七平の「日本人とは何か」が面白い。最近では「日本人らしさの発見」(芳賀綏)がよく纏っている。
どうして日本文化がそのようになったか、歴史的、地政学的説明は納得性がある。
日本文化を「Tender-minded Type of Culture」とし、その他の文化を「Tough-minded Type of Culture」とし、日本人は万物に神を見、自然と共に自然に抱かれて生きようとすると書かれているが、日本語が正にそのように作られている。(日本語の相手と気持を共有しようというスタンスと、日本文化の自然と対峙するのではなく、自然と一体化しようとするスタンスには、相通じるものがある。)
そして、芳賀綏は日本人のものの考え方を世界に広めるために日本語をもっと世界に広めるべきだと言っているが全く賛成である。‘サピア・ウォーフの仮説’が言うように言語によってものの考え方を変えることが出来るからである。ただ、芳賀綏が言語学者の鈴木孝夫に乗っかって「話し言葉までは要求しない」と言っているのは頂けない。ものの考え方は話し言葉において直接的に現れるのである。ました、音象徴は音声でのみ伝わるのであって、文章では説明に過ぎず、知識は伝ええても心を伝えることはむつかしい。
ちなみに、逆に、日本人の英語教育は、論理的議論の進め方を学べる読み書きを基本とすべきで、‘I’だ‘I’だと自己を主張し、‘you’だ‘you’だと相手を決めつける英会話中心には、大きな弊害がある(特に幼年期において)。
「ありがとう」とは、‘you’に‘thank’しているのではない。そのような結果になったことのすべてに感謝しているのである。もちろん、一人の神に感謝しているわけではない。
「ごちそうさま」と声に出すことによって、食事を供してくれた人々は勿論、食べ物そのもの、米、魚、野菜を与えてくれた天の恵みに対する、感謝の気持を表明しているのである。
「いってらっしゃい」という言い方にも、元気に帰っておいでという気持が込められており、それが自然に伝わるのである(共有される)。
日本の言語学者も、日本語の本質に、そして言語の本質に気付いていないのである。音象徴の存在には、不思議なことに、日本の外にいる言語学者の方が気付いているようである。
アメリカの大学で長年日本語・日本文学を教えてこられた熊倉千之は、「日本語の深層」で、「フェルディナン・ド・ソシュールが約百年前に、ことばの音声と意味との関係は「恣意的」だとしたのは、西欧言語学では定説ですが、やまとことばに関しては、発する音の性質が現象を意味づけて、無関係どころか、そこにこそことばの生命が宿っていると感じられます。」と言い、「やまとことばの音節は百十くらいあって、その一音一音が意味をもっている」とも言っているので、音象徴の存在には十分気付いておられるようだが、「音が意味を持っている」というような言い方になっているので、いわゆる音義説とも取られかねない(音は意味は持っていない)。
また、「「ア」は開かれた音。「オ」は口を丸めて発音するという自然の「形態」から閉じられた音。/Mu/ は唇を閉じて発音するので、内にこもった語感があり、・・ 内に籠めたものの生成過程、内に籠らせている何かを外に出す意味」とも言っているので、音象徴の発生原因が発音にあることまでは気付いているようであるが、それが体感故に相手に伝わるということにまでは気付いていなかったようである。もちろん、音象徴は意味として伝わるのではない。都度、聞き手にも体感として再生され、その結果、話し手、聞き手に感覚イメージとして共有されるのである。

音象徴の存在に気づき、日本語と音象徴が密接な関係にあることを最もよく理解されているのは、私が知る限りでは、言語学者ではなく哲学者の鷲田清一である。鷲田清一は「「ぐずぐず」の理由」の中で音象徴性について、「言葉と世界の関係にあっては意味や概念によらない通路もあきらかにある。」、「ではそれら基になった動詞や形容詞がどうしてこのような音で語りだされることになったかはそのまま問題として残ったままである。その意味で、どこまでも音感の地平から離れるわけにはいかない。」、「実詞はまたオノマトペ的に生成してきたものではないか・・・」、「実詞はほんとうに、それが指し示すものの存在様態と似てはいずに、どこまでも音と音の差異にもとづく「恣意的」なものといえるのか。漢字が絵文字的な起源をもつのとおなじように、実詞の起源もあるいは〈音の絵〉にあるのではないか。」とまで書いておられる。哲学者の方が言語学者よりも余程思考が柔軟なようである。
更に、鷲田清一は、「ことばを発するとは、からだの内に発した動きを、もっとも敏感にからだ全体に拡大したとき、呼吸器官の部分に現れる動きの一部である。」、「「が」、「ぎ」では喉の奥で空気が強く引っかかる感じがあり・・・」、「「ごろごろ」になるといっそう音が低くなり重量感も増す。これは空気が口内に増してかつゆっくり排出されることによるのだろう。」とまで言っているから、口腔体感に気づいておられるのである。
また、「舌の感覚こそが「知覚の基盤」」と言い、「「め」「ね」「の」舌と上顎の接触時間が多少長い。・・ この接触面の大きさによって「ね」は粘着性や執拗さの音声的表現・・・」としているのは、ご自身が非常に鋭い感覚をいまだ持っておられることを示している。その上で、「哲学者の方が遥かに詩人よりも言葉を信頼している。」とも言っているが、言語学者もそうであって欲しいと思う。
「言葉はまずは話し言葉としてあるのであって、・・・」、「官僚も研究者も総じて書き言葉でしか語れないというこころの病に侵されているのではないか・・・」。
これはすべての言語学者に対する忠告であり、警告であると思う。
私は、日本語を研究しようとする者は、一度はこの鷲田清一の「「ぐずぐず」の理由」を真剣に読むべきだと思う。

以上見てきたように、日本語には音象徴が色濃く生きている。日本語における、意味と音象徴の関係は、多義性の中の選択的利用であるから、必然ではなく、たまたま(偶然)に近い。ただ、納得性が必要なので決して恣意的ではない。

日本語には単語家族という言い方がある。意味が似ていて音的につながりのある言葉を集めて一つの家族と見立てる考え方である。
私は、音韻の繋がりをもっと広く考えて、血縁関係の繋がりのように考えた方がいいと思っている。血の濃い、近い血縁関係もあれば、血の繋がりの薄い、遠い血縁関係もあると、広く考えるのである。日本語の会話では、音の類似などによる連想が常に働き、それが言外のニュアンスとなっている。日本人が駄洒落、語呂合わせが好きなのは、この語感繋がり、音韻繋がりがあるからなのだと思う。

日本語の言葉の出来方にも、音象徴をベースとした音韻繋がりが結果として見られる。
/K/ の調音点は口腔の奥、ノドにあり、このノドに力を集中して発音するので、体感として /K/ には自分の真ん中というイメージがある。この /K/ に重さとまとまりがある存在感の /o/ を足して‘Ko’とすると、今自分の居るところの真ん中、‘ココ’の‘コ’となる。この /K/ を真ん中から外へ向かって流れ出すイメージの /S/ に替えると、‘ソコ’の‘So’となる。更に、外へ広がるイメージの /A/ を加えると、‘ASoKo(アソコ)’になる。調音点が /K/ と /S/ の間にある /T/ に替えると、‘ToKo(トコ→ドコ)’となる。
「ココ、ソコ、アソコ、トコ」から「コレ、ソレ、アレ、ドレ」、「コノ、ソノ、アノ、ドノ」、「コウ、ソウ、アア、ドウ」が出来、「ドウ」から「どうぞ、どうか、どうも、どうして、どうやら、・・」などが生まれてきた。
一方、‘ココ’の‘Ko’から「ココへ来い」の‘来い’という表現が生まれ( /i/ は意思を感じさせる)、それから更に‘乞う’、‘恋’も生まれた。(今でも、「ココ、ココ」と大きな声で叫べば「来い」という合図になる。)
「来い」という呼び掛けから‘KoE(声)’も出来たのではないだろうか( /E/ には繋がりが感じられる)。‘聞こえる(KiKoERu)’の前後を落とし‘KoE’となったのかもしれない。‘モノ・コト’の‘コト’から‘コトバ(言の葉)’が出来たが、この‘KoTo(言)’と‘KoE’は、出来方にも、繋がりがあるかもしれない。
‘聞く’をなぜ ‘KiKu’と言うのか。‘見る(MiRu)’は /M/ 繋がりの目(Me,Ma)からだろうが、‘MiMi(耳)’からだともう /M/ が使えない。そこで /K/ を持ってきたのかもしれない。‘見る’行為は広く自然に(Ru)見ていればいいのだが、‘聞く’行為はやや集中する必要があり、作為(Ku)が必要である。‘見る’の広がり(M)に対し、‘聞く’は集中のキレ(K)が相応しい。
‘見る’の‘Mi’、‘聞く’の‘Ki’は /i/ 繋がりがあるが、 /i/ には意思が感じられ、他にも自己主張的言葉として「イイ、イヤ」、そして「行く、言う」などがある。
Ki=気、木、Si=水、Ti=血、乳、Ni=土、Pi=日、火、Mi=実 はそれぞれ子音の素材感を生かして作られている(古代の人々にとっては、これらはみな重要なものであった)。
なお、‘Si’は素材としての‘水’で、大きな広がりの存在としての‘水’は‘MiZu’で、これは‘満つ’からではないだろうか。‘清水’を‘Si・MiZu’と読ませるのはこの名残りかとも思われる。(清は中国音では、シンと読んでもシとは読まない。唐音ではチンに近い。)
‘木(Ki)’は‘Ku’、‘Ko’、‘Ke’とも呼ばれていたという。‘Ku’は‘栗、桑、果物’、‘Ko’は‘木陰、木立、木の実’、‘Ke’は‘苔、‘竹’に名残りを残しているが、語感からすると、‘Ke’はブッシュ、‘Ko’は雑木林、森、‘Ku’ は栗、桑、桜、そして、‘Ki’は杉、檜などを思わせる。
これらはすべて音韻繋がりの血縁である。そして、これらの言葉から派生した言葉もすべて繋がっていることになる。そういう意味では、やまと言葉はすべて結果的には繋がっているのかもしれない。
やまと言葉は‘語感一族’なのである。

私は、従来言葉が脳内に蓄えられる機序として、語彙辞書、発音体系、語感秩序などの表現を使って、如何にも一つの言葉の持つ意味、発音方法、語感(音象徴)などがシステム的に脳内に整理整頓されいるかのように書いてきたが、これはあくまで便法であって、私は、言葉の意味にしろ、それぞれの音の発音方法にしろ、その音のもつ語感にしろ、それぞれ箇条書きに辞書のように脳内に保存、すなわちデータとして記憶されているとは思っていない。過去のすべての経験も一枚一枚の絵のように記憶されているのではない。
記憶とは、脳内神経細胞活性化の痕跡が残っているのに過ぎない。
そして、その活性化の痕跡とは再活性化のしやすさなのである。
覚えているとか、知っているとか、思い出したという現象は、過去に獲得した知識とかノウハウとか、思い出を取り出すのではなく、都度改めて脳内で再体験するのである。過去の経験による活性化の痕跡によって再活性化のしやすくなった神経回路が再度活性化するのである。知っていることも、思い出すことも再活性化ではあるが、全く新たな体験なのである。そして、この体験も経験の一つとして活性化の痕跡として脳内神経ネットワークの中に積み重ねられていくのである。
人間の脳は200億とも、1000億とも言われる膨大な数の神経細胞のカタマリである。そして、一つ一つの神経細胞は出力用の一本の軸索と入力用の数千本の樹状突起をもち、互いに他の神経細胞とシナプスを介して繋がっているのだという。したがって、その繋がり、すなわちシナプスの数は1000兆を超えるものと思われる。人間の脳は神経細胞が連なった巨大なネットワークなのである。このネットワークは非常に複雑で、一つのルートが単に網状に広がっていくというよなものではない。一方向だけの流れではなく、一部ループをなしていたり、抑制的回路まで含まれている。したがって、このネットワークの中で形成される神経回路は単純なリニアーなものではなく、多次元的なものである(それ故、タイムラグの調整も出来るのだろう)。
人間の体験、学習を含めて経験とは、脳内現象としては、脳の中の特定の神経回路の活性化であるが、この活性化経験がシナプスの通りやすさを強化したり、グリア細胞を刺激してミエリン化を促し、神経の伝達速度を上げさせたりもする。
すなわち、経験することによって、その神経回路が活性化しやすくなるということなのである。
記憶とは、覚えることと思い出すこと、すなわちインプットとアウトプットであるが、この場合のインプットとは、神経回路の活性化によりその痕跡が残り、その神経回路が再活性化しやすくなるということで、アウトプットとは、この神経回路を再度活性化させるということである。
したがって、覚えたこと、あるいは思い出す元というようなもの、すなわち知識といわれるものは実体としては存在しない。故に、脳内に辞書といわれるような実体も存在しない。在るのは活性化しやすくなった神経回路の重層的集合に過ぎない。
ちなみに、当然、一つの経験による活性化された神経回路が、他の経験による神経回路と一部重複することはある(一部共有する。これが常態)。このようなことが連想、あるいは閃きの助けになっていると思う。
意識するということ、そして意識できるとか意識できないということの脳内における機序はよく分からない。意識できるのは大脳の中の新皮質における神経の活性化だけである。他の部分、いわゆる旧脳、脳幹、そして小脳における神経の活性化は意識することは出来ない。新皮質での神経の活性化も500マイクロ秒以上持続しなければ意識できないという説もある。
また、通常は意識しないが、意識しようとすれば意識できるというようなこともあるが、これはなぜだろう。注意(意思)することの脳内機序は(何が主体なのか)よく分からない。(志向性の本質は、命ということの本質でもあるので、本能と言うしかないが、)
発音時の口腔体感など感じないとおっしゃる方がいる。これは単に感じられなくなったというよりも意識に上げることが出来なくなったということで、いわゆる頭が固くなったという現象にすぎない。若い人なら誰でも感じ分けることが出来る(ただ、言葉に表現するのは別の能力で、誰しもがうまく表現出来るわけではない)。
なお、感じられないとおっしゃる方も、‘ブーバ・キキ実験’では、ほとんどの方が正解する。
‘ブーバ・キキ実験’では正解率は98%とか99%と言われているが、これでも1〜2%の不正解者がいることになる。これは、ものごとの理解力に問題があるのか、天邪鬼か変な勘繰りでわざと間違った答えを言っているのか分からない(アンケート調査の難しさ、そして限界である)。
発音体感を感じないと言いながら、‘ブーバ・キキ実験’において正しい答えが出せるのは、意識下で、意識に上げることの出来ない潜在意識の段階で、語感(音象徴)による分別が働いているからである。
この潜在意識の働きを疑う人がいる。そのような人は、自分が自転車に乗っている時、微妙にハンドルを左右に動かしていることを思い出して欲しい。この時、なぜハンドルを右に小さく振ったのか、あるいは左に振ったのか、意識はしていないだろう。左右の手が勝手にハンドル操作をしたように見える。しかし、左右の手は脳からの指示がなければそのようには動かない。脳は平衡感覚を働かして、都度左右の手、更に腰、足などの全身に指示を出して、バランスを取っているのである。さらに言えば、バランスが取れるのは、両耳の平衡感覚器官からのフィードバックを受けているからである。左右の手、腰、足への運動の指示は、小脳のフィードバックを受けながら、運動野からそれぞれの筋肉に出される。しかし、それらの神経細胞の活性化は意識に上ることはない。むしろ、意識に上げることはむつかしい。
自転車に乗る時のハンドルさばきはほとんど自動化されており、意識に上げることは出来ない。
言葉を発する時の筋肉操作も、これとほとんど同じである。‘ア’と発声するとき、舌をどうする、口腔をどうするなどと意識する人はいない。むしろ、意識することはむつかしい。
しかし、声は自動的に出るのではない。脳の中で発音をつかさどる7つの筋肉にそれぞれ適切な指示が出ることによって、‘ア’も‘イ’も発音し分けられるのである。これらの指示も(指示が出ているということ自体)意識出来なくなっている。そして、発音時に感じる発音体感も通常は意識に上がることはなく、意識下で、潜在意識として、働いているのである。同じ音を聞いた時も、意識下で、潜在意識として、働くのである。これが、‘ブーバ’と‘キキ’のイメージの違いを感じ分けられる理由である。
われわれ日本人は、日常会話において、‘ネ’、‘ヨ’のどの助詞、そして‘コロコロ’、‘スラスラ’などのオノマトペ、さらにオノマトペ的な‘しっかり’、‘きっちり’などの表現を、潜在意識として語感を感じながら、使い分け聞き分けているのである。
一説には、日常生活において、潜在意識の働きは顕在意識の働きの数倍はあるのだという。われわれは「何となく、そうした」、「何となく、嫌いだ」などとよく言う。このような時も潜在意識ではしっかり判断しているのである。
潜在意識はなぜあるのか。
この問いは逆である。
問うべきは、意識はどうして意識できるようになったのかである。
言い換えれば、なぜ意識は顕在化することが出来るようになったのかである。
大方の生き物には、意識はない。意識できない(文学的、宗教的表現は別にして)。
意識が出来るのは人間だけであり、類人猿には意識の萌芽はあるだろう(マリーナによると、ナキガオオマキザルは反省をするという)。犬や猫は反省するだろうか(しょげはするが)。犬や猫に顕在的な意識があると思うのは飼い主の勝手な思い込みである(喜んだり、悲しんだりは‘情’的行為で、意識、すなわち‘知’の行為ではない)。

なぜ人間は意識を意識できるようになったのか。私は、言語を獲得したからだと思う。
ノーム・チョムスキーは人間の言語の始まりは思考のためだと言っているが、これは順序が逆だと思う。人間はコミュニケーションのために言語を獲得し、言語を獲得したことによって思考(‘think’)が可能になったのだと思う(潜在意識での言葉によらない思考(‘思う’)もありうるので、この場合は‘知’による思考(‘think’)としておく。Definitionの問題として)。
日本語の‘思う’は潜在意識における思考である。意識下において何らかの演算が行われているのだろうが、それが意識化(顕在化)出来ず、結論だけが意識に上がってくるのが‘思う’である。‘思う’場合は、意識下での思考過程が何となく感じられる場合であるが、それが不確かになってくると、‘気がする’とか‘感じがする’という表現になる。もちろん、‘考える’は‘think’と同じで、思考過程が意識化できる場合である。
‘think’しかない英語は、意識上の思考しか認めない。
‘思う’日本語は、意識下での思考も大切にする。
これは‘知’と‘情’の問題でもあるが、英語がストレート(ストロング)言語であるのに対し、日本語がバイ・チャンネルのダブル・タスク言語であることも関係していると思う。日本語は表の意味を伝えるチャンネルと裏の語感による気持を伝えるチャンネルを持っているのである。この裏の語感によるチャンネルは潜在意識化しており、通常意識することはない。この潜在意識下での気持のやり取りを常にしている日本語人は無意識のうちに潜在意識に慣れ親しんでいるのである。それ故、‘思う’にも信を置くのである。英語人は‘think’にしか信を置かない。
語感(音象徴)は言語を通して、文化(ものの考え方)にも大きな影響を及ぼしているのである。
     (平成26年5月1日)

   私の本の読み方 (日本語とは何か)  

本を、今、3冊読んでいる。
まず、マイケル・トマセロの「コミュニケーションの起源を探る」を読んだ。類人猿を使っての実験などによって、人間の音声コミュニケーションは類人猿の身振りから進化したことを論証しようとしたもので、かなり学術的な本である。一通り読んだが、何か違和感が残った。
そして、次に読んだのがマリーナ・チャップマンの「失われた名前」である。この本は、南米コロンビアで5歳の時に人さらいに連れ去られ、そのまま一人密林の中に置き去りにされた少女が、一人で食べ物を探し、ナキガオオマキザルの群れについて行くことによって生き延び、やがてそのサルたちの群れに入れてもらい、約5年間森で暮らしたという記憶を、その娘が聞き出し、ノンフィクションの作家がまとめたものであるが、非常に面白い。特に面白いと思ったのは、マリーナがサルたちと一緒に暮らすうちにサル語が分るようになったと言っていることである(このため人間の言葉はすっかり忘れ、自分の名前すら思い出せなくなったという)。サルたちは非常に豊富なコミュニケーションをしているのだという。また、サルたちは笑うことが大好きだとも言っている。マリーナが、悪いものを食べて苦しんでいる時に、年寄りのサルが無理やりマリーナを滝のところへ連れて行き、泥水を無理やり飲ませ、すべてを吐き出させた後、今度はきれいな水を飲ませて命を救うという、自分にはいかなるメリットもない利他行為をしたという記述もある。何十年も前の記憶であり、他人がまとめたものであるから、どこまで本当かやや信憑性に欠ける点もあるが、私は大筋においてありうることだと思う(学術的に検証する必要もあると思う)。
ところで、このマリーナの本と先の学者トマセロの本とでは、コミュニケーション、言語、そしてサルの知能水準についてまるで逆のことが書いてある。トマセロの本では、サル語があるとか、類人猿が音声によるコミュニケーションをするなど考えてもいない。また、ナキガオオマキザルより進化しているであろうチンパンジーやボノボすら純粋に利他的行為をすることなど想定もしていない。ただ、私はトマセロの本には違和感を持ったが、マリーナの本には、驚きはしたが違和感は持たなかった。ただ、それがなぜなのかは分らなかった。
この2冊の本を読み直しながらいろいろ考えてみたが、すっきりしなかった。
ところが、次に岡田英弘の「日本とは何か」を読んでいて気が付いた。
この「日本とは何か」は岡田英弘著作集の靴砲△燭襪發里如大変立派な本である。歴史学者である著者が、シナと日本の古い文献を中心にそれらの文献の正しい読み方を詳しく論じているのだが、「古事記」が9世紀の偽作であること、「日本書紀」の舒明天皇以前の記述はフィクションであり「日本書紀」に書かれているような聖徳太子などいなかったこと、そして「魏志倭人伝」の書かれた政治的背景など、成程と思い、納得もしたのだが、やはり非常に大きな違和感を持った。
この違和感がトマセロの本を読んだ時の違和感とよく似ているのである。書いてあることは緻密で論理的で正しい。しかし、何かが抜けている。大きな何ものかが抜けている感じである。
そこで、「日本とは何か」を読んで違和感を持った点を挙げてみることにする。
この本の中で岡田英弘は「歴史は世界観を言葉で表現したものだから、あくまで書かれた言葉の材料、つまり文献の基礎の上に組み立てるものである」と言っているが、そうだろうか。論理の飛躍があるのではないか。もちろん歴史は言葉で表現する。だからといって、研究対象が言葉で綴られた文献だけだというのは乱暴だろう。挙句、「考古学が取り扱うのは、物質文明の表現である遺物であって、言葉ではない」と言って考古学を無視してしまう。同じように、比較言語学、民俗学も「歴史の資料としては役に立たない」として排除してしまう。ここまで来ると、これはもう歴史学の文献至上主義という原理主義ではないだろうか。
また、学問というものの本質的問題でもあるのだが、また、学問、論理というものは本来そのような性格を持っているものではあるが(これは本質的には言葉というものの限界によるものだが)、著者は一つの言葉を定義しておいて、その定義に当てはまらない事象はすべて無いことにしてしまう。これは、概念中心主義(definition中心主義)、あるいは論理至上主義とでもいうべきもので、従来の学問の限界でもある。
「日本人の起源を知るためには、日本建国の歴史を明らかにしなければならないが、歴史は言葉で綴るものだから、考古学の管轄ではなく、文献史学の領域である」とも言い、日本建国は668年天智天皇の宣言からだから、それ以前には日本という国はなく、したがって日本人というものもいなかった、と言うのである。したがって、縄文人も弥生人も、もちろん日本人ではない。言えるとすれば、縄文人も弥生人も日本人の祖先の一部ではある、である。
この本の書名「日本とは何か」と問われれば、われわれ日本人は、われわれの心の底に流れるもの、日本文明として、縄文土器、弥生土器、前方後円墳、埴輪などを思い浮かべるのではないだろうか。「日本とは何か」と問われて、7世紀に日本という国ができたのだからそれ以後しか議論の対象にならないとしたら、何か肩透かしを食らったような気がしないだろうか。三内丸山遺跡も吉野ヶ里遺跡も日本の歴史ではない、文献がどこにも残っていないからと言われると、何か騙されたような気がする。しかし、学問的にはこれで正しいということである。違和感が残る。
ただ、「日本とは何か」という問いを英語で「What is Japan?」と言われると、この著者の答えでいいような気もする。
このあたりが、著者の言う日本語と英語の違いかもしれない。「What is Japan?」には?マークがあるように、これは質問である。しかし、日本語の「日本とは何か」は質問というよりは問いかけである。いっしょに考えようというニュアンスがある。ニュアンスは曖昧さでもあり、著者はシンポジュウムなどでは、日本語ではなく英語で考えるのだという。
「日本人は論理的発信能力が弱いと批判されるが、それを解決するには、日本語ではものごとは考えず、英語で考える習慣を身につけるべきだ」とまで言っている。
なるほど、日本人はディベートに弱い。議論の時は、数学を使うように英語を使って考えるといいのかもしれない。それは日本語が論理的でないからではなく、英語の方が単純な論理だからである。英語は割切りの言語である。厳しくdefinitionを要求し、そのdefinitionに従うことを強要する言語である。Youといえば、お前もyou、先生もyou、お母さんもyouである。単純ではある。
日本語はもっと複雑で、状況が変われば異なった表現を要求するのである。非論理的なことを要求するわけではない。複雑な論理を要求するのである。喧嘩は単純な方が強い。議論は英語で考える方が強いのだろう。英語は対立、喧嘩を前提とした契約のための言語として進化してきた言語だから、知、すなわち論理に偏っている。しかし、日本語は、岡田英弘も言うように、最初、「万葉集」の和歌として出来上がっていったように、情緒を表現する言葉として作り上げられた。その後、漢語を取り入れ、散文として論理を表現する言葉へと育っていったが、情を表現する力はそのまま保持している。日本語は知も情も表現できる言葉である。英語でも情を表現することは出来る。ただ、知的に表現できるだけである。日本語は本質的に情を表現しているのである。理屈で論理的に表現するのではない。「I love you.」は理屈である。「好きや」は単に気持ちに過ぎない。日本語では「私は貴方を愛します」などとは作り物のフィクションの中でしか言わない。
言語の機能の重要なものとして情報の伝達がある。正確な情報の伝達には、厳格な概念化、すなわちdefinitionが必要である。これは情を外した記号化への道である。英語が正にこの道へ進もうとしている。しかし、言語の役割は情報の伝達だけではない。本来の最も重要な役割は気持ちの伝達である。英語が捨てようとし、日本語が今もしっかり保持しているものである。
私が「コミュニケーションの根源を探る」のトマセロに違和感を持ったのもこの辺に関連する。
トマセロはコミュニケーションというものを‘協力に基づく’と規定してしまう。そして、それを前提としてすべての議論を進めようとする。しかし、私はそれ以前のコミュニケーションがあると思う。
人間の赤ちゃんのコミュニケーションの始まりには、まだ協力という要素はない。赤ちゃんのコミュニケーションの最初は、母子の授乳時に起こる。赤ちゃんは母親のオッパイを吸いながら時々吸うのを止める。これは息継ぎのためではない。生まれてすぐの乳児はノドの構造がまだ大人のようには成っておらず、お乳を吸いながら呼吸も出来るのである。にも拘らず、少し吸うとストップする。すると母親は誰でも(本能的に)赤ちゃんを揺すったり、赤ちゃんの背中をやさしくたたいたりする。すると赤ちゃんはお乳を吸い始める。そして、またしばらくするとストップする。赤ちゃんはお母さんの反応を待っているのである。期待しているのである。お母さんの反応があると安心してまたお乳を吸い始めるのである。これが赤ちゃん側からするとコミュニケーションの始まりである。そして、少し大きくなると、授乳時にわざとお母さんの乳首を噛んでお母さんの反応を試してみたりする。また、お乳を十分飲んで満足したときなど、「パ、プー」などと音を出してみたりする。
ちなみに、お乳を飲む口の形のまま声を発すると‘Ma’的な音になる。それを唇を破裂させて出すと‘Pa’とか‘Ba’的な音になる。これらが赤ちゃんの最初の声になる(ただ、まだノドの構造が母音を十分発音し分けるまで発達していないのであいまいな音しか出せない)。
トマセロは人間のコミュニケーションのベースに‘共有志向性’というようなものを見ている。英語では、sharing intentions とか collective intentionality と言っているから、intention と見ているようだ。Intention は知の行為である。しかし、私は知の行為の前に情の行為があると思う。それはemotionであり、desire である。赤ちゃんはまだ、intention することは出来ない。安心したいとdesire しているのである。これはemotion、すなわち情である。進化的には、生物としての本能の上に動物としての情が加わり、最後に知が加わったのが今のわれわれ人間の姿である。知のベースに情がある。Intentionの前にemotionがある。
トマセロは最も基本的な人間のコミュニケーション動機として3つ挙げている。要求する(援助や情報)、知らせる、共有する(感情と見方)。そして、そのベースに共有志向性があるとしている。私は赤ちゃんの授乳時のインターバルによるコミュニケーションは、共有するに近い感情だと思う。ただ、動機というほどの志向性はなく、まだ単なるemotionの段階のものだと思う。この赤ちゃんの授乳時インターバルをコミュニケーションと見るかどうかは、コミュニケーションを知的なものと限るかどうかにかかってしまう。コミュニケーションをintentionalなものに限ってしまうと、赤ちゃんの授乳時インターバルはコミュニケーションではなくなってしまう。たとえ、それがコミュニケーションの原初であるとしても、である。私はこの赤ちゃんの授乳時インターバルがコミュニケーションの始まりであり、その後、声の発声へと繋がっていくものだと思う。
赤ちゃんについて言えば、生後すぐの赤ちゃんに向かって舌を出して見せると、赤ちゃんも舌を出すという現象がある。ただ、ここには感情が伴っているようには見えないので、反射的に舌を出す本能的なものだと思う。なお、これが人間特有の人の真似をする人間本能の最初の現れかもしれない。
トマセロは、「人間特有のコミュニケーションの最初の形態は指さしと物まねだった」、そして「指さしが人間に固有のコミュニケーションの根源的形態である」と言っている。私はそうは思わない。しかし、‘指さし’が外界から一つのものを切り出す概念化の始まりであり、これが言語、あるいは論理思考への第一歩であったとは思う。
トマセロは、大型類人猿を使っての実験などの結果を踏まえ「類人猿が人間のいるところで成長しても、何ら新しい発声は学習しないし、新しい方法で声を出すようにと訓練することすらできない」ことなどから、「大型類人猿の音声コミュニケーションよりも身振りの方が、人間のコミュニケーションに対する進化的な先駆けとしてふさわしい・・」と結論付けている。
私は、ここに、2つの大きな錯誤があると思う。
一つは実験。人間が人間を対象とする実験ならまだわかるが、自分たちとは違う生物の自分たちに対する人為的な働きかけに類人猿が自然な、本来の反応が出来るだろうか。そもそも実験に使う類人猿は自然な状態にはない。不自然な状態では不自然な反応しかしないのではないだろうか。
二つ目。類人猿が身体構造的に母音を発し分けられないことを看過しているのではないか。人間は直立二足歩行をし、かつ柔らかいものを食べるようになって、顎が後退して小さくなり、ノドが直角に下がり、咽喉が広くなり、舌もいろいろな形がとれるようになって、母音の違いを発音し分けられるように進化したが、類人猿はそのようにはなっていない。類人猿に身体構造的に不可能なことをやらせようとしてもやらないのは当然である。
「失われた名前」のマリーナはまったく逆に近いことを言っている。ナキガオオマキザルは、トマセロのいう類人猿とは、人間から見れば、進化的には遅れている。しかし、マリーナによれば、ナキガオオマキザルたちは多様なサル語で日々の会話をしているのだそうである。ただ、あっちへ行けなどの身振りはするようだが、物まねをするという記述はない。
「謙虚や高慢、降服や防御、嫉妬や賞賛、怒りや喜び」、「寂しいのか、孤独なのか、愛情に飢えていて抱き締めてほしいのか」、「それとも挑発しているのか、干渉したいのか」を声で表現し、さらに反省もし、謝りもしようとするのだと言う。
このサル語を言語というか。これらは主に情の表現であって、概念の表現は含まれていない。共有性はあるが、志向性は薄い。トマセロはこれを言語とは言いたくないだろう。しかし、コミュニケーションではないとは言えないだろう。ただ、トマセロのdefinitionに従えば、コミュニケーションではなくなる。トマセロのdefinitionに無理があるのである。
このサルたちのサル語が人間の音声コミュニケーションの先駆けだとは言えないだろうか。なお、サルたちの物まねによるコミュニケーションは、それ程発達しているようには見えない。一匹の年老いたサルがマリーナを食あたりから救う話が出てくるが、このときのこのサルの行動は指さし、身振りによる教示ではなく、腕をつかんで引っ張っていく、頭を攫んで泥水に顔を突っ込むという直接行動のみのようである。この年老いたサルがノウハウを知っていたこと、そしてそれを、他人を救うという利他行為として、実行した事実はトマセロの想定をはるかに超えたものだろう。このようなことは、サルはもちろん類人猿に対する実験で見つけることは到底不可能なのである。
トマセロの実験、そして岡田英弘の文献を唯一のものとする態度、そしてdefinitionにこだわる姿勢は、学問に忠実であろうとする人のえてして落ち入りがちな落とし穴である。
学問的に厳格であらんがために、情の面を極力排し、純粋に知のみであらんとする結果、知情意の総体である人間の本質を見失ってしまうのである。
欧米の学問は基本的にこの傾向にあるが、言語学の世界においては、この傾向がはなはだしい。トマセロはコミュニケーションをemotionalなものをとばして、intentionalなものからとしたが、この考え方がそもそもの欧米言語学の大元にあるのである。
ソシュールが、情にかかわるものを私的なもの・パロールとして排除し、知にかかわる公的なもの・ラングのみを取り上げ、これでもって言語・ランガージュの研究としてしまったのである。爾来、言語の情報伝達、そして論理展開の面のみが研究対象として取り上げられ、言語の情的な面は言語学の学の対象としては取り扱われなくなってしまった。挙句、音象徴現象もまっとうな言語学の研究対象とは見做されず、オノマトペすら特異なものとしか見做されない状態にある。オノマトペは日本語では日常会話で非常によく使われており、例外的な特殊なものではなく、むしろ日本語の本質に関わるものである。しかるに、日本語のオノマトペを日本語の本質に関わるものとして研究しようとする動きは日本の言語学の世界においてすら未だ見られない(例外的な研究としては熊倉千之の「日本語の深層」がある)。
人間のコミュニケーションの手段としての言葉には二つの側面がある。気持ち、すなわち情を伝える、あるいは共有しようとする側面と情報を伝達する、すなわち知の側面である。トマセロの言う、要求する、知らせるはこの知の側面である。ナキガオオマキザルのサル語は気持ちを伝える、気持ちを共有しようとする情の側面である。欧米言語学では、このうち知の側面しか言語として認めない。しかし、日本語には気持ちを伝えようとする情の側面が色濃く残っている。特に、日本語日常会話における終助詞には気持ちを伝えようとする働きが顕著に残っている。仲の良い友達が別れ際に、「じゃあ、ねー」と伸ばし気味に発声する‘ね’などは英語に訳しようがない。親しさを表すなどと解説するしかない。「ねーねー、お母さん」の「ねー」などは、甘えの表現と解説しようとしても英語に‘甘え’という概念すらない。単に母親のattentionをseekingしているだけではない。赤ちゃんの授乳時の一時ストップと同じで母親との気持ちの共有を求めているのである。これらの言葉はナキガオオマキザルのサル語の中にはあるかもしれない。
言葉の音の響きの伝えるニュアンスを音象徴(語感)というが、日本語、特に古くからの言葉である大和言葉には、終助詞、格助詞だけではなく、ほとんどの言葉にこの音象徴(語感)が残っている(もともとあるものが矛盾なく今も感じられるということ)。特に、日本語の日常会話ではこの音象徴(語感)を互いに使いながら互いの微妙な気持ちを伝え合おうとする。
日本語の中では、助詞、そして感嘆詞は音象徴(語感)に添って自然発生的に出来てきたものであろうが、それよりもやや作為的に音象徴(語感)を生かしながら作られた表現がオノマトペである。オノマトペは声帯模写とは違って、ものごとをそのまま真似るのではなく、ものごとの態様を人間の声に聴きなしたもので、そこに作為、約束事が入るため言語ごとに違いうるが、音象徴(語感)の一部を利用したものである。

ナキガオオマキザルのサル語は言語だろうか。意味を持っているか。マリーナはそれぞれ意味を持っていて、よく分ると言う。しかし、概念は含まれていないようだ。伝わるのは気持ちである。気持ちの伝達は言語か。これはもうdefinitionの問題である。トマセロのようにコミュニケーションをintentionalな知の行為に限ってしまえば、サル語はコミュニケーションですらなくなってしまう。私は気持ちの伝達、共有はコミュニケーションだと思う。したがって、気持ちの伝達、共有も言葉だと思う。少なくとも、言葉の萌芽だと思う。それゆえ、ナキガオオマキザルのサル語も人間の言語に繋がるものだと思う。直接的には、人間のコミュニケーションは赤ちゃんの喃語、あるいはクーイングからではないかと思う。
ナキガオオマキザルのサル語は、概念は持っていない。したがって、概念的意味は持っていないだろう。しかし、マリーナは、意味は分かると言っている。どういうことだろう。多分、マリーナは相手の気持ちは分ると言っているのだろう。では、なぜ、鳴き声で気持ちが伝わるのだろうか。われわれにも、飼っている犬の甘え声、悲鳴、警戒、威嚇などの声は分る。しかし、サル語はそれよりもはるかに多様で繊細なようである。その繊細な違いはどこで分るのか。音象徴(語感)の原型かもしれない。
音象徴(語感)とは、言葉の音の響きの持つニュアンス・イメージの総体である。言葉の音一つ一つはそれぞれ色々なニュアンス、すなわちイメージを持っている。そのニュアンスの一つ一つも一つ一つと数えられるような概念的なものではなく、概念化以前のアナログ状態のものである。このニュアンスの総合体を色々な側面で切ってみることによって、明るさはあるか、固さはあるか、温かいか、軽いか、などとイメージとして言語化できる形のものである。したがって、それぞれのニュアンス一つ一つは言葉にするのはむつかしく、言葉にしきれないのである。言葉の音は言葉にしきれないものを持っているのである。欧米の知は言葉にならないものを認めない。しかし、情は言葉では表しきれない。ただ、言葉の音は言葉では表しきれないニュアンスを伝えることが出来る。これが言葉の音の持つ音象徴(語感)である。
日本語では、言葉の表面的な意味だけではなく、言葉の音の持つ音象徴(語感)によって気持ちを含めたニュアンスを互いに伝え合っているのである。
日本語は曖昧だと時に言われる。これは日本語が単純な論理だけではなく、気持ちを含めた微妙なニュアンスを伝えようとするからである。日本語は、シングルタスクではなく、デュアルタスクということが出来る。気持ち、ニュアンスというようなものはデジタルなものではなくアナログなものであるから、日本語はアナログ言語ということも出来る。
一方、欧米語はデジタルを目指しているのである。このデジタル志向とdefinition志向は根を同じくするもので、現在の知の限界である。
一つの音の音象徴(語感)は色々なニュアンスのカタマリである。オノマトペを始め多くの大和言葉はそのカタマリの一部を使って意味を表現するのである。
例えば、/Ka/ の音象徴としては、‘固い’、‘乾いた’、‘軽い’、‘微かな’などがあるが、オノマトペ‘カラカラ’の場合はその中の‘乾いた’のイメージを、‘カチカチ’の場合は‘固い’イメージを、‘カサカサ’の場合は‘乾いた’と‘軽い’イメージを主に使っている。
なお、‘カラカラ’は回転のイメージにも使われるが、これは音素 /K/ に回転のイメージがあるからで、音素 /a/ の明るいイメージとの組み合わせで、明るく軽やかな回転のイメージとなっているのである。同じ回転でも音素 /o/ には重いイメージがあるため /Ko/ となると、地面を転がるイメージとなるのである。なお、/o/ には纏ったもののイメージもあるため‘コロコロとしてカワイイ’などの表現もあるのである。
同じ /Ko /を使ったオノマトペ‘コンコン’は6種類もの異なった状況の表現に使われるが、それぞれに違和感のない成る程の表現となっている。
音象徴(語感)と日本語オノマトペの関係は、多様性の中の選択的利用とそれに対する納得性である。
日本語の一般語彙についてもこの関係は基本的には存するが、なかには、他の要素が加わり音象徴(語感)との関係が見えにくくなったものもある。言葉から新しい言葉が派生するからである。一つの言葉から意味的に関連のある新たな言葉が派生し、その新しい言葉からさらに新しい言葉が派生する。最初の言葉が音象徴(語感)と繋がっていても、次々と派生するにつれ、元の音象徴(語感)との関連が薄くなっていくことがあるからである。
音素 /ア/ には、開かれた、明るい、のイメージがあるため、そのイメージを意味的に使った言葉、‘アかるい’、‘アいた’、‘アける’、‘アく’、などの言葉が生まれ、それらの言葉から、‘赤(アか)’、‘秋(アき)’、‘朝(アさ)’、‘天(アま)’、などの言葉が派生したと思われ、これらの言葉には /ア/ のイメージ、‘明るい’、‘開いた’が明確に残っているが、‘天(AMa)’から派生したと思われる‘雨(AMe)’になると /ア/ のイメージとはほぼ関連がなくなる。‘AMe’は‘AMa’から降ってくるものとして派生して出来た言葉と思われるが、‘AMa’の最後の /a/ の‘開いた’イメージを‘繋がった’のイメージの /e/ と変えることによって生まれたものと思われる。‘アま’の最初の /ア/ のイメージをイメージとしては無視してしまうのである。‘雨’は‘天’の意味的なものに /a/ から /e/ へのイメージの変化を加えることによって出来た言葉なのである。
‘殺す’という言葉もオノマトペ‘コロコロ’と関連のある言葉であるが、‘殺す’と‘コロコロとカワイイ’ではイメージとしてはまるで逆である。‘コロコロ’には地面を転がるイメージがあり、‘コロコロ’と‘転がる’、‘転ぶ’、‘転がす’は一連のものであるが、‘殺す’は情景として‘転がす’、そしてその結果として‘転がっている’という因果関係から出来てきた表現ではないだろうか(‘転がった状態にする’かもしれない)。一方、転がれば丸くなる、あるいはコロコロ転がるものは丸い、そして /K/ には‘軽い’、‘小さい’のイメージもあるから、丸く小さく纏ったもののイメージから‘カワイイ’のイメージも湧いてくるのである。
多様なイメージの選択的な利用の例としては、6つの異なった局面で使われるオノマトペ‘コンコン’が面白い。
コンコン戸を叩く
コンコン咳をする
コンコン狐が鳴く
コンコンと雪が降る
コンコンと水が湧き出る
コンコンと言い聞かせる
 銑は擬音語で互いに似ていなくもないが、ぁ↓イ竜実峺譴肋況としてはかなり違う。同じく水には関係するが、い肋紊ら下へ、イ浪爾ら上へ、である。Δ盖実峺譴任△襪、状況はまるで違う。Δ和嵳佑箸いΔ茲蠅狼せち的なものであるから擬情語といえるかもしれない。状況としてはそれぞれかなり違うが、イメージとしてはそれぞれ納得できる。
人間は多くのイメージの中から選択的に一つだけを感じ取り、利用することが出来るのである。これは人間の持つ抽象化の能力、概念化の能力の元になるものかもしれない。抽象化、概念化の能力は言語を生みだした高度な能力である。
この点、欧米語はシンプルな言語である。シンプルを目指した言語である。日本語は複雑性を温存した言語である。(refineと洗練の関係と同じ)
日本語は音韻の数の少ない言語である(貧弱とも言われる)。母音が5つ、アイウエオ50音、濁音、拗音などを加えて112〜3と言われる。仏語は母音だけでも13〜8あると言われる。
どうして日本語は音韻の数が少ないのか。少なくて済むからである。それは、日本語は言葉の表面の意味と言葉の音の持っている音象徴(語感)を同時に使っているからである。表面の意味がデジタル的とすれば、裏の音象徴(語感)はアナログ的で、情報量は非常に大きい。日本語では、表のデジタルと裏のアナログな情報を常に伝え合っているのである。表のデジタルだけの情報量に比べれば、デジタル×アナログの情報量は格段に大きい。ということは、同じ量の情報を伝えるためには、欧米語に比べて日本語は非常に少ない言葉で済むことがあるということである。
厳格にdefinitionするデジタル指向の欧米語はより多くの言葉を必要とする。より多くの言葉を作るにはより多くの異なる音を必要とする。
日本語は多情報言語なのである。それが、日本語が曖昧だといわれる所以なのだろう。日本人は生まれてすぐから、言葉の表の意味と言葉の音の持つイメージを聞き取る訓練をし続けているのである。言葉の音の数が少ないため同音異義語が多数存在するが、それを前後の文脈から容易に聞き分け、不便を感じないのは、もともと複雑な言葉を聞き分ける訓練をしているためと思われる。
日本語には一音の言葉も存在する。一音の会話すら成り立っている。‘ネ’一音で、おねだりを表現したり、念押しを表現したりすることが出来る。/Ne/ には、音象徴(語感)として親しみのイメージがあるからである。東北地方では、‘ンだ(そうだ)’、‘な(何?)’もありうる。東京地方では、‘なっ’は納得を促したり、宥めたりする時にも使われる。
ナキガオオマキザルのサル語はアナログ言語であり、欧米語はデジタル言語を目指しているとすると、日本語はデジタルとアナログのマルチ言語ということが出来る。
コンピュータ言語、そして数学は完全なデジタル言語である。ただ、コンピュータ言語や数学では詩歌は作れない。ナキガオオマキザルたちは笑いもするし、歌も歌うのではないだろうか。
ちなみに、われわれ現生人間の頭脳よりも大きな脳を持ち、肉体的にも優れていたが、言語能力の発達が遅れていたため絶滅したと考えられるネアンデルタール人も歌は歌っていたようである。大きな脳を持ちながら言語能力の獲得が遅れたのは、顎が頑丈過ぎて顎の退化・後退が遅れ、舌の運動神経(?)の発達が遅れ、母音の微妙な発音し分けが出来なかったためと思われる(そのため、言語が発達しなかった)。

話は変わるが、岡田英弘の「日本とは何か」によく似たタイトルの山本七平の「日本人とは何か」を読み直してみた。
ここでは日本列島が大陸から分離する一万年前から話が始まっている。もちろん、考古学も入っているが、生物学の成果まで入っている。
例えば、「ATLウイルスのキャリアが、東アジアでは日本人にしかいないこと、日本以外では沿海州からサハリンに分散している少数民族に発見されるにすぎず、中国、韓国にはいかに調査しても全くいない・・・」とか、「縄文時代の食物残渣を発掘した」結果が分かったとして、「料理に関する限り、日本人は縄文的であって中国的ではないらしい。」などの記述がある。
ここから、われわれ読者の持つ日本、あるいは日本人に対するイメージは岡田英弘の文献中心に記述されたものから受けるものと非常に違ってくる。少なくとも、岡田英弘は本の題名を「日本とは何か」ではなく「日本国とは何か」とでもすべきであったと思う。
さらに言えば、岡田英弘のスタンスとして、いわゆる近代進歩的文化人の陥りやすい、普遍主義、平等主義、そしてそれとは矛盾するシナ中華主義が気になった。
例えば、天智天皇の時代、現在のマレーシアの国語バハサ・マレーシアのように「漢語で考えた文章を倭人の言葉で一語一語置き換え、日本語を作り出した。」と書いてある。本当にそうだろうか。まず、日本語の語順は漢語と同じになっているか。同じではない。さらに、置き換えられる倭人の言葉がすでにあるのなら、そのまま使えばいいのであって、新たに漢語を持ってくる必要はなかったのではないのか。むしろ、倭人語では表せない概念が大陸から入ってきて、それらを漢語としてそのまま倭人語の中に取り入れたのではないのか。明治期には、漢語ですら表せない概念が西洋から大量に入ってきて、それらの概念を表す和製の漢語を作って従来の日本語の中にはめ込んでいったのではなかったか。もちろん、江戸期の日本語と明治以降の日本語は違う。しかし、本質的に変化したわけではない。江戸期にも地方ごとの方言があった。そして個々の言葉の表現もいろいろと違っていた。しかし、言葉としての骨格は大きく違っていたわけではない。言語として違った種類の言語だったわけではない。国家の国語政策はあったものの、本質的には、いろいろの方言の中から標準語的なものが出来上がってきたのであって、バハサ・マレーシアのような他言語との折衷のようなものではない。
岡田英弘は、和歌の開祖は華人の王仁だと紀貫之が言っているので、「日本人は文化的には華人の子孫である。」また、「日本の建国者は華人であり・・・」とまで言っている。ただ、岡田英弘は華人のdefinitionを漢人の血が混じっていれば華人であるとしているので、少しでも混じっていれば全ての人が華人になってしまう。しかし、山本七平の引用しているATLウイルスのキャリアの分布を見ると、現在の日本人にすら中国人、韓国人の血が大量に混じっているとは考えられない。となると、岡田英弘の物言いは言葉の魔術に近く、イデオロギー的な偏向が感じられる。(いわゆる、人類は皆平等であって同じようなものなのだという、違うことを極度に嫌うリベラル思想)(なお、なかには、日本語は特殊である、日本人は特殊である、と言うとすぐ拒否反応を起こす人がいる。特に、良い面を強調すると激しく反発する人がいるが、自らを知的と自負している人に特に多い。これは一種の知的アレルギーで、病気の一種であろう。)
挙句、岡田英弘は「現代中国文化の基調をなしているのは日本文化である。」などと言うのであるが、これは文化というdefinition次第ではあるが、明治以降新しい概念を表す和製漢語が作られ、それらが中国に大量に流れ込んだことを言っているのであろうが、これは文化の表層のみを過大に見ているに過ぎないのではないだろうか。これも一種の文献第一主義、そしていわゆるリベラル思想ゆえかもしれない。
なお、和歌についていえば、華人の文化に和歌につながるものが何かあったか。当時のシナ語で作られた和歌の萌芽のようなものがあったか、問いたい。王仁は華人であったかもしれない。しかし、彼はシナ語ではなく倭人語で五七五を始めたのである。日本語が今もそうであるように倭人語も拍で出来ていたのだろう。子音+母音という日本語独特の拍システムゆえに五七五という形式が作られたのである。和歌は日本語でなければ作れない。

 「日本とは何か」、「日本人とは何か」だけではなく、「日本語とは何か」を考えることも、今、非常に重要なのではないだろうか(definitionではなく、その本質を)。
        平成26年3月18日

   結い  

自民・公明の巨大与党に対抗すべく、新しい野党連合の新党を作る動きがある。新党名の候補が ‘結い’ 。やまと的な和風の名前で、味わいのあるよい名前である。かっての農民の互助協力体制の呼び名でもある。

 'YuI' のもつ意味を音象徴で推測すると、/Yu/ は半母音といい、/i/ から /u/ への変化を一音で発音したもので、一本の確たるものを内へ纏め上げるイメージがあり、結びつけるというよりは、髪を結いあげるイメージである。 '結う' の類語として '揺れ' と '緩み' があるが、 'YuU' 、 'YuRe' 、 ‘YuRu’  の違いは、/U/ と /Re/ と /Ru/ の語感の違いから生じる。/U/ には動く、あるいは内へ動く、/Re/ には連なった散らばり、/Ru/ には散らばりへの動きのイメージがあって、結果として、これらのコトバが出てきたと思われる。
'結う' と '緩む' が逆方向になってしまったのが面白い。ちなみに、 ‘夢’ は ‘揺れ’ から、 '許し' は ‘緩み’ から出来た表現ではないだろうか。

 ‘ユイ’ と音だけを聞くと、我々古い人間は油井正雪を連想する。新しく出来る新党も理念は正しくとも結局は自刃に追い込まれてしまうのではないだろうか(もっとも、今の人は油井正雪の様には潔くはないだろうが、いや、そもそも理念なるものがあるのだろうか、・・いやいや、ちょっと、言い過ぎでした)。
     (平成25年12月12日)

   今、でしょ!  

今年の流行語大賞の一つに選ばれた。
今(イマ)とは何か。
ミシガン大学などで日本文学、日本語を教え、帰国後は東京家政学院大学、金城学院大学の教授を歴任された熊倉千之先生はご著書「日本語の深層」の中で、次のように言っておられる。
「「イ」は口を横に引いて発音し、舌の位置がほかの四つの母音よりも相対的に前にくるので、いちばん鋭く響きますし、時間的にも口の緊張が長く続かない自然に短い音なので「イマ」という「瞬間」を表現できるのです。」
「「マ」と言えばすぐ「間」という漢字をあてて、「間がもたない」とか「間に合わせる」など時間や空間を意味する表現が心に浮かぶでしょう。「イマ」の「マ」は、実は/i/ という一瞬の時間的な感覚なのです。」「/a/ という「マ」の母音が口を大きく「ア(開)」けて発音されることから、/a/ は一般的に「開かれた」時間や空間の表現に使われます。「開かれている」時間・空間「マ」は、何もないように見えますが、そこに何かが生まれる可能性を孕んでいます。/m/ 音が何かを「umu」特性をもつからです。」
先生はこのように、発音体感で説明しておられ、私も全くその通りだと思います。
私の語感言語学の立場から、もう少し詳しく説明しますと、「イ」は口元に力を入れ狭くして発音しますので、前向きの鋭いイメージがします。鋭いイメージは、細い一本の直線、そして前向きの直線のイメージに結びつきます。
「マ」の/a/ は開けた拡散のイメージで、/m/ は口腔に息を一旦貯めるイメージがありますので、/ma/ は充満のイメージになります。この充満のイメージは空間的には「マンマル」のイメージにつながり、時間的には「間」、時間的な幅(カタマリ)のイメージにつながります。
熊倉先生は、「イ」という「マ」と考えておられるようですが、私は「マ」の中の「イ」ではないかと考えています。「マ」という時間のつながりの中を「イ」という一瞬が、時間軸に直角の一本の直線のように進んでいくイメージです。
「今は昔・・」とう懐かしい言葉があります。(映画「かぐや姫の物語」の冒頭のナレーションに出てきます。)
この「昔(むかし)」はどのようにして出来た言葉なのか。
「向こうへ行け」などと言います。「向こう」は自分が向いている方向です。「むかし」も「向こう」に関係のある表現ではないでしょうか。
「イマ」に向かっている(あるいは、向かっていた)のが「むかし」ではないでしょうか。この「むかし」の「し」は「ひがし」、「にし」と同じ使い方ではないでしょうか。「きし」、「かし」も同じかもしれません。
同じく今年の流行語大賞を受賞した言葉に、「じぇじぇじぇ」、「お・も・て・な・し」があります。かって、語感分析のサイトで分析していますので、ご覧下さい。いつ見るのか、今でしょ、後でもいいです。
     (平成25年12月5日)

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