新しい言語学

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   I ・ You 効 果  

私は、人の名前がその人の性格に大きな影響を与えていると思っている。特に名前の音の持つイメージがその人の性格形成に大きく関与していると思う。
なぜなら、もの心もつかない幼な児が特定の響きを持つ音で呼びかけ続ければ、その音の響きの持つイメージが自らと一体化して脳に定着するだろうからである。
(最初‘シンチャン’と呼びかけ続ければ‘シンチャン’という音のカタマリの持つイメージが、自分という意識の萌芽と共に一体となって定着し、やがて‘シンタロウ’と呼ばれるようになると、この‘シンタロウ’のイメージが先の自己イメージの上に覆いかぶさるように定着していくだろう。)

このことは、‘I’と‘You’についても言えると思う。
生れ落ちてから、‘I’‘You’と言われ続けて育てば、個という考え方が焼き付けられ、個人主義的な考え方に当然なるだろう。
日本語のように、極力‘私’とか‘貴方’と言わない言語環境に育てば、個人主義的にはならない。
勿論、本能的に自分を第一に考えるのは当然であるが、常に自分を主張する考え方にはならない。
自分を第一に考えることと自分を主張することとは違う。
人間、自分を第一に考えることは当然として、I・You言語圏では自己を主張することが善であり、日本語圏では、自らを相対化し自らをあえて主張しないことが徳とされる。

私は言語とその言語圏の文明とは密接な関係があると思っている。互いに影響しあっていると思う。
特に、文明の基本をなす‘ものの考え方’と言語とは表裏一体の関係にあると思う。‘ものの考え方’によって言語が選ばれ、言語によって‘ものの考え方’が決まってくる関係にある。
どちらが先かは言えない。ニワトリと卵の関係にある。
しかし、ある特定の言語圏で生まれた赤ちゃんは、すでに言語があるからその言語によって‘ものの考え方’が規制される。
日本語で育つか、英語で育つかによって‘ものの考え方’が違ってくるのである。
‘ものの考え方’の基本は自分についての考え方である。自分と周りとの関係である。
自分を周りから隔絶した個と考えるか、周りと融合した一部と考えるかである。
周り、すなわち、自然との関係をどう考えるかである。
日本語圏では、自分も自然の一部であって、自然とは共に生きるものと考える傾向にある。
英語圏では、自然は対決するものであり、自然は克服すべきものと考える傾向が強い。
I・You と言われ続け、言い続ければ、おのずから個の自覚、意識が芽生え育つだろう。このことと自然と対決する考え方とは少なくとも矛盾しない。
日本語圏では、日常会話で‘私は’あるいは‘僕は’、そして‘貴方は’あるいは‘君は’と言うことはない。あえて言うときは、特別の意味を込める場合である。(小説、ドラマの中の会話は、実際に日常話されている言葉ではない。)
英語 「I will go。」にあたる日本語は
   「僕、行く。」であって、
   「僕は行く。」
   「僕が行く。」
   「僕は行くつもりだ。」ではない。
‘僕、行く’は‘僕は行く’の省略形ではない。助詞‘は’を入れることによって意味が変わってしまうのである。‘は’を入れることによって、自己を主張するニュアンスが出てきてしまい、日常会話では助詞を入れない。(これを省略形と考える文法は間違いである。言葉より先に文法があるのではない。)
日本語では、自己を主張するような言い方は極力避ける。先の文も場面にもよるが、普通は
   「行くよ。」
   「行くね。」だろう。
英語 「Do you go?」にあたる日本語は
   「行く?」あるいは
   「行くか?」
   「行くの?」だろう。まず
   「君は行くか?」と言うことはない。これだと、他の誰かも行くが君はどうするかというニュアンスになる。
日本語では、自分だけではなく相手を直接名指しすることも避けるのである。自己主張を避けることの裏返しだろう。

個の主張を避ける考え方と自己を自然と一体と考える考え方とは同じ流れだろう。
英語における I・You 効果と日本語における‘私は’‘貴方は’と極力言わないことの効果は、結果は逆ではあるが、まさに同じものである。

原因と結果、いずれが先かは分からない。
ただ、個人にかぎれば、言葉が先だろう。ある言語の環境に生まれれば、その言語を覚えることを通じて、その言語圏のものの考え方を身につける。
しかし、かって人々が、その言語のあり方を選び、その言語をそのように育ててきたのは、その人々の考え方からだろう。
日本語人の先祖は、言葉を拍で作る方式を採用した。(結果としてそうなったということ)
これは母音を中心に言葉を作ろうとしたということだろう。なぜなら、拍には必ず母音が含まれるし、現在の日本語の言葉では母音がよく効いている。)
欧米語の先祖たちは、言葉をシラブルで作る方式を採用した。
これは言葉の違いをより精密に出そうとしたのだろう。母音は連続変化音で曖昧なのに対し、子音はそれぞれ特殊な単音だからである。子音を多く使えばより細かな違いを出しやすい。
日本語の音素の数は23とも28ともいわれ、欧米語に比べ少ない。また、拍の数も113程度で、シラブルの数が3000ともいわれるのに比し極端に少ない。
しかも、日本語には一拍の語もあり、二拍を組み合わせたものが多く、一つの単語は長くはない。
日本語は、少ない音素、少ない拍、そして、少ない組合せで言葉を作っており、一つの言葉の守備範囲は広い。
欧米語は、より多くの音素、多くのシラブルで言葉を作っており、一つの言葉の守備範囲は狭い。狭いということは、一つの言葉の指し示すところのものがより精密ということである。
   (平成22年8月9日)

   かえる と かわず  

俳句は世界で最も短い詩歌の形式だといわれている。
それだけ一つ一つの言葉の使い方はきびしい。一つの言葉を選ぶにもいろいろの要因が考慮されるだろうが、語感もその中の大きな要因だと思う。

  古池や かわず飛び込む 水の音
  痩せがえる 負けるな 一茶 これにあり

かえる と かわず、全く同じものである。
それでは、この‘かえる’と‘かわず’を入れ替えることはありうるだろうか。
もちろん、ありえない。
それはナゼか。
‘かわず’の‘ず’と‘みず’の‘ず’が韻を踏んでいるとか、‘かえる’と相撲の‘ひっくりかえる’の‘かえる’が洒落になっているとかもあるが、一番大きいのは語感の違いである。
‘かえる’は‘かわず’に比し、軽く、動きがある。一方、‘かわず’には、滋味・深みが感じられる。
古池には深みが必要で、痩せがえるにはひょうきんさが似合う。
ところで、古池に飛び込んでどんな音がしたのだろう。
 ドボン、ポチャン、バチャン、ポトン・・・
たぶん、ポチョン か ポチャッ だと思う。
         (平成22年6月25日)

   蝉 の 声  

 静かさや 岩にしみいる 蝉の声

これは芭蕉の有名な句である。
ところで、この蝉は何蝉か。
べつに、生物学を研究しているわけではない。
語感から考えて、どんな声なのだろうかと考えたのである。
岩にしみいるような声とはどんな声か。
  ミーンミーン
  ツクツクボーシ
  シーシーシー
  ジー ジー
しみいるような音は、シ系か、ジ系である。
しみいる感じなら ジー の方が強いが、
静けさということなら シー かもしれない。
ところで、 シーシーシー と鳴くのは何蝉ですか。
           (平成22年6月25日)

   静けさや 岩にしみいる 蝉の声

   静かさや 岩にしみいる 蝉の声

上の二句、どちらが正しいか。
正しいか正しくないかは別にして、芭蕉が詠んだのは‘静かさや’である。
芭蕉は‘静けさや’と詠んだと勘違いをしている人がときどきいる。
それも、そこそこ言葉の音の響きに敏感な人たちに、である。

‘静かさ’と‘静けさ’の違いは、‘Ka’と‘Ke’の違いだけである。
もっと、突き詰めていえば、‘a’と‘e’の違いだけである。
この場合、‘a’と‘e’にどのような違いがあるのだろうか。
‘静けさ’が正しいと思っている人は‘静けさ’に内面的なものを感じ、より深みが増すと感じているようだ。
しかし、芭蕉は‘静かさ’を選んだ。
語感的には、‘e’の少し引いた、おさえた感じに対し、‘a’にはオープンな広がる感じがある。
多分、芭蕉は自分の内面の深い静けさよりも、全体を包む静かさの広がりを、岩にしみいる収斂の対比として、表現したかったのだろう。
      (平成22年6月29日)

   H は 早い か  (?!)  

‘は(Ha)’ という音は早いという人がいる。
意味ではなく語感上早いか。
そもそも早いということはどういうことか。

通常はスピード感をいう。しかし、‘ハッ’とするというときの速さは、突然という意味の早さである。突然そのことの起こるという意味の早さである。
この意味では‘パッ’も早い。突然現れる(あるいは、消える)速さである。
‘パッ’と‘ハッ’とどちらが早いか。
発音体感からいえば、‘Paッ’は突然前へ飛び出す早さであり、‘Haッ’は内に(心の中に)突然現れる早さである。
突然を感じるのが唇か口腔の中かの違いである。‘P’は唇での破裂音であるのに対し、‘H’は口腔全体で突然さを感じるので、鋭さは‘P’が‘H’に勝る。したがって、突然という意味での早さも‘Paッ’が‘Haッ’に勝る。

ところで、ここで突然さを演出しているのは促音‘ッ’である。‘H’そのものに突然さはない(潜在的にはある)。‘Ha’にもない。‘a’が促音化されることによって突然さが出てくる。‘Aッ’も突然である。
‘P’に鋭さの‘i’をつけても突然さが出る。‘ピンとくる’などの‘PiN’も突然である。
‘ハッと気付く’と‘ピンときた’の違いは、‘a’と‘i’の全体的な気付きと一点に絞り込んだ気付きの違いでもある。

スピード感というのは、動きとか時間経過に関わる感覚である。
‘S’は流れのイメージがあるのでスピード感を表わしやすい。
動きの‘u’といっしょになって‘Su’というのは滑らかな流れでスピード感もある。長音化して‘Su−’になれば、なおさら滑らかな動きを感じさせる。
促音化して‘Suッ’となると、切れを感じさせるとともにスピード感も増す。
広がるイメージの‘a’を‘S’につけると、やはり流れのイメージがでて、‘Sa−’,‘Saッ’ともにスピード感がでる。ただ、‘Saッ’のスピード感は動作の機敏さのイメージである。

スピード感を表わしているオノマトペに‘ピューピュー’、‘ビュービュー’、‘ビュンビュン’、‘ヒューヒュー’、‘ヒュンヒュン’がある。
吹き出すイメージの‘Pu’を拗音化すると‘Pyu’となって、すばやく飛び出すイメージになる。これを、さらに撥音化して‘PyuNPyuN’とするとリズム感が加わってドンドン加速するイメージになる。
これを強調するために濁音化したのが‘ByuNByuN’である。‘P’に対しその濁音‘B’がスピード感を増しているわけではないが、力強さが加わり、結果、スピード感が増す。

‘Hyu−Hyu−’も‘HyuNHyuN’もスピード感がある。
‘Byu’の力強さに対し、‘Hyu’には空駆けるイメージがあり、最もスピード感が感じられるかもしれない。
この‘Hyu’の‘H’音は声門音ではなく、‘Hi’の‘H’音である硬口蓋摩擦音である。したがって、‘Hyu’は‘Hu’の拗音ではなく、‘Hiu’の拗音と考えた方がよい。発音的には‘Syu’に近い。‘Syu’が蒸気か水を感じさせるが、‘Hyu’は、空気を切り裂くイメージである。

このように、子音S,P,H,B は、母音との組合せ、促音化、撥音化、長音化、そして拗音化することによって、ある特定のイメージを強調することができるのである。
      (平成22年5月26日)

   意味的語感(意味連想語感) 「ハヤシライスは早いか」  

いわゆる語感には、本来の発音体感的語感と意味的語感がある。
意味的語感とは、それに似た音のコトバの意味に釣られて、その意味をその音の語感と錯覚してしまうものである。
例えば、‘はやぶさ’の語感はと言ったとき、‘はやぶさ’の‘はや’から‘早い’を連想して‘はやぶさ’というコトバには早いというイメージがあると錯覚してしまうのである。似た音のコトバがポピュラーであればあるほど、この錯覚は起こりやすい。

‘はやい’というコトバの語感にはスピード感はあまりない。‘はー’と伸ばしてもスピード感は出ない。促音‘ッ’を付けることによって突然現れるイメージが出る。この突然さをスピード感と混同してしまうということはありうる。

ちなみに、同じく‘はや’をもつコトバに‘ハヤシライス’がある。この‘ハヤシライス’にスピード感を感じるだろうか。むしろ、‘ハヤシ’は‘静かなること’の例えでもある。静さとスピード感は直接は結びつかない。

それでは、‘早い’というコトバが本来の語感を一切反映していないのかというとそうでもない。
‘HaYaI’というコトバは平安時代以前は‘PaYaI’だった。‘Pa’という音にはスピード感がある。また、突然現れるというイメージでも‘Ha’より強い。この‘PaYaI’が時代と共に上品に発音されるようになって‘HaYaI’になったのである。‘HaYaI’の裏には‘PaYaI’があって、スピード感のイメージと矛盾しているわけではない。
この傾向は、‘Paッ’→‘Piッ’→‘PiKaッ’→‘PiKaRi’から転じた‘HiKaRi’(ヒカリ)にもみられる。‘ヒカリ’の‘ヒ’はさほどスピード感のある音ではないが、‘ヒカリ’というと非常に早いように感じる。‘PiKaッ’という音の語感は非常に早い。

通常、語感というとき、この意味的語感の場合がままある。むしろ大半かもしれない。語呂合わせ的感じ方である。日本語には、本来の発音体感的語感とそのコトバの意味とが合ったものが多い。そのため、語呂合わせ的に意味的語感でうんぬんしても、本来の語感に合っている場合がままあるのである。
ただ、意味的語感と発音体感的語感の区別がついていないと(その為には、発音体感的語感が分からないと)、‘ハヤシライスは早い’ということになってしまう。

  ‘ハヤシライス’に、‘静かなること林のごとく’の意味で静かさを感じるか、‘お囃子’の賑やかさを感じるか。‘ハヤシライス’を意味的に感じる人は両極端に分かれてしまう。‘はや’の語感がおとなしいので静かさを感じる人が大半だろう。まさか早さを感じる人はいないだろう。(多分・・)                         
       (平成22年5月26日)

   ‘’ と ‘Fu’ は 同じか  

ヘボン式ローマ字表記法では、‘フ’は‘Hu’ではなく‘Fu’である。
これは、音素‘H’が声門摩擦音であるのに対し、‘フ’の発声では唇を使うため両唇摩擦音である‘F’にしているのである。
ところで、英語の‘F’音とこの日本語の‘フ’の‘F’音は同じか。
英語の‘F’音は上前歯と下唇を狭めて発声する。一方、日本語では前歯を使わず唇だけである。(だから、両唇摩擦音である。)両唇破裂音である‘P’音と口の形はほぼ同じである。破裂音を破裂させないで通すと日本語の‘F’音になる。
このように、発声法からすると英語の‘F’音と日本語の‘F’音は違うのである。
ところで、日本語の‘H’音は平安時代から鎌倉時代にかけては‘F’音であったという。そして、それ以前は‘P’音であった。
すなわち、 P → F → H
と変化したと。音がやさしい方へ変化したのである。
ただ、日本語の‘F’音と英語の‘F’音が異なることから考えると、この日本語の‘F’音は‘PH’音とした方がよいのではないだろうか。

すなわち、 P → PH → H 

である。‘PH’は‘F’よりは、余程やわらかい。

   ‘HSi’  

同じ問題は‘ヒ’にもある。現在のローマ字表記は‘Hi’であるが、‘ヒ’の子音部分は‘H’音ではない。声門摩擦音ではなく、硬口蓋摩擦音である。後部歯茎摩擦音である‘SHi’に近い。
現在、‘Hi’の子音部分を正確に表わすローマ字はないが、‘H’音ではないことを示すためにも、‘SH’音に近いことを示すためにも、‘HSi’とでもしてはどうだろうか。
‘Hi’は‘HSi’である。語感的にも温かさの感じられるハ行音にあって、冷たさの感じられる‘ヒ’は、冷たさの感じられる‘S’を加えた‘HSi’にした方が相応しいのではないだろうか。

 ‘Ha’,‘HSi’、‘PHu’、‘He’、‘Ho’

である。ちなみに、サ行は

 ‘Sa’、‘SHi’、‘Su’、‘Se’、‘So’

タ行は

 ‘Ta’、‘CHi’、‘TSu’、‘Te’、‘To’

である。
     (平成22年5月11日)

   フランス人 は 「んー」 が お嫌い  

一昨年、「日本語の奇跡」で、<アイウエオ>、<いろは>成立の歴史を書かれ、最近「ん 日本語最後の謎に挑む」で、 ‘ん’ の文字化の歴史をはじめ ‘ん’ についての色々な考察を書かれている山口謡司先生が、この 「ん」 のなかで面白いことを書いておられる。
 考えあぐねたときなどに出す声 「んー」 をフランス人は嫌うのだそうである。そして、その発音が 「mmm」 であれば大丈夫なのだそうである。
 ナゼだろうか。
 フランス人は 「んー」 を生理音として聞いてしまうのではないだろうか。
 舌打ちした音 「チェッ」、 唾を吐いたときの唇を鳴らす音  「ペッ」 などの生理音は日本人でも下品だと感じる。しかし、 「んー」 は下品だとまでは感じない。
 フランス人は 「んー」 はダメで 「mmm」 ならいいのだという。
 「んー」 と 「mmm」 の違いはなにか。
 「んー」 は声門から出した息を鼻腔で共鳴させる音、自然音で、連続させて出すことが出来る。
 一方、 「mmm」 は声門から出した息を一旦口腔に入れ、それを鼻腔に流して、口腔、鼻腔を共鳴させて出す音で子音。従って、連続しては出せない。連続しているように聞こえるのは、‘m’ に続く母音 ‘u’ がのばされているからである。
 従って、 「んー」 と 「mmm」 の違いは、自然音と人為的、人工的に出す障害音の違いである。
 連続して出せることから、 「んー」 の ‘ん’ は、私は、母音の一種ではないかと思っている。
 欧米人は、どちらかというと子音を重視する。より人為的なもの、人工的なものをより高度なものと考えるからかもしれない。
 一方、日本人はより自然なものをよしとして、単母音すらコトバとして残している。
 このような自然に対する、自然音に対する評価の違いが 「んー」 に対する嫌悪感の違いとして出ているのかもしれない。
 欧米人は母音そのものを幼稚と感じるのかもしれない。我々が日常会話で多用するオノマトペを、欧米人の大人は日常会話においてですら余り使わない。コトバ以前のものとして言語とは認めていないからである。
 私は、オノマトペは感嘆詞を含め立派な言語だと思っている。
 ちなみに、現在の日本語では 「んー」 を 「ウーン」、 「ん」 を 「ウン」 と表記する。しかし、実際は ‘ウ’ と発声しているわけではない。
 母音 ‘ウ’ では唇は閉じないが、 「ん」 では唇は完全に閉じている。 「ウーン」 も 「ウン」 も自然には唇を閉じて発声している。
 このように ‘ん’ と ‘ウ’ は似た音ではあるが、私は違う音として扱っている。
         (平成22年4月5日)

   ゆらぎ と ブレ  

度重なる発言のブレを「宇宙のゆらぎ」といった理系の政治家がいる。文系の大衆としては何か煙に巻かれたような気分である。

「ゆらぎ」と「ブレ」を語感分析してみた。
下の表にあるようにいずれも ‘揺れ’ のイメージが入っている。
ということは、これらのコトバは語感からできたと思われる。
「ゆらぎ」はオノマトペ「ユラユラ」、「ブレ」は「ブルブル」から出来たコトバではなかろうか。
「ユラユラ」は自然な気持ちのいい場面で使われる。
一方、「ブルブル」は、寒さゆえか、あるいは、緊張ゆえかのストレスの掛かった状態で使われることが多い。
「ユラユラ」と「ブルブル」を語感分析すると以下の通りである。

ゆらぎ''''ブレ''''ゆらゆらブルブル
1揺れ・揺らぎ''''大きい''''滑らか迫力・勢い
2滑らか''''パワー・力感''''揺れ・揺らぎパワー・力感
3柔かい''''揺れ・揺らぎ''''柔かい動 き
4心的・内面的''''迫力・勢い''''心的・内面的揺れ・揺らぎ
5外向・オープン''''湿れた''''拡散・広がり心的・内面的

「ユラユラ」の滑らかさ、柔かさ に対し、「ブルブル」には 力 が大きく入っている。
やはり、「ユラユラ」は 自然 であるのに対し、「ブルブル」は 人為的で不自然 である。

「ユラユラ」と「ブルブル」が異なるように、「ゆらぎ」と「ブレ」では、イメージ的にも意味的にも異なる。
このイメージの違いを日本人は無意識に感じ取っている。だから、言い回しはどうであれ、「ブレ」を「ゆらぎ」と得意げに言い募るのには、違和感を通り過ぎて、胡散臭さをすら感じる。

発言のブレを「宇宙のゆらぎ」と称するのは、薄っぺらな詭弁である。

( ちなみに、オノマトペ「ユラユラ」から、ゆれる、ゆらす、ゆるぎ等が出来、「ぷるぷる」から「ふるふる」、「ぶるぶる」が出来、それらから、ふるえる、ふるえ、ふれる、そして、ぶれる、ぶれ 等のコトバが出来たと思われる。)
             (平成22年3月15日)

   言葉 を大切に  

「 いのち を大切に」 は鳩山総理の新しいスローガンである。「友愛」から「いのち」に移ったのかもしれない。
かっての小泉総理のスローガン「改革」、オバマ大統領のスローガン「CHANGE」と併せて語感分析してみた。
「友愛」は、柔かく、幼さが感じられ、イキイキ、新鮮な「改革」、「CHANGE」とは対照的で、全体として女々しく感じられた。
これに対し、「いのち」の語感は、「改革」、「CHANGE」によく似ており、キュートでイキイキしている。
しかし、「いのち」という言葉は「友愛」と同じく、やはり女々しく感じられる。
それはナゼだろうか。
語感的には女々しくないので、女々しく感じるのは言葉の意味からだろう。
「 いのち を大切に」 なんて言ってしまうと、世間のおばあちゃんのセリフになってしまう。
人間の大人にとっては、ただ いのち さえあればいいということではない。むしろ、いかに生きるかが大切だろう。時には命を捨ててでも守りたいものがある。まして一国を背負う人間にはその覚悟が必要だろう。
「友愛」といい「いのち」といい、鳩山総理は国民をオコチャマ化しているのではないか。
ということはご本人がオコチャマなのだ。
宇宙人はオコチャマだったのだ。

1カワイイ''''キュート''''ヤンチャ柔 らか
2キュート''''キラキラ''''躍動感ゆったり
3イキイキ''''気 品''''ピチピチメルヘンチック
4躍動感シャープイキイキやさしい
5キラキラクリア若々しいお茶目
いのち''''改 革''''Change友 愛
**************************
1キュート''''キュート''''躍動感柔らか
2新 鮮''''気 品''''イキイキゆったり
3イキイキ''''シャープ''''若々しいメルヘンチック
4躍動感クリア新 鮮ウキウキ
5しっかりキリリキュートあどけない
1小さい''''乾いた''''小さい心的・内面的
2意 思''''切 れ''''躊 躇拡散・広がり
3切 れ''''軽 い''''湿れた滑らか
4集中・纏り感''''透明感''''下 品動 き
5冷たい''''小さい''''心的・内面的柔かい

   「友 愛」  

先日、大阪箕面の市街地を車で走っていて、フト一つのお店の看板が目に留まった。
「 You I 」 (あるいは、You & I )。
一瞬、 「?」 と思ったが、すぐ 「友愛」 という店名とわかった。
「友愛」 と 「You & I。」、貴方と私、まさに意味的にはピッタリである。

ところで、語感的にはどうだろうか。
ユ は半母音、ア、イ は母音。子音が一切ない。
英語は子音中心といわれているが、You も I も例外的な言葉なのだろうか。
日常的な最も身近な言葉であり、原初的な言葉であるが、これらが母音であることは何か示唆的である。

また、友 も 愛 も勿論、大陸から来た言葉で、友 も 愛 も呉音である。
古来、漢字の音読みは訓読みに比べ固い音で聞きなしているが、ユー も アイ も音は非常にやわらかい。漢字の音読みとしては例外的である。
ユ は、やわらかく、揺らぎのイメージがあり、やや曖昧である。 
ア は、明るく拡がるイメージで、
イ は強い意志を感じさせる。
ただ、友愛の実際の発音は、イ を弱く、口ごもるように発声するので、友愛 の語感的イメージは、やさしく、揺らぎながら拡散するイメージで、極めて情緒的である。

「 Yes We Can!」 の強い意思表示と切れ味に対して、政党のスローガンとしては情緒的で女々しすぎないだろうか。
                  (平成21年6月15日)
     →語感分析

   Kill と 殺す  

英語と日本語。ほぼ同じ意味である。ともに語感から出来た言葉だろう。

Kill の日本語的発音は キル。切る と同じである。斬られれば死ぬ。斬ることは殺すことである。
斬る(KiRu)は、固さと鋭さの語感に動作を示す ル(Ru)が付いて出来た言葉である。 K にも i にも冷たさのイメージがあり、殺すイメージにピッタリである。

殺すはどうか。殺す という言葉は コロコロ という擬態語から出来た言葉である。
勿論、コロコロ は語感から出来た表現で、小さく丸いカタマリが回転するイメージがある。
コロコロ から 転ぶ という言葉が出来、転ぶ が活用変化して、転がる、転がす となり、それらから連想して殺すという言葉が出来た。殺せば、当然、転がるからである(コロッと死ぬという表現もある)。
語感の言葉への反映は、Kill は直接的、殺す は間接的である。

なお、擬態語 コロコロ と動詞 転ぶ のどちらが先に出来たかの議論がある。 K そのものに回転のイメージがあるので、転ぶ が先に出来、そこから擬態語 コロコロ が出来たのかもしれない。いずれにしても、転ぶ・コロコロ は語感から出来た言葉である。

以下は、K に回転のイメージがあることから、母音のイメージと結びついてそれぞれ異なる回転のイメージとなっている。(違うのは母音だけ)

 カラカラ(KaRaKaRa) 乾いた音を出しながら回る
 キリキリ(KiRiKiRi) 縦になって回転、きりきり舞い。
 クルクル(KuRuKuRu) 部分として回転する。くるくる目が回る。
 コロコロ(KoRoKoRo) 転がる、どんぐりころころ。

なお、クルクル目が回るから、その結果としての、苦しい(KuRuしい)や 狂う(KuRuう)が出来たのかもしれない。
(やはり、日本語は語呂合わせです。)
       (平成21年6月29日)

   キズ が ズキズキ  

日本語は語呂合わせの言葉である。
コロコロ転がる。
胸がドキドキときめく。
ツーンと鼻を突く。      ・・・などがある。
オノマトペと対になった語呂合わせの表現が日本語にはたくさんある。どちらかから語呂を合わせて出来たのであろうが、いずれが先かはなかなかむつかしい。

ドキドキ という体感的表現が出来、これから ときめく、動悸 がするなどの表現が出来、刻(トキー時)という言葉も出来た。そして、逆に 時々 という表現へと広がっていった、という過程も考えられる。

このオノマトペとペアーの語呂合わせには、ひとひねりしたより高度なものもある。
キズ が ズキズキ痛む。キズ と ズキ では語順が逆になっている。語感的には、ズキズキ というのは、いかにも痛みが体内に入り込んでくる感じがする。一方、ズキ よりも キズ の方が切れたというイメージが先にきて傷という事態に相応しい。このケースでは ズキズキ の方が先に出来たように思われる。

雲がモクモクもよく似たケースである。モク よりも クモ の方が暗さが感じられる。特に、クモ が転じて クモル(曇る) になったとき、モクル よりも語感的にフィットする。

吹き出物のブツブツ から ツブ(粒)が出来たのだろうが、ブツブツつぶやく の つぶ と 粒 とは直接は結びつかない。なるほどとも思うが、微妙なところである。
粒 から ツブツブ が出来た。だから、ブツブツ と ツブツブ は親子関係になる。

その他にも、
もごもご口ごもる。
バシバシしばく。
バサバサ捌く。
ワサワサ、ワンサカ騒ぐ。
がある。
スヤスヤ安らかに眠る は偶然かもしれない。
        (平成21年6月25日)

   カエル の 面に・・・  

日本語は語呂合わせだけでなく、連想ゲームでもある。
カタカタ → 固い → 固まる → 固まり → 形
コチコチ → 凍る → 氷
コロコロ → 転ぶ → 転がる → 転がす → 殺す
タンタン → 叩く → 手(タ) → 手(テ)
          → 戦う → 戦い
ケロッ とした状態を「カエルの面にしょんべん」などと例える地方がある。
これはカエルの鳴き声 ケロケロ から来たのであろうが、まことに言いえて妙である。
    (平成21年6月26日)

   食う と 吸う  

人間の基本的営みを表わす言葉の一つとして、食う と 吸う がある。
一拍 + 一拍 の動詞で比較的古い言葉だと思われる。
この二つの言葉の違いは K と S だけである。
食う(KuU)の K には固さのイメージがあり、吸う(SuU)の S には流れるイメージがある。
固いものは 食い、流れるものは 吸う。まさに論理的である。

そもそも 食う という言葉はどのように出来たか。多分、食べる状態を表わすオノマトペ・クチャクチャ からだと思う。今でも「クチャネ、クチャネ」という、「食っては寝、食っては寝」のことである。
吸う はどうか。吸う は チュウチュウ からだと思う。チュウチュウ は吸う様子のオノマトペであるが、吸う の幼児語は今でも チュウ である。
古代語は今の幼児語に近かったのかもしれない。

クチャクチャ が食べている口の中の様子を表わしているとすると、それを濁音化した グチャグチャ は、ものの様子に秩序がなく乱れていることを表わしている。
そして、この様子から連想して 腐る ができ、また、その結果としての 臭い が出来たのではないだろうか。幼児語は今でも クチャイ である。

食う と 腐る、臭い の語源がいっしょであったとは。日本語の連想はかくも自由奔放である。
        (平成21年6月29日)
食う はオノマトペ・クチャクチャから出来た。そして、食う から 口 が出来た。口(KuTi)とは、食う(KuU)Ti である。
それでは、Ti とは何か。
あちら、こちら、そちら の Ti である。ら は大雑把な状態のイメージである。
UTi(家、内)もそうかもしれない。
T にも i にも絞り込むイメージがあるので、Ti は方向、あるいは、場所を絞り込んでポイントしているのかもしれない。

    の濁音は  

カ の濁音が ガ、サ の濁音が ザ。K が G,S が Z,T が D.それでは M の濁音は何か。
濁音は無声音を有声音化することによって出来る。M は有声音である。したがって、これ以上有声音化することはできない。日本語では、強調する場合などに濁音化させる。
これは日本語のクセである。
それでは、マ行音を強調したい場合はどうするのか。
M を B に代えることがある。
メソメソべそをかく(Me→Be)
ボロボロともろい (Bo→Mo) ポロポロ もある。
ボーボー燃える  (Bo→Mo)
などがあるが、B は M の濁音ではない。 
それではナゼ M が B になるのか。実は、M と B とは発声時の口の形がよく似ているのである。同じ口の形で、鼻音を破裂音にして印象を強めているのである。 
この関係は、H と P,B との間にもある。B の清音は P であるが、口の形を同じにして、破裂音を声門音にすることによって、より柔かくしたのが H である。
発声的には ハ の濁音は バ ではない。音の種類が違うのである。
ハ の濁音は、母音全体ではないだろうか。すなわち、H は無声化母音ということになる。
      (平成21年6月29日)

   清水 を なぜ シミズ と読むのか  

清水の 清 は音読みでは セイ、ショウ で シ ではない。勿論、シ は訓読みでもない。
なぜ、清水 に限って シ と読むのか。当て字だという。ということは、もともと シミズ という表現があって、それにふさわしい漢字を当てたということである。
それでは シミズ の シ とは何か。
私は 水 の古語だと思う。これは中西進先生がおっしゃっていることであるが、大方の辞書には採用されていない。
私が シ を 水 だと思うのは、中西先生がおっしゃっているように シ の付く 水 に関する言葉の多さに加えて、シ の語感である。
流れを感じさせるサ行音の中で、鋭さを感じさせ、また、実体感のある i の付いた シ が最も純粋なイメージがあって大切な 水 を表現するのにふさわしい。清 の字を当てたのは古代の人々も 水 に清らかさを感じていたからだろう。ちなみに、シミズ の語源を しみ出る水 とするものもあるが、この しみ出る の し 自体、水 を意味する言葉である。
 シ=水 から出来たと思われる言葉
  萎れる、萎びる、萎む、染む、浸みる、湿る、搾る
  雫、霜、染み、塩
  死ぬ、沈む
  滴る、下
  シーシー、おしっこ
  静
  幸せ(もかも?)
多少、説明が要るのは
  塩  塩をかけると萎れるから、(SHiHoReRu→ SHiHo→SHiO)
  死  シ(水)が抜けた状態。(ただし、漢字 死 の読みも、たまたま シ である。)
  沈む シが詰んでくる状態。
  下  滴る方向
  静  シ が付く、水を打った状態。擬態語 シーン とも関係があるかも、
  幸せ シ 水が合うことが一番住みやすい。
なお、シ と同じ形の言葉には、気(Ki),血、乳(Ti)、実(Mi)がある。語感的にも共通の考え方に基づいているように思える。
 また、シ=水 は お母さんの赤ちゃんに対する促しの声 シーシー から来たのかもしれない。
          (平成21年6月21日)
清 は唐音では シン である。シンミズ が シミズ になったとすると、これは重箱読みである。当時から重箱読みがあったのだろうか。
追補
 木村紀子先生のご本を読んでいると、(Ni)が 土 を意味したと書かれていた。なるほどと思う。このことと、寝る、生る も関係があるかもしれない。今後の研究課題である。
      (平成22年4月22日)

   ‘S’ は 静か か  

静(shizuka) については、英語にも静かさを表わす silent,stillness があり、共に‘s’で始まる。
‘s’に静かさを表わすイメージがあるのであろうか。
 そもそも静さというのは音のない状態である。この音のない状態を音で表わすのは絶対矛盾である。
しかし、人類の祖先は声で音のない状態を表わそうとした。狩などの現場で音を立てないように指示する必要があったのかもしれない。
音を立てない指示は、最初は身振りで行われただろう。それは、動きを抑える意味で両手の手のひらを下に向けて押さえるジェスチャーをしたかもしれない。あるいは、口の前で手のひらを振ったり、手で塞ぐ仕草をしたかもしれない。
その中で最も動きが少なく、意思の通じやすかったのが、閉じた口の前に指を一本立てることではなかっただろうか。
その状態で、どうしても声で表現しなければならなくなったとすると、声の中で最も静かな音を選ぶだろう。それが‘s’である。(‘h’も静ではある。)
口を閉じた状態で‘s’音を発声すると /シ/(shi)になる。( /hi/ では柔らかさが消え逆にきつくなる。)これが、静にしろという指示語 /シー/ である。
そして、この /シー/ からそうなった状態を表わすオノマトペ /シーン/ が出来たのだろう。長音で静かさの広がりを、撥音(‘n’)で動きのなさをさらに感じさせる。
ここから 静 というコトバができた。

日本語の 静 の起源について、もう一つ考えられるのは、水との関係である。やまと言葉では、古代、水を /シ/ といった時期があった。(と思われる。)
ここから、しづく(雫)、浸みる、萎びる、萎む、湿気る、滴る しわがれる しなる などが出来、雫、沈む から 沈める、沈める から 鎮める、鎮める から 鎮まる、鎮まる から 静まる、静まる から 静 が出来たとも考えられる。
  しづく(水+付く)→しずむ(水+詰む)→沈む→沈める→鎮める→静める→ 静
「水を打ったように静」という表現がある。ここからは、し付く から、直接 静 が出来たとも考えられる。
やまと言葉の古語には /シ/ が風を表わすものもある。時化、嵐 などはこの流れであろう。いずれにしても‘s’は 流れ を思わせるのである。
                 (平成22年2月24日)

   ウマイ と マズイ  

最近、テレビである太目のタレントがおいしそうな物を口に入れては、「マイウー」と叫んでいるのをよく見る。この「マイウー」は、目立たんがための奇をてらっての造語のようである(業界用語的表現か)。最初は、「マウイ!」といっているのかと思った。

ウマイ は並べ替えると、 マウイ、マイウ となる。
日本語には、「雲がモクモク」とか「キズがズキズキ」とか「モゴモゴ口ごもる」などのように音の順序をひっくり返して使うことがある。(最初の二つは、オノマトペから 雲、傷 という言葉ができたのだろう。)
しかし、マイウ はありえない。
ウマイ! の代わりに使うわけであるから感嘆詞である。ウ で終わる感嘆の表現はない。ウ段、すなわち、ル、ク、ス などで終わるのは大方動詞である。ウー と伸ばしたところで、うめき声、うなり声になるだけで肯定的イメージにはならない。 
これは日本語のクセで、クセを無視して無理やり作った言葉は長続きしない。マイウ も誰も使わなくなるだろう。(今使っている人がいるとすると、その人は日本語に対する感性が余程低いと思われる。)
マウイ ならありうる。
ただ、Z音が入ると、マズイ になってしまうので、少し際どい。
しかも語感的に ウマイ が内的インパクトの ウ から入るのに対し、マウイ となると、満ち足りた満足感が先に出てしまうため、マウイ は ウマカッタ的なイメージとなり、完了してしまい、臨場感に欠ける。

ところで、なぜ ウマイ の反対が マズイ なのだろうか。
日本語の作り方としては、ウマシ の否定形として、ウマジ、これを形容詞として、ウマジイ、この ウ が取れて、マジイ そして、マズイ という変化が考えられる。
今一つは、ウマイ の一部を入れ替えて マウイ とし、否定的意味を強めるため、間に濁音 Z を入れて、マズイ もありうる。(MAUI → MAZUI)
この マズイ という否定的表現に対し、マズマズ という肯定的表現がある。マズマズ は マスマス を弱めた(濁音化でブレーキをかけた)表現であろうが、日本語はむずかしくて、面白い。
                    (平成21年6月15日)

   アイ の 不思議  

英語の一人称 I の発音は アイ である。しかし、古英語では ic だったという。ドイツ語では現在も Ich である。発音として アイ と イク あるいは イッヒ では大いに異なる。どうしてこのような変化をしたのだろうか。不思議である。

私は、人類最初の言葉は ア的なものだったと思っている。全ての存在に対し ア と発声したのだと思う。
私も ア、あなたも ア、あれも ア、全て指差すことの出来るものが ア、で始まったのだと思う。
日本語では、吾 になり、我 ができ、天(アマ)ができ、アレ ができ、アル まで出来た。
欧米語でも最初は ア だったのではないか。それがどうして イク になったのだろうか。(アイ なら分かるが。そして ウイ に拡がったと。)

母音の中で最も自然で発声しやすいのは ア、そして、最も意欲的に力を入れて発声するのが イ である。そこで、自己主張する気持ちが強く出て一人称が イ的発音になったのかもしれない。
そして、その変化として相手に対し i・u (ユー you)が生まれたのかもしれない。
そうすると、アイ という発音は一部先祖帰り現象から出てきたものかもしれない。
それにしても、子音中心の英語の中にも母音だけの言葉が残っているというのも面白い。
( We,you、a、are,were も母音、半母音である。am の m の発音は鼻音で、子音の中では最も母音的である。)
          (平成21年6月18日)

   吸着言語  

最近、テレビで言語に関する番組を二つ見た。

一つは、いまだ文字を持たない集団が太鼓の音で民族の伝承を伝えているというものである。
この番組での説明が、文字に代わるものとして太鼓の音を使っているというものであったが、これはおかしい。文字は記録のためのもので、太鼓の音ではこれに代えることはできない。音という意味では、太鼓の音も音声も同じである。太鼓の音が必要ということは、彼らの音声言語で伝えきれないものがあるということに過ぎない。
欧米語では母音の働きが弱く、感情を伝えきれないため、ハグなどの身体接触や大げさなゼスチャーの習慣が発達したと思われるが、太古にもこのようなことがあったのだろう。

今一つの番組は、人類が東アフリカを出てどのように世界に広がっていったかという番組で、その中で人類最初の言語かもしれない言葉を話す人々が出てくる。(コイサン語族)
この言語が人類最初の言葉かもしれない根拠は、今は地理的に隔離され接触のないはずの他の部族の人々がよく似た言葉をしゃべっているということにある。すなわち、最初に人類がアフリカの故郷を出たとき持って出た言語が、その後もそれぞれ隔離された二ヶ所に残ったということである。
この言語は吸着言語といい、四種類の舌音を使う特殊な言語である。今我々は、舌音は舌打ち位にしか使わない。当然舌音は子音である。
ここで非常に面白いことを言っていた。
彼等は主に狩猟で生活をしているが、狩猟の最中には、男たちは、声を立てないように子音だけで会話をするというのである。
合図的なものなのではあろうが、子音だけで会話ができるのである。子音中心の今のアラビヤ語や欧米語はこの流れにあるのかもしれない。

方や陸の狩猟に対し、海の漁猟では、声を落とす必要はない。むしろ、広い海の上で連絡をとり合うには大きく響く声が必要で、当然母音が中心になる。日本語は、やはり、こちらの系統なのだろうか。
       (平成21年6月18日)

   貸す、借る、返す に見る日本語のクセ  

貸借の概念は、人間社会でも比較的新しい概念であろう。したがって、貸す、借る、返す という言葉も比較的新しい言葉と思われる。
これらの言葉の作り方に法則性が見られる。日本語のクセのようなもので、日本人のものの考え方を考える上で言語哲学の一つのテーマとして面白いと思う。

貸す(KaSu)の反対は 借る(KaRu)である。
この二つの違いは S が R になっていることだけである。Su と Ru で反対の立場になっている。

また、貸す(KaSu)に続く反対の行為は 返す(KaESu)である。
貸すの Ka に E を付けると 返す という反対の行為になっている。
借る の反対の行為も 返す である。借る(KaRu)に E を付け加えると 返る(KaERu)になる。
ここでの Su と Ru の違いは、Su の能動に対し、Ru がやや受身的であることである。語感的には、滑らかさの R に対し S は流れるイメージで動きが積極的である。
なお、T になるともっと積極的で先鋭的にすらなる。
 KaSu  KaESu
 KaRu  KaESu  KaERu

 KaTu  勝つ
             (平成21年6月21日)

   エー !?  

 最近のテレビ・コマーシャルに、子供を寝かしつけようとする母親のオトギ話が余りにも短縮されていることに「エー!?」といいながら子供が起き上がるシーンがあった。
 この エー の語感はどうか。
 e の発声は、下あごをやや引き気味にするため、遠慮感や躊躇感があるが、語尾を上げて疑問形にしたことから、意外性の驚きに抗議に近いニュアンスが加わっている。

 それでは他の母音ではどうなるか。
 同じ語尾を上げた驚きの表現とすると、オー は感動のニュアンスがつよくなる。
 アー は、呆れた(ア然、アングリ)のニュアンスが強くなる。
(ちなみに、アーア と語尾を下げると、アキラメ のニュアンスとなる。勿論、語呂合わせをしているのではありません。)
 イー は、余り聞き慣れないが、やれば拒否反応的ニュアンスがでるだろう。
 ウー も、余りないが、強いてやれば、自省的ニュアンスがでるだろう。

 これらのニュアンスは、すべて各母音の発音体感からくるもので、口の中でどのように音を出しているかの反映である。
 ちなみに、ア然 というコトバは、まさに、ア! と発声するような状態ということを表わしたものだろう。語感をそのまま表現したオノマトペ的言葉である。
  毅然、悠然、憮然、悄然
なども語感がよくでている。(平成21年3月26日)

   オーロラ  

 先日、一橋大学の野中郁次郎教授が夕刊のコラムに英語の「awe」について書いておられるのが目に留まった。教授は、訳は「畏怖」「畏敬」だが、自分は「人間の力ではどうにもならない大きな存在に対するおそれを知ること」と理解しているとおっしゃっている。そして、わざわざ発音を(オウ)と書いておられる。これを読んで、私は、これは正にオノマトペじゃないかと思った。なぜなら、教授の理解と(オウ)の語感がピッタリだからである。

 母音の /オ/ は口の中を丸くして、口の中の奥の下の方で共鳴させて発声するため、内にこもった、大きな、丸い、重い などのイメージがあり、心の中の動き、感動を表現しやすい。
 驚いたときに発する /オッ/ は、感動に意外性の混じった驚きであり、/アッ/ は、開けっぴろげな驚き、/エッ/ はちょっと引いた心外な驚きに使われる。/ウッ/ となると、驚きというよりも内向して立ち往生した感じだし、/イッ/ となると怒り、イライラに近い。(語呂合わせではありません。)

 母音 /ウ/ は内向したイメージで、/オウ/ となると、大きさと感動を内に取り込むイメージとなり、野中教授のご理解の通りである。

 ちなみに、「awe」を辞書で引くと、発音は /:/ となり、「oh」の発音が /u/ になっている。そこで、アメリカ在住の友人に聞いてみると、「awe」の発音には /ウ/ が入っているという。音にはならなくとも、少なくとも、/ウ/ の口の形をするのだろう。
 「oh」の発音はと聞くと、これは感嘆詞であって、状況によりバラバラだという。
 私の考えでは、感嘆詞はオノマトペである。心の中の状況をコトバの音にしたものだからである。(擬態語)

 「awe」も、字面は別にして、音としてはオノマトペ、あるいは、オノマトペ的である。なお、「oh」の発音記号の // よりも、「awe」の発音記号の // の方が、深くより重い(調音点がより下の方にきている)。
(本来、共鳴音である母音には調音点は存在しないが、発声の際、口腔のどこにストレスが置かれるかを一応調音点としている。)

 野中教授は、つづいて、オーロラの話しをしておられるが、(オウ)と(オーロラ)が語源的になにか繋がりがあるかどうか、面白そうなテーマである。

 もう一つ気づいたことは、(awe)の発音が母音だけで子音が一つも入っていないことである。子音中心といわれる欧米語にもこのようなコトバがあるのである。他に母音だけのコトバとしては、I,we,eye などがある。(母音的な音を含めるともっとたくさんある)。
 これらは、コトバの原型に近い原初的なコトバではなかろうか。(日本語では、/ア/(吾、我、彼) がこれに当たる。)
               (平成21年1月19日)

   もののあわれ  

 もののあわれ の あわれ という感覚は、日本人独特の、しかも、日本人を最も特色付ける感性といわれている。

 それでは、この感性はいつ頃生まれてきたのだろうか。
 語感を中心に考えると、まず、あわれは aware なのか ahare なのかということである。歴史的仮名遣いでは、あはれ であるから、ahare であったのであろう。
 そうであれば、歴史的音韻変化からは、奈良時代以前の P音が、平安時代に F音 になり、鎌倉時代以降 H音になったとされているので、ahare の出現は鎌倉時代以降ということになる。そして、それ以前は、afare あるいは、apare ということになる。

 武士というものの出現とともに、武士的死生観が加わり、あわれ から あっぱれ という言葉が出来たといわれているが、あっぱれ の促音化の前は素直に考えると あぱれ であったろう。語感的に あはれ から あっぱれ への変化は劇的ではあるが、あぱれ から あっぱれ であれば、同じ流れと感じられ、武士の無常観というよりも、切れがよくなったという程度であろう。

 そこで、問題は、あわれ が あふぁれ あるいは、あぱれ の時代のこの言葉の意味、あるいは、イメージがどのようなものであったかということである。

 語感的には、apa には aha のもつはかなさ、弱々しさはない。むしろ、はじける明るさをもっている。
 もしも、奈良時代以前にも、あわれ がはかなさのイメージをもった言葉であったなら、それは  aware であったのではないか。これなら、はかなさが感じられる。 それでは、どうして歴史的仮名遣いでは、あわれ と発音するものを、あはれ と表記することにしたのだろう。 歴史的仮名遣いでは、泡 は あわ で あは ではない。しかし、あわれ には、泡、淡い と通ずるイメージもある。

 もう一つの疑問は、本居宣長は aware と発音していたのか ahare と発音していたのか。
 語感的には、ahare ははかなさが際立つが、aware になると、内面性が強くなる。
 本居宣長は内面性を強く感じていたようなので、aware と発音していたのではなかろうか。

 ただ、あわれ を促音化すると、撥音の あんわれ になる。あわれ と あっぱれ は別系統の言葉ではあるまいか。(あるいは、不肖の子、または、鳶の子か)

   あはれ   

語感から「あはれ」というコトバの変化を再現すると、
アァ という驚き、感嘆から 
APa が生まれ、最初は明るいオープンな驚きのニュアンスが強いが、
AFa となり、やや明るさが減じ、柔らかさが加わり、
AHa になると、薄いという感じが強くなる。そして、
AWa と発音すると内面性が強くなり、本居宣長的「あはれ」になる。
なお、W の発音は u+母音 の発音が一つになったもので、u の内面性が強く出るとともに、原初的には母音のみであることから、はっきりさが減じる。
すなはち、あいまいさが増し、内面的はかなさが感じられる。

   アハ 体験  

最近テレビで アハ体験 なるものが喧伝されている。
これは、アッ!ハー! という体験を表現したもので、
アッ と驚き、ハー と気づき、納得する内的体験を表現したものだ。
アッ というオープンな明るい驚きのあと、
ハッ と気づき、これを
ハー と伸ばすことによって、納得した心理状態を表現している。
H 音は、声門という一番奥から出す子音なので心の奥の状態を表現しやすい。
(平成21年4月13日)         

   P,F,H の歴史的音韻変化について  

 P音が、平安時代に F音に変化し、鎌倉時代以降 H音になったというのが定説である。

 ここで二つの疑問が生じる。一つは、平安時代以降 P音はどうなったかということ。いま一つは、平安時代以前には H音は大和言葉には一切なかったのかということである。

 P音については、今の大和言葉に P音が語頭にくるものはなく、又、語中、語尾にくる言葉は漢字由来の言葉のみである。

 H音については、分からない。今あるH音の言葉が平安時代以前にもあり、しかも、H音で発声されていたことの確認のしようがない。

 ただ一つ、アッハッハ はどうかということである。
 アッハッハ が平安時代以前にもあれば、アッパッパ であったか。それはありえない。

 古代人は一体何と言って笑っていたのだろう。

 ところで、現代人も、アッハッハ、イッヒッヒ、ウッフッフ、エッヘッヘ、オッホッホ と笑うのだろうか。実際はもっと中間の入り混じった声で笑うのではないか。

 アッハッハ、オッホッホ はそう聞きなした(文字化した)オノマトペの一種である。
 聞きなし、文字化したのはごく最近のことではあるまいか。古代人も我々と同じように笑ったのではなかろうか。
 これら笑い声の特長は、母音が主体で、他には H音だけが入っていることである。

 これらの H音は、息継ぎの際に生じる母音の無声段階での音ではないか。
 声門音 H は母音 a,i,u,e,o の無声段階のもの、すなわち、H は母音の清音ではないか。
 ということは、H は子音ではないということになる。(もっとも、母音の定義の問題ではあるが。)

   外来語と語感  

 「それでは、遠慮なく。」などと使う 遠慮 というコトバは、勿論、漢語からきたコトバである。
 しかし、漢語本来の意味は、深謀遠慮 という意味で、気持ちの上で少し身を引くという意味合いはない。
 辞退する意味で「遠慮させていただきます。」というのは、漢語本来の使い方としては、誤用である。
 ただ、ennryo の e は語感的に引き気味の躊躇感がつよいので、まさに現在の我々の使い方にピッタリである。
 遠慮 は漢語ではなく語感から採用された日本語といってもいいのかもしれない。

 モンブラン という栗の洋菓子がある。
 フランス語では白い山。しかし、決して白いケーキではない。
 ただ、語感的に豊潤な甘やかさがあり、そのケーキにピッタリである。
 モンブラン は語感からつくられた日本語といってもいいのかもしれない。

 ナイーブ というコトバがある。
 このコトバを、我々はえてして、若々しい繊細さというニュアンスで使う。
 しかし、naive には単純、幼稚という意味合いがつよい。
 したがって、欧米では、naive というのは褒め言葉ではなく、少しバカにしたコトバである。
 我々は、ナイーブ の語感から、ういういしさ、細い鋭さなどを感じて、むしろ、褒め言葉として使っている。
 ただ、 naive は現在も生きたコトバとして世界中で使われている。
 ナイーブ を日本語だとするのは、まだ少し早そうである。

外国の人に、naive といわれて、喜んでいるのは、それこそ naive ということになってしまう。

   キレイ と キタナイ  

キレイ の反対概念を表わす言葉は キタナイ である。しかし、この二つの言葉は同じ系統の言葉ではない。
キレイ は漢字由来の言葉であり、キタナイ は大和言葉である。
キレイ は、漢語本来の意味に加えて日本語発音の語感からくる切れ、ドライ感が加わって清潔感をも表わす日本語になった。
この 綺麗 に対応する大和言葉は 美しい である。美しい は イツクシイ と発音されていたが、今では u の音が効いて、語感的には内面的なものが感じられる。
したがって、よく似た言葉ながら「金払いがキレイ」「美しい友情」といえても「金払いが美しい」「綺麗な友情」とはいえない。
キレイ と同じ キ を使いながら、なぜ キタナイ という言葉ができたのか。
暴論に近い仮説ではあるが、私は キチャナイ から来たのではと思っている。
黄茶なものといえば幼児でも分かる不潔なものである。幼児語 キチャナ が精錬されて キタナ→キタナイ になったのではないか。
ちなみに、美しい の反対語は 醜い(見難い) である。よく似た発想である。(もっとも、黄色とか茶色という言葉がいつ頃生まれたのか調べる必要があります。)

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